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生きられた超人 ─長嶋茂雄

生きられた超人

─長嶋茂雄

Seibun Satow

Mar, 31. 1992

 

「千の目標が、従来あったわけだ。千の民族があったから。ただその千の頸を結びつけるくびきだけが、いまだにない。一つの目標がない。人類はまだ目標を持っていない。だが、どうだろう、わが兄弟よ、人類にまだ目標がないのなら──人類そのものもまだなりたっていないというものではなかろうか?」

ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』



「人類ではなく、超人こそ目標である」。

ニーチェ『権力への意志』


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第1章 長嶋とは何か


ジョン・デューイは、『経験としての芸術』(一九三四)において、「人間の経験における芸術の源泉は、野球のプレーヤーのピンと張りつめた優美さが見ている群衆をいかにして感染させるのかということを知る人によって学びとられるであろう」と語っている。デューイのこの言葉は、芸術に感動することと野球のプレーヤーの姿に興奮することが根源において同じなのだということを示している。だが、ここでデューイが「野球のプレーヤーのピンと張りつめた優美さ」と言っていることに注意しなければならない。デューイが野球に対する感動が芸術に連なると述べているのは、個々の「プレーヤー」に関わることであって、ゲームの進行や勝敗に関わるものではない。また、「ピンと張りつめた優美さ」は、野球において何かが達成された瞬間ではなく、何かが行われている過程にこそ芸術の源泉につながるものがあるということを意味している。デューイのこの主張は、野球というスポーツの特徴をよく表わしているのではなかろうか?

 野球はスポーツの中で最も動きを欠いたものの一つであるように思われる。試合の中で主に動いているのはピッチャーだけで、外野手においては試合の全イニングスに出ながらも、一度も生きたボールを手にしないことすらある。野球はボクシングやレスリングといった格闘技の持つ肉感的迫力にはかなわないし、作戦を楽しむということに関しては、アメリカン・フットボールに及ばない。また、サッカーやラグビー、アイスホッケー、バスケットボールの持つスリリングさは野球にはない。エキサイティングなスピード感を持たないことにかけては、野球はすべてのスポーツの中でも一、二を争う。

 毎年、日本国内ではペナント・レースが一チームあたり一三五試合の割合で行われているが、個々のプレーはまだしも、その中で後々に語られるにたるゲームはほとんどない。多くの試合は、悪しき意味で、凡庸で、中には退屈極まるのさえある。個性のない同じようなプレーヤーやチームが、感動のない同じようなゲームを展開している。プロ野球は繰り返ししかないニヒリズムの極限にある。野球がおもしろいとか、つまらなくなったとか、おもしろくしなければならないとかという言説が巷に蔓延することからも、それは確かであろう。野球が無条件におもしろいならば、別な座標軸から語られるはずであり、そんな議論など生まれるわけがない。

 にもかかわらず、野球が、世界的には一部の地域であるとしても、ここまで人を魅きつけてきた事実もまたある。だとすれば、野球の魅力は他のスポーツとはまったく別な部分にあるように思われる。

 野球には他のスポーツにはない奇妙な側面が多い。守備側にある投手の行為によってゲームが始まるということも、すなわち攻撃側は受け身だということも特異である。また、グラウンドの広さが一定しておらず、各球場によってまちまちで、東京ドームのように、ローカル・ルールの設定されているところすらある。他のスポーツでこういうことはありえない。ルールの共通性が要求されるからである。プレーする場所の条件が異なるのはゴルフくらいなものだが、ゴルフの場合は中心として設定されたグリーンに向かうのが目的であり、周辺はその中心を明確にするために存在している以上、不明瞭であればあるほどよい。他方、野球においては、フェンス部分が無限に向かって開かれていると同時にフィールドとして閉じられているという形で、外部と内部の区別が曖昧である。

 そもそも野球の起源がいかがわしい。野球発祥の地としてクーパーズタウンに野球殿堂が建てられているが、実は、野球はバスケットボールのような完全にアメリカに起源を持つスポーツではない。野球はラウンダースというイギリスのボールゲームに起源を持ち、ベースボールという名称もラウンダースのある地方での呼び名であって、アメリカに輸入された後でルールが整理されたにすぎないのである。

 その公認野球規則に「1・02(試合の目的)各チームは、相手より多くの得点を記録して、勝つことを目的とする」という条項がある。ルールで「勝つことを目的とする」と規定しているスポーツは野球以外にない。「勝つことを目的とする」という条項を規定しなければならないのは、野球が勝利とは別の次元で、すなわち本来的に個人技のレヴェルで機能しているからである。野球では個人タイトル争いのため、例えば、打率を下げないために試合を欠場するとか、打たれないために敬遠攻めにするとかという形で公然とヤラセが行われている。最も酷いケースは、一九八二年のセ・リーグの優勝がかかった最終戦、同僚の欠場した長崎に首位打者をとらせるため、ホエールズの投手陣は彼を猛追するドラゴンズの田尾を連続五打席敬遠攻めにした結果、田尾の全打席出塁のおかげで、ホエールズは破れ、ドラゴンズが優勝し、ジャイアンツはペナントを逃すことになってしまった。 野球は、個人記録が権威を持っているように、団体スポーツの中で個人技が最も脚光を浴びるスポーツなのである。半世紀も前の「人間機関車」ウォルター・ジョンソンの記録が「ライアン特急」ノーラン・ライアンのそれと同列に比較されている。陸上競技や水泳といったスポーツでは、連勝記録やメダルまたはタイトルの獲得数という記録は通用するとしても、スピードや高さ、重量、距離といった記録が時代を超えて通用することなどありえない。どんなにエミール・ザトペックが速くても、彼が現在のどのマラソン大会に出ても優勝することはできないだろうし、また彼の当時の記録が現在のわれわれを魅了することもないのだ。吉目木晴彦は『記録の見方─幻の盗塁王ビリー・ハミルトン』で「野球の面白さのひとつに、過去の記録と現在の記録を単純に比較できるということがある」が、それと同時に、「個人の記録の単純な比較だけでなく、もう一つの記録から推しはかる、プレイヤーの歴史的価値という楽しみ方もある」と述べている。記録とはどんなスポーツにおいても古典になる。陸上競技において、古典とはそれが表示する世界が古びたことを意味するが、他方、野球では、古典とは「その可能性の中心」(ヴァレリー)を表示するものにほかならない。つまり、野球は記録が生き残っていくスポーツなのである。

 陸上競技や水泳などを除くスポーツにおいて、記録は必ずしも重要視されてはいない。スポーツは個々のゲームこそがすべてなのであり、ゲームから離れて、記録は熱く語られることは少なく、プレーヤーの価値はゲームで判断される。他方、野球では個々のプレーヤーやチームは記録によって評価される。野球で記録が権威を持っていることは、記録が整備されているということそれ自体によって、推し量れよう。記録と記憶という二項対立そのものが記録からの派生物にすぎないのである。野球が誕生した当初から、記録は重要だった。現行のルールの原形が確立されたのは、アメリカン・リーグとナショナル・リーグの二大リーグ制が始まった二十世紀に入ってからで、十九世紀においては、ルールがどういうものだったかはっきりしていない。また、一九二九年まで公認されていたスピット・ボーラーや七三年以降認められた指名打者が存在していることからも、記録が基づくそのルールの共通性は必ずしも問題にされているわけでもない。記録が整備されたのは、もっぱら個人の力によるところが大きい。盗塁はタイ・カッブやホーナス・ワーグナーによって、本塁打はベーブ・ルースによって、記録として整備されたのである。野球では、そうした過去の記録との闘いの中、現在が存在し得る。野球のゲームは過去の記録を想起することによってつくられた記憶に基づいて見られているのである。従って、野球は継続性によって、ファンを魅了するが、逆に、ファンがマニアックになればなるほど、眼前のプレーから価値を読みとれなくなってしまう。

 記録がはばをきかせるのは、野球の歴史がジグザグであったこととも関連している。最初、野球は点をとりあうスポーツだったが、変化球の登場とともに、いかに相手に点をやらないかという形となり、野球は作戦を楽しむものとなった。当時はスピット・ボールが合法化されていたことから、現在の変化球以上に大きく鋭い変化球が投げられていた。しかし、スピット・ボールが禁止され、少し後に、飛ぶボールの使用が決定に及び、ホームランが生まれるようになった(1)。野球は「本塁打狂時代」を迎え、ホームランが野球の華になったのである。そして、現在ではそのホームランを防ぐため新たに変化球が盛んな時代へとなってきている。野球は内野手のフォーメーション・プレーなどでは確かに進歩してきたが、投げる=打つという始源的な関係においては、誕生した頃からそれほど変わってはいない。ルールも現在まで必ずしも完全に共通ではなかったが、しかし完全に相違しているわけでもなかった。その曖昧さのために野球において記録が生き残っていく側面もある。記録は厳密な何ものかを伝えるためではなく、その時代の雰囲気として残っていくのである。それゆえ、アンダースローや左右のグリッブの間を離すバッティング・フォームといったアメリカにおいては忘れられてしまったものが、アメリカ以上に変化球が盛んな日本で現れてくるということもある。野球の歴史とは変化球盛衰の歴史と言うことができよう。つまり、変化球が投げるものにとっていつまでたっても自分の思うようにならないように、野球の歴史も偶然によって左右されてきたのである。

 選手や監督からの抗議が野球ほど寛容されているスポーツも珍しい。サッカーやラグビーでは抗議など非紳士的な行為として完全に禁止されている。アメリカ大リーグの名物審判で、アメリカン・フットボールのプロのプレーヤーから野球の審判に転身した経歴を持っているロン・ルチアーノは、『アンパイアの逆襲』において、「野球以外のスポーツ、例えばフットボールの世界では、審判員はいついかなる場合でも敬意を払われている」と言い、審判生活を始めたばかりの頃、野球における審判員の立場に戸惑い、野球において審判員は選手や監督たちにとって「敵」なのだと告げている。テニスでマッケンローが審判に悪態をついているのが話題となったが、野球ではそんなことは日常茶飯事であり、あの程度のことでクローズアップされることはまずない。審判に砂をかけることで有名だった故ビリー・マーチンがテニス・プレーヤーになったなら、彼はコートに入ることすら許してもらえないだろう。審判員が、逆説的に、野球そのものを盛り上げてきたことも認められる。日本でも、二出川延明や露崎元弥といった名物審判も誕生してきた。野球は審判員が最も脚光を浴び、審判の判定がゲームやシリーズの勝利といったものに影響を与えるスポーツであり、審判員の判定をめぐる忘れられないシーンも少なくない──一九六一年十月二九日ジャイアンツ=ホークスの日本シリーズ第四戦(於後楽園球場)での円城寺球審とジョー・スタンカの「円城寺、あれがボールか、秋の空」と詠まれた運命の一球、一九六九年十月三〇日ジャイアンツ=ブレーブスの日本シリーズ第四戦(於後楽園球場)での土井と岡村の本塁クロスプレーについての岡田球審の判定、一九七八年十月二二日のスワローズ=ブレーブスの日本利治シリーズ第七戦(於後楽園球場)での大杉勝男のホームランをめぐる富沢レフト線審に対する上田監督の一時間十九分の抗議。他のスポーツでこれほどまでに判定をめぐって後々まで語られることは見あたらない。選手や監督らと審判員との激しい口論もまた野球の魅力でもある。

 

The devil challenged God to a baseball game. "How can you win, Satan?" asked God. "All the famous ballplayers are up here", "How can I lose?" answered Satan. "All the umpires are down here".

 (“The Heavenly Baseball Game”)

 

 要するに、野球とは基本的に隙間のスポーツである。その隙間を選手だけでなく監督やコーチそして審判員までもが補わなければならない。見るものがその隙間を補い、想像力を膨らませることに野球の魅力の一端がある。

 野球は最も言葉を要求するスホーツである以上、野球には禁欲主義的な精神論が入り込みやすい。奴隷道徳的な甲子園大会の試合前にホーム・プレートをはさんで礼をしたり、丸坊主にするという僧侶的なねじまがった権力意識をおしつけたり、「一球入魂」という病的でデカダンスなスローガンをかかげたり、無を欲するニヒリズム的に「野球道」を説くことによって何かしらの奥義を極めると広言したり、野球によって人生を語るというメロドラマを素朴に描いてみせたりすることがあとをたたない。

 その過剰な言葉をかき消すために、ある一人のプレーヤーが現われた。

 それが長嶋茂雄である。

長嶋が現役生活を引退したのは一九七四年であり、監督を最初に解任されたのは一九八〇年のことである。そして、九二年秋に長嶋は監督に復帰した。

 長嶋以前に野球があったにもかかわらず、野球について考える時、われわれが長嶋を思い起こすのはなぜだろうか? 長嶋、それは何だろうか? 長嶋、それは誰だろうか? 一九五八年にプロ入りと同時に、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得し、新人王となり、その十七年間の現役生活で、MVP五回、首位打者六回、打点王五回、本塁打王二回に輝いたプレーヤー、それが長嶋だろうか? 試合二一八六、打数八〇九四、安打二四七一本、本塁打四四四本、打点一五二二、四死球一〇一二、三振七二九、打率三割五厘という生涯成績を残したプレーヤー、それが長嶋だろうか? 三塁から一塁に戻る際に二塁を踏まないという三角ベース事件を三度も起こし、前のランナーを追い越してアウトになり、四回も敬遠に怒りバットを捨ててボックスに立ち、敬遠のくそボールに飛びついて二度もヒットにし、ホームランを打ったのにベースを踏み忘れてとり消されたプレーヤー、それが長嶋だろうか? あるいは十四年間で、最下位一回、五位一回、四位一回、三位四回、二位二回、リーグ優勝五回、日本一二回の成績をおさめた監督、それが長嶋だろうか? 何かに感動すると、それが言語化される前に陶酔しきってしまい、感動していることは確かに理解できるのだが、何を伝えたいのかわからないことを言い、自分の息子を球場に忘れていった男、それが長嶋だろうか? 長嶋がそれだけの男だったならば、野球のことに思いをめぐらすとき、われわれは特別の感慨をもって長嶋を想起することなどないだろう。野球を考えるとき何よりも先に長嶋の名が浮かぶのは、長嶋が野球を根底から変えた、すなわち善い=悪いという座標軸から楽しい=楽しくないという座標軸に野球の光学を変えたからである(2)。長嶋は、一九一一年に東京朝日新聞が行った「野球害毒論」というキャンペーンに起源を持つ善い=悪いという座標軸で論じられてきた野球を、根底から変換したのである(3)。換言するならば、善い=悪いという評価を具現していた「神様」川上哲治の後に現れた長嶋は、言葉を必要とする野球というスポーツにおいて、「善悪の彼岸」を目指したニーチェの超人思想を体現したプレーヤーだった。つまり、彼は生きられた超人なのである。長嶋は頭のてっぺんから出てくるようなカン高い声で、人に絶えず話しかけ、人を喜ばせ、何ごとにも楽しさをつねに残していた。長嶋はわれわれに眉間の縦皺ではなく、哄笑することを教えてくれた。野球に関する現在の言説のほとんどが、長嶋が提示した野球の問いをめぐって論じられている。長嶋は過去的であると同時につねに現在的なのである。われわれは長嶋によって先取られた地点にあることを認めなければならない。それゆえ、今われわれが、それもプラグマティックな文によって、長嶋とは何かを問う必要があるのは、その地点にわれわれが依然としてあるからにほかならないのである。


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第2章 長嶋とは何であったのか

デビューが後々まで語られることは、特に野手においては、少ない。例えば、川上や王のデビューを、記念としてではなく、後の活躍と照らし合わせながら、熱く語るものはいない。長嶋はデビューが熱く語られる数少ないプレーヤー、いや最も熱く語られるプレーヤーであるのは、デビューにおいて、すでに後の活躍につながる何かを予感させるものを示していたからである。

 長嶋以外に、デビューが熱く語られるプレーヤーとして、われわれは故大下弘の名をあげられる。と言うよりも、むしろ、野手としてデビューが熱く語られるプレーヤーは長嶋と大下の二人だけである。

 大下は一九四六年から五九年までの実働十四年の間に、MVP一回、本塁打王三回、首位打者三回に輝き、通算二〇一本塁打、終身打率三割三厘の実績を残している。さらに、大下は一九五六年から五八年までの三年連続日本一になった西鉄ライオンズ黄金時代の主軸打者だった。そして、大下も、長嶋と同様、生涯記録だけによって規定されるプレーヤーではなかった。

 しかし、大下弘と長嶋のデビューには二つの相違点がある。第一には、大下はデビューするまで無名だったのに対して、他方、長嶋はすでに「ゴールデンボーイ」の評判が高かった。第二には、大下がデビュー戦の東西対抗でホームラン、スリー・ベースと長打を打ちまくったのに対して、他方、長嶋は四打席四三振であった。

 にもかかわらず、二人の登場には共通してそのデビューにおいてすらプロ野球を変えた意義があるのである。二人のデビューの違いはその意味合いの違いから派生している。

 大下は六大学時代(明治大学)には無名のプレーヤーにすぎなかった。当時の六大学の野球は、早稲田大学野球部監督の飛田穂州の野球観が支配的だった。飛田は「一球入魂」や「修養の野球」を標榜し、フライを「テンプラ」打法として邪道と否定し、内野手の頭をこすような極端な短打主義を打ち出したのである。こうしたコツコツ銀行預金をするような高出塁率を重視する短打主義は、アメリカにおいても確かにあったが、それはベーブ・ルースの登場前のタイ・カッブらの時代の野球であった。その当時の野球は作戦を楽しむというもので、飛ばないボールでしかもボールの質にムラが多く、スピット・ボールが合法化されていた時代背景のもと生まれたのである。タイ・カッブらは、物凄い変化球に対応するために、バントのように左右のグリップの間を開け、チョコンとあてて内野手の頭を越す打球を放っていた。それは、現在で言えば、ちょうどマリーンズの西村徳文のバッティング・スタイルを思い起こせばよい。そうした野球の中、大下は打球をポンポン打ち上げるので、大学時代は重要視されなかった。大下は、大学時代について、「あの頃は、どこもかしこも早稲田式野球で、絶対にフライを打ち上げちゃいけなかったんです。ライナーしか打てない。だから、僕は大学では、あまり野球を学ばなかったですね」、と告げている。戦後、大学のグラウンドでポンポンとフライをあげている姿が明大OBでセネタースのオーナーだった横沢三郎の目にとまり、大下はプロ野球に入ることになる。

