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 国道沿いを走る男子中学生の二人。

 少し後ろを行くのは剣道部の七尾だ。

 七尾は、少し後悔していた。俺は何をやってるんだろう。焼け付く日差しと地面からの照り返しが、じわじわ容赦なく体力を奪っていくし、むき出しの首と腕はじりじり太陽に焦がされていくようだし、自転車のハンドルは汗ですべる。タイヤも溶けて跡がつきそうだ。

「はははっ! あっちーな!」

 七尾の前を自転車で走る中島が、振り向きざまに大声で笑った。

 何がおかしいんだろう。それにしてもまぶしい。サングラスでも持ってくればよかった。

「なあ、中島。次コンビニ見つけたら休もうぜ」

「またコンビニ? 休憩早くね?」

「水分補給しないと、死ぬ!」

 七尾が叫んで、中島がまた笑った。


 二人は、いま海に向かっている。七尾たちが住んでいる町から海まで、およそ40キロほどくらい。自転車でなら、だいたい3時間~4時間といったところだ。

 そもそも、なぜ海に行くことになったかというと、「何か夏っぽいことしようぜ」と中島が突然言い出したからだ。それぞれ午前中の部活を終えて、七尾の家でラーメンを食べた後のこと。突然中島がこう言ったのだ。

「なあ、海行こうぜ!」

 七尾は、少し夏バテ気味で疲れているところだった。今日の道場も暑かった。午後からはクーラーのきいた七尾の家でごろごろするつもりだった。

「なんで海なの……」

 七尾の質問に、中島はとにかく行くんだ! と言って、なにやら水着やらポカリスエットやら準備しだした。

「まじで行くの?」半ばあきれながらも、七尾は本当は嬉しかった。わくわくしていたのだ。

 もっとも、こんなに真夏の昼にママチャリをひたすら漕ぐのは地獄だと実感するまでの短い間だったけれど。


「いらっしゃいませ」

 自動ドアが開くと、コンビニの冷気が火照った体からすうっと熱を奪っていく。汗ばんだTシャツが一気に冷たくなって少し寒い。ぐるっと歩いて、ドリンクコーナーへ。本棚の前を通るとき、漫画雑誌を読んでいた中学生がこっちをじろっと見てきた。こいつどこ中? そんなことを思ってるに違いない。

「あっ! これうちのコンビニじゃ見たことない!」珍しいアイスを見つけて、中島がはしゃいだ。

「じゃあ、それにしなよ。俺こっち買うから」七尾はガリガリ君を選んだ。

 コンビニの前でアイスを半分に分けて食べた。アイスでは喉の乾きは癒えなかったので、コンビニの裏の水道から勝手に水を拝借してペットボトルに詰めた。そしてまた自転車を漕ぎ出した。

 中島は海までの道を知っているという。だから当然のように先頭を行くが、七尾は海に行ったことがなく、ここも初めて通る道だった。とは言っても、道沿いは自分達が住んでいるところとほとんど変わらない。道沿いに街路樹があって、信号があって、ビルがあって、コンビニがあって、牛丼屋がある。そんな道だ。

 2時間ほど似た景色の中で自転車を漕いだので、さすがに飽きてきた。さすがに足もケツも痛い。熱さと暑さで、汗も出るはしから乾いていく。

「あとどれくらい?」しびれを切らして、七尾は中島に訊いた。

「んーとな……あと10キロくらい?」中島が振りむかずに言う。さすがの中島も、少し疲れてる様子が見て取れた。

「遠いな」

「なんだって?」

「遠いってー!」

「あとちょっとだって!」

 中島がいきなりスピードをあげた。

 まじかよ、くそっ。七尾も引き離さないように着いていく。

 前を走る中島の白いTシャツの裾がはためく。シャツの下の筋肉と、ふくらはぎが力強く動いている。夏の光の中できらめくその風景を見ていると……七尾は、胸がいっぱいになってしまう。ただ七尾に追いつこうと自転車をこぐ。右足、左足、右足、左足、右足、左足……。


 しばらく行くと、だんだん周囲は林ばっかりの、寂しい場所になってきた。林というより山だ。坂道に立ち漕ぎになる。ペダルを踏む足ががくがく震えた。

「ここ登ったらすぐだー!」中島が叫ぶ。

「よっしゃー!」七尾も気合いを入れた。剣道の地獄のかかり稽古に比べたら、こんなものへでもねえ!

