閉じる


<<最初から読む

10 / 17ページ

愛、アムール

2013年4月4日鑑賞
***君こそ、愛ゆえに***
本当はこの映画レビューは書くべきではないのだろう。
正直あまり感心しなかった。
カンヌのパルムドールに輝いた作品。
カンヌで賞をもらった作品はハリウッドのアカデミーの対極にある様な作品が受賞する事が多い。
映画ファンを自認している人間として、時には難解な映画を見て鑑賞眼を鍛えるということで、ほとんど義務として観た。
本作は、年老いた夫が、体の不自由な妻を介護する話。
妻は美しいピアノ教師であった。立派なピアニストも育てた。
そんな彼女がある日、意識をなくしてボーッとしてしまう。

夫は彼女の異常を発見する。医師に相談すると手術したほうがいいと言う。
成功率は95%だ。
安心していい。
嫌がる妻を説得し手術を受けさせた。
結果。
彼女は残りの5%のカテゴリーに入ってしまったのだ。
体に障害が残る。ほとんど歩けない。そんな妻をみて、夫は献身的な介護を始めるのだ。
僕が昨年見た映画で「最強のふたり」という作品がある。
こちらの作品は、首から下が全く動かない大富豪を、不良黒人青年が介護する話。これは実話だ。社会的地位や、人種、そして障害を乗り越えて、二人の間に友情が芽生えると言う、観終わった後、スカッと爽やかな作品に仕上がっている。エンターテイメント性も申し分なく楽しめる作品だ。
本作「愛、アムール」は正に真逆と言っていい。
難解であり、楽しくもなく、暗いトーンの作品。
観終わった後、つらい感覚が残る。
お金を払ってなぜつらい事を経験せねばならないのか?とさえ思わせる作品である。観客もそれぞれ、生き辛い人生を背負って、それでも映画館に足を運んでいるのである。
僕が疑問に思ったのは、そもそも、この作品を映画で表現する必要があったのだろうか?ということだ。
映画で表現すると言う事は、スクリーンで「動く画」を見せる「必然性」がなければならない。ぼくにはこの作品に関して、何も必然性を感じなかった。
小説で表現した方がいい作品であろうと思われた。
ミヒャエル・ハネケ監督が、あえて絵を見る楽しみに挑戦していないように思えて仕方なかったのである。
例えば、二人の出会いや恋愛シーンを回想で観せる、とか、美しく若かった妻が、流麗にピアノを弾いてみせるシーン等、僕が監督なら是非入れたいと思う。
しかし、本作では、そんな観客を楽しませる、うっとりさせるようなシーンは全くないのだ。せいぜい数年前の回想シーンがあるだけだ。

ここ数年、映画館に通い続けて思うのは、老人を扱った映画が極端に多くなっていると思える事だ。少子高齢化は日本の専売特許の様な感じがするが、邦画で老老介護を真正面から捉えた作品には出会ったことがない。もちろんそんな作品を作ろうとおもってもどの映画制作会社も却下するだろう。興行収入が見込めないからだ。「売れる」と予想出来るネタしか映画化しないというのは、映画界に取って自らの可能性を否定する行為だと僕は思う。
しかし、ドイツ人監督ミヒャエル・ハネケ氏は世界に向けて老老介護問題を本作で発信した。
この作品で特筆すべきなのは、体が不自由になった妻を演じた女優エマニュエル・リヴァのあまりにもリアルな演技である。
体が動かなくなってから、次第に生きる意欲そのものが衰えてゆく様を、迫真の演技で表現してみせた。
また、本作では、二人の部屋に鳩が迷い込むシーンがある。
これはおそらく監督にとって、命の象徴として表現したかったのであろう。夫はこの鳩を窓から逃がしてやる。夫にはそう言う命に対する優しさがある。
ところが、妻の介護を続けてゆくうちに、夫は変貌してゆくのである。夫は美しいピアニストであった妻を、美しいままの姿で閉じ込めておきたかったのだろう。
物語の終盤で夫が取る行動は、観客である我々が、それぞれの立場で受け止めるしかない。ミヒャエル・ハネケ監督はそう言う問題提起を観客に投げかけた。

