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 少年のころ、養い親にあたるその人と、二人で旅をしていた。
 背が高く、痩せぎすで、穏やかに話す人だった。緑の瞳をいつも遠い地平に投げかけて、無心に彼方を見通そうとするような、まっすぐなまなざしをしていた。
 私たちはたいていの場合、歩いて旅をした。馬や四ツ脚鳥に乗ることもあったが、いずれも稀だった。疲れから私の歩みが遅れだすと、養父はかならず気付いて、何も言わずに歩調を緩めた。勘の鋭い人で、私が何か具合を悪くすれば、私自身よりも先に、養父のほうがそれと察した。気分が悪いのかいと訊かれてから、自分が熱を出しているのを知るようなことが、度々あった。
 それよりも前に暮らしていた場所のことは、あまりよく覚えていない。眠りに落ちる間際に、きれぎれの記憶がふと浮かび上がることもあるのだが、どの場面も朧で、ときどき何もかも、遠い夢の中の出来事だったような気さえする。
 確かなのは、いつも雨の降っている土地だったこと、岩屋の中で暮らしていたこと、それから姉がいたこと。
 父母の顔はわからない。ものごころつく前に逝ってしまったのだと思う。旅立ちの日の朝、母代りだった姉が、何も言わずにきつく抱きしめてくれたこと、その腕が雨に濡れて、ひどく冷たくなっていたこと。その感触ばかりが、やけにくっきりと記憶に刻まれている。
 その後はずっと、養父に連れられて、さまざまな土地を巡った。
 自分たちが何のために旅を続けているのか、疑問に思うようになったのは、いつ頃からだっただろう。はじめのうちは新しい暮らしに夢中で、なぜということを考える暇がなかった。はじめて知るものごとを見聞きするのはいつでも面白かったし、道行くにつれて移り変わる風景の中を、養父とふたり、他愛ない話をしながら歩くのは楽しかった。
 ふつうの人は自分の生まれた土地で一生を過ごすのだということを、あらためて意識したのは、ずいぶんと経ってからのことだった。土地を持つとか、家を建てるとか、そういうことが、子どものころの私にはよくわかっていなかった。
 そういう世間のありようをようやく意識するようになったころ、私は自分たちの一風変わった暮らしに、疑問を抱きはじめた。
 ――どうして旅をするの?
 何度となく尋ねてはみたが、養父の口からはなかなか要領を得た返答が返ってこなかった。そのかわり、彼はいつも同じことを訊き返してきた。
 ――旅が、辛くなったかい?
 その問いかけに、私はいそいで首を振った。養父との旅がいやになったわけでは、けしてなかった。たまさか訪れた町で親しくなった人がいるときなどには、またいずれ旅立たなくてはならないことが、寂しく思えるような日もあったが……
 いつしか私は、次第にその疑問を口に出さなくなっていった。養父が私のために、落ち着ける土地を探すようなそぶりが見られたからだ。彼は具体的なことは何も言わなかったが、置いてゆかれるのではないかという不安が、私の口をつぐませた。


 ひとつの土地で、およそひと月からふた月ほどの日々を過ごした。ときにはもう少し長く留まることもあった。土地の人々の反応はさまざまで、物珍しさから歓迎されることもあれば、不安と警戒のまなざしを向けられることもあった。
 日銭を稼ぐために日雇い仕事を請け負うこともあったし、土地柄によっては、養父が遠い異国のできごとを人々の前で語り聞かせるだけで、寝床や食べ物を分け与えられるときもあった。とても食べ切れないほどの豪勢な食事を気前よくふるまわれることもあれば、ほんのひときれのパンを得るのに、たいそう苦労することもあった。対価があろうが、なかろうが、養父はすすんで人々に遠い土地の話を語った。
 人々の話す言葉は、土地によって少しずつ違っていた。地方ごとにほんの少し訛りが異なるだけのことも多かったが、ときには河一つ渡っただけで、がらりと違う言葉が使われているような場合もあった。ある土地ではどしゃぶりの雨をあらわす言葉が、隣の土地ではお調子者という意味になったりした。そういう国ざかいを越えるたびに、養父は私にその土地の言葉を教えた。
 私はものを覚えるということに関して、どうにも要領の悪い子どもだった。養父は根気づよい人で、私が何度同じことを尋ねても、けして苛立つことなくくりかえし教えてくれたのだが、それでも私のほうで、自分の覚えの悪さに辟易してしまった。
 どうせいずれまたその土地を離れるのなら、わざわざ苦労して言葉を覚えることもないのではないか。いつしか私はふてくされて、そんなふうに考えるようになった。
 ある晩、街道わきで焚き火を囲んで野宿をしているときに、やはり新しい土地の言葉を教えようとする養父に向かって、反論してみたことがあった。苦労してこんなにたくさんの言葉を覚える必要が、いったいどこにあるのかと。
 いつも穏やかな養父の眼が、その一瞬、深い翳りを帯びた。
 私は急に怖くなった。養父を怒らせたと思ったのだ。だが彼は私の怯えたようすに気付くと、すぐに目元を和らげて、小さく首を振って見せた。
 ――お前に怒ったのではないよ。
 焚き火の炎に照り返されて、深い陰影のさした養父の顔を、私は注意深く観察した。たしかに彼は、腹を立ててはいないようだった。だがその瞳には、乾いた哀しみの色があった。
 やがて遠くを見るまなざしをして、養父は言った。
 ――同じ言葉を話せるということには、大きな意味があるのだよ。
 疲れたような、低く籠った声だった。私はそれ以上反論しなかったが、内心では疑問を感じていた。言葉が通じずとも、身ぶりや表情である程度の意思は交わせることを、それまでの旅の中で学んでいたからだ。
 私のその思いは、顔に出ていたのだろう。養父は焚き火に枯れ枝をくべながら、ゆっくりとその話を語り始めた。


  ※  ※  ※


 はるか西南の地に鳥たちの楽園があると聞いて、そこを目指したのは、人の言葉を話す鳥がいるという話を耳にはさんだからだった。
 私は若いころから、そうした不思議なものごとに、強く興味をひかれる性質だった。北に日の沈まない国があると聞けば北に行ったし、南に煮えたぎる大河があると聞けば、そちらを目指した。そうして向かった中にはとうとう辿りつけなかった土地もあったし、根も葉もないただの噂だったこともあったのだが、それでも私は懲りるということを知らなかった。
 鳥たちの楽園があるのは、湖沼地帯よりもさらに西、灼熱の大河の流域よりはやや北にあたる、広大な平地だ。暑い土地だった。周囲に山麓は見当たらず、ただ深い森と、点在する湖と、地の底に網の目のように張り巡らされた地下水脈とがあった。
 森の外には沃野と、いくつもの大小の町があり、近くを通る街道にはしばしば豊かな積み荷が行き交う、にぎやかな一帯だ。しかしひとたび森に足を踏み入れれば、そこは人知を超えた原初の森、人の世の理などなにひとつ通用しない、鳥と、獣たちと、深く生い茂る草木の世界が広がっていた。
 見上げても梢が視界に入らないような巨木が数え切れぬほどそびえ、それらの葉から透ける木漏れ日を浴びて、足元には地を這う灌木がみっしりと茂っていた。木々の枝には猿や、何か体の大きな四つ脚の獣が飛びかっていて、彼らの手の届かないはるかな高みの細い枝に、ひしめき合うようにして鳥たちが羽を休めていた。
 よくよくそのようすを眺めていれば、そこは鳥たちにとって、かならずしも楽園と言いきれるほどには、甘い世界とも思われなかった。森は豊かだが、それにしても鳥たちの姿は多すぎた。少なくとも、餌に事欠かぬということはなかっただろう。彼らの天敵にあたるだろう獣の数も多かった。
 だが全体に目をやれば、やはりそこは紛れもなく、鳥たちの王国なのだった。多彩な色の羽根と、さまざまな形のくちばしを持った、大小の鳥、鳥、鳥。地面だろうと枝の上だろうと、ところ構わずさまざまな形の巣が築きあげられ、彼らの鳴き声は、細い川の流れが寄り集まって大河になるように、うねりとなって森じゅうにとどろいていた。
 その中にいるという、人の言葉を話す鳥をひと目見ようと、私は酔狂にも森の奥深くへと足を踏み入れたのだった。


