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はじめにお読みください

『法律事務所×家事手伝い3 不動正義とハルの子どもたち』には、現在ご覧になっている「パブー版」の他、Kindleストアから購入していただけるマイナビ版がございます。

(どちらも価格はいっしょです)

 

テキストの内容、縦書き仕様、「特別付録」の有無などはまったく変わりませんが、下記の点が若干異なります。

 

①発行元の表示……「マイナビ版」には「株式会社マイナビ」のロゴが追加されています

②文中の数字表記……「パブー版」が算用数字なのに対して「マイナビ版」は漢数字です

③各種画像の表示……「マイナビ版」では「人物相関図」「不動家間取り図」などがファイル内でも表示されており、その他「章」の表示に若干の「修飾」などが施されています

 

以上をご理解の上、お好きなバージョンをお買い求めいただきますよう、お願いします。


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人物相関図


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不動家間取り図


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プロローグ

 その朝、すべての日本人は、空を見上げている者と見上げていない者の2種類に分かれた。そして、見上げている者たちの視線の先にあったものはただ1つ──昇ったばかりの太陽だった。

 

 日本国内のこれだけの広範囲で「金環日食」が観測されるのは932年ぶりで、各地で行われた観測会に出かけた人々はもちろん、通勤途中のサラリーマンまでもがこの天体ショーに魅せられていた。

 

 東京は豊島区雑司ケ谷にある〈雑司ケ谷第二小学校〉の校庭でも、朝7時前から生徒とその親たちが集まって、全校観測会が開かれた。

 

 水沢花梨《かりん》も久しぶりに娘の汐里《しおり》が通う学校にやってきていた。彼女が子供のころはまだガラス板にローソクの「煤」をつけて自作の観測器具を作ったりしたものだが、最近では日食を見る〝ルール〟もかなり厳しくなっている。

 

 そのせいか市販の「日食メガネ」は、うっかりするとどこも品切れになりそうな勢いで売れていた。今年はさらに「金星食」を観測する機会もあるらしいが、それが終わったらこの膨大な数のメガネはどうなるのだろう。

 

 太陽の縁が欠けはじめると、どこからか歓声が上がった。メガネを透かして一心に太陽を見上げていた汐里も「イクリプス・ビギンズ!」と、親の花梨が驚くようなきれいな発音で声を上げた。「日食」を表す英語をどこかで習ったらしい。

 

 汐里が英語を使うのは、花梨の義兄、不動正義《まさよし》がいるときが多いので、一瞬花梨は彼がそばにいるのではないかと周囲を見渡したが、あの巨体が近くにいればとっくに気づいているはずだと思い直した。

 

「ママも見て!」

 汐里が日食メガネを差し出してくると、花梨は彼女の脇にしゃがみ込み、自分も太陽を仰いだ。朝から雲が多いので、辺りが暗くなってきたようには感じないが、日食は予想以上の速さで進行していた。

 

 ふと、すぐ脇に立っている男子生徒に気がついた。5月とはいえ、衣替えもまだなのにタンクトップ1枚で平気な顔をしている。日食メガネはもっておらず、おでこに手をかざして眩しそうに目を細めている。学年ごとに生徒のかたまりが出来ていたから、汐里と同学年かもしれない。

 

 この子はメガネを買ってもらえなかったのだろうか? 生徒のあいだに家庭の〝格差〟がはっきり表れるようになってきたことを花梨も知らないわけではない。だが、その少年の場合はちょっと違った。

 

 ポリシーがあるというにはあまりに幼すぎるのだが、明らかに彼はメガネを使うことを拒絶している、あるいはバカにしている雰囲気さえある。彼がメガネをしないのは、人と同じことをしたくないから──簡単にいえば〝強情っぱり〟だからなのだ。

 

 その横顔に、義兄・不動正義につながる微笑ましいものを感じた花梨は、汐里の肩に手をやって「お友達にも貸してあげなさい」といった。少年の反応を見てみたい気持ちもあった。

 

 汐里は花梨が指差した相手を見るなり、「あ、カワズ……」とつぶやいた。

「〝川津〟くんっていうの?」

 そう聞き返すと、ゆっくり首をふりながら、

──フロッグ」

 と短く発音した。

 

 男子生徒がその気配に気づいてこちらを睨んできた。

 

 だが、花梨はそれにひるむどころか、ますます興味が湧いて「このメガネ、使ってみない?」と声をかけた。

 

 すると案の定、少年は「そんなものを使う奴の気が知れない」とでもいわんばかりに、花梨が思わず感心してしまったような大人っぽい表情を浮かべて、ゆっくりと首をふり、クルッと背中を向けて、観測会の集団から離れていってしまった。

