閉じる


闇に潜む狐

 

 

 暦ではそろそろ立冬を迎える朔の夜。 墨を流したような雲は幽かな星明かりをも遮り、日本橋界隈は漆黒の闇に覆われていた。

 

江戸でも有数の廻船問屋『池田屋』の軒下。 漆黒の闇を身に纏わせ気配を消し去り、防火用に積まれた天水桶の脇に潜む人影があった。

 

夜空を覆っていた雲が寸の間途切れ、幽かな星明りに照らされ浮かんだ姿は、鳶のような出立ちに黒い頬かむりをした若い男だった。

 

黒い頬かむりから覗く肌は白く透き通り、歌舞伎役者のような整った顔立ちをしていたが、その目は細く鋭く光り、覗き見た者の心を凍らせる冷たさがあった。

 

昼間は商いや物見遊山の人々で賑わう両国広小路に向かうこの通りも、今は夜鷹相手の振売りの姿も途絶え、闇と同様深い静寂が支配していた。

 

夜回りの拍子木の音が遠のくと、男は鳶口のような道具を使い、音も無く池田屋の塀を乗り越えた。

 

男は跪くように身をかがめ、植え込みに身を隠しながら通り庭を抜け、母屋の裏に建つ蔵へと向かった。

 

蔵の角に辿り着くと、男は用心深く辺りの様子を伺った。

 

屋敷内は深い静寂に包まれ、起きている者の気配は全く無かった。

 

男は蔵の扉の前に立つと、懐から布にくるんだ道具を取り出し、足元に手際よく広げた。

 

漆喰造りの蔵の扉は、外側から『夜戸』『外戸』『昼戸』の三重の造りで厳重に守られていた。

 

大外の『夜戸』は、蔵の外壁と同じく分厚い漆喰で塗り固められ、大火にも耐えられる造りになっていた。

 

『夜戸』を封じている三寸角の頑丈な閂には、大人の頭ほどもある土佐錠が掛けられていた。

 

日本刀と同じ上質の玉鋼で作られ、女肌のような艶を持った見事な土佐錠に、男は暫し見蕩れた。

 

男は足元に広げた道具の中から、簪の先にひねりを加えたような棒を二本取り上げると、一本は口に銜え、もう一本を正面の鍵穴に差し込んだ。

 

棒の先端を微妙に捻りながら錠前内部の板刎を押し広げ、口に銜えていたもう一本も鍵穴に差し込んだ。

 

鍵穴に差し込んだ二本の棒を同時に回すと、「カチッ」という手応えと共に土佐錠は呆気無く開いた。

 

五貫目はあろう土佐錠と閂を、男は華奢な体にもかかわらず軽々と持ち上げ、蔵の角に下ろした。

 

瓢箪に入れ持って来た行灯の油を扉の蝶番に差し、分厚く重い『夜戸』を音を立てぬよう慎重に引き開けた。

 

次に現れた『外戸』は堅木の欅で頑丈に作られた扉で、家紋をあしらった豪華な装飾が施されていた。

 

扉の中央には、工芸品のような美しさを持った箱型の海老錠が掛けられていた。

 

男は先端がコの字型になっている棒を右側面の鍵穴に差し込み、捻りながら引くと錠前の内部がそっくり引き出されるようにして海老錠は外された。

 

『外戸』を引き開けると、簡単な造りの格子戸が現れた。 この『昼戸』は仕事中頻繁に開け閉めする為、本来鍵は掛けないのだが、何故か小さな根付けのような錠前が取り付けてあった。
 

もっとも錠前など外さなくとも、一蹴りすれば簡単に壊せるのだが、荒事を好まぬ男は小さな錠前に手を伸ばした。

 

その小さな錠前は名のある鍵師によって作られたらしく、表面には梅の花と鶯の見事な彫刻が施されていた。

 

それと驚くべき事に、この錠前には鍵穴らしきものが何処にも無かった。

 

「参ったな・・・こんな錠前は初めてだ」

 

参ったなどと口にした割には、男の顔には嬉しそうな笑が浮かんでいた。

 

男は錠前の表面を指先でなぞり、動きそうな部分を探した。

 

錠前の側面を捻る様に力を加えてみると、僅かではあったが隙間が出来た。

 

その隙間に針を差し込み探ってみたが、思うような手応えは無かった。

 

道具を変え色々試してみたが、開けるどころか隙間を広げることすら出来なかった。

 

