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『コーイチ』

  
    『コーイチ』

                   大和田光也

 

            (1)

 

「コーイチはどこだ?」
 家族が集まっていた日曜の朝だった。松三は朝食を食べながら遠いところでも見つめるような目つきをして尋ねた。
「エッ、またおかしなことを言って。ここにはコーイチなんて子はいませんよ。この子は有美ですよ。ここ
どころか、どこを探しても、親戚縁者の中にコーイチなんていう子はいませんよ、おじいちゃん」
 陽子は、また始まったというような顔をして、食パンを口の中でモグモグさせながら言った。
「いやいや、コーイチというのは人の名前ではない。ラジオの名前じゃ」
「アラッ、そうなんですか」


 陽子は義父である松三の話をまともに聞く気はなさそうに立ち上がって、朝食の片付けを始めた。
「お父さん、コーイチというラジオはいつ買ったかなぁ?」
 利明は松三の顔を真剣に見ながら尋ねた。利明は同居している実父である松三の話は真剣に聞いて受け答えをしていた。それに対して利明の妻である陽子は、
「お父さんは、認知性になりつつあるわ」

と言っていいかげんに聞き流すことが多かった。


「いや、最近買ったものではない。店じまいするときに一台だけ取っておいたものだ。昔のラジオは品物がよかったから長持ちで、今でも十分使えるはずなのじゃが・・・」
 確かに松三は戦後、復員してきてからラジオの修理業を始めた。ちょうどラジオが普及し始めたころだったので、仕事がたくさん入り、やがて狭いながらもラジオの修理販売をする小さな店を構えていたのだった。しかし、それはかれこれ、五十年以上も前の話だ。

 

「お父さん、あの宇都宮ラジオ店をやっていたころの品物などは、もう、とっくにつぶれて、無くなっているよ」
 利明は父親の話が、明らかにありえない事である、ということがはっきりするまでは真剣にやりとりした。
「いや、あのころのラジオは五十年くらい経ってもまだ聞こえるはずだ」
「今の時代に、あのころ売っていたラジオがあるわけはないけれど、そのコーイチとかいうラジオがお父さんは欲しいのかな?」
「ああ、もう一度、聞きたい」
「そうか。困ったなあ。お父さんにラジオくらい、いくらでも買ってあげるが、五十年も前のラジオなんて、今時、売ってるわけはないよ」
 利明は困ってしまった。


「コーイチってどんな字を書くの、おじいちゃん。今でも売ってるかどうか、インターネットで調べてあげるから」
 有美が顔はテレビの方に向けたまま、面白くなさそうに言った。有美は利明の長女で、三年前に結婚して同居している。同居するために親子で金を出し合って、今住んでいる三階建ての家を買ったのだった。 ただ、夫は長期の単身赴任の仕事で、一月に一回帰ってくればいい方だった。

 赤ちゃんの誕生を一家で楽しみにしていたが、一向にその気配はなかった。子供ができるまではと、有美もずっと勤めを続けている。


「おうそうか、有美ちゃんが探してくれるか。字は高いという漢字に数字の一番を書くんじゃ」
「エッ、それじゃ高校一年生のこと?」
 今度は松三の顔をしっかりと見つめて言った。
「ああそうじゃ。字は同じじゃ。高一ラジオと言うんじゃ」
「それじゃ、インターネットで調べてあげる」


 有美は食卓から立ち上がって、三階の自分たちの部屋に上がっていった。この家は中古の住宅を買ったのだが、三世代が暮らせるように各階にトイレと炊事場を増設してから入居した。だから適当に空間も隔てられて、今のところ大きな喧嘩もせずに仲良く暮らしている。


 家族の中でパソコンでインターネットなどが利用できるのは、若い有美夫婦しかいない。
 しばらくしてから、プリントアウトした用紙を持って有美が降りてきた。
「本当にあったわ、お父さん。おじいちゃんは認知症なんかじゃないわ。こんな大昔の名前を覚えているんだから。高一ラジオというのは高周波一段増幅式ラジオというのね。何のことか全くわからないけれどさ。このラジオを売っているネット商店を調べたけれど、もちろん五十年も前の品物は売っていません。でも、オークションの方で出品されているのを見つけたわよ」