 

「〝川津〟くんって同じクラスだっけ?」

 半ば呆れた顔でその背中を見送りながら、花梨が娘に訊ねた。

「だからぁ……フロッグだってば!」

 今度は汐里までが子供をたしなめる親みたいな顔を自分の母親にチラッと向けてきた。

「フロッグって……何なのよ、それ?」

 しかし、花梨の娘はもはや完全に〝世紀の天体ショー〟に心を奪われていた。

 

     ×

 

 そのころ不動正義は自宅のいちばん奥にある四畳半の自室のベッドで眠りこけていた。

 7時に起こしてくれといわれた継母のりつ子が部屋のカーテンを開けると、サッシのガラス越しに庭木の影が見えた。

 

 葉影の一枚一枚が小さな三日月形になっていることに気がついたりつ子が、慌てて正義を揺り動かすと、その巨体は彼女に背中を向けるように寝返りをうって、同時に「おれ、もう飲めない……」と寝言をいった。

 

「いったいどういう夢を見ているのかしら?……ねえ、正義、確かに起こしましたからね!」

 すっかりバカバカしくなったりつ子はサッシを開け、サンダルをつっかけて庭に出ていくと、少女のような表情で三日月型の葉影を観察しはじめた。


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1 ハルがきた

 不動正義の記憶のなかの彼女が、いつもいつも不意を突いて登場してきたように感じられるのは、おそらく、花のせいだった。

 

 ユキヤナギの終わりの時期には、純白の生地に細かいレースの飾りがついたロングスカートで、小さな花々の群落から抜け出したように現れた。

 

 ハナミズキが咲くと、その花をそのまま飾りにつけた帽子をかぶり、ツツジが満開になったときには、保護色みたいによく似たプリント柄のワンピースを着ていた。

 

 もちろんそうじゃない日もあったのだろうが、そういう日のことしか彼の記憶には残っていない。正義のイメージでは彼女は常に、背景も一緒に〝着て〟いたのだ。

 

 彼女の姿をときどき見かけるようになったのはゴールデンウィーク前からだった。特に早朝、犬の散歩の途中に出会うことが多かった。

 

 彼女が連れているのは小型犬のキャバリア・キング・チャールズ・スパニエル。一方で正義は、光沢のある黒々とした毛に覆われた大型犬、フラットコーテッド・レトリーバーを飼っている。

 

 犬種によって散歩の距離も頻度も異なるので、似たルートを歩いていても、数日に1回すれ違えばいい方だ。だが、雑司ケ谷近辺を今日も彼女が散歩に出かけていると思うだけで、俄然出かける気が湧いてきて、正義がフレンディを連れ出す頻度は格段に上がった。

 

 彼女の存在が正義の記憶に残った理由は犬だけではなかった。彼女の身長が雑司ケ谷界隈の誰よりも高かったからだ。おそらく180センチはあるだろう。

 

 対する正義も背丈にだけは無駄に恵まれていて、190センチ近くある。だから、最初のころは彼女と普通に道端ですれ違っただけで、なぜだか彼は、高い塀越しに見てはいけない相手と目が合ってしまったような、何とも居心地の悪い感じを味わったものだった。

 

 どうやら相手もそうだったようで、目を細めてニコリとしたり軽く会釈したりはしてきても、なかなか声をかけてくることはなかった。正義よりも腰の位置が高く、コンパスのように細くて長い脚をカツカツいわせて、すぐに去っていってしまった。

 

 しかし、お互いの存在に慣れてくると、普通よりも高い位置で彼女とだけ視線がからむことに、正義はむしろ快感を覚えはじめた。面白いもので、いったんこちらがそう思いはじめると、相手の態度も和らいできた。

 

 彼女が最初に正義にかけてきた言葉は、男勝りの「オスッ!」という威勢のいいものだった。同時に切れ長の目が柔らかい弓型になり、口紅をつけていない唇がグッと引かれて、人懐っこい表情で笑いかけてきた。

 

 正義もつられて「よぉ!」と手を上げてしまい、そのまま照れたように後ろの髪を掻いた。

 

 飼い主たちの関係の変化を犬たちも敏感に察知した。〈鬼子母神《きしもじん》堂〉の参道から音大の方に向う緩やかな坂道の手前で彼女に出会ったある朝、2匹の犬はまるで示し合わせたように、じゃれつきはじめた。

 

「いくぞ、フレンディ!……いつまでもイチャイチャしているんじゃないよ」

 だが、レトリーバーはこっちに顔さえ向けてこない。

 

