閉じる


月蒼華 01-10

■秘するが花 月蒼華01

 

シャルル・ドゥ・アルディは、その重たい扉をそっと静かに持ち上げた。

細く長い、神経質そうな指先で。

まるで、秘密の扉を開くように。

かの伝説の乙女は、決して開いてはいけないという禁忌の扉を、こんな気持ちで解放したのだろうか。

ほんの少しの・・・・罪悪感と躊躇いと・・・どうにも抑えることのできない衝動を総称して何というのだろう。

彼は決して間違えないし、知らないこともほとんどないほどに膨大な知識を蓄積させていたのに。

適切は表現を見つけることができなかった。

息を潜めて・・・彼はそっと行動を起こす。

 

彼は老獪さも持ち合わせていることをここで自らに証明した。

 

・・・隣の部屋では、彼の愛するファム・ファタルの健やかな息差しが聞こえる。

二度と、その手を離さないと決めた相手が彼の傍らで眠っている。

一度は、彼女の手を離した。

 

愛していたから。

愛しているから。

愛し続けていたいから。

 

だから、彼女が愛する男の元に返した。

 

彼女と合歓を交わす夜が来ると期待した夜もあった。

彼女の幻を追いかけて・・・期待してそれが叶わぬ夜に身悶えした時もあった。

 

茶色い髪の、茶色の瞳の人は、大人になって・・・そして彼の目の前に現れた。

偶然でも必然でもなく、彼と彼女は邂逅によってまた惹き寄せられた。

生涯、ただ一人だけと決めた相手が・・・自分の傍らで微笑む日が来るなんて、思わなかった。

一生分の夢を見たから。

一生分の愛を捧げたから。

シャルルは、それで自分の夢も人生も終わったと思った。

 

また誰かを愛でた。

また彼女に対する気持ちのように、誰かを愛することができるのかもしれないと思っていた。

 

けれども。

・・・・けれども。

 

それでも乾きや癒されなかった。

 

どうして、彼女を愛してしてしまったのか、という後悔はない。

彼女を愛したことを後悔していない。これからも。これまでも。

唯一絶対の人と定めることができるのは、福禄とも言える。

 

彼の父は、唯一と定めた人を失って・・・そして、それからずっと彷徨っていた。

死ぬまで。

愛し愛された人も居て、子まで成した人もいたのに。

彼の父は、それでも満たされなかった。

再婚を繰り返し、かりそめの愛を繰り返した。

シャルルには同じ血が流れている。同じ性質を受け継いでいる。

けれども、多くの愛を享受するより、たった一人しか定められない、というやっかいな性分を抱えてしまっている。

 

物憂げな蒼灰色の瞳で、寝台に横たわる小柄な人を見つめた。

静かに・・・安息に沈む彼女を見遣る。

この僅かな距離でさえ、愛おしい。切ない。・・・・片時も離れていたくない。

 

本当なら・・・彼女が目覚めるまで、肌を合わせて彼女の呼吸音を数えていたいと思う。

 

けれども、彼はそのまま・・・そのラップトップの扉を開けることにした。

彼女と再会することとなった、このノートパソコンは、マリナへあの男が送ったものであり・・・そして、今、電源を入れられることもなく静かにその役目を終えようとしている。





■秘するが花 月蒼華 02

 

彼は乱れた白金の髪をかき上げた。

少し長目の髪が左右にこぼれて、音もなく地球の力に従って落ちた。

この小さな空間で、彼女の吐息が聞こえるほどの距離で・・・・あの男の面影を否応なく思い出させる魔法の破籠について、あれこれ詳細に調べる時間がない。

しかし、「今」しか機会がないことも、彼はよく承知していた。

 

彼は彼女の部屋に入り込むことはしない。

 

・・・・戻らない彼女を待ったあの時以来のことだった。

 

その場所で繰り返された彼女とあの男との会話や会話のない所作や・・・それ以上のことを想像するだけでも苦しくなるから。

あの男を憎めるのであれば、そうしたかった。

彼女を幸せにしてやってくれと願って手を離したのに。

それなのに、彼女を手放したから。

なぜ、何度も彼は彼女を手放すのだろうか。

また戻ってくると慢心しているからか。

それなら、もう二度と、彼に戻すつもりはなかった。

互いに、一度は彼女を解放している。

 

しかし、結局は・・・彼女を解放することができなかった。

完全なる自由にすることもできなかった。

 

解放してやるとか、解放されるとか。

そんなことでは彼女は支配できなかった。

彼女の心も躰も、彼女自身だけのものだと言われた。

その時に、彼はその言葉に嘲笑し、身も心も彼に捧げたくなるだろうと彼女に告げた。

けれども。

彼女は・・・彼のファム・ファタルは、シャルルの予想に反して、彼の腕の中からすり抜けて行ってしまった。

あの男を愛しているのだ、と声高に宣言されて・・・シャルルは彼女をあの男に託すつもりはなかった。

彼女がその言葉を言わなかったら、彼女をどこまでも連れて行くつもりだったのに。





■秘するが花 月蒼華 03

 

とんとん、と細く長い指先で、ラップトップの表面を叩くと、乾いた音が返ってくる。

天板が旧式で厚いことを示すような音だった。

使い古した画材道具と一緒にそれは立てかけられてあった。

今までそれがあった場所には・・・・今はとても薄い新型のラップトップが置いてあった。それはシャルルが彼女のために贈ったもので・・・そしてそれが契機となり、彼らは再び邂逅することになった。

型番の記録も覚えていたので、彼女が大変に古いものを今でも使用していたことに少しばかり驚いていた。・・・そして少し胸が疼いた。

 

彼女は捨てられなかったのだ。

彼女は変えられなかったのだ。

 

無精で知識がないから、と本人は言っていたが、いくらでも廉価のものを手に入れることが出来るはずであったのに、彼女はそうしなかった。

画材道具やスケッチブックなど、仕事でどうしても必要なものがあれば、彼女は金銭について拘らなかった。

だから安定収入がなかったあの若い頃、常に彼女は金策に苦労していた。

今では仕事の上では欠かせないツールのひとつになっているはずなのに、彼女は・・・それをそのまま使用していた。

あの男との思い出を振り切ることが出来ない証だと思うシャルルは、僅かに唇を歪めて、嘲笑した。

それは自分自身に対するものであった。

 

彼は間違えない。たとえ太陽が西から昇ったとしても。

それなのに・・・間違えない彼は、悔いていた。

あの時の選択は、間違っていなかった。

今があるのは、あの時の延長が「今」だからだ。

彼も他の者と恋愛の真似事を愉しみ、一時期は本当にマリナ以外の誰かを愛することが出来ると考えていた。

しかし、恋を重ねるにつれて、マリナへの愛が深まっていった。

一度壊れてしまった愛は、二度とまったく同じには戻らないことも知っていたのに。

だから、この愛があの時の続きなのではなく、あの時の愛がさらに形を変えた亜種になったと彼は考えていた。

・・・そこで彼は嗤う。捨てられないのは・・・自分の方だということに気がついたからだ。





■秘するが花 月蒼華 04

 

青灰色の物憂げな瞳が、奥で静かに睡郷の住人となっている愛おしい人の様子を映す。

・・・彼女とこうして夜を過ごすことになる日がやって来るとは思ってもいなかった。

自分の呼吸は、死までの退屈しのぎだと思っていた。

けれども、彼女がすべてを変えてしまった。

彼は再び、虚無と透明と孤独という衣で隙なく身を固めてしまっていたというのに。

朝の訪れが待ち遠しい。

彼女からの連絡を焦がれる。

眠っている間に、彼女がシャルルに連絡を取っていたら・・・迅速な対応が出来ないから眠りたくないとさえ思った。

 

独りよがりの愛だと十分に理解している。

それでも・・・それでも。

恋はしたが愛をすることはもうできないのだと思った。

 

彼女と一日でも良い。一緒に生きることが出来たのなら、死んでも良いと思っていた。

誇りのためなら死ねる。

けれども。

マリナは彼を違う色に染めていく。

毎日、毎日。

彼女は違う色を彼に教えていく。

この世にあるすべての言葉を使っても、表現しきれないくらいの様々な千紫万紅(さまざまな色彩のこと)をシャルルに伝えていく。

誰も、できないことだった。誰も彼に教えなかった。

彼は間違わなかったが、彼は最初から何もかもを知っているわけではない。

しかし、誰もそのことに気がつかない。

知識は覚えられる。

けれども、知識や智慧だけでは解決できない彼の中の胸の疼きや痛みや苦しさや悶え・・・彼女はそれらも含めて彼に生きる喜びを教えた。

彼女が生きていることについて喜んでいるから。

 

しかし。一緒に生きることが出来るという状況は、彼を死にたくないと思わせた。

シャルルを臆病にさせる。だから、今、彼は戸惑っていた。

あの男がマリナに贈ったラップトップの中身について、知るべきかどうか、少しばかり迷っていた。彼はフランスの華と呼ばれ、たとえ西から太陽が昇っても間違えないというのに。





■秘するが花 月蒼華 05

 

日本式に、床に直接座位する形式の空間だった。彼女の空間の切り分けとはとても曖昧だった。シャルルのように、寝室や繋ぎの間や、応接室など目的に応じていくつもの部屋を持ったりすることはない。

けれども・・・けれども、彼女の中で聖域があるようだった。

秩序だって整頓されているかどうかは別の話であるが。

それが、この、仕事道具を置くスペースだった。

脇には、いつも持ち歩いている大きな鞄が置いてあり、使い込んだ品であるために、端がすでに固さを失い、めくれていた。

そこから、同じように移動の度に持ち歩いているために角がすり減ったスケッチブックの端が見えていた。

仕事をするスペースには、それだけしか置かない。

これはまったく彼にとっては驚くべき発見だった。

 

・・・昔、彼女に黙ってここに忍び込んだことがある。

やむを得ない事情でそうしたまでだが。

その時にも同じようなことを感じたことを思い出していた。

雑然としており、整理とはまったく無縁の様子に見えていたが・・・彼女は本当に大事にしているものについては、持ち歩くことにしているらしい、ということがわかったのだ。

 

だから、本当は・・・旧式の重量感があるタイプのラップトップでなかったのなら。

最新の通信事情に対応したものであったのなら。

彼女は間違いなく、スケッチブックと一緒にそれを持ち歩いていただろう、と思った。

そしてあの黒いバインダーのように。

彼女の知人の名前と連絡先が列挙された、彼女の誇りそのものであるような、あの宝物と同じように扱ったのだろう。

 

・・・それなら、今は、何を後生大事に抱えて持ち歩いているのだろうか。

彼は彼女の秘密の詰まった鞄の中身について、詮索することをやめた。

そこまでして彼女を知りたいと思わない。

それは知るのではない。

調べるに過ぎないから。

それに、彼女は教えてくれるから。

いずれ・・・いつか彼女の口から聞ける日が来るのだろうか。

「私の宝物は貴方よ、シャルル・ドゥ・アルディ」という言葉を。

 





■秘するが花 月蒼華 06

 

彼女が一度だけ寝返りを打ったので、衣擦れの音がしてシャルルは気配を消した。

そこで今一度自嘲気味に微笑む。

辛辣な笑みだった。

彼はシャルル・ドゥ・アルディなのに。

彼女の呼吸や動作に自分の行動を変更させる。

誰も自分を変えることは出来ないと思ったのに。彼女は彼を変え続ける。

なぜ・・・なぜ、彼女は特別なのだろうか。これまで生きてきた中で出会った人々と違う存在のマリナ・イケダをどうしても・・・忘れることが出来なかった。

だから彼は彼女と似た人を探した。あるときは容姿であったし、あるときはその心根の類似を恋の対象条件とした。

それなのに、どうしても・・・マリナへの愛が彼を魂のより深い部分に浸食していくだけで、決して、叶わなかった恋の痛みや疼きを洗い流すことはなかった。

 

それが普段のシャルル・ドゥ・アルディであった。

彼女と過ごした期間は短かった。

彼女の知っているシャルル・ドゥ・アルディは、それまでのシャルル・ドゥ・アルディとも、それからのシャルル・ドゥ・アルディとも違っている。

 

彼は・・・屈託なく華のような微笑みを浮かべることはなくなった。

彼も大人になり、そして美しい乙女のような顔立ちは彼の端整な顔立ちから消え失せてしまっていた。

今は、雄偉な容貌で彼の周囲の者を魅了する。

しかし、彼はいつも、自分の言葉を思い出す。

 

「誰もが近付きたいと思う時に近づかず、誰も見向きもしない時に傍に居たいと言った君は不思議な人だね」

 

だからこそ。

彼は。

彼女をこよなく愛した。全身全霊で、彼女を愛した。死ぬほど・・・愛した。

過去形にすることすらできないほどに。

しかし、今の愛は・・あの時の続きなのかどうか、と思考に耽る時があった。

 





■秘するが花 月蒼華 07

 

しばらくの間、彼女の気配に耳を澄ます。

そして彼女は深く眠りに陥っており、朝が来るまで目覚めないだろうと確信したシャルルは、薄い唇から溜息を漏らして、また、視線を戻す。

・・・間もなく、朝が訪れようとしていた。

明け方の瞬間は、どこでも一緒だった。

夜と朝の境界はとても曖昧だ。

彼女のこの空間のように。

一瞬・・・・ほんの僅かな瞬間に朝未(あさまだき)へと空気が変化する刻がある。

彼はそれを良く知っていた。眠れない夜を幾つも経験したから。

 

眠れない夜は、青春の輝ける時代と彼が呼んだあの頃をよく思い返した。

逡巡していたわけではない。しかし完全に決別できなかった。

 

彼女と過ごしたいと思い、そうできるのであれば何もかもを彼女に捧げようとさえ思って

眠れない夜を過ごした。

幾夜も、幾年も。

でも。

今、彼女と居るのに。

彼は、眠れない夜を過ごす。

眠ってしまったら、彼の全身で受け止め彼女の全身に刻んだ、互いの温もりや吐息や香りが・・・自分の創りだした夢や幻になってしまうかもしれないと思ったからだ。

彼は静かにそれを開く。

消耗し、すでに故障してしまったそれに、電源を入れた。

静音設計が徹底されていないハードディスクが、中で空虚な回転を繰り返し、そしてやがて画面が一瞬明るくなったが、すぐに暗転してしまった。

不規則な回転音だけがカラカラと音を立てていた。

・・・シャルルは美しい顔を歪めた。

すでに使用されることのないはずのものなのに・・・彼女はまだこれを捨てることが出来ず、そして電源を補充し続けていることを知ったから。

バッテリー容量は少ないはずだから、電源を常に補充しておかないと継続使用することはできなさそうだった。

しかし、どういうわけか・・・彼女はそれでも頻繁に充電しているらしい。

充電器の形をしたランプは、充電警告色が点滅していたが、それでも機能している。

それが彼を虚無の闇に引き戻していく。





■秘するが花 月蒼華 08

 