 有美がプリントを松三の前に差し出した。それには木製の古いラジオの写真が印刷されていた。
「おお、これだ。なんと懐かしいことか」
 松三の目つきが遠くを見る目つきから、捜していたものを目の前にしているような生き生きとした目になった。
「これが欲しい。いくら金を出してもいいからこれを買ってくれないか、有美ちゃん」
「いいわよ。そんなに高くならないと思うわ。ちょうど今日、出品したところで、四千五百円の値段をつけているわ。期間は一週間だからちょうど来週の日曜日がオークションの終了日になるから、その時に落札してあげるわ。でも、まあ、ちょっと手間がかかるなあ・・・」
「わかったわかった。有美ちゃんにはちゃんと手数料として一万円あげるよ」
「エッ、そんなに気をつかってくれなくてもいいのに。おじいちゃんはやっぱりいい人ですね」
 有美はニコニコしながら出かけて行った。


 松三は翌日から一週間の間、有美が仕事から帰ってくるのを待ち受けて、オークションに出品されている高一ラジオがまだあるかどうかを確認してもらっていた。どうやら松三はラジオが誰か他の者に先に買い取ってしまわれるかもしれないと心配しているようだった。


 日曜日の落札日になったが、それほど高額にもならずに、八千五百円で有美が入札したのが最高額となって落札した。これを見て松三は子供のように喜んで、品物を早く手にしたくてたまらない様子だった。
「おじいちゃん、出品者の住所が解ったけれど、すぐ近くに住んでいる人ですよ。引き取りに行ってもいいかどうか聞いてみようか」
「ああ、ぜひともそうしてくれ。一分でも早く欲しい」
 何度か有美が相手とメールのやりとりをして、夕方に相手の自宅に取りに行くことで話がついた。


 夕方になってから、利明は車に松三を乗せて、有美からもらった住所の所へ行った。車で十分ほどだった。利明の家と同じような狭い三階建の一戸建の家だった。チャイムを鳴らすと、ドアが開いて、出てきたのは利明と同年配と思える小づくりな顔の婦人だった。

 玄関に入ると下駄箱の上にオークションで出品されていた高一ラジオがきれいに磨かれて置かれていた。


「亡くなった父が大事にしていたものだったので、これまで、押入れの奥にしまっていましたが、孫もできて部屋が手狭になってきましたので、同居している娘に売りに出してもらったんです。こんなものは売れないのではないか、と言っていたのですが、よく買っていただきました。ありがとうございます」
「ちょうど私の父もこのラジオを欲しがっていたので、よかったです」


 松三は二人の会話は耳に入らないように、ひたすら下駄箱の上のラジオに見入っていた。さらには、古ぼけた木製のダイヤルを回したり、次には裏ブタまで外して中を見てた。やがて、しきりに頭を振りながら考えているようだった。
「お父さん、そんなことは家に帰ってからやろうか」
 利明に言われて顔を上げた松三は、今度は見えにくいものを何とかはっきり見えるようにするかのように、目をしばたたかせて婦人の顔を見始めた。

 

 それがいかにも無遠慮だったので、利明は、
「さあ、お父さん、早くラジオを聞きたいのだろう。家に帰ろう」

と言った。ところが松三はいっこうに動こうともせず、
「ホーッ」

といって随分、何かに感心している様子である。そして天を仰ぐようなしぐさをした。


「あんた、梶原初年兵の娘さんじゃないかねぇ?」
 松三が突然、大きな声で言った。
「エーッ!」
 あまりにも唐突なことでびっくりしたのか、その婦人も次の言葉が出なかった。 しばらくして、

「そうですけど、どうしてそれが分かるのですか」
「このラジオは、ワシが風呂を使わせてもらうお礼に、梶原初年兵にあげたものじゃ。それで分かった・・・ホラッ、ワシじゃ。土浦でよくお風呂をもらいにいった軍曹の宇都宮じゃ」
 土浦というのは松三の故郷だった。
「マァーッ、言われてみたら確かに・・・本当に、宇都宮のおっちゃんですねぇ。ワァーッ、懐かしい」
 その婦人もこの上なく驚いた表情で大きな声を上げた。


「あんたは双子の娘さんのうちのどちらかだなあ」
「エー、そうです。私は妹の方で、姉はまだ土浦で結婚もせずにあの家に住んでいます」
「これが、あの当時、一緒に風呂に連れて行った、あんたと同い年の息子の利明じゃ」
「エーッ!」
 二人ともあっけに取られた様子で、言葉も出なかったが、利明の顔がポットと赤らんだ。


「とにかく、狭いところですが上がってください。この家は娘夫婦のものなのですが、主人が亡くなってからは一緒に住んでいるのです。一階が私の部屋ですので遠慮せずに上がってください」
 松三も利明も風呂を使わせてもらっていたころの感覚が思い出されたようで、遠慮なく部屋の中に入った。


