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新しい私

37. 新しい私


 ちょっと冴えない面相で櫻は郵便受けを開ける。

 「文花さんたら、昨日郵便物取り込まなかったんだ」 各団体からのニュースレターや役所からの通知などをガサゴソと取り出す。これはまぁ、いつものこと。だが、

 「[親展]隅田千歳様? へ?」

 階段を上がりながらチェックしていたら、一通の不思議な封書に当たった。差出人名が書かれていないので、益々不可解。

 「あ、櫻さん、おはよっ。素適な一日、過ごせましたか?」

 「えぇ、おかげ様で。ところで、何で此処に千歳さん宛の封書が届いたんでしょ?」

 上機嫌で出てくることを想定していたので、このいま一つパッとしない返事、おまけに妙な質問と来て、櫻の顔をまじまじと見るしかなかった。

 「誰から?」

 「女性の字みたいなんだけど、差出人がわかんなくて。親展扱いだから開封する訳にもいかないし...」

 チーフには思い当たるフシがあった。自分で蒔いた種だけに、下手に明かせないのがツライところ。種蒔きは自家農園にとどめてほしいものだが、そうはいかないのが我らがチーフ。いつの間に情報を蒔いたのやら、その封書の中味は、隅田氏のセンター出勤を祝うメッセージレター、差出人は、十月になってもなお燃える想いのあの人、である。


 昨晩は櫻の自転車を借り、メロメロ(もとい、ノロノロ)状態で帰宅した千歳君。本日のセンター初出勤は、その自転車を返しがてら、ということで都合はいいのだが、どうもボーっとなっていて不可ない。それでも定刻の十時にはちゃんと到着。階下からどこか頼りなげな足音が近づく。


 「いらっしゃ... あれ、千歳さん!」

 「おはようございます。櫻先輩、文花チーフ」

 「何よ、先輩って。年とっておかしくなっちゃった?」

 「隅田さん、彼女に言ってなかったの? サプライズって冗談のつもりだったのに」

 「いつもビックリさせられ放しなんで、たまには」

 「?」

 「土曜日に非常勤で入ることになりました。隅田千歳と申します。よろしくお願いします」

 「エーッ!!」

 この櫻の絶叫は、歓喜というよりは驚嘆。それほど嬉しくもなさそうなので、千歳もまじまじと櫻の顔を覗き込んでみる。

 「てゆーか、何で私が知らなくて、この差出人は知ってる訳? 信じらんなーい!」

 本当は嬉しい、でも昨日のことがちょっと許せない、そもそも一緒の職場って何それ? クリーンアップどうなっちゃうの? そんでもってこの封書何? 櫻は一度にいろいろな感情や疑問が沸いてきて、どう処していいのかわからなくなっている。

 「まぁまぁ、櫻さん落ち着いて。急な話で悪かったけど、これも櫻さんのこと考えてなの...」

 「えっ?」

 「前に須崎さんから聞いてね、櫻さん一途だから適度にリラックスしてもらえる工夫があるといいんじゃないか、って」

 「ハハ、そりゃどうも。今はそれほどでもないと思いますけど」

 「そうね、誰かさんが現れてからは、何か緩やかな感じになってきたとは思うけど、これからひと山ありそうだし。ま、予防ってとこかな」

 櫻も千歳もどことなくズルッと来ているが、口を挟んだりはしない。言い聞かせるように文花は続ける。

 「でね、土曜日くらいは息抜きしながら勤務ってのもいいんじゃない?って思ったの。これはNPO的ワークスタイルの模索も兼ねてるけど、情報系は彼氏に任せて、櫻さんには地域ネタ探しに行ってもらう、そんな前提。どう?」

 「それで千歳さん、土曜日に? ここに?」

 「ちょうどシステムも動き出すことなので」

 「あ、勿論一緒にいたければそれでいいわよ。お二人なら弁えもあることだし、こっちは見てて楽しいし」

 「文花さん...」

 櫻は眼鏡を外し、目頭を押さえている。昨日からどうも涙腺が脆くなっているようだが、本人はお構いなし。

 「ホラ、隅田さん、先輩泣かせたままでいいの?」

 「そんなぁ、矢ノ倉さんがグッと来るようなこと言うからでしょ」

 「違うわよ、好きな人と働けるのがうれしくて泣いてるのよ、ねぇ?」

 小泣き程度だったので、すぐに顔を出せたが、千歳がまたしてもドキッとなったのは言うまでもない。不機嫌そうな素顔は今日が初めて。これまた女優級である。

 「もう! 二人で盛り上がっちゃってぇ。出かけちゃいますよ」

 「あら、そしたら彼氏が泣いちゃうわよ。いいの?」

 正直なことを言えば、複雑な気持ちの方が強い。せっかくブレーキをかけなくてもいいところまできたのに、毎週土曜日はブレーキをかけないと仕事にならなくなる可能性が出てきてしまった訳である。一緒にいられるのはいいとしても、甘えられないのは厳しい。

 ひとまず深く息をして気持ちを整えつつ、お騒がせの封書を本人に手渡す。

 「はい、千歳さん。何せ[親展]ですからね。さっさとどーぞ」

 「はぁ、誰からだろ?」


 櫻は気晴らしするように、先だっての一般参加型クリーンアップのデータの再集計なんぞを始める。千歳はかつて弥生が使っていた机に座り、封を開ける。

 クリーンアップ中、いつもの干潟の方をデジカメでいろいろと撮ってもらえたのはよかったが、その中で本人写真(ブロマイド?)がさりげなく入っていたことを思い出す千歳。画像ファイルを送るかどうしようか迷っていたが、そのご本人から「お手数かけますが、どこかでプリントして同封の返信用封筒で送ってもらえないでしょうか」と来たのである。これはほんの方便なのかどうなのか。続けて彼女の想いなどが綴ってある。「歌声を拝聴し、目覚めるものがありました。私が歌ったのはそんな気持ちの表れ...」とか「直球勝負、お許しください。でもあの投球も思うところがありまして...」とか。どうやらこっちが本旨のようである。そして、

 誕生日の翌日、新しいスタートを当環境情報センターで切った彼にとってはビビっと来る一文が文末に付されてあった。「この度はご着任、おめでとうございます。同じ環境つながり、今後ともよろしくお願いします。Sincerely, Minami」

 着任したとあらば、何らかのオリエンテーションとかがあっても良さそうだが、封書の件が気になって仕方がない櫻先輩は、そっちに気が回らない。パタパタと数字を入れながら、時折、彼の様子を窺うばかり。

 「ダメだ、集中できない。千歳さん、封筒の中味、教えてよ」

 「何故か、着任祝いの一通でした」

 「もしかして知らなかったのって私だけとか? あ、わかった。文花さんでしょ。リークしたんだ、きっと」

 その情報屋さんは、舌を出して、薄ら笑い。昨晩、さらなる進展があれば、ここまでヤキモキすることもなかったかも知れない。愛情表現という意味では今のところ言葉どまり。確証としてはそれで十分と思っていた筈なのだが、いつしかその次を期待してしまう自分がいることに気付く。ここで再び大きく息を吐(つ)く。

 「まぁ、ラブレターとかじゃないんならいいや。でも今日はいきなりマイナス1,000点ね」(参考…これで累計63,000点)

 櫻を妬かせるとコワイ、とは蒼葉の弁。ちょっとヒヤヒヤ... クールにならざるを得ない千さんであった。

 「じゃあ文花さん、打合せしましょうよ。分担とか」

 「そりゃそうだ。でも、基本的には櫻さんのアシスタント 兼 相談役ってところでしょうから、ひとまずお好きなように」

 「へぇ、そうなんだぁ。じゃキーボード打って手が凝っちゃったから、ハンドマッサージでもしてもらおっかな?」

 これには文花も千歳も声をそろえて、「櫻さん、あのねぇ」となる。


 打合せは午後、ということで、とりあえず簡単なオリエンテーション方々、机上整理など。その次はPC環境。弥生がインターン期間中に使っていた予備のノートPCを起動させてみる。そこそこメンテしながら使っていたようで、動きとしてはまぁまぁ。システムはこれで動かせそうだ。

 先週はクリーンアップの準備等で、思うに任せなかったが、リリース案内を含むインデックスページを載せ替えて、センターのホームページからリンクを張れば済むところまでは来ていた。名称とロゴも設定済み。それは環境情報ナビゲーションサイト、略して「KanNa」である。

 「十月リリースってのがまたポイント。何しろ神無月、ですもんね」

 「ハハ、そう言えば」

 「千歳さんが言ってたんじゃない」

 「くれぐれも、このシステムいかんなぁ、とか言われないようにしないとね」

 南実発の封書で一時は波立ったが、今は想定通りの光景に落ち着き、チーフとしてもひと安心。PC系作業に関しては兎角(とかく)手際がいい千歳は、十一時半には大方のリリース準備を終え、文花のGOサインを待つばかり。あとは、センターのトップページ(新着情報)を書き換えつつ、kanNaのロゴを貼り付ける程度。イベント&トピックス系情報を載せるための掲示板機能についても動作確認済み。

ち「では、これを以って納品、ということでよろしいでしょうか」

ふ「どうもありがとうございました。これで私と櫻さんが考えてた環境情報のベースができた感じね。あとはご近所情報と全国情報の連携、かな」

さ「そうそう、ここに載ってる団体の皆さんに案内メール出さなきゃ」

ち「じゃ、一斉メール出しますか。団体個別ページの案内付き」

さ「エッ? そんな器用なこと...」

ふ「さすがは隅田さんネ」

さ「隅に置けないけど、フフ」

 一斉メールはいいけれど、文案はまだ。櫻が案内メール本文の下書きを進める間、千歳はお膳立て作業に着手する。データベースから必要な個別データをエクスポートしたら、あとはメールソフトの特殊機能の出番。宛先団体名、団体ページのURL、確認用の連絡先などをメール文中の指定箇所に自動表示されるように組み込んだりしている。間もなく正午。

 「そうそう隅田さん、報酬は振込でいい?」

 「報酬? カッコイイ!」

 「システム管理費ってことで、半期一括。今日は試用勤務みたいなとこあるけど、今後は、出張サポート=出勤、てことにしてもらったの」

 「その方がお互い楽ですし」

 「フーン」

 いつの間にそんな話を進めていたんだか。ちょっと面白くない櫻だったが、

 「振り込まれたらちゃんと彼女にご馳走しないとネ」

 さすがは事務局長にならんとする人物である。またまたグッと来ることを仰る。

 「はい、そのつもりです。昨日もすっかり... あ、今日はどうしよ」

 火曜から金曜は二人で交代交代、お昼をとっているが、土曜日は一緒に自家製弁当を持ってくるんだとか。

 「お箸は持ってきたんだけどなぁ」

 「だからこういう大事なことはこの櫻さんにちゃんと言わないといけないのよぉ」

 「面目ないです」

 気が済んだか、今度は櫻がグッと来るお言葉を述べられる。

 「いいわ。来週から千歳さんの分も作って来てあげる。ま、今日のところは駅周辺でも行ってらっしゃいな」

 プラの容器包装類は、当市ではちゃんと再資源化されるので、その筋の弁当を買って来るのも悪くない。だが、誕生日翌日のランチが弁当ってのも...

 「では、自転車お借りします」

 昨日と比べると幾分涼しいが、意気揚々としている分、バランスがとれて過ごしやすい。心も空も秋晴れ。ペダルを漕ぐ勢いが加速する。いつもの彼の速度ではない。こりゃ心配だ。


 無事に帰って来た彼に続き、本日のスペシャルゲストがお見えになる。

 「あ、清さん。いらっしゃいませ」

 早くも櫻流儀のお迎え挨拶を会得している千歳である。先生は目を丸くするしかない。

 「おや、隅田氏。接客担当にでもなったんかい?」

 「今日はお試し出勤です」

 「ははぁ、貴君もまんまと矢ノ倉女史に担がれちまった、てか」

 掃部訓の五カンには「勘」も含まれるんだろう。いいカンである。

 「センセがいらしたんで、打合せはあとでね」

 「はーい。千歳さんとさっきの続きやってまーす。どうぞごゆっくり♪」

 櫻もすっかり晴れやかになっている。眼鏡越しだが、目がキラキラして見えるのは気のせいか。


 「ま、半分合格ってとこじゃねぇかな」

 六篇のレポートをガサガサと拡げてから、合格と称す三つを取り出す選考委員長である。

 「ちなみに首席とか次席とかってあります?」

 「そうさな、やっぱこの、し潟の役割を説いたヤツが出色かな。船から眺めててよくここまで思い廻(めぐ)らせたもんだ、って。いや、現場経験が少しはあるってことか...」

 首席レポートは、干潟理論をもとにゴミの発生抑制論を説いているのが特長。身近なレベルからより広域なレベルへのアプローチ、即ち、地域が地域を大事にする、そんな想いの連鎖によって良好な環境が保たれていく、そんなまとめもまたインパクトがあった。

 次席は、その逆のアプローチ。まず地球規模での変異や危機を弁えた上で、次は自分の目や足で検証する、というもの。情報を得たら、それを咀嚼(そしゃく)し、自ら現場に出て確かめ、それをまた新たな情報として広め、共有する。地域には地球環境を考えるための素材があふれている。まずは荒川へ行こう。なかなかの力説である。

 「地域から地球を見るか、地球から地域を見るか、ってな」

 「センセ、それ『Think Globally, Act Locally』に通じる話ですね。その逆もあるんだとか。ご存じだとは思いますが」

 「ま、俺の場合は、東京ローカルだから... しっかり窮めりゃ、自ずと見えて来るものもあるんだろうけど。まだまだかな」

 「またまたご謙遜を」

 「とにかくよ、対照的なのがこうやってそろうてぇのは大したもんだよ。バランスがとれる訳さ。木だけでも森だけでもダメ。ただし、しとりで二つとは言わない。役員は複数。お互いカバーすりゃいい、そんなとこだろ」

 文花は、得意とするレポートで千歳にリードされたことが少しばかり悔しく思われた。だが、この清の御説に大いに励まされると同時に、千歳を抜擢した自身の目利きの確かさに惚れ惚れ。

 「あ、コーヒーお持ちしますね」

 清は笑顔の文花を見送りながら思う。コーヒーを飲みに来るだけでもいいから、当所に定期的に顔を出すのは悪くない、と。だが、秀作レポートの主がここにいることを知ったことで、俄然前向きになっている。