主人公の夫、彼は芸術を愛する美意識を持ち合わせていた。だが、それ故に、醜いとしか言い様がない現実生活に悲嘆した。また、自分の愛と美へのエゴが、衝動的な行動へ駆り立てたのだろう。エゴとは愛の表現の側面でもあるのだと、僕は思う。

**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
**********
作品データ
監督   ミヒャエル・ハネケ
主演   ジャン=ルイ・ランティニアン、
     エマニュエル・リヴァ
製作   2012年 フランス/ドイツ/オーストリア
上映時間 127分 
 予告編映像はこちらのアドレスをコピーしてお使い下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=626RPRSHPn0


ザ・マスター

2013年5月3日鑑賞

*** 彼こそ我が全て、でいいの? ***

フィリップ・シーモア・ホフマンの演技が見たくて映画館に足を運んだ。今回彼が演ずるのは、心理療法家であり、哲学者であり科学者でもあると言う、ちょっと怪しいカルト集団の中心人物。
なお本作の主人公は彼ではない。その心理療法家に心酔してしまう男フレディ(ホアキン・フェニックス)が主人公である。


フレディは第二次大戦に従軍した。そして心にキズを負った。そのキズが癒える事なく復員。やがて彼は写真技師として仕事を始める。高級デパートの一角で来場客相手に
「はい、撮りますよ、笑って〜」
パシャッとシャッターを切る。
愛想笑いも振りまく。そこまではいいのだ。
だがどうにも肌に合わない客がいた。客には何も落ち度がない。ただ彼の方が一方的に、客に敵意を持ったのだ。
フレディは客をいたぶり、いじめた挙げ句、大げんかとなる。デパート内は大混乱。当然、出入り禁止となり職を失う。
他に色んな仕事をやってもみても、うまく他人と関われない。そんな時、たまたま心理療法セミナーを開いていたマスターと呼ばれる男に彼は出会う。
マスターは被験者をソファに寝かせ、いわゆる前世療法を施す。マスターは本も書いている。


これは結構売れていて話題になった。新聞記者も取材にやってくる。
「これは科学的じゃないと思いませんか? カルトじゃないですか?」
との質問に笑顔でサラリ、とはぐらかしてみせるマスター。
彼の取り巻きはそんなに多くない。家族とごく少数の仲間達である。
決して大きな教団等ではない。
この作品は、主人公の眼からマスターを見る視点でつくられている。
マスターはあくまで紳士的だ。
決して強引に組織を大きくしようとはしない。
慈善事業のようにも見え、そのくせ富裕層との付き合いも大切にして、そのポケットから、さりげなく収入を得ているようだ。
このあたりの描き方がケレン味がなく、じつにうまい。
マスターの心の舞台裏、本音の部分を映画は敢えて見せようとはしない。
だからよけいミステリアスだ。
そこにこそ、マスターが人を惹き付ける魅力が隠されている。主人公はやがて「この人となら、どこまででもついて行く」ぐらいの気持ちになってくる。そしてマスターを独占したい様な衝動に駆られてゆく。
男が男に惚れるのは、本当にタチが悪い。
それはかつてオウム真理教の麻原の言葉に、多くの若者が心酔した図式に似ている。
オウムの若者達にとって、教祖麻原から声をかけてもらえた、ホーリーネームをもらった、教団内での位が上がった、なんて事になったら、それこそ羨望と嫉妬の的だ。
まるでオンライン・ネットゲームで、キャラクターの名前に変身し、どんどんレベルを上げてゆく、その感覚。
このゲームだけは他人に負けない、負けたくない、他人から認められたい、他人に自慢したい。
このゲームだけが自分の全てなのだ。
あまりにも世間知らずの、平凡で、いい子で、人を疑う事を知らない、素直な人ほど、こういうカルトにのめり込んでしまうのだろう。
本作は主人公フレディの安らげる、唯一の心の置き所が、マスターの存在そのものだったのだろう。
もちろん僕は思想、信条、宗教の自由は大切だと思う。日本国憲法はそれを認めている。
大切なのは、他人の考え方や、信じる事、価値基準が、それぞれ違う事を認める「懐の広さ」を持つ事だと思う。
違う大義で生きている人達もいるという事だ。
違う大義が衝突すると悲劇が生まれる事を、我々は既に体験している。
そこから何を学ぶのかである。
**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆
映像 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
**********
作品データ
監督   ポール・トーマス・アンダーソン
主演   ホアキン・フェニックス、
     フィリップ・シーモア・ホフマン
製作   2012年 アメリカ
上映時間 138分 
 予告編映像はこちらのアドレスをコピーしてお使い下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=HVOWSsgtz4k