 まだ若かった私は、いま思いかえせば呆れるほど無鉄砲な真似もしばしばしたが、それでもさすがに見知らぬ森の奥深くに入ってゆくのに、ひとりきりというわけにはいかなかった。私は現地の青年を雇って、案内をしてもらうことにした。普段から森に入って狩りで生計を立てているという、当時の私とさして変わらぬ年頃の、若い猟師だった。
 森の中は木々の天蓋に陽射しのさえぎられる分、外の街道ほどには暑くなかったが、そのかわりに、むせかえるような湿気が体を押し包んだ。草いきれに混じって、常に甘い香りがしていた。朽ち葉が立てるにおいだ。口を開くたびにその甘くしめった空気の塊が喉に押し入って、胃の腑の底まで落ち込んでゆく気がした。
 案内人のあとに続いて、道なき森の道を踏みしめて歩くうちに、汗がとめどなく頬を伝って顎から落ちた。前を行く連れは慣れたようすで灌木を掻き分け、ときに山刀をふるって足元を拓いた。途中、一度は代わろうとして申し出たのだが、こつがあるのだろう、私のふるった刃はあえなく緑の蔓に圧し返されて、危なっかしく滑るばかりだった。
 森は人の世の理など通じない、獣と鳥と虫たちの世界だ。私はそのように聞かされていたし、実際に足を中に踏みいれたときにも、たしかに自分の肌で同じことを感じた。
 だが事実は、やや異なっているようだった。
 連れが行く手の草叢を払ってくれるのを待つあいだ、疲れに顎を押されるようにしてふと視線を上げた、そのときだった。私は藪の向こうに、青く光るふたつの眼を見た。
 とっさに悲鳴を上げると、連れが振り返って、訝しげに私を見た。けれどそのときには、藪の中の眼は、どこかへひっこんでしまっていた。何の気配もしなかった。まるで狩りをする獣がそうするように、物音ひとつ立てず、いなくなってしまったのだ。
 しかし私が見たものは、人のまなこに他ならなかった。私はたったいま目にしたものを、若き狩人に説明した。そして訊いた。この森に人は住んでいないということだったが、あれは嘘だったのかと。
 青年は鼻に皺を寄せて、首を振った。
 ――嘘ではない。この森の中に人間は、誰ひとりとして住んではいない。
 では、私が見たものは何だったのか。彼のような猟師のひとりだろうか。だがそれならば、私に見つかったからといって姿を隠す理由が、いったいどこにあるというのか?
 そうくってかかる私に向かって、青年は、噛んで含めるように言った。この森に、人は住んでいない。人に似たものがいるとすれば、それは魔物だと。
 ――魔物?
 聞きとがめて、私は詳しい説明を求めようとした。だが青年は首を振るばかりで、それ以上この話を続ける気はないようだった。


 人語を話すというその鳥は、人の背丈よりも高い枝にしかとまらないというので、必然的に、上を見上げながら不自然な姿勢で歩くことになる。そればかりでは首も腰も参ってしまうし、足元も危ういので、小刻みに立ち止まって、度々休みながら歩いた。そのたびに私は藪の深いところに視線を投げかけて、そこに潜んでいるかもしれない何者かを探ろうとした。
 森は深く、険しく、そして豊かだった。多くの生き物が、その中には棲んでいた。彼らの多くは藪や樹上にひそんで、おいそれと姿を見せようとはしなかったが、そこかしこで何かのひっそりと動く気配や、吠え声や、藪の鳴る音がひっきりなしに続いていた。頭上で甲高い叫びがしたと思って振り仰げば、何か四足の獣が枝から枝へと飛び移る、その残影だけが、かろうじて目の端を掠めて消え、遅れて色鮮やかな青い羽根が、一枚、ゆっくりと舞い落ちてきた。
 実りも多いようだった。樹上の果実を、案内人は難なく落としてみせ、ときおり私に放ってよこした。足元の草を手で引っこ抜き、土を払って根を齧ることもあった。
 青年はその生業のゆえか、ときおりすっと気配を消し、獲物を狙う目をした。だがいっときすると、今日は狩りをするために来たのではないと思い出したように、ふっと緊張を解いた。そのたびに彼は頭を掻いて、照れ笑いをした。そうやって白い歯を見せると、少年じみた顔つきになった。
 どれくらいの間、森の中を歩いただろうか。疲れた足と首とを休めるために、私たちは腰を下ろした。湧きでる泉のほとりだった。すぐそばに、特徴的なねじれた枝の樹がどっしりと生え、苔むした大きな岩がいくつも転がっていた。そのなかの一つに腰かけると、思いがけずひやりと冷たい感触がして、私は声を上げた。
 木々のざわめきと鳥たちの声とが、ひっきりなしに轟々とうねっているので、下手をすればすぐ近くで目当ての鳥が言葉を話していても、騒音にまぎれて気がつかないのではないかと、心配になるほどだった。だがそんな私の心配は、杞憂に終わった。
 頭上で短く、涼やかな声がした。
 何と言ったのか、明瞭には聞き取れなかったのだが、それは獣の鳴き声とはあきらかに一線を画した、たしかに人の話す声と聞こえた。それも、かすかに甘い響きのある、少女の声のように思われた。
 私たちははっとして顔を上げ、慌てて辺りを見渡したが、目にとまるところにそれらしき鳥の姿はなかった。私は立ち上がり、背にしていた樹を回り込んで、その向こうを見ようとした。
 忙しない羽ばたきが耳を打って、どこか近くの枝から、鳥の逃げてゆく気配がした。
 ――いまのが、そうか。
 ――そうだ。おそらく。
 連れは曖昧に言葉を濁した。言いきれないのは、内容をはっきりと聞き取れなかったためというよりも、あまりにも声が人間そっくりで、それが本当に鳥の発したものとは思い難かったためかもしれない。自分の眼で鳥が喋る瞬間を目の当たりでもしないかぎりは、本物の人間が話すのと区別がつかないほどだと、町の人々が話していた、まさにその通りだった。少なくとも私のほうでは、この時点ではまだ疑う気持ちがあった。声は頭上からしたように聞こえたが、あるいはそれも、座り込んでいたために起こった錯覚かもしれないではないか。
 ――誰かが鳥のふりをして、私たちをからかおうとしているかもしれない?
 私が訊くと、青年は首をすくめて鼻の頭に皺を寄せた。
 ――誰が何のために、そんな酔狂なことを? こんな森の奥深くまで、はるばるやってきて?
 青年はそういったが、私はもうひとつの可能性のほうを、頭の隅においていた。町の人間があとをつけてきたのではなく、もとよりここに住んでいる人間がいるのではないか。そして、その人々の声を、みなが鳥の声だと信じ込んでいるのではないか?
 けれど私はその考えを、この若き案内人には伝えなかった。この地域の人々にとって、人語を話すというその鳥は、特別なもののようだったからだ。
 言葉を話すというその鳥に関して、彼らの間では、さまざまな言い伝えが残されていた。いわく、さらわれて森に捨てられた子どもに道を教えて、町のそばまで導いた。いわく、人を殺して森に逃げ込んだ罪人を、その声で惑わせて高い崖から突き落とした。いわく、迷える領主に啓示を与え、町をあやうく戦火に巻き込まれる事態から救った……
 町によって細部の少しずつ違う、いくつもの逸話があった。人々はその鳥を神の遣いか、あるいは神そのもののように思っているらしかった。
 ただ好奇心からその姿をひと目見ようとしているだけの私のことも、彼らはどうやら、巡礼か何かと間違えているようで、敬虔な男だと感心されている向きさえあった。ばつの悪い思いをしながらも、私はその誤解をあえて解かないまま、この森まで来てしまったのだった。
 ――あちらへいったようだったが。
 私が羽音の遠ざかっていった方角を指さすと、案内人はなぜだか、迷う目をした。それから何度か唇を湿すように舐めて、青年は言った。
 ――今日はこのあたりで、もう切り上げないか。
 唐突なその言葉に、私は首をかしげた。さっきまではむしろ、彼のほうが積極的に鳥の姿を探していたくらいだったというのに、どうしたわけか、青年の表情は緊張にこわばっているように見えた。木々に遮られてしかとは見定めがたいが、まだ日は高いはずだった。せっかくここまで近づいたのだからという気持ちもあった。
 私がそう言うと、青年はまだ少し躊躇う顔つきをしながらも、結局はうなずいた。私たちは腰を上げて、泉をあとにした。