 「ところでセンセ、この間は肝心のお返事聞き損なっちゃいましたが、いかがでしょ? お引き受けの程...」

 「あぁ、彼、隅田君が加わるってことだったら」

 「えぇ、了解はとれてます」

 「じゃ決まり。こっちも張り合い出るしな。ま、よろしく頼むよ」

 法人化に向け、大きな一歩が踏み出された。


 この後は、①不合格判定の役員候補各位に対し、合格レポートを読んでもらい、法人理事候補として名乗りを上げるか否かの意思を確認。②立候補する場合は、公募式でかける候補者募集に応募してもらうが、一次選考に当たる課題論文審査には審査員として加わってもらうことでアドバンテージを付す。③課題論文上位者には二次選考として、自身の論文要旨等をプレゼン発表してもらい、相互に評価を交し合って絞り込む。④可能であれば監事についてもこれと並行して互選にて選出するが、詳細は③の段階で候補者が固まったところで定款案を検討してから詰める。... 敏腕チーフは実にここまでプロセスを考え出していた。

 カウンターに櫻を残し、三人は円卓に。形としては「鼎談」なのだが、文花のプランを聞く会、そんな印象である。

 「いきなり、全面公募っていうのも不自然なんですってね。前身を担ってきた人材をベースにしつつも、新たな人材に加わってもらう機会も保障する、そんなイメージでいいみたい」

 「あとは定款で、新陳代謝的な面を規定する、ってことでしょうか」

 「そうねぇ、思い入れがあると固執したくなっちゃうのって、何かわかる気がするけど、ちょっとねぇ。定款はそういうのを防ぐためにあるんでしょうね。ま、当所はそこんとこがいい意味で曖昧だから、あまり気にしなくてもいいかも知れないけど」

 ちなみに、櫻は身分上まだ公務員のため、理事等の役員兼任はできない。年度が改まる、即ち法人化が実現した折りには、櫻の処遇が変わる可能性は高いが、出向を妨げるものでもない。文花なりにすでにその辺りも思い描いているようである。

 「出向=役所から、ってばかりじゃないのよ。地元企業から応援に来てもらうなんてのも大アリだし、インターンとか実習とか、いろんな関わり方があると思うのよね」

 「自然もしと(人)も多様な方が磐石ってな、もっともだ」

 「働き方のモデルもここで提示しようってことですか?」

 「提示ってのは結果論でしょうね。まずはその人自身がここで何かを模索してもらえばいいんじゃない?」

 文花なりの労働観のようなものが語られる。六月と小梅が生き生きしているのを目の当たりにしたこと、クリーンアップを通して「現場力」の重みや意義を実体験したこと、などから、センターを自発型の「学びの現場」にしよう、と思い至ったようである。千歳が考える「スローワーク」モデルに通じるものもありそうだ。


 十四時近くになる。三者協議はそろそろお開き。

 「で、ですね。掃部先生につきましても、レポートを一筆お願いしたいんでございます。ブログからの引用でも構いません」

 「お題はなんだい?」

 「『地域を元気にするハコモノのあり方』ってのを考えてたんですが、どうでしょう?」

 「あえてハコモノってか。逆説的でいいねぇ。気に入った」


 職場での彼氏との接し方を何となくつかんできた櫻が、カウンターから声をかける。肩の力が抜けた感じで朗らか。

 「千歳さん、準備できましたよぉ」

 「はい、ただいま」

 円卓にいる二人はコーヒーを飲み干して語らいモード。

 「いいね、あの二人」

 「干潟でもそうですけど、見てると和むっていうか」

 「そういうおふみさんは、和むお相手はいないんかい?」

 「私、恋多き女でして、決められないんですのよ。ホホホ」

 当たらずも遠からずか。いやいや、本当のところは役員候補よりもお相手の方を募集したい、そんな気持ちの方が強いかも?


 KanNaの一斉案内メールの発信に立ち会うと、次は「Comeon(カモン)」ブログ教室である。円卓では今、清と千歳があぁだこうだとやっている。

 「おぉ、これがこの間の写真...」

 「お書きになる記事に合わせて画像を選んでもらえれば、今アップしますよ」

 「おや、小松のお嬢さんのアップもあるねぇ」

 「えぇ、ご自分で撮ったようで」

 櫻は「小松」と聞いて、ピピとなっている。その本人写真を見てみたい気持ちもあるが、我慢我慢。この調子じゃやっぱり集中できない、か。


 清が選んだのは、辰巳が結束させたヨシの束を撮ったものだった。

 「せっかく固めたのによ、放ったらかしだもんな。ブログを通して、活用法でも問いかけてみるさ」

 お年は召しているが、ブロガーとしては新米の先生。円卓に残り、PCと睨めっこ、である。文花は何を思ったか、「新しい、私♪」とか口ずさむ。十月だけど「チェリーブラッサム」。今ここにいる四人、皆一様にそんな気分であることは間違いない。


 オリエンテーションを兼ねた打合せも三十分ほどで済んだ。櫻が来館者対応をしている間、千歳はメールのエラーチェックやら、館内資料の確認やら。文花は流域考察レポート「巡視船紀行」の事後処理と今後の役員選考に向けた案内広報づくりを進めている。こんな感じで、緩やかながらも時は確実に過ぎ、すでに午後六時。土曜日は早番も遅番もなく、今この刻(とき)を以って閉館となる。


 試用勤務とは名ばかりで、早々に即戦力的な働きをこなした千歳に、文花は最敬礼しつつ、

 「そんじゃ、来週にでも履歴書と職歴書持って来てね」

 「え? 矢ノ倉さんに情報渡したら筒抜けになっちゃうじゃないですか」

 「あら、私そんなに信用なくて?」

 冗談のつもりで軽く受け答えした文花だが、千歳はそうでもなかったらしく、少々息巻いている。

 「また可愛い後輩さんに、とか。今日から非常勤に入る話だって」(ブツブツ)

 「南実ちゃん、あれこれ聞いてくるから、つい。隅田さんのこと慕ってるのよ。わかるでしょ?」

 「もしそうだとしたら、その理由も矢ノ倉さんなら。何かご存じなんじゃ?」

 「あ、ハハハ。そう来たか。多分そうだろうな、というのはある。来週教えましょう」

 昼休みにデジカメプリントを済ませてきた千歳だったが、南実にそれを送るのは来週に先延ばし、ということになる。理由の如何によっては、添え書きの内容も変えなきゃならないからだ。


 「私ったら何やってんだか。三角形作ってどうすんのよねぇ...」

 自分のお節介ぶりにちょっぴり呆れて溜息モード。櫻も南実も妹みたいなものだから、良かれと思ってついつい。しかし、そのおかげで千歳が振り回されているところはある。

 「文花さん、記念写真撮ってくださいよ」

 千歳のデジカメを自分のもののように手にして、チーフを撮影係に指名する櫻。館内点検を終えて戻って来たところである。

 「はいはい。記念日ですもんね。何をバックに撮りますか?」

 清が帰った後の円卓では、スタンバイモードのPCが出番を待っている。

 「写らないかも知れないけど、一応、KanNaちゃんを表示させて、と」

 PC画面を挟んで千歳と櫻が並ぶ。櫻はしっかり眼鏡を外して得意の笑顔。文花は再び溜息。「やっぱりご両人、絵になるわ」 深呼吸してシャッターを押す。記念日写真、一丁あがり。

 「じゃ、千歳さん、今度持って来てくださいね。多少大きめがいいかな」

 「大きめ? どっかに飾るってこと?」

 「あ、携帯用も欲しいかも。とにかく2パターンくださいな」

 微笑み交わす二人。時間外なので別に構わないのだが、さすがの文花もやきもきしてきた。だが、さっきの自省を思い出して、ぐっとこらえてみる。忍耐強さも事務局長に求められる資質のうちなのである。


 秋の夕闇が拡がり、彼と彼女の時間が流れ始める。蒼葉は弥生とお出かけ中につき、夕飯の支度は無用という。

 「どこかで食事しましょうか?」

 「じゃ今日は僕が」

 「振り込まれてから、じゃなくていいの?」

 「昨日の御礼、と言っては何だけど、ひとまず」

 自転車を押して歩く櫻と、ちょっと遅れて歩く千歳。昼間、自転車で通ったのとはまた違って見える街路。徐々に暗さが増す中、気が付けば駅前。禁煙席のある洋風居酒屋が目に留まる。ここは、櫻のオススメの一店。


 「どうですか? そのお箸」

 「えぇ、おかげ様で、どんなお料理も美味しくいただけそう」

 「では、わたくしめも。これでおそろいね」

 洋風居酒屋なので、オムレツとかナポリタンとかロールキャベツ(ひと口サイズ)とかが並ぶ訳だが、どれも箸で対応している。二人とも箸使い、というだけでも十分だが、おそろいというのがまた好い。櫻はニコニコしながら、千住桜木ツアーの話を持ちかける。

 「二十一日ってのはいいんだけど、千歳さんとの待合せはどうしよ。九時半じゃ早いかなぁ?」

 「店の中で待ってればいいんでしょ。ドリンクバーもあることだし。あ、でも他の皆は?」

 「バスが限られてるから、何時何分発のって指定します」

 「集合場所はバスの中、って訳かぁ。面白いね」

 筋肉痛よもやま話、コンタクトレンズQ&A、来週からの弁当プラン、櫻アレンジ曲のレコーディングスケジュールなどなど、話は尽きない。今日のお騒がせ親展封書の件も話題に乗せたい気持ちもあったが、何となく特定できてきたのであえて口にはしない。いずれ千歳から話してくれるだろう、櫻はそう信じることにした。

 「ねぇねぇ、生年月日を証明できるものって今お持ち?」

 「えぇ、免許証でよければ」

 「まぁ、ゴールド...」

 「都内じゃまず自分で動かすこともないから、持ち腐れです。運転しなきゃ自ずと優良になりますよね。ちなみに櫻さんは?」

 「私も同じ金帯付き。たまに文花さんに借りて動かす程度です」 そう言いつつ、席を立つ。「じゃ、ちょっとお借りしますね」


 何のことかと思っていたら、しばらくしてワッフル状のホットケーキが運ばれて来た。たっぷりのホイップクリームとミニキャンドル付き。

 「では、昨夜かなわなかったバースデイケーキによるお祝いを」

 「いやはや、さすが櫻さん。でも今日は当日じゃないですよ」

 「フフ、前後三日間有効なのです。いいでしょ、このお店」

 店員さんがその場で点(とも)してくれた火を吹き消す。当然のことながら、細々と一条(ひとすじ)の煙が上がる。

 「あ、ここ禁煙席でした。すみません」

 櫻の話芸は場所を問わない。店員さんも結構ウケている。千歳は感涙していたが、「ハハ、煙が目にしみる」なんて、よくわからないことを言って誤魔化している。

 昨日のリベンジとかで、クリームは櫻に大方とられてしまったが、これはもともとサービス品。彼女に全部食べてもらってもいいくらいである。

 「食べないのぉ? それとも、『はい、お口開けて』ってやってほしいとか? フフ」

 それはさすがに辞退したが、お口の方は正直なもので何となくポカンと開いている。よくよく考えると櫻と二日続けて顔を合わせたのは今回が初めて。この調子でお会いする機会が増えると、そのポカン、つまり心ここに在らず状態に拍車がかかりそうである。だが、櫻の方も期するところがあるようで、「小松さん、油断ならないから、何としても射止めねば...」というのが偽らざる想い。苦手としていた領域だが、「新しい私」効果か、攻めの姿勢が出てきた。新たな情念が沸き起こっていたのである。

 眼鏡を外して、彼に問いかける。

 「千歳さん、私のこと好き?」

 半ば放心状態の彼にこの質問は酷だったか。返事の一言までに数十秒かかることになる。

 「え、えぇ、そりゃあもう... まいったな。ハハ」


 この日は、駅前から路線バスに乗ってのご帰宅。優雅でいいのだが、乗車間際に彼女に抱きつかれた時の感触が背中にまだ残っていて、深く腰掛けられずにいる。外はすっかり涼しいのに、体はポカポカ、口は相変わらずポカン、そんな一人の男がバスに揺られている。隅田千歳、誕生日翌日の夜が更けてゆく。


グリーンマップはブルー

38. グリーンマップはブルー


 一つ年を重ねたら、いろいろな動きが活発になってきた。冬木の情報誌に掲載される予定稿は、彼自身に現場経験が加味されたことでなかなかの出来となり、higata@メンバーも概ね納得。冬木レポート本文の他に、参加者の声なんかも流してもらったことで、メーリングリストはかつてない盛り上がり。管理人冥利に尽きる一事である。

 打上げカラオケでメンバーの音楽的な傾向が掴(つか)めたことで、ちょっとしたプランを考え付いた千歳だが、実行に移すには共同発案者の業平の存在が欠かせない。バンドを組んだと仮定して、どういう楽曲が行けそうか、MIDIデータのやりとりが始まったのも同じ週のことである。

 そして、櫻とのメールのやりとり。二人してケータイを持っていないので、日常的に声が聴けない。その分、思いが募り、ついメールしちゃうことになる。平日夜のお楽しみが増えたのもこの週。

 ライター系、webデザイン系の仕事はこれまで通り。KanNaの管理費は、今月中には振り込まれる見通し。千歳は充実の秋を送っている。


 一日一千ポイントが七万点に達した、十月二十日。節目でもあるので何かありそうな予感のアラサーご両人だったが、翌日に千住桜木デート(?)が控えていることもあり、自分達でも不思議なくらい冷静だった。驚いたのは午後、業平が現われたことくらいか。


 「まさか、本多さんがいらっしゃるとはねぇ」

 「彼も『千ちゃん、何で?』とかって驚いてはいたけどね。まぁ痛み分けかな」

 「でも、登記の話って、そんなに前もってしないと駄目なのかしら?」

 「いやぁ、登記関係だけじゃなかったような気もするけど」

 「そうね。帰り際に『今度は私の記念写真も』とか言って、ツーショットですもんね。文花さん、気があるのかなぁ」

 王子神谷のとあるファミレスで、モーニングメニューをいただきながら、昨日の出来事を語り合う櫻と千歳。十時を回ったところだが、指定のバスに乗る時間まではまだ一時間余りある。

 「それにしても千歳さんの履歴書見た時の反応、おかしかったですね。『あら、先週の金曜が誕生日だったの? 櫻さんも意地悪ねぇ』ですって。どっちが意地悪よって、こっちも言いたかったけど、フフ」