大奥〜永遠〜[右衛門佐・綱吉篇]

2013年1月18日鑑賞


***「男女逆転」二匹目のどじょうの行方***


「これっておもしろいかぁ? 」というのが正直な感想でした。
大奥での男女逆転という発想は奇抜で面白い。それは第一作目で既に描いてしまったこと。続編を作る、第二作目を作るというのは、前回以上の目新しさと面白さがありますよ、ということでしょう。
第一作目は、実は僕は観ていない。予告編で観ました。二宮君のちょんまげ姿が絶望的に似合っていなかったので敬遠しました。
さて、本作は主役の将軍綱吉に菅野美穂、相手役が堺雅人にバトンタッチ。このキャスティングは僕のツボにはまった。これは観に行きたいと思いました。
脚本は誠実です。丁寧に描かれています。それは認めます。しかし残念ながら面白くも何ともないのです。この映画を一言で言い切ってしまうと、キャスティングの魅力、役者のネームバリューと演技力に頼ってしまった作品だと思います。
堺 雅人が以前演じた時代劇、「武士の家計簿」をご覧になると良い。これはもう抜群に面白かったですよ。歴史学者である磯田道史氏の優れた原作、及び膨大な資 料と正確な時代考証。これにより、当時、ソロバンで給料をもらっていたお役人としての武士の姿が、輪郭も鮮やかにクッキリと浮かび上がったのです。
堺雅人が演じる小役人。彼は細かいことは実に几帳面。何でも記録しておかないと気が済まない。律儀で真面目でいじらしい。
しかし、世の中の流れを大局的に観ることは苦手なのです。
原作者の磯田氏は言います。
「もう、悲しい程、現代日本人の原型がそこにあるんです」
さて本作に戻ります。
今回の大奥の見所はと言うと、やはり、映画ならではの豪華で、きらびやかな舞台装置であり、室内調度品の数々であり、身に着ける衣装の華麗さでしょう。
まさに「正月映画」興行にふさわしい、「眼の正月」を味あわせてくれます。
それにしても脚本の弱さが気になるのです。
将軍には男の子のを産む必要がありました。しかし、どうしてもダメなら他の徳川の分家筋から、次の将軍を引っ張ってくるという、最後の手段もあるのです。
それを何としてでも阻止したいと言う将軍の父親、桂昌院(西田敏行)と、他の徳川分家との確執をもう少し詳しく描いてほしかった。
そのため、どうしても男の子を産まねばならぬと言う、切迫感が観客に伝わって来ないのです。
また、大奥は日本国中から選りすぐりの美男で固められているはず。そこになぜ、宮藤官九郎が御台所役として入っているのか? 理解に苦しみますね。
もし自分が脚本家なら、と空想してみます。
女将軍である綱吉がもしも、同性愛者であったなら……。
いやがる侍女を夜な夜な寝所に引き寄せ、いたぶり遊ぶ綱吉。(もちろん映画は18禁になりますけどね)側近中の側近である柳沢吉保もオンナであるから、これも「お手付き」にしてしまう。柳沢は毎晩のように寝所の傍らに待機している。そして綱吉の夜の女遊びを黙認する。
その心中、実は吉保は綱吉に恋心を抱いている。身分を超えた恋心。夜な夜な他の侍女に手をつける綱吉に柳沢は嫉妬する。
綱吉はたまに父親である桂昌院から絶世の美男子を世話してもらうが、綱吉はどうしても男を受け入れることが出来ない。
世継ぎを生まねばならないという切迫感と、それでもオトコを受け入れることが出来ない自分のカラダと心、その業、性に、綱吉は葛藤する。その姿を描く、というのはどうでしょうか?
前作の予告編を観る限りでは、大奥内の男性の同性愛、いわゆる男色、衆道についても若干、描かれている様なので、こういう設定もありなのではないかと……
以上私の戯れ言でございました。


**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆
美術 ☆☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆

**********
作品データ

監督   金子文紀
主演   堺雅人、菅野美穂
製作   2012年 
上映時間 124分
 
予告編映像はこちらのアドレスをコピーしてお使い下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=ueobrzJhBj4



DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?