時を忘れ無心に錠前を弄る男の耳に、日本橋本石町で鳴らされる時の鐘の音が聞こえて来た。

 

暁七つ、使用人が朝餉の支度に起き出す時刻になろうとしていた。

 

「ここまでか・・・」

 

男は残念そうに呟くと、闇の中に溶け込むように姿を消した。

 

 

 

 


鍵を銜えた狐

 

 

 江戸の町を散策していると、そこかしこでお稲荷さまに行き会う。

 

『喧嘩と火事は江戸の華』と語られるように、江戸の町は頻繁に大火に見舞われていた。

 

火伏せの守り本尊であるお稲荷さまは、火難より町を守りたいと願う江戸町民の手により町の辻々に建立され祀られていた。

 

稲荷神社の入口には、狛犬の代わりに対の狐の石像が置かれ、口にはそれぞれ宝玉と鍵を銜えていた。

 

お稲荷さまが口に銜える宝玉は五穀豊穣の神を、鍵は神を祀る蔵を開く鍵を象徴していた。

 

日本橋界隈ではここ数年、大店の蔵を荒らす盗賊が出没し、江戸雀の間で格好の話のタネになっていた。

 

この盗賊は人を殺めたり屋敷を壊すなどの荒事は決して行わず、厳重に鍵の掛けられた蔵の扉を事も無げに開ける仕業から、鍵を銜えたお稲荷さまをなぞり何時からか『夜狐』と呼ばれるようになった。       

 

 

 

 

 南本所花町長屋の共同洗い場は、三々五々朝餉の後片付けに集まって来た長屋の女将さん達の賑やかな笑い声で溢れていた。

 

「おや佐吉さん、これから仕事かい?」

 

佐吉と呼ばれた若い男は三年程前からこの長屋に住み着き、簪作りを生業として暮らしていた。

 

若い男は色白で切れ長の目に歌舞伎役者のような整った顔立ちで、落ち着いた色合いの江戸小紋の着物を粋に着こなし、風呂敷に包んだ小さな箱を背負って戸口から現れた。

 

「へぇ、日本橋の池田屋さんに頼まれた小間物を、これからお届けに伺うところです」

 

「日本橋の池田屋と言えば、江戸で一、二を争う廻船問屋じゃないか。 佐吉さん大したものだねぇ、そんな大店からお呼びが掛るなんてさ」

 

「これもひとえに御贔屓を頂いている小間物屋さんや周りの皆様のお陰です。 さもなければ田舎者の私なぞ、歯牙にもかけて頂けなかったでしょう。 すみません、お茶でも飲みながら四方山話に花を咲かせたいところですが、池田屋さんもお忙しい中待っておられると思いますので、これで失礼します」

 

佐吉はにっこりと微笑み、長屋の女将さん達に軽く会釈をすると、表の木戸へと向かった。

 

「佐吉さんは、ほんにいい男だねぇ。 簪職人としての腕も一流だけど、腰が低くて礼儀正しいし、どこぞの大店の手代をしてたとしてもおかしくないよね」

 

「まったくだよ、こんな長屋で燻っている なんて、もったいない話さね。 まあ、あたしらにとっちゃ、いい男を毎日拝めて眼福だけどさ」

 

「ああ、あたしも後十も若けりゃ、ほっときゃしなかったのにさ」

 

「あんた、それは三十若けりゃの間違いだろ」

 

「三十? それじゃ、あたしゃまだ生まれていないよ」

 

「馬鹿だねぇ。 だから、そんだけ望みが無いって話だよ」

 

 

 

 

 「佐吉」

 

長屋の木戸を潜った所で、佐吉は無精髭を生やした色黒でやたら眼光の鋭い小柄な男に呼び止められた。

 

「これは黒田の親分さん、見回りでございますか?」

 

「まあ、そんなとこさね。 ところで佐吉、これからどこへ出張るんだ?」

 

「へぇ、日本橋の池田屋さんへ」

 

「ほう、池田屋ねぇ・・・」

 

黒田の親分と呼ばれた岡っ引きは、すうっと目を細めた。

 

「池田屋と言えばよ、表沙汰にはなってねえが二日前に押し込みがあったそうだ。 蔵の扉には名のある鍵師に作らせた自慢の錠前が掛けてあったそうだが、その扉が厠の戸みたいに、いともたやすく開けられていたそうだ。 ところがおかしなことによ、女子供でも一蹴りすりゃ容易く壊れる格子戸を残して、何も取らずに立ち去っていやがる。 目の前には金子や高価な品が唸るようにあったにも拘わらずにだぜ。 なあ、何でだと思う?」