彼女の技術ではもう復元することはできないと、彼女自身がわかっているはずであるのに、マリナはそれでも、それを処分することができないでいたようだった。

個人情報が満載であるだろうから、それを廃棄するときには何らかの処置を施さなければならないのだ、という考えが働いていたのかもしれない。

でも、シャルルはそれが理由だとは考えていなかった。

暗い室内で、暗転を繰り返す画面は、やがて、真っ暗になり何も映し出すことはなかった。どのキーを押してもコマンドを打っても何も変化はなかった。

・・・・しかしシャルルは物憂げな青灰色の瞳で、それをじっと静かに見詰め続け居た。

長い時間使用していたので、キーボードのプリント印字が少し剥げ堕ちていた。

日本語配列のそれらを、彼は眺めていた。

先ほどまで繋いで絡めていた彼女の小さな指の温度と感触を思い出す。

その温度を受けて、短く切りそろえられた爪を受けて、そのディスプレイは一体どんな文字を打っていたのだろうか。

彼から送られた言葉を受け、彼女は彼のために愛の文字を送ったのだろうか。

シャルルの知らないマリナのそれまでがそこにあった。

長い時間を隔たって過ごしていたことを思い知る。

シャルルが用意した品よりずっと性能の落ちるそれらを、まだ・・・彼女は動くかもしれないと思って、取り置いていると知ると、彼の胸に何か重いものが音を立てて落ち抜けていくような感覚を覚えた。

何も表示しない画面を、彼はしばらくの間見つめていた。

冷却ファンがやや大きな音を立てていたが、彼女は目覚める気配はなかった。

 

・・・・どうして自分はこうして、彼女を試してばかりいるのだろうか、と思う。

彼女の愛を確認しないと安心できないことが、どれほど愚かしいのかということも知っているはずなのに。

 

愛している

ただ、それだけを伝えて繋げていくだけなのに、それがとても苦しい。

一度失ったものを取り戻すには、大変に強靱な精神力がなければならないと知った。

彼の身分や地位を奪還するために、彼は全力を尽くし、そして勝った。

しかし、何と戦ったのだろう、と彼は今でも時折疑問に思うことがあった。

彼の分身のような人間と優劣を競ったとされているが、本当は・・・そうではないのかもしれないと思った。

ふと、思うのだ。彼は、自分と戦ったのかもしれない、と。





■秘するが花 月蒼華 09

 

だから一度失った恋を抱き締めて、夢の続きを始めることはできなかった。

彼女は恋を知って恋を失って、そして秘めたる想いを胸に抱えたまま大人になった。

そしてシャルルは彼女と出会って、ゼロからでも一からでもなく、0.3から始めよう、と言った時に。

彼女は曖昧な微笑みを浮かべていた。

意味がわからなかったのだろう。

彼はそれを思い出して、くすりと笑った。

 

・・・マリナ。10の0.3乗はおよそ2になるんだよ。

初歩の数学であったが、彼女はただ微笑んだだけだった。

 

しかし、シャルルの言いたいことはわかったらしい。

新しく始めるでもなく、あの時からの続きでもない・・・そんな関係を彼女に受け入れてくれ、とシャルルが言ったので、マリナはそれを肯定したのだ。

 

3人でひとつの恋を分けたわけではない。

そしてマリナのこれまでを切り分け、切除することはできないのだと思った。

彼のこれまでを否定することができないように。

 

彼女は、長い年月を経て、憂いを知った。屈託のない陽気は笑顔が好きだった。

しかし、彼女の憂いを帯びた微笑みや、柔らかく笑う仕草が・・・愛おしい。

苦しいほどに彼女を躊躇いもなく愛していると囁き続け、そして壊してしまいそうになるくらいに抱き締めてなお・・・彼は満たされない。

あれほど、陽光のような笑顔を見て満たされたと言うのに。

あれほど、彼女の声を聞いて安らいだと言うのに。

自分は・・・彼女を得て、欲深く罪深く・・・彼女を深く、さらに増してマリナを愛してしまった。

 

抑制がきかなくなる。

彼のそんな狂気にも似た愛念に、マリナが本能的に怯えているのもわかっていた。

あの時の方が自分を律せていたような気にさえなる。

 

自分は、一度失ったものを手に入れたら、とたんに興味をなくして執着しなくなると分析していたのに。マリナを得たら、彼は恬澹としていることができなくなった。





■秘するが花 月蒼華10

 

・・・・しばらく暗転したままのディスプレイを眺めていた。

 

間もなく、夜が明ける。

完全に遮光されているというわけではない、気持ちばかりのカーテンから日差しが漏れて、眠っている彼の運命の人の目覚めを促すのは明らかだった。

シャルルは溜め息をひとつ、ついた。

この回線を通して連絡がなければ、彼は彼女との邂逅を手に入れることが出来なかった。

そして、今夜のような静かな夜明けを迎えることもなかった。

けれども。

このまま・・・幸せという波に溺れて委ねて、彼は心から幸せを噛みしめることはできないのだと思った。

これが運命の再会だとは思わなかったから。

偶然という言葉を使って運命の人の今を定義してしまうことはできなかった。

必然があって、彼と彼女はもう一度出会った。

この広い空の下で、理由があって、彼と彼女は出会ったのだ。

 

ここには専用の設備がないので、この壊れたマシンを復旧させることは難しそうであった。それに・・・たとえこれを戻してやったとしても、もう一度再利用できるかというと、それは現実的ではなかった。

彼女には新しい機器がシャルルによって送られており、そして今はそれを使用してシャルルと連絡を取り合っているマリナに、もう一度その旧式の機器を使うような特別な用途はないはずだった。

何より、修復がうまくいったとしても、そのことについて彼女が浮かべる表情を想像することは苦しかった。

彼女の笑顔を見たくて、直してやりたいと思う。

けれども、彼女の笑顔を見て、自分は苦しくなるだろうな、と思う。

嫉妬という言葉だけでは処理できない様々な思いが交錯して、きっと・・また、マリナを傷つけてしまうのだろうと思った。

 

シャルルは大きく息を吸う。夜明けの気配が近づいて来たことを感じたからだ。

薄い窓硝子越しに聞こえる・・・朝の人の気配や獣鳥の蠢く様子が、空気の波に乗って彼の肌を刺激した。

効率的に回転していない冷却ファンが風を不均一に創り出していた。

彼は、目頭を、細く長い指で軽く押さえた。・・・・虚しい穿鑿は彼を貶めるだけにしかならないのに。彼は誇り高い人物であるのに。

彼女の前では・・・それらすらまったく捨て去ってしまって良いと思うほどに、彼女の何もかもを奪い去ってしまいたいと思う。

彼女の過去さえも。

彼女の呼吸さえも。

何もかも、彼の肌から離れることは許さない、と彼女に伝えることはしない。

彼は、もう、彼女を失いたくないから。

自分から手放したのに。もう、失いたくないから。

 


月蒼華 11-20

■秘するが花 月蒼華11

 

なぜ、彼女にだけそのように固執するのか自分自身について、分析は終わっていると考えて居た。

しかし、分析するのを忘れていた。

彼はシャルル・ドゥ・アルディなのに。

自分自身に問うことを課すことをやめていた。

・・・・なぜ、今の彼女を愛しているのかということを。

長い年月が過ぎて、大人になった彼女に再会したときに、彼は昔の恋を継続するのではなく、その恋を内包したままでありながら、彼女の過ぎた恋も抱えて一緒に生きよう、と言った。

そして彼女も一緒に居たい、と言った。

いや、違う。彼が離れられないのだ。彼女を手放す理由がなくなった。あの太陽な男と幸せになれるのなら、と思ったが、それは永遠ではなかった。

確かにマリナは幸せだったと思う。しかし、こうして彼の傍に居る彼女を不幸にするつもりはない。

 

もっと彼女の傍に居たいのだ。シャルルが。

もっと彼女の声を聞きたいのだ。シャルルが。

 

だから、彼は愛を囁き続ける。彼女を知れば知るほど・・・更に深く彼女を愛するようになった。あの時、もうこれ以上誰かを愛することはないと思っていたのに。

夢中で恋をした。

しかし、今の彼女を知れば知るほど・・・・苦しくなるのだ。

 

愛が増すから。

 

 

愛は増えるから。

彼女は良くそう言う。

自分の中に入り込んで通り過ぎて行った愛を否定しない彼女らしい価値観であった。

唯一と決めてしまっていた彼と違うからこそ、シャルルは彼女を求めるのだとわかっていた。しかし、幾つもの数多くの出会いの中で、彼は・・・マリナだけだった。

失いたくない、と思うのは。

この恋を失いたくなかった。だから手放した。

あの時に、あのまま、シャルルと一緒に連れ去っていたら、間違いなく破綻が訪れていた。

壊れてしまった愛は修復しても完全に元には戻らない。

シャルルがかつて、トルソを創り上げた過程を一緒に見ている彼女だからこそ・・・あり得るのだ。

修復を越えて違う形になった愛を認めるようになるには、彼らは若すぎた。

知らず知らずのうちに、彼は計算していたのかもしれない。

このまま連れて行けば、彼女は彼を好きだと言った言葉を否定するようになることがなにより脅威であったことを、彼は認めなかったということに気がついたのは・・・それから随分経過してからだった。

 

愛は魂の試練だと言ったことがあった。

しかし・・・誰に試されているのだろうか、と思った。

神にだろうか。

いや、違う。

自分自身に試されるのが、愛なのだと思った。

それとも。愛は魂の試練であるが、愛が、彼を試したのだろうか。

その愛を違う形にすることができるのか、と。

 

朝が近くなってきた部屋の静けさの中で、青灰色の瞳で、彼は安らかな眠りを貪る彼の恋人を見た。

 

愛しくて、愛おしくて、彼女を時々壊してしまいそうになる。

彼の思い通りにならない彼女の困った顔や泣きそうな顔を見たくなる残酷さを捨てることができない。

 

たとえ、彼女が、かつての彼女にシャルルが恋をしたまま、時を止めているのだと信じて疑わなかったとしても。

 

愛とは、想いが通じ合うことだと思っていた。

 

愛おしいと思ったのは、彼女だけではない。

幾度か、恋をした。愛に似た何かを感じたこともあった。

でも「死までの退屈しのぎ」と言っていた日々を過ごしていた彼を虚しくさせるだけだった。

それもシャルルだ、とマリナが微笑む顔を見て、彼は胸が疼く。そして次に酷く痛む。

互いに時間をなかったことにはできなかった。時間ではないから、と彼女が言うから。

だから・・・だから。





■秘するが花 月蒼華12

 

しばらく、ディスプレイを眺めていたが、やがて彼は電源を強制的に落とした。

ここで再現はできない。ハードディスクを持ち帰って、そこで再現するしかなかった。

しかし彼女はここ以外の場所に持っていくことを許可しないだろう。

内容物の情報が失われることには臆さないのに、あの男から送られたその箱が彼女の中でまだ大切な宝物である限り。

シャルルは溜め息をついた。

愛を得れば、その先にも愛の苦しみがあるということを彼は知っていたのに。

それなのに・・・まだ苦しい。

 

幸せにする。一生かかっても。

もう離しはしない。

ひとりで泣かせたりしない。

 

彼は幸せだから。

彼が幸せだから。

 

しばらく長押ししていた電源のスイッチが点滅して、やがてすぐに電源が落ちた。

内部でハードディスクがまだ回転している音がしたが、それもやがて静かになった。

 

彼女と離れていればいるほど、胸が押しつぶされたようになり、あの頃には味わうことのなかった痛みや疼きや渇きが彼を包む。

 

甘さは苦さを知ってより甘美であることを知る。

苦さは甘さを知ってより物狂おしいのであることを知る。

 

彼女の肌のあたたかさを知ったから。

彼女の髪の質感を記憶してしまったから。

彼女の声を聞いてしまったから。

 

彼はもっと傍に居たいと思うようになった。誰かを傍に置きたいと思うより、強烈な思いだった。

かつて、彼の母を失った時のように。

その喪失感に似た物狂おしさがシャルルを苛む。

彼はまた、溜め息をついた。

手に入ったものはかけがえのないものであり、それを決して解放してやるつもりはない。

数多あった出会いの中で、彼女だけが特別だった。

なぜなのだろうか。

もっと彼女を知りたくなる。

もっと彼女が欲しくなる。

もっと彼女に愛を囁きたくなる。

いつまでも・・・いつまでも。

 

この仄暗い想いを抱えながら、彼はそれでも彼女をその闇に触れさせることに躊躇いを感じていた。

狂気に近いシャルルの想いが、彼女を滅してしまいそうになるときがあった。

それを知ってなお、彼女はシャルルの傍に居る。

こうして無邪気な寝顔を彼に見せる。

 

どうしてなのだろう。

どうして彼女なのだろう。

結論も理由も導き出したはずなのに、どうして彼女は・・・それでも屈託もなく笑うのだろう。

「愛の理由を探す時は、愛に躊躇っている時よ」

彼女はそう言う。

しかし彼女をもっと、更に、ますます愛して際限のない広がった世界に身を投じるほど、シャルルは若くなかった。いろいろなことを知った。

失ってからでは遅い。

だから。

彼は、彼女を愛したことを後悔していないと言ったことがあった。

しかし、彼女を愛したことを後悔するほど深く愛していることは伝えきれなかった。

 

一呼吸するごとに、彼女が愛おしくなる。

瞬きを一度するだけで、彼女の持つ色が違って見える。

無機で単調で色のない世界が、彼女を中心にして、鮮やかな別世界になる。

失いたくないから。失ってからでは遅いから。

もっと大切にしていれば良かったと思いたくないから。

だから、彼女を全身全霊で愛そうと誓った。

もう離さない、とはそういうことなのだ。

 





■秘するが花 月蒼華13

 

朝が近付いていた。

いや、すぐそこに朝は居た。

 

射し込む白い光に、シャルルは目を細めた。

薄いカーテンが窓に縋っている。まったく機能していない遮光性に、シャルルは眉を顰めたが、これが彼女の日常なのだと知って、軽く吐息をついた。

厚く光を遮った闇が広がる静寂の中で、深く就眠するシャルルの日常と違い、彼女は朝を肌で感じ、陽光を目覚ましにして瞳を開く。

 

