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第1章

 

 …再びぼくは、なつかしい我が家に戻って来た。何もかもが以前のままだ。庭が少し荒れてはいたが、直しさえすればまた元どおりになるだろう。空は澄んでいて、相変わらず夢誘うように美しい。この旅によって、一体何が変わったのか? 家も部屋も村の様子も元どおり。しかし、ぼくの心の中だけが変わっていた。もはや以前のようではあり得ず、新たなる次のステップへと、ぼくの心は向かうだろう。

 しかし今や、なつかしさだけが、ぼくの胸にこみあげていた。リサのいなくなった家。以前、リサがいて、一緒に遊んだこともある部屋。それらの部屋が、今も、そっくりそのままの姿で残っていた。鎧戸をあけ、光を導くと共に、窓を勢いよくあけ放つと、ひんやりした空気が室内に入って来る。それと共に、ぼくの目には、田舎独特の風景や、そして匂いが飛び込んで来た。なんと快く、それらは心に落ち着きを与えるのだろう。しかし、どこか寂しかった。リサが一緒にいないということが、少し、ぼくの心を空しくした。

 それにしても素晴らしい眺め。西に向いている荒野の側も好きだったが、反対の芝が中央を占領している広々とした庭も好きだった。周辺には様々な木が植え込まれ、その奥がどうなっているのか果てしがなく、その果てのない様子がぼくは好きだった。リサと暮らしていたとき、リサが木の陰に隠れていて、難しい顔をして庭を歩いて来たぼくの前に、戯っぽい笑顔を見せながら、突然姿を現して、ぼくを驚かせたこともあったのだ。

 そんな日もあったと、ぼくは、二階の窓から庭を眺め降ろした。そう、時は過ぎ行く。一刻も無駄にはできないのだ。そしてぼくは、この地に埋もれてしまうこともできない。

 もし、この家にみんながやって来るのなら、ママも、セーラもリサも、みんなが帰って来るのなら、この家もきっと生きて来るだろう。オディープの、あのときの幸せが、蘇るだろう。しかし彼女らのいないこのドシアンの家は、火のつかないろうそくのようなものなのだ。それにぼくは、もしあのときの幸せが戻るものなら、オディープのあの家でこそふさわしいと今も考えている。ドシアンのこの家は、悲しいけれど、仮の家でしかない。リサと二人きりという幸せな思い出もあるが、やはりみんなが揃っていたオディープの家こそが、ぼくの、ぼくたち全部の幸せの原点だったのだ。今は人手に渡り、どんな風になっているかも分からなかったが、いつかはきっと行ってみたいという願望を持っている。一番思い出が深いのは、オディープをおいて他にはなかった。

 そしてぼくは、今回の旅において、ママらが、あのオディープへ向かう、ほんの一歩手前まで突き止めることができたのだ。ぼくの、生前からの連関――それが今、明らかになりつつあった。どうしてぼくたちがオディープに生まれ、そこで幸せな子供時代を送ることができたのか、その理由が明らかになりつつあった。

 今、ぼくはこの寂しい家で一人だったけれども、ぼくの心は燃えていた。たった一人で自分は幸せ者だと感じていた。


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 …ドシアンに戻ってから、長い、退屈な日が始まった。戻って来たのはもう初夏になりかけていたけれども、夏が過ぎ、やがて秋が訪れ、そのうちに冬となってしまった。

 

 ドシアンでの季節の移ろい。それは素晴らしいもので、飽きることはなかった。そして平穏な、何一つ変わることのない生活を送っていた秋の初め頃になって、一通の、衝撃的な手紙が舞い込んだ。

 日曜たびに、森の小さな小屋を借りて、子供たちにお伽話を聞かせていたセーラが、一人の金持ちの青年実業家に見染められて、結婚することになった、という内容の手紙だった。

 家も、北の方の小田舎町のはずれにある寂しいが、しかし素晴らしいところにある、その青年が所有するお城のような立派な館に引っ越すことになったと、それには書かれてあった。

 ぼくは何度もその手紙を読み返し、震える手を払うことができなかった。あのセーラがついに結婚することになったのだ。恐れていたそのときが、ついにやって来た。しかもこんなに早く。ぼくは、ぼくの夢が遠のくのを、ただ漠然と、見つめる他はなかった。みんなが幸せに、一緒に暮らすというぼくの夢の一角が、もろくも崩れ去ったのだ…

 その後数日間というものは、気が抜けたようになり、考えもまとまらなかった。

 一度遊びに来て下さいとそれには書かれてあったが、とても会いに行く気にはなれなかった。

 そして、ぼくは空を見上げて思った。

 あのセーラが、ぼくの手から、離れて行ってしまったのだ、と。

 冬は、それから間もなくして訪れた。

 