 四方から響く鳥たちの鳴き声や羽ばたきは、木々の鳴る音と重なり混じり合い、耳を聾するほどに激しく押し寄せていたけれど、その強弱にも波があった。彼らの立てる物音がふいにいくらか弱まった、その拍子に、私はその物音を聞いた。
 人の足が、枯れ枝を踏み折る音に聞こえた。
 緊張感が走った。私はとっさに、前をゆく青年の足元を見た。だがそこには、枯れ枝などなかった。
 ――ほかの猟師が?
 ――いや、いまの音は違う。
 青年はきっぱりと言い切った。それから警戒するように、周囲を素早く見渡した。
 ――なぜだ。月夜でもないというのに。
 不可解なつぶやきが、案内人の口からこぼれた。私の怪訝な表情に気がついたのだろう、彼はかぶりを振って、やってきた方角を腕で示した。
 ――やはり、今日はもう戻ろう。いやな感じがする。
 ――さっきの音と、何か関わりが?
 ――そうだ。案内料は半分返す。何なら日を改めてまたやってくればいい。
 何がなんだかわからなかったが、ともかく私は黙ってうなずいた。その土地に住むものにしかわからない種類の危険というものがある。そうした現地の人の言葉に耳を貸さないことの愚かさを、私はすでに知っていた。説明ならあとでゆっくり聞けばいい。私は素直に踵を返して、引き返そうとした。
 だが、遅かったのだ。
 鋭く風を切る音がした。
 私ははじめ、連れの青年が何かを射たのだと思った。狩りに来たわけではないのだが、彼はこの日も弓を背負ってきていた。小ぶりだが、しっかりとした作りの、頑丈そうな弓だ。危険に備えてのことだと口では言っていたが、それよりもむしろ、あわよくば案内ついでに何か手ごろな獲物があれば獲って帰ろうというつもりではないかと、私は感じていた。その弓で、彼が何かを射たのだと、とっさにそう思ったのだ。
 まだ事態を呑み込めずにいる私の耳に、空気の漏れるような、どこか間のぬけた音が飛び込んできた。どさりと重い音がそのあとに続いた。ようやく私が振り向いたときには、若き狩人はすでに、地に倒れ伏していた。そのうなじのところに、短く太い矢が生えているのを、私は見た。
 状況を理解するよりも早く、肩に衝撃が走った。
 悲鳴を上げたつもりだった。それが連れのむごい姿を見たためだったのか、自らの痛みに対する反応だったのか、自分でもよくわからない。どちらにせよ、その声は悲鳴というにはあまりにも貧相な、弱々しく掠れたうめき声にしかならなかった。
 とっさに逃げようとした足がもつれ、膝がくだけた。その私の視線のすぐ先に、案内人の突っ伏した頭があった。
 その横顔は、目を見開いたまま唇を震わせていた。赤黒い血があふれ、朽ち葉をじわりと濡らしてゆくのが見えた。
 左肩が熱を持って痺れ、脈打つように軋んでいた。目の前が暗くなりかかった。だが気を失うほとんど寸前で、かろうじて私は踏みとどまった。自らを襲う危険の正体をせめて見定めようと、どうにか視線を青年から引き剥がして、首を持ち上げた。
 少女がひとり、そこにたたずんでいた。
 ほっそりとした、象牙いろの肌の少女だった。その手の構える弓を目にしてさえ、私は自分の見ているものの意味を、いっとき理解できなかった。簡素で武骨なつくりの弓は、少女の細い腕に、あまりにも不釣り合いだった。
 木々の天蓋から斜めに零れ落ちる午後の日差しが、少女の姿をまだらに染め分けていた。少女は無表情に近寄ってきて、私からは手の届かない位置で足を止めた。そうして、小さく首をかしげた。
 その仕草には、あどけないといってもいいような無邪気さがあった。実際に少女はまだ年若かったが、私の眼にそれは、無垢な子どもの幼さというよりも、獣の無心さと映った。一切の欲得やしがらみのない場所にしか存在しない、無関心な注視。
 目の前にいる少女の姿をしたものが、精霊か、そうでなければ悪霊(ジン)の作りだした幻ではないかと思った。連れが先刻口にした魔物という言葉が、私の頭をかすめた。
 少女が手にしていた弓を、慣れた手つきで肩の高さに持ち上げるのを見て、私はやっと気がついた。彼女は確実に私を殺すために――間違いなく急所を射ることのできる位置まで、近寄ってきたのだ。
 私はそのとき、命乞いをすることも忘れて、呆けたように座り込んでいた。少女の立ち姿の凛とした美しさが、現実感を削いでいた。背筋のすっと伸びた、何の力みもない構えだった。このまま、ほんの数秒後には自分があの矢に貫かれて死ぬのだろうということを、私は実感していなかった。ただ息を詰めて、少女に見とれていた。
 そのとき頭上の梢が揺れ、羽音が響いた。
 あざやかな赤色をした羽根が一枚、私と少女のあいだにひらひらと舞い落ちた。少女は刹那、ひどく焦ったような顔になって、頭上を振り仰いだ。
 ――オ前、オ腹ガスイテルノ。
 枝の上で、鳥が喋った。
 それは涼しげな、少女めいた声だった。声はたしかに樹上から響いたのだが、それでも目の前の少女が喋ったのではないかと思いたくなるような、人間そっくりの話し声だった。
 だがそれよりも、私は別のことに気を取られていた。
 その言葉は、このあたりの地方で使われている言語ではなかったのだ。それどころか、いまでは使うものもほとんどいない、失われたはずの言葉だった。
 驚愕する私に気付くようすもなく、少女は舌打ちをして、つがえた矢の先を、頭上の枝に向けようとした。それからわずかに迷うような顔をして、あらためて私のほうを射殺そうと、弓を構えなおした。そこでようやく呪縛から解き放たれて、私は叫んだ。
 ――待ってくれ。
 それは長く口に出したことのない、祖国の言葉だった。
 樹上の鳥が話したのと同じ、失われた国の言葉だ。少女が鋭く息をのんだ。その眼が、信じられないものを見るように、私を凝視した。
 私は慌てて言葉を継いだ。
 ――殺さないでくれ。話をさせてほしい……
 少女は驚きを困惑に変えて、まじまじと私を見下ろした。その表情には、もうあの獣のような無心さは残っていなかった。
 その顔に浮かんだ躊躇の色が、決心にかわるまで、私は見定めることができなかった。助かるかもしれないという希望が芽生えた途端、気が緩んだのだろう、再び視界が暗くなりはじめたのだ。
 肩はじっとりと重く濡れ、熱く痺れていた。脈打つような痛みがすっと遠のき、水底に沈み込むようにして、私は意識を手放した。