2013年2月24日鑑賞

***ブラックホールとしてのAKBシステム***


それはステージの上に透明なテープで無造作に貼付けられていた。
「0番」「センター」と呼ばれる立ち位置である。
ここから見える景色は特別だ。横に仲間は見えない。誰にも助けてもらえない。目の前に見える景色は観客だけである。この位置に立つ者はグループの「顔」と しての役割を与えられる。観客から最も近い距離で声援されるポジションであり、また、最も激しく「バッシング」されるポジションでもある。
そのポジションに七年間立ち続けたのが前田敦子という少女である。
アイドルグループAKB48において「不動のセンター」「絶対的エース」と言われ続けた前田敦子。ファンなら誰でも知っていることだが、彼女は運営側から 命令されてセンターを務めることになった。当初は嫌がっていた彼女だが、何年もセンターを務めることにより、徐々に本人にも自覚が生まれていったのだろう。
彼女はやがて輝きを放ち始める。それはスタッフの想像さえ超える程の輝きだった。そして前田敦子と言うキラキラ光るダイヤモンドの虚像は一人歩きを始めた。それは求心力をもったダイヤモンドだ。

その前田敦子がAKB48からの卒業を発表する。さいたまスーパーアリーナでのコンサート。突然の卒業発表に、会場に居合わせたファンは、まさにこの世の終わりとまで思ったことだろう。会場は阿鼻叫喚の渦となり、さながら地獄絵図を思わせた。
AKB劇場公演最後の夜。彼女は秋葉原というひとつの街を、丸ごとパニックに陥れた。それ程の巨大な虚像であったことを前田敦子は証明した。まさにアイドルバブル状態の頂点に彼女は存在したのだ。
やがて「前田敦子」と言う名の「祭り」は終わり、ファンは次の「祭り」「次のセンター」をAKBに求める。

AKBというシステムは実に残酷なシステムである。アイドル、あるいはアイドルになろうとする少女達を競わせ、格付けし、順位を付ける。


それが多くのファンの興味と関心を湧かせ、巨大な集客マシーン、集票マシーンであることを、敢えてあからさまに見せ付けている。
AKBというシステムは「高校野球のようなもの」とプロデューサーの秋元康氏は言う。
バッターがボテボテの内野ゴロを打ったとしよう。アウトになるのは分り切っている。だが、それでも全力で一塁へ走り、ヘッドスライディングする。更には審判に「アウト!」と言われ、そのあとベンチに帰るときも「全力疾走」する。
これが高校野球に例えられる「AKBスピリッツ」なのである。
プロ野球は観ないが、春と夏の高校野球は楽しみにしているという野球ファンは多いと思う。僕もそのファンの一人である。
秋元康氏は「AKB劇場」という、アイドルのための甲子園を作った。
高校野球に独自の野球ルールがあるように、AKBというシステムにもルールがある。それが「恋愛禁止」という条例である。
2012年のAKBにおいて特筆すべきことは「恋愛スキャンダル」という「津波」に何度も襲われたことだ。
選抜総選挙4位と言う大躍進を遂げた指原 莉乃。会場となった武道館のステージ。彼女はまるで天国にいるかの様な気分になったことだろう。しかし、ある週刊誌は虎視眈々と狙っていた。彼女の恋愛スキャンダルは総選挙が終わった直後にスクープされた。
喜びは束の間。それは指原にとって正に三日天下だった。彼女は文字通り、天国から地獄に真っ逆さまに突き落とされた。
これはAKBにとって2012年最大の「津波」だった。しかし秋元氏と指原は、HKT48への移籍という形で、この難局を粘り腰で乗り切った。
だが、残念ながらこの津波に飲み込まれ、助からなかったメンバーもいる。
中でも、一期生の平嶋夏海の脱退は、運営スタッフ達にとって断腸の思いだったろう。
AKB発足時のメンバーでただひとり、ブレイクしそこなっていた平嶋。秋元氏も「今年こそ頑張れよ」と彼女にユニットメンバーの地位を与え、チャンスを与えていたのである。
しかし、その期待をスキャンダルと言う津波は、無常にも”木っ端微塵に”打ち砕いてしまった。
デビューから彼女を陰で見守って来た劇場支配人、戸賀崎氏は泣いた。泣き崩れた。キャメラは大の男が泣き崩れる背中、そのくやしさを冷徹に捉えた。
ドキュメンタリー作品としての本作は、過去のAKB関連作品の中で最も演出、編集が良いと僕は思っている。
何を見せたいのか? という監督の演出意図が実に的確なのだ。
本作では特にコンサートでのバックステージに絞って、ドキュメンタリーが構成されている。そこにリアルで「ガチ」なAKBの姿がある。