 話が弾み、娘夫婦と一緒に夕食まで世話になった。
「ぜひとも、一度、梶原初年兵のお墓参りに行かせてもらいたい」

と言って辞して、松三がラジオを大事そうに抱えて自宅に帰ってきたのは午後九時を過ぎていた。


 高一ラジオが来てからは、松三の生活は一変した。朝から晩までラジオを触り始めた。目をキラキラと輝かせ、顔は生き生きとなって、まるで小学生の子供が自分の好きなことをしているような様子だった。

 

            (2)

 

 松三は近くのホームセンターから半田ごてなど、さまざまな道具を買ってきてラジオの修理を始めた。さすがに五十年前のものなので、コンセントに差し込んで電源スイッチを入れると放送を受信はしているが、音は小さかった。

 

 松三はシャーシーを取り出し、裏返して見たりして、コンデンサーやコイルや抵抗を取り換えたりしながら修理をしていた。それを見ていた有美が、
「おじいちゃんは天才やわ。何も資料を見ずに修理ができるなんて。こんな訳の解らないものがちゃんと理解できているんだわ」

とオークションの一万円の手数料をもらったこともあって、松三をほめ上げる。
「高一の回路図なんか、目をつぶっていたって書けるぞ。高一どころかスーパーへテロダインだって、いや高一中二(高周波一段増幅・中間周波二段増幅)でも何も見なくても頭の中に、アンテナから電波が入って、スピーカーから音が出るようになるまでの間のことは、細部にわたって全部分かっているぞ」
 松三は得意満面になる。


 松三は木製のキャビネットも、きれいにニスを塗って磨き上げたので、由緒ある骨董品のような輝きをするようになった。松三の部屋は一階のガレージの奥で、六畳ほどの広さであったが、そこに、三階のベランダにアンテナを立て、電線を引いてきてラジオに接続した。
 松三の手にかかるとラジオは見事によみがえり、大きな音で鳴りだした。とても五十年も前のものとは思えなかった。


 松三はこのときからテレビを見るのをやめた。四六時中ラジオをつけっぱなしにするようになった。利明が父親の部屋に行くと、
「とにかく、この音を聞いてみろ」

といって無理やり利明にラジオを聞かせる。そして、その音に対してなんだかんだと話をする。これが松三にとっては何よりも楽しみであるのが顔の表情からよく分かった。


 実際にラジオからは良い音が響いてきた。五十年前にこんな良い音がしていたかどうかは利明には記憶はなかったが、今、町にあふれているどんな音よりも優しく、人間のぬくもりのようなものが感じられた。松三が起きている間はつけっ放している気持ちが分かるような気がする。

 このラジオの音が耳に届くと何とも言えない安心感と故郷に帰ったような懐かしさが感じられるのだった。また、ラジオに直接アナウンサーやレコードがつながっているような臨場感のする音には新鮮な感動が出てきた。


「五十年前のラジオでも、こんなに見事に蘇るものなんだなあ、お父さん」
 利明が感心して言う
「そうだぞ。人間も同じじゃ。死んだら終わりではないんじゃ。また必ずこのラジオのように蘇るんじゃ。だから、死ぬることは、新しく生きることへの出発なんだ。世間で思われているような悲しみなどとは全く無関係だぞ。一日働いて夜寝て、また朝起きる、これを繰り返しているが、死ぬ生きるもこれの期間の長いものと同じじゃ。寝なければ体が疲れてしんどいだろう。それと同じじゃ。次に新しく生きるためには死ななければ疲れが取れないのじゃ。だから死ぬことは大きな流れの中で眠ることと同じことじゃ。なんにも悲しんだりするものではないぞ。いいか、利明」
 松三はまだ死についていろいろと話して置きたいようだったが、利明はあまり聞きたくなかったので話を戻した。


「テレビの地上デジタル放送は音が良いと言うけれど、お父さんの高一ラジオの方が聞き易いね。それに、カーラジオなどではAM放送は雑音が入って音が悪く、FM放送の方がきれいに聞こえるけれど、お父さんのラジオで聴くとこのAM放送の方が格段に良い音がするなあ」
 利明は父親を喜ばそうという気持ちも少しはあったが、実際にその音質の良さは感心するものだった。現在言われている音が良いとか悪いとかの判断基準とは次元を異にした良さだった。