 大下は、ベーブ・ルースがアメリカ野球でそうしたように、ホームランバッターとして日本プロ野球の新しい地平線を切り開いたのである。一九四六年に大下の放ったホームラン二〇本という数は、プロ野球(一リーグ時代)の総本塁打数の九・五%を占めている。この比率は日本プロ野球の歴史上一番高い。大下の比率を九〇年に当てはめると、セ・リーグは七四本、パ・リーグは八六本となる。全体でのホームランの総数が大下一人の打った数に及ばないチームもざらだった。岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、大下の二〇ホーマーの驚きは王の五五ホーマー以上だったと回想している。大下が登場するまで日本プロ野球の本塁打数は最高が日本初の三冠王になった東京ジャイアンツの中島治康の十一本だったのである。十本以上の本塁打を打ったのは、中島以外には、南海ホークスの「親分」鶴岡一人だけである。二〇ホーマーは当時としては驚異的な記録であり、大下の登場によって、プロ野球はホームランの時代へと変わったのもうなずける。大下弘は一つの時代において抜きんでた存在だったのである。大下は、そうした意味においてならば、日本プロ野球史上最高のホームラン・バッターと言ってよい。無限の彼方へと放つ虹のような放物線のホームランの美しさは、大下の甘いマスクとあい重なって、日本プロ野球の新たなシーンであった。

 時代が要求しなければ大下のホームランもそれほど脚光を浴びなかったであろう。戦前にはすでに中島治康というホームラン・バッターがいた。彼も六大学時代(早稲田大学)の評価は二流にすぎなかった。彼の打法は、玉木正之の『4番打者論』によると、「ステップした左足をバケツに突っ込むようにはねあげ、さらに外側へアウトステップする、田淵幸一と山本浩二を合わせたダイナミックなもの」だった。彼は上から落としても膝くらいまでしか跳ね返ってこない粗悪なボールの時代にワンバウンドのボールをライトスタンドに叩き込んだり、五試合連続で本塁打を打つなどパワフルなバッターであり、一九三八年の秋シーズン(当時職業野球は春と秋の二シーズン制)に日本で最初の三冠王に輝いている。しかし、彼は「邪道」の打法として、一部の職業野球のファンを除けば、注目されなかった。寺山修司は『誰か故郷を想はざる』において大下の登場を次のように述懐している。「一九四六年、わが国のホームラン王は東急セネタースの大下弘であった。セネタース自体が、この年発足したばかりの新球団だったので、新しいものに『期待』していたファンの喜びは大きかった。大下は打率は〇・二八二で二十位にも入らなかった。しかし、敗戦で何もかも灰燼に帰してしまったファンは、人生だけでなく野球に於いても『一挙挽回』を望んでおり、打撃王のタイガースの金田正泰などの数十倍の拍手を新人のホームラン王の大下に送ったのである」。なお、当時は「東急セネタース」ではなく、「セネタース」である。大下が野球の歴史の転機となる存在だったのは、類いまれな打球の飛距離を出す力だけにあるのではなく、新しさを待ち焦がれているファンから歓迎されたからである。さらに、野球におけるその新しさは戦前の色を払拭していなければならなかった。ファンは、戦前野球において主流だった学生野球ではなく、虐げられてきた職業野球に新しさを期待していたのである(4)。しかも、大下のバッティング・フォームがグリップを腰より低く手前におき、右足を軽く浮かし前傾の構えでボールを待ち、アッパー・スイングでボールをバットにのせてスタンドまで運ぶとという変則的なものだということも新しさをファンになおさら印象づけた。どんなに素晴らしい力を持ったものでも、受け入れるものがなければ、歴史を変えることはできない。吉目木は、『記録の見方』において、「過去の記録を評価する際にポイントとなるのは、それがその時代においてどのような意味を持ったか、つまり、時代の中で傑出していることはもちろん、歴史の中で分岐点となるものであったか、後継者を生みだし得たか、という点である」と述べている。本塁打王は戦前には連盟表彰のタイトルとして認められてはおらず(5)、バッターの勲章はあくまでもアベレージだった。それが、大下の登場によって、藤村や小鶴、青田、別当といったロング・ヒッターが次々に現れた。さらには、すでに確立した名声を持った「神様」川上までもが、バッティングを変え、ホームランを打ちにいったのだ。 ところで、その時代において、川上と大下を支えたものは何だったろうか? 少なくとも、それはハングリー精神なるものではない。ハングリー精神は結果と原因を置き換えることによって生じただけなのであって、それは幻想にすぎない。

 スポーツの分野に関する最も優れた批評家である岡崎満義は、『川上哲治と大下弘』において、ハングリー精神を「基本的には生活の貧しさからくる飢えの恐怖というものだろう」として、それが、川上哲治や大下弘だけでなく、偉大な選手を生むことはありえないと次のように指摘している。

 

全き貧困の中から野球選手は生まれるわけがない。少なくとも、戦前なら中学、戦後なら高校に進学して、硬球を手にするだけの社会的・生活的基礎がないかぎり、野球選手にはなれない。進学できる程度の貧困以上の生活水準がなければ、「ハングリー精神」の発揮のしようもない。(略)

 物のない、いつも腹減らしていた終戦直後から、「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれた昭和31年ごろまで活躍した二人は、もちろん「ハングリー精神」の持ち主であったにちがいないが、腹が減っていたから首位打者やホームラン王になるほど努力したのだ、とはどうしても思えない。腹が減っていたのはその他の野球選手も、また試合を見に来たファンも同様、いや、早い話が日本人の99%は飢えの恐怖にさらされていたはずだ。いわば「ハングリー精神」は社会全体に蔓延していた。そんな中で素晴らしい記録を残した川上や大下を、とくに「ハングリー精神」の発現者として特筆大書するのはあまり意味があることとは思えない。

 また、物のあふれた現在と昭和20年代とをくらべて「ハングリー精神」を語るのは、方向違いだろう。

 川上の著した『ジャイアンツと共に』『悪の管理学』から最近の『常勝の発想──宮本武蔵「五輪書」を読む』にいたるまでの著書、大下については『大下弘日記──球道徒然草』を読んでみると、この二人をつき動かしたのは「ハングリー精神」というよりも人一倍強い「親孝行」の心、とでもいうべきものではないか、と思った。野球をするのは自分であるが、その自分の後ろには親があり家がある、そのことに自分は責任を負っている、ということを信じて疑わなかった。多分、その単純明快な強さを「ハングリー精神」といったのだ。

 

 人はそれぞれある時代の中で生きていく以上、誰の出発点となるのも時代の中でありふれたものであろう。時代に蔓延していた雰囲気を後から特権的にとりだすことは、その時代にあってなぜ他ならぬその人となった理由を明らかにしないどころか、それを隠蔽するだけにすぎない。見るべきなのは、時代の気分から自分をどうおいつめていったかということである。川上と大下を支えたのは「親孝行の心」だった。それは、確かに、現実的な感触を持ったものだったが、それを信ずる「単純明快な強さ」を持ったのは彼らだけだった。大下は無批判的な美談に転換されやすい危険性を知り、それを広言しなかったが、川上は「親孝行の心」を語り、「単純明快な強さ」もなく、支える現実がなくなってからは、イデオロギーへと転換させてしまった。川上と大下の差異はそこにある。

 よくアメリカの選手は日本に比べてハングリーだとプロ野球の評論家が言うようだが、ハングリー精神の伝説に対する批判はアメリカのプレーヤーからもあがっている。

 七〇年代ニューヨーク・ヤンキースのエースだったスパーキー・ライルは、『ロッカー・ルーム』において、ハングリー精神の伝説を次のように非難している。

 

貧困の中から脱出するために野球をやるとか、ハングリーだから強くなったとかいう伝説はみんな嘘だ。金のためにプレーすると言うのは、後からとってつけたお話であって、プレーしている時の人間は(あるいは猛獣は)そんなことなど全く考えていない。「チームのために」とも思っていない。ただひたすらその一瞬に集中し、己れの本能をさらけ出し、全能力を発揮しようとしているだけだ。客観的に見れば、それがより充実した「生」の瞬間を過ごそうとする人間の、男の姿でもあるかもしれない。

 

その上で、ライルは、「『チャーリーズ・エンジェル』を見るため、試合中にベンチを離れる選手がいた」とも付け加えている。試合中にテレビを見ることと「その一瞬に集中」することはまったく矛盾せず、「より充実した『生』の瞬間を過ごそうとする」ことの表出なのだ。マーシャル・マクルーハンは、『メディアはマッサージである』において、テレビを「クール・メディア」と定義し、「画面を見ているものを、次の行動に導かないメディア」と言っている。かつてわれわれも『チャーリーズ・エンジェル』をかかさず見ていたので、そういう立場に置かれても、きっと同じことをしていたに違いない。

 大下はそれまでの四番打者像を転倒した。玉木の『4番打者論』によると、大下以前の理想の四番打者像とは、「チームを代表する選手として、心・技・体ともに優秀であるという、相撲の横綱審議委員会が、力士を横綱に推挙するときのような条件が、イメージとして付加」されていた。川上哲治はそうした戦前からの四番打者像を代表していた。川上は当時の「誰もが正統派と認める素晴らしい弾丸ライナーをかっ飛ばした。また、『ボールが止まって見える』といった発言に示される精神正統派そのものだった」。川上に対して、プロ野球一の高給取りの大下は宿酔いで一試合七打席七安打を記録するなど豪放磊落な性格と柔らかな笑顔で、さまざまな女性スキャンダルとエピソードを欲しいままにしたのである。つまり、大下は、無名性の持ついかがわしさを十二分に発揮することによって、既存の階序を転倒した。大下は生きられた階級闘争だったのである。要するに、大下は、無名性とホームランによって、四番打者像や日本プロ野球を変える意義があったのであり、デビューはその象徴として語られているのである。

 さらに、大下の影響はプロ野球界だけにはとどまらなかった。大下はファン・サーヴィスをこころがけたプレーヤーでもあり、当時流行した並木路子の『リンゴの唄』の「赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空」という歌詞から自分のバットを青に塗り(実際の色は青よりもむしろ緑に近い)、「青バットの大下」と呼ばれ、その「青バット」に憧れて少年たちは野球を始めたのである。つまり、戦後から始めたプロ野球選手大下は、プロ野球選手になることを少年の夢とした初めての教育者的なプレーヤーだった。大下の登場によって、プロ野球選手になることが少年の夢として世の中で認定されたのである。 長嶋の登場は大下の試みをさらに一歩進めたものであった。大下はあくまでも川上との対立によって語られていた以上、日本の野球を変えたが、六大学の野球を完全に破壊することはできなかった。玉木は『4番打者論』において「長嶋は、六大学の正統派であるライン・ドライブの打球を飛ばしながら、なおかつその距離を伸ばし、立教大学時代に通算8ホーマーの六大学リーグ新記録を樹立した。つまり、彼は六大学の権威者たちに、一切の批判を許さない打法で、ホームランを量産したのだ」と述べている。つまり、長嶋は大下によって変えられた「一球入魂」野球を完全に破壊したのである(6)。V9時代のジャイアンツから日本シリーズでブレーブス全八勝中五勝をあげた足立光宏は、岡崎満義の『足立光宏』によると、長嶋を次のように分析している。「長嶋は動物的なカンとかヒラメキとかよく言われたが、そのヒラメキの下に、豊富なデータ、キチンと身についたセオリーがあった。実にオーソドックスな野球をキチッとしている、という感じでした。そういう野球の常道を行きながら、相手のある勝負事だから突発的な状況が出てくる。するとまさに天才的なヒラメキが彼の頭の中のコンピューターをたちまち修正してしまう。あらゆる戦況に一瞬にして正しく反応、適応してしまう大きな力を感じました。これはかなわない」。長嶋は他人のバットを借りて、よくヒットやホームランを放った。例えば、大学時代の八本の本塁打はすべて借りたバットで打っている。だが、長嶋は気紛れにそうしたわけではない。長嶋は、ゲームの状況や自分の調子と相手の調子、気温や湿度といった天候を十分に分析した上で、自分のバットがその状態に適していないという結論に達し、意識的にこの条件に合う他人のバットを選んだのである。

 長嶋はこのように伝統的な背景を持ったプレーヤーだったと同時に、その背番号もオーソドックスだった。長嶋の背番号3は、森昌彦から始まった背番号27によるキャッチヤーの系譜とは違って、長嶋から始まった名プレーヤーの番号ではない。長嶋以前にも、ベーブ・ルースや「班長」中島治康、「猛牛」千葉茂、「安打製造機」榎本喜八、大下弘らがつけていたものであり、長嶋以後も、明らかに背番号3はスラッガーやスターの背番号となっている。あの江川もジャイアンツにトレードされる前のタイガース時代背番号3だったのである。また、長嶋以前の名プレーヤー、中西の6、藤村の10、稲尾の24、金田の34らのように、系譜を持たない彼ら独自の番号でもない(豊田の7はミッキー・マントルにあやかった背番号である)。3は、田淵やスワローズの「ペンギン」安田猛の背番号22のように、同時代的にコミカルなプレーヤーを表象していたわけでもない。しかし、背番号3は長嶋以前はスターやスラッガーという類的なものを指していたが、長嶋以後では長嶋の面影を抱くものに与えられるものとなったのである。類的なものから個人へと長嶋は背番号3の意味合いを変換させた。つまり、長嶋は伝統を踏襲しつつも、それを転倒してみせることを示したのである。

 長嶋の公式戦デビューは一九五八年四月五日の読売ジャイアンツ=国鉄スワローズ戦(於後楽園球場)である。この試合はそのシーズンの開幕戦で、長嶋は三番サードでスタメン出場し、ゲームの結果は延長十一回、四対一でスワローズが勝っている。スタンドは「ゴールデンボーイ」長嶋と「天皇」金田正一との対決を見に集まったファンでいっぱいだったと言う。長嶋はこのとき金田に四打席四三振を喫している。金田の長嶋への投球数は全部で十九球であり、ストライクは十二球である。十二ストライクの内訳は、空振り九、ファウル・チップ一、見逃しは僅か二である。

 長嶋を四打席四三振に切ってとった金田は野球界の「天皇」と呼ばれていた。岡崎満義は、『金田正一』において、「金田天皇」について次のように述べている。

 

“天皇”は監督より上の存在である。本来なら監督は最高の司令官であるはずで、またそうでなければチームの統制もとれないのだが、“金田天皇”はほとんど“超法規的存在”であった。(略)

 日本の社会と天皇の関係は複雑微妙、いわく言いがたいところがある。かつてアラヒトガミであり、戦争に負けてニンゲンになり、やがて象徴になり……、つまりカメレオンのようにさまざまに色が変わってきた。それでも天皇は日本の社会を貫き、一木一草にまでしみこんでいるのである。戦後天皇と呼ばれた人では、映画監督の黒沢明、日本医師会会長の武見太郎(故人)が有名だが、そこに金田天皇も一枚加わっている。この三人に共通する天皇性とは、合理、不合理のレベルを超え、しかも具体的な実績を積み上げ、その強烈な個性もあいまって斯界に君臨する、という形の存在である。

 

 天皇を必要とするジャンル、野球社会の古さをあげつらうのはやさしいが、彼らが天皇の実力でそのジャンルを革新し、レベルを押し上げていったのもまた事実である。

 金田の投手としての力は同時代的に一頭地をぬいていたことは確かだし、彼が日本の投手の意識を変えるきっかけを担っていたことも否定できない。だが、たんに野球の力や実績、迫力があるだけでなく、そこに日本的なシステムの何ものかを内包していなければ天皇とは呼ばれない。かつて監督に逆らった藤村富美男や金田正泰といったプレーヤーもいたが、彼らは一人として天皇とは命名されなかった。金田の存在は日本の縮図であった。金田の在籍していた国鉄スワローズは、万年最下位の広島カープほど徹底的に弱いチームではなく、日本浪漫派の言う日本のように、はかなく哀れっぽい弱小球団だった。そこで金田はジャイアンツや名選手を憎み続けて、自分をなだめてきた。金田は他人に負けたくないという情念にとらえられ、人より上に立ちたいという欲望においてのみ生きているプレーヤーだったのである。金田はつねに自分より上位の誰かに対する「反感」に囚われ、その反感を増幅する中で生きていた。金田にはルサンチマンを晴らすことに生の理由があったのである。圧倒的な野球の力を持つ金田によって、弱く下手なスワローズのメンバーは負い目を負い、精神的に支配されてしまった。そして、金田が監督の上にいられたのは、ファンがそれを支えたからであり、弱者としてのファンが金田に自分の反感を晴らすことを同一視したのである。金田は野球において怨恨によって成り立っている無としての天皇制に類似したことを体現してみせた。つまり、金田が天皇たり得ていたのは、野球の実力が優れていただけでなく、反感をうまく組織化できたからである。

 従って、まわりの凡庸なプレーヤーを見て自分の優越感を味わっていたため、金田には、「オールスター九連続奪三振」や「江夏の二一球」によって語られる江夏豊のような、見せ場というものがなかった。金田の見せ場は長嶋のデビュー戦だけなのである。

 また、金田の記録の中で、現在大リーグを上回るものはほとんどない。勝ち星では、サイ・ヤングが五一一勝を、国鉄スワローズ以上に弱いワシントン・セネタースでウォルター・ジョンソンが四一六勝をあげているし(完封試合一一三の大リーグ記録を持っている)、奪三振においては、ノーラン・ライアンが五千奪三振を達成してしまっている。黒人リーグを除く投手部門の主な世界記録としては、スタルヒンや稲尾のシーズン四二勝や江夏のシーズン奪三振四〇一だけであり、金田の記録は日本国内でしか通じない天皇の記録なのである。

 長嶋が金田から一打席でもヒットを打ったならば、長嶋は金田のルサンチマンの回路を増幅することになり、長嶋自身もこの回路に組み込まれてしまう。長嶋は抑えることや勝つことだけに躍起になっている天皇金田から豪快に且つ美しくそのすべてを三振することによって、野球の既存の価値を転倒し、金田のその回路を破壊したのである。金田はジャイアンツに挑むことによって反感を晴らし、自分の生き方やその満足や不満足をいつも他人の評価だけから見ていた。それは、金田がジャイアンツに入ってからは成績が伸び悩んだことからも、明らかであろう。長嶋はその金田の前で三振して見せることによって、ルサンチマンが実は生の否定にしかすぎないとファンに示してくれたのである。

 長嶋は三振の美しさを初めてファンの目に触れさせた。大下はアベレージ=ホームランという機軸にいたのであり、ホームランは日本プロ野球の転倒を表していた。一方、長嶋は三振という野球において最も貶められていたものの一つを美として表したのであり、それは野球そのものの転倒であった。

 長嶋は構えの段階でそれまでの名のあるバッターとは違っていた。「神様、仏様、稲尾様」と称された稲尾和久は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、長嶋と初めて対戦したとき、評判ほどにない、「何とスキだらけの打者や」と思ったらしい。しかし、木鶏だった長嶋にその直後自信を持って投げた外角のボールを見事にライト線にスリー・ベースを打ち返されている。さらに、金田は、岡崎満義の『金田正一』によると、「長嶋のよさってのはフリースタイルであること。獲物を狙う鷹の目で、思いきったら、空振りしようが、納得ずくで振ってくる。いまの原辰徳なんかが、詰まったとか、体が開いたとか、そんなことは関係ないんやね。開くなら最初から開いとけ、というのがシゲのバッティングやった。手の出がわからんのが優秀なピッチャーなように、バッターもバットの出所がわからないのが、投手にとって一番嫌な打者。バットのヘッドがいつもあとに残っているものだから、最後の最後までヒヤッとさせられる。ものすごい迫力だった」と回想している。