 

 

「さあ・・・私にはさっぱり・・・」

 

「手口からして昨今、江戸の商家を荒らし回っている盗賊『夜狐』に間違いないと俺は睨んでいるんだがな。 池田屋は何も盗られてねぇし、何より大店の信用に傷が付くような事は避けてぇから、引き合いを抜いて内分で済ませる心づもりだろうよ。 おめぇさんは、いつから池田屋に出入りするようになったんだい?」

 

「へぇ、三月ほど前からですか。 何かと御贔屓を頂いている小間物屋の菊屋さんの御紹介で出入りさせて頂いております」

 

「そうかい・・・ところで話は変わるが、おめぇさん王子におっかさんがいたよな。 胸を患い長く床に臥せっていると聞いたが、おめぇさんの稼ぎだけじゃ、医者に払う高値な薬礼を払うのは大変だろ?」

 

「お陰様で簪作りの仕事もそこそこ頂いております。 それに菊屋さんの所で背負小間物もさせて頂いておりますので。 楽ではありませんが、切り詰めて何とか凌いでおります」

 

「そいつぁ若いのに感心なこった、おっかさんを大切にしてやんな。 そうだ、後で池田屋にも寄らせてもらうよ」

 

「へぇ、お伝えしておきます。 先を急ぎますので、これで失礼します」

 

深々と頭を下げ、足早に立ち去る佐吉の後ろ姿を、鋭い目付きで見つめながら黒田は呟いた。

 

「一分の隙もない、食えねぇ野郎だ。 だが夜狐さんよ、その尻尾を必ず捕まえさせてもらうぜ」

 

 

 

 


背負小間物を商う狐

 

 

 天正八年、徳川家康が豊臣秀吉より関八州を与えられ江戸に入府した当時、この地は川や沼が深く入り組み『空より広き 武蔵野の原』と歌われたほど、葦が深々と生い茂る原野が広がる寂れた土地だった。

 

また当時の江戸は桜田、日比谷辺りまで海が入り込み、日比谷入江と呼ばれていた。

 

慶長八年、右大臣征夷大将軍に任ぜられた家康は、全国に大号令を発し大規模な江戸城下町の普請を開始した。

 

各地から集まった膨大な数の役夫を使い神田山を切り崩すと、その土砂で日比谷入江を埋め立て、次々と町家を造っていった。

  

上方より菱垣廻船や樽廻船で運ばれてきた、油、醤油、砂糖、鰹節、紙、薬種、木綿、酒などの生活物資は、隅田川の永代橋の手前で瀬取り船に積み替えられと、江戸城を中心に環状に巡らされた無数の水路を使い、町の隅々まで運ばれた。

 

こうして江戸の町は、物流と商業の拠点として発展し、当時世界で最も大きな都市へと成長した。

 

 

 

 

 江戸で一、二を争う廻船問屋『池田屋』は、日本橋から十軒店本石町に向かう通り沿いに店を構えていた。

 

店の裏手にある船着場には瀬取り船が横付けされ、上方より運ばれて来た大量の品々を、上半身裸の人足達が体から湯気を上げながら荷揚げしていた。

 

店先には商品を山積みにした荷車がずらりと並び、店内は手代や仲買人でごった返し、喧騒と活気に溢れていた。

 

「御免なすって、花町の佐吉です。 頼まれてました小間物をお持ちしました」

 

佐吉は店内の喧騒に負けぬよう声を張ると、帳場の奥から大番頭の平蔵が和かに微笑みながら出てきた。

 

「よくおいでだね佐吉さん、大旦那様と女将さんがお待ちかねだよ。 定吉、佐吉さんを母屋の奥座敷へご案内しておくれ」

 

「あの・・・何か不手際がありましたでしょうか?」 

 

佐吉は眉をひそめ、大番頭の平蔵に問いかけた。 これまで商品と代金の受け渡しは帳場で行われるのが常であり、簪職人風情が大店の奥座敷に呼ばれるなどとはまず無い事だった。

 

それにいつも応対するのは手代さんで、店を一手に預かる大番頭が直々に出て来るとは余程の事である。

 

池田屋の藏破りには失敗したが、自分が『夜狐』であると露見するような下手は打っていないはずだ。

 

だが黒田の親分の件がある。 先ほどの黒田の言動は明らかに自分を疑っていた。

 

 

 