 夢の中で、父と炉辺の火を囲んでいた。
 故郷の村は寒いところで、霧の出た夜などには、よく家の中でも炉に火を入れた。その熱で湯を沸かし、山草を炒って煎じた茶で体を温めながら、父の語る昔話を聞いていた。
 父の膝では、まだ幼い弟が眠気を催してうつらうつらと首を揺らし始めていた。父は体の前で大きな手を組んでその体を支えてやりながら、静かな声音で、古い話を語った。
 母と出会って村に落ち着く前、父は世界中を放浪していたから、そのころに訪れた様々な土地の話を、よく私たちに語って聞かせた。だがその夜の話は、父自身が見聞きしたもののことではなく、もっと古い、遠い昔の祖先の話だった。かつて攻め滅ぼされた小国の話。
 母は父がそうした話をするのを嫌がっていた。このときの夢の中でも、少し離れたところで針仕事をしながら、ときおり咎めるような目を、父の口元のあたりに向けた。父もそれを承知で、何度か母のほうをちらりと見ては、済まなさそうな顔をするのだが、それでも語りやむことはせずに、淡々と話し続けた。王の代わりに巫女を戴き、家畜を飼って畑を耕しながら穏やかに暮らしていた、小さな国の人々の話。巫女の不可思議な力を恐れて、あきれるほどの軍勢をさしむけ、ひとり残さず殺せと命じた隣国の王と、その手からかろうじて逃げおおせた、わずかな人々の話……
 長い、長い話だった。やがて炉辺の炭が灰に変わり、夜が更けても、まだ物語は終わらなかった。弟はすっかり眠りこんでしまい、その背を父の大きな手が語りの調子にあわせて優しく撫でた。
 私の意識はいつしか家族と囲む炉辺を離れ、父の語る物語の中へ滑り込んでいった。
 夜闇に紛れて、ひっそりと足早に歩く人々の群れ。足元は悪く、ときおり誰かが躓いては、周りの者に支えられてまた歩き出す。幼子がわけもわからず怯えて母を呼び、シッと諌められてその口をふさがれる。言葉は禁じられ、誰も口をきかないまま、闇夜のなかをただ歩いている。話し声を見張りの兵士たちに聞き咎められれば、捕えられ、殺されるかもしれない。誰も口に出さない不安が、静かに、深く人々の群れを満たしている。
 誰かが声を殺して啜り泣き、またシッと咎める気配が続く。夜が明ければどうなるのか。逃げてゆく先のあてなどなく、ただ恐怖に追われて、闇雲に歩き続けるだけの旅路。その先に何が待っているのか、誰も知らない……
 目が覚めた。
 ずいぶんと昔の夢を見たものだと、はっきりしない頭で私は考えた。腹がひどく減って、喉も乾ききり、熱を持ってひりついていた。
 肩が重く痺れるように痛んだ。自分のいる場所がわからずに、私は何度も目を瞬いた。見渡せばそこは屋内で、木の枝を何か蔓のようなもので細かく編んだ壁があり、その隙間から、外の光が漏れ入っていた。壁の高い位置では、ところどころに複雑な編み目が拵えられて、小さな窓を形作っている。天井には梁が通され、そこに大きな肉厚の葉をしきつめて、屋根を葺いてあるようだった。
 私は床の上に転がされていた。いや、正確には干し草を編んだものが体の下に敷かれていたから、寝かされていたというのが正しいのだろう。粗略な扱いを受けているというよりは、おそらくこの家の住民も、普段からそうした簡素な寝床を使っているのだろうと思われた。
 昨夜の出来事がふいに生々しくよみがえった。
 ぶるりと身震いをして、私は体を縮こまらせた。ただの一矢であっけなく殺された若い狩人の、見開かれた眼が、いやになるほどあざやかにまぶたの裏に浮かんだ。あれも夢であってくれたなら。そう思わずにはいられなかった。
 震えてから気がついたのだが、どうやら熱が出ているようだった。寝汗をかいたらしく、体が冷たく湿っていた。それでも、見れば手当のあとらしく、肩には包帯のようなものが巻かれていたし、少なくとも何の拘束も受けてはいなかった。
 私は半身を起し、それと同時に、床板のきしむのを聞いた。
 見れば部屋の入り口には、撚った縄をたくさん垂らして、扉代わりにしてあった。それを掻き分けるようにして、二人の人物が入ってきた。
 ひとりは中年の男で、黒い髪と、深い緑の瞳とを持っていた。背は低いががっしりした体つきで、南方ではあまり見かけない色のうすい肌には、深くけわしい皺が刻まれていた。
 もうひとりは小柄な娘だった。昨日の少女といま目の前にいる娘が、同じ人物だと気付くのに、時間がかかった。明るい場所であらためて見れば、まだ子供といっていいような年ごろだった。こんな少女が、あんなふうにあっさりと人を射殺してみせたということが、私の気分をひどく沈ませた。
 男のほうは警戒の色濃い目で、じっと私を見おろしていた。その腰に、短い槍のようなものが差されているのを、私は見た。
 二人とも離れて立ったまま、なかなか口を開こうとしなかった。じきに私のほうで沈黙に耐えかねて、迷い迷い唇を湿した。何から言うべきか、決めるのは容易いことではなかった。私は彼らのことを知らなかった。下手なことをして怒らせれば、すぐさま殺されるのではないかという恐怖が、腹の底に張り付いていた。
 ひりつく喉に何度か唾を流し込んでから、私は口を開いた。
 ――手当をありがとうございました。
 自分に怪我を負わせた張本人たちに向かって礼を言うのも、間の抜けた話ではあったが、そのときにはそんなことを考える余裕もなかった。私の話すのを聞いた男は、ぴくりと眉を跳ね上げて、隣の少女のほうを見た。
 ――なるほど、お前の言うとおり、この男は言葉を話すようだ。
 それはやはり、失われた故国の言葉だった。強い訛りがあって、私が父から教わったものとは抑揚も語彙も少しずつ違っていたが、それも十分に理解できる範疇だった。男は私のほうへ向きなおり、
 ――それで、お前は、何者だ。
 するどい語調で、そう詰問した。その漠然とした問いかけにどう答えたものか、私は悩んだ。
 ――旅の者です。もとは北方の出ですが……
 男は怪訝そうに眉根を寄せた。訛りのせいで言葉が通じていないのかと、私は焦って言葉を足そうとしたが、男はそれを待たず、気短なようすで質問を変えた。
 ――森の外の連中とは、違うのか。
 私は慌ててうなずいた。その問いを言葉通りにとらえるなら、私もこの森の外からやってきた人間に違いなかったが、男の言いたいのはそういうことではないだろう。この森の外に暮らす町の人々を、どうやら彼らはひどく敵視しているらしい。だから、姿を見るなり射殺した。
 ――なぜ、我々の言葉を話せるのか。
 男はいまだ、警戒をとかぬ様子で私を問いただした。なぜとは、こちらが逆に問いかけたいくらいだったが、彼らを刺激するつもりにはなれなかった。私は素直に答えた。
 ――父の一族の言葉です。
 父はもともと放浪の一族だった。たまたま訪れた村で、母といい仲になり、そのまま居つくことを選んだのだ。
 だから私にとってその言葉は、話し慣れたものというわけではなかった。父は私にその言葉を教えたが、子どもの頃に常として使っていたのは、母の村の言葉のほうだ。
 使い慣れない古い言葉を、苦労して記憶の中から引っ張り出しながら、なんとか男の警戒を解こうと説明するうちに、思い当たることがあった。
 父の一族は、滅びた国の民だ。かつて祖国が攻め滅ぼされたとき、多くの者は殺され、わずかに生き延びた人々は散り散りになった。彼らの一部は父がそうしたように、他国の人々のあいだに紛れて暮らすことを選び、残りの人々の多くは、いまも世界中をさすらっている。
 祖国が滅びたのは、はるか遠い昔の話だ。それは何代も前の祖先から、口伝えにひっそりと語り継がれてきた物語、一族の者を除いては、誰からも忘れ去られてしまったような、遠い過去の話だった。
 かつて故国のあったという正確な場所さえ、私は知らない。知る人はもはやほとんどいないだろう。それでも旅先で行き会った相手が同胞とわかれば助け合う。その符牒がこの言葉だった。失われた国の、忘れられた言葉。
 長いあいだにわたって各地を転々とするうちに血は混じり、容貌だけを頼りに同族を見分けることは、もはや難しくなっている。血ではなく、この言葉を使う者こそが同胞なのだと、かつて父は私に教えた。肉体を流れる血ではなく、語り継がれる言葉と物語の血脈こそが、一族の証だと。
 このときの私にはまだ、旅先で同胞と行きあった経験はなかった。故国のことをすでに忘れ、かつて自分が滅ぼされた国の民だったことを知らずに暮らしている者も、いまでは多いはずだ。中には行き会っても、同胞と知らずにすれ違った人もいたのかもしれなかった。
 父の語ったところによれば、彼らの中には、一人きりでさすらうものもいれば、家族で旅する者もいるという。行商を生業にする者も、旅芸人として歌や踊りを売りものにする者もいる。そうして他国の人々と交わりながら、暮らしている。
 この森の部族も、その末裔なのだろう。彼らの祖は、そうした放浪の暮らしを良しとせず、どこをどう流れてきたものか、とうとうこの森の中に逃げ込んだのだろう。そうしてずっと、隠れ住んできた。
 だが、たどたどしい私の説明を、男は半信半疑のていで聞き流した。
 ――お前の言う話を信じるならば、
 聞き終えて、男は言った。
 ――我々は、遠い過去に分かたれた、同族の裔だというわけか。
 ――そうだと思います。
 男は短く嘆息を吐いた。眉間に深々と刻まれたままの皺が、男が私に気を許してはいないことを雄弁に語っていたが、それでも男は、腰にさしていた短槍には手を伸ばさなかった。
 ――ともかく、我々に害を及ぼす意思はないということだな。
 私は一も二もなくうなずいた。そして後に、そのことが私の胸を刺す後悔のひとつになった。
 このときにはそうするほかに、どうしようもなかった。危害を加えたのはあなた方のほうだろうと、皮肉のひとつも飛ばしたところで、それが何になっただろう。だが私はあのとき、それが無為だとしても、怒ってみせるべきではなかっただろうか。殺された哀れな若い狩人のために。
 しかしこのとき、私の頭のなかは自らの身の安全のことだけで手いっぱいだった。男は一応は納得したという風に浅くうなずいて、傍らの娘に、顎を振ってみせた。
 言葉のやりとりはなかったが、娘は察したように部屋を出て、すぐに木彫りの椀を手にして戻ってきた。それを見届けると、今度は男のほうが出て行き、こちらはそのまま戻らなかった。足音が遠ざかるのを待って、少女が小声で囁いた。
 ――悪かったわ。
 少女は椀を私の手に持たせて、目を伏せた。
 ――てっきりあの連中だと思ったの。傷は痛む?
 その声には思いがけず、いたわりと罪悪感とがにじんでいた。
 ――それほどでもない。
 そう強がって、私は椀に口をつけた。一見したところでは粥のように見えたが、どうやらそれは、芋を煮て潰したもののようだった。口に入れると慣れない強いにおいがしたが、飢えのほうが勝っていた。私が椀の中身をのこさずきれいに平らげてしまうと、少女は安堵したように目元を和ませた。
 ――いきなりたくさん食べると、体によくないから。あとでまたあげる。
 少女の青い瞳を、私はまじまじと見た。森の中で見た獣のようなまなざしと、目の前の娘の見せるやわらかい瞳が、やはりどうしても、うまく重ならないのだった。
 だがそのことには触れず、私は素直に椀を返すと、休ませてもらうことにした。緊張が解けたためか、それとも腹に食物が入ったせいか、ひどく眠かった。
 屋外から響く、騒々しい鳥たちの声を遠くに聞きながら、私は再びの眠りに落ちていった。