 この稲尾や金田の長嶋に対する分析は、長嶋がどういう打者であったのかをわれわれによく伝えてくれる。長嶋は、プロ入りしてから、努力や苦労といったことを一切口にせず、表情にしても、プレーにしても、そんな気配すら微塵も感じさせなかった。長嶋はつねにファンにアピールするプレーをこころがけ、走者になると小指の先までもピンと伸ばして全力疾走を試み、空振りするときもヘルメットの美しい飛ばし方を考慮し、どんな平凡なゴロを処理するときもファイン・プレーに見せるようにした。長嶋はすべてにおいて自由にプレーしたのである。玉木は、『4番打者論』において、「ファンにアピールするプレーを見せ、チャンスに強く、自らの打棒でチームを勝利へと導く牽引車──それが、長嶋のつくりあげた『4番打者』像である。これはまさしくファンにとっての理想というべきもので、その特徴をひと口でいうなら、『ファンを喜ばせた』ということになるだろう」、と述べている。一打同点あるいは逆転の場面に、ファンが期待するのは、目の覚めるような走者一掃のバッティングである。長嶋は、そんなシーンに登場すると、四球を選ぶことはしようとしなかった。長嶋は、逃げの投球をする投手に対して、少々の悪球に対しても飛びついたりすくいあげたりして強引にでもヒットにした。起死回生のヒットを打とうとした結果が、たとえ内野ゴロや三振に終わったとしてもファンは彼の「意欲」を肯定した。またそのときのヘルメットを宙に飛ばし、ユニフォームの胸のマークが一八〇度回転している空振りや、手を広げて一塁までの全力疾走の姿の美しさにファンは満足したのである。「美はどこにあるか? わたしが一切の意志をあげて意欲せざるをえなくなった時と場合とになる。形象が単に形象として終わらないように、愛し、没落することをわたしが欲するようになったところにある」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)。

 川上も新たな四番打者像をつくりあげたことは否定できない。川上ほどシステムを理解していたプレーヤーもいないであろう。川上は、その意味において、野球界のヘーゲル的存在であった。川上の功績はシステムを理解し顕在化させたことなのであって、V9にあるのではない。長嶋は川上の後を継いで四番打者になった。長嶋は「神様」川上の後に、「神の死」を宣告して登場したのである。そして、生きられた超人である長嶋の存在の後では天皇によって野球のレヴェルを上げる必要もなくなり、天皇も無意味な存在になったのである。

 大下は、マルクスが大陸諸国から追放されイギリスに亡命したように、東急球団ともめごとを起こしトレードによって九州に行く。その大下はあくまでも川上の体現していた四番打者像の土台にあった。大下は、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』において誇らしげにヘーゲルの弟子と記しているように、誇らしげに川上を師匠としていたと『大下弘日記』において認めている。大下の川上の転倒はマルクスのヘーゲルの転倒になぞらえられよう。他方、長嶋の川上の転倒はニーチェのヘーゲルの転倒なのである。マルクスはヘーゲル思想の土台を受け継ぎながら、それを変革したのに対して、ニーチェはヘーゲル思想の土台そのものを否認した。大下はマルクスであり、長嶋はニーチェである。それでは、マルクス・ニーチェ・フロイトの思想の三頭政治と呼ばれるトリオの一人フロイトは誰であろうか? 長嶋の次の四番打者は誰だろうか?

 それは王貞治だろうか? 王は長嶋に対してルサンチマンを抱いていた。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋と王の著作を読み比べると、長嶋がONの関係を楽天的に見ているのに対して、王は長嶋と一度も酒を飲みにいかなかったことを思い出しながら、「どうして記録ではOはNに勝っているのに、人気はNがOをしのいでいるのか、と内心の不満をぶつけている。そしてその不満をバネにして、さらに高い記録へ飛翔しようとしている」と指摘している。吉目木晴彦は、『伝説の生まれる時─沢村栄治と王貞治』において、「プロ野球について論じる場で、彼の名前が挙げられることは、その実績の偉大さに比べれば驚く程稀である」理由は、王が「仮に歴史をやり直すことができたとしても、すでに彼が実現した以上のものを残すことはない」から、すなわち王の物語は完結した「成功者の物語」であり、ファンに「想像の種子」を王は置いていかず「ファンの想像力が介在する余地はない」からだと述べている。つまり、「王貞治は自分が何者かであったかの証明を、自分の手で野球の歴史に書き残して去って行ったのであり、ここには残された歴史を読む側の、恣意的な評価が介在する余地はない」。すなわち、王は認識論的枠組みで過去を構成・解釈する歴史主義者なのである。岡崎満義は、『長島茂雄と王貞治』において、長嶋を「虚実一体」と定義し、王は「実」に固執し、「心技一体」に向かったと述べている。だが、そもそも記録なるものはある時代や場所、使用されている道具という諸条件の下でのエピソードである以上、歴史主義も含めてすべてはエピソードなのであり、「実」すらも「虚」である。だいたい王の通算本塁打数八六八本は世界記録ではない。黒人リーグの「スーパー・キャノン」ジョシュ・ギブソンの九六二本に次ぐ世界第二位の記録なのである。王が「実」と唱えたのは自分自身を救済するための「物語」にすぎない。長嶋の提示した「虚」とは、他のすべての「虚」を飲みつくす強度の力を持ったものである。王は長嶋の歴史主義批判の後では次の四番打者とは言えない。

 それでは、田淵幸一だろうか? 田淵は確かにルサンチマンを抱かなかった。日本プロ野球史上でも、中西太と一、二を争うバットのヘッド・スピードと打球の飛距離、無限のかなたへと誘う雨後の虹のようなディズニーの映画を思わせた飛球線、怪我や病気で試合を欠場するというシリアスな出来事にあっているにもかかわらず、努力や苦労、汗といった生活感を感じさせない甘いマスクの中の呑気な表情、やることは凄いのだがなぜか笑える、それが田淵幸一というプレーヤーだった。犠打を一度もしたことのない田淵は、美しいホームランによって、野球においてフェンスの彼岸は無限なのだということを最も示し、打撃の技術論やバッテリーとの心理戦といったメロドラマを忘れさせた、すなわち隙間を埋めるための言葉を長嶋以上に必要としない唯一の天真爛漫なプレーヤーだったのである。つまり、田淵は長嶋の四番打者像に磨きをかけたのであり、次の四番打者ではなかった。だとすれば、フロイトとしての四番打者は誰だろうか? それは落合であるとわれわれは言わざるを得ないだろう。落合の信子夫人の接し方はまさにリビドーのエディプス・コンプレックスとしての現れであり、あの有言実行は無意識の顕在化と見なすことができる。落合はインタビューを受けたり、解説をしたりしているとき、「そうじゃなくて」という否定の言葉を必ず口にする。これは落合がフロイトの精神分析を実践している証拠である。「判断の働きを遂行するには、否定の象徴の創出を通してのみ可能である」(フロイト『否定』)。「無意識には否定がない」からこそ、落合は否定を投げかける。年齢を重ねるにつれて評価が高まったことや弟子の離反があったこと、ジャイアンツを追われたことも、まさに、フロイト的だ。落合は長嶋のつくった四番打者像を新たにつくりかえたバッターである。それを考慮すれば、監督としての落合の選手への接し方は当然である。フロイトは、自伝の中で、自分は子供の頃から両親につねに鼓舞されて自身を与えられてきたから、それが暗黙の自信になっていると記している。落合はこのように選手に接している。長嶋が絵画を好んだのに対して、落合は映画を愛している。その映画への愛が監督としての落合の選手への接し方を決定づけている。映画は下手くそを偉大できる。「演義経験のないふつうの人が映画に出ると、自分が見せる立場に立っているという自覚より、自分が見られているという羞恥心の方が強いでしょうから、技術としてのはハードルをどう越えて行くかという発想をもちません。それに代わって、ふだんは意識してないけれど、その人に備わっている生活感覚、自然感覚、といった、根太いなにものかがそこで手探りされていくように思えます」(小栗康平『映画を見る眼』)

 そして、今や、四番打者というものそのものを破壊し、新たな打者像を創出したプレーヤーが登場した。イチローである。イチローは誰なのかをわれわれは体験している。

 さらに、長嶋の際立っている点として、守備によっても熱く語られるということがあげられる。これは四番打者においては極めて異例な話なのである。例えば、大下が外野守備によって語られることはないし、川上にいたってはファースト守備が揶揄の対象になるほどである。「荒武者」豊田泰光は、岡崎満義の『稲尾和久』によると、一九五八年の日本シリーズで、初めて、直接見た長嶋に守備に関して非凡なものを感じ、長嶋はそのハッスル・プレーでプロ野球を変えてしまうだろうと予感している。長嶋がニーチェだとすると、その豊田はキルケゴールであろう。岡崎満義の『中西太と豊田泰光』の中で豊田が語る「スランプ」はキルケゴールの言う「死に至る病」、すなわち「絶望」の完璧な解説である。豊田はさまざまなメディアを通じて、極めて示唆的な発言をしている。新たな価値に基づく倫理を考えるのなら、豊田の言説に耳を傾ける必要がある。長嶋は打つだけでなく、守備を含めたグラウンドでのプレーすべてにおいてファンを魅きつけたのである。

 長嶋が守備でも語られる理由は、長嶋のサードというポジションにも関連している。「ミスター・タイガース」と呼ばれた藤村富美男は守備によっても語られる数少ない四番打者であるが、彼もサードだった。日本では、サードと言えば、長嶋やその藤村だけでなく、中西太、有藤道世、藤原満、掛布雅之、石毛宏典、松永浩美らの名前があげられる。彼らは必ずしも守備だけでなく、打撃や走塁という面に関しても十分にアピールするものを持ち合わせている。最近のつまらない野球に対して、ホットコーナーの復権を叫ぶものがいるが、そこが注目されるのは実は日本的な伝統によるのである。

 プロ野球草創期に活躍した、日本野球史上最高のセカンド苅田久徳は、高田実彦の『苅田久徳』によると、日本ではもともとライトとセカンドは下手なプレーヤーが守っていたが、大リーガーのプレーを見て、「内野の要はセカンドだ!」と気づき、これからはセカンドを重視していかなければならないとショートからセカンドへ自らコンバートしたと言っている。この時大リーグ・オールスターのメンバーとしてセカンドを守っていたのは、チャーリー・ゲリンジャーである。彼は生涯安打数は二八三九本、二塁打数は史上十位の五七四本、本塁打一八四本、終身打率三割二分、首位打者一回の大リーグの歴史の中でも屈指の名プレーヤーである。苅田の目は卓越していたと言うほかない。一九三一年に大リーグ史上一と評価されるフランキー・フリッシュが来日しているにもかかわらず、そのときは誰も日米のセカンドの違いを認識できなかったのだから。アメリカでは、吉目木晴彦の『二塁手の顔─顔のないポジション』によると、セカンドに名プレーヤーが集中し、サードは生涯打率三割二分のパイ・トレーナーを除くとこれといったプレーヤーが出ていない。大リーグでサードが注目されるのは、「掃除機」と呼ばれたブルックス・ロビンソンが登場してからのことである。その後、マイク・シュミットなどが現われ、サードも強打者のポジションとなった。セカンドには近代野球最初の四割バッターであり、アメリカでのセカンドのイメージを決定したと言われているナポレオン・ラジョイ、生涯安打数史上九位の三三〇九本、シーズン三振数平均僅かに十一(ちなみに、三振をしないことで知られた川上哲治ですらシーズン平均は二三である)のエディ・コリンズ、史上最高のセカンド・プレーヤーの呼び声の高いフランキー・フリッシュ、四割二分四厘の二十世紀大リーグ最高打率など数々の輝かしい記録を持つロジャーズ・ホーンズビー、二十世紀初の黒人大リーガーのジャッキー・ロビンソン、六八九盗塁のジョー・モーガンといったそうそうたる名前が出てくる。日本のジャイアンツで一九七五年から七六年までの二年間プレーしたテイヴ・ジョンソンも、もともとはセカンドのプレーヤーだった。彼の売り込み文句は「大リーグのセカンドのシーズン本塁打記録を塗り替えた男」であった。ジョンソンが一九七三年に四三本塁打を放つまでのその大リーグ記録は、一九二二年にロジャーズ・ホーンズビーが達成した四二本であった。ちなみに、ホーンズビーはこの年打率四割一厘を同時に残すという驚異的な成績をあげている。ホーンズビーの実績を列挙すると、実働年数は一九一五年から三七年までの二三年、終身打率は三割五分八厘でタイ・カッブに次いで史上二位、長打率は史上八位の五割七分七厘、打率四割を超えること二年連続を含む三回、首位打者七回、打点王四回、三冠王二度と目も眩むような記録が並ぶ。三冠王に二度輝いたのも、ホーンズビーのほかには、最後の四割バッター、テッド・ウィリアムスだけである。「この間グールドの進化論エッセイを読んでいましたら、昔、アメリカ野球の英雄時代には四割打者がばんばんいたというんですね。ピッチャーがよくなったとか、バッターが駄目になったとかいうんだけど、実は下位打者の打率がどんどん上がっているんです。つまりつぶ揃いになってるんです。平均値はどっちかというと上がってるんですね。まあ、しょうもないのがいないかわりにバツグンもいない。ひょっとしたら生物学の法則みたいなもので、成熟してある段階になると平均化するということかもしれんと思ったんです。なんか無茶苦茶なんだけど、気分的にはわかる気がするんです。つぶ揃いが切磋琢磨すしあうからいいものが出るというのは、僕はたぶん嘘で、平均的に生産効率が上がるかもしれないけれど、局面を打破するような新しい発想は出なくなると思うんです。本人のことから言うと、自由であるほうがぜったいいいとは思うんですけど、安全度ということから言ったら、つぶ揃いのほうがいいでしょうね」(森毅『たかが学校じゃないの』)。ホーンズビーのこの四二本の本塁打は、一九二〇年のベーブ・ルースの五四本塁打と並んで、野球界が本塁打狂時代へと突入する契機となった記録である。ジョンソンがそのホーンズビーの記録を更新したということは、どれだけのインパクトがあるのかが理解されよう。蓮実重彦が、『デイヴ・ジョンソンは美しかった』において、ジョンソンのセカンドの守備の「官能的な艶を帯びた」美しさにうたれたと告白するのも、無理からぬことである。ジョンソンはアメリカでの華のポジションであるセカンドで歴史的記録を残した名プレーヤーなのだから。そのジョンソンが日本ではサードを守ったのは、こうした日米の野球におけるポジションに関する認識の相違があるからなのである。蓮実は坂本龍一と村上龍との鼎談で、セカンドはどこか暗くて、ほんとうはサードやピッチャーをやりたかったができなかったというような影を背負っているとある映画人の意見を引いているが、セカンドの顔は日本特有の問題である。それは、先のジョンソンだけでなく、日本でプレーした外国人のセカンドを思い浮かべてみれるだけでも明らかである。ブレーブスで活躍した最強のガイジン・プレーヤーだったダリル・スペンサーは、百九十センチ以上の身長と体重百キロ近い巨体でパイソンを思わせた。ホエールズとジャイアンツでプレーしたジョン・シピンの打球の速度は当時セントラル・リーグで一、二を争っていた。ブレーブスのボビー・マルカーノはセカンドとしては日本プロ野球で初めて打点王を獲得している。スワローズ初優勝の切りこみ隊長デイヴ・ヒルトンは独特のクラウチング・スタイルから勝負強いバッティングをした。ホークスで暴れん坊として知られたトニー・バナザードは片手一本で軽々とスタンドまで運んだ。横浜ベイスターズのローズは弱小チームで気をはき、打点王を獲得した。彼らは巧打者ではなく、確かに強打者であり豪打者であった。最近は、日本でも、セカンドとサードをめぐる環境がいささか変化してきた。

 苅田の着眼点は素晴らしかったが、セカンドは苅田の思惑や大リーグとは違った方向にたどりついた。日本ではコンバートによってセカンドの顔をつくったため、セカンドは顔のないポジションとなってしまった。つまり、ショートからコンバートしてきた苅田が、その後の「顔のないポジション」としてのセカンドのイメージを決定してしまったのである。苅田はバッティングはそれほどでもなかったし、さらに、コンバートにたえられるだけの器用さを持っており、かくし球や空タッチ、シャドー・プレー、トリック・プレーをうまく見せるプロだった。その華麗さは、苅田のプレーしている姿にポーッとなった女性ファンが、その帰りに上の空のままでいたことから事故を起こしてしまったという伝説があるほどだった。苅田以後のセカンドの名手と言えば、千葉茂、岡本伊三美、鎌田実、山崎裕之、高木守道、大下剛史らであり、現役で言えば、バファローズの大石やスワローズの辻発彦のような、確実で素早く器用だが非力というプレーヤーをさすのである。

 七十年代半ば、ホエールズでクリート・ボイヤー(サード)、山下大輔(ショート)、ジョン・シピン(セカンド)、松原誠(ファースト)らによって内野カルテットが結成されていた。このカルテットはアメリカ的であった。セカンドのシピンを除くとこの内野カルテットはこと守備だけに限っては日本のプロ野球史上でも屈指のものだったように思われる。セカンドのジョン・シピンは、打撃に関しては申し分なかったが、守備は同じ時期に活躍したドラゴンズの高木守道などと比べると、はるかにお粗末だった。スナップ・スローは素晴らしかったが、シピンはイージーゴロをポロポロとしょっちゅうエラーした(それなのにどういうわけか二年連続でダイヤモンド・グラブ賞に輝いている)。そのため、ホエールズでプレーした後半は外野手に転向させられている。ところが、先にあげたロジャーズ・ホーンズビーも、吉目木晴彦の『二塁手の顔─顔のないポジション』によると、守備が下手だった。あれだけの打撃成績を残しているにもかかわらず、彼が史上最高のセカンドの名をフランキー・フリッシュに譲るのもその守備のためである。彼の守備たるやイージー・フライを最初から目測を誤るという初歩的なエラーを連発するものだった。これだけしょっちゅうフライを落とすプレーヤーは、いかに素晴らしいバッティングをしたとしても、日本でならば、セカンドからファーストにでもコンバートされるに違いない。しかし、彼はセカンド以外のポジションを守ったことは少ない。ホーンズビーが全出場試合二二五九試合中、ファーストを守ったのが三五試合、ショートとして三五六試合に出場したにすぎないのである。つまり、アメリカではセカンドの守備は日本でよりも確実性においては要求されてはいない。セカンドは「圧倒的な存在感」を持ったプレーヤーがそれを発揮するポジションなのである。アメリカでならば、シピンはセカンドのまま外野にコンバートされることはなかったであろう。

 シピンはジャイアンツに移籍した後、ポジションをセカンドに戻される。そうしたのは、ほかならぬ長嶋だった。フライを自分ではとらず、黒江透修にまかせていた長嶋がアメリカでのセカンドの地位を必ずしも理解していなかったと思われる以上、セカンド守備だけでなく、守備そのものについての認識が独特なものがあったと考えられる。