 「さすがのチーフもそういう個人情報まではご存じなかった訳で。でももうバレちゃったからなぁ」

 時間があるのをいいことに、我らが上司をネタにドリンク片手でこの調子。ススキが近くになくとも、きっと当人はクシャミ連発でお困りのことだろう。


 バスに乗るのは十一時二十分頃。付近を少々散歩しようということになって、十一時前に店を出る。団地や商店街の一角をウロウロした後、余裕を持って停留所に戻って来る。だが、どうもおかしい。「あれ? 北千住行きって出てないんだけど...」

 地図はお得意の櫻だが、バスの路線図は少々読み損なっていたようだ。間違いに気付き、北本通りを王子方面に戻る途中、そのバスは右折のウィンカを点けて、車線変更したところで停車。「あっちだ、王子五丁目」「キャー」

 ドジな二人が横断歩道を走る姿をいち早く見つけた六月少年は、運転手に声をかける。

 「すみません、あの二人、乗せてあげてください」

 信号が変わっても直進車がすぐに来ればこのバスはまだ発進することはなかったのだが、こういう時に限って反対車線はガラガラ。スムーズに右折してくれちゃうもんだから、さぁ大変。だが、六月が気付いてくれたおかげで、バスはゆっくり二人のランナーを抜き去ると、停留所でしばらく待機。滑り込んで来たお二人はハァハァやりながらも、めでたしめでたし、となる。

 「ピッピー、駆け込み乗車はご遠慮くださーい」

 「あ、六月君...」

 櫻がICカードをピピとやると、少年は咳払いした上で、「運転手さんに御礼言わなきゃ」と説諭する。

 「あ、ありがとうございます」

 「六さんも、ありがとね」 バスカードを通しながら、千歳は苦笑い。

 とりあえず、バス車内集合でよかった。危うく乗り損なうところである。後方では、小梅嬢がニコニコしながら座っている。

 「いったい、どしたんですかぁ」

 「いやぁ、この辺て不慣れなもんだから、乗り場を間違えちゃって、そのぉ」

 「ちゃんと彼氏がリードしなきゃ」

 「は、ごもっとも...」

 「六月君はその点、大丈夫よ、ね?」

 またしても小梅にからかわれている千さんである。こうなると彼女も黙ってはいない。

 「ちょっと、小梅さん、千歳さんヘコませないでよぉ」

 「だって楽しいんだもん。櫻さんだって、よくやってるじゃん」

 「ま、まぁそうだけど...(苦笑)」

 駆け込み乗車の分際でどうにも分が悪い。落ち着かない二人に揺さぶりをかけるように、バスは豊島七丁目界隈のクランク状の曲がり角を縫い進んでいく。

 「えっ、こんな路地をバスが...」 と櫻がおののく一方で、

 「へへ、楽しい」 と少年ははしゃぐ。鉄道好きは重々承知だったが、バスも宜しいようで。


 隅田川を越えると、巨大建造物が現われる。

 「ハートアイランド?」

 「あぁ、船からも見たじゃない。新田(しんでん)リバーステーションの近く」

 「漂流ゴミに気取られてて。気が付かなかったんだな、きっと」

 後ろから若い二人が割り込んでくる。

こ「ねぇ、櫻さん、今日は結局、蒼葉さん来れないの?」

さ「そうねぇ、今、油絵の方、描き始めててね。どうもハマっちゃったみたいなのよ」

む「そっかぁ」

さ「地元でやる時にはさ、ぜひ四姉妹そろって、でどう? 平日でも土曜でも」

こ「お姉ちゃん次第かなぁ...」

 パンケーキご好評につき、初音は日曜が動きにくくなってきて、今日は不参加。だが、それも限度がある。志望校を絞り込まないといけないし、受験勉強も本格化させないと... そんな姉を思い、ちょっと曇りがちになる妹。櫻はそんな小梅に、蒼葉と重なるものを見たような気がした。


 十一時半過ぎ、ここからがこのバスの目玉である。荒川の土手を走るコース、その距離約四km。左に荒川、右に隅田川、リバーフロントバスと呼ぶに相応しい。

 小梅と六月は「わぁー」と歓声を上げている。窓越しに見る荒川は、濃い青を蓄えつつ、降り注ぐ陽光をその青に溶け込ませ、程よい輝きを放っている。進行方向左側の席は特等席である。その光景を鑑賞している間、四人に言葉は要らない。土手上と名の付く停留所に近づくとアップ、過ぎるとダウン。その上り下りが予想外ではあったが、荒川が見え隠れするのがまた妙味。櫻と千歳は「おぉ」と唸っている。

 「あの黄色いのって、セイタカアワダチソウでしたっけ?」

 「はぁ、よくご存じで。土手上から見るとセイタカな感じしないけどね」

 「遠くから眺める分にはまだいいんでしょうけど、近くで見るときっとスゴイんでしょうね」

 「観賞に向く植物とは言えないのは確か、かな」

 河川敷を黄色に埋め尽くすその帰化植物は、明らかに荒川の青とは一線を画している。自然界にも色彩の不調和というのがあることを示していると言えそうだ。特に扇大橋の下の茫洋とした黄には脅威すら覚える。その黄帯を縫うように、走る人、人。ランナーの列が下流に向かって続いているのが目に入る。

 バスは再び土手下の道路を走る。小台から目的地の千住桜木までは何とこのまま。左側の車窓は、ずっと土手の緑である。川岸が望めない以上、南実が話していた自然再生工事の現況も視察不能。下車して橋に出て、上流側を遠望するしかなさそうだ。


 「着きましたねぇ、千住桜木。皆さん、ようこそ!って感じ」

 「船から見るのと違って、何か賑やかというか、パーッて。広がりを感じる」

 第一印象は良好なようである。六月は早速地図を見つけて、バスが通ってきたルートを確認している。

 「櫻さん、イラストマップ用の紙は?」

 「あ、そうそう、ちょっと待って」

 櫻は予め千住桜木界隈と西新井橋を中心とした白地図を用意してあった。これにイラストを描き込み、必要に応じてアイコンシールを貼る、という手筈である。今日は「千住桜木グリーンマップ」のトライアル。目の前にある周辺地図と、その白地図を見比べる四人。

 「お化け煙突って、この町にあったんだ。知らなかった」

 「お化け?」

 六月は地図に書かれてある解説を見て、合点が行ったような行かないような顔をしている。

 「四本の煙突の配置が絶妙だったらしくて、見る場所によって、一本から三本まで見え方が違ったんですって。人によって証言が違うから化け物呼ばわり。別にお化けが出た訳じゃないのにね」

 小梅はアイコンシールを見ながら、何か考えている。

 「ってことは、そういうのってどのシール貼ればいいの?」

 「今も残ってれば、[アートスポット]かもね」

 千歳がとぼけたことを言うので、櫻はあわてて訂正する。シールは貼り直しが利かない。ここは確実に行きたい。

 「ま、ひとまず[歴史あり]ってとこじゃない?」

 「オイラ的には[悲しい場所]かも。親しまれてたのに解体されちゃったんでしょ?」

 六月は時々ジーンと来ることを言う。姉の影響なのかも知れないが、そのセンスは独特である。白地図の下の方、隅田川沿いに「涙する目」シールがこうして貼られることになる。


 一行は、西新井橋の歩道へ。

 「どの辺が歩けるか、まずは下見しないとね」

 「下を見るから、下見?」

 またまた彼氏がつまらないことを言うので、彼女は少年少女を連れて、そそくさと橋の中央へ。

 「さ、千歳お兄さんは放っておいて、行こ行こ...」

 「あー、そんなぁ」 と言いつつ、お兄さんは実際に下を見てみる。人が歩けるような水際はなく、ヨシが覆うばかり。干潟状になっている僅かばかりの砂地には、漂着ゴミが少々、そして白く濁る泡・泡。これでは現場踏査は難しそうだ。

 中央部にいる三人は、上流側の川景色を鑑賞中。小梅は、予備の白紙をクリップボードに挟むと、フリーハンドでアウトラインをスケッチし始める。

 「左側のあの木の橋桁みたいの何ですか?」

 「あぁ、何て言ってたっけな... あ、お兄さんに聞いてみよう。千歳さーん!」

 浮かない顔で千歳兄がやって来た。受け答えも今ひとつパッとしない。

 「粗朶(そだ)とかって聞いたような。枝を組み合わせて枠を作って、その中にまた廃材とか木切れを入れて。石を入れて沈めると、粗朶沈床(ちんしょう)? 漢字で書かないとわからないかな」

 「とにかく、ソダなんだそーだ」

 お兄さんがつまらんことを言うもんだから、若いのもこうなってしまう。女性二人は意気消沈。

 正午を過ぎたところで、簡単なスケッチが仕上がった。

 「左はヨシ原と木々、で、ソダの辺りが自然再生工事関係。右には首都高速、川には漂流するプラスチック容器、と。小梅さん、さすがね」

 千歳は念のため、デジカメで同じ景色を撮影する。だが、スケッチを見た後でファインダーを覗くとどことなく違和感が漂う。全体をそのまま写し取るにはカメラが手っ取り早いのは言うまでもないが、どの辺にどんな目印があるかを瞬時に伝えるにはスケッチの方が有効。小梅の視点はまた格別である。とてもデジカメでは再現できない。

 「特徴を捉える目をそのまま地図に持ち込むと、グリーンマップが出来上がる、そういうことか...」 さすがは首席レポートの筆者、もっともらしいことを云う。


 「上流側は水辺に出れそうにないわねぇ。ソダのところも見たかったけど...」

 「下流側も下見しましょうぜ、櫻さん」

 「上を見ても下見、下を見ても下見? なぜ?」

 今度は彼女がこの調子。彼氏はここぞとばかりに、

 「さ、櫻姉さんは放っておいて、行こうか」

 少女と少年は櫻姉の味方だった。小梅は一言、

 「じゃあね」

 千歳は「クーッ」となる。前にも似たようなシーンがあったような... 珍道中は続く。


 ここまでは割と順調だった四人だが、反対側の歩道から「下見」をした途端、事態は急変する。

 「えっ、マジ?」 櫻は目を疑い、

 「ひ、悲惨だぁ」 小梅は目を見開く。

 男子二人は言葉が出ない。セイタカの黄色い一帯の周りには、大きい物では洗濯機にベッドのマットレス、細かいものに至っては、これまでhigata@他の皆々で集めてきた半年分の総量に匹敵、いやそれ以上のゴミがこれでもかと散らばっている。それも一箇所集中ではなく、いくつかの集積地に分散して漂着(?)しているから凄まじい。

 「とにかく近くに行ってみよう」

 今回ばかりは千歳の掛け声に従って、一行は移動を始める。と、サイレンとともに救急車が河川敷道路に入って来た。マラソンランナーで急患が出たことに伴うものだろう。だが、四人にはそのサイレンがゴミから発せられる悲鳴と重なって聞こえて仕方がない。救急車には構うことなく、ランナーは途切れなく走り続ける。もし彼等にゴミの声が届いたとしたら? 足を止めることも有り得るかも知れない。

 ランナーの合間を抜けて、何とか現場近くに辿り着いた四人は、橋脚の下で途轍もないものに遭遇する。

さ「あちゃー、これっていわゆるホームレスの...」

こ「でも、誰もいないみたい」

ち「主(あるじ)がいなければそれこそホームレス、いや失敬」

 推論し得るのは、例の台風増水でここいらも浸水して、家財等が台無しになり、手放さざるを得なくなったのではないか、ということ。その証拠に、テントから積荷から何もかも泥漬けのまま、散らかったまま、なのである。

 橋の上から散見された数々のゴミ袋やら段ボールやら各種容器類やらは、漂着したものではなく、住居から近いことから、かつての主が生活していた際の名残だったことがわかってきた。

 「ルフロンが言ってたこと、合ってた訳か...」

 櫻はうなだれるようにしてポツン。生活ゴミが流されて漂流、そして漂着... ここは水際から多少距離があるので、イコール漂流とはならないかも知れないが、荒川下流域のあちこちでは、水辺に近い場所で暮らす人々が大勢(たいせい)の筈。ゴミの発生抑制を突き詰めると、CSRがどうこうと言う以上に、格差とか社会構造とか、そういう根源的な話も出てくるんじゃないか... 益々足取りが重くなる櫻であった。


 「ま、今日はマップのお試し調査で来てるんだから。ここの惨状はひとまず記録しておくとして、また考えよう。櫻さん」

 「えぇ、でも...」

 河川事務所関係者のお嬢さんが今ここにいることを忘れてはいけない。小梅は力強くお兄さんお姉さんを励ます。

 「石島課長に談判します。せっかく白地図があるんだもん。しっかり描いて、シール貼って... あと、デジカメでしっかり撮ってもらえれば」

 「小梅さん...」

 悲喜こもごもの櫻は[悲しい場所]のシールのような状態になっているが、泣いてちゃ話は進まない。ゴミ関係のアイコンシールがあいにく見当たらないので、とにかくこの涙目シールを貼ってしまおう。これで涙ともお別れである。六月はさらに[リユース]のシールを橋の下付近に貼り足して、「これで少しは救われるかなぁ」

 またまたいいことを言ってくれたりする。


 生活ゴミが堆積していると、不法投棄の温床になる可能性がある。これは永代(ひさよ)先生が言っていた割れ窓理論に通じる話。だが、そこに暮らす人が「それはゴミじゃない」と言い張れば、行政側も迂闊に手が出せなくなる。不法占有者と言ってしまえばおしまいだが、河川敷などを広義の公共空間と考え、そこで寝泊りする行為を河川利用の一環と見做すと、排除の論理は必ずしも成り立たなくなるだろう。目の前の惨状は、そんな現実の裏返しと言えなくもない。

 そこへ増水に伴う漂着ゴミが押し寄せてきた。そうなるともう区別がつかない。仮に、漂着は手出しできるが、放置は手が出せない、といった理屈で処理が膠着してるんだとしたら考え物。ここはやはり市民の出番なのか。

 若い二人は、お疲れ気味の二人を引率するように歩き出す。淀んだ気分を浄化してもらうには水辺が一番。上流側は千歳が下見した通り、道はなし。だが、下流側はしっかり水際に出られるルートがある。

 ゴミにすっかり気を取られていたが、こっちの水辺では河川補修工事ってのと、水面清掃作業とやらをやっていた。ルートが確保されていたのは工事現場があるが故、だろう。補修の方は何をどう、というのがハッキリしないものの、清掃の方は窺い知ることができた。囲いの外から垣間見えるは、想像を絶する粗大ゴミ(産廃?)の山々。