「アー、そうだぞ。高周波を一段増幅してその後、周波数を変換せずして、直接、検波するのが一番いい音のするラジオなんじゃ。よくもまあ、梶原初年兵はこのラジオを大事に持っていてくれたなぁ。懐かしいなあ・・・一度死ぬ前に田舎に帰りたいなあ。もうかれこれ二十年以上、帰ってないかなぁ」
 松三はいつもの遠くを見るような目つきになった。


 利明の仕事はビルやマンションの配電盤を作ることだった。高校を卒業して以来、四十年を超えて同じ仕事をしている。中小企業に属する会社だったが、倒産もせずに現在まで続いている。
 今年の年末には六十歳の定年を迎える。仕事を休むことは年間を通じてほとんどなかったので、有給休暇は繰り越し分も含めて四十日ほども残っていた。さすがに会社の上役も同僚も気を使ってくれて、
「どんどんと休んで、年休を全部、消化してくださいよ」

としばしば休むことを勧めてくれる。言葉に甘えて、利明は仕事が込まない時は休みを取っていた。


 利明が年休をとった日の正午を過ぎたころだった。陽子は町内会の役員で、老人の世話をする〝触れ合い喫茶〟の手伝いに行ったまま、まだ帰って来なかった。
「オーイ、利明。もうすぐじゃ。ちょっと下に降りて来いや」
 松三の大きな声が一階から響いてきた。
「どうかしたのかい。陽子がまだ帰らないから、昼飯にうどんでも作ろうかと思っているところだけど」

と言って利明は下に降りていった。

 

 松三は相変わらずラジオをつけっ放しにしていたが、利明にラジオの前に座れというようなしぐさをする。
「何かいい放送でもあるのかな?」
「シーッ、これを聞いてみろ」
 松三は真剣になってラジオを指さす。ちょうどNHKの正午のニュースが終わったところだった。わずかの時間、無音の状態で、次に番組のテーマ曲が流れた。それを聞いた瞬間に利明はまるで何十年もの歳月を一気に駆け戻って行くような感覚になった。

少ししてアナウンサーが、

「昼のいこい」

とのんびりと言った。


「やはり、そうか。『昼のいこい』か。まだ、この番組は続いていたんだなぁ。もう何十年も聞いた記憶がない。それもそうだ。午前中の仕事は十二時半までだからこの番組は聴けない。時間があったとしてもラジオなど聞かないものなあ。休みに車で出かけても、ラジオでは交通情報を聞くくらいだから」
 利明は感動の面持ちで言った。利明が小さいころはもちろん、テレビやウォークマンなどはなかった。耳で聴くものとしてはラジオが唯一の楽しみだった。『昼のいこい』も子供向けではなかったが、記憶の中にこびりついていた。


「そうじゃろう。ワシも懐かしゅうてなあ。今はもう毎日『昼のいこい』を聞いているのじゃ」
 松三もうれしそうに言う。
「特になあ、この曲は小関祐二という偉い作曲家が作ったものや。何か、宇宙にでも吸い込まれていくようなそんな気分にさせる良い曲じゃ」
 しみじみとして松三が言う。
「大げさにいうとこの曲を聴いていると、歳月の流れも、その間に死んだり生きたりすることも全部、自然のままに、ありのままに行われているような、それでいて、それが何とも言えない喜びを感じさせるような曲じゃのー。ワシが軍隊にいたとき、満州の氷るような薄い毛布の中で、また、南方諸島のうだるような暑さの中で寝たときも、いつもつらいことがあったり、日本が懐かしくなった時に、どこからともなく頭の中に、いっぱいに広がって鳴渡ったのがこのテーマ曲じゃったぞ。だから、わしはこの『昼のいこい』に助けられ、勇気づけられて生き延びた」
 松三は感慨深げに語った。


 二人はラジオの前にかしこまって座って『昼のいこい』を聞き続けた。
 その夜、利明は、有美にインターネットで『昼のいこい』のテーマ曲が本当に小関祐二の作曲なのかということと、戦前からこの番組がこの曲で放送されていたのかということを調べさせた。しばらくしてから、
「お父さん、おじいちゃんは半分は認知性で、半分は非常に頭がいいわ」

と言ってプリントアウトしたものを利明に差し出した。そのプリントを見ると、テーマ曲は間違いなく小関祐二の作曲であった。しかし、この番組が始まったのは戦後のことで、戦中戦前はまだ放送されていなかった。


「まあいいか。お父さんの心の中ではこの曲が過去にさかのぼって流れていて、それによって勇気付けられたのだから」
 利明はなぜか父が勘違いしていることで安心した。また、その曲が父親の心に深く染み込んでいるのと同じように自分の心にも懐かしい、幼いころをよみがえらせる呼び水のようになっているの感じていた。