 次に目を覚ましたとき、まだ熱は下がり切っていないようだったが、それでも体はずいぶん楽になっていた。
 すでに日は高いようだった。ずいぶんと長く寝たような気がしていたから、もしかすると丸一日近く、眠り続けていたのかもしれない。
 眠っている間に着替えさせられていたことに気づき、私は少々恥ずかしい思いをした。あの少女が看病してくれたのだろうか?
 着させられていた服は、男や少女が着ていたものと同じ袖の長い上着と、足首までを覆う、見慣れない形の袴だった。
 あのあたりの地方の人々は、ほとんど半裸といってもいいような、大きく肌を出した服を着ているものなのだが、この森の部族は、きっちりと手足を覆う衣服を着込んでいた。布地の織り目はざっくりとして粗く、その分だけ風通しがいいので、見た目ほどには暑苦しくもないのだが、それにしても森の中の暮らしには、邪魔になりそうなものだった。草木の棘や虫から肌を守る意味があるのか、あるいははるかな故国の暮らしの名残を、頑なに守り続けているのか。
 体を起こすと眩暈がして、傷口にひきつれるような痛みが走った。
 小屋の中には誰もいなかったが、すぐ外に、気配があった。ひそひそと交わされる小声の会話、おさえた笑い声。小さな子供たちの気配だった。
 ――入っておいで。
 ほほえましい思いで呼びかけると、慌てふためくような物音と、小突きあう気配が続いたあとで、いかにもおっかなびっくりというように、少年が縄戸をくぐってきた。声から想像したとおり、まだ小さな男の子だった。くりくりとした青い瞳には、警戒といくばくかの不安と、それらをもってしても隠しようのない、強い好奇心の色がにじんでいた。
 あとに続いて、三人ばかり子どもらが入ってきて、小屋の中は急に狭苦しくなった。
 ――兄ちゃん、どっから来たの。
 ――ドウゾクってなんのこと。
 先の話から立ち聞きしていたのだろう、少年らは口々に質問を重ねた。
 ――森の外から来たんだよ。
 答えたとたん、子どもたちの表情に不安がよぎった。落ち着きなく互いの顔を見合わせてから、中のひとりが思い切ったように、強がる声を出した。
 ――森の外には、人間そっくりの顔した悪鬼(オォド)がいるんだって、父ちゃんがいってたよ。
 ――兄ちゃん、人間じゃないの。
 その言葉に、私は眉をひそめた。似たような言葉を、つい先日も耳にしたなと思ったのだった。
 あの殺された若い狩人が、言ったのではなかったか。森の中に人間は誰も住んでいない、いるのは人のような姿をした魔物だと。
 私はよほど険しい顔をしたものか、子供らが怯えるように身じろぎをした。あわてて首を振って、私は言った。
 ――私は人間だよ。君らと同じだ。
 ――そうだよね。
 素直に信じた様子ではにかみあって、少年らは互いを小突いた。中の一人が言った。
 ――馬鹿、だから言ったじゃないか。悪鬼は人間の格好は真似できても、言葉は話せないんだろ。
 その言葉に、私はぞっとした。それでもとっさに、突き上げてきた嫌悪を飲み込んで、微笑みを保った。子どもたちを怯えさせたいわけではなかった。
 ――私は、ずっと遠くからやってきたんだ。森の外の、とても遠い国にも、君らと同じ言葉を話す人たちがいるんだよ。
 言うと、少年らはわっと湧き立った。目を輝かせてはしゃいでいる子もいたし、初めて聞く話を鵜呑みにしていいものか慎重に吟味している、考え深そうな子もいた。
 ――遠くって、どれくらい遠く。
 ――歩いて何か月もかかるようなところさ。
 その言葉は、彼らにはぴんとこないようだった。無理もない、森のなかだけでも広く、彼らはまだその一部しか出歩いたことはないのだ。町の子ならば、隣まちからやってくる役人や、行商といった人々の姿を見かけることもあるだろうが……
 ――君ら、もうそんな年で狩りをするのかい。
 そう訊いたのは、話を変えたかったからというのもあるが、彼らの腰に、玩具じみた長さの小さな槍があったからだ。
 ――あったり前だい。どんなちびだって男なら、狩りくらいするに決まってら。
 ――兄ちゃんの村じゃ、違うの?
 ――そうだね。僕の生まれたところでは……
 ――あんたたち、けが人のそばで騒がないの。
 声がして、少年たちは飛び上がった。
 あの少女が、戸をくぐって入ってくるところだった。
 追い立てられた子供らがみな出て行ってしまうと、彼女は約束通り、芋粥をくれた。それから褐色の、小さな塊も。何かと思ってにおいをかげば、それは蜂の巣のかけらだった。中には黄金色をした蜂蜜が、みっちりと詰まっていた。
 粥の中には昨日と違って、刻んだ香草や肉の切れ端が入っており、ひどく食欲をそそるにおいがした。物も言わずがっつくようにして食べると、少女がくすりと笑った。恥ずかしくなって、私は頭を掻いた。
 ――傷のぐあいは、どう。
 ――ずいぶんいいよ。
 それは強がりというか、ほとんど社交辞令のようなものだった。少女にもそれは伝わったのだろう。かすかに目を伏せて、彼女は私の包帯を替えた。
 ――矢じりに毒を塗るの。
 ぎょっとして私が身を引くと、少女はその様子が可笑しかったのか、歯を見せて笑った。
 ――おとついは大物を狙ってたわけじゃないから、そんなに強い毒は使ってないわ。でも、悪かったと思ってる……
 獲物の体の大きさに合わせて、使う毒を変えるのだろう。少女はうなだれて、私の肩の包帯から目をそらした。
 ――あなたが、奴らの仲間と話すのを聞いていたの。だから……
 少女は歯切れ悪く言った。奴らというのは、殺されたあの狩人のことだろう。
 ――君らと、その……
 言葉を選びながら、私は言った。
 ――外の町の連中は、どうしてそんなにいがみ合っているんだい。
 何を訊かれているのかわからないというように、少女は瞬きをした。
 ――その、顔を見るなり射かけるくらい憎いんだったら、これまでにもそれなりの出来事があったんじゃないのか。憎みあうようになった、きっかけというか……
 ――あいつらは悪鬼よ。
 ――だけど、同じ人間じゃないか。
 とっさに言い返したが、少女はあっさりと首を振った。
 ――人間じゃないわ。人間のような姿をしているだけよ……ねえ、あなた、やっぱりあいつらの仲間なの。父さんには黙ってたのよ、あなたが奴らと同じ言葉で話してたの……
 少女の手がさりげなく腰の後ろに回り、短槍の柄にかかっていることに気が付いて、私はぎくりとした。
 ――そんな物騒なもの、出さないでくれ。僕は君たちに危害を加えるつもりなんか、全くないよ。昨日もそう言っただろう……
 少女はその言葉の真偽をたしかめるように、じっと私の眼を見据えた。間近で見ると、彼女の瞳は、深い青色をしていた。
 もっと北のほうに、こういう瞳の色をした人々がいる。私の父も、この少女のような鮮やかな色彩ではないが、緑がかった青い瞳をしていた。我々は本当に同族なのだと、ようやく実感がわいた気がした。
 彼女のほうも同じように感じてくれていればよいのだが。そう考えながら、私は目をそらすのをこらえ、生唾を飲み込んだ。
 彼女はやがて槍から手を放して、ゆっくりと語り始めた。
 ――ずっと昔の話よ。私たちの村がこの場所に落ち着く前、人間のすがたをした悪鬼たちに追い立てられて、たくさんの人が殺された。ほんとうにたくさんの人が。それまで人の数は、ずっと多かったの。もっと広い土地で、おおぜいで住んでいた。だけどここまで追いやられ、巫女さまも殺されて、私たちには神様の声が聞こえなくなった……
 我々の祖が故郷を追われた遠い遠い時代のことを、彼女らはそんなふうに語り継いでいるらしかった。
 私は暗澹たる思いにとらわれた。彼女には知る由もないだろうが、かつて祖国を攻め滅ぼした隣国の王は、やがてまた別の国の軍隊に斃されたという。一族はすでに、恨むべき仇を持たないのだ。
 その、終わったはずの古い時代のいさかいが、彼らのなかでは、いまだに続いている。
 当時を知るものはとうにみな死に絶えているというのに、憎しみだけがいつまでも生き残り、一人歩きをしている。それはひどく不毛なことのように思えた。
 かつての祖先にとって、旅暮らしは強いられた苦難だったかもしれない。だが、私自身はといえば、むしろ好きこのんで各地を旅してまわっていた。滅ぼされた祖国の話は、私にとっては遠い過去の物語、悲しいおとぎ話のようなものにすぎなかった。
 だからかもしれない。私には彼らの憎しみが、悲しく滑稽なものとしか思えなかった。
 人は言い伝えなどという漠たるものだけで、そうまで人を憎み続けられるものだろうか。互いに相手のことを、人ではない、人の姿をした魔物だとまで言いきって、ためらいもなく殺せるほどに。
 あるいは私に彼らの心が理解できないのは、私が半分しか彼らと同じ血を持たないためだろうか。もし父がまだ生きていて、この村のことを知ったなら、また違う感慨を抱いたのだろうか……
 私たちは黙り込み、重苦しい沈黙が落ちた。やがて私は顔を上げて、話を変えようとした。いまは何を言っても、届かないような気がした。
 ――君たちは、男も女も狩りをするのかい。
 その言葉に、少女ははにかんだ。
 ――ほんとうは、男たちの仕事なの。でも私は、漁が下手だから……。あなたの村ではどうなの。やっぱり狩りをする女はいない?
 ――そうだね、僕の故郷では、女の猟師は見なかった。でもほかの土地には、いろんな人たちがいるから。女の人たちが大きな犀を狩るのを、見たことがあるよ。
 ――ほかの土地……
 少女は困惑した表情になった。私の語るその人々が、同族のことなのか、それとも彼らのいう悪鬼のことなのか、勘繰ったのかもしれない。
 過去に私の旅をしてきた様々な土地の中には、近隣の地域との交易がさかんに行われている場所もあれば、ほかの集落とのやりとりのごく限られた、辺鄙なところもあった。だがこの森の部族のように、外の人間とのいっさいの交流を――弓矢以外の接触をすべて断ってしまっている人々には、まだ出会ったことがなかった。
 彼女の心のなかで、世界はどんなふうに描かれているのだろうと、私は考えた。森のなかだけで完結する世界。人間そっくりの恐ろしい悪鬼に取り囲まれた森……
 ――ねえ、森の外に、あなたの同族はどれくらいいるの。
 私は意表を衝かれて、少女を見つめ返した。彼女の瞳は、慎重な口調とはうらはらに、明るく輝いていた。先ほどの少年らと変わらないような、たくましい好奇心の色が、そこにあった。知らず微笑んで、私は答えた。
 ――私たちの同族、だろう。
 わざわざ言い直したのは、もちろん私が彼女の同胞だということを印象付けて、身の安全を図りたかったという事情もあったが、そればかりでもなかった。彼女に外の世界を、もっと身近に感じさせたかった。
 ――そう、私が直接会ったわけではないのだけれど、父が話したところによると、少なくとも何百人か、あるいはもっといるようだよ。みなひとつところに住んでいないから、誰にもちゃんと数えられないんだ……
 ――何百人。
 少女はいって、目を白黒させた。
 ――この森のなかにも、それくらいの人がいる?
 ――そんなにはいないわ。
 少女はため息のようにいって、遠くを見る目をした。
 次に何を口に出すべきか、私はひどく迷った。下手なことをいえば、また魔物扱いされるかもしれない。だがこういう目をするこの娘になら、時間をかけて話せば、わかってもらえるのではないかと、そういう気がしはじめていた。異なる言葉を使い、異なる暮らしを送る外の世界の人々も、彼らと同じ心をもつ、人間だということが。
 だが、私が何かを言うよりも早く、少女はぱっと立ち上がった。
 ――もう少し、休んでいたほうがいいわ。あなたまだ、ひどい顔色よ。
 傷を負っていないほうの肩を押されて、私は大人しく横になった。たしかに頭痛がしはじめていたし、体中に重い疲労がよどんでいた。
 出てゆこうとする少女に、思い立って訊ねた。
 ――君、名前は?
 少女は肩越しに振り返り、少しためらってから、
 ――イアラ。
 そう名乗った。それは、花を意味する言葉だった。私はつい頬をほころばせた。少女は頬をかすかに赤らめて、唇をとがらせた。自分でも、似合わないと思っているのだろう。
 ――いい名前だね。
 慌ててそう言ったが、少女はぷいと背を向けてしまった。駆け去ってゆく背中が、怒っていた。
 おかげで私は名乗り返しそびれてしまった。それが良かったのか悪かったのかは、いまでもわからない。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、私は目を閉じた。
 眠りは速やかに忍び寄ってきた。森から打ち寄せる鳥たちの声の奔流も、遠くの風の音のように聞こえ出していた。