 しかし予想以上に道は過酷で長かった。だんだん考えるのも忘れ、頭の中もからっぽになってきたころ、前を走る中島が、急に自転車から下りた。なんだ、あいつもう限界か。なさけない。七尾はちょっとだけ優越感を感じた。そうして中島の隣まで追いついて、にっと笑って中島の顔を見た。けれど、中島は七尾を見ていない。七尾の後ろを見ている。その視線の先を、七尾は見た。そして声をあげた。

 夏の太陽に輝く海があった。水平線、ずうっと向こうまで。大きな大きな海だ。

「わあ! 海だ!」

 中島がにこにこ笑った。そして得意げに言った。

「きれいだろ?」

 どこまでも大きくて、広くて、すごくきれいだと七尾は思った。そうして二人で海を見ながら並んで自転車を漕いだ。


 山はゆるやかに下り坂になり、坂を降りきると、海に面した道にずっと向こうまで防波堤が続いていた。そこで二人は自転車を置いて、道沿いにあった自販機でコーラを買って乾杯をした。

「あーっ。疲れた!」

 中島が大きく伸びをした。太陽はまだ明るいが、傾いてきていて、二人の影も昼間よりは長くなっていた。

 七尾は影を見ながらふと思った。中島は、最近どんどん背が伸びてきている。小学校のころは俺のほうがずっと高かったのに。今ではほとんどおんなじだ。追い越されたら嫌だな。ずっと同じくらいでいいのに。

「あのさ、海、飛び込めないかな」突然、中島が言った。

 とはいえ、海面は防波堤の下である。海といっても、浜のように泳げるような場所じゃない。

「えっ? 危ないんじゃない。これ、どれくらい深いかわかんないし……海の中に魚とかいるんじゃないかな」

「そりゃ魚くらいいるだろ」

「ちょっと、他に泳げるところないかな?」

 七尾は、少し先で釣りをしているおじいさんを捕まえて訊いた。

「すいません、ここって泳げますか?」

 釣りをしていたおっさんは、じろりと二人を見て、厳しい口調で言った。

「泳げるわけないだろ。遊泳禁止だ」

「じゃあ、泳げるところはどこですか?」と中島。

「海水浴場はこの先車で二〇分くらい行ったところだ」と、あごで向こうを指した。

 車で二○分か……。自転車だったら何分かかるんだろう。七尾はちょっと考えた。正直、これから行くとさすがに夜になってしまう。

 中島は、おっさんの脇に置いてあるバケツをひょいと覗いた。単純に好奇心からだが、おっさんはバカにされたと感じたのか、「向こうに行け!」と突然怒りだした。何か言い返そうと思ったけれど、二人はすごすごとその場所を離れていった。

「なんだよ、あのハゲ。フナムシでも投げつけるか」少し離れたところにきて、中島はぷりぷり怒りながら言った。「しかも釣れてねーし! ばかじゃねーの」

「まあまあ……」

 七尾は中島を慰めるために自販機でまたコーラを買った。それを一気に飲んだあとは、もう機嫌が直っていた。単純だなあと七尾は少しうれしくなる。

 防波堤の上を、特に何をするでもなくふらふらと歩いた。

 それにしても、俺たち遠くまで来たんだな、と七尾はしみじみと思う。毎日毎日、家と学校の往復で、こんなに遠くまで来たことなんて一度もなかった。

 防波堤の端っこまで来て、海に足を向けて座った。潮が満ちて来ているのだろう。水面が近い。波は少しひんやりとした潮風も連れてきた。視線を遠くに投げれば、海は沈みかけた太陽できらきら輝いている。まるで、太陽の道だ。潮の関係だろうか。海は場所によって色が違うことも初めて知った。不思議と波が立っていない場所もあれば、大きい波が立っているところもある。向こう側には、雲の下で影になっているのだろう。真っ暗になっている場所もある。