高校野球や、宝塚歌劇は何十年と言う歴史を持っている。AKBというシステムもやがてそうなるのだろうか?
秋元氏が生み出したこの「AKBフォーマット」と呼ばれるシステムは、今や日本の重要な輸出品でもある。
日本国内における経済効果は今や300億は下らないといわれるから、外国政府にとっても巨大企業誘致に匹敵する、魅力的なシステムなのだ。それを思うと、このシステムは、そう簡単には破綻しないだろうと思われる。
AKBというシステムは常に自らの組織を発展的に壊し、再構築し続けている。そこには常にサプライズがある。近頃、最大のサプライズの噂がある。
「秋元康、本日をもってAKBを卒業します」という発表である。
その時、熱狂は終わるのだろうか? それは当の彼女達AKBメンバーが最も関心を持っていることだろう。
さて、AKBは日本文化に何をもたらしたのだろうか?
秋元氏がゲリラ的に始めた秋葉原の小さな劇場。そこで歌い踊る少女達が日本文化の一部を切り取り、世界に向けて発信するまでになった。かつては一部のオタ ク的、隠れ家的な文化が、今や日本全土をカバーする、エンターテイメントの本流にまでなってしまった。ファンは増え続け、熱狂し、CD売り上げはミリオンセ ラーを連発している。もはや、日本国民全てがAKBを「知っている」状態になった。
「サブカルチャー」が「メインストリーム」に成り上がったのだ。
AKB選抜総選挙は、衆議院議員選挙よりも遥かに盛り上がる。
「AKBグループ総監督」といういかめしい肩書きを持つ「高橋みなみ」
高橋みなみは、一声でドーム球場50,000人の観客を黙らせることが出来る。総理大臣でもこれは出来ない。おまけに彼女は身長たったの148cm。まだ21歳という若さだ。まさに離れ業である。ファンにとって小柄な彼女の声はまさに「神の声」なのである。
秋葉原の小さな劇場でスタートしたAKB。初日の一般客はたったの「七人」だけだった。
そのAKBというアイドルグループシステムが、まさかここまで肥大化し、大衆への影響力を持つことになろうとは、誰が想像出来ただろう。
これはあくまで僕の個人的な感覚なのだが、ある種の嘔吐感さえ伴った「気持ち悪さ」を感じずにはいられないのだ。
それはあの悪名高い「ナチス•ドイツ」の集会とあまりにも似ているからだ。
そこには熱狂があった。大衆は安易に求心力を求めた。
いったいこの先、AKBはどれほどの熱狂と集中を生み出し続けるのか?
その気持ち悪さは、大衆と言う名の「頭のないバケモノ達」の意志のエネルギーを吸収し続ける。
そしてあまりにも肥大化したエネルギーは、遂には日本文化そのものを飲み込んでしまう、ブラックホールになる恐れさえある。
そこにはもはや「未来と言う名の光」さえ飲み込まれる、暗黒の世界が待っている。
僕にはそんな風に思えてならない。
**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆

**********
作品データ
監督   高橋栄樹
主演   前田敦子、高橋みなみ、他AKB48グループ
製作   2013年 
上映時間 128分 

予告編映像はこちらのアドレスをコピーしてお使い下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=ytl3cJJEIf8&feature=share