 こんなことがあってから、松三は時々、深夜にラジオから流れる歌を大きな音で聴くようになった。陽子や有美は三階に寝ているので一階のラジオの音はほとんど聞こえなかったが、二階で寝ている利明にはその音で目が覚めることがよくあった。利明は、どんな放送を大きな音にして聞いているのかと思い、耳をそばだててみると、深夜番組で放送されるナツメロの音楽番組だった。翌朝、目をショボショボさせて起きてきた松三は、みんなの前で、
「昨日は、懐かしい歌を聴いたぞ。『国境の町』というやつだ。満州を思い出したなあ」

とか、あるときは、
「『ああ、モンテンルパの夜は更けて』を聞いたぞ。南方諸島が懐かしいなぁ」

とかいい始めた。そして出てくる曲がだんだんと多くなっていった。

 

 利明は小さいころから歌謡曲が好きだったが、松三やすでに亡くなっている母親がよく歌っているのを聞きながら育ったからだ。だから利明は前時代の両親のころに流行った歌が、しっかりと頭の中に残っていた。

 これらの歌を思い出すと、それが記憶に残った場所と出来事が心に蘇ってくる。松三の望郷の念が利明の心の中にも広がってきた。


「田舎の情景が思い浮かぶなあ。最後にもう一度、田舎に帰りたいなあ」
 松三が故郷を見ているかのような眼差しになる。
「そうやなあ。一度、ゆっくりと田舎に帰ってみたいなぁ。だけど、その、〝最後に〟という言葉はやめてよ、縁起悪いから。何度でもまだ帰れる。年休も取ってくれと言われているし・・・近々、帰ろうか」
 利明も望郷の念に駆られる。
「ホーッ、そうか、楽しみにしておくぞ」
 松三は白髪の生えたまゆ毛を動かせて喜んだ。

 

            (3)

 

 利明は仕事の暇な時期を見計らって五日間の年休を取った。勤続四十年以上の間で五日も連続して年休を取ったのは初めてだった。
 昼過ぎ、利明はマイカーに松三を乗せて出発した。

 

 松三や利明が生まれ育った故郷は、鉄道も通っていない田舎で、車で十二時間近くかかる。連続して運転すると疲れるので途中で一泊して、翌日の午前中に着いた。
 二人は懐かしくて、車を町のはずれに止めて、歩いた。
「ひょっとしたら、あの映画館が残っているかも知れないなぁ」
 松三がポツリとつぶやいた。
「いやあ、お父さん、それは無理だよ。田舎を出てから二十数年たってるし、あの時でもあの映画館は古くて、すでに二、三十年は経っていたのではないかなぁ。それにテレビが普及し始めてからは映画なんて見に行かなくなったもの。とっくに無くなってしてしまっているよ」
 利明は自信ありげに言った。

 

 その映画館が建っていたのは町のはずれだった。

 二人はそちらの方へ歩いて行った。近付くにつれて、二人の顔には、にわかに信じがたいような表情が出てきた。その建物の見えるところまで行くと、外壁に打ちつけられていたトタン板はボロボロに錆び、いたるところで剥がれたり、たれ下がったりしている。それでも、周囲の家より一段と大きな建て方は紛れもなく映画館だと分かる。
「お父さん、映画館だった建物はボロボロだけど、そのまま残っているよ!」
 利明が感嘆の声を上げた。

 

 二人の足はだんだんと早くなり正面玄関のところまで行った。
「オーッ!」
 二人は同時に大きな声を出した。
「あの時のものだ。なんと、映画館のままじゃないか」
 明らかに、ずいぶん以前に閉館になって、その後は何にも使われていなかったのが分かるように荒廃しているが、間違いなく映画館の姿であった。

 紙のポスターなどはないが、トタン板に描かれた看板には、いたるところにさびが噴き出しているが、昔の映画館の雰囲気を醸し出すように宣伝の絵が残っていた。

 

 当時、小学生は映画館に行くのは不良の始まりになるので、禁止されていた。ただ、夏休みの「赤胴鈴之助」などのような子供用の映画は見てもよかった。また、親が一緒に行くのであればいつでも入って良いことになっていた。
「時々、浪曲を聴きに来たなぁ」
 松三は懐かしそうに、今にもつぶれて落ちてきそうな正面を見ながら言った。
「そうそう。小学生の俺には何を言っているのか全く分からなかったが、お菓子を買って食べさせてくれたので、いつも一緒に聞きに来ていた。浪曲だけではない。確か、三橋美智也が出演したときも俺は連れてもらって来ていた」
 利明は次々と幼い頃の事がよみがえってきた。