 七尾は中島の顔を見た。いつもはよくしゃべる中島は、今は静かだ。何を考えているんだろう。この風景を俺と同じようにきれいだって考えているんだろうか。

 七尾は、日に灼けた赤い顔で、ぼんやりと海を眺めている。後ろには二人の影が細く長く伸びている。どこまでもまっすぐで交わらない二つの影―――。

 七尾は影を見たまま、中島ににじりよった。今すぐ手を握って、そうして……。



 中島は、波の音を聞いていた。

 ざざー。ざざー……。ああ、いい気持ちだ。中島は大きく息を吸った。ふと見上げると、星を見つけた。一番星だ。中島は、自分がものすごく遠くに来てしまったのだとしみじみと思った。

 海はひどく大きく、空はだんだん暗く……。まるで自分なんてちっぽけで、ここにいる意味なんてなくて……。

 中島はいきなり体をひねって七尾に向かい合うと、七尾の体をぎゅっと抱いた。

「うわっ!」七尾が叫んだ。「な、なんだよいきなり」

 と言いながら、七尾も中島の背中に手を回した。そうしてお互いぎゅっと抱きしめ合った。少し甘い汗のにおいがした。七尾のにおいだ。

「いや、なんでも」中島はくすくす笑った。

 七尾はここにいる。心臓が鼓動している。だから俺もここにいる。

「おれ……」七尾は恥ずかしそうに顔を赤めてうつむいた。なにか言いたそうにしていたけれど、結局何も言わなかった。

「……俺、これてよかった」ずいぶんたって、太陽が完全に沈んだ頃、七尾がようやく言った。

「ほんとか?」

「うん。だって……」七尾は言葉を詰まらせた。

「泳げなくて、残念だったな?」中島はそう言って、防波堤の下をひょいと覗き込む。もう海も空と同じくらい黒くなっている「せっかく水着持って来たのに」

「マジで泳ぐつもりだったんだ」はははっ、と七尾は笑った。

 それから、二人で防波堤に横になった。太陽が完全に沈んでしまい、空も海も同じ黄昏色に染まるのを見た。そうして群青色が濃くなり、星がまたたくころ、もう一度海と空の境目を見て、空と海は別々だと思った。海には星がない。

 そろそろ帰ろうぜ。どちらともなくそう言って、二人はまた長い長い帰り道を自転車を漕いだ。


 中島の家に着いたのは、もう夜十時近くだった。シャワーを浴びると、ほっと一息ついた。やっと帰ってきた。

 中島は、冷蔵庫からいくつか料理を出してチンした。母親が作れてくれたという唐揚げだった。二人で食べる。

 中島の家には父親がいない。母子家庭で、母親は仕事で忙しく、中島のことはほとんど放任だ。だから、七尾も中島の部屋に入り浸っている。息子をほったらかしにしている罪悪感かなんだか知らないが、成績も悪くなく、品行が正しい七尾がいつも一緒にいてくれることは母親にとってもありがたいらしい。

 七尾は、七尾用にきちんと洗濯されたTシャツとトランクスの匂いをすっと嗅ぐ。柔軟剤の匂いがした。中島と同じ匂いだ。こうちゃんのことは兄弟だと思ってるよ、と、七尾の母親はよく言う。そのたびに七尾はどこか誇らしく、しかしむずがゆい気持ちになるのだった。俺は七尾のきょうだいじゃない。