 「え、水面清掃なのに?」

 「いやぁ、不法投棄を集積しただけじゃ?」

 これでベニシジミとかコサギとかがいなかったら、グリーンマップどころじゃなくてグレーマップになってしまうところ。ネガティブになりそうな気持ちをとどめてくれるのが、生き物の存在であり、アイコンシールなのである。

 シートを眺めていた六月は、蝶と鳥のシールを剥がしかけたが、小梅がすでに両方のイラストを描き入れていたので、手を止める。

 「ありゃ、両生類のシールがある。うひゃあ」

 担任の先生は爬虫類がダメ、文花はまだまだ魚類が苦手。その二つの類はシール化されていないのに、よりによって[両生類]である。東急の青ガエルはいいのだが... できればこのシールは貼らずに済ませたいと少年は思う。

 工事現場と西新井橋の間くらいに、水際に出られそうな小径が見つかった。おそるおそる歩き進んでみると、まるで異世界である。干潟面が少ない... というのも、干潟を形成するための川の働きを阻害するような無粋な工作物が設置してあるから、である。ヨシを保全するためとも思えない、丸太の堰、積石、さらには瓦礫様(よう)の石をゴロゴロとネットでくるんだもの。

 「自然再生って、これのこと?」

 「ここは一つ小梅さんのトーチャンに聞いてみるか、ね?」

 頷きながらも唇をかみしめ、黙々とその物体を描いていく小梅。先を進む六月は野球の試合経過を掲示するボードの断片を発見して興奮する。「見て見て!」

さ「8・9・10・R... そっかぁ」

ち「これも監督さんに報告した方がいいかねぇ」

こ「えっと、生活ゴミとヘンテコな物体とこのボードと... やっぱ写真も見せた方がいいですよね」

 そんな四人を冷やかすように、ジェットスキーが波を立てて上流方向へ。

 「てことは...」

 「でも、逃げ場がない?」

 三十代ともなればいい大人だが、思わず足が竦んでしまう。だが、ヘンテコな堰とかのおかげで、波は消され、彼等の足元は至って穏やか。波消しの効果をまざまざと見せ付けられる格好になる。

 このまま橋の下を進んで行けば、千歳が見下ろした泡々と濁々の近くには出られる。陸(おか)伝いではムリでも、川伝いなら踏査できるのである。だが、現場主義にも自ずと限界がある。また引き波が来たら、いやいや滑って怪我でもしたらそれこそ一大事。しっかり者の二人ではあるが、まだまだ十代前半の子どもたち。危ない目に遭わせる訳にはいかない。


 という訳で、千住桜木地区の水辺調査はここでひと区切り。橋の下の水際一帯には、一応[湿原・干潟]の小シールが貼られ、大波小波が描き加えられる。[こどもにやさしい]シールは残念ながら見送り。少しは水辺で安らぐことはできた? いや、まだ穏やかならない。

 「パッと見はきれいそうだったのに、よく見るとやっぱり流れ着いてるのね」

 「堰とか石とかで漂着しにくいはずなのにね」

 特大サイズのカップめん容器、古新聞、スリッパ、灯油缶、あとは毎度お馴染み袋類に各種飲料容器等々が転がっている。

 

 「ゴミも必死なんですよ、きっと。拾ってほしくて上陸して来るんじゃないかなぁ...」

 「六月君たら」

 またしても少年の心憎い一言。「それって、クリーンアップの指針になるね。ゴミの気持ちを考えれば、その通りかも」 追って千歳も佳いことを述べる。櫻はようやく[安らぎの場]シールのような表情に落ち着いてきた。

 アイコンシールは、地元にある「いいもの」を探り出すための手がかりである。橋の上には[すばらしいながめ]を貼ることができたのはいい。だが、橋の下に貼った[悲しい場所]の涙目にどうしても引きずられてしまう。もっと希望の持てるアイコンを考え出して、そのシールで満たしたい。秋風に吹かれながら、櫻は思う。

 元祖はグリーンマップだが、櫻が今回考えていたのは川周辺に特化した「ブルーマップ」。エリア的には満足したものの、千住桜木の良さが今ひとつ見つけられなかったのが心残り。違う意味でブルーになってしまった。

こ「今度の土曜日、持って来ます。それまでにもうちょっと埋めてみますね」

さ「あ、ありがと。お待ちしてます」

 笑みが失せている、というか、今日はいつになく浮き沈みが激しい櫻である。小梅は承知しているが、このままでいいとは思っていない。

 「櫻さん、ホラこれ見て!」

 マップの片隅にスマイルマークを描いて見せる。「これをアイコンにすればいいんですよ。ね?」

 「もう、また泣かせる気?」

 「エヘヘ、泣くなら彼氏のとこでどーぞ!」

 おませな小梅嬢であった。


 若いお二人は、十二時四十分過ぎのバスで再び王子方面に戻ると言う。

 「小台(おだい)土手近くで下車して、日暮里・舎人ライナーを見物しながら熊野前へ。そこからは都電で帰ります」

 「はぁ、さすがは六さんだね」

 「オイラまだ子ども料金でOKだから、半額のうちにいろいろ乗っておこうと」

 「それじゃ小梅さん、分が悪いわねぇ」

 「わたしは引率者ですから、いいんです。ね? 六月クン」

 引率というか、ナビ担当は六月のような気もするが、ま、いいか。


 本日も大活躍の少女と少年を乗せたバスは、ゆっくりと土手脇の道路を上り進んで行った。

 「そういや、あの二人、お昼どうすんだろ?」

 「そっか、うっかりしてた。まぁ都電に乗るって言ってたから、東池袋~サンシャインシティとか、かな」

 かく言う二人も昼食のことは後回し。どうも千住桜木ショックが尾を引いているようである。

 「あーぁ、千住櫻さんにご縁がありそうな地がこんなじゃ...」

 「まぁまぁ。今日もおかげでよく晴れたんだし。ハレ女さんが曇り顔じゃ町も曇っちゃう」

 「じゃ、少しでも良さそうなシールを貼れることを願いつつ、まち歩きしますか」

 田端方面に出るバスは本数が増えるので、時間をあまり気にせずに散策できる。[みんなの森][みんなの公園]などを貼りながら、二人は尾竹橋にやって来た。

 

 「あら、隅田川ってガチガチねぇ」

 「典型的な垂直護岸。川沿いを歩けるようになっているのが救いかな」

 「シールネタ... ウーン。このままじゃ[悲しい場所]どまりね」

 お化け煙突があったと思われる場所を眺めながら櫻は静かに溜息をつく。今日はどうやってもブルーマップ状態から抜け出せない。十三時半近く、ようやく帰りのバスに乗り込んでホッとするお疲れ男女である。

 「フフ、今日はいいんだ。ランチしたら、千歳宅へGO!だもんね」

 「本当はもっと早くお招きできればよかったんだけど、面と向かってなかなか言えるもんじゃないからねぇ。ヘヘ」

 「いいのいいの。スローラブ、いやSustainable Loveでしょ?」

 熊野前交差点で左折した際の揺れを活かし、櫻は彼の肩に頭を乗せてみる。千歳は満更でもないのだが、ふと昨日のシリアスな話を思い出してしまう。それは文花から聞いたこんな哀話...。

 「これはあくまで私の推測。南実ちゃんが隅田さんに特別な感情を抱く理由、それは... あ、驚かないで聞いてね」

 櫻と業平は階下の図書館に行っていて不在。来客もこの時はなし。カウンターでヒソヒソ、そんな状態である。

 「隅田さんの風貌がね、南実ちゃんのお兄さんに似てるの」

 「はぁ、でもそれじゃ理由としてはちょっと」

 「えぇ、あんまり言わない方がいいのかも知れないけど... でも形見がどうのって話したんですってね。つまりね、彼女にはお兄さんがいたんだけど、今はいない。北太平洋のどこかで潜って調査してた時に、離岸流か何かにさらわれて、行方、不明... あ、ちょっと喋り、過ぎたかな」

 文花はいつしか目を赤くしている。それでもなお言葉を続ける。

 「南実ちゃん、お兄ちゃん子だったの。だから、隅田さんと出会った時に衝撃受けてたみたい。慕いたくもなるし、一緒にいたいとも思うだろうし。私にはわかるんだ。でも、そう云われても隅田さんは困っちゃうわよね」

 「いえいえ。これまでどことなく解せないものを感じていたんですけど、今のお話で解けました。さぞご愁傷だったことでしょうね。でも、僕はどうすればいいんでしょう?」

 「お兄さんの代わりなんてできないものね... あ、いけない。あくまで推測よ推測。本人とよく相談した方がいいんじゃない?」

 「相談、ですか...」


 本人と相談てのも妙な話である。櫻に聞くのもアリかも知れないが、やはり有り得ない。恋仲の女性に、他の女性との接し方を尋ねるなんて話、聞いたことがあるだろうか。その話が真実なら、素直に事情だけでも話したいところだが、それもどうかと思い直す。口にしたらしたで、不信感を持たれる可能性だってある。バスは五差路を右折すると、ウネウネと走って行く。千歳の胸中にもその曲がりくねった感じが入り込んできて、苦しい。

 何となく寝入っていた櫻は降りる間際になって千歳の異変に気付く。

 「千歳さん? 大丈夫ですかぁ? 緊張してきた、とか?」

 「エ? あ、降りなきゃ!」

 田端でドタバタとはよく言ったものである。


 「おじゃましまーす♪」

 「いらっしゃいませ、櫻姫」

 いきなり彼氏に抱きつきそうになる姫だったが、「あの私、今日は飛ばし過ぎないようにしますので、どうか追い出したりしないでくださいネ」と自分でクギを刺して、収拾を図る。直後の彼氏は「?」状態だったが、一寸置いてからまたしてもクールな千さんが顔を出す。

 「では、櫻さま、お約束のレコーディングの方、ひとつよろしくお願いいたします」

 「あーぁ、これって千歳さんのトリック? 人使うの上手なんだから」

 「いえ、御礼は必ず。何か考えておいてくださいな」

 「御礼? あ、それなら十一月十一日、空けといてください。終日!」

 「7.7 9.9 に続く第三弾?」

 「フフフ、そういうこと」

 リビングには、PCとつながった七十鍵ほどのシンセサイザーが置いてある。部屋を見渡したり、調度品を鑑賞したり、ゆっくりお茶したり、そんな前振りも何もなく、櫻は鍵盤に向かうことになる。

 「そっかぁ、千歳さん、PC相手の時はスローじゃなくなるんだった」

 「あ、いや別に。つい気が急いちゃって」

 PCには音源モジュールが内蔵されていて、ドラムやベースの音も出せる。音量を絞る必要はあるが、スピーカーから聴こえる音でモニターしながら鍵盤を叩けば、その音はPCに取り込まれ、オーディオファイルとして融通が利くようになる。


 「何度でも録り直しできるんですよね」

 「えぇ。でも、櫻さんversionにした方が弾きやすいですよね」

 「原曲を少しゆっくりめで流してくれれば平気ですよ」

 二人は一応恋人ということになっているが、今はどうやら趣味人同士の間柄。時の経つのも忘れて、録ったり消したり、PC画面上の五線紙に音符を置いたり動かしたり、そんなことを繰り返している。

 「コピー&ペーストで楽譜が作れちゃうとはねぇ...」

 「あとは、業平君に重厚なアレンジをしてもらえばOK」

 記念すべき二人の合作第一号「届けたい・・・」。ひとまずカラオケで流れる程度には仕上がった。櫻は昔のことを思い出しながらも、心境の変化をひしひしと感じていた。一途な想いをぶつけるだけじゃ駄目、ペースを合わせるところは合わせなきゃ... 曲のタイトルに「・・・」が入っているのは、「届けたい、されど」と一定の抑制がかかっていることを暗示していた。奏者はその抑制感と心地良さに身を委ねている。外はすでに黒々としてきているが、櫻は鍵盤の前から離れようとしない。まだまだ帰りたくない、そんな気持ちもあるようだ。千歳は南実への返事を急ぎたい気持ちもあったが、愛しの櫻姫には敵わない。この際なので、業平と交換したばかりの曲なんかもデモで流しつつ、アレンジの可否をチェックしてもらうことにした。

 夕食がピザになってしまったのは、招く側としては不覚だったが、客の方は喜んで頬張っている。

 「四ヶ月前はセンターでピザ食べましたねぇ。覚えてます?」

 あの当時、四月(よつき)後に二人がこういうことになっているとは誰が予想し得ただろう?