 熱が下がりきるにはさらにもう一日が必要だった。彼女はその間、何度となく様子を見に来てくれた。
 あの男や、ほかの人間がやってくることもあったが、イアラと子供たちのほかは、皆うす気味の悪いものを見るようにして私を眺めた。話しかけてもぎょっとした顔をされたり、無視されたりした。単純に見慣れない人間を警戒していたのかもしれないし、あるいは私の話す言葉が、彼らのそれと同じようでいてわずかに違うことが、気味悪く思えたのかもしれない。
 立ち歩くことができる程度に体調が戻ると、私はすっかり困ってしまった。ずっと寝てばかりいるのも苦痛だったし、かといって出歩こうとすれば、集落の人々から気味悪がられる。
 彼らは私の処遇をどうすることにしたのだろう。拘束もされていなかったが、かといって歓迎するようすはなかった。皆が私のことを遠巻きにしていた。
 実際、彼らはこの奇妙な客を、持て余していたのだろう。異分子ではあるが、さっさと殺してしまえとまでは、もう思わない――なぜなら私は仲間ではなくとも、言葉の通じぬ悪鬼でもなければ獣でもない、れっきとした人間だから。
 彼らに精いっぱい愛想を振りまこうと努力しながらも、自分がそういう皮肉な思いを顔に出さずにいられたかについては、自信がなかった。
 奇跡のような偶然で、同胞に出会えたというのに、何か寂しいような話ではあったが、そういう巡りあわせだったのだろうと、私は割り切ることにした。なるだけ早いうちに、ここを出てゆこうと思った。
 しかし案内人はもうおらず、この深い森の奥からどうすれば外の町まで辿りつけるものか、私には見当もつかなかった。
 案内人――あの狩人の青年にすまないことをしたという思いが、体調の戻りはじめたころから、腹の底にわだかまりはじめた。もとをただせば、人語を話す鳥をただ見てみたいという、私の子供じみた好奇心が、彼を死なせたようなものだった。そのくせに私自身はこうして、彼を殺した人々の手で生かされている……
 森には人に似た魔物がいると、あの狩人がそう話したことを、私は思い出した。こんなふうに、彼に危害を加える者が森にいると知っていたのなら、あの青年はどうして案内などを引き受けたのだろう。その疑問は、遅れて湧きあがってきた。そもそも彼は日ごろから、狩りのために森を歩きなれていたはずだった。
 月夜でもないのに。
 死んだ青年の残したあの言葉が、頭の隅で明滅した。月夜だったら、何が違っていたというのだろう?
 食べ物を運んでくれたイアラに、言葉を選びながらその質問をぶつけてみると、彼女はあっさりと答えをくれた。
 ――私たちはふつう、月の夜にしか狩りをしないの。それ以外のときには、森には入らないわ。
 ――どうして。
 ――決まりだから。
 そっけなくそう言ったイアラは、いっときしてから言葉を継いだ。
 ――あいつらは月夜には森に入ってこないわ。月の光が、魔のものにとっては毒だから。
 彼女は月光が穢れを浄化するのだというような言い方をしたが、私はそうではないと思った。それはおそらく、彼らと外の町の人々がむやみに殺しあわなくてすむように、長い歳月のうちに培われた、暗黙の了解のようなものだったのだろう。
 そこまで考えて、私は首をかしげた。
 ――じゃあ、あのとき、君はどうして。
 森でイアラと出会ったとき、まだ日は高かった。木漏れ日が射し込んで彼女の顔をまだらに照らしていたのを、はっきりと覚えている。
 ――あのときは、鳥が……
 少女は言いかけて、ためらった。
 ――鳥?
 続きをうながしたが、イアラは唇を引き結んで、かぶりを振った。そうしてさっと立ち上がると、呼び止める間もなく出て行ってしまった。