「明日筋肉痛だよ、絶対。足パンパンだもん」

「そうだなー」

 二人は同じベッドに身を投げ出した。枕はふたつ。

「マッサージしてやるよ」と中島。

「え、いいよ」

「いいから」

 中島は、七尾をうつぶせにして上に乗ると、七尾のすべすべした白いふくらはぎを、ゆっくりとさすった。

「あー……すげー気持ちいい」枕に顔を埋めたままの、七尾のくぐもった声が漏れた。

「お前、筋肉ついた?」

「自転車むちゃくちゃ漕いだからなー」七尾は間延びした声をあげた。

 そういう意味じゃなくてね、と中島は思ったけれど、言い直すのはやめておいた。

 七尾は脚に毛はぜんぜん生えてない。けれど体はしまっていて、肩幅も広くなったし、筋肉も付いてきている。

「じゃ、次俺の番。交代してー」

 七尾は早々にマッサージを終えてそう言うと、七尾を起き上がらせた。中島はさっきまで七尾が寝ていた枕に顔を押し付けた。

 さっそく、七尾は脚を揉んでくる。ぎゅっ、ぎゅっとふくらはぎが圧迫される感覚。脚に凝り固まっていた乳酸がじわっと解けて流れていくようで、中島は快感に溶けていくようだった。

「こんな感じでいいっすか?」と七尾。

「あーいいっす。気持ちいい」

「すね毛濃くなったよね」七尾がその掌で毛の感触を確かめるようにざらざらとなで回した。

「けっこうコンプレックスなんだけど」

 小学生のころはほとんど生えてなかったのに、今では太い毛が生えてきている。とは言っても、根元はまだ産毛の柔らかい金色を残していて、先端だけ固くなった毛だ。

「俺、薄いからうらやましいよ」

「別にいいもんじゃないよ」

「俺はこれくらいがいいと思うけど」

「そのうち、ヒゲとか生えるし。全身熊みたいになるよ」

 七尾が中島の言葉に、ふふふっ、と笑った。

 七尾は、太ももの上のほうをさすった。このあたりは毛が生えてない。すべすべした太ももが、七尾の手でじんわりと暖まっていく。

「気持ちいい?」

「うん。すっげー気持ちいい」

 手が、ぴたりと止まる。あれ、もう終わり? そう思っていると、七尾が上に覆い被さってきた。心地よい重たさだ。

「……中島」

 耳元で七尾が囁く。懇願するように。

 中島が身をよじらせると、七尾が少し体を浮かせた。中島はぐるっと体をひっくり返して仰向けになり、七尾と向かい合った。顔をじっと見る。七尾は照れくさそうに顔を伏せた。

「ねえ、いつもみたいにしてよ」

 七尾は赤い顔でこくりととうなづくと、ゆっくり体をずらして、中島の股間に顔を埋めた。トランクスから取り出すやいなや、すでに固く充血したそれが七尾の口の中に消えていくのを見た。

 中島は七尾のTシャツを脱がせ、自分も裸になる。もどかしそうに七尾もいま履いているトランクスを脱ぎ捨てた。ぱちんと音をたてるほど突っ張っりが露になる。中島はその若竹のような七尾のものを傷つけないように優しく掴むと、柔らかく皮を剥く。七尾が体を動かして、仰向けになった中島の顔の上に七尾の股間が覆いかぶさる形になる。中島は静かに七尾のそれを口に含んで舌で転がした。うあっ、と七尾がのけぞる。

「……なあ、どんな気持ち?」

 くわえていた中島のものから口を離して、不意に七尾が訊いた。

「すっげえ気持ちいいよ」

 心の底から中島は応えた。中島は感覚の人間だった。今はただ肉体の快楽だけをむさぼっていた。

「気持ちいい?」ぺろっと舐めながら、中島も訊く。

「うん。あ、もうだめ。でる」七尾は腰を引く。

「もうちょっと我慢してよ」

 中島はぐっと起き上がり、七尾を仰向けにすると、自分がその上に覆いかぶさった。そして左手で七尾の頭の上に持ってきた七尾の両手を押さえて、右手で七尾のはちきれそうなものを自分のものと一緒にしごいた。