 「私は予感ありましたよ。だからあの時、メッセージカード書いたんです。千歳さんなら応えてくれるだろう、ってね。何か懐かしいなぁ...」

 この日の櫻は、宣言通り飛ばし過ぎることなく、最終バスに間に合うように粛々と帰宅した。次にお目にかかるのは、土曜日。この緩やかな感じが、アラウンドサーティーによるSustainable ~ なのである。

 

【参考情報】 王子神谷から千住桜木へ / グリーンマップとアイコンシール / 西新井橋から荒川と河川敷を望む / 水面も水辺も... / 尾竹橋から田端へ


視野広がる時

十一月の巻

39. 視野広がる時


 返信用封筒には自分の写真と添え書きが入っていた。「今度のクリーンアップの際、よければお兄さんの話、聞かせてもらえませんか...」 前後の文章は目に入らない。この一文が心に深く刻まれ、ここ十日ばかり落ち着かない日々を過ごしていた南実。今日もご自慢の電動車を駆ってやって来たが、気が付いたら十時までまだ十五分もある。よほど気がはやっていたんだろう。

 「隅田さん、早く来ないかな」

 前回リセットを完了した干潟だが、パッと見は良好な感じがするものの、崖側を覗くと案の定、ゴミ箱をひっくり返したような状態に逆戻りしている。時節柄、ヨシもその勢いを失い、朽ちたところを大物ゴミが押し寄せ、自然物が人工物に食われている、そんな有様である。南実には、リセット経過を確かめたかった、という以上に、千歳と早く話をしたい、という思いが強く、干潟の嘆きも届いていない様子。

 到着が早かった分、潮はまだ浅く、普段お目にかからない線まで干潟が拡がっている。水際スレスレの処には波が描いたらしい襞(ひだ)状の模様が残る。南実の心にもおそらくその襞が映っているのだろう。今はただ、佇んでいる。


 昨日は祝日だったため、千歳と会うのは八日ぶりになる。こちらも自転車をすっ飛ばしての現場入り。いつもと視界が異なるため、変な気分ではあったが、よく晴れた空、凛とした空気、柔らかな日射、そうした要素を視野いっぱいに取り込めることがただ嬉しかった。

 「千歳さん、どんな顔するかな」

 十分前に着いた櫻は、思いがけない先客に一寸(ちょっと)戸惑いを覚えるも、むしろ好機と考えた。

 「小松さん! おはよっ」

 物憂げな顔のまま振り向く南実。だが、そんな顔をしている場合ではない。

 「エッ? さ、櫻さん?」

 主導権を握った櫻は、強気に攻める。

 「千歳さんにアドバイスもらって、コンタクトにしたの。どう?」

 「てゆーか、何で今まで眼鏡だったんですか?」

 「まぁ、モテ過ぎちゃっても困るから、かな。ハハ」

 南実は何となく身構えている。攻守逆転とはこのことか。櫻の眼の鋭さにたじろぐばかり。ここで追い討ちをかけるべく、親展封書のことも問い質(ただ)してやろうと思ったその時、前回ドタキャンの二人が現われた。

 「大家好(da jia hao)! っても二人の場合は大家じゃないか」

 「櫻さん、小松さん、元気ぃ?」

 干潟が穏やかなのとは対照的に、女性二人には波が立ちかけていたが、こう来られては収めるしかない。

 「奥宮さん」

 「ルフロンでいいわよ、こまっつぁん」

 今まではストレートパーマだったが、今日は髪がクルクルしていてちょっぴりファンキーなルフロン嬢。いつになくニコニコしながら、そのクルクルを指でいじっていたが、思わず手が止まる。

 「って、そこにいるの本当に櫻さん?」

 八広はすでにのぼせ上がっている。いつものならそんな彼を小突くところだが、舞恵はただ目をパチクリ。櫻に釘付けになりながらそろそろと下りてくる。

 「ヤダ、チョー美人じゃん」

 「あら、そう? ルフロンもイイ感じよ」


 定刻の十時になった。今日は集まりが良くない。

 「そういや、彼氏はどうしたのよ」

 「さぁ、昨日は久々に土曜日お休みだったから、調子狂っちゃったんじゃないの?」

 「こういう時、ケータイがあればねぇ」

 「フフ、別に。なくても平気よ。以心伝心だし」

 「まぁ結構なこと。隅田さんもこんな美人が彼女だなんて、ねぇ?」

 仲良しの二人が会話してる間、南実と八広は飄然とゴミの散らかり具合を眺めていた。八広はひと呼吸遅れて、「あ、そうスね、ヘヘ」とはにかむ。

 「何よ、デレデレしちゃってぇ。舞恵はどうなのよ?」

 「ルフロンは美人というより、美の女神...」

 旨いことを言っても言わなくても、どつかれてしまう八クンであった。


 クシャミをしながらせかせかと堤防上を歩く男性がいる。お噂の通り、調子が狂ってしまっている千歳は、自転車の点検を怠ったばかりにこの体(てい)たらく。十月最後の土曜日、つまり三度目のセンター出勤日のこと。台風が近づく中、自身の自転車で何とか漕ぎつけたのは良かったが、舞恵と八広のご来館、というのが今考えると事態の伏線だったことに気付く。八広はともかくも、雨女、いやこの時は嵐女さんが来たばっかりに、雨風は益々激しさを増し、悪天候の中を自転車で帰ることになった訳である。台風を甘く見てはいけない。そのツケは彼の自転車に災いをもたらした。今朝、八日ぶりに走らせようと思ったら、後輪がペタンコ! 空気を入れてもNGだったので、仕方なく徒歩と相成った。正にトホホである。

 そんな彼の遥か前方では、石島姉妹が先行中。逆に後方からは何やら大きなバッグを担いだ女性が付いて来る。

 「千さーん!」

 目がいい画家さんは、遠くから千歳を見つけて呼び止める。

 「あ、蒼葉さん」

 「ヘヘ、ちょうど良かった。これ持ってくださる?」

 画布を立てかける三脚である。こんな大荷物じゃバスに乗って来るしかあるまい。「想像じゃ限界があるんですよ。今日はちゃんと原色を見極めようと...」 その熱心さに胸打たれる千歳である。さっきまで早足だったが、ペースが落ちている。


 「はぁ、やっと着いたぁ」

 「あ、ルフロンさん!」

 十代姉妹が着いた時、四人は分担を決めたばかり。まだ始まっていないことがわかり、姉妹はゆっくり干潟入りする。

 「初姉、小梅嬢、ご来場!」

 「久しぶりスね。今日は大丈夫なんですか?」

 「見ての通りよ」

 「でも、髪の毛が...」

 「いいでしょ。特にこの辺のウェーブがポイント。干潟に来る波を表現してみたんよ」

 「この間の台風でクルクルになっちゃったのかと思った」

 「まぁこの娘ったら」

 初音を小突く舞恵。この二人、十月に一度顔を合わせたきり。三週間ぶりの再会なのだが、実に息が合っている。


 河原の桜は、十一月に入ってもなお緑を保っている。ここのところ、すっかり見落としていたが、画家と歩いているとさすがいろいろなものに目が行くようになる。

 「七ヶ月前は満開を過ぎたくらいだったかな」

 「千さんと姉さんは今が満開?」

 「いやいや、咲き始めじゃない?」

 「そうなんだ... ま、三十路の恋は遅咲きってことね」

 「蒼葉嬢は? まぁ聞くまでもないだろうけど...」

 「私のこと聞いてどうするの? 櫻さんに怒られちゃうわよ」

 実はフランスにいて、最近は音信不通なんて話をしたところで、どうにかなるものでもない。今は姉の恋を応援するのみ、である。


 櫻の眼鏡レス事件はまだ尾を引いていて、肝心のクリーンアップがなかなか始まらない。千歳と蒼葉が現れても、

こ「ね、言った通りでしょ?」

は「蒼葉さんのお姉さんだから、ひょっとすると、とは思ってたけど、溜息出ちゃう...」

さ「初姉まで、ヤダなぁ。干潟とか川をよーく見ようと思って、そうしたの」

ま「うそうそ、彼氏をバキューンてやるためよ。ホラ噂をすれば...」

 「あ、櫻姉! な、何で?」

 櫻がそそくさと出て行ってしまったので、何か怪しい?と思っていた蒼葉だったが、この展開にはさすがに驚かない訳にいかない。

ち「遅くなりましたぁ、あ、櫻さん。ついにコンタクトデビューですか」

ま「何か張り合いないなぁ」

さ「いいのよ。素顔の櫻さん、慣れっこなんだから」

 視線で照準を合わせれば、それでイチコロ... な訳ないか。

 南実はずっと複雑な顔をしていたが、千歳が近づいて来るとすまし顔に。目を合わせるようなそうでないような。待たされた分、余計に歯痒い。「あっ、隅...」と言いかけて、「すみません」になってしまうのだった。


 十時十五分、ようやくリーダーが点呼をとり始める。

 「えっと、今日はこれで全員、でしょうか?」

ち「Mr. Go Heyは、バーコードスキャナの研究で手が放せない、とのことです」

あ「弥生嬢はその業平さんから楽曲データだかをもらって、おこもり中」

こ「六月クンは、大宮で鉄道三昧中、だと思いまーす」

 文花は連休を使って行楽ドライブ。冬木からはhigata@に律儀に連絡があった。

 「では、八人ですね。今回はリセット2回目、よろしくお願いします」

 「ねぇねぇ櫻さん、今日はマイクパフォーマンスやんないの?」

 「この前はオープンイベントだったから、ちょっと司会やっただけで、そんな...」

 「なぁんだ、楽しみにしてたのになぁ」

 higata@でもすっかり評判になっていたので、舞恵はその再現を大いに期待していたのだったが。先月ここに来られなかったことを改めて悔いてみる。


 「それにしても、やられたぁって感じだね」 千歳は抜かりなく撮影を開始する。

 「先週の台風の仕業かしら?」 櫻は視野の全てを使い、現場を目に焼き付ける。

 その台風通過中の日、センターには小梅も遊びに来てくれていた。幸い、嵐女さんが来る前だったので、まだ雨風が弱い時分のこと。濡れずに済んだ「千住桜木ブルーマップ」には、代表的なゴミがしっかり描き足してあった。櫻がブルーになっているのを見て発奮したか? いや、そればかりではない。小梅は現実を直視していたからこそ、描けたのである。ゴミをネガティブに捉えることなく、そこから何かを見出そうとする気概... それは手がかりやツールとしてのマップではなく、地域に勇気を与える表現媒体そのものになっていた。小梅からもらった鋭気をそのままに、今、目の前に散らばるゴミと対峙する櫻と千歳。何も言わなくても、気持ちは一つである。

 もう一人の表現者、蒼葉は邪魔にならないようにと、干潟を見下ろす位置に三脚と折り畳み式ベンチをセットする。このまま、画業に勤しむもよし、見張り役を務めるもよし。だが、蒼葉は迷う。果たして片付ける前を描くべきか、それとも後か。どっちも現実であり、メッセージを有する点で変わらない。「いや、題材はあくまで『自然本来の姿』。とにかくもう一度リセットしよう」 蒼葉は未完成の油絵を取り出しかけて、また戻す。クリーンアップ参加者は多い方がいい。


 慣例に従い、エリアごとに班分けなどをしても良かったのだが、手慣れたメンバーが集まったからにはその必要はなし。それぞれに役割を考えながら、今は品目別分担で動いている。最初から手分けすれば、再分類する手間が省けるというもの。回を重ねるごとに進化しているのが窺える。

 ルフロン嬢は、缶やらプラボトルやらを専門に集めている。今日は特に少数派になっている男性二人は、大型シートやポリタンクや作業服など、大きめ系を担当。これまで干潟中央に打ち寄せてきたゴミが逆流するのを止めてきた、通称「防流堤」は今や完全に埋没し、その役目に終止符が打たれた。その堤があったらしい場所にはヨシの束が覆いかぶさっている。南実はそこでいつもの作業を励行。束を除けると出るわ出るわ。個別包装関係、吸殻、硬質プラスチック破片、そして粒々。喜々としてスコップで拾っていた研究員だが、思わず息を呑む。「ありゃりゃ、発泡スチレン粒だぁ」

 

 前回拾い損なった発泡スチロール破片がさらに微細化して散々な状態になっているのである。ヨシが絡め取っているからまだいいと言えなくもないが、それにしても...。とにかく袋に放り込んで、バケツ水を使った選別は後回し、である。南実のこうした一連の所作を何気なく見ていた千歳だが、何かを払拭したい一心が彼女を動かしているんじゃないか、そんな意を強くしている。

 千住&石島姉妹は、その他もろもろを一気に掻き集めている。大小硬軟様々の袋類、破片類、容器類。あと目立つのはフタ&キャップ。飛ばされやすい、浮きやすい、そういう性質のゴミが漂着し易いことを現場は語りかけてくる。

 「あれ、何スかねぇ?」

 「何かのシートのようにも見えるけど」

 回収作業は、干潟面から斜面に移っていく。男衆の目線は今は水平である。と、横倒しになったヨシ、その隣に本日最大級の大物が打ち上がっているのを見つける。

 「ゴムボート? な、なんでまた?」

 「ま、とりあえず証拠写真スね」

 「正に漂着ってか」

 女性陣が見守る中、千歳と八広はそのクタクタのボートを陸上へ引き揚げることに成功。除(ど)けたらいい塩梅で道が拓けた。いつもの通路とは別に一本。それは湾奥の近傍に当たるため、仮に干潟の中央でゴミを集積した場合、この新ルートを使えば搬出し易くなる。台風増水でヨシが弱っていたところに、漂着ボートが被さり、草分け道のようになったという顛末。

 十時半を過ぎた。ここまで快調なペースで来ていた八人だったが、さすがに遅々としてきた。全体的に弱った感じのヨシ群は、その密集度を下げていて、「拾ってくれ」と言わんばかり。前回隠れていたと思われる飲料容器や細々(こまごま)した袋片が露見している。こういう時は、ひと呼吸おいて態勢を整え直すに限る。すると、そんな状況を見計らったかのように、意外な男女が近づいてきた。

 「皆さんどうも」

 「おっ、二人ともやってるな。大丈夫か」

 新ルートを伝って下りてきたのは、何と石島夫妻である。

 「珍しいわねぇ、二人して。そっちこそ大丈夫かぁ」

 長女は早速からんでいるが、次女は弁えたもんで、

 「母の京(みやこ)です。蒼葉さん、初めてですよね?」

 と顔つなぎ。この立ち居振る舞い、櫻に近いものを感じる。見よう見まねもあるが、おそらくはこれが小梅の素性なんだろう。

 それにしても何の躊躇もなく、拓けた道から現われた、というのが引っかかる。夫妻が通った後を注意深く見てみると、マーキングした杭が。これが何らかの標(しるべ)だとすると、この通路も実は人為的に整備されたものか... じゃいったい何をしようって? ちょっとした推理を働かせてみる千歳である。


 石島のトーチャンは、一人いそいそと下流側へ歩き出す。過日、父とひと悶着やった次女はここぞとばかりについて行く。今日は決戦である。

 「な、小梅、波を防ぐの造らないとこうなっちゃう訳さ」

 想い起こすのは、夏休みの自由研究のあの日。六月がヨシを引っ張って崩してしまった崖部分である。一旦は増水時に運ばれてきた土砂やらで修復したように見えたのだが、ヨシともども軟弱になっていたためか、えぐりとられるような地形になっている。

 「でも、それじゃ波と一緒にゴミもブロックしちゃうじゃん」

 「ゴミは所詮ゴミさ。水に流すって言うだろ。昔は川に捨てるのなんて当たり前だったんだし」

 「ダメなの! ゴミにも心。拾ってあげなきゃかわいそう。海に流れてっちゃったら、大変なんだし」

 南実先生の話が頭に入っている分、言うことが違う。父、いや河川事務所課長は、職務上、ムキになってくる。

 「ヨシとかカニとかのためにも、ゴミは来ない方がいいんだろ? それにお前達だって、拾う手間が省けるってもんだ」

 崖崩れはあっても、カニの巣穴は健在。だが、その穴には容器片が吸い込まれている。これ見よがしで勢いづく課長。

 「この目で見たんだもん。あんな変なの置いたら干潟がなくなっちゃうよ。ヤダヤダ!」

 そっちが課長なら、こっちは河川利用者である。小梅も負けちゃいない。畳み掛けるように「これ見てみ?」。

 ポシェットから取り出したのは、西新井橋下流右岸、丸太堰やら瓦礫ネットやらと、それらの効なく打ち寄せられた漂着ゴミの数々。ブルーマップを見せに行った際、千歳から預かった証拠写真である。