「そうじゃ。あのころ、三橋美智也の『ああ新選組は行く』が流行っておった。あの時の三橋美智也はこの劇場で始めと終わりの二回『ああ新選組は行く』を歌ったなぁ。実にうまかった。いい声をしておった。その三橋通也ももう今はいなくなったが」
「俺は小学生だったが、あんな生の楽器の演奏を聴くのは初めてで、なんといい音がするものかと思ったよ。心が晴れ晴れとするような気持ちになって映画館を出たのを覚えている」


「確か、一階は椅子席で、二階は座敷だったはずだ。中には入れないかのう」
 松三は入り口のドアのところに手をかけた。今にも崩れそうだったが、ゆっくりと押してみた。するとドアの形が歪み、きしみながらも開いた。
「ホーッ、開いたぞ。ちょっと中に入ってみよう」
 そろそろと二人で中へ入った。


「オーッ!」
 二人とも感動の声を上げた。五十年前と同じだった。一階は椅子席で、その薄暗い、何十年も使われたことがないだろう椅子に天井や壁のすき間から日の光が差し込んでいた。


「二階に上がって見よう」
 松三は若返ったような声を出した。階段を上ると確かに椅子はなく座敷だ。しかし、畳はすでになく、あちこちに穴の開いた板敷きになっている。隅の方にはほこりだらけになっているが、当時、出してくれた座布団らしきものもあった。


 二人はしばらく黙って立ちつくしていた。時間が止まったようで、五十年間、ここに居続けているような錯覚に陥っていた。
「お父さん、映写室へも行ってみようよ」
 利明が声を出したので、松三はびっくりしたように頭を振って、現実に返ったような表情をした。


 映写室へ入ってみるとボロボロにさびついた映写機がそのまま残されていた。当時は一巻のフィルムを写し終えると次のフィルムをセットするまで休憩だった。電気関係が好きだった松三は、その休憩時間に利明を連れて映写室に入って行き、技師がフィルムを取り外したり、新しくかけたりするのを見ながら、なんだかんだと話をしたものだった。
「こんな映写機なんかは、今では処分するのに金がいるからこのまま、ほおっているんだろう」
 松三はうれしそうにさびついた映写機をいつまでも触っていた。


「お父さん、いつまでもここに居りたいけれども、きりがないので、そろそろ帰ろうか」
「そうじゃのう、帰るとするか」
 こう言って帰ろうとした時だった。
「オッ!真空管がある」
 松三が映写室の隅に1個だけ真空管が転がっているのを見つけた。そしてそれを大事そうに拾い上げた。
「なんと、2A3じゃ!」
 松三は宝物でも拾ったように手のひらでさすって、付着していた汚れを落とした。
「しかも、マツダの2A3じゃ。当時の球じゃ。これはいいぞ」
「2A3とは何?真空管の名前かな」
 利明は不思議に思って聞いた。
「そうじゃ、直熱三極管でなあ、高級電蓄の電力増幅段に使われたものじゃ」
 松三は指で2A3と書くしぐさをしながら声をうわずらたせて言った。
「澄み切った、いい音がするぞ。これを高一ラジオの出力段に使えば天下一品の音になる」
 松三は大事に真空管をポケットに入れた。


 二人は、映画館を後にすると小さな土浦漁港に足を運んだ。
 午後の港はほとんど波もなく、並んだ船は静かに岸壁につながれていた。
 港の奥まったところに桟橋があった。近くの島々と港とを結ぶ船の発着場だった。その船着き場の桟橋はコンクリート製で、利明の子供心には、コンクリートなのに海の上に浮いているのが不思議に思えたものだったが、それがそのまま今も現役で使われていた。


 桟橋を陸地につないでいるところに切符売り場と待合い室があり、そのそばに梶原初年兵の家があった。当時と同じように今も駄菓子屋を営んでいた。〝初年兵〟という呼び名は軍隊に初めて来た兵隊ということだから、いつまでもこの名称で呼ぶのは適切ではなかったが、松三が軍曹の時に梶原が入隊してきて、同郷の出身ということで特に世話をしてやったので印象強く残っており、いつまでもこの呼び名で梶原のことを呼んでいたのだった。