「フレンディっていうんだ」

 と、彼女が訊ねてきた。境内から大きく枝を伸ばしたケヤキの木陰の下で純白のロングスカートが冴えている。その着こなしのセンスというか〝垢ぬけ方〟は半端ではなかった。

 

 それに、これまで世の中の大半の女性と向き合うときにかなり頭を下げる必要があった正義は、彼女の視線の高さにちょっと戸惑っていた。

 

「ああ……こいつで4代目なんだ」

「4代目?」

 彼女は大げさに驚いて見せた。

 

 2匹があまりにじゃれあうので、2人の飼い主たちも自然と参道の脇にある〈みみずく公園〉に移動していった。2人が立ち止ってきちんと話をするのはそれがはじめてだった。

 

「毎回犬種は違うんだけど……

──でも、名前は同じ」

「そういうこと。本当は〝フレンダー〟って名前をつけたかったんだけど、オヤジが許してくれなかった」

「どうして?」

「子供のころ好きだったアニメに出てきた犬のロボットの名前だったから」

 彼女はよくわからないという風に片方の眉を下げた。

 

「つまり、商標権の侵害になるっていうんだよ。30何年前の話だぞ。あんな大らかな時代に、犬の名前でそんなこと心配する親がどこにいるっていうんだよ、なあ?」

 そこまでいってようやく正義は、相手が話についてきていないことに気づいた。

「ああ、そうか、まだ生まれていないか……

「うん。あと10年ぐらい後の時代の話がいいかな」

 ルックスからいえば彼女はまだ20代後半に見える。だが、初めて話をする相手に対する、物おじしない態度からは、プラス5歳ぐらいの幅を感じさせた。

「そうか、〝フレンダー〟も知らないのか……

 正義は感慨深そうにつぶやいた。

「〝ブレンディ〟は知ってるよ」

 彼女は脚立のように長い脚を折り畳み、ボリュームのある長い髪を一方に寄せながら、レトリーバーのそばにしゃがみこむと、深いコーヒー色のつややかな毛並みを撫でた。

「〝ブレンディ〟じゃない……フレンディだ」

 正義はそう訂正した。

 

 数日後、都内唯一の路面電車である都電荒川線の〈鬼子母神前駅〉の踏切で電車の通過待ちをしていると、急にフレンディが吠えだした。正義が振り返ると、すぐわきに彼女が立っていた。

 

「さっき、向こうの弁護士事務所の前に〝ブレンディ〟を繋いでいたでしょ?」

 彼女はいきなりそう切り出し、自分がやってきた方向を指差した。相変わらず犬の名前を間違えている。

 

「ちょっとうちの事務所に用があってね……

 正義が何げなくそう答えると、彼女は驚いたように口を広げて、軽くのけ反った。その拍子にかぶっていた真新しい帽子が落ちそうになり、慌てて手で押さえる。

 

……お兄さん、弁護士さんだったの?」

 大男を正面から見つめ、人を見る能力に自信を失ったかのように目を丸くする。

 

 正義はいつものようにTシャツにカーゴパンツを履いて、足元には小笠原諸島の漁師が使う一体成型のビーチサンダル〝ギョサン〟をつっかけていた。

 

 確かに5月の清々しい朝、近所を散歩するだけなら文句のつけようがない格好だ。しかし、この男がこれからスーツに着替えて、あの事務所で弁護士の仕事をはじめるとなると、まるで彼女にはイメージが湧いてこないようだった。

 

「いや、あの事務所で弁護士をやっているのはおれのオヤジ……おれは単なるそこの〝調査員〟」

 正義はこの手の誤解にはさんざん慣れた調子で説明してやった。

「いわば弁護士という家業の手伝い──家事手伝いってわけ」

「家事手伝い……クールじゃん。そのうち跡を継ぐってこと?」

 彼女はそう切り返してきたが、それに対する答えも彼はすでに用意してあった。

「残念ながら、おれは司法試験に受かってない。法科大学院も出てないし、司法浪人中でもない──いい加減40歳《しじゅう》も過ぎているし」

 それを聞いて彼女はさらに何かいおうとしたが、正義はその切っ先を制して、

「今あんた、ものすごく納得した顔をしたろ」

 といった。

「そんなことない──ないない!」

 彼女はそういいながら手のひらを口に当てたが、細くなった目もとは我慢できずに、さらに強く笑った。

 

「それにしても背が高いよね、お兄さん」

 彼女は何とか話の矛先を変えようとしてそういった。

「無駄にな……そういうお姉ちゃんだってさ」

「アタシ?」

「バレーボールでもやってたのか?」

 正義は右手を上げてサーブの真似をして見せた。

 