 「あ...」

 長女に罵られるのは日常茶飯だが、可愛い次女にもこの通りやり込められたら父権も何もあったものではない。掃部先生がその場に居ない分、まだ助かっている。


 同じ頃、当の先生は別の現場にいた。ただし、単独巡回中ではなく、かつてのお仲間と一緒。

 「なぁ、金森氏」

 「...」

 「返事ぐらいしろよ」

 「あぁ、何だ」

 濃いめのサングラス、髭はボウボウ。人相がハッキリしない上に寡黙なこの男。名は金森旭(かなもり・あきら)、生まれは下町某所。清とは同業だったが、リストラだか何だか、とにかく辛酸を舐めることになり、野宿生活を余儀なくされた時期もあったそうな。だが、不法投棄ゴミを元手に、家内製静脈産業を打ち立てるに至り、今では零細ながらも一工場の主となった。ゴミともども自分自身も再生させてしまった武勇伝的な人物である。「この世にゴミはない」とまでは言い切っていないと思うが、廃品を循環させるのが得意技。今日は清に連れられて、西新井橋の下にブツの物色に来たという訳。(千歳のモノログ「千住桜木編」をチェックして来たというから、先生も侮れない。)


 「どうだ、何とかならねぇか?」

 「こうも泥かぶってちゃあな。洗濯機なんかはバラせばいいから汚れててもどうってことねぇけど、オレっちの領分じゃねぇから...」

 「他の電気製品もだが、よっぽどうまくやらねぇ限り、骨折り損だもんな」

 「中国じゃパソコンやらゲーム機やらの基板をよ、硫酸で溶かして金属取り出してるっていうじゃねぇか。危なっかしくて聞いてらんねぇよ」

 「それにゃ日本製も含まれてるって聞くぜ」

 「ま、前みてぇに筐体だかボロ布だか、単純で扱いやすいのがいいな。ここに散らばってるのは今日のところは願い下げ。昔はそんなことも言ってらんなかったけどな。ワハハ」

 本業の話となると饒舌になる旭であった。

 「それにしても、家主はどこ行っちまったんだろな」

 四人が当地を訪れてから二週間が経っているが、どうやらテントに変化はない。推察の通り、廃屋になってしまっているようだ。


 先生はいなくても、代弁者はちゃんといる。小梅に代わって、課長を囲むは、アラサーのお三方である。巡視船ツアー中に質問してきたのと同じ顔ぶれ。石島湊、崖崩れよりもまず己れを案ずるのが先だったか。

 「いえ、皆さんその... まずは下調べ、ということでこの間、踏み込んだまででして」

 「いいも悪いも、話を聞かないことには何とも。説明会のようなものはあるんでしょうか?」 千歳もちょっとカリカリ来ている。

 「それもそうなんだけど、引き波禁止にすれば済む話じゃないんですか?」 と南実はツアー中の質問の延長で提案する。

 「それがその、自然再生する場合、何らかの緩衝物を設ける必要が出てしまうもんで、それだけじゃ」

 「そもそもここがどうして対象なのか、対象になろうとしているのか、過程が不透明な気がしますねぇ」

 「勝手に対象にして、余計な工事されちゃ、川が気の毒ですよ」

 河川事務所の所管に当たるのかも知れないが、課長も知っての通り、ここは皆の干潟である。千歳と南実の相次ぐ攻勢に、表情が虚ろになってきた湊である。

 「こうしましょうよ。河川事務所のお考えを聞く会をとにかく設ける。場所は中立性を考えて、当センターで。推進派とそうでない派に分かれる可能性はありますが、あえて両方の立場を強調してぶつけることで、一致点を見出す、そんなやり方... どうです?」

 櫻がコーディネーターらしい仕切りで、ピンチの課長にひと息ついてもらう。

 「そうだねぇ。でも対立構図を作っちゃうと、両者譲らず、最後はお流れ~ってリスクも出てくるよ」

 「その辺りはコーディネーター次第じゃないですか? 千歳さん...」

 「え、僕が?」

 「発起人なりのお考えで、まとめちゃえばいいんですよ、ね?」

 櫻と話していたら、流れでそういうことになってしまった。だが、コーディネートは未知数ながら、プロセスマネジメント手法で、ということなら策はある。議論もプロセスありき、しっかり流れを整えさえすれば。論点をハッキリさせながらも、対立を煽らず、合意点を探る、そんな組み立ては十分可能な筈だ。

 あとは、公務員どうしで具体的に段取りを決めてもらえばいい。手間がかかりそうな書状関係も心配は要らないだろう。確実な線を狙うなら、文花と辰巳のラインで河川事務所に登壇依頼を出せばOK。

 「でも、文花さん、いそがしいだろうしな」

 役員選考が一段落した辺りに設けるか。だが、後手に回ると工事が既定路線に乗ってしまう虞(おそれ)もある。課長職にどれほどの権限があるのかは不明だが、ここは何とか凍結の旨、確約がほしい。が、湊はすでにその場を離れ、消えつつある水際の襞模様を観察している。ちょっと淋しげではあるが、家族がそろってる手前、気丈に振る舞わないといけない。トーチャンはツライ。

 そんな父には目もくれず、姉妹はさっきからしりとりをしていた。再生工事 → 潤滑油 → 指サック → 靴下 と続いている。

 「た、タバコの吸殻」

 「何で、らにするのよ。こで止めなさいよぉ」

 「ら、あるじゃん、ホレそこ」

 「ははぁ、ラーメン、の袋」

 「せっかく、んで引っかけようと思ったのに。ろ? 労働者、じゃダメか」

 しりとりにかけては、千住姉妹も名人だが、石島姉妹もいい線行ってる。梱包用のストラップバンドは落ちているが、今日はロープが見当たらなかった。小梅がつなぐのに窮するのも仕方ない。


 さて、他の労働者各位は、と言うと、石島夫人と蒼葉は、拾い終えた品々をより細かく分類している最中。舞恵と八広は、しりとりの合間を縫って、さっきの続き。ヨシが発するSOS要請に係るゴミを可能な限り引っ張り出している。前回ドタキャンの無念を晴らすような気合いの入れよう。舞恵は無意識のうちに無表情になっていた。

 「ルフロン、顔が怖いよぉ」

 「女神さまに向かって、そりゃないでしょ!」

 「うへぇ、益々コワイ」

 女神さんは、二リットル級のプラボトルを手にすると、隣人の臀(でん)部に一発。

 「あら、いい音」

 きっとご加護があることだろう。


 十一月四日、十一時四分。余裕の進行と思っていたが、お騒がせトーチャンの一件もあり、そうでもなかった。11.4 11:04...「いいよ、いいよ」と誰かが云ったような、そんな気がした。

 

【参考情報】 発泡スチレンはお早めに / こんなボートも打ち上がる / E-wasteを出さないために


原色または素顔

40. 原色または素顔


 「ヨシは減り、ゴミの露出は増え... 拾えども拾えども我らが干潟は何とやら、じっと...」 遠くを見つめる櫻であった。

 今日は近くも遠くもなく、全方位がよく見えるので、脱力感も大きい。気が緩むのは当然の理(ことわり)。

 大型ペットボトルが川の中央を漂流しているのがわかる。そして、それを避けようとした水上スキーヤーがジャンプに失敗したのもしかと見届けた。その瞬間である。風圧でも来たのか、デビュー初日のコンタクトレンズ(本日の「いいもの」)が片方落ちてしまった。

 「へ? な、なんで?」

 櫻の異変に周囲は気付くも、こういう事態だと下手に動けなかったりする。

 「櫻さん、動かないで。そのまま」

 片目では探しにくい。本人もできれば動かない方が無難である。たまたま近くにいた南実は、的確なアドバイスを送りつつ、レンズの捜索態勢に入る。

 幸い大方の片付けが済んでいた上、水位の上昇も緩やか。大騒ぎするには及ばないのだが、水際で落としてしまったのがいけなかった。波が襲って来たら、と思うと気が気ではない櫻である。露出面積が広いのはいいが、普段は水没している辺りは軟弱で、足が沈む感じ。慎重に足を運びながら、研究員は目を利かす。


 その場でおとなしくしていないといけないのが、いたたまれない。見つかるまで五分足らずだったのだが、随分と長く感じられた。

 「はい、見つかりましたよ」

 「助かりましたぁ」

 この時、ギャラリーは千歳、八広、舞恵、石島姉妹の五人。動作はストップモーション気味。暫時、黙視していたが、今はパチパチと手を叩いている。絵になるワンシーンである。

 「レンズって飛ぶんですね。よくぞ見つけてくださいました」

 「仕事柄、探し当てるの得意なんですよ。凸レンズ状のペレットもありますし」

 遅ればせながら、そろそろと彼氏が近寄ってきた。

 「大丈夫、ですか?」

 「あ、そうだ。バケツ貸して」

 「それが忘れて来ちゃったみたいで」

 「うぅ」

 ここで再び南実が名乗りを上げる。

 「今日まだ使ってないから。私の使って」

 今回は自前のバケツ持参だった。いやバケツではなくステンレス製のペールと呼ぶのが正しい。レンズを漱(すす)ぐには丁度良さそう。櫻は一人洗い場へ急ぐ。

 「ホレ、そこの彼氏、これがないとダメっしょ」

 親切なルフロンさんは、手のひら大の鏡を取り出すと、千歳に手渡した。

 「さすが女神さん。ありがとう!」

 舞恵は笑顔、南実はちょっと無愛想になる。


 櫻と千歳が中座している間は、蒼葉が進行役代理を務める。分類が済んだゴミのカウントに着手する旨、号令がかかる。櫻はいつものカウンタを持って来ていたが、ルフロンが居れば何のその。得意の目計算でバシバシ数え上げていく。

 手持ち無沙汰の南実は、二人が気になることもあったが、一旦洗い場に向かうことにした。途中、目をキラキラさせた櫻、一歩遅れて千歳とすれ違う。

 「あ、水汲んどきましたよ」

 「ども」

 文花が云うところの三角形の三人。外野の一隅で無言の時間が流れ出す。ペールに満たされた水が鏡のように静止している。三人は一様に唇をかんだままである。数十秒程度だったが、彼等には分単位の重み。南実は口を開きかけたが、会釈して先に現場に戻って行った。


 十一時半近く、目計算の結果がまとまる。ワースト1(5):発泡スチロール破片/七十一、ワースト2(3):プラスチックの袋・破片/五十七、ワースト3(1):ペットボトル/五十三、ワースト4(2):フタ・キャップ/三十七、ワースト5(4):食品の包装・容器類/二十九(*カッコ内は、十月の回、当干潟での順位)。次点は、タバコの吸殻等と小型袋が各二十八。雑貨も各種そろっているが、弁当やカップめんの容器、その他のプラスチック系容器類がとにかく目に付く。目的別で分類するなら、「容器&包装」がトップに立つのは間違いないだろう。気になるレジンペレットなどの粒々関係は、南実研究員が別働で調査しているが、「ダメだ。発泡スチレンにしてやられた」

 集めた砕片をペールに浮かべると、その水面は、すぐに白い球粒で覆われてしまう。いつも以上の収量があったので、サンプリングで済ませようとしたが、これじゃ埒(ラチ)が明かない。「二十対一くらいかな?」 南実もパチパチと目で数えようとするも、この通りアバウト状態。精彩を欠いているのはやはりあの人のせいだろうか。


 石島夫妻は目の前で繰り広げられている集計作業を黙って見ている。いや、感じるところは数多(あまた)あるものの、それを声に出していないだけ、という風である。

 「衣料品とか履物とか、相変わらず多いのねぇ... サンダルとかまだ履けそう」とか、

 「布団は察しがつくが、ゴムボートってのは見当つかんな。この調子で大物が大量に出てくるとなると、うちの負担もバカにならんぞ」とか。

 感想と言うよりは単なる見立てといったところか。


 両親とは対照的に娘二人はよく動いている。再資源化可能と思しき品々をまとめると、率先して洗いに行ってしまった。蒼葉はケータイ画面で計数入力中。その傍らで、千歳は例の如くスクープ系を撮り始める。レジ袋に入った雑多ゴミはこれまで何度となく見てきたが、このパターンは初お目見え。クイックメニュー業態店のテイクアウト容器の詰め合わせ袋である。それとセットという訳ではないだろうけど、ウエットティッシュの箱本体、水筒、歯間ブラシと続く。ストーリーとしては、手を拭いて、弁当をたいらげ、水筒に入ったお茶か何かを飲み、最後は歯のブラッシング。そこで使ったものは全てポイ、でこうなったとか。しりとりも頭を使うが、遺留品から物語を組み立てるのも悪くない。

 「千歳さん、どしたの? 思い出し笑い?」

 「へ? いやいや、ゴミにもドラマがあるんだなぁって」

 「このDVDのこと?」

 櫻が指差した先には、何かいかがわしそうなタイトルのAV系ディスクが転がっている。

 「ハハ、これもスクープ系?」

 「やぁね、そんなの記録しなくていいわよ」

 ディスクには真昼に近づく日射が当たって煌いている。

ま「それにしても、今日もよく晴れたこと。またしてもハレ女さんの完勝ね」

さ「皆の心がけがいいからよ。お天道様が味方してくれてるだけ」

あ「ところで初音さん、気温は?」

 ケータイは忘れても、デジタル温度計は常時携帯している。さすがはお天気姉さん。

 「二十℃スね。でも体感温度はもっと行ってるかも」

 十一月でこの気温。数字を聞いたら余計に暑くなってくるから不思議だ。R25のカップル二組は、せっせと可燃・不燃の別で袋に入れ始める。[プラ]の識別表示付きの品々と、舞恵が集めたボトル&缶関係は、その二十℃の熱で微かに蒸気を立ち上らせている。