シャルルが、なかなか眠れないのは、彼女の部屋で過ごしているからか、もっと違う憂いのためなのか。

彼女の部屋の匂いがした。画材道具と、マリナの香りがする。

 

慣れ親しんだ家での休息で、彼女は深く眠りに落ちていた。

健康で順応性のある気質の人であったけれども、やはり、安心した時には意識が落ちやすいのだと知って、微笑みを浮かべる。

彼女が自分の腕の中で、眠る様を見るのが、彼は何より幸せだったから。

それでも・・・少し寂しい。

彼の知らない彼女は果てしないほど広がりを見せていた。

彼女を知れば知るほど、もっと知りたくなる。

彼女の声を聞くと、もっと声が聞きたくなる。

 

献ぐと言うには、彼の愛は・・・・彼女を困惑させるだけのなにものでもなかった。

初めて・・・・愛をしていると感じた時の衝撃を、今でも捨て去ることができない。

 

夢中になって愛した。

全身全霊で愛した。

 

自分一人のものにしてしまいたいと思うことができないくらいに。

好きすぎて、独り占めできなかったと言った。

けれども。

そうではない。

本当は、そうではない。

・・・・愛しすぎて。

好きになりすぎて。

際限なくなってしまったのだ。

占有したいという欲求を越えて、彼女の生命そのものが眩しくて・・・傍に居るだけで、彼は自分が滅されてしまいそうに成る程強い晄を感じ、そして目を瞑ってしまったのだ。

 

だから、あのまま、あの時に連れ去ったのなら、お互いに傷つけてしまっていただろう。

だから、置いて行った。

だから、去った。

 

彼はそうしなければ、彼であることを保てなくなっていたから。

 

もう、眠りについてはいけないと彼女は言った。

どんなに苦しいことでも向き合わなければ生きているとは言えない、と言った。

精一杯の彼女の誠意が彼を苦しめた。

好きであるべきだという強迫した思いが、彼女の目を曇らせていた。

いつも真実としか向き合わないマリナが、真実から目を反らした。

それが苦しかった。

 

・・・・あの男だけに目を向けるのはやめにする、と彼女はシャルルに言った。

 

けれども。同じ言葉を、シャルルは言うことができなかった。

マリナ以外の者にファム・ファタルという称号を与えることができなかった。

 

彼は、シャルル・ドゥ・アルディなのに。彼はフランスの華と呼ばれて、できないことは何もないと思っていたし、これまでもこれからもそうであると信じて疑わなかったのに。

 

それなのに、マリナ・イケダのことに関しては、彼はいつも不確定要素について考慮しなければならならなかった。

それが、彼女を置いて行こうと決めた理由のひとつであることは否めない。

背中を向けて、彼女を彼に託した。そうしなければ、彼の愛は破綻していたから。

せめて、自分の抱えている愛を失いたくなかったから。

だから、マリナを置いて行った。それを彼女は今でも哀しんでいるということも、知っていた。しかし彼はごめんよ、と口に出すことはしない。決してしない。

あの時間がなければ、今、こうして、シャルル・ドゥ・アルディは彼が定めた運命の人と一緒に時間を過ごして朝を迎えることすら、あり得ない未来であったのだから。





■秘するが花 月蒼華14

 

外が白くなっていく。こうして、何度、眠れない明け方を迎えたことだろう。

彼女が傍らに居ても、また眠れない夜が訪れるのだろうか。生涯、平穏になれないのだろうか。どんなことがあっても、もう決して離れないと誓った。

彼女の倖せを願って、自分が去ることはしない。

一緒に連れて行く。

どこにでも、どこまでも。それで彼女が去るのなら、それは受け入れる。

けれども、もう、自分から突き放さない。そうする必要がない限り。

そして彼は彼女の温もりを手に入れた代わりに、新しい痛みを受け入れる。

彼は顔を上げて、窓の外を見た。光が漏れているから、このまま眠ることもできない。

・・・微妙な光線の加減を感じながら、それを無視して眠ることは難しそうだった。

 

彼はちらりと奥で眠るマリナの様子を見た。

こんな風に・・・夜を一緒に過ごしてなお、彼の夜は彼女のそれより長い。

彼は目の前のラップトップを静かに閉じた。

しかし旧式であるので、かちりという割と大きな音がしたが、マリナは起きる気配はなかった。

かなり深いところまで潜っているようだ。

細く長い指先で、その扉を閉じた。

ハードディスクを再現して、どうなるのだろう。

彼と彼女の遣りとりを垣間見て、そして何が得られるというのだろう。

 

・・・女々しいな

 

普段、そんなことを決して思わないシャルル・ドゥ・アルディがそんなことを呟きそうになって唇を閉じた。決してそんなことをしない。彼は誇り高いから。

それなのに・・・・それなのに、彼女のことになるとこれほどまでに彼は自我を抑えられなくなるほどの熱情を思い出すことによって、生きていると実感する。

まだ生きていたいと思ってしまうほどに、彼女を愛しているから。

誇りのためなら命を捨てられる。

けれども、マリナのためなら、持っているものすべてを捨てられる。

でも、命はあげられない。もっと、一緒に生きたいと思うから。もっと一緒に時間を過ごしたいと思うから。

・・・それでも、おそらく、彼女のためなら、命さえ惜しくないのだろう。昔と同じように、今も。前者は執着がないから捨てられる。けれども、後者は執着しているから捨てるのだ。マリナが微笑むのであれば、何もかもを破滅に導いても良いと思う。それで彼女が救われるのであれば。

そんな狂気にも似た気持ちを持ち続けていることに、彼女が怯えないかいつも気配を観察している彼は、もう、どこかすでに狂っているのかもしれないと時折思うことがあった。

・・・・狂者は狂っていることに気が付かない。

 

よそう。

 

彼は瞳を閉じた。

忘我を畏れているのは、彼の方なのだから。

閉じたラップトップの上を、眼を瞑りながら軽く撫でた。

彼女の想い出が入っている筺は、もう開くことはない。

・・・・彼はごめんよ、と言った。

彼の大事な友が愛した人を、愛してしまった。

そしてまた巡り逢った。

どうしようもなく惹かれて・・・・また、惹かれて恋に堕ちた。

 

そっと、溜息をつく。

こんな風に気が遠くなるほど誰かを求める自分が・・・恐ろしい。

いつか、自分の母のように戻れなくなりそうだった。

その時。

彼の指先がぴくり、と動いた。

 

・・・眼を瞑り、ゆっくりとラップトップに注意深く触れていなければならないほどに僅かな異変に、彼が気が付いたのだ。

 

上品で物憂げな青灰色の瞳が光った。あまい痺れと疲労が浸透した脳細胞に、何か・・・電流が走ったように、彼の神経は一気に覚醒していく。

 

僅かな・・・本当に僅かなそれに、気が付くのはおそらくシャルル・ドゥ・アルディだけであっただろう。

マリナは・・・持ち主は気が付かなかった。

そうしてラップトップを閉じたままにしておいたことなどなかっただろうから。





■秘するが花 月蒼華15

 

彼はそれに気が付いた瞬間から、そこにある秘密に、手を伸ばそうとするまでに、僅かに時間をかけて考えた。彼はフランスの華と呼ばれて、誰よりも速く正確に判断することができる。かつ、次の手を考えることも忘れないという複合的思考の持ち主だった。

それなのに。それなのに、迷った。

 

・・・・マリナの持っていた古い機種のラップトップは、単なる筺と化していた。

しかし、その底面には、何かが・・・・何かがあった。

僅かな、本当に僅かな傾きがあった。乗せている背の低い卓が傾いているのではない。

そうではなくて・・・その筺の底が僅かに傾いているのだ。

表面を撫でて、閉じた状態で観察しても、普通の人間は気が付かなかっただろう。

実際、マリナはそれに気が付かなかった。今まで。

気が付いていたのなら・・・シャルルとここにこうして居ないだろう。

 

シャルルだから気が付いたのか・・・それとも、こんな風にして、誰かがマリナの居ないところで、このマシンについて調べる機会があることを想定しているかのような歪みに、シャルルは何かを感じた。

感じる。

根拠のないことは決して信じないのに。

それなのに、彼はじっとその閉じられた筺を見つめていた。

長い時間が経過したようにも思えたし、それは瞬きひとつぶんより短い刹那の時間であったようにも思える。

しかし、彼は思い切って、その筺の両端を持ち上げて、裏返しにした。

先ほどはなんて旧式なのだろうという程度しか感じていなかったそれは、とても重く・・そして秘密めいていた。まだ熱を帯びているからだろうか。

それとも、彼がこれから知ろうとしていることの重さを含み始めているからなのだろうか。

だから、こんなに重いのだろうか。

彼はまず電源のケーブルを引き抜くと、そのまま引き締まった腕に力を入れて、天地を反転させた。抜いたケーブルが床に落ちて渇いた音がした。放電など事故に繋がらないことを確認した彼は、勢いがついたように、もどかしそうにその裏面を眺める。

やはり、彼が感じた違和感はそこにあった。

旧式のそれは、すでに蓄電機能を放棄してしまっていたが、きちんとそこに備わっていた。彼女は部品を交換するということもしなかったのだろうと思った。

何度も開閉した形跡はなかった。

そのように詳しい知識を持ち合わせている人間であったのなら、彼女はこれを「故障した」と言わないだろう。

彼は整えられた爪を立てて、指先に力を入れる。

その小さな突起を持ち上げた。そしてカバーを外した。それを静かに、筺の脇に置く。

カタリ、と音がして、次に黒いバッテリーがすぐに目に入った。とても旧式だった。

 

だからこそ、気が付いたのだから。底は人為的に、バッテリーの部分が髪の毛一筋分ほど盛り上がっていた。何かが挟まったり、かみ合わせが悪かったりしたということではない。

取り外し用の口開きの部分が・・・僅かに、そう、本当に僅かに、少しだけ、浮いていたのだ。彼はカバーを見つめた。そして、美しい眉を顰める。

暗闇の中で、見つめるそれは、はっきりと細部まで判別できなかったが、誰かが丁寧に、本当に少しばかり持ち上げるように、改変されていた。

 

誰にもわからなくても、彼にはわかった。

すぐにわかった。

不良品などではない。これは、人為的作業が施されている。

・・・彼はすぐにわかった。

こんな細かい作業をしたのが、誰であるのか。

マリナが普段使用するにはまったく気にならない程度に。

彼女が決してこういった部品を分解することをしないと確信している人物の仕業だった。

丁寧に同色のシリコン接着剤で、破損防止まで施してあった。

 

・・・回りくどいな。

 

彼の声が聞こえてくるようだった。

『はっきり言えよ』

そう言った時のあの男の声が蘇る。今でも、耳に残る、あの独特の声が。

黒い、くせの強い髪を持った黒曜石のような瞳を持った・・・太陽のようなあの男。

彼はその人物を、親友、と呼んだ。

 

気に入らないな、と彼は心の中で呟いた。

まるで、彼に導かれているようだった。だから、気に入らない。

 

ラップトップが故障した時、シャルルの元にメールが届いた。

彼が受信するだろうという予定していたのだ。それすら、気に食わないのに。

彼の行動と思考を読み取ることができて、それをシャルルが赦しているのは、友と呼んだあの男だけだった。

彼の従妹にも広大な範囲で許可しているが、彼の思考を先回りすることは赦していない。

 

シャルルはずっと、彼女に新しいラップトップを贈った後に気になっていた。

彼女の手元にあったものはどうしていたのだろうか。

 





■秘するが花 月蒼華16

 

単なる彼の杞憂であれば、それで良かったのに。そうはならないという予想が的中した。

それは予感ではなかった。

必ず実行される未来であった。

 

シャルル・ドゥ・アルディは、そのバッテリーを見つめていた。

呼吸が規則的ではない。それはわかっていた。

けれども、自分の平穏よりもっと重要なものがそこにあった。

 

役割を終えて・・・そして、放熱するだけの塊を覆っていたそれに、意味を持たせることが出来るのは、きっとおそらく、彼しかいない。

 

戻らない。

果てしない路を歩こうと約束した。一緒に。手を携えて。

そしてその未来の路には、排除されなければならない人物がいることに、シャルルは眼を瞑ることができなかった。

彼が居なければ、シャルルはマリナと出会うこともなかったからだ。

そして、虚無で退廃的で無色な世界は・・・生涯、そうであると認識することもなく、彼は言われたままの、希望されたままの人生を歩んでいたのだろうと思った。

 

そうでないと思う時は、そうでない時を知っているからこそ、比較することができるのだ。

 

海の塩気も甘みを知っているからわかるのだ。

寒さは温かさを知っているからわかるのだ。

 

彼は喉元が干上がるのを感じた。何も彼を圧迫するものはない世界で。

唯一・・・彼が揺らぎ、声を失わせる相手が、シャルルに向かっているような気がした。

 

メールが届いた時に、彼は考えるべきだった。

その仕様について。

 

ラップトップのメインHDがダウンしたからメールが届いたのではなく、バッテリーに異常が生じ蓄電が不能になったから、メールが送信されたのだということに、気がつけば良かったのに。

 

つまり、彼の仕掛けた装置に・・・刺激が伝わったから、それは送信されたのだ。

マシンがダウンしたからではなく、一定期間、その部位に、誰も接触しなかったら・・・つまり、断線しなかったことによって・・・それは発動した。

 

彼女のパソコンが寿命を迎えたことと、それにあわせて、誰もメンテナンスをしなかったことが条件になって、そのメールは送られた。

 

シャルルに救助を要請するメールが送られた。

 

浅はかだな。

 

シャルルはそう思った。二重三重に条件を付与しなければならない間柄ではないのに。

ただ、一言「彼女を頼む」と言えば良かったのに。

なぜ、彼の親友はそうまでして、彼に気兼ねするのだろう。

彼に親友を持ってはいけないと宣言しているかのように感じる時がある。

どんなに心を開いても、彼の心の隙間であったり深淵であったり・・・・近い場所に居続けることの恐怖をそうとは感じないで近寄ることのできる人間は、とても少なかった。

そして、彼が運命の人と定めるほどに近しく寄った人物は、たったひとりだけだった。

 

シャルルは彼の名前を口に出そうとして・・・そして唇を閉じた。

綺麗な唇を閉じて、秘めることにした。

あの人の名前。この部屋で、何度も囁かれた名前。彼が最も愛するマリナが憂えた相手。

・・・それなのに嫉妬すらしない。まるで、あたかもそこにいるかのように、息苦しささえ感じる。なぜ、彼は、彼女を・・・ずっと好きだった彼女を手放してしまったのだろうか。

 