 岡崎満義は、『巧守巧走列伝』の「はじめに」において、長嶋の守備を元タイガースの名ショート吉田義男と比較して、次のように述べている。

 

 守備は地味なものだ。華麗な超ファインプレーなどというものは、年に何回あるか、というくらいなものだ。地味な守備のなかに、いぶし銀のようにピカリと光るものを見つけるのが真の野球通だと思っていた。

 ところが、長島茂雄の出現で、その考えがややぐらついたように思う。吉田の守備がいぶし銀なら、長島のそれは金粉をまぶしたような守備だった。吉田はやさしいゴロも難しいゴロも、同じようにさりげなくさばいた。長島は難しいゴロはもちろん、やさしいゴロもファインプレーと思わせるような動きでさばいた。「派手な大トンネル」といった見出し文句が、ときどき長嶋にはついたものだ。

 プロは三振しても絵にならなければいけない。凡ゴロもファインプレーに見せる技術が必要だ。長嶋はそんなふうに考えているのではないか、と思わせるようなところがあった。ホットコーナーのパフォーマンスとは何かを、長嶋は考えつづけた男のように思える。そのコンセプトにしたがって、長嶋は猛練習したのである。吉田に劣らず、練習したにちがいない。

 

 守備は一つの反復作業であり、その機能は可能なかぎり試合開始状態に近い形を保存していくこと、すなわち現状を維持していくことしかない(7)。つまり、守備はもしもあのプレーがなかったならという条件節でのみ語られるネガティヴなものであり、確実性だけが要求されてきた。条件節であることによって、見るものの経験的推量・恣意的解釈が入り込み、その評価は一定しない。その反動として、守備でならした者やそれを見る者も、過去に対しては「もしもああだったならば」と言い、未来に対しては「こうなるべきだ」ということを置き入れる。守備は極めてルサンチマン的なものだった。広岡達郎や(渡仏以前の)吉田が周囲の人々の神経を逆撫でするような言動をとるのはそのためである。

 長嶋はその守備に価値転倒の企てを行った。守備に要求されるのはたんなる確実性だけではない。守備も、バッティングと同様、ファンを満足させるというメッセージが含んでいなければならないと長嶋は考えていたのである。長嶋の守備はいかに保存するかではなく、いかによりよく、より美しくプレーを創造するかという精製する原理を帯びていた。すなわち、長嶋は価値を創出することを目標としていた。「何が善であり悪であるか、そのことを知っているのは、ただ創造する者だけだ──そして、創造する者とは、人間の目的を打ち建て、大地に意味と未来を与える者である。こういう者が初めて、あることが善であり、また悪であるということを創造するのである」(『ツァラトゥストゥラ』)。長嶋は創造する者として、ルサンチマンを守備から追放したのである。つまり、守備は条件節によって評価されるものではなく、その「意欲」によって評価されるものになったのである。守備は反復である以上、それはニヒリスティックな試練であるが、それと同時に、そこに一切の条件節的な評価を自ら拒否することによって、それは「意欲」という新たな価値を創出できる側面を持っている。つまり、長嶋は持っている力を出しつくし、その結果として現れてきたことを、たとえそれが失敗だとしても、そのまま認めることこそが大切なのだと示したのである。

 長嶋は、それゆえ、ルサンチマンによって誕生するメロドラマを増幅していくライヴァルというものを持たなかった。よく言われる村山実や金田正一、江夏豊は長嶋のライヴァルではなかったのである。

 村山も、金田と同様に、ルサンチマンにとらわれ続けた投手である。長嶋を語る際に、一九五九年六月二十五日の後楽園球場で行われた天覧試合が必ずひきあいに出される。それはライヴァルの物語のモデルと見なされている。だが、村山実は、天覧試合で長嶋にサヨナラ・ホームランを打たれたことによって、長嶋のライヴァルとして語られるようになったのである(8)。天覧試合に先発したのは「精密機械」小山正明であって、リリーフに出た村山は一介のルーキー・ピッチャーにすぎなかった。その年、最優秀防御率と沢村賞を獲得しているものの、村山は、一九八〇年のファイターズの木田勇や一九九〇年のバファローズの野茂英雄らのように、デビューしたその年いきなり新人賞だけでなく、投手部門のすべてのタイトルやベストナインさらにはMVPまでも総ナメにしたスーパー・ルーキーではなかった。確かに、村山から見られた天覧試合はメロドラマであるが、しかし、長嶋からの天覧試合は、そのパロディだったのである。それは、野球体育博物館に飾られているその時のホームランを放ったバットが、越智正典の『長島天覧ホーマー!』によると、他人から借りたものであるかまたは違うバットを勘違いして献上しているかのいずれかであろうと推測されることが示している。しかも、村山が「あれはファウルだ」と主張する疑惑のホームランである。何ごとにおいても起源は後から見出されるものでしかない。神話はその典型であろう。天覧試合も後から戦後プロ野球の神話として発見されたものにすぎない。疑惑を隠し、起源捏造の物語という神話として天覧試合は強化されてきた。長嶋はその起源の発見に対して大団円を認めない。天覧試合が後に神話として強化されることを見越して、正統性の虚偽を、疑惑を長嶋はバットを忘却することでつきつけたのである。「フェアはファウルであり、ファウルはフェアである」(シェークスピア『マクベス』)。それに、村山を語るのは一九五九年五月二一日の対ジャイアンツ戦につきる。この試合は、五回に長嶋に四球を与えた後、味方野手の三連続失策のため二点を失ったが、ノーヒット、一四奪三振を記録して、三対二で完投勝利というノーヒット・アリランになった。

 江夏の場合は、村山らと少し事情が異なる。江夏はルサンチマンにとらわれなかった数少ない例外であり、そのため、延長のノーヒット・ノーランを自らのサヨナラ・ホームランで決めた後の「野球は一人でもできる」という彼自身の一言に代表されるように、自分自身で多くの見せ場をつくれた。江夏は、吉目木の『黄金のサウスポー─江夏豊』に従うならば、「野球フリークスが夢見る完全無欠な投手像を、日本のプロ野球の歴史上、初めて実現して見せたのである。(略)スピードとコントロール、あるいは速球と豊富な変化球、パワーと老獪な頭脳、投手において通常矛盾し合う才能を同時に我がものとした少年は、しかもその若さゆえに、どれほどの大器となり得るか計り知れない可能性を秘めていた」。ところが、江夏は心臓病や血行障害といった数々の不運に見まわれ「二線級の投手」に成り下がるが、今度は最高のリリーフ投手として復活する。だが、見るものはそのリリーフで活躍している江夏に若き日の「完全無欠な天才投手」という「失われた時」を求めた。すなわち、江夏は見るものに「失われた時」は戻ってくるのではないかと想起し続けさせた男なのである。江夏はまさにメロドラマのストーリー・テラーとしては最高だった。江夏は、プルーストのように、何度も物語を書きかえた。江夏は終りを求めるがゆえにつねに終りが先送りされていく時間の中に生きていたのであり、四十近くになってから大リーグに挑戦し、常識的に失敗することによって最終的なエンドを拒否した。つまり、江夏は永遠に失われた時を想起する物語をつくりあげたのである。江夏について書かれた文献の多さは長嶋と一、二を争うだろう。江夏はプロ野球の歴史において確かに長嶋と並ぶ存在であった。にもかかわらず、江夏自身も否定しているように、長嶋と江夏の関係がライヴァルにならないのは、二人ともルサンチマンにとらわれていないからである。ライヴァルのメロドラマは、ルサンチマンを抱くものがそれを克服してしまったものへ自らのルサンチマンを振り向け、それが克服したものに飲みこまれていく物語である。

 川上は学生野球中心だった日本で職業野球に目を向けさせ、大下弘は職業野球を学生野球以上にし、長嶋茂雄はプロ野球を完全に日本野球の中心にした。このことはファンというものが変わってきたことをも意味している。彼らはファンの変遷とともにあった。

 長嶋は、『ジャイアンツと私』において、プロ野球選手にとって必要な態度を次のように述べている。「何がプロ的ということになるんだけど、要するに表現力です。人生は表現力だと、よく言いますね。特にプロ野球の場合、プレーをお見せすることによって、皆さんの支持、支援をいただき、そして共感をいただく。また、われわれプレーする側からいえば、観客の方に感動を抱かせる。それがプロたるものの使命であり、姿勢である。そんな風に考えて、学生時代から一生懸命勉強していたわけです」。長嶋は野球に関心のないものの目をも野球に向けさせた。長嶋はファンによって支えられたと告げているが、草野進は、『長嶋茂雄は祈ることの醜さを球場から追放した』において、長嶋のファンは存在しなかったと述べている。草野によると、「そもそもファンというのはどこかしら孤独で、隠匿性への意志を強く主張する人たち」であり、ファンは「ひそかに好んでいる」選手のために祈らずにはいられないが、長嶋は「そうした祈りや人目に触れぬ配慮などまるで必要としてはいなかった」。つまり、「出来そこないの子供に愛情を注ぐ親のように、影ながら自分がささえてやらねば世の中を渡ってはいけまいといった気持で選手を贔屓せずにはいられないファン気質の醜さを思い知らせるように、彼はそんな隠された心遣いを頭から無視し、勝手気儘にグラウンドをかけずりまわってくれたのだ」。ここで、「隠匿性への意志」とはアイロニーであり、有名性に対する悪意としての反感を秘めている。ファンはルサンチマンに基づいた自己同一性を志向している以上、それを克服してしまった長嶋にその意味でファンはありえない。長嶋はルサンチマンの生み出す「ファン気質」をも笑い飛ばしたのである。

 長嶋は最高の教育者であった(9)。長嶋に憧れて少年たちは野球を始め、長嶋になるべく躍起になり、背番号3に憧憬した多くの少年たちがプロ野球選手となっていった。少年たちだけにとどまらず、同じプロ野球の選手たちまでも長嶋を実存のモデルとしたのである。

 天秤打法の近藤和彦はバッティングに悩んだとき、岡崎満義の『近藤和彦』によると、長嶋によって救われていたと次のように述べている。

しかし、一番の薬は長嶋君でした。彼とは同じ年にプロに入ったわけだが、彼は会うたびに「いい投手が出たらそうは打てないよ。4─0も仕方ないよ。まあ振っているうちに、いわばマグレのヒットも出るかもしれない。それに、今日4─0なら、明日4─3打てば勘定はあうじゃないか」と決して深刻にならない。あれはすばらしい。ぼくも長嶋君にあやかって、そういう考え方をするようにしました。

 近藤は長嶋がいなかったならば一度くらいは首位打者に輝いたかもしれないが、長嶋がいたからこそプロ野球で現役を続けられたと感謝している。近藤こそ長嶋という強者の圏内のうちに身を置いた弱者、すなわち超人思想の申し子なのである。ニーチェによると、弱者が目標とすべきなのは、さらなる弱者に対して相対的にルサンチマンを晴らしたり、ルサンチマンを自己に向けて自分の生を否定するのではなく、つねに強者が示す高次の生き方に憧れ、自分がそのように生きられない場合でもその生き方の「圏のうちに身を置く」ということであるから。

 長嶋にとって、問題となるのは平凡な人たちがその強者の範例をどう受けとめるかという点にある。「けだし、問題は確かに次のようになるのだ。個人としての汝の生が最高の価値を、最深の意義を保つにはいかにしてか? いかにすれば汝の生が浪費されることが最も少ないか? 確かに、汝が極めて稀有な極めて価値ある範例に有利であるように生き、大多数者、すなわち個々別々にとれば極めて無価値な範例に有利であるようにではなく生きることによってのみである」(ニーチェ『反時代的考察』)。超人は現実的に力を持っている者と必ずしも同一ではない。真の強者は自分の力を認識し、つねに最善をつくして、それでも成し遂げられないことはそれとして認める。長嶋はその基準を自分自身のうちに持っており、やってきた結果に対して決してルサンチマンを抱かない。ところが、大多数者は守備のように条件節的に現実をとらえ、生き難さを感じ、あるがままの現実を是認することができない。だが、こうした生き方はその人を肯定的に生を感受させ得ない。玉木の『あなたもわたしも「長嶋茂雄」を殺してはならない』によると、プロ野球史上、最も美しい投球フォームを見せた杉浦忠は次のような話をしている。立教大学の野球部では連帯責任を負わせる風習があり、一人がミスをすると、同学年のもの全員が殴られた。このことによって、善し悪しはさておくにしても、他人に申し訳ないという社会人としての意識が芽生えるのだと杉浦自身は言う。けれども、長嶋だけは別格で、自分がミスをした結果他人が殴られても、アッケラカンとしていたというのである。彼は平気で「今日は縁起が悪いや」と言い放った。ここでの社会人としての意識とは、平均人としての意識にすぎない。平均人は自分の生き方を他人の評価だけ見ることによって、ルサンチマンを増幅・抑圧し、それを晴らすことに生の理由を見出すことになる。平均人による社会とは反感をうまく組織化したものによって握られている反感の体系にほかならない。一方、長嶋は社会の調和的な維持ではなく、個人が自分のルサンチマンのありようを認識してそれを肯定的な方向に転換し、生がその内で充実されるのかということを目標としている。そうなれば、繰り返ししかない状態でさえも、肯定し得る永遠の好ましい円環運動となるはずだからである。つまり、必要なのは、あるがままの差異の平均化ではなく、その意識化である。平均化は弱い人間には無理な要求を、強い人間にはその肯定的な力を殺ぐことを強いるだけなのである。強いものと弱いものは誰がわけるのかという疑問は、強いものは自分の中に評価の基準を持っている以上、弱いものから発せられるものでしかない。しかし、強い人間も弱い人間もその差異に自分の生の根拠を見出すべきではなく、大切なのは自分自身の反感のありようを十分に意識することなのである。人間が生を肯定しつつ且つさらに高い生き方を探し求めるという課題を持ったほうが、平均化よりもはるかによい生き方と長嶋は主張しているのであって、「理想と現実」の二項対立は、長嶋のパースペクティヴにおいては、意味をなさない。

 才能と努力は違うものをもたらす。才能は瞬間的な力を、努力は持続する力をその人に寄与する。大下弘や中西太、田淵幸一は才能で、王貞治や張本勲、野村克也は努力で生きたプレーヤーだった。前者は、瞬間として、打球一つで語り継がれていくものになり、後者は、結果として、積み重ねられた記録によって話題になる。いかに努力しても、持たないものが才能を獲得することはできない。それは運命でしかないからだ。才能のあるものは、才能によって、努力のものは、ルサンチマンを持たず、努力して生きたほうがいい。才能を持つものが努力すればより以上の存在になれると考えてはならない。才能はその人におさまりつかないものであり、没落させてしまうほどの力なのだ。長嶋はその極限だった。「実績を残した人で自分を天才というのはないよ。みんな自分は努力家だって言うよ。だから、天才っていうのは、まあ長嶋さんみたいに、明るく努力できる人のことだよ」(東尾修)。

 落合博満は、最も素晴らしい長嶋茂雄論である『長嶋さんに理屈をつけてはいけません』において──長嶋を論じようとするものは、誰でも、まず、この落合の意見に耳を傾けなければならない──、長嶋という生成について次のように述べている。

 

長嶋さんってのは、もう、「とにかく凄い」としか形容の仕方のないプレーヤーですよ。

「とにかく凄い」

 それ以外に言葉がない。

 王さんというのも、これまた凄い選手だけど、ぼくらの世代は長嶋さんがすべてだったよね。ぼくらより下の世代、昭和30年よりあとに生まれた世代が王さんのファンで、ぼくらの世代までが長嶋さんのファンということなんじゃないの。

 長嶋さんのどこが凄いかって?

 それは長嶋さんひとりでお客が呼べたっていうことですよ。うん、あのひとは、ひとりでお客を呼べた。そんなプロ野球の選手って、後にも先にも、もう、あのひとだけじゃないかな。空前絶後。あんな選手は、絶対に出ませんよ、もう。

 長嶋さんは、なぜ客を呼べたかって?

 それは、まあ……、いろいろ理由はあるよね。なにも、ぼくがいわなくても、バッティングやフィールディングの一挙手一投足が美しかったとか、迫力があったとかね、そりゃ、もう、いっぱい理由はあげることができるでしょ。

 けど、いくら理由をあげても、あげ切れないっていうのか、長嶋ってプレーヤーは、こういうプロ野球選手だって断定した瞬間、いや、それだけじゃないとか、そんなものじゃなかったっていう気持ちが湧いてくるんだよね。

 まあ、長嶋さんってひとは、ひとことでいえないひとだといってしまえばそれまでかもしれないけど、そういういい方もまた違っているというか。ひとことでいえないひとだっていった次の瞬間、いや、ひとことでいえるかもしれないって気持ちが湧いてくるんだよね。「ミスター・プロ野球」といえばそれでいいんじゃないかとかね。

 だから、あのひとは、こういうひとだとか、こんなふうにすばらしいひとだとか、そういうふうに断定的にいっちゃ、絶対にいけないひとなんですよ。ただただ、そういうひとが存在してくれたことを、そして、存在していることを素直に喜べばいいんじゃないの。(略)

 うん、はじめてあったときは驚いた。だって、身体全体が、ほんとうに光ってたよ。そう、後光みたいなのがさしていたね。光ってた。ほんとうに光っていたの。だから、ああ、ウワサはウソじゃなかったんだなあと思ったね。

 まあ、長嶋さんってのは、そういうひとなんだから、そんなひとを、言葉でどうのこうのいっちゃいけないんですよ。

 ただただ、あのひとを見つめて、いいなあ、と思ったり、あのひとのいうことを聞いて、おもしろいことをいうなあとか、そんなふうに思っていりゃいいんですよ。もういちどユニフォームを着て監督をするかもしれないけど、そのときだって、あのひとのやることをじっと見つめていりゃいいんです。そうすれば、誰もがしあわせになれるんだから。

 さっきもいったけど、あんなひとは、もう二度と出てこないね。それは確か。なぜかって? それは、環境の違いでしょ。育った環境の違い。時代が違うっていういい方もできるだろうね。時代が違う。いまのぼくらと長嶋さんとでは、あらゆる点で育った環境が違う。だから、第二の長嶋茂雄なんて、絶対に出てきませんよ。まあ、そのことだけは、はっきりと断言できるね。

 ああいうひとが、もう二度と出てこないってことを悲しむ気持ちもわかるけれど、ああいうひとが一度でも出てきたってことを喜ぶっていういい方もできるんじゃないかな。

 うん、ぼくは喜ぶってほうの意見ですよ。プロ野球界に……というより、この世の中にっていうか、まあ、この国にっていうか、ああいうひとが存在したってことを思うと、ほんとうによかったなあと思うのは、ぼくだけじゃないんじゃないのかな……

 