 一瞬間があってから、相手は納得したように答えた。

「まあね」

 

 正義は自分が何か大きな勘違いをしている気がしたが、それが何なのかわからなかった。ただ現役でバレーボールをやっている脚じゃないな、と彼女の細い足首に目を落としながら思った。

 

 ちょうどそのとき2人の目の前を早稲田に向う都電の車両が通り過ぎた。最近増えてきた、広告でラッピングされた車両だった。

 

 彼の目の前を横切っていったのはスパンコールやラインストーンが光輝くドレスに身を包み、オリエンタル風のメイクをした美しい女性が、妖艶に微笑んでいる海外ブランドの化粧品の広告だった。

 

 だが、正義はその広告には何も興味を惹かれずにこういった。

「だけど、弁護士事務所じゃ役に立たないんだよなあ」

 都電を目で追っていた彼女は、慌てて振りむいた。

「何かいった?」

 踏切が上がると、正義は線路を渡りながら繰り返した。

「弁護士事務所じゃ役に立たないっていったの、いくら背が高くても」

「そうだよね」

 彼女はあっけらかんと答えた。

「お姉ちゃん……仕事何してんの?」

 ふいにそう訊ねられて、彼女はまた言葉に詰まった。

 

 正義は構わずにつづけた。

「働く必要がある人には見えないけどな。美人だし、ヒマそうだし……

「そう見える?」

 彼女は別段気を悪くしているようではなかった。

「見える見える。カネとヒマだけは間に合ってますって顔に書いてあるよ」

 正義がイヤミなほど何度もうなずくと、さすがにちょっとムッとして、

「そういうお兄さんはどうなのよ?」

 と反撃してきた。

「カネはないけど、ヒマなら負けないぐらいあるよ。なんせ動かずの不動じゃなくて、働かずの〝不働〟って呼ばれてるくらいだから」

 正義は空中に文字を描き、さらにこう付け加えた。

──あと身長と体重もあり余っている。もうちょっと〝エコ〟な体型でよかったんだけどな」

「やっぱりね」

 彼女は満足そうにうなずいた。

「〝たっぱ〟や〝めかた〟で金になる仕事があったら教えてくれよ。その代わり、何かトラブルがあったときは、オヤジを紹介してやる……じゃ、おれ、こっちだから」

 正義は彼女に顔を向けたまま、拡張工事がつづいている線路沿いの道を〈大鳥神社〉の方に曲がっていった。

 

 フレンディがそこで一声吠えた。

 

「またな、〝ホッピー〟!」

 ケヤキ並木の方へまっすぐ向っていく彼女とその愛犬に、正義は軽く手を振ってやった。

 

「〝ホッピー〟じゃなくて、ハッピー!」

 彼女は正義の大きな背中に向ってそう訂正した。

 

 3度目は正義の自宅の前で出会った。40歳を過ぎて未だ独身の彼が両親といっしょに住んでいる一軒家は、〈大鳥神社〉と〈鬼子母神堂〉を結ぶ、緩くカーブした細い道沿いに建っている。家の前の生垣はちょうどツツジが満開に咲き誇っていた。

 

 今回も最初に気づいたのはフレンディだった。ツツジと同じ色遣いのプリント柄のワンピース姿の彼女は、まるで迷彩服を着ているかのように、すぐにはその存在がわからなかった。

 

「今日はこんなところを散歩か?」

「あの車、カッコイイね」

 彼女は生垣が途切れた先に停めてある、黒塗りの巨大な弁当箱のような大きな車を示した。ハマーH1というアメリカの軍用車両をベースにした4ドアワゴンだった。

 

「おれの車だよ」

「またまた」

 彼女は今日こそは正義の言葉に驚かされまいと警戒しているようだった。

「本当だってば……で、ここがおれのうち」

「ホントに?」

「ホントホント……そこにオレンジ色の庇が見えるだろ、赤く〝雑司ケ谷スイーツ〟って書いてある──あれはおれの妹がやっている店だ」

「へえ、こんなところにスイーツのお店があった」

「開店前じゃなかったら、何か土産を持たせてやれたんだけどな」

 彼女は嬉しそうな笑顔になった。

「あんたの口に合うかどうかはわからないけど」

「別にアタシ、そんな大層な人間じゃないから」

 その途端、正義は急に訝《いぶか》しげな目で彼女を見つめた。

「どうしたの? 何かついている?」

……その顔、どっかで見た気がするんだよな」

「どこにでもある顔だと思うけど」

 彼はしばらく悩んだが、結局また何も思い出せなかった。

「お姉ちゃんはどのあたりに住んでいるんだ?」

「今は〈雑司ケ谷霊園〉の向こう側に住んでる。マンションのまわりの金網に、バラの樹がびっしりと巻きついて咲いているところ、知らない?」

「そんなところ、あったっけ?」

「マンションを建てる前から有名だったって聞いたけど? あんまりキレイだから、これだけは残そうって話になったらしいよ。そろそろ見ごろだし、たまには散歩コースを変えなよ」