「はっはっはっ、佐吉さん、気の回し過ぎだよ。 何も取って喰おうという魂胆じゃないよ。 どちらかと言えば、佐吉さんにとっては良い話が聞けると思うがね」

 

 

 

 

 小僧さんに案内され奥座敷の前まで来ると、佐吉は襖の前で正座し「失礼します」と中に声を掛けた。

 

襖を身幅ほど引き開けると膝行して座敷に入り、綺麗な所作で襖を閉めた。

 

座敷では活花模様の屏風を背にして、池田屋の大旦那勘兵衛と女将のお菊、そして末娘の小春が火鉢を囲んで座っていた。

 

佐吉は勧められた座布団には座らず、下座側で両手をついて挨拶をした。

 

「佐吉さん、そんなに鯱張らなくてもいいんだよ。 我が家とまでは言わないが、楽にしておくれ。 今日お前さんに御足労願ったのは、ちょいと相談事があってね。 うちはご覧の通りの廻船問屋だけど、どういう訳か末娘の小春が小間物屋を始めたいと言い出したんだよ。 私は若い娘らしく、習い事でもしていなさいと言って聞かせたんだけど、頑として譲りやしない。 商人の血なのかね、そこで懇意にしている小間物屋の菊屋さんに相談したら、お前さんを紹介されたと言う事の次第なのさ」

 

「旦那様、私は仕事を頂いている菊屋さんのお手伝いで背負小間物をしておりますが、本来は簪職人でして商家に奉公に上がった事など一度もありません。 到底お役に立てるとは思えませんが・・・」

 

「いやいや、ここ数箇月お前さんの働きぶりを見させてもらったが、なかなかどうして、商人としての素地はしっかりあるよ。 帳面はうちの手代を一人付けるから、追い追い覚えればよろしい。 何より人当たりの良さや実直さ、そんなお前さんの押し出しの良さは小間物屋に打って付けだよ」

 

小春がお茶と菓子を勧めると、佐吉は頭を下げ礼を述べた。

 

「それから気を悪くしないで聞いて欲しいんだが、お前さんの身の回りを少し調べさせてもらったよ。 簪職人をしていた親父さんが、三年前に流行り病で亡くなった事。 王子に病気のおっかさんがいて、高値な薬代を稼ぐ為にこっちに出てきた事。 菊屋さんは勿論の事、お前さんの住んでいる長屋の大屋さんや店子さん達にも話を聞いたが、みんな異口同音、お前さんは親孝行の働き者だとべた褒めだったよ。 どうだい、一つうちで働いてみないかい?」

 

「身に余る有り難いお話ですが、菊屋さんには困っていた時に助けて頂いた恩義があります。 菊屋さんから離れる上に商売敵に成るなど、恩を仇で返すような真似は出来ません。 申し訳ありませんんがこのお話、お断りさせて頂きます」

 

両手をついて深々と頭を下げる佐吉に、女将のお菊は呆れたという面持ちで口を開いた。

 

「全くお前さんは噂にたがわぬ、馬鹿正直な人だねぇ。 うちだって菊屋さんとは長い付き合いだから、不義理な事は出来やしないよ。 もちろん菊屋さんには話を通して快諾を頂いているし、新しく開く小間物屋には菊屋さんの商品も並べるから、これは菊屋さんにとっても悪い話ではないって事だよ。 そうそう、菊屋さんからも、お前さんの事をくれぐれもよろしくお願いしますと、頭を下げられている次第さ。 まあ、今直ぐに返事をしろと言うのも酷だろうから、今日のところは話を持ち帰り、じっくりと考えとくれ」

 

これまで大人しく話を聞いていた小春が、しびれを切らして口を挟んできた。

 

「おとっつぁん、おっかさん、もういいでしょ? ねえ佐吉さん、この後何か約束があるの?」

 

「いえ、特には・・・」

 

「だったら、これから浅草猿若町にお芝居を見に行くから、お供をして頂戴」

 

「これ小春、いきなりよそ様にお供だなどとは、失礼だよ」

 

「え~、だって佐吉さんはうちの手代になるんだから、もうよそ様じゃないでしょ? それより早く行かないとお芝居がはねてしまう」

 

「全く、しょうがない子だねぇ。 佐吉さん、すまないが小春のお守をしてくれるかい?」

 

「へぇ、私でよろしければ・・・」

 

 

 

 


芝居見物をする狐

 

 

 天保十二年、老中水野忠邦が推し進めた「天保の改革」は、「享保の改革」「寛政の改革」と並んで江戸三大改革の一つに数えられるが、江戸町民には最も評判の悪い改革であった。