 われわれは長嶋の決断力あふれるプレーに魅了され続けた。彼ほど決断力のあったプレーヤーをわれわれは知らない。長い時間がたったときには、第二の長嶋が出現することはあるかもしれない。けれども、それはあくまでも第二の長嶋にすぎないのだ。長嶋は一人しかいないのだから。長嶋以後に、野球にまったく興味のない人たちまで関心をよせるようにさせるには、イチローを待たなければならなかった。メニッポス的諷刺の体現者イチローはスタン・ミュージアル級のバット・コントロールとミッキー・マントルばりの足を持っている。東京から遠く離れた神戸で、テレビどころかラジオの中継すらめったにない強くても観客動員がのび悩んでいるチームにいながら、九四年の世間のあいさつは「彼の二百本安打達成はいつだろう」だったのである。われわれは、九二年のジュニアー・オール・スターでMVPに輝いた鈴木一朗を見たとき、第二の掛布が登場したとひそかに熱狂したものだった。左打者で、前さばきがうまく、体が小さいわりに打球が速く飛距離もあり、そして、何よりも、彼はストッキングを膝のあたりまで見せるようにしていたのである。予想は大きく外れた。われわれは彼を小さく把握しすぎていたのだ。長嶋が登場したことをその社会や野球の歴史から理解することは可能だろう。しかし、長嶋は、日本野球を考えるとき、たんに時代を表象したというだけでなく、「到達できない規範」(10)としてある。なぜだろうか? それは長嶋が二度と現れることはないからである。だが、長嶋がもう二度と現れ得ないことは悲しむべきことではない。「超人」とは「人間の本性を人間の最高のものの起源をとらえた者」(ニーチェ『権力への意志』)であり、個人の実存のモデルであるから。それでは、なぜ長嶋はもう絶対に現われ得ないのだろうか? それは長嶋が真の子供らしさを体現していたからである。子供はロマン主義的な幼稚で無邪気、すなわち何も知らないのではなく、子供という存在は、生がどれほど生きがたいものとして現れても、それにもかかわらず過ぎ去ったことのすべてを忘却してつねに現にある一瞬一瞬を最大限に生きようとする無垢に立ち返るような力を意味している。長嶋が子供と見なされていたのはその力を表現したことによるのである。長嶋をわれわれが見るとき、自分自身の失われた何ものかを想起する。長嶋を見ることによって幸せになれるのは、かつて自分自身がそうであったように、そこに差し引きなしの生の完全な肯定を感受できるからである。つまり、現実に長嶋のように生きることができないからこそ、長嶋は個々人だけでなく野球そのものの「到達できない規範」として考えられている。

 要するに、長嶋は背番号3、サード、四番打者といった伝統を十分に踏まえながらも、それに関わる価値を完全に転倒した。長嶋は評価基準を自分の力をよく認識しつねに自分の最善をつくし、それでも成し遂げられないことは、それとして認めること、すなわち「意欲」に置いたのである。つまり、長嶋は、野球を「これまで否定されてきた生存の側面を必然的のみならず、望ましいものとしてとらえる」(『権力への意志』)という肯定から見ることを導入したのであり、長嶋のデビューはその規範にほかならない。
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第3章 長嶋とは何であり得るのか

 長嶋は、一九七四年十一月十四日、ジャイアンツ=ドラゴンズの最終戦(於後楽園球場)を最後に引退した。デビュー戦と違って、この試合の打席の結果は何一つ語られることはなく、ただあの試合後の引退式だけがファンの口に上る。長嶋の構築したエピソードの一つの頂点はあの引退式にあるように思われる。長嶋はセレモニーで、「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫び、その後、外野スタンドの前を涙を流しながら、ファンに別れを表わした。過剰な言葉をかき消し続けた長嶋が発したその言葉は何を意味しているのだろうか? 楽しさを示し続けた長嶋の涙は一体何だったのだろうか? メロドラマを拒否し続けた長嶋は最後の最後になってそれを演じてしまったのだろうか? 長嶋の泣く姿を鑑賞し表わすだけでは、長嶋によって変革されたわれわれの意識それ自体を読みとることはできない。

 近藤唯之は、『天才の悲しみー長島茂雄』において、長嶋の「悲しみ」について次のように述べている。

 

 11月2日、後楽園球場で第7戦が行われた。巨人は3連敗のあと、3連勝だから、乗りに乗っていた。

 さて1対1の同点で迎えた六回、巨人はライト投手の中越え二塁打などで2対1と逆転、なお一死満塁の場面に持ち込んだ。このとき六番・淡口憲治右翼手は足立の初球、真ん中低めに沈むボールにバットを出し、投ゴロ併殺に終わった。

 その瞬間における、長島監督の表情を忘れはしない。顔をゆがめ、右足スパイクで地面をけり、まるでサヨナラ満塁本塁打を食ったような一瞬だった。

 淡口は併殺だったとはいえ、2対1と逆転したのは本当である。なぜ、あれほど悲しむのか。私は長島監督のゼスチャーはオーバーすぎると思った。

 ところが3分後の七回一死後、一塁走者・ウィリアムス右翼手をおき、六番・森本潔三塁手は左翼席逆転本塁打をぶっとばした。天才というのか、ひらめきというのか、淡口が併殺打になった瞬間、長島監督はすでに3分先の再逆転を予想していたのかも知れない。私はそこに天才・長島の悲しみを見たと思った。

 

 長嶋は、つめ将棋が素人やそれ程熟達していないものにとってはまだ途中に見えてもすでに終わっているように、野球において先がほぼ完全に読めており、すべてを認識していた。野球はパターンや構造の反復の中にあり、すべては繰り返しにすぎない。だが、その繰り返しはそれぞれ単独的なものである。長嶋の「悲しみ」は出来事の悲惨さではなく、そうした認識、悲劇のヴィジョンに関わっている。繰り返ししかないと認識し、先が読めるにもかかわらず、その一回一回は二度と戻ってこないと経験しつつ生きることは悲劇的である。長嶋は、すべては結果ではないから、悲劇を意欲的に反復する。長嶋の涙はこの反復を認識することから流れ出たのである。

 野村克也による「ID野球」提唱以降、日本のプロ野球界では、従来の決定論に代わって、確率論が支配的である。しかし、「あの一球が大きかった」とか、「あのプレーが流れを左右した」、「あのゲームでシーズンが決まった」という言い方がよくされるように、プロ野球を考える場合、むしろ、カオス理論や複雑系による認識の方がふさわしい。そもそもスポーツは初期条件に敏感に依存する。十九世紀末、最初にカオス性の運動に気がついたアンリ・ポアンカレは、『科学と方法』において、「われわれの目をかすめるような極めて小さな原因が、無視できないほど大きな効果を生むことがある。この時、その効果は偶然に起こったと言われる」と述べている。彼は、三つの天体の運動を調べる「三体問題」と呼ばれる天文学の問題を考えている際に、一九六〇年代に「カオス」と命名される運動を発見したのだ。複雑系は、哲学的には、ポアンカレとほぼ同時期に研究を開始していた数学出身の哲学者E・フッサールの「現象学」に類似している。長嶋は、先のプレーに、「今日北京でチョウガ羽を動かして空気をそよがせたら、来月ニューヨークで嵐が起こる」という比喩で説明される「バタフライ効果」を見出したために、「悲しむ」。長嶋は複雑系の認識を持って、プロ野球を見ていたのである。長嶋がかつて「カンピューター」と呼ばれていたことを思い起こすべきだろう。カオス理論や複雑系はコンピューターによって再発見され、その可能性が追及されている。「その複雑さは驚くべきもので、私自身もこの図形を引いて見せようとは思わない」(ポアンカレ『常微分方程式』)。つまり、長嶋という「カンピューター」が野球における複雑系を顕在化させたのだ。

 長嶋は引退した翌年一九七五年に、『旧約聖書』の巨人ゴリアテに由来するジャイアンツの監督に就任する。長嶋は、その際、背番号を3から90に変えた。背番号3というエピソードに別れを告げるために。その五年後の一九八〇年、長嶋は成績不振を理由に監督を解任された。長嶋の監督としてのテーマは試合に勝つこと以上に楽しさをプレーする側にも見る側にも感受させ得るかという点にあった。多くのファンはそれを求め、長嶋に声援を送っていたのである。しかし、球団は勝たなければ親会社の新聞の発行部数やテレビの視聴率が低下すると恐れていた。長嶋はルサンチマンに囚われた読売球団によって、すなわち被害者意識が転じ加害者になるというあの反転によって解任されたのである。家の中で殴られ続けた子供が、家の外でいじめっ子になってしまったり、その逆であったりするように。長嶋は勝利のみを要求している球団と、結果において、一致していた間だけ監督たり得ていたのである。

 それでも長嶋は解任されたジャイアンツを愛している。その姿を愚かしく情けないと評するものがいるが、ジャイアンツ・ファンと長嶋のジャイアンツへの関わり方は異なっている。ジャイアンツ・ファンにとってのジャイアンツはルサンチマンを晴らすことの対象にすぎない。長嶋は自分自身が現にこうしてあり、その自分を可能にしたこうでしかありえなかった現実としてジャイアンツを愛しているのである。言うまでもなく、ジャイアンツが長嶋を生み出したわけではない。長嶋は自分自身が関わり、相互作用を繰り返してきたあるがままの現実として愛しているのである。どんなに人生がそれでボロボロになったとしても、再起不能なまでのこころの傷を受けたとしても、ジャイアンツから無視され続けたとしても、どんなにそのジャイアンツが腐敗し最低になっていたとしても、愛されることが迷惑だとしても、長嶋は愛し続けるのである。「愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。あなたがた臆病者に、わたしはそう告げる」(『ツァラトゥストゥラ』)。愛することはルサンチマンを廃した完全な肯定を意味している。長嶋はルサンチマンに囚われている数々のプレーヤーに対して「強者」としての超人の生き方を示し、「救済」したのである。「過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうであった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること──これこそわたしが救済と呼びたいものだ」(『ツァラトゥストゥラ』)。長嶋最大の救済は読売球団に対してのそれであるにもかかわらず、読売球団は長嶋が愛することによって自分たちを「救済」していることを気づいていないのである。

 長嶋は引退式で「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫んだ。「永遠」ではなく、「永久」と言ったことに長嶋の真意がある。「永遠」は、ニーチェの永遠回帰のように、内的なものだけで限りなく運動が回帰してくることであり、「永久」は、永久機関のように、外的な働きかけのないまま限りなく運動が回帰することなど机上の空論でしかないという意味がある。長嶋があの引退式で告げたかったことは次のことである。「あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見いだすことになった。信仰者とはいつもそうしたものだ。だから、信仰するといってもたいしたことはない。いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見いだせ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。まことに、わが兄弟よ、そのときはわたしはいまとは違った愛でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう」(『ツァラトゥストゥラ』)。つまり、「巨人軍」が「不滅」などは机上の空論にすぎず、「巨人軍」にとらわれるのではなく、自分自身を「見いだせ」と長嶋は言わんとしていた、すなわちあれは最高のユーモアなのである。

 ニーチェは、『ツアラトゥストゥラ』において、あの永遠の回帰について次のように語っている。

 

 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。

 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。──

 あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ!

 ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ!

 ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは──永遠を欲するからだ

 

 ピッチングにしても、バッティングにしても、野球を支えるのは円運動であり、長嶋はこの円運動を消極的な繰り返し、すなわち惰性ではなく、積極的な繰り返し、すなわち反復へと、永遠回帰へと創造するのである。フロはこの反復による創造ができなければならない。たった一度でも生が肯定される瞬間があったなら、その「よろこび」によって世界や生を「然り」とし、「帰ってこい」と叫び得るものにする。ここでニーチェは、生き難い現実に対して働きかけるか否かだけではなく、現れてきた今ここをどのように生きるのかと問うている、すなわち苦悩や悲嘆を「反感」の病的な回路に向け、生を否定し、それを晴らすように復讐のために生きるのか、それとも苦しみを「わたしがそのように欲した」へとつくりかえて、よろこびを一切の苦しみとともに「去れ、しかし帰って来い」と健康的に肯定するのかの二者択一を提示している。長嶋の目指したものはこのニーチェの永遠回帰と同一のものであると思われる。二度目の監督就任の際に選んだ新たな背番号33は3の反芻、永遠回帰を意味するのだ。事実、長嶋は、再び、その背番号3へと回帰した。長嶋は生きられた超人である。すなわち彼自身が新しい価値の定義であり、新しい価値を創造しているのだ。

 われわれが見た日本プロ野球のピッチャーの中で最高は、先に言及した点も考慮して、江夏である。江夏のピッチングには宮嶋泰子アナの実況こそ望ましい。これはアイロニーではない。「失われた時」を求める江夏を語るには素朴な男なるものでは不可能なのだ。宮嶋泰子は「奔流のような活動の衝撃と活気を受けとめ」(『失われた時を求めて』)、比喩的な関係についてのメタ比喩性を喚起させる。この点がわからないと彼女の独特の語りを理解できなくなる。最も速い球を投げたのは山口高志であり、最も美しい球を投げたのは郭泰源である。その江夏は最も嫌な打者として王ではなく、長嶋をあげている。理由は「わからないから」だという。「王さんは、こっちが“決めた”と思った球はまず打たれない。長嶋さんは反対。やった、という球を打たれるんだなあ」。だが、長嶋はそれこそが一流投手に対する打者の知恵と断言する。「江夏級の一流投手が勝負してくるシチュエーションは、案外決まっている。自信があるからだろうね。僕はその球にヤマをかける。ウィニング・ショットを狙うほうが的中率は高いからね。それを打つのがバットマンのテクニック。狙っているからできるんです」。長嶋は、いかなる状況においても、このように新たな価値を創造する。

 長嶋は、日本語や英語、スペイン語だけでなく、既存の言語を解体し、長嶋語と呼ぶほかない新たな言語すらもつくりあげてしまう。長嶋は言語に敏感である。長嶋は、その直観力により、すべてのものに命名する。しかし、この比喩力のみに頼ることなく、長嶋は詩人としてだけではなく、散文家としての才能も発揮する。長嶋はつねに両義的である。長嶋語は、あの終わりのない永遠に続くセンテンスにより、すべてのものを飲みこむ恐るべき強度を持った肯定の言語である。さらに、男性や女性の言いまわしの区別もなくなる。一切の文法上の誤りのないその言語を耳にするだけで、誰もが真似をしてみたくなり、「しあわせ」になれるのだ。創造された新たな価値は、時が経るとともに、象徴や彫像、偶像に堕してしまいかねない。永遠回帰はこの宗教的な危険を粉砕する。長嶋に憧れることは偶像崇拝ではない。長嶋はそうした宗教的な通俗からほど遠い。あのカン高い声は聖者への哄笑を意味しているのだ。長嶋は神などではない。神はすでに死んだのである。長嶋は生まれた頃から超人だったわけではない。長嶋は、むしろ、人一倍負い目やコンプレックスを感じ、ひどくルサンチマンに囚われていた。小学生の頃は「チビ」と馬鹿にされ、中学高校時代に身長は伸びそう呼ばれなくなるものの、立教大学時代はひどい千葉訛が抜けず、それをごまかすために口癖となった「チト」と「ハア」から、「チト、ハア」というあだ名をつけられ、その訛ゆえに長嶋は合宿所にかかってきた電話に一切出ず、電話番の仕事を逃げ回っていたのである。長嶋はそうしたルサンチマンに対してある踏ん切りをつけた。ルサンチマンが大きければ大きいほど、それが転換されたとき、大いなる生の喜びとして現れる。つまり、長嶋はルサンチマンを打破しろではなく、転換せよと言っているのだ。引退式はそのメッセージにほかならないのである。

 長嶋が忘れっぽいのはあまりに有名である。それを非難するものはいない。長嶋は一切のものを忘却する。忘却はルサンチマンを発生させない力だ。忘却は、子供において、最も発揮される。ルサンチマンを持たないものはすべてを忘却する。この忘却の力は恐るべき肯定の力なのだ。

 忘却の力について、ニーチェは、『ツァラトゥストゥラ』において、精神が遂げる「三段の変化」として次のように語っている。

 

 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。

 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。

 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。

 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?

 新しい価値を創造する、──それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること──これは獅子の力でなければできない。

 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。

 新しい価値を築くための権利を獲得すること──これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。

 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。

 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。

 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。

 

 「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷を負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになるのだ。しかしながら、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことはできても、それを創造することは不可能である。「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。そして、その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至るのである。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」とき、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとするのである。つまり、ただたんに深く、または広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要なのだ。

 長嶋の思い描いてきた野球とはいたって単純で、健康的なものなのである。けれども、永遠回帰は単純再生産ではないし、「戦争は物事を単純化する」が、個々人の生の充実を目指す長嶋の単純志向は戦争とはかけはなれたものだ。「個々人の無差別と個々人の義務。人間性にさからう義務的な行為──すばらしく教訓的な葛藤。戦争をおこなうのは『国家』ではなくて、君主ないしは大臣である。言葉でもって騙してはならない」(ニーチェ『生成の無垢』)。勝つことは野球の目的であっても、すべてではない。目的を絶対視するヘーゲル的な目的論的思考が日本のプロ野球には蔓延している。日本のプロ野球は倒錯しているのだ。一九世紀イギリスのマナーの本には次のように教えがある。「下品はいけない。しかし、下品になるまいとの努力を見せつけてしまうのもみっともない。失敗しないように、と冷や汗をかくくらいなら、失敗をした方がいい」。マナーとはタブーではなく、いささかユーモアを含んでいる。日本のプロ野球は「下品」極まりない。まったく「失敗」をしようとしないものはファシストなのだ。リダンダンシーにあふれている長嶋はこの「遠近法主義的倒錯」を批判する。長嶋は「理想」を「個々の生存をいかに肯定するか」に置いている。つまり、野球の生み出すものが現実的にさまざまな生の苦しみを支え、見るものや携わるものを楽しく健康的に生かすようにプレーすること、野球をそう育成することなのである。それは「悦ばしきスポーツ(The Gay Sports)」になろう。

 この「ゲイ・スポーツ」は、オランダのヨハン・ホイジンガがメニッポス的諷刺の遊作『ホモ・ルーデンス』において指摘した現代のスポーツが失っている「遊びの内容のなかの最高の部分、最善の部分」の回復であり、さらなる創造である。遊びは腐敗してしまった。「遊びはあまりに真面目になりすぎた」挙げ句、「真面目が遊びとなっている」。遊びは物事を多面的にする。文化の反対語が組織であり、自然や野蛮ではないように、遊びの反対語は真面目ではない。文化を創造する力は遊びである。

 遊びには愛が不可欠であるが、一三世紀のブラバンドの尼ハーデウィヒは、適切にも、愛は遊びと次のような詩を書いている。

 

愛こそ遊びなれ

そは何人もよくなし得ざる

よしこの遊びなせし者よくなし得ば

このわざを解する者のみぞ悩みを免れむ

 