「うわっ、ちょっと、だめ……!」七尾は顔を真っ赤にして、身をよじらせた。その唇を塞ぐ。舌を絡ませると、七尾のはさらに固くなった。

「んっ! あっ!」

 七尾が果てて、少し遅れて中島もたっぷりの白濁した液体を七尾の腹の上にぶちまけた。七尾は二人分の液と汗でどろどろだ。

 出してしまうと、急に冷めてしまって、中島はベッドの脇に置いてあるティッシュを引き寄せて、しゅっと引き出して、半分を七尾に渡す。「ん、ありがと」と、七尾はなんとなくバツが悪そうな顔をしてそれを受け取った。

「あーあ、なんだか一日終わったって感じだ」

 中島は笑いながらそう言って、丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げると、ベッドに仰向けになって天井を眺めた。

「シャワー浴びようよ、寝ちゃうよ」と七尾。

「もうこのままでいいよ」

 出すもの出したら、急に眠たくなって、中島はもううとうとしていた。

 しょうがないなあ。七尾はそんなことをいいつつも、中島を引っぱり起こして風呂場に連れて行ってくれた。二度目のシャワーも二人で浴びた。



 湯煙の中で、目をつぶって頭からシャワーを浴びる中島を見て、きっと、中島と俺の気持ちはおんなじじゃないんだろうな、と七尾は思った。

 お互い相手にそばにいてほしいという思いは、たぶん本当だ。誰よりも大切だという気持ちも、たぶん間違いないと思う。俺も中島も、他に恋人も友達も作ったことがない。他の人と仲良くしていいって言われても、やり方なんてわからない。

 いや、二人とも恋人も作ったことはないわけじゃなかった。中島は先月、彼女を作った。俺はどうしていいかわからなくて、中島を避けた。そうすると中島は泣いて、俺のことを嫌いにならないでって言った。俺は嬉しくてどうしようもなくて、俺も泣いたんだ。

 けれど俺は、俺の頭の中の奥のほうでは、中島のことを、まだどこか信じられない気持ちでいる。

 中島はあの女子よりも、俺のことを好きでいてくれたのか? ただ一番仲がいい友達が離れて行ったのがショックだったというわけでなく、俺のことをあの女子よりも好きだと、抱きたいと感じてくれたのか?

 こんなこと考えるなんてどうかしてる。こんなのまるで、俺が女の子みたいじゃないか。そうじゃなければ、俺はまるで……。


「ななおー」

 中島の声に、七尾ははっと我に返る。

「あ、ああ何? どうしたの」

 中島はそっと七尾の腰に手を回すと、ぎゅっと抱きしめて、唇を押し付けてきた。柔らかい唇とずずっと入り込んでくる舌の感触。弾むような中島のしまった筋肉を感じて、下半身がまたうずくのを感じた。

 やめろよ。舌を絡ませて、唾を飲み込んで、胸が詰まるほどの甘い息苦しさの中で、七尾は思った。やめてくれよ。優しくしないでくれ。

 これ以上やると、俺はバラバラになってしまう。お前のことを友達としてずっと好きな俺と、お前のことにどうしようもなく欲情してしまう俺とに。これ以上はやめてくれ。七尾は涙を流した。

「七尾?」

「うん。……早く服来て寝ようか」

 涙はシャワーに紛れさせた。

 そして体を拭いて、服を着て、枕が並んだ同じベッドに入って、軽く抱き合うと、やがて心地よく眠りについた。

 こうして幾度となく破りかけた繭の中に、また二人は戻ってくるのだった。



 夜中、中島はふと目を覚ました。

 喉が乾いていた。ゆっくりと立ち上がって、机に置いてある気の抜けたコーラをごくごくと飲み干す。ふう、と一息ついてあたりを見回すと、カーテンの隙間からは、薄く光が差し込んでいる。時計を見ると、四時だった。