 「よーし、リセット、いや再リセット完了! 皆さん、おつかれ様でした」

 一同礼、そして軽く拍手。石島夫妻も気が付くと手を合わせていた。南実も少し離れたところから頭を下げている。

 広々とした干潟はいつ見ても気持ちのいいものである。動機はどうあれ、新たに拓かれたルートからの眺めはなかなかの絶景。一羽のダイサギが優雅に現われ、情景を盛り立てる。だが、着地はせず、そのまま上流方向へ飛び去って行ってしまった。

八「こりゃ縁起のいいことで」

ち「どうせなら寄り道してけばいいのにねぇ」

ま「人が十人もいたら、ムリっしょ」

あ「馴れてもらえばいいのよ。また戻って来るまで私、残るから」


 正午を過ぎた。石島ファミリーが動き出す。

 「今日は皆さんおそろいで、どうもありがとうございました。お父様にはまた別途ご連絡を...」

 「ハハ、そうでした」

 「この後はどちらへ?」

 千歳の問いに、京(みやこ)が答える。

 「皆さんおなじみのショッピングセンターへ」

 湊と初音は以前よりはいがみあうこともなくなった。今日は家族そろってのお出かけデー。初姉の受験応援食事会なんだとか。

 「それでご両親もここへ」

 「現地集合でもよかったんですけどね。主人が寄ってこうって」

 「本当? ママが引っ張ってきたんじゃないのぉ、心配だわぁって」

 「ステキなお姉さんとお兄さんと一緒なんだから、別に心配なんかしないわよ」

 そんな素適な一人、見目麗しい画家さんが、おもむろに画布を出してきた。三脚に取り付けると、描きかけ作ながら印象派チックな川景色が拡がる。小梅は真っ先に駆け寄っていく。その後を家族三人も追う。

 「まぁ、絵描きさんだったなんて」

 油絵がセレブ感覚にマッチするのか、京は色めき立っている。

 「ここの本来の姿ってどんななんだろって、描きながら考えてるんです。少なくともゴミとか余分な人工物がない状態でしょうから、今のうちと思って」

 蒼葉としては他意なく、正直に話をしたまでだが、湊にはグサと来るものがあった。

 「本来の姿...か」

 小梅と京はそのまま覗き込んでいる。湊は我に返ったように、傍にいた千歳にステッカーを渡す。

 「これだけあればしばらく足りますかね」

 「あ、ありがとうございます。でもこれは姉妹のご担当じゃ?」

 「小梅はまたお世話になるでしょうけど、初音はしばらくお休みって、あ、まだ聞いてませんでしたか?」

 「はぁ...」


 その初音は舞恵につかまっている。

 「何? 初音嬢、日曜休業?」

 「えぇ、今日の食事会は景気付けです。以後、日曜日は勉強に専念します。お店は土曜日のパンケーキタイムだけ。受験が終わるまで、ここにもしばらく来れないかも」

 「そっかぁ、じゃ土曜日に顔出すようにするワ」

 「ルフロンさん、ちっとも来てくれないんだもん」

 「すまんすまん、十月は干物みたいになっててさ。こないだの台風の日にセンターに行ってやっと復活した感じよ。ま、お詫びっつぅのも何だけど、わからないことあったら教えたげるし。英語とか」

 「じゃあ、午後五時前後に。売れ残ったパンケーキでおもてなししますんで」

 「売れ残りぃ?」


 課長の粋な計らいで、大物ゴミは陸揚げした地点に置いておけばOKということになった。下手に貸しを作られるのは御免だが、少なからず改心する部分もあったようで、イイ顔で手を振っている。表情は嘘をつかない。これは初音が言っていたことでもある。


 可燃と不燃が計四袋、再資源化関係は二袋。これを六人で運び出せば今回は終了。だが、文化の日の翌日と来れば、「芸術の秋」を堪能しない手はない。昼食は二の次である。

 蒼葉はピクニックランチのことも忘れて、ひたすら原色を追究している。

 「川はグレーが基調? でも空の青を映して、大きく呼吸してる感じ。それって何色?」

 元々の姿を描くなら、限りなく透明感のある色になるだろう。絵筆は画家の思惟を乗せ、理想と現実の間を彷徨(さまよ)っている。

 自称アーティストの舞恵嬢は、前回から置き去りになっていた変形流木を発見する。

 「こういうことなら、工作キット持って来りゃよかった」

 その流木の枝に、缶やペットボトルを括りつければ、ちょっとした打楽器になると踏んでいるのである。仮にこれら飲料容器をリサイクルする場合、材質はそのままだが、形状の変化を伴うため、何らかのエネルギーが発生する。缶にしろペットボトルにしろ、その原形をとどめたまま使ってもらえるなら、それは即ち、リユース(再使用)。エネルギー使用が抑えられることから、リサイクル(再利用)よりも環境配慮に適うとされる。舞恵は特段そうした意識を持っている訳ではないが、「リユースアーティスト」になれる素地はある。

 「今日のところは良品を頂戴して、と。流木も持って帰ろ」

 かくして、いつもならリサイクル扱いの飲料容器は、余生を授かることとなり、純粋なリサイクル系は、隣市へ持って行く容器包装プラ関係のみとなった。


 文芸の秋、という人達もいる。櫻と八広は干潟端会議で、歌詞について話し合っている。

 「その千歳さん作の二曲目ってのがね、メロディーラインは何とか弾けても、何を歌にすればいいのかが思いつかなくて...」

 「詞がつけば、情景が浮かんで来て、もっとイイ感じで弾けるんじゃないスか?」

 「そうなの、だから詞が先でもいいんじゃないかって、言ってるんだけど」

 「櫻さんが鍵盤で入れたテイクができると、本多さんのところで加工されて、カラオケ仕様になるんですよね。それを聴いてから考えましょっか」

 「今、ここで聴いてもらえたら話早いのにね」

 チャラチャラが減ったルフロンだが、所持品は多彩である。今は耳がスッポリ収まるヘッドホンをして、首からはメモリオーディオをぶら下げている。モンキチョウとモンシロチョウの演舞に合わせて、軽やかにステップを踏む。舞恵さんだけに、舞いもお得意のようだ。

 「おーい! ルフローン!」

 八広が手招きすると、彼女はバッタを散らしながらもミディアムスローな調子でやって来る。

 「それって、メモリ差し替え式だよね」

 「そっだよ。今日はボサノヴァセレクションさ」

 「てことは、楽曲データをこれに入れればすぐに聴けるってこと?」

 「ファイル形式が合ってればネ」

 二曲目、そのダンサブルなナンバーも、遅かれ早かれ二人の耳に入ることになりそうだ。


 芸術モードではない二人が残っている。こっちは至ってシリアスである。南実は試料をジッパー袋に詰め終わり、研究用具の片付けをしていたが、いいタイミングで千歳がステッカーを貼り終えてウロチョロし出したので、すかさず呼び止める。

 「隅田さん、ちょっと」

 「あ、ハイ」

 四人は陸地にいるので、干潟に下りると目が届きにくくなる。引き揚げたゴムボートの横を通って、二人は今、湾奥に居る。

 「兄のこと、文花さんから、ですよね」

 「えぇ、お悔やみ、いや、何と申し上げたらいいのやら、ですが」

 「消息がわからないのが逆に救いではあるんですが、事故は事故ですから。ただ、これもお聞きになったかも知れませんが、隅田さん見てると、何だか兄が戻って来たみたいな、そんな気がして...」

 言葉が途切れてくる南実。快活なアスリートという一面は全く見られない。その嫋(たお)やかで愁いを含んだ眉目に、千歳は息を呑み、そして溜息。

 「自分でもよくわかんないんです。きっと隅田さんのことが好き、でも何でそう思うのか... 兄への慕情が転じて、だとは思うんですけどね」

 「小松さん...」

 「ごめんなさい。隅田さんには櫻さんがいるから、こういう話はするまいって思ってたんです。でも、ダメでした。打席に立ってもらったり、歌声聴いてたら、益々重なってきちゃって」


 「あれ、そういや千歳さんどこ行っちゃったんだろ?」

 「こまっつぁんもいないよ」

 「何かイヤな予感...」

 「この辺にいないとなると、干潟スかね」


 南実は泣き出したいのをこらえて、話を続ける。

 「川に一と書いて、せんいちと言います。だから『せんちゃん』なんて聞くと、泣けてきて」

 当の千ちゃんはひと呼吸おいてから、輪をかけるように泣けることを云う。

 「その川一さんの代わりはできないけど、何か力になれるんなら」

 「あ、いえ、別に今まで通りで。ここでお会いした時に、ちょっとだけ甘えたいかな、ってのはありますけど。片想いっていうのも変だけど、何となく慕わせて、ください」

 そう言い残すと、さっさと斜面を駆け上がって行ってしまった。


 「あ、小松さん、千歳さんは?」

 「あぁ、潮の上がり具合を眺めてて。まだいますよ。私はこれで。ルフロンさんも、またね」

 去り方がちと怪しかったが、普段通りのハキハキした感じだったので、詮索するも何もない。櫻はむしろ御礼を言わないといけないくらい。「あーぁ、何かスッキリしないし」 南実も同じようなことを思う。「櫻さんには誤解がないようにしておきたいなぁ。何かまだつっかえてる感じ...」

 独り南実が帰り、次は二人、ルフロンと八クンが帰途に。

 「じゃあお二人さん、今度は二十四日ね」

 センターとしては、法人会計を固めていく必要上、専門家として舞恵に来ていただくことになっている。八広は彼女の付き人のようなところがあるが、NGO/NPOの事情通である以上、それはそれで心強い。二人とも無償で構わないと云うが、舞恵は櫻のカウンセリングが受けられるのが特典。八広は千歳と情報交換するのに好都合。無償に足る理由がある訳だ。

 「奥宮さん、今度は雨とか連れてこないでね」

 「さぁね、そればっかりは。天気のことは初姉に聞かないと... あ、そうだ!」

 初音は受験勉強に専念するため、干潟にはしばらく来られないとの件、舞恵が申し伝える。

 「で、皆さんによろしく、と」

 「てことは、クリーンアップ後のカフェめしランチもしばらくお預け?」

 「初姉がいなくても別にいいじゃない」

 「だって、ニコニコパンケーキもお休みなんでしょ」

 「ウーン」

 悩める女性二人にとって、これがお導きとなればご喝采である。八広が提案する。

 「今からルフロンとお店探してきますよ。ちょうど自転車だから、あちこちと」

 職場の近所はよくご存じなのだが、「平日はランチやってても、日曜となるとね」と舞恵も同調。そして、付け加える。「あ、そうそう、さっき言ってた楽曲ファイル、お早めにね。待ってるから」


 今、干潟を見下ろす場所には、腰掛ける女流画家と、その脇に立つ男女が居る。蒼葉はいつの間にか一人ランチを済ませていて、ひたすら画業に集中。だが、段々と気が散ってきた。

 「あのさ、見ててもいいんだけどさ、お昼がどうこうとかここで相談すんの、止めてくんない?」

 「あ、ごめんごめん。少しはサンドイッチとか残ってるかと思ったら、全部食べちゃってんだもん」

 「早く二人仲良く行ってらっしゃいよ...と思ったけど、そうだそうだ」

 素顔の姉を見て、いいことを思いつく妹。

 「千さま、カメラ貸して」

 「あ、はいはい」

 二人をリセット後干潟に並ばせて構える。

 「今日は櫻姉の素顔復活記念日。はい、撮るわよー。あぁ、咲き始めのお二人さん、ホラもっとくっついて!」

 「何? 咲き始めって?」

 「さぁ」

 一枚目は顔を見合わせるような感じになってしまったので、その後、何枚か追加で撮影。続いては、

 「じゃ、姉妹の写真も」

 川も風も空も、そして姉妹の瞳も、皆キラキラ光って見える。千歳はその光にクラクラしながらも何とかシャッターを押す。


 「サギに会ったら、よろしくね」

 「D’accord, Bonne journée!」

 「A ce soir…」

 この姉妹、フランス語で会話したりすると、より美しく見える。


 「千歳さん? Comment ça va?」

 「え? Oui, merci…」

 「あぁ、そういう時は、Ça va bien, merci.かな」

 「サバですか」

 「そう、サバイバル会話です。どう?ってのを聞く時は、Ça va?でOK!」

 ゴミ袋四つを所定の場所に置きつつ、フランス語ワンポイントレッスンに興じている。やってる作業はお世辞にも洗練されたものとは言い難いが、会話の方はエレガントである。

 この後はいつもならカフェめし店、ただし今日に限っては千歳宅である。前カゴに容器包装プラの専用袋を載せ、櫻は自転車を押して歩く。至って身軽なのだが、とにかくノロノロ。横を徒歩(かちある)く千歳よりも遅いくらいだから相当なものである。

 「ねぇ、千歳さん、小松さんのことだけど」

 櫻は思い切って尋ねてみることにした。千歳は前のめりになって足を止める。

 「弥生ちゃんからちょっと聞いたんだ。彼女、お兄さんがいるんですって?」

 干潟での一件を訊かれると思い、ヒヤリとしたが、この質問も十分冷や汗ものである。

 「僕も文花さんから聞きました。で、さっき本人からも」

 「なーんかありそうね。推理してもいいんだけど、差し支えなければ教えてくれませんか?」

 櫻は南実、その兄、そして千歳の三者の間に何かある、というところまでは察しはついていたが、問い詰めたところで、千歳が喜ぶでもないだろうし、むしろ気を悪くすると承知していたので、質問形式に転じることにした。そして、それが幸いした。

 「え、そんなことって...」

 「当人はシリアスでもないって言ってたけど、どうしてどうして、なんですよ」

 「彼女、ズバッと来る時と、慎ましい時とあって、陰陽って言うのかな、そういうとこ感じてたんだけど、そのせいだったの、かしら」

 「何て云うか、本当は切ないのに、それを隠すように振る舞ってる、そんな風に思うと、こっちもちょっとね。今まで通り、顔を合わせて、話をして、それでいい、って、そんな言い方してたけど...」

 「私、ちょっとヤキモキしてたんだ。恋愛感情じゃないなとは思ってたけど、千歳さんとられちゃうんじゃないかって、一時はマジで気がかりでした。だから今日もビシって、ね。でも、そういうことならなぁ。ちと度が過ぎちゃった。あーぁ」

 櫻は親展封書のことはもう聞かなかった。その代わり、

 「てことはぁ、小松さんと千歳さんて、顔似てるってことじゃん」

 「そ、そうなの、かな?」

 推理という程でもないかも知れないが、これは当の二人ですら思いも寄らなかったことである。さすが、と言うしかないが、櫻は何食わぬ顔。

 「モテ系だもんね、いいんじゃない?」

 急に自分の顔が気になる千歳なのであった。


 駅前のベーカリーで、午後一の焼き立てから少々時間が経った惣菜パンなんかを買い込んで、彼の宅へ。珈琲片手にゆっくり、と行きたいところだが、ソングライターさんはハイペースである。

 「じゃ櫻さん、今日は例の二曲目。あとで一丁お願いしますね」

 「あの曲やっぱり難しいんですけど...」

 「業平氏とやりとりして、何パターンか用意してみましたので。Ça va?」

 「う、Oui, monsieur.」(苦笑)

 これが二人にとっての芸術の、音楽の秋。夕方には櫻versionが業平のもとに届くことになる。めでたしめでたし?