 「愛こそ遊び」は「いき」、すなわち「無力・欠如・怨恨を“洗練”にすりかえるような倒錯」(柄谷行人『「いき」の構造』)を意味しない。「いき」なるものは無への意志だ。「官能性の精神化はと呼ばれる」(ニーチェ『偶像の黄昏』)が、それが遊びと文化を結びつける。と言うのも、愛によって人は「おのれの苦を、おのれの受苦能力を、罪の解釈によって礼節あるものたらしめる必要がない」(ニーチェ『反キリスト者』)からである。プロのスポーツ選手である長嶋はホイジンガの問いに完璧に答えている。ホイジンガは、あの著作の中で、日本や日本語に関しても分析しているが、われわれはそこまで好意的にしなくてもいいよと苦笑したくなる。長嶋は「笑うことによって厳粛なことを語る」(ニーチェ『ワーグナーの場合』)。この長嶋的な回復を受けとめているのは、メニッポス的諷刺の体現者、あるいはグレン・グールドの化身イチローである。メニッポス的諷刺は日本人には最も理解されない。日本人は遊びを駄目にすることにかけては最悪の存在である。遊びは子供にしかありえない。「子供の遊びと彼が呼んだものは、人間のさまざまの思想のことであった」(ヘラクレイトス)。6と28はその約数の和がそれ自身に等しい完全数であり、その背番号を落合と江夏がつけていたことは象徴的であるということを考えるのも、楽しい遊びだ。遊びは祝祭ではなく日常の一部であり、日常が機能するには欠かせないものだ。日常への憎悪はルサンチマンの表出である。超人は究極の「ホモ・ルーデンス」、すなわち「ホモ・リーデンス」であろう。

 ホイジンガがこの著作の中で批判している現代スポーツの問題点は、今日においても、まったく改善されていない。これは、プロ・スポーツだけでなく、IOCならびに国際陸連、FIFA、そのほかのアマ・スポーツの国際団体や広告代理店とスポンサー企業との癒着による裏金づくりの動きが常識化していることを考慮すれば、納得のいくところである。ここまでの論点から、審美主義が批判されなければならないことは明白であるが、そのエステティシャンとアスレティシャンは同じ根を持っている。連中はファシスト、スターリニスト、全体主義者である。二〇世紀を代表する最大のスポーツ・イベントは、両者が仲むつまじく手と手をとりあって行ったナチ・オリンピックである。結局、反省などされず、いまだに、あれを「平和の祭典」と称して繰り返している。どんなに腐敗していても、パルテノン以上のあまりに優美なシンメトリーの装飾を、良識ある人を「奴らは最も古代ギリシアを冒涜している」と呆れさせるほどのバランスはとっていなければならないので、自らのためにのみ必要としているのである。

 長嶋の遊びは真実である。しかし、これは先にわれわれが提示した「大いなる虚」と矛盾しない。虚は大いなる虚と積極的になろうとすることによって、力の意味において、真実だからである。ゴルフの「パッティング・イズ・リッスン」をもじって、長嶋は「バッティング・イズ・リッスン」と言い、耳あてつきのヘルメットを被ろうとしなかった。あまり知られていない話だが、長嶋は、われわれと同様、眼がよくない。メディアの前以外では眼鏡をかけている。長嶋は、そのため、老若男女を問わず、体に触れる。特に、長嶋は、われわれと同じように、胸とお尻が大好きである。この触覚という感触が抽象的な長嶋の力の具体性を意味している。長嶋は抽象性と具体性が混在している。長嶋はすべての感覚を、第六感を含めて、動員したのである。ニーチェも視力が弱かった。近代では、眼というものが偏重されている。眼の偏重は真実への盲点をもたらした。真実は具体性と抽象性の融合である。古代ギリシアでは、具体性を手放さないために、見ること以上に触れることが大切だった。遊びは具体的である。人間はどうしても眼というものに極端に頼ってしまう。実在はしていないが、ホメーロスは盲目だったと伝えられている。真実を知りすぎたものは視力を奪われてしまうのだ。神が嫉妬してしまうからである。

 キリスト教徒の青田“ブケノファールス”、あるいは“塩原多助”昇は、長嶋が監督に復帰したとき、「長嶋茂雄とは一つの“運命”なのだ。プロ野球そのものの存亡が問われる重大な危機に、プロ野球全体が、この男をもう一度呼び戻したのだ」と言ったが、立教大学経済学部経営学科を卒業しつつ、リック・クルーガーが『聖書』を読んでいた姿に、怒りをあらわにした長嶋は、ニーチェの『この人を見よ』を引用しながら、「なぜ私は一個の運命であるのか」という理由について次のように答えるだろう。

 

 わたしはわたしの運命を知っている。いつかわたしの名に、ある巨大なことへの思い出が結びつけられるであろう──かつて地上に例をみなかったほどの危機、最深処における良心の葛藤、それまで信じられ、求められ、神聖化されてきた一切のものを粉砕すべく呼び出された一つの決定への思い出が。わたしは人間ではない。私はダイナマイトだ。──だがそれにもかかわらず、わたしの中には、宗教の開祖めいた要素はみじんもない──

 ……わたしは聖者になりたくない、なるなら道化の方がましだ……おそらくわたしは一個の道化なのだ……だが、それにもかかわらず、あるいはむしろ「それだからこそ」──なぜなら、いままで聖者以上に嘘でかたまったものはなかったのだから──わたしの語るところのものは真理なのだ──しかし、わたしの真理は恐ろしい。なぜならこれまで真理と呼ばれてきたものは嘘なのだから。──一切の価値の価値転換、これが、人類の最高の自覚という行為をあらわすためのわたしの命名である。

 わたしは不可避的にまた宿命を担った人間である。なぜというに、真理が数千年にわたる虚偽と戦闘をはじめる以上、われわれはさまざまの激動に出会わざるをえないであろうから。

 この道徳の真相を説き明かす者は、一個のやむにやまれぬ力、一個の運命である──彼は人類の歴史をまっ二つに断ち切る。すなわち人は彼以前に生きるか、彼以後に生きるかのどちらかだ。……真理の稲妻は、まさに、これまで最高の座を占めていたものを打ったのだ。それによって何が破壊されたか、それがわかる者は、そもそもまた何か自分の手中に残っているものがあるかどうかを、よく目をとめて見るがよい。

 ──わたしの言うことがおわかりだろうか?──十字架にかけられた者 対 ディオニュソス……

 

 要するに、一つの力、一つの永遠である長嶋がわれわれに教えたことによるならば、「長嶋茂雄」などどこにも存在しない。長嶋は一つの生成である。長嶋がONについて語る際、王自身を称えるのではなく、ONの関係を賞賛するように、彼は力への意志によってすべてを解釈する。長嶋は人の名前も間違えるが、それこそが彼の解釈の力なのである。ちょっとしたジョークだ。長嶋とは誰かという問いそのものを、プロ入り直後、ホテルにチェックインする際、書類の職業欄に「長嶋茂雄」と記したように、長嶋は成立できないようにしているのだから。長嶋は問いではない。エピソードだ。長嶋は、むしろ、今ここを生きている自分自身に向きあって、それを完全に肯定する何ものかなのである。長嶋といかなる関係を結ぶことこそ重要だ。青田も長嶋を発見した人物である。彼もそれにより最大限の経験をしたことは間違いない。長嶋からいろいろな意味を読みとるのはかまわないが、長嶋に頼ることなく、自分自身として生きることこそ望ましいのだ。

 発狂した年に、ニーチェは次のような書簡を書き送っている。

 

アリアードネ王女、わが恋人へ

 私が人間であるということは、一つの偏見です。しかし私はすでにしばしば人間どものあいだで生きてきました。そして人間の体験することのできる最低のものから最高のものまですべてを知っています。私はイン土人のあいだでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした、──アレクサンダーとシーザーは私の化身で、同じものでは詩人のシェークスピア、ベーコン卿。最後にはなお私はヴォルテールであったし、ナポレオンであったのです。多分リヒャルト・ヴァーグナーでも……しかし今度は、勝利を収めたディオニュソスでやってきて、大地を祝いの日にするでしょう……時間は存分にはないでしょう……私のいることを天空は喜ぶことでしょう……私はまた十字架にかかってしまったのだ……

(一八八九年一月三日コージマ・ヴァーグナー宛書簡)

 

 当然かもしれませんが、私はフィガロとは割合親しい関係にあります。私がどれほどお人好しでいられるものか、ご理解いただくために、私の駄洒落の初めの二つをお聞かせしましょう。プラドーの事件を余り重大に考えないでください。私はプラドーであり、また父プラドーでもあります。あえて申せばレセップスでもあります。──私はわが愛するパリジャンに、ある新しい概念を与えようと思いました、──つまり、端正な犯罪人という概念をです。私はまたシャンビージュ──つまり、端正な犯罪人でもあります。第二の駄洒落。私は不滅なる者たちに挨拶を送ります。ドーテー氏はアカデミー・フランセーズの会員です。

Astu

 私の謙虚さを圧迫し、また不愉快でもあることは、結局、私が歴史のなかのあらゆる名前であるということです。

 私はどこへいくにも学生上着を着て、あちこちで誰彼の区別なく肩をたたいては、こういいます、──俺たちは満足しているのか? 俺は神だ、俺はこんなカリカチュアをしてしまったのだ……と。

 明日、息子のウンベルトが可愛いマルゲリータを連れてやってきます。私もここでシャツ一枚になって歓迎してやります。

 コージマ夫人……アリアードネ……のために残された物がときどき魔法にかけられます。

 私はカイバスを鎖につながせてしまいました。私も去年ドイツの医者たちにひどく長ったらしいやり方で十字架にかけられました。ヴィルヘルム・ビスマルクとあらゆる反ユダヤ主義者は罷免されよ!

 バーゼルの人たちから尊敬を受けている私をみくびることもないこの手紙を、貴兄は利用できます──

(一八八九年一月六日ヤーコプ・ブルクハルト宛書簡)

 

 長嶋とは、今ここに生きるわれわれにとっての自分自身を代理するものだ。草野進が、フィールドに彼の姿の影さえ認められない状況で、「ナガシマー」という叫び声を耳にしたことが二度もあると報告しているように、「長嶋茂雄」は「歴史のなかのあらゆる名前である」。それは単独的な固有名詞を取り戻す試みである。大衆の時代では、固有名詞は、メディアによって、デリバリーされている。そのため、偽の固有名詞はすぐに消滅してしまうが、真の固有名詞は、むしろ、反復され、増幅する。記憶の中にも、密かに、それは増殖している。そして、長嶋を忘れたとき、あの問いが回帰してくる。その問いに対して、われわれは映画『フィールド・オブ・ドリームス』のあの言葉を思い出せばよいのだ。"If you build it, he will come."われわれは、永遠に、「歴史のなかのあらゆる名前である」長嶋を使い捨てることはしない。長嶋茂雄は永遠に流通し続ける力なのである。「変化する者だけがあくまで私と親近である」(ニーチェ)。

 長嶋茂雄──alias 力への意志、永遠回帰、あるいは生成の無垢……

〈了〉


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1) 当初、ピッチャーは腕を腰から上にあげてボールを投げることが禁止されていた。一八六七年、変化球--カーブ--が投げられるようになり、八三年にサイドスローが、八四年、オーバースローが許可され、スピット・ボールも許される。スピット・ボールは、ボールを素手以外の部位で擦ってツルツルにしたり、ボールに傷をつけたり、唾液やワセリンなどの異物を擦りつけて鋭い変化を与える投球のことである。島秀之助は、『プロ野球審判の眼』の中で、アメリカ滞在中の一九三一年に見たスピット・ボーラーを次のように記している。「投手板上でグラブの中へボールを包むようにかくして、顔を近づけてかじるような格好をして唾液を塗る投球準備動作中の様子は、今までに見たこともないだけに奇異の眼を見張ったものである。相当量塗るらしく、投球した瞬間に唾液が飛ぶこともあったし、太陽光線を受けて時に光ることもあったように思った。打者の近くへ来て球に鋭く曲がったり落下したり変化するため、打者にとっては非常に打ちづらいようであった」。ベーブ・ルースもスピット・ボールには非常に手こずったという。一九一〇年代後半、スピット・ボールは条件的に禁止される。その条件は、それまでスピット・ボールを投げていたピッチャーは登録し、彼らだけは従来通りの投球を認めるというもので、スピット・ボーラーの自然消滅を狙ったのである。スピット・ボールが禁止された理由ははっきりしないが、ロン・ルチアーノの『アンパイアの逆襲』によると、コントロールをつけにくく思わぬ変化でバッターが怪我をしやすいためらしく、今日でもアメリカではスピット・ボールを投げている投手は多いようである。例えば、三百勝投手ゲイロード・ペリーにいたっては『私とスピット・ボール』なる本まで出版している。そういう歴史を経ているためか、日本では直球と変化球、アメリカにおいては速球と変化球という区分になっている。スライダーやシュートは日本では変化球だが、アメリカにおいては速球に分類されている。日本でも球威の衰えたベテラン投手がスピット・ボールを使っているけれども、現役の間、プロの技術として誇ってよいはずなのに、真のファンが少ないという不幸な環境のため、彼らはこのことに関して口を開くことはない。

2) 九四年に日本プロ野球初の二百本安打を達成したイチローのバッティング・コーチとして知られる新井宏昌は次のように述べている。「名球会に入ってらっしゃるような方と自分とじゃバッティングに対する価値観が違うような気がするんです。僕はその日4打席あったら4打席、全部バットの芯で打ちたいというバッターなんです。たとえば4打席1ポテンヒットよりも、4打席全部いい当りのアウトの方が満足できる。僕のバッティングの基本は来たストライクをとにかくバットの芯で捉えること。バッターボックスというのは、送りバントやエンドランのサイン以外はすべて自分の自由にできる場所のことでしょう。だったら僕は自分のバッティングを思う存分楽しめればそれでいい。ヒットは楽しみの延長線上にあるものだと理解しています」。こうした発言は新井が長嶋以後の野球を理解していることを示している。われわれは名球会を長嶋以前の野球のアナクロニズムの極みと笑い飛ばさなければならない。新井はボールを解剖してバッティングのコツをつかんだと言ったり、バットの芯にマジックで目を描いて打ったりするなど、風貌に似合わず、ユーモラスだった。それを見たあの偉大なレロン・リーも真似をしたが、空振り三振をしてベンチに戻った際、目薬をバットの目にさしていたのは楽しかった。九六年のベイスターズの斎藤隆は、その意味で、素晴らしかった。この豪球投手は、セ・リーグにおいて、一試合の平均も含めて奪三振王、被安打率は最小でありながら、与死球王で、本塁打配給王という最も印象深い記録を残してくれたのだ。われわれはこういう破天荒な選手こそ愛するのである。

3) 「野球害毒論」とは、玉木の『プロ野球大事典』によると、東京朝日新聞に連載された「野球と其害毒」のことである。執筆者としては新渡戸稲三らがいた。それから四年後、同じ朝日新聞は全国中等学校野球大会を開催するにあたって、「野球害毒論」を否定するための自己欺瞞的な社説を掲げ、さらに、大会で試合前にホームプレートをはさんで礼をするという汚らしい儀式を制定したりなどして、野球の道徳的意義を極めて反動的に強調し、その病的な弊害は今日においてもなお続いている。

 一七四四年、ロンドンで発行された『小さなかわいいポケットブック』には、「ベースボール」という言葉が使われていた。野球は、アメリカに渡ってから、都市の住民の娯楽として楽しまれてきた。最初は、上流階級の楽しみだったものの、街中で行われていたため、窓のガラスを割るなどのトラブルがあり、野球発祥の地という伝説があるクーパーズタウンにおいては、タウンボールと呼ばれていた野球が禁止されたほどだった。ニューヨークの消防士で銀行員のアレキサンダー・カートライトがルールを編纂した。一八四六年、ハドソン川をはさんでマンハッタンの向こう側にあったエリジアン・フィールドで行われた史上初の野球の公式戦で、最初の野球チーム、ニューヨーク・ニッカボッカーズはクリケットのチーム、ニューヨーク・ナインに二三対一でボロ負けした。ところが、この試合によって、ニューヨークで野球ブームに火がつき、多くの球団が設立された。野球へのスポット・ライトの中心がニューヨークであるのは、このためでもある。チームは、主に、職業別によって編成されていた。職業が問われなくなるのは、プロ化、すなわち選手に給料が払われるようになって以降である。一八五八年、全米野球選手者協会が結成され、アマチュアリズムを掲げた。「選手者」という言葉が使われているのは、まだ統一化・標準化された野球という概念が形成されておらず、ゲームの数だけ野球のルールがあるという状態だったからである。あるゲームでは帽子での捕球が認められているが、別のゲームではそれが禁止されているという有様だったのだ。一八四八年にマルクス=エンゲルスが『共産主義者党宣言』というタイトルで発表したのも、同じ理由であろう。組織によって統一ルールを決めるようになって以後、「プレーヤーズ」が使われる場合、オーナーに対する労働者という意味になる。ゴルフが民衆の娯楽から紳士のスポーツと変わったのとは逆に、野球は、徐々に、上流階級の気晴らしから「国民的娯楽」になっていく。

 野球は、南北戦争をきっかけに、全米中に広まった。従軍した兵士が野球を故郷に持ち帰ったのである。一八六九年、ハリー・ライトがつくったシンシナティ・レッドストッキングスがプロ球団を宣言して旗揚げすると、プロ化が進んだ。ハリーは新しい産業を起こし、雇用を生み出したのである。しかし、次第に、賭が横行し、相場師が手を出し始め、野球の人気は低下した。一八七六年、人気をとり戻すために、ナショナル・リーグが結成され、ウイリアム・ハルバート会長は選手の保留条項を設定した。FA制度はこの保留条項に対する反発だった。ナショナル・リーグは中産階級以上が観客であり、一八八二年に中西部の球団が結成したアメリカン・アソシエーション・リーグは、料金が安く、日曜日も試合を開催し、客席での飲酒が認められていたため、労働者階級が足を運んだ。一九世紀では、ブルジョアとかプロレタリアートといった階級概念が中心で、家族という概念は、階級概念が崩壊し、大衆の世紀になってから見出された概念なのである。このころ、多くの黒人選手がリーグに在籍していたが、一八八四年、紳士協定によって、締め出された。経営者側の横暴さに耐えかねて、一八八九年の一年間だけ、大学で法律を学んだジョン・ウォードを中心に。選手の自主運営によるプレーヤーズ・リーグが存在した。一八九一年、ナショナル・リーグはほかのリーグを吸収し、大リーグを宣言した。だが、一部のチームの一方的な勝ち、選手の乱暴なプレーやスキャンダル、オーナーの拝金主義的経営により、恐慌が起こったこともあって、野球の評判は著しく悪化した。一九一九年のワールド・シリーズの八百長により、「シューレス」ジョー・ジャクソンを含む八人の選手が追放されたブラックソックス・スキャンダルも、結局、このオーナーの横暴が原因だった。いくら活躍して、観客数が増しても、オーナーは選手に安い報酬しか支払わず、選手が逆らうと、トレードや解雇にした。