 長く、暗く、寂しくて、辛い冬を、ぼくは耐え忍んだ。もうぼくに呼びかける者は誰もいなかった。狐どもや、小鳥たちさえ…

 完全に忘れられたような冬をぼくは耐え忍んだ。一人で、誰にも会わず、淡々と、その冬を過ごした。ぼくの友と言えば、冬ごもりの樹木や、真白な雪たち。本当を言えば、猫の一匹でも、ぼくは欲しかった。しかしぼくは、不平を言わなかった。

 何事も試練であり、どんなに逆境にあっても、いずれは必ず立ち直る、とぼくはそう信じて疑わなかった。人は不幸のままで、そのままで終わるはずがない…

 

 長く、暗く、寂しくて辛い冬は、その寂しげな風景と、冷たくて暗い室内の光景を伴って過ぎて行った。ぼくは室内にこもり、うっとおしい冬空を見上げ、ときには、近くの凍りついたような小川のほとりに散策に行ったりしながらこの冬を過ごした。春の訪れはまだずっと先だったが、ときたまその徴候は見ることができた。素晴らしく晴れ渡った冬の日などはそうだった。そんな日に限って北風は強かったが、野原に出てみたい、子供の頃に戻って、広々とした野原で凧上げでもしてみたい、というような気持は一層強まった。


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 そう、冬の寂しい日には一層、ぼくの心は子供に戻った。二人の妹を連れて、凧上げをした子供の頃。その日はどんなに遠のいてしまったことだろう! だが今でもぼくは鮮明に覚えていた。野原の草が激しく風に揺れ、ぼくは、妹に凧の一方を持ってもらって、ころあいを見計らって糸を引いた。だが、凧はなかなか上がってはくれなかった。二度三度と失敗を繰り返し、そのうち、妹たちの顔も険しいものに変わって来た。その目は疑いのまなざしとなって、ぼくに注がれた。野原では近くの農村の子供たちが丘の上に立って、そんなぼくたちの姿を見つめていたが、彼らが心の中ではあざ笑っているのではないかと気が気ではなかった。だが何度目かの後に、ついに、凧は、妹の手を離れて舞い上がった。そのとたん、ぼくたちの間には歓声が沸き上がった。広々とした草原、そして周りには森のある所で、美事、その凧は舞い上がった。強風にあおられながら、あの、真青な空に吸い込まれるように、高く、高く、舞い上がって行った。

 あの日、空が、美しい夕焼けに包まれて、心配したママが、様子を見にぼくたちの所へやって来るまで、時の経つのも忘れて、凧上げをしていた時のことを覚えている。それは今となっては、素晴らしい、幸せな、子供の頃の思い出の一ページだった。ママは、小麦色に輝いた夕陽を浴びて丘に立ち、ぼくたちを呼ぶその声で、ぼくたちは振り向いたのだ…

 

 そうだ、そんな日もあった、とぼくは窓から空を見上げながら思った。しかし、寂しく晴れ渡った冬の空は、人恋しさに呼びかけても、何んの応答もなかった。まるで人を失ったようなこの村。どうしてぼくはここに住んでいるのだろう? そしてまた住まねばならないのだろう?

 

 そんな、長い長い冬が過ぎ、春間近になって、再びセーラから、短い一通の手紙が舞い込んだ。

 結婚した夫が、去年の暮れに重い病に倒れ、ずっと看病を続けて来たがひと月余り後に、ついに息を引き取ったこと。それ以後ずっと喪に服し、今も喪に服しているが、これから先どうするか分からない、とそれには書いてあった。

 

 その手紙を前にして、ぼくの目の前に一時、光明が差すのが感じられた。

 再びセーラはひとりとなり、ぼくの手元に戻るのも夢ではないのだ。

 いずれにせよ、ぼくは彼女に会いに行こう。ラトラの村の郊外にあるという、彼女のいる素敵なお城に訪ねて行こう、とぼくはそのとき思った。それは、この春の一番の楽しみ、素晴らしい夢であった。

 長い冬のあいだに暗く閉ざされていたぼくの魂は、再び解放されたように、大きく膨らんだ。その魂の状態を、希望と名付けてもよいだろう。


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ぼくはこれまでに、様々な過去に出会い、様々に経験を積んで来た。時には絶望し、時には憂うつに捕らわれた。しかし今や希望しかなかった。大いなる希望――

 すると再び、子供の頃の記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。不幸なステリアの思い出。幸せな砂浜での遊び。コンクリートの堤防の上を、みんなで駆けて行ったときの断片的な記憶。そんな、あれやこれやが思い出されて、ぼくの頭はたちまち、記憶の宝庫と化した。折に触れ、ぼくはそれらの記憶を取り出し、ぼくの大切な宝石箱にしまうだろう。いつでも、好きなときに取り出せるように…

 