 そのあとすぐに、私は奇妙な場面を見た。
 私が退屈に飽かせて小屋の外に出ると、集落の人々はそれまでどんなににぎやかに歓談していても、ぴたりと口をつぐんでしまうのだが、そのときだけは、初めからしんと静まり返っていた。
 人影が少ないわけではない。十余人の人々が外に出ていたのだが、誰もが一様に緊迫した表情で、一定の方角を睨み据えていた。
 気味悪がられているのを承知で、どうかしたのかと訊こうとすると、中の一人がぎょっとした様子で、あわてて私の口元を押さえた。声を出すなというのだ。
 しかたなしにそろりと首をめぐらせて彼らの視線を追いかけてみると、集落の端、深い森の始まる境界の樹の枝に、あざやかな赤い色が見えた。
 それは鳥の羽色だった。
 大人の手のひらに乗ってしまえるような、小さな鳥だ。それがイアラと出会ったあの日に見かけたものと同じ種類であることは、すぐにわかった。
 目を凝らしたのとほとんど同時に、鳥が翼を激しく鳴らして飛び立った。遅れて、風切り音が耳朶を打った。一条の矢がするどい軌跡を描いて空中を走ったが、そのときには鳥はすでに高い空に舞い上がっており、矢はむなしく木々の枝に吸い込まれていった。
 飛んで逃げる鳥のあとを、何本もの矢が追いかけたが、赤い色がすっかり森の中にまぎれてしまうほうが早かった。
 あっけにとられて地上に視線を戻すと、射手たちが苦い顔をして弓を下ろすところだった。中の一人に、私は声をかけた。
 ――どうしてあの鳥を?
 ――あれは、悪霊(バルゴ)の遣いだからさ。
 それが、悪い霊や悪鬼というような、魔のものを指す言葉の一種だということを思い出すのに、いくらか時間が必要だった。
 男は私もその同類ではないのかといいたげな視線をくれたが、それでもともかく、逃げ出したり私に射かけたりはせず、説明してくれた。
 ――あの鳥は災いを呼ぶんだ。人の言葉を盗んで、近づくものを惑わせる。外から悪鬼を呼び込む。
 小さい子供に言い聞かせるような口調で、彼は言った。実際、それは彼らからしてみれば、子供のするような質問だったのだろう。
 だからあの鳥の姿のあるところではけして口を利いてはならないし、あの鳥から話しかけられることがあっても、絶対に返事をしてはならない。彼らはくどくどと私に言って聞かせた。
 奇妙なものだと思った。森の外では同じ鳥が神の遣いとして崇められ、森に暮らす人々の間では凶兆として忌み嫌われている。そこまで考えて、私は気づいた。彼らがあの鳥をおそれるのは、鳥が言葉を盗むからだというのだ。
 鳥は、はじめから人の言葉を話すわけではなく、人々の話すのを聞いて、それを覚えるのだろう。そう考えれば、鳥が喋るという神秘めいた出来事も、いくらか納得のいくことに思われた。
 かつて彼らの祖先がこの森に移り住んだ頃のことを、私は想像した。
 失われた祖国には、国を統べるものとして、王ではなく巫女がいたという。父も私も、呪術などというものにはかつて縁がなかったが、それでも父が、言葉には力が宿るから軽々しく用いてはならないというようなことをいうのを、何度か聞いた覚えがある。
 言葉によって呪いを行う巫女――その力を隣国の王は恐れ、同じ言葉を使う人々を根絶やしにしようとした。逃れた人々の多くは、異国の言葉を習い覚えてほかの土地に紛れ、祖国の言葉を忘れたふりをした。
 ここにいる彼らは、祖先の言葉を捨てるかわりに、はるか遠くの地に流れ、森の奥深くにひそんだ。そうしてなお、追っ手の存在に怯えたのだろう。祖国の言葉を子孫に伝えながら、それをほかの人々に聞かれることを恐れた。知られれば、再び槍もて追われるだろうから……
 鳥そのものよりも、鳥が自分たちの言葉を聞き覚えて、外でそれを口にすることを、彼らの祖先は危惧したのだろう。それがいまも、こうして続いている。
 苦い思いを覚えて、私は口を開きかけ、そしてやめた。それがもうすでに無意味なことだと、私がいくら言い聞かせたところで、どうして彼らがそれを信じるだろう。
 私はかわりに、じっと空に目を凝らした。空に舞う鳥たちの数は多かったが、その中にはもうあの赤色は見当たらなかった。