 二〇世紀に入っても、野球は都市のスポーツとして酒やギャンブル、いかさまの中で育ってきた。行儀の悪い荒っぽいものなのだ。スタンドの観客の喧嘩沙汰、荒れるゲーム、選手と経営陣の反目、八百長疑惑など問題が山積みしていた。一九〇八年に、フロリダ州ウェブスター市では、市長が許可した場合を除いて、野球を禁止するという野球禁止条令が施行されていたほどだ。アメリカン・リーグの会長バン・ジョンソンは「家族で見にこれる健全な雰囲気の娯楽」を公約にしていたが、それが実現するのは、ベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースで活躍する一九二〇年代になってからのことである。先に引用したデューイの『経験としての芸術』も、彼がニューヨークのコロンビア大学の教授だったころの作品なのだ。

 黒人たちも二〇世紀になると自分たちのプロ・リーグ、黒人(ニグロ)リーグを結成した。スチュアート・フレックスナーは、『アメリカ英語事典』において、「南北戦争後、black は奴隷時代の遺物として嫌われ、黒人は一八八〇年代後半までcolored という言い方を好んだ。一八八〇年代後半から一九三〇年代までは、negro の方が好まれていた。一九二〇年代からはNegro とNを大文字で書いた」と説明している。黒人リーグはポスト・シーズンに大リーグのメンバーと対抗戦をして勝ちこすなど、大リーグに勝るとも劣らない実力・人気を示していた。ちなみに黒人リーグの選手は一九二七年、三二年、三四年の三度来日し、ハーレム・グローブ・トロッターズばりのプレーを見せている。島秀之助や佐山和夫を除くと、日本の野球史に関するほとんどの著作はこの出来事を無視している。素晴らしい投手だったことは間違いないけれども、一九三四年、沢村栄治が、草薙球場以外の三試合に登板した際には、来日した大リーグ選抜チーム相手から一〇点以上も打ちこまれたという事実と同様に。さまざまな苦闘の中、ジャッキー・ロビンソンの大リーグ・デビュー以降、選手を大リーグにひきぬかれ、黒人リーグのチームは一九六〇年までにすべて消滅した。

4) 戦前の職業野球で華麗な守備で人気を博した名ファーストである中河美芳は特高につけ狙われていたし、近藤貞雄は憲兵に殴られている。しかし、今やプロ野球界が最も保守的かつ反動的な考えの持ち主の住みつく世界の一つになっているのは、職業意識の欠如と言うほかない。体育会的なるものは滅びなければならないのだ。もっとも日本の野球をめぐる(マスコミも含めた)状況は、日本の経済・政治の現状と同様、中央集権的であるのに、中央集権批判するものたちが読売ジャイアンツの応援をしている姿に矛盾を感じざるをえない。

5) タイトルが個人によって表彰制度として確立されたのは、本塁打王だけではない。一九六四年、オールスターまで四割で独走した歴代二位の通算五九六盗塁を記録している南海ホークスの広瀬叔功によって、盗塁王がこの年から連盟表彰になった。盗塁は、日系二世の山田伝やウォーリー与那嶺らによって、戦闘的なプレーとして持ち込まれてはいたが、それまで日本では評価されてはいなかった。なお、日本では、打撃三冠のうちのいずれかと盗塁王を同時に獲得したのは、このシーズンの広瀬と九二年の佐々木誠、九五年のイチローの三人だけである。大リーグではホームラン王と盗塁王を同時に記録するパワーとスピードをかねそなえたプレーヤーはウィリー・メイズなどいるが、本塁打王をとったことのあるプレーヤーで盗塁王になったことがあるのはただ一人、ライオンズ時代の秋山幸二だけである。九一年のシーズン、秋山に四冠王(イースタン・リーグでは、七七年にジャイアンツの庄司が記録している)の期待がかかったが、残念ながら、無冠に終わり、また、九五年に、イチローも惜しいところで、ホームラン王に届かず、三冠にとどまった。大リーグでも四冠王に輝いたのはタイ・カッブが、ホームランが評価されなかった時代の一九〇九年に、記録しているだけである。

6) それゆえ、「一球入魂」や「球けがれなく道けわし」などというイデオロギーを標謗した数多くの野球漫画を書いた水島新司は、やはり、日本野球を歪めた張本人の一人として断罪されてしかるべきである。水島がそれ以前の野球漫画のアンチテーゼだった意義は認める。反宗教的野球こそ長嶋の目指すところなのだ。水島は甲子園大会という偽善かつ欺瞞な馬鹿騒ぎを存続させてしまっていることに加担している。水島は日本野球がこの精神主義を否定することによって支持を得てきたことを見ない。多くの日本の野球選手は水島の漫画を見て育ってきたことは確かである。水島の漫画は勝つことや打つことが中心となっており、そこには美しい敗北であるとか、美しい三振といったものはない。『ドカベン』が人気を博したのは三振王岩鬼の存在のためにほかならないのである。唯一の例外は、長嶋を目標とする真田一球を主人公にした『一球さん』であるが、野球を知りつくした長嶋に対して、野球をまったく知らない一球さんを主人公にするというロマンティック・アイロニーをルサンチマンの解決法としてしまったため、あるがままの肯定によるルサンチマンの克服という真に長嶋的問題にはいたってはいない。そもそも『野球狂の詩』で、水原勇気の投げるドリーム・ボールは、その変化に対して、握りがおかしい。ゆれながら一度浮き上がって落ちるようにしたければ、縫い目に指をかけないでボールを指の股からぬき、一四〇キロ以上のスピードで投げなければならない。無回転のボールを投げないと、ゆれる変化が起きないい。ほかにも、山田太郎のキャッチしたあとにミットを動かすスタイルでは、ストライクをボールにされかねないのに、水島は「山田のキャッチングでストライクをもうけた」などと書いている。大リーグでは、ボールをとったらミットを動かさず、それを審判に見えやすくし、小指がストライク・ゾーンにかかっているようにするのが基本である。こうしなければ、カンニングと見なされ、すべてボールと判定される。スワローズの古田敦也は動かす癖が時々出て、審判からはこの点は評判が悪いが、監督の野村克也も現役時代そうだったから仕方がないのかもしれない。プロ野球選手にもさまざまなヒントを与えてきた水島だけれども、『一球さん』でも、投球を速くするために鉛のボールを投げるトレーニングを平気で描いてしまうのは、あまりにもいただけない。なお、日本では、大江健三郎の『セヴンティーン』など数多い例外を除くと、言論の自由は保証されている。

 実は、現在のキャッチャーミットはファーストミットの変種である。かつてのキャッチャーミットは人差し指の付け根で捕球するタイプだったが、これはすでに絶滅した。今は小指と親指でつまむように捕球するタイプで、ファーストミットから進化したものだ。すべてのグローブの中でファーストミットが最も捕球しやすいとわかったからである。大リーグで、ナックルボーラーの登板の際、キャッチャーがソフトボール用のファーストミットで守っているのはそのためだ。道具の革新は格好にも影響を及ぼす。昔のキャッチャーは左肘を下に向けて構えていたが、現代は左腕を水平して投球を待っている。今の選手は人差し指をグローブの外に出しているのはそういう設計だからである。

7) 試合開始状態を保存することを目的とする守りを中心とした野球が地味になるのは当然である。こうした野球はわかる人にはわかるだけ、すなわち特定多数にのみアピールするにすぎず、反動であり、長嶋以後の野球とは言えない。勝つ野球はおもしろい野球と違うのかという疑問がV9時代のジャイアンツのON以外の元選手たちから投げかけられているが、むろん、勝つ野球はおもしろい野球である。勝つ野球と彼らが呼んでいるのは、実は、負けない野球にすぎないのだ。彼らは、勝つことはONがやってくれるから、負けないことをしていればよかった。だが、ファンは負けない野球を見にボール・パークに足を運ばない。負けない野球とは守りの野球であり、宗教の野球である。犠牲(=生け贄)バントは、その名の通り、アニミズム的儀式と化している。この呪術性が日本の野球の自由主義化・個人主義化を妨げているのだ。負けないという否定語ではなく、勝つという肯定語のもたらす意欲的・反宗教的力強さをファンは望む。森祇晶が、ライオンズの監督時代、バントを使うとブーイングが起こったのに対して、ボビー・バレンタインがマリーンズを率いて、バントを多用しても、誰も非難しない。負けない野球は、フランチャイズ制がしっかり確立していないために、はびこっているのだ。東京ジャイアンツの総監督三宅大輔は、一九二五年に発表した『野球』において、「日本では必要以上にバントが濫用されている」と批判している。こういう記述を目にすると、日本の野球はいったい何なのかという絶望感に襲われるのは当然であろう。クリーブランド・インディアンス、セントルイス・ブラウンズ、シカゴ・ホワイトソックスのオーナーとして、画期的なファンサービス──背番号の上に選手名をつけさせたり、ホームチームの選手がホームランを打つとスコアボードから花火が打ち上げられるなど──によって、いずれの球団でも観客動員を確実に増やしたことで知られるビル・ピークは次のように言っている。「誤解しないで欲しいんだがね。私はチームが勝てもしないのに催し物をやればお客が入るなんて言ったことは一度もないんだよ。ファンの心理ってそんなもんじゃない。ファンはホームチームと一体になって、地元チームが勝つときは、自分も勝ったと思う。生活のいらだたしさから逃れるんだ。私が関係した球団は勝ったからこそお客が入ったんで、催し物だけじゃお客は呼べませんよ」。結局、チャリティーやボランティアに関する認識不足があの不毛な考えを日本のプロ野球関係者が払拭できない原因なのである。「福岡のドリームゲームのときなんですよ。メジャー出身の選手たちはまったく疲れた姿を見せないんです。フランコにそれでなんでですかと聞いたんです。そしたら、そんなこと、なんで聞くのかって顔をされてしまいました。ファンにアピールするという前に、チャリティーに関しての考え方が違うんですね。野球でこれだけいい思いをしているのだから、野球で社会還元をするのはあたり前だろという感じです。阪神大震災のチャリティーと言えば、僕らの地元のためじゃないですか。僕がもっとがんばらなけりゃいけないとそのとき、思いましたよ。だから、少しでも自分をアピールしようと、バックホームの遠投をしたり、盗塁もしました。そうじゃないと、外国選抜チームに対して失礼だと思いましたからね。そういう意味で、僕らに比べたら、まだまだメジャーの人たちの懐の深さを感じます」(イチロー)。一九六九年七月九日の対カープ戦で史上最高のホームスチールを決めたアトムズの武上四郎は、後に、コーチとしてサンディエゴ・パドレスのナ・リーグ制覇に貢献している。その武上を長嶋はコーチに招聘した。従って、長嶋采配非難は呪術への回帰にすぎない。

 一九七四年のW杯西ドイツ大会で、美しいあのジャンピング・ボレーによって「空飛ぶオランダ人」と呼ばれ、「トータル・サッカー」の象徴だったヨハン・クライフは、一九九八年六月八日付『朝日新聞』夕刊において、サッカーは美しくなければならないと次のように述べている。

「サッカーは美しくなければならない。美しいというのは、攻撃的でテクニックに優れ、3点、4点とゴールが生まれ、緊張感があり、見て楽しいサッカーサッカーだ。プロフェッショナルである以上、勝利は重要だが、美しいサッカーを追及していけば、当然勝つ可能性も高まる」。

  試合では、神を相手にするわけではないから、当然、誰かがミスをする。そのミスを待っていれば、少なくとも、負けることはない。勝敗にこだわれば、勝負は、必然的に、負けない態度のほうが好結果をとれることになっている。けれども、負けない姿勢は、実は、歴史的に見て、後継者を生めない。力への意志が足りないのだ。歴史は勝つ姿勢を必要とする。勝つ姿勢は神を相手にすることを前提にしているからである。チェスの天才、ボビー・フィッシャーは、神とチェスを勝負したらどうなるかと尋ねられて、「自分が先手なら引き分けだ」と答えている。勝つ姿勢のそうした過剰さが後継者を持てる。ところが、たいていの後継者たちは原因と結果をすり替え、勝つ姿勢を負けない姿勢へとねじ曲げる。負けない姿勢というルサンチマンを勝つ姿勢という健康的な姿へと再創造することが求められる。だから、敗者だけが創造者となりうる。 七四年大会の決勝戦で、オランダは開始一分にクライフが倒され、PKで先制したものの、ベッケンバウアー有する西ドイツに逆転負けした。けれども、クライフは「いつものわれわれなら、2点目、3点目を取りにいくのに、守りに回ってしまった。美しさが足りなかったから、負けたわけだ。しかし、私はいまでも、W杯の優勝と最優秀選手賞のどちらを選ぶかと聞かれたら、迷わず、世界で一番魅力的なサッカーをした選手に贈られる最優秀選手賞が欲しい、と答える」と言っている。醜い日本人は敗因を決して「美しさが足りなかったから」と認めない。日本にはあまりに美しさが足りない。すべての、そうすべてのスポーツにたずさわるものはこのクライフの言葉に従わなければならない。これはスポーツに限らない。美しさは力への意志がもたらすものなのだ。

 これはプレーヤーに限らない。スポーツに関する作品はそれ以上にひどい状態にある。大きく、故山際淳司に代表される人間ドラマ的表現と二宮清純に代表される実証主義的記述にわかれる。前者は担当記者や友人としての視点であり、後者はコーチや監督、トレーナーからの視線に近い。われわれはその功績や意義を十分に認めるが、この対立が思想史にはよくあるのを知っているので、次に進みたいと考えている。前者が後者の方法論よりも先に登場したのは、コンピューターが発達するまではそのアプローチを試みようにも不可能だったからである。前者は社会現象としてスポーツを理解するファンであり、後者はマニアとしてのそれであるとしても、両者とも目の前で繰り広げられるスリリングなプレー自体からその歴史的価値を読みとることのできるファンから書かれたものがない。彼らはスポーツについて書いているかもしれないが、スポーツをするように書いてはいないのである。そこには文化としてのスポーツという認識が欠けている。彼らには歴史がないのだ。言葉は肉体に訴えるはずなのに、われわれは、彼らの作品を読んでも、疲れもしなければ興奮もしないなど、肉体がまったく無反応であるのに憤りを覚えずにはいられない。力への意志による解釈がまったく起こらない。長嶋はONについて語るとき、王が対象としての長嶋個人と自分自身に言及するのに対して、その関係に着目する。長嶋は、この関係へのまなざし、力への意志により、審美主義から遠く離れている。日本のスポーツ・ジャーナリズムは長嶋からこの姿勢を学ぶべきである。一方、アングロ・アメリカにおけるスポーツに関する作品はそれが前提になっているのである。フロレンティン・フィルムズが九四年に作制した『大リーグ─もう一つのアメリカ史─』はその典型である。九二年にカナダのトロント・ブルージェイズがワールド・チャンピオンになり、優勝旗は国境を渡った。閉鎖的で偏狭な日本人はこんなことを許さないだろう。すべてが忘れられたとしても、あの光景をわれわれは決して失うことはないのだ。われわれは長嶋やイチローを文化財に指定したいくらいなのである。長嶋やイチローによって人々のプロ野球に対する態度が変わったからである。プロ・スポーツはアマチュアに先行していた。アマはプロへの対抗として生まれたが、それはナショナリズムへとつらなっている。アマが非難されなければならないのはこれらの点にある。しかし、その批判にはユーモアを用いる。二〇〇〇年のシドニー・オリンピック水泳の主役は、オーストラリアの若き天才スイマー、イアン・ソープではなかった。主役は「オリンピック史上最も遅いスイマー」だった。赤道ギニアのエリック・ムサンバニは、残り二人がフライング失格したために、男子100m自由形予選一組を一人で泳がなければならなかった。溺れているのではないかともがくような泳ぎで、もしかしたら足をついてしまうのではないかというわれわれの不安の中、彼は世界中の声援を受けながら、泳ぎきった。タイムは1分5272で、200m男子自由形の世界記録より遅かった。観客にスタンディング・オベーションに応えた後、押し寄せた世界中のメディアの質問に対して、片言の英語で、エリックは答えた。それによると、赤道ギニアの水泳連盟が半年前に発足したばかりで、競泳人口は彼を含め八人しかおらず、国内にプールはリゾート用の20mプール二つしかなく、それも観光用のため、ほとんど使えず、彼自身100mを今回初めて泳ぎきったということだった。それを聞いて、エリックに対して、さまざまなスポンサーから水着・ゴーグルの提供、さらに金銭面の援助が申し出された。同じく赤道ギニアのポーラ・ボローパも、エリック・ムサンバニ同様のウナギ泳法で、女子自由形50mの予選を泳いだ。彼女は、女子サッカーの選手で、オリンピックに参加をするため、突然、白羽の矢がたてられたらしい。彼女に対しても、エリックと同じようにスポンサー契約の話が舞いこんでいる。「人生に遅すぎるということはないでしょう。私もアテネ・オリンピックを目指しますよ」と言っている。商業主義への批判は、そのユーモアによって、商業主義を追及することによって、真に可能になる。アマ・スポーツはこのようにしてとっとと滅びねばならないのである。

8) 大下弘は天覧試合の感想を、プロ野球選手の著作の中で最も美しい『日記』に、次のように記している。「天覧試合。巨人対阪神戦。パシフィックリーグはお休みなのでゆっくり試合経過を見る事が出来た。終戦後、皇太子殿下に親しく御挨拶申し上げた事どもを思い浮かべて唯感無量!!(後楽園にて)長島君立派でした。小山君もまた立派でした。村山君、王君、二人に劣らず立派でした」。天覧試合で活躍していたのはこの四人だけではないが、大下のあげた長嶋・小山・王・村山はいずれもプロ野球の歴史に名を残すプレーヤーとなっている。大下の眼力はさすがと言うほかない。その大下の『日記』において、長嶋は小山と、村山は王と等価に扱われている。長嶋と村山の関係がライヴァル視されるのが、これで後からつくられたメロドラマということは確かであろう。大下の『日記』は最もすぐれた日記文学の一つに数えられるが、残念ながら、非常に手に入れにくくなっている。『日記』はスポーツの関係者が書いた数少ない反美学的作品である。われわれは美学を軽蔑する。しかし、その理由をスポーツ・ジャーナリストはいまだに理解していない。日本の野球をめぐる環境はあまりにもひどい。それは日本人の未熟さそのものなのだ。「日本人はアメリカ人が自明のこととしている栄養と体力との間の一体一の関係を認めない。だからこそ、東京放送局は、戦争中防空壕に避難していた人びとに向かって、体操で飢えた人びとの体力と元気を回復する、などと説くことができた」(ルース・ベネディクト『菊と刀』)。しかし、一方で、ルー・ゲーリックが「私は、日本に大和魂があると聞いて、それを学ぼうと楽しみにやってきた。だが、残念ながら大和魂はどこにもなかった。凡打だと、笑いながら一塁へ走ってくる選手がいた。私は、その選手をぶん殴ってやりたかった。大和魂のために……」と批判していることも、日本人は考慮しなければならない。「サムライというのは、男味を味と思わず、モラルとしてこだわる人のこと。それを男の美学と言う人もいるが、美学とはもともとあほらしいもので、あほらしさをわきまえずに酔っているのでは、本物のあほでしかない。味を楽しめてこそ美学、溺れたら悪徳」(森毅『男文化の行方』)。日本人は合理的である場面に対して非合理的で、非合理が要求されるときにそうする意欲を放棄する。合理をつくした上で、さらに非合理が求められるのである。アメフトのヘルメットのようなフェイス・ガードのついたヘルメットを被って試合に出たチャーリー・マニエルのごとくの日本のプロ野球選手はいなかった。つまり、日本人に欠けているのは知恵にほかならない。「ある言葉の意味とは言語[ゲーム]におけるその言葉の使用(Gebrrauch )である」(ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学探求』)。