 二人が店の中に入って名前を告げると事前に連絡をせずに行ったにもかかわらず、出て来た姉はそれほど驚いた様子もなく歓迎してくれた。
「妹から、ひょっとしたら近々、軍隊でお父さんの上官だった宇都宮さんが墓参りに行くかもしれない、という連絡がありましたから」
 利明は姉の姿を見て感心した。小学校ごろ、双子の姉妹の見分けがつかなかったが、今、五十年が経っても二人はウリ二つのように見える。利明と姉は、お互いに目が合うと二人とも小学生のように顔を赤らめて意味もなく笑った。


「とにかく、ゆっくり休んでからお寺に行ってください。一人暮らしで誰にも遠慮はいりませんので」
 松三と利明は言葉に甘えて上がり込んで、足をゆっくりと休めた。 

 

 しばらくしてから姉が一通の古ぼけた封筒を奥から持ってきて、松三の前に置いた。
「この封筒は父が亡くなる直前に、もし宇都宮軍曹に会う機会があれば、必ず渡してくれ。戦時中、森少尉殿から、宇都宮軍曹に渡してくれ、と預かったまま、何十年も忘れていたものだ。と言っていたものです」
 松三は封筒から中の用紙を取り出した。黄色になって今にも破れてバラバラになりそうな硫酸紙の用紙が一枚出てきた。


 一行目に〝現認証明書〟と書いてある。続いて、本籍地、所属部隊、徴集年、名前などが書いてあって、その後にけがをしたときの状況が述べられている。
「・・・敵砲弾ニ頭部ヲ受傷 疼痛ヲ覚ユルモ 攻撃精神旺盛ナル宇都宮軍曹ハ 攻撃中ナル為 意ヲ介スルコトナク 克己本分ヲ完シ 攻撃終了帰隊後受診 現認者陸軍少尉 森英明」と書いていた。


 松三の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。それが硫酸紙に落ちて、あわててハンカチを出して拭いた。
「梶原さん、本当にありがとう。懐かしくて、うれしくて涙が出る。これはワシの最高の宝ものじゃ。それに、これで、有美ちゃんの誤解が晴れるぞ、利明」
 松三は頭を振り、手を大きく動かして喜んだ。

 

〝誤解〟というのは、有美が小さい頃、松三をびっくりさせようとして、後ろから「ワッ」と大きな声を出して驚かせると、松三が大げさな身振りで驚いた振りをしてやったことからきていた。有美が面白がって何度もやっているうちに、松三を臆病な人間だと思い込んでしまった。松三は、自分が孫に臆病者だと思われていることを、有美が大人になってもまだ、気にしていたのだった。


「そんなに大切なものだったのですか。父もきっとあの世で喜んでいると思います。やれやれ、これで長年の宿題をやり終えたような気がします」
 姉も子供のように喜んでいた。
 松三と利明は、何度も礼を行ってから梶原の家を出た。そして、山手の中腹にある寺の、梶原家の墓をお参りした。墓場からは土浦湾全体が見下ろせた。


「お父さん、俺が小学校のころと海も半島も全く変わっていないね」
 利明が感慨深げに言った。
「お前のころどころか、ワシの小さいころからも全く変わってないぞ。自然は百年や二百年、いや千年二千年では全く変わらないのじゃ。人間もその自然の中のひとつじゃ。時がくれば自然に帰り、また時がくればこの世に出てくる。これの繰り返しじゃ。だから、生きている間は人としてりっぱに生活しなければならんのじゃ」
 松三は目を細めて海のかなたを見ていた。利明は松三の言っていることが理屈ではおかしいと思ったが、心情としてよく分かった。

 

            (4)

 

「有美ちゃんに見せて誤解を解いておかなければいけない」
 故郷から帰ってくると松三は大事にしまっていた現認証明書を取り出してきた。
 利明は松三に呼ばれて一階に降りて行く有美を呼びとめて、
「おじいちゃんが現認証明書というのを見せて自慢をするから、それを見て有美は大げさに驚いて、ほめてあげよ」

と耳うちをした。有美は変に理屈っぽい娘で、松三が勇敢な兵隊であったこと自慢すると、
「それじゃ、何人も敵兵を殺した殺人者なのね」

などと言いかねない性格だったから心配したのだった。


 少ししてから、一階から有美が大きな声を出して松三を褒め讃えている声が聞こえてきた。利明も下に降りてみると松三が頬を赤らめてニコニコしながらしゃべっていた。


 このころから松三に大きな変化が起こった。なによりも、何かにつけて非常に優しくなってしまった。また、会う人、誰彼かまわずに、親しく懐かしそうに笑いながら話をするようになった。さらに、今まで付き合いのあった人に対して、電話をして話をしたり、あるいは、出かけて行って会ったりして、毎日が楽しそうだった。