それは理解できた。

シャルルが、彼の友でなかったら・・決して理解できなかったのだろうに、と思う。

理解できなかった方が良かったのだろうか。

それとも。

理解できないから理解できたと言った方が、彼の真意に添う回答になるのだろうか。

そんな、唯一を導けない思考の波が、今は・・・煩わしい。

 

行き着く場所は・・・決まっているのか、決まっていないのか・・・

それすら、わからない時に。彼は、これを用意したのかと思うと・・シャルル・ドゥ・アルディは居たたまれなくなった。

 





■秘するが花 月蒼華17

 

嫉妬をまったく感じないかと言ったら嘘になる。

あの男のことを愛していると告げた時の彼女の表情を、今でも忘れることができなかった。そう言うのだろうな、と想定していたのに、それでも・・・・彼は胸が割れそうなほどになった痛みを今でも時折感じることがある。

そう・・・・今もそうだった。

 

彼は彼女の何もかもを手に入れたいと思っている。

彼女の心に住まう、すべてのものから、彼女を遠く連れ去りたいと思っている。

 

それでも、彼女は・・・マリナはこうして、あの男との記憶を捨てることができない。それが、彼の愛したマリナ・イケダであるのだと理解していても、それを受け入れることができない瞬間を迎えることがあった。

 

彼はもう、あの時のように自由でなくなった。

失われていく。

何かが。

命であったり、自由であったり、彼の何かはいつも少しずつ漏れ出ているような気がした。

だからそれほど命は惜しくなかった。

そして、彼女のためになら、今でも躊躇わずに、彼の持っているものすべてを捧げるつもりであった。

 

あの時は、若かった。

しかし、輝いていた。

 

大人でもなかった。しかしこどもでもなかった。

 

今は長い年月が過ぎて、あの時の痛みは、薄れる瞬間もあった。

しかしそれは忘れたのではなく、単に、鈍くなったのだと思わざるを得なかった。

幾度も眠れない夜を迎えることによって、彼は正面から向き合うことをやめた。鈍感になることを覚えた。

 

忘れられないから。

諦められないから。

 

忘れたわけでもないし、諦めたわけでもなかった。

元気で居るだろうか、倖せにしているだろうか、と考えた。

それが、彼の倖せだった。

 

誰かを愛することは素晴らしいことなのだ、と彼女が教えてくれたから。

だから、彼女のことを思うだけで彼は微笑むことができた。

 

それなのに。

今は、彼女のすべてが欲しいと願う。

それなのに。

これほどまでに欲深な願いを持ちながら、彼はもう一方で、違うことも同時に考えていた。

 

・・・・マリナがあの男を愛したという事実を、彼女が否定することはないということについて安堵している。

シャルルを理解し支えた親友に、マリナが心惹かれるのは、避けられないことだった。

それなのに、なぜ、切ないのだろう。なぜ、これほどまでに苦しいのだろう。

 

マリナの涙を知っている。彼女の笑顔を知っている。

 

彼に躊躇いながら好きだと言ったその言葉だけを頼りに、今のシャルル・ドゥ・アルディが居る。

彼はシャルル・ドゥ・アルディなのに。

フランスの華と呼ばれて、何もかもを手に入れた。

しかし、それすら惜しくないと思えるほどに、彼女を・・・深く愛してしまった。

 

彼は青灰色の瞳でそれらを眺めた。役割と機能から脱却したそれらを見つめながら、シャルルは注意深く・・・・ひとつずつ、確認していく。

ハードディスクの記録を確認すれば、彼と彼女の軌跡は追いかけることができただろう。いつ、これが贈られて、いつ、あの男がメール送信するようにプログラムしたのかも。

しかし、今、確認したいのはそのことではなかった。

何の変哲もない部品たちを眺めながら、シャルルは僅かに吐息を漏らす。

・・・自分の考えすぎなのかもしれない、とさえ思えてきた。そこに何かあるという先入観が彼の神経を鈍らせている。そう感じた。

 

・・・それほど残された時間は多くはなかった。

 

間もなく、彼女は目覚めるだろう。

その時には、彼は、何事もなかったかのように振る舞う予定だった。

 

そして・・・・最後に、彼は何もないことを・・・熱を帯びたバッテリーが安全面で問題がないことを確かめると、肩を下ろした。

緊張していたのだ。フランスの華が。

・・・秘められた筺の謎を解くという喜びや昂揚感はなかった。

ただ、見てはいけないものを見てしまうという後ろめたさだけしか湧いてこない。

必要がないのに。そうしても意味がないのに。

だから、そこに何もないことが彼の愁眉を開かせた。

 

彼女に関してだけは、彼は・・・・シャルル・ドゥ・アルディであってシャルル・ドゥ・アルディでなくなるのかもしれない。

彼は決して他者にはならないと宣言したのに。自分でなくなることはない、と彼女に言ったのに。

それなのに、今、彼は・・・・どうにかなりそうなくらい、彼は・・・・シャルル・ドゥ・アルディであることが恨めしい。

シャルルでなかったら。あの男を友と呼ぶ立場に居なかったら。そして、彼女と無から始めることができたのなら。もっと・・・もっと楽になっただろうか。

 

いや、それでも、彼はきっと、この路を選ぶのだと思った。

もし、という未来はあり得ない。少なくとも、彼に限って言えば、たとえ、太陽が西から昇っても間違えることはない。だから、ファム・ファタルを定めたことを後悔もしていないし、間違ったとも思っていない。

 

・・・やめておこう

彼はそう心の中で呟いた。

誰にも秘めたる想いがある。彼の中にも。そして、マリナの中にも。

それは誰にも消し去ることのできないものであるし、マリナはあの時を経て、そしてシャルルを選んだのだから。

もう、それを過去にはさせないが。

決して彼女を離すことはしないが。

 

彼のすぐ近くに、朝の白い光が射し込んできた。

冷えた空気を感じる。明け方の気温差が彼の肌を刺激した。

・・・・・夜が明けたのだ。

 





■秘するが花 月蒼華18

 

マリナの過去も欲しいと思う。

未来が欲しいと思うのと同じ程度に強く渇望している。

けれども、彼女は自分の心は自分だけのものだと言う。

決して、シャルルのものだ、とは言わない。

 

そんなところは、シャルルとマリナは似ている。

自我を譲らない情強であるところなどは特に。

 

いつか、彼女から語ってくれることもあるだろう。

なぜ、彼と別れたのか。なぜ、シャルルと居るのか。なぜ・・・・

彼は唇の端を持ち上げた。

 

彼女は彼にすべてを与える。

それまで、彼が欲したものも、その一方で、欲しなかったものも。

フランスの華と呼ばれているというのに。

それなのに、彼は太陽のような彼女に向かって、ただひたすらに花瓣を向ける情けない薔薇でしかない。

 

彼はそれ以上の按検を留保した。やめるのではない。いつか、知ることになるが自分から知ろうと積極的になる件ではないと判断した。

 

彼は神経質そうな指先で、カバーを取り上げる。

復元するつもりだった。

ここに何かあるのは確実であったが、準備が整っていなかった。

マリナが望まないことも、彼女が知らないことも、そこにはあるのだろうと思った。

 

彼と彼女に、もう一度出会え、と知らせた筺は役割を終えた。

ただ、それだけだ。

ただ・・・・それだけでしかない。

 

彼女のぬくもりが恋しかった。愛おしい人の体温を感じながら、彼は眠りに落ちたかった。

眠れなさそうだったが、それでも、彼女を抱いて、背を曲げて目を閉じてみたいと思った。

何かをしたわけでもないのに、酷く疲れていた。脳を酷使したときや、幾日も眠らない日々を過ごした後のような怠さがあった。身体が重かった。

静かに夜が明けていく。小さな部屋の中で、彼は吐息を宙に絡ませた。

 

そして。

カバーを持ち上げて、それを元に戻そうとしたときに、青灰色の瞳を大きく見開いた。

どうしてそこに僅かな仕掛けがしてあったのか、その時にわかったからだ。

・・・・彼は小さく声を漏らした。まったく周囲の音が聞こえなくなった。自分の声さえも。

 

『発作だな』

 

あの男の声が蘇る。

全身に震えが走る。

息をすることも瞬きをすることも忘れて、それを凝視した。

 

秘密があったのは、そのマシンそのものではなかった。

カバーの裏面にあった。

そこを開いて、注意深く観察する者でなければ、決して分からない場所にそれはあった。着脱可能な場所でありながら、マリナが決して見ないところ。

バッテリーの交換は想定していたらしい。

だからそこには何も残さなかった。

その時にはわからないように。

彼女にではなく・・・・シャルルにあてて彼はそれを残した。

 

つまらない悪戯をするなよ

 

彼はそう呟いた。

 

目の弱い彼女には判読できなかっただろう。

小さな文字でそこに刻まれていたメッセージはフランス語であった。

これを誰が読むのか、わかっている者が残したものだ。

 

彼はそれを読んだ。そして、もう一度視線を走らせた。何度も繰り返す。

彼は決して繰り返さないのに。それなのに、何度もそれを読み、低く呻いた。

声にならなかった。

息ができない。

苦しい。

 





■秘するが花 月蒼華19

 

たった一言だった。

 

「また倖せになれ。ふたりで。」

 

喉の奥から込み上げるものがあった。

堪えきれなくなって、彼は大きな・・・・大きな溜息をついた。

唇が震える。

指先が震えたが、シャルルはそれを抑制しながら、そっと・・・そっと静かに、筺に戻した。

これ以上、眺め続けることはできなかった。

もう二度と見ることがないとしても、それでもそれを元に戻した。

名残を愉しむ余裕さえない。

触れることさえ罪深いように思った。

 

彼はいつも誰かにマリナを託していった。

マリナを頼む、とか。

マリナを守ってやってくれ、とか。

そうではなかった。

 

彼女を倖せにしてやってくれ、と書いたのであれば、シャルルは憤慨し落胆しただろう。

どうして倖せにすることができなかったのか、と彼を責めただろう。

自分こそ彼女を幸福にすることができる唯一の人間であるとは考えていなかった。

しかし、誰も彼女を永遠に倖せにすることはできないだろうと思った。

それは彼女が誰かに倖せにしてもらう人間ではなく、自分が倖せになるために行動する人物であったからだ。

それ以上に、他者の為にどこまでも・・・何も気にせず捨てられる強さがあった。

昔・・・シャルルが倖せになるために、彼女は彼について来た。

 

あの困難な状況の中、あの男の傍に居れば安全であったのに、彼女はそうしなかった。

だからこそ、深く激しく彼女を愛した。

 

夢中になった。

忘我するということを知った。

 

そして、愛しすぎて彼女を突き放した。誰を愛しているか知っていたから。

誰と一緒であれば、彼女はいつも笑顔でいられるか、知っていたから。

 

最後にシャルルが彼女に贈った言葉を、彼は覚えていた。

倖せになれ、と言った。

 

だから、それを覚えていて・・・・いや、違う。彼は思考を切り替えた。

これは旧式のものだから、購入してすぐに・・・彼はこれを書いたのだ。

頻繁に開閉する箇所ではないから、おそらく、セッティングしている時に行ったものだろうと思った。あのメールの設定も、初期値のものがほとんどだった。それなら・・・最初に、これを書いたのだ。

シリアルナンバーや機種から見ると、シャルルと別れてほどなくして入手した品であったはずだ。

 

彼は。

そこに、刻んだ。

いつか訪れるその時に備えて。

 

今度こそ倖せになれ、とか。

もっと倖せになれ、とか。

 

そうではなかった。

そうしなかった。

 

あの男は、まったく、狡い奴だ。

 

彼はそう呟いた。

彼の名前を呟いた。

 

もう一度、倖せに。

 

シャルルとマリナが一緒にいたあの時間を、彼は肯定したのだ。

ふたりで過ごした短い時間は幸福だった。

 

そして、生涯の夢をすべて見たと言ったシャルルに、こうして問い掛ける。

また夢を見ろと言う。

青春の輝きと呼んだ時代の幸福を思い起こす。彼はあの時幸福だった。

苦しかったが倖せだった。満たされており、同時に、愛の苦しみについて考えていた。

 

彼は・・・マリナとあの男が過ごした時間も否定していなかった。

それはとても幸福だったのだろう。

そして彼らは、ふたりの別れを不幸と思っていない。

彼女は決して彼の話をしないし、その後会っている様子もなかった。

シャルルは彼の友であるから、再会しない可能性は低いはずなのに。

それなのに、それでもこうしてシャルルと一緒に居る。

 

傲慢だな、と彼は笑ったが、それは自分自身に向けたものだった。

だから「また」なのだ。

シャルルが彼女を倖せにすると・・・彼女がシャルルを倖せにすると信じているからだ。

また、倖せに・・・・彼はそう書いた。

彼女はいつも倖せだ。

誰と居ても倖せなのだ。

だから、得た倖せについて否定することもしないし、比べることはしない。

それでも。

ふたりで、倖せになれとあの男は書いた。

誰かを倖せにするのではなく。自分で倖せを求めるのでもなく。

 

ふたりで。

新しい倖せを作れと・・・・・彼は言葉を残した。

 





■秘するが花 月蒼華20

 

シャルルは、嫉妬や猜疑について考えに耽っていた自分の行為について、改めることにした。

静かにラップトップを元の場所に戻した。

それまでの作業はとても時間の経過が遅かったのに。

彼はゆっくりと戻したのに、それでも一瞬でそれは終わってしまったように感じる。

マリナに見咎められてもそれでも良かった。

・・・彼女に糾弾された方が、まだ安らいだのかもしれない。

 

やはり、見てはいけなかったのだと思った。

しかし、見なければわからなかった。

 

彼の声を聞いた。

 

『シャルル、月蒼華という言葉を知っているか』

 

月が蒼く光り、その光を受けて華が蒼く輝く。そしてその華は月に向かって咲く。

循環する天地の恵みと美について述べた言葉だ。

まるで、シャルルのようだと言って彼は笑ったが、シャルルはそれに何も応えなかった。

フランスの華と呼ばれて久しい。

しかしそれは彼だけに赦された称号だ。

彼は何かの歯車ではなく、ただ彼一人しか存在しないから。

死闘を繰り広げたあの当主争いの前は、その考えが顕著だった。

だから、その言葉がシャルルのようだと言った彼の意見に賛同しなかった。

彼が知らないことはない。

だから、皮肉だと思った。万物の事象についての美辞はたくさんこの世に存在する。

他者との付き合いを極端に嫌うシャルルに対して、あの男が苦言を呈しているのだと思い、無視することにした。

 

人も巡り廻っていくのだから、もっと違う接し方をしろと言われていると思った。

「今の品種改良に成功したら、その言葉を和名でつけてやるよ」

彼はそれだけ言ってその話を終わりにしてしまった。

癖の強い髪を持った男は肩を竦めて、シャルルらしいと笑った。

 