 

江戸町民のささやかな楽しみであった寄席や歌舞伎、人情本や絵草紙、果ては雛人形や菓子に至るまで、質素倹約、奢侈禁止を強要し、衣食住の全てにおいて微に入り細を穿つ生活統制が行われた。

 

また「天保の改革」の風俗取締りの名目により、堺町で櫓を上げていた歌舞伎の芝居小屋や芝居関係者の住居、芝居茶屋は全て町外れの浅草猿若町に移転させられ出入りが規制された。

 

しかし浅草寺参詣の客が芝居見物をかねてこの地に足を運ぶようになり、歌舞伎はかつてない盛況をみせ、浅草猿若町は江戸随一の娯楽の場へと発展した。

 

 

 

 

 浅草猿若町は一丁目から三丁目まであり、一丁目は中村座、二丁目は市村座、そして三丁目は守田座が櫓を上げていた。

 

そして市村座では、昨今江戸の町を騒がせている盗賊『夜狐』を題目にした芝居が掛かり、連日立ち見客が出るほどの人気を博していた。

 

芝居の内容は大盗賊『夜狐』と町娘の悲恋物語で、盗んだ金子を独り占めにしようとする盗賊仲間の裏切りで、町方に追われる羽目になった野弧。 両国橋に追い詰められた野弧と町娘は、御用提灯に囲まれる中、手と手を細紐でしっかり結ぶと、来世で添い遂げようと誓い合い、橋より身を投げ果てるという話だった。

 

万雷の拍手と大向うの掛け声が響く中幕は引かれ、桝席の客は半畳を抱えるとざわざわと鼠木戸へ向かった。

 

桟敷席では小春がまだ余韻に浸り、赤くした目を袖で押さえつつ鼻をぐすぐすとさせていた。

 

「いいお芝居だったわね、佐吉さん。 ああ、本物の『夜狐』もこんなにいい男なのかしら・・・だったら一目会ってみたいわ」

 

「本物の『夜狐』がいい男かどうかは知りませんが、こんな間抜けではないと思いますよ」

 

「間抜け?」

 

「へぇ、盗みに入った先々で、人前に姿を晒して大見得を切っていたら、面が割れて直ぐに捕まってしまいます。 それに、足手まといな女など連れていたら、両手両足を紐で縛られているようなもの、逃げ切れる訳がありません。 縛られると言えば、橋から飛び降りて逃げるときに、何で女と手を縛り合っていたのか・・・そんな事をしたら泳ぎの達者な私でも溺れてしまいますよ」

 

「佐吉さん・・・それ冗談よね?」

 

「何がでしょうか? ああ、それに千両箱を盗む盗賊などいませんよ。 本物の千両箱は五貫目はあるので、担げても屋根の上を飛び回るなど到底無理ですし、両替しないと使えないから足がついてしまいます。 それから・・・」

 

「佐吉さん、もうやめて! 折角のいいお芝居が台無しよ。 ああ、佐吉さんがどんな人か何となく分かったような気がするわ」

 

「お嬢様、何か不作法な事を申したでしょうか?」  佐吉は怪訝な面持ちで小春に問い掛けた。

 

「ぷっ、もう佐吉さん、可笑しすぎ! ふっふっふっ、黙っていれば、すれ違う女が皆振り返る程いい男なのに」

 

笑いすぎてお腹が痛いと文句を言いながら、小春は膝に乗せていた十六菊文様の巾着袋の中から紙入れを取り出し涙を拭いた。

 

小春が取り出した紙入れに結び付けられていた、小さな根付けのような物を見て佐吉は驚いた。

 

「お嬢様、その紙入れに付いているのは・・・」

 

「えっ、これ? うちの蔵の扉に付いていたからくり錠だけど、可愛いから貰っちゃった。 これがどうかしたの?」

 

「ああ・・・いえ、珍しい錠前だなと思いまして」

 

「これはね、おとっつぁんの知り合いの鍵師が、お遊びで作ったからくり錠なの。 見てて、開けるのに鍵はいらないのよ。 ここを引っ張るでしょ・・・そしてここを捻ると・・・ここが開いて・・・もう一度捻ると・・・ほら、外れた」

 

佐吉は手渡されたからくり錠を、暫し呆然と見つめていたが「はっはっはっ」と、心底可笑しそうに笑い出した。

 

「佐吉さんて、本当に変な人」 小春もつられて笑い出した。

 