 2A3の真空管は高一ラジオの上に大事そうに箱に入れて置いていた。人に会うのが忙しくて、ラジオの真空管を取り換える時間が無いようだった。


 ある晩、利明と陽子が二階でテレビを見ていると、松三が上がって来た。
「そばを一杯食べさせてくれないか」
「エッ、本当に?おじいちゃん」
 陽子は驚いた。松三は自分の健康管理には大変しっかりとしていて、夕食後に間食をすることなどなかったからだ。
「ああ、急にそばが食べたくなってな」
「そうですか、カップ麺ならありますけどいいですか」
「それで十分じゃ」
 陽子が湯を注いで出すとうれしそうにして食べた。
「ああ、おいしかった。それじゃ、寝るからなぁ。ずいぶん、世話になったなあ。ありがとう。お休み」

と言って一階に降りていった。


 陽子も利明も松三の飄々とした雰囲気になんとなく、何かいつもと違うなとは思ったが、気にかかるほどでもなかったのでそのまま休んだ。


 翌朝、早起きの松三が利明の出勤時間になっても起きてこないので、一階に起こしに行くと、口を少し開けて笑っているような表情で冷たくなっていた。


 通夜から葬式まで慌ただしく過ぎていったが、松三の死に顔がいかにも満足そうだったので、利明たち家族も参列者も暗い雰囲気にはならずに、生前の松三の面白かったことなどを思い出話にして、笑い声さえ起こった。松三自身が望んだであろうさわやかな葬式ができた。

 

            (5)

 

 松三の葬式を終えてから半年ばかりが過ぎた。いよいよ利明の定年の日が近づいてきた。利明は嘱託で会社に三年間は残ることができたが、それを断っていた。彼は四十年間以上の、仕事の束縛から解き放たれて自由の身になることを望んでいた。

 しかし、環境の急激な変化に心身ともに対処できるかどうか不安にもなっていた。そんな時、
「あなた、嘱託で働いてくださいよ。孫のおもちゃをたくさん買ってやりたいでしょう」
と陽子と有美が利明の前に来て唐突に言った。

 

利明が理解できない顔をしていると、
「有美のおなかの中に赤ちゃんができたのよ。あれほどできなかった初孫がやっとできたのよ。本当に、赤ちゃんって授かりものね」

とうれしそうに言う。
「お父さん、孫孝行してよ。私も仕事辞めなければいけないし、経済的にちょっとしんどいかなあと思うの。お願い」
 有美が利明の前でおなかをさすりながら言う。
「そうか、まあ、いいだろう」
 利明はこう言って落胆したふりをして見せたが、内心、少し安心もした。


 やがて、有美はまるまる太った女の子を出産した。結婚してもなかなか子供に恵まれなかった有美夫婦にとって大きな喜びだったが、初孫を授かった利明と陽子の悦びもそれに劣らないものだった。まるで自分たち夫婦が初めての子供を産んだような若々しい気持ちにもなった。

 松三の一周忌法要のときだった。親戚縁者が集まって法要を終えた後、陽子が孫を抱いて松三の写真が掲げてある祭壇の前に行った。
「ハーイ、ひいおじいちゃん、ひい孫でちゅー」
 こう言って孫を写真の方に向けてあやした。祭壇にはさまざまなものがお供えしてあったが、生前に松三が最も気に入っていた2A3の真空管も置いていた。孫はそれを指さして盛んに取ってくれというようなしぐさをする。
「ハイハイ、これでちゅか。この真空管はおじいちゃんが一番好きだったものでちゅよ」

と陽子が言って孫に渡した。孫は2A3の真空管を両手でつかみ、つるつるとしたガラスの曲線の部分をほっぺたに当てるとキャキャッと言って足をバタつかせて喜んだ。

 

 利明がそばに寄って真空管を取り上げるような仕草をすると怒って大声で泣いた。
「ごめんごめん」

と言って止めると、今度は真空管を歯の無い口で噛もうとする。その表情を見ていた利明は、
「アッ、お父さんだ」

といって真剣に見つめ始めた。
「失礼なこと言わないでよね。八十五歳のおじいさんと赤ちゃんを一緒にしないでねえ・・・でも、ひいおじいちゃんによく似てきたわ、本当に・・・」
 こう言って陽子もしみじみと孫の顔に見入った。孫はケラケラと笑いながら今度は真空管の頭の部分をおいしそうにペロペロとなめた。

                                   (了)


 


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最終更新日 : 2013-02-19 16:22:45

この本の内容は以上です。


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