月は巡り、蒼く巡り、華に巡る。

それは邂逅だった。彼と彼女はまた、愛を始めた。

廻って最初に戻ったのではなく新しい場所に行き着いた。

 

ふたりで。・・・・ふたりで・・・

この意味がどれほど大きいのか、大人になって、様々な出会いと別れを繰り返さなければわからなかった言葉だ。

あの男は、あの時に・・・・それを既に悟っていたのだとしたら。

 

彼は唇を噛んだ。

込み上げてくるこの衝動が何であるのか、理解していたからだ。

 

己を知るために彷徨した。誰かをもう一度愛せるかもしれないと思った。

それでも・・・・マリナと再会した。

もう止められなくなった。

もう一度彼女に逢えば、もう、止められないとわかっていたから会わなかったのに。

 

幾年経過しても、どれだけ忘れようとしても、彼は決して彼女のことを想い出にすることがなかった。

シャルルの中では、彼女の声や笑顔や涙が巡っては消え、そしてまた思い起こされた。

彼女を人目憚らず抱き締めた時。彼は走って行った。すべてを投げ出して、走り寄り、彼女を抱いた。

もう、終わりだ、と思った。始まってしまったから。

彼の中で、何かが動き出すのを感じ、その瞬間に、終わりだ、と思った。

たとえ、彼女があの男と居たとしても、それでも愛することを諦めることはもうできないと思った。

 

深く窪んだ双眸に軽く指をあてた。白金の髪の下で、彼は眉を寄せ、苦悶に満ちた顔をして・・・必死に堪えた。もう、彼は大人になった。

涙を見せる時は上を向けばよいと言った少年時代を経て、彼は、涙を堪える術を他にも覚えた。

呼吸を調整し、感情の抑制をし、そして、彼は堪える。しかし、それでも塞き止めることができない。

 

このラップトップにはもう触れることはないだろう。

またひとつ、彼の秘めたる想いが増えた。それで良い。

ひとつひとつ重ねていくたびに、彼はこうして・・・愛を深めていく。

 

おまえに言われなくてもわかっているさ。

 

彼はそう呟いた。

他者を気にする男であったが、それでも彼は彼女をこよなく愛し、そして彼女から去った。今度は誰にも託さなかった。

彼女自身で選び、心を寄せろと言うかのように。

そして彼と彼女の時間は決して不幸でも悲壮でもなく、彼女の今を構成している。

 

それが最後のメッセージだと思った。もう、彼は何も言わないだろう。

彼の痕跡はもうどこにも見つからないだろう。

 

・・・シャルルは探し続けるのかもしれないが、それでも見つからないと感じていた。

 

またひとつ、一段深い場所に堕ちてしまった。

そう、思った。しかしそれも悪くはない。

どこまでも底のない果てのない深みに堕ちることに恐怖は感じていない。

親友の恋人を愛してしまった業についても後悔していない。

必要だったから。

彼が、生きていく上で必要だったから。


月蒼華 21-30

■秘するが花 月蒼華21

 

「・・・泣いているの?」

か細い声がして、部屋の奥から声が聞こえてくる。同時に、布の擂れる音も。大きく静寂を破る小さな囁きが、シャルルに届いた。

彼は顔を大きな手の平で拭っているところだった。

「いや・・・」

「シャルルは嘘が不得手ね」

マリナはそう言って笑ったが、寝起きであったので声が少し掠れており、そして彼女の方こそ涙声であった。

闇に慣れた目は、朝の光を僅かに感じるだけでも強い刺激となって、彼と彼女に射し込んでいた。

「こんなに明るくて・・眠れる方がどうかしている」

「悪かったわね・・・そう、私はどうかしているのよ」

彼女はそれだけ言うと自分の言葉に笑った。大きく伸びをする気配がする。

彼女の覚醒は始まったのだ。

シャルルは同じ姿勢で座って居たことによる筋肉の緊張を解すために、少し腕を伸ばした。

「自覚しているのであればそれで解決だ」

彼はそう言って静かに微笑んだ。

青灰色の瞳が少しだけ潤んでいたが、それも彼女は気がつかないだろう。

目の弱いマリナは、少し離れてしまえば、シャルルの僅かな表情の変化については判別できない。

それなのに。声も聞いていないのに、泣いているのかと言われた。

それを受けて、シャルルは言葉を濁したので、マリナが指摘したのだ。

彼は彼女の方を見ないままに、返答した。

「オレも、どうかしているけれどもね」

「シャルルが?」

含んだ笑い声が聞こえた。

「そう」

彼は白金の髪を掻き上げた。頬に煌めきが散らばり、マリナは目を細めた。

漏れて射し込んできた光が、彼の髪に魅入られたように吸い込まれて行く。

静かな空気が徐々に和らいで薄らいで行く。

 

それは決して切ない曙天の光ではなかった。

生命の希望に満ちた力強い・・・そう、目の前に横たわる茶色の髪の、彼がただひとりだけだと定めた運命の人のような光であった。

運命とは定められたものではなく・・・命を運ぶ人のことだと思う、と彼女は囁いた。

ファム・ファタルのことについて、当人であるマリナと話をしたことはない。

けれども彼女は知っていた。

知っていたらからこそ、そのような話をするのだということをシャルルが理解していることも、知っていた。

「間違いなく、君は命を運ぶ人だよ・・・・マリナ」

彼は微笑んだ。

彼女を見るのは、今はまだ辛い。

けれども、視線がそちらを向いてしまう。

 

彼の身体が・・・全身が、彼女を求めている。

どうしてあれだけ長い時間を隔てていられたのだろうかと思うくらいに。

燻っていた疼痛が彼を貫き、そして彼は一度だけ高く浮遊し、次の瞬間には深く沈む。

 

「月蒼華」

ぽつり、と彼女は言った。シャルルの美しい眉が僅かに動き、頬が持ち上がった。

「・・・・何だって?」

彼は普段聞き返さないのに、彼女にそう言ってしまい、唇を噤んだ。

普段の彼ではないことに、マリナはとうに気がついている。

「・・・・命は巡るっていうことよ」

彼女は微睡みの中でそう言った。静かに。でもはっきりと。

どうして、彼女は自分の欲しい言葉を、無防備な瞬間に投げつけるのだろうか。

 

幾つもの命を見送ってきた。そして自分の命さえ、消えかけた。それでも。

今、こうして生きているのは・・・・

彼はそこでようやく大きく息を吸った。

生きるために。

息ができないほど苦しいけれども・・・生きるために。

いつ死んでも良いと思った。

死までの退屈しのぎに生きていた。

それに意味と価値を与えたのは、目の前に居るマリナ・イケダである。

 

そして。

あの男からの言葉が・・・・彼に再び、生きる執着を与える。

マリナに、倖せになれ、と言った。

しかし、あの男は、ふたりで倖せになれと残した。この違いについて、彼は考え続ける。

 





■秘するが花 月蒼華22

 

マリナは言葉を続けた。

「・・・私の好きな言葉。とても好きな言葉。

・・・・昔、教わった。

ふたりで倖せになれる約束の言葉だと・・・」

「倖せになるって、どういうことなのだろうか」

シャルルが珍しく、彼女に問いかけた。

倖せの定義は人それぞれで、そしてなお、彼の問答は生涯に渡って続く。

それでも、彼は・・・・それをやめることはしない。

愛をすることをやめはしない。

 

誰から教わったのか、彼は尋ねなかった。

けれども・・・・どれでも、マリナのこたえとシャルルのそれは一致していた。

「決まっている。・・・ふたりで作るもののことよ」

それから、彼女は横臥したまま、言った。布に顔を埋めて、彼女は夢見るように言った。

「月蒼華という言葉はシャルルのためにあるような言葉ね。月と蒼と華は、すべてシャルルのことを言っているみたい」

「そうだろうか」

「そうよ・・・容姿ではなく、命が巡るから。

ひとつしかないから。

月も蒼も華もひとつずつ次に巡る。

・・・だから、いつか、スケッチさせてね」

彼女はそれだけ言うと、再び微睡みの世界に脚を踏み入れそうになって、甘い咳嗽を昊に放った。

 

シャルルはそれを見届けて、そして彼女に願いをかける。

もし、シャルルが月の化身であるのだったら。

それなら・・・・それなら、誰かに願いをかけられるのではなく、自分自身に願いをかけることも、赦されるのかもしれないと思った。

願い。

彼は根拠のないことは信じないし実行しない。

けれども・・・・マリナに対して思うことはいつも願いであった。

理由もなく、根拠もなく、ただ、惹かれる。強く激しく彼を突き動かす。

 

君に愛されたい。

 

彼はそれだけを望んだ。

彼女を愛することは誰にも赦しを乞うつもりはなかった。

もう、どんなに赦されなくても、止められない。

 

だから、彼が望むのはひとつだけだ。

・・・たったひとつだけだ。

 

この世の終わりが来ても・・・彼女の傍に居たい。

この世の果てに巡っても・・・彼女が傍に居て欲しい。

 

「良い言葉だと思うよ」

優劣や評定についてはあまり言葉を出さないシャルルが、そう言った。

静かに。

けれども強い口調で。

 

「月は蒼へ。蒼は華へ。華は月へ。・・・それぞれに巡り、そしてまた出会う」

それはまるでシャルルとマリナの邂逅を表しているようであった。

たとえ・・・たとえ、あの男が用意した邂逅であったとしても。

その先を選んだのは、シャルルとマリナなのだから。

 

「まったく脈絡がないね」

彼はそう言って笑った。

そして、少し離れた彼の恋人は、彼に微笑む。

それがどれほど待ち侘びた瞬間であるのか、シャルルはこれから伝え続けなければならない。

「オレは君とやり直しているつもりはないよ」

「だから月蒼華なのよ」

微睡みながら、彼女はそう言った。彼がまだ彼女に近付かないことの理由に、気がついたようだ。

「やり直すことができないから、人の命も・・・何もかもが巡る。だから素晴らしい。一度しかないから。やり直せないから。だから、何もかもがきらきらと輝くのよ」

「なるほどね・・・それが君の価値観か」

彼は少し満足そうに頷いた。

「また出会って・・・シャルルは0.3から始めようと言った。無でも続きでもなく・・・」

「そう。だから、オレとマリナは・・・・・ふたりでこたえを出すことになる」

マリナは笑った。天才のシャルルと共同で考えることは難しい、と言った。

「それなら、マリナは検証担当だな」彼は笑った。朝を迎えて・・・白む空と光を受けながら交わす会話ではなかった。

けれども、どういうわけか、昂揚していた。

 

・・・・彼の目元に浮かんだ水泡は、すでに消えていた。

 

彼女を倖せにする。

生涯かけて。

もう、決して離さない。誰がなんと言おうとも。

そして、全身全霊で愛する。

いや・・・そんな風に決めてしまうより前に、彼女に向かって意識が飛ぶ。

 





■秘するが花 月蒼華23

 

彼は彼の親友の名前を心の中で発音した。

どこまでも優しく、どこまでも残酷で、それでいて、かけがえのない彼の理解者で・・・彼が認めた、彼の親友。

同じ人を好きになった。

同じ人を愛した。

だからといって同じ倖せになるとは限らないし、どちらに優劣が付されることもない。

 

「その言葉が気に入ったのなら・・・次に改良する薔薇の花言葉にしよう」

「私はこれから描く予定の・・・シャルルの絵にその名前をつけようと思ったのだけれど」

彼女がそう言ったので、シャルルは唇を横に引いた。

「マリナ。いつになったら、君はその言葉を実行するのかな」

「・・・・どうなのかしら。倖せだと、描けないものもあるし、倖せだから描けるものもある」

「都合の良い言い訳だな」

彼女は大きな溜息をついて、俯せた。

背中を伸ばし、首を伸ばして完全な目覚への準備に入る。

 

彼はその様子を眺めると、もう一度、顔を両手で覆った。

 

・・・長い・・・長い夜が明けた。彼の夜明けだった。

 

あの男は、もうずっと、別れの逆覩(※予知)を抱えていた。

だからこんな風に・・・・こんな風に、随所に仕掛けをしていた。

自分で言えば良いのに。

彼は、そうしない。

彼の愛がまだ燻っているのであれば、それが彼女に向かって手繰り寄せられる道しるべになると・・・・あの男は、そう感じていたのだ。

自分がどう思っているのかほとんど口にしない。誰にでも近寄ることができるが、誰にでも優しい代わりに己には優しくなかった。

何か・・・自分に罪があると思っているのではないのかと疑う程に、あの男はいつも・・・いつも誰かを優先する。

けれども、マリナの事に関してだけは彼は譲らなかった。

それでも・・・彼はシャルルがマリナを連れて行くときに、行くな、と言わなかった。

シャルルを探しに、モザンビークまで単身で乗り込んだ程の豪胆さを持っているのに。

彼はマリナに・・・・・シャルルと行くな、と言わなかった。

逆だった。

行け、と言った。

 

彼女を愛している男と一緒に行け、と言った時の彼の心情を考えると、シャルルは今でも胸が疼く。それでも・・・わかっていても、彼は止められなかった。

あの男は、自分が行動するときには、彼女を伴わなかった。

当時、シャルルが滞在していたあの国は危険だからという理由もあったが、もっと別の理由もあったように推察している。

どうしても必要だった。彼にはマリナが必要だった。

それを知っていたから、彼は・・・あの男は、シャルルと行け、と言ってマリナの背中を押したのだ。

 

「月蒼華。・・・巡りの言葉か・・・君は詩人だね、マリナ」

彼が囀るようにそう言うと、彼女は毛布に顔を埋めながら不満を漏らした。

「シャルルに言われると、なんだかもっと違う意味に聞こえるから不思議ね」

「君はオレを随分と過小評価しているね」

彼は笑った。

「オレがこうして・・・ここに居ることの意味をもっと考えてくれよ」

「だから、それが月蒼華」

「・・・もっと説明しなければ情報が少ない」

彼がそう言ったので、マリナは、壁側に顔を向けた。シャルルに背を向ける格好になった。

彼女の白い首と、茶色の髪がこちらを向いたので、シャルルは黙った。

 

少しの間、彼女は黙っていたが、やがて、低い声で言った。

 

「・・・・月を見て泣いた。

青灰色の昊を見ると泣いた。

・・・そして薔薇の華を見る度に・・・・切なくなって恋しくなって逢いたくなって泣いた。

・・・私にとって月蒼華はつまり、そういうことなのよ」

「マリナ」

彼は腰を浮かせた。シャルルはフランスの華と呼ばれているのに。すべてを手にしたのに。

それなのに・・・・本当に欲しいものはひとつだけなのだと叫び出しそうになった。

手にしたすべてを放棄しても、すべてを捧げても・・・・ふたりで出す幸祐についてのこたえを手にすることができるのであれば、彼は何も望まないと思えた。

 