 野茂英雄が、オールスターで先発に選ばれた感想について尋ねられた際に、「ファンには申し訳ないと想うのですが、自分が一番楽しみたい」と答えたのを把えて、多くの日本のニュース・キャスターは彼を「アメリカ的発想」の持ち主と評し、「もし日本でなら、聞かれた選手はファンのために頑張りたいと返答したに違いない」と言っていたが、これは完全な事実誤認である。オールスターはシカゴのある少年が「ベーブ・ルースがカール・ハッベルの球を打つような試合が見たい」と呟いたことがきっかけで一九三三年に始まったのであって、それを知っているアメリカのプレーヤーは「ファンのために全力でプレーしたい」と述べることはあっても、「緊張感を楽しみたい」と答えるならまだしも、野茂のような発言することはまずありえない。アメリカ人は、オールスターの前、摂氏四〇度以上の中、セレモニーに参加した約一六〇人のリトル・リーガー一人一人と手をあわせていた野茂を承知していたためかもしれない。そして、試合後、日本のオールスター以上にうまく大役を果たした野茂は「投票で選ばれた選手が、ケガでもファンのために出場しているのが印象に残った」とコメントしているから、オールスターというものをこころから理解したように思われる。アメリカにおいてファンサービスはエンターテイナー的資質が要求される。黒人リーグで通算二千勝以上をあげ、五〇歳を超えてから初めて大リーグのマウンドに上った伝説的大投手サチェル・ペイジは、「ダイヤモンドさえあれば、刑務所だろうと、農場だろうと、どこででも投げるさ」と豪語し、勝敗には無頓着で、とにかくファンへのサービス精神が旺盛だった。実際、彼は歌と踊りが得意、コメディアンとしての素質はかなりのものだったと伝わっている。一方、玉木正之が、『プロ野球大事典』において、コメディアンとしての才能に恵まれた坂東英二について、「私事ではあるが、徳島県出身のわたしの父は、のちにテレビのブラウン管のなかで立て板に水の如く喋りまくっている男と、かつての徳島商高のエースとが、同一人物であるとは、絶対に認めようとしない」と書いているように、日本の伝説的投手の沢村栄治にコメディアンの才能があったとは考えられないだろう。おそらく日本人の言う「楽しむ」という言葉の意味はアメリカ人と違うのである。「真理も、笑いながら、語られるべきものである」(エラスムス)。従って、目的はともかく、インフィールド・フライを理解できない人たちにメディアは大リーグに関するコメントを求めるべきではない。

 日本では短い現役生活には暗さだけが目立つが、アメリカの場合、明るく、どこかほのぼのとさえしている。デトロイト・タイガースのエースだったマークザ・バードフィンドリッチはデビューした年にオールスターで先発するほどのピッチャーだったが、五シーズンで引退している。膝まずいてマウンドを両手でならし、ボールに話しかけ、ボールを投げる度に、両腕をはばたかせ、膝を二回屈伸するバードの姿にデトロイトのファンは「ウィ・ウォント・ザ・バード」と大合唱を送ったのである。しかし、彼は一九勝九敗四完封防御率二・三四で、新人王に輝いた翌年から、肘や肩の故障に苦しめられ、四年間で一〇勝一〇敗しか残せなかった。その後、庭師になったマークは、大リーグ時代を「なんらかの仮定に立って物事を見るのは好きじゃないな。ぼくは、自分がかつて成し遂げた仕事にも満足しているが、今の自分にも満足している。なにかが終わってしまったときには、こういうしかない。終わった。僕はあの場所から出てきたんだって」と振り返っている。また、ロサンゼルス・ドジャースのサンディ・コーファックスは、二七勝をあげて二年連続最多勝、防御率一・七三で五年連続最優秀防御率という成績を残しながら、シーズン終了後、肩の痛みを訴えて 引退している。ナ・リーグの最多奪三振記録、四年連続ノーヒット・ノーラン--その四年目は完全試合だった--をもマークしたサウスポーは、このとき、まだ三〇歳だったが、「髪に櫛を入れられなくなる前に引退したい」と言い残し、現役を去っていった。これは、アメリカにおいては、スポーツが文化であると認識されているのに対して、反文化的な日本人がスポーツをもつねに反文化的なものにしてしまうからであろう。「楽しみの点からとらえるのなら、もっと文化的に向上し、多くのよろこびがもたらされねばならない。(略)西欧の国では、都市ごとにスタジアムがたてられ、老人から子供まで、だれもがスポーツを楽しみ、生活をエンジョイしている。スポーツをとおして、機能とやすらぎを体で感じ、こころに吸収している。それが人間の生活であり、文化である。僕たちも、そのようにスポーツを楽しみたい」(虫明亜呂無『スポーツ人間学』)。「おそらく日本人の感受性がどこか安直に、なにかによりかかりやすくできているのであろう。スポーツを好きそうでいて、実は意外なほどスポーツに愛着をもっていない国民性がそうしからしめるのであろう。スポーツに名をかりたドラマだけが愛好されるのであろう。段取りと筋書きと状況だけが常に関心の的である」(虫明亜呂無『スポーツへの誘惑』)。

「しかし芸術と蛮行を分かつものは、『遊び』の要素である。そしてアイロニー喜劇の重要な主題は、人身御供『ごっこ』であるように思われる。笑いそのものにおいても不愉快なことからの解放、時には恐ろしい事からの解放が非常に大切であるようだ。このことは、同時に多数の観客を相手とする芸術形式、特にドラマや、もっとはっきりした例としてスポーツの場合には、特に明瞭にわかることである。また注意すべきことは、人身御供のまねをすることと、旧喜劇について言われるよう、歴史上の犠牲祭儀起源説とは、何も関係がない、ということである。この祭儀のすべての特徴──王子、死の擬態、死刑執行人、犠牲者のすりかえなど──をはっきり示しているのは、アリストパネスよりもむしろ、ギルバートとサリヴァンの『ミカド』の方なのだ。人身御供の祭儀をその起源と考える根拠は少しもない野球においても、アンパイアは純然たるパルマコスなのであって、まるで実際野球の起源がそのようであったかのようである。審判は罰あたりの無頼漢、バラバ顔負けの大泥棒であり、彼に睨まれるとゲンが悪くなる。負けているチームのファンたちは、彼奴を殺せとわめく。これは遊びであるから、モッブ的な感情は、いわば蓋のない大鍋のなかで煮えたぎっている。実際にリンチを行う暴徒の場合には、この感情が道義感(とブレイクなら呼ぶであろう)という溶鉱炉のなかに密閉されるのである。ローマ時代の剣闘競技では、観衆を楽しませている人々に対して、実際に生殺与奪の力を振うのであるが、およそ劇形式の野蛮かつ悪魔的なパロディのなかでも、これこそ恐ろしくもっとも徹底したものであろう」(ノースロップ・フライ『批評の解剖』)。日本文化にはこの「遊び」の要素がない。日本人は「遊び」を不謹慎と考え、暴力に対して最も甘い国民である。ベースボールでもそれが表われている。何しろ、審判に暴力をふるって平気でいるプレーヤーや監督、コーチがいるのだから。

 長嶋は最も暴力に否定的である。落合博満もこの非暴力主義を理解している一人である。これだけでも、日本人は落合には敬意を示さなければならない。そのため、われわれは恐るべき量の映画を見ている落合博満が映画に関する批評を著わしてくれることをこころ待ちにしている。それは、おそらく、映画以上に映画的な作品になるに違いない。

 3Aからやってきたマイケル・ディミュロ審判が、日本プロ野球の暴力に直面したことにショックを受け、シーズン途中で辞任し、帰国してしまった。西村欣也は、この事件をめぐって、一九九七年六月一〇日付『朝日新聞』朝刊において、「裁定に異議を唱えることが許されない根拠は何だろう。『審判の権威』をあげる人がいる。が、権威は二次的に生まれたものだ。審判の裁定に異議が許されないのは、審判がミスを冒すことを前提にしているからだ。『審判がミスを 冒しても、審判に従う』。それは、野球というスポーツが生まれた時からの、ある意味でとても人間臭いルール、なのだ」と書いている。マイケル・ディミュロ事件に関して、さまざまなメディアが言及したが、西村以外のものはおそろしく見当はずれだった。西村の適確さには経緯を表しながらも、この貧困さ、すなわち「哲学の貧困」(マルクス)にはさすがにわれわれは唖然とせざるを得なかった。もちろん、大リーグも最初から審判の地位が確立されていたわけではない。かつては審判は選手や監督、コーチだけでなく、観客の暴力にもさらされていた。観客の暴力によって命を落とした審判が、少なくとも、二人もいたのだ。さまざまな人々の地道な努力により今の審判の地位があるのである。『シカゴ・トリビューン』は、「フィールドで一番偉いのは、日本では監督だ。彼の言葉は法律であり、激高して選手を平手打ちにしたりする。アンパイアは判定者ではない。せいぜい正確さを期待されている帳簿係か……」と皮肉った。われわれは寛容でなければならない。なぜならば、われわれは絶対ではなく、ミスを冒すからだ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(『ヨハネによる福音書』八章七節)。審判をめぐるトラブルは、これ以降も尽きない。メディアはつねに審判を非難ばかりしている。それに対し、豊田泰光は、二〇〇一年八月二三日付の『日本経済新聞』に「野球には誤審はない」という次のようなコラムを寄せている。「16日のヤクルト─横浜戦の判定をめぐり、一部スポーツ紙に誤審の大見出しが躍ったが、野球には原則的に誤審はないということを確認しておきたい。横浜・佐伯の左翼へのライナーをダイレクト捕球したかどうかが、問題になった。ビデオで見ると横浜の主張通り、捕球前にバウンドしているけれど、野球における『事実』は違う。審判がアウトといえばアウト。テレビを見たファンには納得してもらえないかもしれないが、フィールドはビデオとは別の世界と思っていただくしかない。審判にも事後処理の不手際があったとはいえ、マスコミまでお茶の間感覚で騒ぎたててはいけない。 審判をビデオと競わせても仕方がないだろう。大相撲の判定の参考にビデオが用いられて30年以上になるけれど、機械の視線を横目に仕事をする行司さんが気の毒な気がする。人の目による裁きで球史は編まれてきたし、それがいいところだと私は思う。例えば西鉄が巨人を逆転で下した1958年日本シリーズでの小渕泰輔の三塁線二塁打。第5戦の九回裏に飛び出したこの一打で西鉄は生き返るのだが、ビデオで見たらファウルだったかもしれない。ヤクルト-阪急の78年日本シリーズ最終戦。大杉勝男が放った左翼ポール際の本塁打もわからない。いい出せばきりがないが。どんな大勝負であれ、我々は判定のみを事実としてのみ込んできた。『長嶋ボール』『王ボール』というのがあった。追い込まれてからのきわどい球がONの場合、ボールと判定されるというもので、サンケイ時代、味方投手が何度も泣かされるのを見た。だがファンの多くが見逃し三振でベンチに帰る長嶋、王を見にきたのではなかったと思えば、目くじら立てて論じられるものでもない。すべての判定を機械任せにして、人間が裁くところに生じる陰影の余地をなくしてしまっては、野球もつまらなくなるのではないか。審判いじめはやめよう。判定のミスより、采配やプレーのミスがはるかに起こりやすい敗戦の要素なのだから」。もう少し目分量を信じるべきである。絶対的なものを信じることは、結論だけがすべてであるため、たんなる目的論的視点である。過程が重要なのだ。暴力は、結果偏重が蔓延するときに、起こる。「われわれがたがいに赦しあうべきことのほうがいっそう明らかである。なぜならば、われわれは脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥りやすいからである」(ヴォルテール『哲学辞典』)。日本人はこの偉大なヴォルテールの精神からほど遠い。

 アメリカでは「公正に」ゲームを運営するために審判を置いているのに対し、日本では審判に「正しさ」を求めている。関係において公正であるか否かを判断するのではなく、絶対的基準に照らし合わせる正義を審判に課している信念があるから、VTRの導入が選手や監督、ファンからも当然視されてしまう。しかし、ゲームは相手があって可能になる相対的なものである。

9) 清水義範は、『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』において、もし長嶋が教師なら、成績が大きく下がってしまった生徒に対して次のように言うだろうと書いている。「うーん。どうしちゃったんだろう。成績がほら、こんなに下がっているんだけども、まあそれは確かに、人間誰だって調子がどうも出ない、スランプだ、という時もあるんだからね、きみの場合もいわゆるそういうことかもしれないと先生思うんですね。まあこれは先生見てて思うんだけど、うーん、きみは本当はやればもっとできる、成績が上がって当然というひとつの基本的な学力的なものを十分に持っているわけで、ただどうなんだろう、それがひとつ結果的な面に出てきていないだけなんですね。ですからやればできるはずなんです。もう少し努力をしてみせるというね、そのことが先生、きみのトータル的な学力を大きくのばすことになると信じているんだ。うん。まあ、この話はこれくらいにしようね。とりあえずその元気で、明るく学校のですね、生活を楽しんでいってほしいと、先生は思っています」。

10)「けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない模範としての意義をもっているということを理解する点にある。おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの真実さでよみがえらないだろうか? 人類がもっとも美しく花をひらいた歴史的な幼年期が、二度とかえらないひとつの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか? しつけの悪い子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにはいるのである。ギリシャ人は正常な子供であった。かれらの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、この芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果なのである、それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびかえることは絶対にありえないということと、かたくむすびついていて、きりはなせないのである」(マルクス『経済学批判序説』)。

 大下弘は、『日記』において、「『大人になると子供と遊ぶのが馬鹿らしくなる』と人は云ふかも知れないが、私はそうは思はない。子供心にかへるのが恐しいから云ふのだろう、余りにも汚ない大人の世界を、子供の世界を見たばかりに反省させられるのが嫌なのかも知れぬ。私は其の反対だ、子供の世界に立入って、自分も童心にかへり夢の続きを見たいからなのだ。子供の夢は清く美しい。あへて私は童心の世界にとびこんでゆく」と記している。大下や長嶋、落合の系譜の後継者であるイチローはとにかく辛いものが好きで、その左脳と右脳が混乱してしまうような刺激によってあの独特のバランス感覚を育てている。飛び散る汗やほこりっぽい泥のまったく似合わないイチローの気だるいバッテイング・スタンスは「夢の続き」の感触をわれわれに伝える。ピッチャーがモーションに入り始めると、彼の細身の体は、寝起きのときのように、気だるく動き始める。振り子のごとくゆれる彼の右足は、催眠術師の時計のような効果を与え、見ているものを夢うつつの状態に誘う。右手の掌でグリップエンドを包みこんだイチローのバットがボールを把え、高いミート音があがった瞬間、ハッとしてわれわれは夢から覚める。すると、鋭い打球は野手を嘲笑いながら、もうはるかかなたに飛んでいってしまっている。そして、イチローは、現実に戻ったファンの歓喜の世界の中、優雅に走っていくのである。この作品の中で批判してきたプレーヤーたちを、そのプレーの素晴らしさゆえに、われわれは賞賛する。彼らも不可欠なのだ。大下だけでなく、川上も、長嶋も、王も、落合も、多くの(元も含めた)選手たちが、引退後、子供たちに野球教室を開いた。おそらく「夢の続き」を見たかったからだろう。イチローもそうするに違いない。われわれはそれを待っている。「もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての実存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも、事物のうちにも、何一つとしてないからである」(『権力への意志』)。

 

参照文献

単行本

1) Dewey,  J,  Art  as Experience,  Capricon  Books 1958(1934)

2) 吉目木晴彦、『魔球の伝説』、講談社、一九九〇年

3) 草野進・編、『プロ野球批評宣言』、冬樹社、一九八五年

4) 玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、一九九〇年

5) 玉木正之、『プロ野球の友』、新潮文庫、一九八八年

6) 玉木正之・編、『定本・長嶋茂雄』、文春文庫、一九九三年

7) ナンバー・編、『豪球列伝』、文春文庫、一九八六年

8) ナンバー・編、『豪打列伝』、文春文庫、一九八六年

9) 文芸春秋・編、『助っ人列伝』、文春文庫、一九八七年

10) ナンバー・編、『巧守巧走列伝』、文春文庫、一九八九年

11) ナンバー・編、『熱闘! プロ野球三十番勝負』、文春文庫、一九九〇年

12) ロン・ルチアーノ、『アンパイアの逆襲』、井上一馬訳、文春文庫、一九八七年

13) 近藤唯之、『プロ野球監督列伝』、新潮文庫、一九八四年

14) 寺山修司、『誰か故郷を想はざる』、角川文庫、一九七三年

15) ニーチェ、『ツァラトゥストゥラはこう語った』上下、氷上英廣訳、岩波文庫、上一九六七年、下一九七〇年

16) ニーチェ、『ニーチェ全集』各巻、ちくま学芸文庫

17) 竹田青嗣、『ニーチェ』、現代書館、一九八八年

18) 池井優、『プロ野球おもしろこぼれ話』、三笠書房知的生きかた文庫、一九九二年

19) ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、一九八〇年

20) マルクス、『経済学批判』、武田隆夫他訳、岩波文庫、一九五六年

21) 佐山和夫、『黒人野球のヒーローたち』、中公新書、一九九四年

22) 島秀之助、『プロ野球審判の眼』、岩波新書、一九八六年

23) ヨハン・ホイジンガ、『ホモ・ルーデンス』、高橋英夫訳、中公文庫、一九七三年

24) 青田昇、『サムライ達のプロ野球』、文春文庫、一九九六年

25) 柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、一九八九年

26) 共同訳聖書実行委員会、『聖書』、新共同訳、日本聖書協会、一九八八年

27) 『日本国憲法』、講談社学術文庫、一九八五年

雑誌

1) 「ホームラン主義」、『Number』二七二号、一九九一年八月五日、文芸春秋

2) 「プロフェッショナルの証明」、『Number』二八五号、一九九二年二月二〇日

3) 「大リーグに行こう」、『Number』三七四号、一九九五年九月一四日

 

捕捉

 本作品は1992331日に脱稿されたものです。ただ、第二期長嶋政権の発足などその後の状況の変化に伴い、2000年まで加筆しております。今日から見て古くなった記述や変わってしまった筆者の意見も多く含まれていますが、当時の感覚を尊重するために、そのままにしてあります。



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