 「いいんだ、来週はちゃーんと甘えさせてもらうから」

 「そうそう櫻さん、この廃プラ、そっちで出してもらえるとありがたいんだけど。これでも減量努力したつもり」

 「まぁ、彼女よりも先に甘えちゃってぇ。そんなにちゃんと出したいなら、時にはウチに来なさいよ」

 素顔の櫻は、どこまでも強気である。次に二人が会うのは十日の土曜日。どうなりますやら...

 

【参考情報】 2007.11.4の漂着ゴミ / フランス語 小会話


11.11

十一月の巻(おまけ)

41. "11.11"


 矢ノ倉事務局長の采配で、法人役員の選考プロセスは着々と進んでいて、十月第四週には公募開始、その二週間後が締切、第二土曜日は掃部(かもん)先生の定期顔合せ日になったので、十日に一次選考と相成った。論文審査には、先生を筆頭に、文花、千歳、もう一人のレポート合格者の四人。残念ながら合格とならなかった、これまでの役員(世話人)の何人かは、合格者のレポートや、先生書き下ろしの模範論文などを見て気が引けたか、公募に応じることはなかった。地域振興の系譜で世話好きの方々に集まってもらっていた世話人会だったが、これで事実上の解散となる。年内いっぱいはまだお世話になるが、十二月からは法人シフトも並行する。意思決定等、徐々に理事会に移行していこう、という目算である。

 十七日は、業平が来る。その際、役員就任に必要な書類等を再度確認する予定。これは翌週の二次選考が済んだら、すぐにでも所定の手続きに入った方がいいだろう、という文花なりの読みに基づく段取り。その二次選考日は、祝日の翌日に当たる。一次合格者はプレゼン等の最終準備など念入りにできる訳で、こうした配慮も文花流。なかなかの日程配分で結構ではあるのだが、櫻の言う通り、しばらくいそがしくなりそう、な十一月である。石島課長の話を聞く会開催はいつになるやら。言うだけ言ってみた感じの櫻に対し、むしろ乗り気な文花だった。

 「あら、ちょうどいいわよ。新しい理事さん達にも入ってもらえれば、プレゼンとかで頭使った延長でいい意見も出てきそうだし。十二月一日でどう? で、翌日はクリーンアップ&現場視察。現場志向イベントのトライアル、ってね」


 「ということで、一日だったら、千歳さんも出勤日だからちょうどいいでしょ? 先生も大丈夫だって言ってたし」

 「開催案内って、明後日には出すんですよね」

 「当の石島トーチャンは先週中に調整とれましたしね。開催案内と要請文書が同時になりそうだけど、ま、大丈夫かと」

 十一月十一日、十一時発の送迎バスの車中で合流した二人は、デートだってのに、この通り仕事の話中。気が付くと、もう商業施設に着いている。

 「あ、一並びの瞬間、見損なっちゃった」

 「まぁ、2001年じゃないんだし、それほどのことは」

 「01.11.11 11:11 11秒... 1が十一って。ハハ」

 「今日はちなみに、細長いものの日。棒状のスナック、もやし、煙突...」

 「ま、1が四つ並べばそう見えなくはないけど、煙突四本ってのもね。あぁ、例のお化け煙突か。でも、煙突の日って何するの?」

 スーパー店内はその○○の日にちなんで、逞しくやっているだろうけど、そういうのは後回し。今日はまずシネマコンプレックスである。ネットで事前予約すれば話は早いのだが、招待券を持っているばかりに、席の予約は劇場で当日、となる。

 「帰りのバスに何とか間に合う。十五時半の回で、と。席はここね」

 「先月に続き、今回もご招待扱いで。毎度ありがとうございます」

 「へへ、これね、共通券だから他にもいろいろ観れたんだけど。とっといてよかった」

 大衆娯楽系とか、お涙頂戴系とかも鑑賞できる券だったが、櫻が選んだのは昭和三十四年を舞台にしたあの名作映画である。本日のメインイベント、映画鑑賞会は後ほど。


 混雑する前にランチにしよう、ということで、二人が入ったのは屋内イベント広場に面するシーフードレストラン。「あ、この店...」 花の日に、当日お誕生日のあの女性と来た曰(いわ)く付きの店である。まごつく千歳だったが、悟られてはいけない。

 「どったの? 千歳さん」

 「今日って、鮭の日にチーズの日? それで、サーモン増量のクリームソースパスタにチーズたっぷりで召し上がれって?」

 「ホリデーランチセットで1,100円? ハハハ」

 11.11限定メニューのおかげで、ボロが出なくて済んだ。ところで、チーズの日は歴史的由来がありそうだからいいのだが、鮭ってのはまた何で?

 「ホラ、土って十と一でできてるでしょ。それが二つ重なってるから、11.11。圭の字を当て込んだだけだと思う」

 「そしたら、桂の日、蛙の日も良さそだね」

 「あーら、崖だって畦だって、あとは何たって街でしょ」

 「へへぇ、おそりいりました」

 「ご褒美にちょっと頂戴」

 櫻は鮭の限定メニューをクルクルやっていたが、千歳の皿をちゃっかり隣に置くと、そっちをクルクルやり始めた。八月の時とは若干内容が変わっている。その桜エビの和風パスタに載っているのは、もやし、大葉、メカブ等々。今日はもやしの日だが、あいにく増量にはなっていない。その分、セットで900円とお手頃。

 「しかしまた、健康的というか、お手軽メニューなことで。あとでお腹空いても知らないから」

 「桜エビ、好きなんですよ」

 「フーン、桜エビねぇ。本当はさくらがつく誰かさんを食べちゃいたいんじゃないの?」

 「う...」

 メカブのネバネバが発声を遮っているのは確かだが、正直なところ二の句が出ない彼氏である。眼鏡をかけなくなった櫻は、小悪魔ぶりにさらに磨きがかかったような気がする。

 窓側の席なので、広場のデコレーションが目に入る。食事を終えてやっとこさ、恋仲風の会話になってくる。

 「ありゃりゃ、もうクリスマスの飾りが付いてる」

 「てことは、夜は夜でイルミネーション?」

 「十一月からこれが始まるようになって、一年が早くなった気がする。それとも単に年のせいかしら?」

 「何を仰いますやら。お若いのに」

 「冗談ヌキでね、今年は特にそう思うの。多分目の前にいる人のせいね」

 「へ? 僕そんなに櫻さんの時間とっちゃいました?」

 「そうねぇ、鍵盤に向かわせっ放しとかね。フフ」

 彼氏をからかうのは愉快である。だが、それじゃいつもと同じ。7.7 9.9に続く展開をここらで軽く入れておかないと。

 「あ、それだけ充実してたってことですよ。感謝してます。千歳さま」

 頬が桜エビみたいな色になっているのは気のせいか。「それは僕も同じ。Merci beaucoup. 櫻姫」

 ここで姫様は予定通り、甘えちゃう作戦に入る。

 「ところで千歳さん、十二月二十四日は、誰と過ごされるんですか?」

 「今、目の前にいらっしゃる美しい方と、過ごせたらいいなぁって」

 「そう... どうしよっかなぁ。まだ先だしな」

 ついついからかいたくなってしまうのは何故なんだろう。おかげで彼氏はもやしみたいになってしまった。ヤレヤレ。

 「二人とももともと休みだしね。振替休日ってのが面白くないけど、まぁ、ありきたりじゃないとこ行きましょ♪」

 セットのドリンクはバイキングスタイルなので、その気になれば上映時間前までいられる訳だが、一時過ぎには店を出る。じっとしていられないのはお二人の共通点。

 「では今日も調査しますか? 隅田クン」

 「ハイ、先輩...って、僕はアシスタントですかっ」

 「相棒かしら、ね... あ、いいもん見っけ!」

 スーパーでは、チーズと細長いスナック菓子に関してはコーナーが特設されていたが、七五三が近いとあらば、これに力を入れるのが本道だろう。

 「千歳飴だ、キャハハ」

 「櫻さん、あのねぇ」

 「貴君が飴嫌いな理由ってこれでしょ? さんざからかわれたってヤツ」

 「齧(かじ)ってたら歯がとれちゃったってのもあります」

 この場にいると、千と櫻の何とかショーになりそうだったので、エスカレーターで三階へ急ぐことにした。「て、千歳飴も細長いじゃん。今日記念日だぁ。ハハハ、ハ、笑えるぅ」

 お茶目な姫様の相手は大変である。


 「はいはい、櫻姫、着きましたよ」

 「ここどこ?」

 「先週撮った写真、今からお出ししますから」

 「あ、見せて見せて」

 蒼葉に撮ってもらったツーショット写真、千歳が撮った姉妹の写真、どっちもよく撮れている。

 「よかったわねぇ、千歳さん。手帳に入れる写真増えて」

 七月一日の四姉妹の写真、七夕に撮った「ヨシと織姫」、九月九日、六月君に撮ってもらった一枚、十月の回の集合写真、千歳のセンター出勤初日の記念写真... 手帳の脇にはすでに五枚のフォトプリントが挟んであるが、とっておきの一枚が今回加わり、新たに見開きを飾ることになる。

 「これはこれで貴重だけど、櫻さんのポートレートに勝るものなし、かな」

 「なぁーんだ、千歳さんも結局、私の顔に惚れちゃったってか。要するに見た目主義?」

 「櫻さんはね、心がまず美しいから、それがお顔に表れて益々...」

 今日も素直な彼氏は、ちゃっかりとボーナスポイントを稼ぐことになる。いいものが待っている十万点まではあと十日だったが、縮まる可能性がこれで出てきた。


 まだ時間はあるので、打上げ時にお世話になったカラオケ店に行くという選択肢もあったが、文系、いやカルチャー系の二人は、本、CD/DVD、楽器の各店舗を巡っていれば事足りる。かれこれ三時近く。彼氏はここでふと、あることに気付く。

 「櫻さん、洋服とか小物とか、そういうのは?」

 「はぁ、千住さん家(ち)はファッションコーディネーターがちゃんとついてまして、ご存じの通り、お上がりなんかもいただけるもんですから、こういうとこでは別に。それとも、おねだりすると買ってもらえるとか? 悪いなぁ」

 迂闊な質問をしてしまったものである。だが、

 「私ね、衣食住よりは、住食衣って感じだから、どうぞご心配なく。こんな服がいいとか、もしお好みがあればそれだけ教えてくだされば。蒼葉を通じて入手しますんで」

 衣料品売場では、通販カタログと同じものを扱っているため、カタログに載っているものから指定する、という手もある。

 「あの子、出てたっけかな?」

 「あ、これ!」

 「ハハ、テーラードジャケット、タックフレアスカート、で編み上げのショートブーツかぁ、やるなぁ」

 「これって、そのまま櫻さんにも当てはまるんじゃ?」

 「ま、姉妹ですからね」

 店頭で同じものを見つけるも、櫻曰く、

 「ここで試着しちゃ、つまんないもんね。いつになるかわかんないけど、どっかでお披露目します。ひとつお楽しみに」

 千歳は、櫻も十分モデルとして通用するのでは?なんて考えてもみたが、モデルであれ何であれ、まずは彼だけの櫻さんであってほしい、という想いが占めている。

 「さ、櫻さん...」

 「ん?」

 「いえ、何でも」

 「あ、そろそろ行きますか」

 何を言おうとしたのか、少々気になる櫻だったが、作戦が上々であることを確信していたので、あえて尋ねなかった。

 「千歳さんもブレーキ解除になってきたかな、フフ」 その通りである。


 空模様が冴えない日は映画に限る。

 「で、千歳さん、前作はどなたと?」

 「一人で観て泣いてました」

 「おぉ、それはそれは。今日も泣いちゃったりする?」

 「さぁ、櫻さんと映画に来れたってだけで、すでに涙モノですが...」

 冗句のようにも聞こえるが、偽らざるところ。今やすっかり口達者になっている。

 続編は続編で見せ場はあった。多少展開が読めてしまうところが引っかかるも、純粋にその世界に浸っている間は、心動かされること大。

 「夕日が目に沁(し)みるって、さ」

 「ハハ、レンズ外れそうになっちゃった。こういう映画は眼鏡じゃないとダメねぇ」

 大笑いしたり大泣きしたり、浮き沈みというより哀楽が激しい本日の櫻である。素顔になった分、ありのままが出るようになった、というのも考えられるが、千歳の前ではそれが尚更。感情を素直に出せるようになっていた、という訳である。


 立冬を過ぎただけあって、暗くなると肌寒い時節である。映画のように夕日が出ていれば劇的だったんだろうけど、すでに日没後。クリスマス向けの屋外イルミネーションもどこか寒々しい。送迎バスを外で待っている間、櫻は手をこすり合わせる。ジャンパースカートにステンカラーコート、ちょっと軽装だったか。

 「パーカーとか着て来ればよかったかなぁ」

 「寒い? 平気?」

 「櫻さんは春女だから、ちと弱いかも。千歳さんは秋男...あっ」

 11.11は千歳が仕掛ける番だったようだ。バス待ち最後尾で、人目に付かないのをいいことに、彼は彼女の手をとる。そして離す。次の瞬間、気が付いたら抱き寄せてしまっていた、というくだり。

 「ありがとう...」

 櫻の眸(ひとみ)には熱いものが溢れんばかりになっていた。だが、ここでこらえないとレンズがまたどうかなってしまいそう。僅か数秒のシーンだったが、眼を閉じていた櫻には、数十秒にも数分にも感じられるのであった。季節外れの遠雷の音が、聴こえる。


 鮭でも街でもない。十一月十一日は、二人にとっては「佳(よろし)」き日、ただそれだけである。

 

【参考情報】 十一月十一日 / 「夕日が目に沁みる」



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