■秘するが花 月蒼華24

 

何もかもが赦された、恵まれた愛ではなかった。

彼女は外国人であり、彼はフランスの華だった。

そして、彼女は、彼の心の拠り所と言っても良いほどに近い場所に居た、あの男の恋人だった女性だった。

 

決して好きになってはいけない相手だと思った。

最初に会った時から、わかっていた。

 

彼女は、彼が好きなのだと。

彼は、彼女が好きなのだと。

 

わかっていたのに、好きになってしまった。

わかっているのに、愛してしまった。

わかっているのに・・・止められない。

 

傍に居たい。

傍に居て欲しい。

 

月蒼華とは、そういうことなのだ。

それでも巡る。想いが巡り、止められない流れに抗えない。

だから、彼女はファム・ファタルなのだ。

届かないと分かっていても、愛をすることを止められない。

誰かの涙が降り積もっても。

誰かの吐息が聞こえても。

それでも・・・それでも、彼女を求める気持ちを静めることができない。

 

彼はゆっくりと立ち上がると、彼女の傍に寄るために、脚を伸ばした。

低い天井に、狭い壁と壁の狭間に居ながら。

彼女に向かう距離はとても計り知れないほどに大きく隔たりがあるように思える。

ほんの数歩先なのに。それでも、彼女の横臥する場所には、彼は行き着けないように思った。

彼は穢れていると思っているから。

決して愛してはいけない人を愛したから。

それを忘れるために、苟且(※かりそめのこと)の俗情に身を浸したから。

「月はすべてを浄め、蒼はすべてを照らす。華はすべてを満たし、そして月によって洗われる」

彼女はそう言った。

彼に、背中を向けたまま。

その言葉がどれほど大きな意味を持っているのか・・・シャルル・ドゥ・アルディは悟った。

だから、彼から近寄る。彼は誰にも近寄らないのに。

決して。

それなのに、彼女の言葉に惹かれてシャルルは、身体を動かす。

神託を受けたかのように。

痺れる全身を動かすのがやっとである。

 

・・その次の瞬間は・・・・絶対的存在の降臨にさえ、似ていた。

 

届かない想いを届けるかのように。

 

苦しくて息もできないのに。

 

これほど近くに互いの温度を感じながら、それでも苦しい。

これが恋でも愛でもなかったのなら、一体何だというのだろうか。





■秘するが花 月蒼華25

 

「マリナ、起きるか喋るかどちらかにしたらどうかな」

シャルルは薄く笑った。

「そうだけれども・・・目が醒めたらシャルルがいなかったから」

「それは理由にならないが」

彼女は声を漏らして笑った。

同時に大きく伸びをする。

身体の向きを変えて、朝ね、と言ったので、朝だよ、とシャルルは応える。

これがふたりの朝であった。

台詞が逆転することもある。

そちらの方がほとんどだった。

朝の弱いシャルルに向かって、マリナが朝よ、と語りかけることで彼は目覚を迎える。

しかし今日は違った。

彼女は、シャルルが眠っていないことを知り、そして、遠回しにそれを指摘した。

小柄な彼女が肢体を伸ばしても、彼に手を伸ばしても、彼女の指先は彼に向かっていたとしても・・・余り距離が縮まらなかった。

その距離さえ、愛おしそうに・・・・宙に伸びた指先の動きを、シャルルはじっと青灰色の瞳で追った。

 

「朝に目が醒めたら、ひとりではないということの重要さを、シャルルはもっと知るべきよ」

彼女が、シャルルが眠らずに起きていたことに気がついて、そう言ったので、シャルルは言い返した。

「オレは誰かがいると、眠れないから」

嘘つきね、とマリナが小さく言った。

「事実を歪曲しているつもりもないし、事実と異なることを言っているつもりもないよ」

彼女は首を起こして、シャルルを見つめる。

毛布の下から彼女の茶色の瞳が好奇心という光を灯しながら、シャルルを眺めた。

「それなら、私は何て答えれば良いの?」

「そうだな・・・」

彼は唇を歪めた。彼が、彼女に、ともに夜を送り朝を受ける間柄であることを言わせたいのだとわかったマリナは、困った様子であった。

自分の立場や恋人同士の交わす囁きについて、彼女は不得手であると自覚しているようである。実際に・・・彼と一緒に過ごすようになってから、彼女は冗談でも「シャルルの恋人です」と口にしなくなってしまった。

それが嬉しくもあり、寂しくもあった。

なぜなら・・・昔、彼女が幾度か口にした『自分は、シャルルの恋人だ』という言葉は、それを強く望んだ言葉ではないということを思い知るからだ。

それでも、良かった。

今、言わないということは、彼女がそれを自覚しているということだからだ。

 

あの男もそうだった。

マリナを好きだと言ったが、自分の恋人であると言ったり、占有したりすることを強く面に出すことはしなかった。

 

「オレがいないと眠れない。そう言わせてみたいね」

「残念でした。・・・それはない」

マリナは否定したので、シャルルは少し眉を顰めた。

彼は彼女が居ないと眠れないと訴えているのに、彼女は彼が居なくても良いと言ったからだ。

誰かと一緒だと眠れないシャルルは、マリナは唯一の例外だと言っているのに。

シャルルは美しい曲線の唇から、溜息を漏らした。

「確かに、君はどこでも眠れるだろうね。繊細とはほど遠いから」

「シャルル、情報が足りない。それで判断するのは早計だわ」

マリナはそう言って更に否定した。

すでに彼女の口調ははっきりしており、目覚の会話を愉しんでいた。

彼女は上向きになり、天井を見上げて、瞼を閉じた。

そして、ぽつりと言う。

天井が低いね、と言った。

ここは彼女の日本での住まいであり、ここはパリの天井の高いシャルル・ドゥ・アルディの邸ではなかった。

微睡みを弄びながら、彼女は言った。

 

「・・・シャルルが居なくても、ひとりだと思わないから。いつもシャルルと一緒に居るような感じがするの。

どこに居ても。ひとりでも。

だから、少しも・・・・寂しくない」

 

しばし沈黙が訪れた。

マリナの言葉を引き継がなかった。

いや、引き継いで、気の利いた言葉を言うことができなかったのだ。

彼は・・・・言葉にならない想いというものが、存在することを知った。

彼はフランスの華なのに。

それなのに、この気持ちをどう表現して良いのか、すぐに言葉にすることができなかった。

 

かつて。

彼は彼女に言った。

傍に居たいと・・・離れられなくなるまで彼を愛するようになるだろう、とマリナに言ったことがあった。

しかし、その先があるとマリナは言う。

傍に居なくても傍に居ると思えるほどに、思い合い、通じ合い、そしてまた深く愛することを、彼女は知っている。

 

そうだった。

 

彼女は・・・・最愛のあの男とほとんど一緒に過ごしていないのにもかかわらず、あれほど強い絆を結んだ人だった。

だから、彼は彼女を誰よりも強く求めて、深く激しく愛したというのに。

 

「・・・・君はオレの月蒼華だよ、マリナ」

シャルルは少し黙った後、そう言った。声が掠れていた。

 

「・・・月よりも遠くに居たのに。・・・そして蒼(※陰陽五行説では東に配する色)の国に住まって、オレの傍に居なくても平気だと言う。それなのに・・・・鮮やかな華のようにオレに君を忘れることを赦さなかった」

マリナはその言葉をじっと聞いていた。

忘れられないのは、彼の特徴であった。

記憶力が絶群であり、彼は誰もが認める天才であった。

「忘れなくて良いよ」

「そこは、忘れないでいて欲しいと願うところだよ、マリナ」

彼は苦笑した。目元が潤んでいる。声も震えていたが、彼女は気怠さで気がつかないというようなふりをした。マリナは、そういう時には何も言わなかった。ただ、眼を瞑り、彼に涙を零しても誰も見ていない、と無言で告げる。それが堪らなく彼を切なくさせることも知っているのに。

・・・本当に酷い人だ。

彼はそう心の中で呟いた。





■秘するが花 月蒼華26

 

「朝から難しい話ね」

「そうかな?脳の活性化には適切な程度だと思うが」

彼はそう言ったので、マリナはまた子供のように声を出して笑った。何が可笑しかったのか、シャルルには理解できなかった。しかしそこにはひとつもごまかしや嘘はなかった。

彼女はいつも・・・正直だ。磊落(らいらく:心が広く豁達なこと)で、それが、彼には眩しかった。彼の月蒼華は、彼の耳に懐かしい笑い声を聞かせる。あの時のままに。

彼女は非常に幼く見える。若く見えるのではない。幼いのだ。

ただ無邪気で居るだけではなかった。それでも彼女はこどもでも少女でもなくなった。

恋を失い愛を知り、そしてまた・・・新しい愛を築くことに、シャルルのように躊躇ったり戸惑ったり憂えたりしない。正確に言えば、躊躇を感じているが、それでも臆さないで・・・ひとりよがりの愛に溺れることをしない強さと潔さを持っているのだ。

飛び込む勇気を知っているが、その先にあるのがいつも必ず自分の望んだものであると限らないことも、よく知っていた。

それが彼をどんなに強く惹きつけているのか、知らない。

 

彼と彼女は大人になった。

 

抱き合わない夜も知っている。

互いの温度を感じる夜を知っている。

 

「シャルルは忘れられないのでしょう・・・いろいろなことを」

「そう。だから時折、君のようになったら、さぞかし苦労するのだろうなと思うことがある」

「楽になるのではなくて?」

彼女が不平を漏らしたので、シャルルは微笑んだ。

「忘れたくないから」

「そう・・・・そうなのね」

マリナが静かに言った。朝だね、ともう一度言った。

彼女は顔を起こして、外を見た。乱れた茶の髪が彼女の頬や、竦めた首筋で躍っている。

「眩しい」

「それならさっさと起きたらどうだ」

「一度目が醒めてから眠るのは、とても贅沢で倖せなのよ。・・・まだ眠いし怠い」

「それは怠惰と言う。マリナ、倦怠を感じるのは時差を感じているからだ。しかし君は時間通りに眠っただろう・・・」

「ああ、シャルル。そうじゃない」

彼女はそう言うと、スプリングを軋ませて、毛布を身体に巻き付けながら起き上がった。

「倖せを感じることは怠惰ではない。倖せは倖せなのよ。ひとつひとつを変換するのはとても勿体ないことだと思わないのかしら」

彼女は首を傾げて、纏う毛布の端で顔を拭った。

まだ眠気を感じるというのは本当らしい。

 

「もう起きないといけないの?」

彼女は眼を細めて、周囲を見回して朝の気配をもっとよく感じ取ろうとした。

マリナは目が弱いので、そうしなければ周囲を知ることができない。

「いや・・・まだ少し時間がある」

彼はそれだけ言うと、ゆっくりと彼女の傍に寄った。日本式の住居なので、彼は素足だった。静かにゆっくりと僅かな衣擦れだけを伴にして、彼は彼女に近付き、腰を落とした。

次に、マリナを毛布ごと、大きな胸の中に入れる。

「シャルル」

「しばらく、このままで」

彼は彼女の茶色の髪に頬を傾けて、目を閉じ・・表情を埋める。

背中に腕を回して、彼女を包み込んだ。眠っていないので、目の端が痛む。

こうしていることすら、夢のようだった。一生分の夢を見たと言ったのに。

彼はまた夢のような空気を纏うことを赦された。生涯、もう、誰も・・・誰もこんな風に、彼に夢を見させる相手は現れないだろうと思った。

 

彼の腕は小刻みに震えていた。肩も僅かに震動を伝えてくる。

マリナは黙って彼の腕と胸の間で呼吸を繰り返した。

蒼灰の瞳をした・・・月の夜空の下で咲くような、フランスの華が哀しんでいた。

ひとり眠れず、憂えていた。それがマリナの覚醒を促す。

もう離さないと言って彼女を抱き締めた時に似ていた。

 

マリナは腕を伸ばした。身動きが取れなかったので、手の平を彼の胸に伸ばす。

浅い呼吸が繰り返された。互いが、呼吸ができなくなるほど苦しいと想いながら、どうにもならなかった。愛をするということは、こういうことなのだ。胸躍ることばかりではない。愛おしすぎて、好きになりすぎて・・・・また愛する。

命が巡るように、愛も巡る。繰り返すのではなく、更に大きな違うものになって、それまでのものも内包しながら、更に・・・巡る。彼女と彼の体内を巡り、滾らせ、そしてまた・・・静寂さえ共有する。

 

「シャルル」

マリナが囁いた。彼の白金の髪に顔を寄せて・・・そして耳元で囁く。

「また・・・また私は倖せになる。シャルルもまた・・・倖せになってくれる?」

シャルル・ドゥ・アルディの腕の力が強くなった。

ますます深く、彼女の髪に顔を埋める。

息もできないほど、強く彼のファム・ファタルを抱き締める。

彼は溜息混じりに言った。

皮肉屋で、何に対しても冷淡である彼が、シャルルの内に眠っている激しい感情すべてを凝縮したような想いを込めて、彼女に言った。

 

「オレはずっと・・・最初から、倖せだよ」

それだけしか言わなかった。

マリナは、ありがとう、と言った。

「ふたりで・・・ふたりで、倖せになるのよね。また、倖せになるのよね」

「マリナ。これで最後にしてくれ。

君がオレ以外の誰かと紡ぐ新しい倖せはやって来ないから、そのつもりで」





■秘するが花 月蒼華27

 

マリナは大きく息を吸った。

それは肯定だった。

次に、もう・・・このまま眠ってしまいたいと言った。

彼女はそうやって、事実と異なる願いを口にする。

本当はもう目が醒めており、微睡みの世界と決別しているのに、彼女はシャルルがまだ眠っていないことを知って、眠りに誘う。

彼は笑った。

 

いつもマリナの願いを叶えてしまう。

たとえどんなに困難なことであっても、叶えてやりたいと思い、そしてそれを実現できるのはシャルルだけであるということを確認する。

決してそうしてはいけないと理解しているのに。

それでも・・・抗えない。彼女の願いを叶えることで彼は倖せを感じていたから。

奉仕とは違っていた。魂の試練だった。

愛の前に、理をねじ伏せた。

・・・死の帳を吹き払い、死に行こうとしている者を生者の世界に蘇らせることもした。

 

彼女はそれを深く憂えている。今でも深く憂えている。

だから、彼には何も望まないように努めているようにさえ思える。

 