 

 

 


追い詰められる狐

 

 

 廻船問屋『池田屋』の末娘小春のわがままで、一年ほど前より商いを始めた小間物屋かわせみは慌ただしい年の瀬を迎えていた。

 

池田屋からさほど離れていない本石町に借りた間口二間の小さな店は、小春が自分の目で選んだ白粉、紅猪口などの化粧品を始め、鹿子、刷毛、かもじ、袋物、そして佐吉の作る見事な細工の簪や櫛が、店内を華やかに飾るように並べられていた。

 

新しい物、可愛らしい物好きな江戸の町娘達の間で人気となり、小間物屋かわせみは予想以上に繁盛していた。

 

 

 

 

 最後の客を見送るために表に出た小春が、暖簾を抱えて店内に戻ってきた。

 

「冷えてきたわね、雪でも降るんじゃないかしら。 二人とも、今日はもう終いにしましょう」

 

帳場では手代の信八郎が算盤をはじき、佐吉が売上を大福帳に記帳していた。

 

「お嬢様、佐吉さん、では私は先に上がらせて頂きます」

 

池田屋に住み込みで働いている信八郎は、二人に挨拶をすると売上と大福帳を抱え、一足先に池田屋へと帰って行った。

 

「佐吉さん、うちに寄って夕餉を済ませていく?」

 

お店の片付けを終わらせた小春が佐吉に声を掛けた。

 

「お嬢様、作りかけの花簪を仕上げたいので、今夜はご遠慮させて頂きます」

 

「もう! 二人で居る時は『お嬢様』はやめてと言ってるでしょ!」

 

小春はぷうっと可愛く膨れてみせた。

 

「すみません、お嬢様、あ・・・」

 

「ふふふ、もういいわ、しょうがない人ね。 あまり無理しないでね」

 

小春は佐吉の手にそっと触れ、微笑みながら店を後にした。

 

佐吉は幸せな心持ちで小春の後ろ姿を見送ると、仕事用の座卓に向かい桐の箱の蓋を開け、作りかけの花簪を取り出した。

 

「ごめんよ、佐吉はいるかい」

 

声の響いた店の入口に目を遣ると、そこには岡っ引きの黒田が立っていた。

 

「池田屋に行ったら、おめぇさんがまだこっちに居ると聞いたもんでな」

 

「これは親分さん、寒い中お勤めご苦労様です。 今お茶をお入れしますので、どうぞ中に入って火鉢にでも当たって居て下さい」

 

「そうさせてもらうよ。 ううう・・・今日はやけに冷えやがる、古傷が痛んでしょうがねぇや、雪でも降るんじゃねえだろうな。 こんな時間になっても仕事とは、景気がよさそうだな」

 

「お陰様で、今年も何とか年を越せそうです」

 

「そうかい、そいつは上々だ。 こっちはここの所、捕まるのは巾着切とか置き引きとかケチな盗人ばかりだ。 本命の『夜狐』は一年前の池田屋を最後にピタリと鳴りを潜めちまってさっぱりさね」

 

黒田は上がり框に腰を下ろすと、腰に下げていたカマスから煙管を取り出した。 雁首に刻み煙草を丸めて詰め、火鉢に顔を寄せ火を付けると、目を細めぷかりと一服くゆらせた。

 

「ところが最近、奴が初めて盗みを働いたと思われる王子の米問屋に辿り着いたんだよ。 手口からして『夜狐』に間違いねえんだが、なんと奴さん厠に起きてきた家の者に顔を見られるドジ踏んでいやがった。 それで明日、絵師を連れて王子へ出張り、人相書を作る事にしたんだよ。 これで奴も芝居の『夜狐』みたいに、追い詰められるてぇ訳だ。 人相書が出来たら、ここと池田屋にも貼らせてもらうよ。 そういや、おめぇさんも王子の出身だったよな・・・」

 

黒田は探るような鋭い目付きで佐吉を見詰めたが、能面のように無表情な佐吉の顔からは、何も読み取ることが出来なかった。

 

「おっといけねぇ、まだ寄らねぇといけない所があったんだ。 仕事の手を止めちまって悪かったな、それじゃ失礼するよ」

 

「いえ、大したお構いも出来ず済みませんでした。 足元に気を付けてお帰り下さい」

 

背中を丸めて店を出ていく黒田の後ろ姿を、佐吉は厳しい眼差しで見送った。

 

 

 

 



読者登録

芋焼酎のおっさんさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について