100万回生きたねこ

2012年3月2日鑑賞

***佐野洋子さんに謝りなさい***

「100万回生きたねこ」がドキュメンタリー映画になる!!
佐野洋子さんのファンにとっては、もう期待で胸が一杯になるはず。僕は「100万回生きたねこ」は一回だけ図書館で読みました。その時の記憶、飛んじゃってるんです。
夢の中にいる様な感じで、自分が何を読んだのか? 何を体験したのか? 読み終わってただ呆然としていたのです。


こんなすごいことが絵本で出来るんだ……。
そう言うことを教えてくれた佐野さん。
僕はその後、佐野洋子さんの「コッコロから」という小説を読みました。
なんて幸せな小説なんだろう。
なんて人を喜ばせる小説なんだろう。
僕は今小説の習作を書いています。
だけどうまく書こうとする程、全然書けない。
佐野洋子さんはプロの小説家ではありません。
その文体はぎこちないし、技術的には正直、そんなにうまいとは思えません。
だけど「コッコロから」という小説は、本職、プロフェッショナル、専門家としての小説家では成し得ないことをやり遂げています。
それは佐野さんの豊かな人間性に裏付けられた、人を見る視点、
人を愛情を持って観察しているところから来ているのです。
その佐野さんが、このドキュメンタリー作品の監督に向けて放った最初の言葉。
「アンタ、何しに来てるんだっけ?」
佐野さんは見抜いていました。
「こいつ監督失格だ」と。
「アンタ何しに来てるんだっけ?」と言われた段階で、監督は気合いを入れ直し、ドキュメンタリーの構成を練り直す必要がありました。佐野さんの作品を観たり、読んだ方は分るはずです。
佐野さんは人間観察の達人なのです。
佐野さんは本作の監督を一目見て
「この程度の覚悟で来てるのか?」と見抜いたのです。
僕は400本程の映画を劇場で鑑賞し、いままで380本あまりの映画レビューを書いてきました。僕の好きなレビュアーさん等は1000本ものレビューを書いている方もいらっしゃる。
たった380本のレビューしか書いてない僕が言うのもおこがましいのですが、380本のレビューを書いて来たから分ることがあるのです。
申し訳ありませんが、本作は全くの駄作です。
僕はあまりにひどさに途中退場しました。
何年かぶりの途中退場でした。
「ダマされた」とまで思いました。悔しかった。
この作品は映画を学ぶ学生の、卒業制作よりひどい駄作です。
ここまでひどい作品を観たのは初めてでした。
だからあえて、「駄作の見本」として映画レビューを書こうと思ったのです。
更に言えば、映画製作を志す人達に申し上げておきたい。
それは「気取るな!絶対に気取るな!!」ということです。
映画に限らず、創作の神様の前では、「創り手」は謙虚になるべきです。
本作で何より気になるのは、監督が、いっぱしの映画作家であるかのような「気取った」姿勢をとっていることです。
幾ら隠そうとしても、その創作態度が作品から滲み出てしまいます。
映像作品の怖さはそこにあるのです。
例えば、全く意味のないキャメラの長回し。
葬儀の後片付けを延々と撮る、その芸のなさ。
佐野さんの故郷へ女優を訪問させる。それはいいとして、何故、ただのがれきの山を、長い時間かけて観客に見せる必要があるのか? 僕ならあそこはせいぜい5秒ぐらいのカットを3、4カットつなげて編集し、そのシーンを終わりにするでしょう。
それを意味もなくダラダラ、ダラダラ、さも意味があるかのように見せかけて女優を歩かせている。そこに監督の「映画作家気取り」があるのです。
観客は佐野さんの創作の秘密を知りたいのです。
観客は佐野さんの生の人柄を知りたいのです。
だからお金を払って観に来ているのです。
監督は観客が何を観たいのか、それを全く無視したとしか思えません。
監督がすべきことはまず、佐野さんのお墓に行って、花を手向けてください。そして謝って下さい。
きっと天国の佐野さんはこういうでしょう。
「アンタ、何しに来たんだっけ?」

**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆
配役 ☆
演出 ☆
美術 ☆
音楽 ☆

総合評価 ☆

**********
作品データ

監督   小谷忠典
主演   佐野洋子、渡辺真起子
製作   2012年 アメリカ
上映時間 91分 
予告編映像はこちらのアドレスをコピーしてお使い下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=Pn_GVSC_CUs


読者登録

天見谷行人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について