シャルルは憂える。

払暁を越えているのに、彼女はシャルルの微睡みを願う。

そして、気怠げな様子の彼女を彼は静かに受け入れる。

一緒に眠り、一緒に笑い、ともに過ごしたあの短い時間だった。

共有した何もかもが鮮やかに蘇る。音も香りも彼は記憶していた。

今の彼女の髪は、あの時と同じようで違う香りが漂っていた。

記憶しているはずなのに、なぜだろう。

・・・・曖昧であることをシャルルは愉しんだ。

「ああ、もう一眠りしたいところよね」

「朝だ、と言ったのは、君なのに」

「眠る時は幸福を感じながら眠ることにしているの」

彼女はそう言って、シャルルのような言葉を述べてしまったと言った。

涙を流し、眠れないが目を閉じなければならない夜を知っているからこその発言だった。

豪胆な気質のマリナが、眠れない日々を知った。大人になって、それらの日々を重ねてそしてまた彼女は一枚一枚薄い衣を脱いでいく。他者と彼女が違うところはそこであった。人は皆、年月を経ると鈍感になっていく。衣を纏っていき、傷つくことに鈍くなることで均衡を保持し続ける。

 

彼女は畏れていない。倖せが去っても、また彼女は倖せになれる。

だからわかるのだ。

彼が眠れない理由を。

そして、眠れない理由を、孤独とともに内に深く抱えるシャルルに意識を向ける。

それが苦しい。

彼は彼女の額に唇をあてた。

彼女の温度は彼を浸食する。

 

心地好い波に酔う。

・・・・たったこれだけのことなのに。

こうしているだけで、彼は満たされていく。

 

「月蒼華という言葉は悪くないね。・・・次の薔薇に名付けることにするよ」

彼はそう言って目を閉じた。

別れと出会いを繰り返し経験しなければわからないその言葉の意味を、あの男は、いつからわかっていたのだろうか。

彼女にも教えたのだろう。いつか・・・その言葉がシャルルに向かって発せられることを予想した。

その言葉が今・・・マリナの唇から流れるということは、偶然でも不可避でもなかった。

 

その時が来たから。

ただそれだけが理由だった。

 

シャルルが筺の中の秘密を見たように、彼女にも・・・決して言うことはないと思っていたであろう秘密の言葉を宙に放った。

それがシャルルの躰に風となって吹き抜ける。

彼の声を聞いていないのに、聞こえてくるようだった。

彼は、言葉しか遺さなかったのに。それなのに、声が蘇る。

 

「シャルル。・・・・あのパソコンは、もう、動かない」

彼女は彼の肩越しに、部屋の反対側にあったそれに視線を移したようだ。茶色の髪が僅かに動いたので、それを知る。

大きく溜息をついた。彼女がいつから目が醒めていたのか・・・・まだ、尋ねることが出来なかった。

それを問いただしても、彼女は決して真実を述べないで微笑むだけだということもわかっていた。

「希望するなら、修理するが」「いえ・・・・」

マリナは静かに彼の申し出を辞退した。

「役割を終えた。ご苦労様と言って見送る対象でしかない。また呼び戻せば、それは巡りから外れた行為になってしまう」

彼女は、まだ、あの時のことを気に病んでいるようだった。

彼女の友を救うために、彼が罪深いことをしたと思っている。

だから、何かを・・・・終えてしまったものをもう一度やり直すとか、再生させるというようなことにマリナはいつも心を穏やかにさせることができなかった。

「必要があるなら、それは可能だと思うよ。もう、部品がないだろうから・・・外観は相当変わるが、ハードの記録は・・・」「シャルル、本当に良いの」

マリナがそう言って、彼の肩に額を埋めた。

 

そして静かに言う。

「・・・私は捨てなられない」

「良いよ」

 

彼は即答したが、苦悶に満ちた表情を彼女に見せまいとして、唇を噛んだ。

彼女は捨てられない。あの男との日々を捨てられない。そう言ったから。

それでも良いと思ったばかりなのに。実際に彼女の口からそれを聞くと、張り裂けそうな痛みが彼を襲うので、彼は高潔であろうとして、すべてを赦そうとして・・・犇めく環状の波に、気が遠くなりそうになる。





■秘するが花 月蒼華28

 

「捨てることはないだろう」

彼は囁く。

自分の言葉が機械的だと思ったが、それでも抑揚を極力抑えた物言いに努めた結果であるから、致し方ないと判断した。

甘くて苦いものが彼の唇に堕ちてきたが、極力、それを感じさせない口調で、そう言った。

「もう、あれに電源を入れることはない。けれども捨てられない。」

彼女の最後の質問に、シャルルは目を細めた。彼女は残酷だ。

「わかっているよ」

「わかってないわ」

マリナが溜息をついた。ゆっくりと瞬きをする。そして躰を起こし、彼の頬から顎にかけて、自分の手の平を置いた。小さな手の平が、シャルルの貌を覆う。

白金の髪と青灰色の瞳の青年がそこに居た。

少女のような面立ちは消えていた。

高い鼻梁に薄い唇に・・・深い彫りの眸がそこにあった。

視線はマリナに向けられており、その瞳の中に彼女が映り込んでいる。

彼は大人になった。それが嬉しい、と彼女は言った。彼が愛しているのか、過去の彼女なのかもしれないと憂えて居るのに。深呼吸をして、彼の顔を覗き込んだ。

茶色の目が、瞬きを忘れて彼に言葉以外のものを伝えようとする。

 

やがてマリナは静かに言った。

「・・・シャルルを喚んでくれたから」

そして小さく気恥ずかしそうに笑った。

「・・・シャルルが私のことを忘れないでいてくれたことを知ることが出来たから」

シャルルは目を閉じることさえしなかった。

彼も・・・瞬きを放棄して、彼女の顔をじっと覗き込んでいた。

朝が来て、真白の光がふたりへと向かって射し込んでいく面を広げていく。

どうして、彼女はいつも・・・シャルルの想定を越えた言葉を紡ぐのだろう。

どうして、彼女はいつも・・・シャルルに更に深い愛を刻むのだろう。

 

確かに、残酷な人だ。それでいて、いとおしい。

もう離れてはいられないほどに、惹きつけられる。

彼女に何かがあったら、彼女が真っ先に喚ぶのは、彼であって欲しいと強く願った。

 

掠れた声で返答する。

 

「・・・オレはここにいるのに?」

「・・・私はここにいるのに」

彼女はそう言って笑った。少し首を傾げる。彼と彼女の繋がりを蘇らせたそれは、すでにもう・・・再現する必要はなかった。シャルルとマリナをもう一度引き合わせる目的は果たされたから。そして、シャルルに伝えるべき言葉も伝え終わったから。

 

「・・・・だから、捨てられないものもあるのよ、シャルル・ドゥ・アルディ」

彼女はそう言って、起きようかと言った。

「眠るのは勿体ないわね。・・・・朝の散歩に行きましょうよ」

彼女はそう言って立ち上がろうとする。

彼の胸から離れようとして両手をシャルルの端整な貌から離したその時のことだった。

シャルルが、そっと・・・淡雪に触れるかのように、そっと、彼女の手の甲を自分の手の平で、包んだので、彼女は動きを止めて、しばしシャルルの貌を見つめていた。

吸い込まれそうなほどに美しい彼の眸が少しだけ濡れていたように思えた。

 

「少し眠りたい」

「良いわよ。どうぞ。ひとりで散歩してくるからその間に休んでいて」

彼女はシャルルの希望に頷いた。

そして彼女は躰を引き離すので、シャルルは手の平を滑らせて、彼女の両の手首を細く長い指先で絡めて捉えた。

彼は微笑んだ。

「オレは君と眠りたいんだ」

「もう眠くない。・・・・シャルルは少し眠った方が良い」

落胆しかもたらさないマリナの回答に、シャルルは淡く溜息を落とす。

彼女はまったく雰囲気というものを理解できないから、彼を失望させるということに気がついていない。

そして白金の髪の下から、青灰色の瞳をちかりと一瞬だけ強く光らせると・・・そのまま指に力を入れて、彼女を自分の方に今一度引き寄せた。

小さな悲鳴が聞こえたが、彼はそれを無視した。

「シャルル・・?」

彼女が戸惑った声を出していた。

それでも、少しも力を緩めることのないシャルルは、彼女に貌を近付けて甘い誘惑をささめいた。触れそうで触れないほどに近い場所で彼の唇が動く。

「・・・・ひとりで眠る時には、何を考えている?」

「何も」

彼女が目を反らしたので、彼は彼女の額に自分の額を押しつけた。

「本当に?何も?誰のことも考えないで?眠れない夜を過ごすときに何も考えない?」

「ああ、シャルル。さっきから、シャルルは質問ばかりよ。眠気で機嫌が悪いとしか思えない」

彼はほとんど質問をしない。理解できないものについて誰かに尋ねるのではなく、情報を収集するための問いかけしかしないことも、マリナは良く知っていた。

それなのに、ただ・・・こうしてひとりの男として彼はいつもマリナに言葉を注ぐ。

目の前のシャルルは、フランスの華という称号も、アルディ家の当主という肩書きもなかった。ただのシャルルだった。白金の髪の、青灰色の瞳の青年に吸い込まれそうなほど強烈な惹力を感じている。

美しいから。

知能が高いから。

古の家柄の主だから。

それらは、マリナにとっては付加価値でしかなかった。

彼に附随しているだけだった。

彼女はそれらを差しだそうとすれば、いらないと言うだろう。

マリナが本当に欲しいと思うものは本当に少なかった。

それを思い知る。

だからこそ、惹かれる。

彼女は何もかも失った彼についてきた唯一の人だった。

 

あの時。

・・・・あの男は彼女を託した。

あの時。

窮地のシャルルに随行したのが、マリナではなく、あの男がついてきたら。

この未来はもっと違ったものになっていたのかもしれない。

けれどもそれではシャルルは救われないと思ったあの男は、マリナを・・・最愛の人を、シャルルについて行かせた。

この意味を、考えるのだろう。これからもずっと。こたえを確認することができないから。

そしてそのことを考える瞬間、彼は、ひとりの男になる。

 

彼女は、彼が何の称号も持たない時期を知っている。

そして、彼がアルディという名前に拘る理由も知っている。

何より・・・彼が誇り高いことを・・・マリナは良く知っていた。





■秘するが花 月蒼華29

 

「捨てられないのは・・・過去ではなくて、未来なの」

彼女は大きな秘密を吐露する瞬間のように、そう言った。

静かに・・・けれどもはっきりと。

「過去じゃない。シャルルとの再会をもたらしてくれた様々なものを拠り所とする私はとても・・・とても惨めだと思うけれど、それでも捨てられない」

「どうして惨めなのか、理解できない」

彼はそう言って、彼女のこめかみに頬を押しつけた。

唇を重ねることもできた。更に、肌を重ねることもできる。

彼女はシャルルの行動を拒否しない。

しかし、シャルルはそうしなかった。

何も言わずに、彼はじっと彼女の温度を確認しているかのようだった。

・・・彼女の貌が近かった。

震えとともにシャルルが呼吸する。拒絶されるかと思ったのだろうか。

身を固くしたマリナのことを無視して先に進むかと思ったのに。

シャルル・ドゥ・アルディはそこで行動を停止することができた。その先に進むことも。

しかし、彼はそこで・・・前者を選んだ。

懇願の響きを持つマリナの声に反応したからだ。

うまく交わらない彼と彼女の何かについて、シャルルが深く傷ついていることを知る。

「・・・今、オレのことを試しているの?」

「なぜ?・・・私はシャルルのこたえを求めていない」

痺れに似た感覚が、マリナとシャルルを各々包む。何をするべきなのか、わからない。

けれども・・・彼は、マリナの貌を直視することができそうもなかった。

 

「・・・これが伝わらなかったら、それでもよい」

「諦めるということかな」

「ああ、シャルルは質問してばかりね」彼女は笑った。

「そうではない。・・・・伝わらなくても伝えたいことについて、自己満足に浸っているだけ」

「自己満足ね・・・」

シャルルは苦笑した。

自分だけの満足で彼女が何かを発信することはなかった。

彼女はいつも・・・他者のことを思って何かを言うか、心の内のままに何かを告げる。

それらに、ごまかしはきかない。触れあうだけで、重ねるだけで、それだけでとても苦しい。それなのに、いつまでも触れていたい。

「君を・・・つかまえておくよ」

「シャルル・ドゥ・アルディらしからぬ弱気な発言ね」

彼女は苦笑した。

あの男の思いを知ってしまったからなのかもしれない。

声を残さずに、文字だけを残した。そして・・・彼と彼女をもう一度引き合わせた。

やり直すのではなく、最初から・・・そう、愛を最初から始めるために。

どこまでも自分を出さない人だ。

しかし、彼女を・・・マリナを愛しているという点では、シャルルと同じだった。

共通点を誰かを見いだすことで、安堵する者も居るが、シャルルはそうは思わない。

彼は唯一ひとりだからだ。誰も彼の代わりにならない。

誰も彼を越えることは出来ても、彼そのものになることはできない。

だから、シャルルの愛し方とあの男の愛し方は違う。

決して手を離さない。

それを一度決めてしまえば、覆さない。

独占できないくらいに愛してしまった。けれども、独占しないことが彼女を悩ませるのであれば、彼は生涯をかけて、彼女を占有しようと思った。

どこに行っても、帰る場所は彼のところだけだと思わせる。

数多の者たちと、シャルルが異なることを証明してみせる。

彼女が他の誰を愛そうとも。シャルルが彼女を愛しているという事実は消えない。

残酷なのは、シャルルの方だと思った。

けれども。

それでも、こういう愛し方しかできなかった。

「・・・・オレは君をこういう愛し方でしか愛せない。それでも良いかとは尋ねないよ」

「わかっている」

マリナがそう言ったので、彼は安堵の吐息を、彼女の髪に混ぜた。

あの日々は戻らない。苦しくてそれでも生きていると実感し、無色であった景色が、一瞬にして鮮やかになった日々。

取り戻せないから美しいのだとわかっているが、それでも、そこに戻りたいからマリナが必要なのではなく・・・その先を夢見ていたいから、彼女を欲しているのだと・・・彼自身がよく承知していたことであったのに。

それでも彼女にうまく伝えられない。

彼はフランスの華なのに。

彼は・・・彼にできないことはないと思っていたのに。

彼女への想いだけは、うまく処理できない。





■秘するが花 月蒼華30

 

「捨てられない」

マリナが静かにそう言った。もう一度だけ。

彼の肩越しに・・・閉じられた筺を見つめていた彼女は、彼の肩に額を擦りつけて、静かにそう言った。

 