 ベッドでは、七尾がすうすう寝息をたてていた。それをぼんやりと眺めた。いつもこいつはすやすや眠っている。犬みたいだな。……俺もまた寝よう。ベッドに近づくと、「……なかじま?」むにゃむにゃと七尾が声をあげた。

「あ、起こしちゃった?」

 明るい暗闇の中で、七尾の開いた目が光って見える。

「夢みてたんだ」まだ夢を見ているような声で、七尾はささやいた。「海に行くんだ。すごくきれいな海沿いを走って……着いたところはきれいな砂浜で……すっごくいい天気で……中島と俺は海に入って、ぱちゃぱちゃ水跳ね上げたり、潜ったりして遊ぶんだ」

「そうか」今日海に行ったからね。でもね、俺たちは海には入らなかったんだよ、中島はそう心の中でつぶやいた。七尾は続けた。

「それでね……俺たちいつの間にか海の中にいるんだ。でもちっとも苦しくなくて……ぷかぷかして、空がきらきらしててとってもきれいでねえ。あれはまるで……」

 七尾はそこで声を詰まらせた。救い上げた指の隙間から水のようにこぼれていく夢の残滓を、まどろみの中で探して、探して―――そうして、ようやく言葉を継いだ。

「うん。すっごく幸せだったなあ……」

 中島の胸に、さざ波が広がった。

 その夢の中に自分がいた。

 俺と七尾は、海の中。

 ふたりっきりで、夏の太陽と海の真ん中で、魚みたいにぷかぷか漂っている……。それは夢の記憶だった。二人が行けなかった、夢の場所だった。

「そうか。いつか、また行こうな」

 しかし七尾の返事はなかった。七尾はまたすうすうと寝息を立てている。寝ぼけていたのだろう。きっといま話した夢の話だって、朝にはもう忘れている。明日話をしても、「夢なんて見てねえよ。えっ? まじで? 俺そんなこと話したっけ?」なんて笑うに決まっている。

 中島はまぶたを閉じている七尾を顔をじっと見た。いまの夢のことを知っているのは、世界中で俺一人だけだ。

 中島は七尾の頭にそっと腕を回した。七尾の顔を軽く胸に押し付ける。唇でおでこに触れる。塩の味がした。

 そうして、七尾の呼吸にゆっくりとリズムをあわせていいくようにして、中島もまた眠りについた。


 朝が来て目覚めたときは、中島も夢のことを忘れていた。けれども、海に行ったこと、無計画に自転車で飛び出したことは、夏がくるたびに思い出した。あんなに暑い夏はなかったし、あんなに幸せな海はみたことがなかった。

 ―――あのとき、俺が飛び込んでたらどうだろう。中島はふと思う。そうすれば、いまでも二人で一緒にいられたのだろうか。言葉にできなかった気持ちがそこにずっと残っている気がするのだ。


 夢の中で、中島は海を覗き込む。

 海の中にあるはずのなにかを探そうとする。

 そこには七尾がいる。水の中で笑いながら手を振っている。きらきら光っている七尾は、あの海に置いてきた、もうひとつの俺の半身。俺の中学時代そのもの。

 きっと俺は一生、この海を思い出し、届かない海面へ何度も飛び込もうとするのだ。これは俺の罰なんだ。甘く美しく、太陽にきらめく夏の罰―――。

 そんな夢を見た後は、いつもベッドの隣に七尾がいないことに気付いて少しだけ涙を流す。いつしか恋い焦がれるようにその夢を待ち望んでいたのだとは気がつかないまま、中島はまた目をつぶる。そしてまた海の夢を見て、今度こそは飛び込もうと思うのだった。



奥付



恋ふる我かも


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著者 : ジン太
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/fujimarujinta/profile


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