 同じ日の、昼下がりのことだった。
 食事を運んでくれたイアラが、前の晩の猟の成果について、弾んだ声で話してくれた。彼女の話を信じるならば、イアラの猟師としての腕前はかなりのもののようだった。はじめて彼女に出会ったときの、あの力みのない姿勢を思い出せば、それもうなずける話だった。無心を体現したような、凛とした立ち姿。
 声がしたのは、五人がかりで追い込んで仕留めたという牡鹿の話を聞いている、ちょうどその最中だった。
 ――コッチニオイデ。
 はっとして、私たちは窓を見上げた。軽やかな羽音を立てて、その鳥は窓辺に舞い降りた。
 首をかしげるようにして、鳥はそこに留まった。午後の陽射しを受けて、羽が、鮮やかな朱色に輝いた。
 イアラはすぐに弓を構えようとはしなかった。とっさに立ち上がりはしたものの、そのままじっと食い入るように、鳥の黒くつぶらな瞳を見つめた。鳥のほうでも、彼女を見つめ返した。まるで何か伝えたいことがあるとでもいうように、身じろぎもせず。
 私は口をつぐみ、両者の間で、じっと息を殺していた。彼らのようすに、何か感じるものがあった。
 午後の陽射しの中で、鳥が首をかしげて身じろぎするたびに、その羽は、わずかに色を変えた。明るい朱色から真紅へ、真紅から火焔の色へ。脂を塗ったようにつやのある、絢爛な羽だった。
 長い葛藤の末に、イアラはようやく弓を掲げた。その指が、わずかに震えていた。鳥はやはり黒い目を彼女のほうに向けたまま、黙りこくっていた。
 イアラはゆっくりと矢をつがえ、じわじわと、時間をかけて弦を引き絞った。ひどく静かだった。いや、そんなはずはない――鳥たちの声も、風のうねりも、木々のざわめきも、変わらず森から轟々と押し寄せていたはずだ。それだというのに、私がこの日のことを思い出すときには、どうしたわけか、いやに静謐な印象ばかりがつきまとっている。
 矢は放たれなかった。それよりも早く、戸口の向こうに、足音が響いた。
 赤い鳥は瞬時に飛び立った。その尾羽だけが赤くはなく、つやのある美しい白色をしているのが、かろうじて見て取れた。
 羽音の残滓がまだ室内に残っているうちに、足音荒く中に入ってきたのは、最初の日に私を問いただした、あの男だった。
 ――父さん。
 イアラはわずかに息をのんだ。男は黙りこくったまま、彼女に厳しいまなざしを向けていた。
 長い沈黙のうちに、父娘の間にどういう無言のやりとりがあったのか、私にはわからない。やがて顔をあげたイアラは、感情の見えない、ひどく硬い声音で言った。
 ――かならず仕留めます。
 男は黙ってうなずいた。そうして結局ひとことも発しないまま、踵を返し、部屋を出て行った。
 イアラはいっときの間うつむいていたが、やがて顔を上げると、あらためて身支度を整えた。そうして出掛ける際になって、最後に弓の弦をそっと撫で、ちらりと私のほうを振り返った。
 その眼は、妙に心細げな色をしていた。
 ――ついていっても?
 とっさにそんなふうに声をかけたのは、その眼のせいだった。私が一緒にいったところで、きっと足手まといにしかならないだろう。だが彼女が、それを望んでいるような気がした。
 少女は驚いたように目を丸くしたが、ほんの短い逡巡のあと、うなずいた。そこに安堵の気配を見たと思ったのは、私のうぬぼれだっただろうか。
 慣れない衣服での身動きが不安だったので、借りていた服を脱ぎ、もともと着ていた服に着替えた。肩口には穴が開き、イアラが洗ってくれてはいたものの、血の染みが残っていた。
 体調はずいぶん戻っていた。歩きだすと、最初のうちこそいくらかふらついたが、集落を出て森に足を踏み入れるころには、もう体が歩くことを思い出していた。
 少女の足取りは、見るからに重かった。
 ――まだ夜ではないのに、いいの。
 思わずその背にたずねると、少女は振り向かないまま、かすかにうなずいた。それきりイアラは何も言わなかったが、弓を握るその手がやはりかすかに震えているのを、私は見た。
 その肯定が、月夜でなくともいまの時間なら大丈夫だという意味なのか、それとも彼女の身の安全よりもあの鳥を仕留めることのほうが大事だという意味なのか、私は訊かなかった。父親に向けた彼女の目の色を思い出せば、それが酷い質問のような気がしたので。
 ――どうやって、あの鳥を探すんだい。
 ――心当たりがあるから。
 イアラは答えたが、その声はうち沈んでいた。うつむくようにして歩く少女の背は、丸くすぼまっていた。
 集落を離れていっときもせぬうちに木々は鬱蒼と繁り、たちまち密集した下生えに、足をとられがちになった。いくら息をひそめて慎重に歩いても、彼女のように音を立てずに歩くということが、私にはできなかった。うっかりして私が大きな物音を立てるたび、イアラは緊張した様子であたりに神経を張り巡らせた。申し訳ないような気分になったが、それでも彼女は、一度も私を責めなかったし、邪魔だから帰れとは言わなかった。少女の華奢な薄い背中を見ながら、私は黙々と歩いた。
 長いこと無言のままで歩いていたが、あるときイアラが足を止めないまま、ふっと息をこぼすように言った。
 ――友達だったの。
 私は黙ってうなずいた。私のほうが後ろを歩いていたのだから、そうしたところで少女に見えるはずはなかったのだが、声を出して返事をするのが、なんとはなしに憚られた。イアラは問わず語りに小声で話し続け、私は口をはさまずに、ただそれを聞いた。
 ――みんながいうような悪いものだとは、どうしても思えなかった。
 窓辺にときおり訪れる小さな友人に、彼女はこっそりと食べ物をわけ、内緒話をきかせた。鳥は少女の言葉を覚え、ときおり思いがけないあいづちをはさんだ。それが楽しくなって、イアラは鳥に、いくつもの言葉を教えた。彼女が今よりももっと幼かったときの話だ。
 だが秘密はやがて露見した。
 お前の手で殺せと、彼女の父親は言った。それでイアラは何度となく、昼間の森に足を運んだ。危険は承知だったが、あの鳥は昼間にしか活発に動かないので、夜に探すわけにはいかなかったのだ。
 そして彼女は、あの鳥が森のある場所で、よく羽を休めているのを知った。森には似た姿の鳥たちがいくらでもいたが、彼女は友人をひと目で見分けることができた。
 見つけても、いつも射かける前に気づかれて、すぐに逃げられてしまうのだと、少女は言った。子どもじみた嘘だ。彼女自身が鳥を逃がしたがっていたのは明らかだった。このときのこともそうだ。私を連れて歩けば足手まといにしかならないのは明白だというのに、なおこうして連れている。
 絡み合った蔦を避け、苔むした岩を乗り越えたあたりで、あたりの風景に見覚えがあることに、私は気が付いた。特徴的なねじれた枝をもつ巨大な樹、岩の間から湧き出る泉。
 あのときの場所の、すぐ近くだった。少女が私に射かけ、気の毒な若い狩人が命を落とした場所。
 ちらりと樹上を仰いだ彼女は、迷わずに樹の後ろに回り込み、例の場所のほうに向かった。そうだ、たしかにあの日、ここで鳥の話すのを聞いたのだ……
 そこからはすぐだった。少女のあとに続いて、記憶に焼きついたその風景にたどり着いたとき、あの青年の遺骸がないことに、私は気づいた。
 森の獣たちが食い尽くしてしまったのか? こんなにも早く、骨も残さずに? まさか。
 だが現に、亡骸はそこになかった。では彼女の一族の誰かが、遺体を運んで隠したのだろうか? だが、何のために?
 私はその疑問を口にしかけた。だが話しかけるべき少女の背中がこわばっていることに気づいて、一瞬、言葉を飲み込んだ。
 複数の足音が響いたのは、そのときだった。
 少女の反応のほうが、早かった。ぱっと身をひるがえしたその足元に、矢が突き立った。少女はよろめいたが、素早く体勢を整えて、跳ねるように駆け出した。風切り音がいくつもあとに続いた。
 彼女の腕に、矢の一本が突き立った。長く、細い矢だ――彼女らの部族が使うものとは違う。少女は低くうめいたが、立ち止まらなかった。
 ――待ってくれ。
 叫んでから、私は気付いた。そのときとっさに口をついて出てきたのは、故国の失われた言葉ではなく、このあたりの地方で一般に広く使われている言葉だった。私はそのことに気付くなり、心臓を引き絞られるような不安と後悔を感じた。なぜ自分がそんなふうに感じたのかも、はっきりと自覚しないまま、私は慌てて少女のほうに駆け寄ろうとした。
 いずれにせよ、遅すぎた。叫んだのも、駆け付けようとしたのも、その前に、何が起きたのかを察することも、何が起こってしかるべきか想像することも。何もかも、あまりに遅すぎたのだ。
 自分の判断の遅れというものを、あんなに呪ったことはなかった。
 足音はすぐそばまで迫ってきていた。
 ――大丈夫か、あんた。
 ――畜生、魔物め。
 男たちの声に、とっさに答えそこなったまま、私は少女のほうを、必死に目で追った。イアラは藪の向こうに完全に姿を消してしまうその直前、ほんの刹那、こちらを振り返った。
 裏切られたという、眼をしていた。
 ――待ってくれ。違うんだ。
 私は自分がその言葉を、どちらに向けて口にしたのか、自分でもわかっていなかった。あれは少女への弁解だったのか。それとも町の人々への制止だったのか。
 だが後から記憶をたどってみると、やはりそれは、故国のそれではなく、町の人々の使う言葉なのだった。
 彼女はそれを聞いて、どう思っただろうか。そのことを思うたびに、あの瞬間の、突き上げるような後悔がよみがえってくる。
 あのとき、もし私が祖国の言葉で同じことを叫んでいたら、どうなっていたのか。何かが違っていただろうか。わからない。だが私は、あの一瞬のことを、死ぬまで悔い続けるだろう。
 ――あんた、無事だったのか。ひどい目にあったな。
 ――カッツィのやつは気の毒だったが、せめてあんただけでも、助かってよかったよ。月夜でもないってのに、何で連中が出てきたんだか知らないが……
 よく見れば、男たちの顔には覚えがあった。ほんの数日前、森の案内を頼める相手を探し回っているときに行き会った、町の人々だった。
 殺された狩人の兄という人も、その中にいた。彼の顔が涙にぬれ、その眼がひどく充血していることに、私は遅れて気が付いた。彼はこの場所で弟の遺体を見つけたのだ。そして彼を殺したものを、探していた。
 そうしたことを、ようやく私は理解した。何もかもが遅すぎた。当然、あらかじめ想像していてしかるべきことだった。
 ――違うんだ。
 私は繰り返したが、自分が誰に対して何を弁解しているのか、自分で理解していなかった。
 何が違うというのか。
 罪なき狩人を殺したのは、あの少女だった。私が森に入る前、町の人々と親しくしていたことにも、やはり疑いようがなかった。一人の善良な青年が殺される原因を作ったのも、あの少女が矢傷を負うきっかけを作ったのも、間違いなく、他の誰でもない、この私だった。
 何も知らぬ善良な人々は、私に向かって口々に慰めの声をかけた。彼らは言った。あの連中は、姿かたちこそ人間にそっくりだが、中身は魔の領域に属するもので、人を惑わせて殺す、血も涙もない怪物なのだと。あんたは命を落とす前に助けられて、せめてよかったと。彼らは何度も繰りかえし私にそう言い聞かせた。
 人の良い、親切な男たちの顔を何度も見渡して、私は、違うのだと言い続けた。だが彼らは、私が恐怖のために混乱しているのだ、あるいは魔物に惑わされていて、まだ状況が飲み込めていないのだと、頭からそう決めてかかるばかりで、ただの一度も、私のことを責めようとしなかった。
 私は愚かにも、無為にただ違うと言い続けただけだった。
 あれからずいぶん時間が経ったいまならば、言葉にすることができる。町の人々が悪鬼ではないのと同じように、彼女は魔物などではなかった。イアラという名を持つ、ひとりの少女だった。女だてらに狩りの名手であることを誇りながらも、似合わぬ可憐な名を恥らってみせる、ごく普通の少女だった。
 ほとんど彼らに抱え込まれるようにして、その場を立ち去る間際、私は頭上に鳥の羽ばたきを聞いた。
 とっさに空を振り仰いだが、あの鳥の姿を認めることはできなかった。木漏れ日のまだらに降りそそぐ中を、抜け落ちた赤い羽根が一枚、木々の合間をひらめきながら落ちてゆくのだけが、ただ見えた。


  ※  ※  ※


 語り止んで、養父はいっとき、焚き火に目を凝らした。揺れる炎の中に、いま彼は何を見ているのだろうかと、私はそのことを考えた。
 何故、旅をするのか。
 これまでに何度となく養父に問いかけてきた、その疑問への答えを、彼がいま口にしていたのだということに、私は遅れてようやく気がついた。
 炎が爆ぜ、火の粉が舞いあがって、私たちの間の沈黙を彩った。街道の脇には深い森が広がり、どこか遠くで、鳥の羽音が間遠に響いていた。
 何かを訊こうとして、そのたびに、私は言葉を飲み込んだ。その少女は、どうなったの。森の人たちと町の人たちは、今でも憎み合っているの。その赤い鳥は、射殺されずに済んだの。
 どの問いにも、養父は答えを持ち合わせていなかっただろう。それがわかっていたから、かわりに私は別のことを訊ねた。
 ――いまからゆく町は、どんなところ。
 ――さて。私も実際にゆくのは、今度が初めてなのだよ。
 静かな声でそう言って、かすかに首をかしげた後、養父はそれでも、知っているかぎりのことを教えてくれた。山の上の高い所にある土地だということ。その分だけ涼しくて、乾いた土地であること。ふもとの町との交易がさかんで、また隣国へと続く街道の通る町でもあること。そのために、高地にあるわりに人の行き来の多いこと。はじめて行くというわりに、養父の話は詳しかった。
 夜が更けるにつれて、風が出てきた。森がざわめき、流れる薄雲がときおり星々を覆いかくした。
 明日もたくさん歩くから、そろそろ休みなさいと、養父は言った。
 私は素直に毛布を被りなおして、草の上に横たわった。そうして眠るふりをしながら、薄目を開けて、焚き火を見つめる養父の顔を盗み見た。そろそろ若くはなくなりはじめている男の、こまかい皺の目立つ横顔を。
 やはりその眼は炎を通り越して、遥かな遠い場所を見ていた。



奥付



鳥たちの楽園


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著者 : 朝陽遥
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