今が、その時だよ、と・・・・

 

誰かに背中を押されたかのように。

それでいて、最初からシャルルにそう言うことを決めていたかのように。

彼女は、目を閉じて、彼の腕の温もりを感じながら、朝の光の中で、言った。

彼が最初からそれを気にしているのは知っていた。だから、眠った。

自分が眠りに落ちている間に、彼がどんな行動をするのか、わかっていた。

それでも、特に気にしていなかった。

巡るから。

命は、巡るから。

彼はマリナの運命の人であるから。

彼はマリナの月蒼華であり、マリナは彼の月蒼華であるから。

 

「大事に持っていれば、これが動いている限り・・・いつか・・・私の月蒼華に・・逢いたい人に逢えるからと言われたからよ」

マリナの背中に回されていた指先に、力が入った。

あの男の言う言葉を信じたマリナを切ないと思うのか、また逢えると思って大事に使用し続けたマリナを愛おしいと思うのか・・・もう、どちらなのかわからなかった。

彼はフランスの華であるのに。彼にわからないことはないのに。

 

動かなくなった時に。

連絡が来た。だから、あの男の言うことには、矛盾があった。それを使い続けているうちは、彼と彼女は逢えなかったからだ。

つまりは・・・それが寿命を迎える時ほど、長い年月が経過して、それでもなお、互いが求め合うのであれば、それは運命だから、と彼は言いたかったのかもしれない。

それほどの年月が、必要だったのだろう。

こうして抱き合うまでになるようになるまでには、とても・・・長い年月と邂逅が必要だったのだろう。

巡って、そして始まった。やり直すのではない。始まったのだ。

月蒼華という言葉について考える。

それは唐突ではなく、月が満ちて、そして蒼い華を咲かせた。

あり得ないとされたその薔薇は、今ではまったく考えられない不可能な華ではなくなった。

時が来て・・・奇蹟のような邂逅を経て・・・そして今に至る。

「オレは決して・・・長いと思わなかったよ」

「そう」

マリナはそう言って笑った。あの時、アデュウと言ったのに。

それなのに、彼女はまた逢えると・・そしてあの男はまた出会うだろうと信じていた。

なぜ・・・これほどまでに、彼らは不器用なのだろう。

連絡をすることなど簡単なのに。最初に連絡してきたときと同じように、メールを流せばすむ話であったのに。

それでは、駄目なのだと知っていたのだろうと思った。

 

彼女は与えられる幸せは必要としない。

自分で幸せになるために進んでいく。どこまでも・・どこまでも。

 

彼は彼女を抱き締める。

朝の光が強く射し込んできて、彼女は瞬きをした。

「シャルル、そろそろ・・・寝るか起きるかどちらかにしたら?」

「君の提案は受け入れない」

彼はそう言って彼女の躰を倒した。背中から、スプリングの軋む音がして、マリナが小さな悲鳴を上げる。

体軀の差がありすぎるシャルルがマリナに被さると、彼女は大変に小柄であるので、すっぽりと覆われてしまった。急に視界が変化し、低い天井しか見えなくなったので、マリナがシャルルの背中を軽く叩いたが、それを無視して、シャルルは彼女の首元に唇を寄せた。

「待つのは平気だ。待たせるのも然り。けれども、自分の意志に反して待たされることには耐えられない。オレを誰だと思っているのか、君に尋ねたいくらいだ」

「シャルル・ドゥ・アルディ」

彼女が怒ったようにそう言った。覚醒を終えたマリナは、彼の睡臥に随伴するつもりはないらしい。全身の力を込めて、彼に抗おうとしたが、彼の躰の重みがマリナの自由を妨げた。

「離さないと言っただろう」

彼はそう言って、彼女の温度を確かめる。

 

しかし、そこでふと、力を緩めて、シャルルは身を離した。急に脱力したので、眼を固く瞑って、唇を噛んでいたマリナが目を見開いた。

「・・・でも、ここでは抱かない」

彼はそれだけ言うと、完全に躰を起こして、白金の髪を掻き上げ、乱れを直した。

「マリナ。ティーを煎れろ。喉が渇いた」

「シャルル」

マリナがシャルルの物言いに抗議した。

彼は冷たい視線を彼女に向けて、高い鼻梁を横に背けた。すでにいつものシャルル・ドゥ・アルディであった。驕慢な言い方に、彼女を息を呑んだ。

優しい囁きを、今、彼女に向けたばかりだというのに。シャルルの感情のスイッチがわからないとマリナは呟いた。それを聞くと、彼はじろりと、青灰色の瞳をマリナに向けて、頬を緩めて唇を歪める。

「何だよ・・・起きると言ったのはマリナだろう?オレに何か抗議をしたいのであれば、それなりの理由を言え」

彼女は貌を朱くして頬を膨らませた。

シャルルの行動にはいつも理由があり、一連の繋がりがあるが、それをマリナがすべて理解しているとは限らないということを、マリナは知っている。

だから、憤慨するのだ。

理解していても、同意はできない。

彼をすべて肯定しない彼女をシャルルが面白がっているようにさえ思える。

彼がフランスの華であり、大変に繊細で知性があり誇り高い人物であるが・・・それ以上に、大変に扱いにくい人物であることを思い知る。

理性と感情の相克が、彼を形成しているのだろうと思う。

しかし、彼はそれ以上に・・・推し量ることの出来ないもっと複雑な何かで構成されている。

彼女が眼を瞑っている間に、彼は何を思い何を知ったのだろうか。

何かが、少しだけ変わったような気がした。

そんな考えを、彼のファム・ファタルが思い巡らしていることも、手に取るようにわかったフランスの華は、綺麗な微笑みを浮かべる。

「マリナ。・・・ひとつだけ忠告しておこう」

彼はそう言って彼女を見下ろした。

まだ梳られていない髪が揺れて朝の光で白く輝いて見える。

「・・・・眠っている演技をするならば、君は失格だね。・・・もっと寝返りを打たないと、人間の生理学上、その頻度はあり得ない」

どこから目を醒ましていたのか、それとも最初から起きていたのか、彼は尋ねなかった。

もう、どちらでも良かったからだ。

彼女がここに居る。それだけで、十分だった。

彼の物思いは、秘めたる想いとして永遠に胸にしまい込むと誓った。

だから、彼は何も言わなかった。

すべてを知ることが、愛ではないと知っているからだ。

それを教えたのは、マリナである。彼のただひとりのファム・ファタルが、彼に輝く限り・・・彼は月蒼華という言葉の意味を幾通りも考える。

 

命が巡ること。

再び邂逅すること。

そして・・・時期が来て華を咲かせる愛は、決して枯れはしないのだということだ。

 

唇を横にぎゅっと引いて絶句しているマリナに、シャルルは微笑んだ。

彼女をこのままここで自分の体温で温めることも可能であった。

けれどもそうしなかった。

彼女とこうして言葉を交わすことの愛おしさを、もう少しだけ味わっていたかったからだ。

もう、離さない。

 

月蒼華という意味を知っているか?

 

あの男の声が再び聞こえて来た。

 

愛を魂の試練だと言ったフランスの華は、長い試練にも似た年月を経て、二人寄り添い決して手を離さないと誓う相手に巡り会った。

 

その時ドアが乱暴に叩かれる音がした。

大家の息子のノック音だ。彼はチャイムコールを嫌ってこうしていつも扉を叩く。

彼の師と同じ癖を持つ、マリナの小さな友人が尋ねてきたのだ。

「ああ、こんなに朝早く・・・・」

マリナが顔を上げて、扉を見遣った。そして目を細めて、躰を起こし、床に転がったままの小さな目覚まし時計に顔を近付けて、次に小さな悲鳴を上げた。

「忘れていた!・・・今日は散歩をしようと約束していた」

彼女は慌てて飛び起きた。目を擦りながら、シャルルの方を向かない彼女に、呆れてシャルルは声をかけた。

「マリナ。君は、ダイと朝から散歩?オレが居るのに?」

彼が顔を顰めたので、マリナはちらりと彼の顔を見て、そして不思議そうに言った。

そして扉を不均一に叩き続ける音にむかって、宥め賺すように声を漏らしながら近付いて行く。そして、そのついでといった様子で言った。

「そうよ。だから散歩をしようと誘ったのに。・・・シャルルも来たかったらついて来たら?とっておきの・・・スケッチに向いた場所があるの」

シャルルは溜息をついた。彼のファム・ファタルは、恋人よりも・・・小さな友人との約束の方が大事らしい。

シャルル、と言ってマリナは微笑みながら言った。身支度をしながら、言った。

「逢いたい人に逢いたい時に逢えるというのは・・・とても恵まれたことだということがわかったの。だからね、シャルル。私は逢いたい人に逢えるということはとても・・・幸せなのだと思うの」

「それが君の幸せ?」

「そう。私はそう思うからいつも幸せになれる」

その言葉を聞いて、シャルルは目を細めた。

 

彼女は誰かに幸せを与えてもらうのではなく、自ら幸せになる人物で・・・・そして、各々の幸せに優劣をつけない。いつも、最上の幸せを創り続ける。

 

彼女は創作者であるが、これからも・・・幸せという・・・月蒼華という最高の作品を創り続けるのだろう、と思った。

 

シャルルは独り、ベッドに残されて、白金の髪を掻き上げた。

こちらからは死角になって見えないが、扉を開けて、向こう側の来訪者に玄関で待つように言うマリナの声が早口で聞こえてくる。

相手は相当むっつりして不機嫌そうだった。待ち合わせにだいぶ遅れてしまったので、迎えに来たらしい。

・・・ここは、彼が出て行くべきだろうか。玄関の様子から、来訪者が居ることは、彼にはわかっているはずだった。

 

彼女が慈しみ、彼女を守ってきた小さなナイトに、彼女を渡すつもりはなかった。

ここはやはり、マリナの動揺する顔と、彼女を見届けてきたナイトの不機嫌そうな顔を交互に見て愉しむことにする。どんな言葉をかけようか、彼は考えを巡らせ始めた。

マリナとシャルルの薄い夜着姿を見せたらどんな顔をするだろうか。

こたえがわかっているのに、想像するだけで苦笑が漏れる。

 

シャルル・ドゥ・アルディは苦笑しながら・・・ゆっくりと立ち上がった。

寝不足の懈さもどこか心地好く感じる。

 

朝の光の中で。彼はゆっくりと・・・・眩しい光のような人に向かって歩いた。

声のする方に、導かれるように進む。

背を伸ばした。

初めて、この場所を訪れた時から、さらに彼は背が伸びた。

あの時も小さな狭い部屋だと思った。今もそう思う。・・・けれども。

ここに、宇宙のような広がりがあると思った。

 

残された言葉を、確かに受け取った。

 

 

彼はそう呟きながら、酷薄そうな微笑みを浮かべた。

いつもの、シャルル・ドゥ・アルディだった。

 

一生分の夢を見た、と言ったのに。

また今ひとたび・・・彼は夢のような倖せを味わう。

 

ふたりで・・・また、倖せになろう。

 

彼は強く心にそれを刻んだ。秘めたる想いと同じくらい、強く。

 

フランスの華と呼ばれる白金の髪と青灰色の瞳の青年は、青春の輝きの時代を越えて・・・倖せに満ちた微笑みをしていた。

 

(FIN)

 


秘するが花 01

日本では「沈黙は金なり」とか「黙するが吉」とかいうのだろうか
沈黙していること、沈黙している間に何を思うのか、はまったく別の話である。

もうどのくらいこの気持ちを封印しているのだろう
封印していること自体が「日常」になってしまっていた


あのとき
あの瞬間

どうして手を離してしまったのだろう

「やって後悔の方がいい。やらなかった後悔で悔やみたくないの」
彼女はよくそう言っていた。

彼にとっては、その行動すべてがその結果について容易に推測できていたから、
なぜ人がそのように後悔をするのかわからなかった。
だったら、最初から何も行動しなければ良いのに。


だけど。


今でも夢に見る

柔らかな頬
日本人にしてはやや色素の薄い茶色の髪、茶色の瞳
視力が良くないせいか、眼鏡を取ると、一瞬焦点が合わずに
不安げな表情をする表情豊かな顔

人が自分に群がっているときには見向きもしないのに
誰も残らなくなったあの「暗黒の時期」に「そばにいる」と言った彼女

本当に変わってる

完璧なカーブの頬を緩ませた
回想しているときはいつもこうだ

幸せな気持ちになれる

もう、十分だ
そう思っていた

そしてもう何年も経っているのにもかかわらず
彼女は未だに彼の心の奥深くで
彼のあまたある関心という分野のうちの、大きな範囲を占めているのだ。
記憶は薄れていくモノなのに、日に日に 思い出すたびに

鮮やかによみがえっていく

彼はその人の名を小さく呟いた
誰にも聞こえないように
自分自身にさえ聞こえないように

彼女が自分を呼ぶいらえが聞こえるようだった
ざわっとした小さな波が 紋を作って広がっていくようだった

明らかにこのキーワードが
彼の記憶のシナプスを刺激するのだ

 

 

逢いたい
逢いたい
逢いたい


どうあっても彼女を手に入れることなどできないのに
彼の頭の中では どうやって彼女を捕らえるか
何万通りものシュミレーションを行ってきた

でも 結果を導くための材料、ピースが足りなかった

それは彼女の気持ち

 

もう愛情なのか執着なのかそれすらもわからないくらいに
彼は彼女のことを考え続ける


秘めたる花
運命のひと

彼にとって彼女は一体何なのか


問われたところで 表現する言葉は無限にある。
要するに、自分にとってどのくらい大切であるかを
表現することができないのである

 

この燻りを 今日も消すことができなかった

 

オレのファム・ファタル

彼女を形容する言葉の前に「オレの」という言葉を追加するときだけは
彼女を独占することができる
一種の言霊信仰ではあるが
彼女を束縛できるものがあるのであれば
彼は何通りもの言霊を彼女に向けて発することができる
それこそ絶え間なく。


元気でいるだろうか
幸せだろうか
泣いていないか


まえがき

▼まえがき

シャルルとマリナのその後というのは、やはり、ふたりが少し大人になってからなのでしょう。
愛と恋との区別がつき、それでも分別が一緒について回るので、連絡が取れない状況。

自分の年齢のせいもありますが、20代後半に突入したばかりでぎこちなさは残っているけれど大人になりきれない・・・そんなもどかしさが出ると良いなと思い創作。

ばったり再会というシチュエーションも考えたのですが
ある日突然、大事な人からMailが来たら・・・そんな平成版の再会を書いてみようと思います。


tomogon



読者登録

tomogonさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について