「正直な話、あんまり花には興味がないんだけどな」

 正義は苦笑いをした。

「お兄さんの場合は花より〝六法〟だもんね」

 彼女は自分の当意即妙を自慢するように、ちょっと顎を突き出すポーズをとった。

──うまいこというねぇ」

 正義は思わずそう答えた。

 

 オレンジ色の庇の下にガラスのショーケースをはめこんだ小さな店は、以前は応接間だったところを改造して半年ほど前に花梨が開業したものだった。

 

〈雑司ケ谷スイーツ〉と大げさに名乗っているが、まだ品数も少なく、営業時間も短い。娘を連れて出戻ってきた義妹の花梨が、社会復帰のリハビリのような意味合いではじめた店なので、採算も度外視だった。

 

「おい、セイギ──!」

 正義が庭を回ってフレンディを犬小屋へ連れていこうとすると、ショーケースの上から花梨が顔を覗かせて、彼を呼びとめた。

 

 フレンディに負けない黒い髪と、大きな目、年齢の割にきれいな肌が七難を隠して見た目を若く見せているタイプだが、娘を小学校に送り出し、開店準備をはじめるこの時間帯は、化粧もせず、およそ客商売とは思えない不機嫌な顔をしていることが多い。

 

「また出前しろとかいうなよ、今日は忙しいんだから」

 正義は「今日は」を強調していった。

──今の」

「はあ?」

「今の!」

 花梨はそれしかいわない。だが、正義の反応があまりに鈍いので、仕方なく後をつづけた。

──岸川ハルじゃない、今の?」

「岸川っていうのか、あの人?」

「知らなかったの、おまえ?」

 7歳年上の義兄をつかまえて、花梨は大抵こういう男っぽい口調で話しかけてくる。

「知ってるよ、朝の散歩コースでよく会うからな」

「そうじゃないって……

 花梨はそこでようやく、正義がふざけているのではなく、本当に何も知らないことに気がついたようだった。

 

「スーパーモデルの岸川ハル。テレビで見たことない? 最近、都電の車体に大きな広告が出ているじゃない。あれ見たことないの?」

「ああ……

 正義はようやくピンときて、上体をのけ反らせてから大きくうなずいた。

──スーパーのモデルか?」

「〝の〟じゃない──スーパーモデル」

「わかっているよ、バカ」

「ホントか?」

「スーパー〝な〟モデルだろ」

「まあ、間違いじゃないけど」

「何でこんなところにいるんだ? 墓地の向こうのマンションに住んでいるっていってたぞ。バラで有名なマンションだって……

「ああ、あそこ……

「ああ、あそこって──知ってるのか?」

「有名だもん──バラのマンション」

「おまえは〝花より団子〟かと思っていたよ」

「うちは団子屋じゃないから」

 だが、正義は花梨を無視してぼんやりとこういった。

「そろそろバラが見ごろだっていってたな……

「おい、セイギ──

 すかさず花梨が釘をさしてきた。

「のこのこ出かけていくんじゃないぞ」

「どうして……

……岸川ハルっていう人は、アメリカ人だかフランス人と、もう結婚しているんだよ。確か子供もいたはず」

「結婚しているから、何だよ? おれは単に、散歩のついでに満開のバラを〝愛《め》で〟にいくだけだぞ」

「どうだか。〝花より団子〟はおまえの方だろ? それに、独身だったとしても彼女は〝高嶺の花〟すぎるよ」

「背の高さだけはバランスがとれているんだ。背の高い人間にはな、背の高い人間にだけ共有できる世界があるんだぜ。チンチクリンのおまえにいわれたかないなあ」

 正義は自慢げにいった。

「チンチクリンで悪かったわね。ああいう生まれついて幸運な人は、何も〝しょっていない〟からどんどん背が伸びるのよ」

 

 それじゃあ、おまえはいろいろ〝しょっている〟っていうのか?──正義は思わずいい返そうとして、慌ててその言葉を飲みこんだ。

 

 彼は軽く咳払いをすると、フレンディをつないでいるリードを引いて「はぁ~、しょってるしょってる、しょってるね~」と民謡調で唄いながら庭に去っていった。



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