 過去の整理や読書に疲れたとき、ぼくは何気なく席を立って窓辺に歩み寄る。

 どんよりとした空の下に、冬枯れの庭の景色が目に入って来る。生まれてからこの方、何度かの冬が巡り、そのあいだに亡くなった人もいれば、生まれた人もいるかも知れない。しかし世間の喧騒など何も知らないかのように、ここの庭は、ここの世界は、静まり返り、ただ穏やかで、し~んとしている。室内に飾られた花が、冬など知らぬかのように咲いている以外は、庭には花らしい花はない。しかし木々は茂り、草は枯れず、彼方の森は山のごとくだ。なんと穏やかで、静かだろう。太陽は、雲の間からその抜道を捜しているかのように、時々、日がさしたり、ささなかったりする。こんな冬もぼくは好きだった。何も、思い煩うこともない。悩める人がいれば、ここへ来るがいい。そしてぼんやりと、くすんだ空を、枯れた庭を眺めるがいい。

 セーラもきっと、この日、この空を眺めているのだろう。そんな気がした。

 もしそうなら、同じ思いを伝えることができる。伝説の物語。遠い昔の、名も知らぬ人の語った夢物語。そんな話を聞くのは、こんな日に限るのだ。そしてそこの物陰から、伝説の人物が、鎧、兜に身を包んで、ひょいと姿を現せば、なお一層楽しいだろう。

 小さい頃、ママはどこで仕入れたのか、そんな話を語って聞かせ、ぼくたちを楽しませてくれた。――そんな幼い頃は、どこへ行ってしまったのだろう?

 おお、曇った空よ、時の停止した曇り空よ。そんな昔の姿を、ぼくの下に運んで来ておくれ。ママが本を読み、ぼくたちがめいめいの姿勢で耳を傾けた、あのなつかしい日の光景を。あのなつかしい日の思い出を…

 時が過ぎて、それぞれは、引き離されて、違った場所で、違った思いにふけり、違った夢を見る。ああ、それはいけないのだ。同じ日、同じ場所で、同じ夢を見なければ。ぼくたちは、一つにならなくては。

 

 そんなことを考えながら、ぼくは、少なくとも居場所の分かっているセーラに会いたくてたまらなくなった。そのことを、手紙で知らすべきだろうか、それとも、不意に行くべきだろうか。


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 ぼくは不意に決心をした。もう、春になるまで待てなかった。そうだ、セーラに会いに行こう。そこで、セーラがどんな暮らしをしているのか、この目で確かめよう。そう思うや、ぼくの胸は、久し振りに、奮い立つ気持でいっぱいになった。こんな新鮮な歓びを感じたのは、久し振りのことだった。ぼくはまるで十七才の若者のように、奮い立つ興奮に包まれていた。

 

 一人で暮らす家などに、それほど未練はない。

 ぼくは、三月の初め、まだ冬の抜け切らない朝、再び旅立つことにした。

 またしばらく留守にすることになるこの家よ、さようなら。昔は、リサと二人で暮らしたことがあり、かつてセーレンもいたこともある、思い出深き我が家よ、しばらくのあいだ、さらばだ。ぼくは何もかも振り切って、旅立たねばならない。未だ見ぬ希望の未来に向かって…

 

 玄関のドアを閉め、庭を横切って行くとき、昔なら、しっぽを振って見送ってくれたセーレンのことをふと思い出して、なつかしく感じた。しかしあのときなら、リサはそばにいて、何日も家をあける、ということはなかったのだ。出掛けても、ぼくはすぐ舞い戻って来て、庭や、近くの野原で、しっぽを振り、愛きょうをふりまくセーレンの相手をした。あの頃は、怠惰で、夢見ることが出来て、毎日が本当に幸せだった。

 しかし、セーレンが死に、リサが出て行き、家はふたたび死んだように静かになった。

 まるで死人のように物悲しいぼくの家。このまま時が過ぎ、朽ち果てて行くのだろうか。

 周りの自然に溶け込み、再び自然に帰って行くのもいい、とぼくは思った。生命のなきもの――それは自然に帰る他はないのだ。

 ぼくは道端に出、我が家が寂しく取り残されて、次第に遠ざかって行くのを眺めた。

 あそこには、セーレンの幽霊がいる。そしてリサの匂いも。そう、ぼくは思った。

 

 しかし今やぼくは、未来に向かって、歩み始めていた。素晴らしい青空。輝かしい太陽。

 春の到来は、もうすぐ目前だった。悲しく、憂欝な冬よ去れ。そしてぼくは今、太陽に向かって、歩んで行くのだ…

 

 やっとなつかしい丘を登り切り、ぼくは寂しくもすっきりした自分の家の近くの村の様子を眺め渡した。にわとこの白い花房を通して見える人気のない向うの丘状の森や大荒野、ふもとに広がる草原などを、ぼくはしっかりと目に刻み込んだ。それらの草木が、小刻みに風に揺れて、灰色の、いつ晴れるとも知れない、うつろな空の下で、いつまでも、すっかり静寂の中に沈み込んでいるのだった…

 

 こうして、ぼくはもう村には振り向きもせず、田舎の小さなドシアンの駅へと向かった。

 駅では、ぼくの他、村のおばさんが一人、いつ来るや知れない汽車を待つばかりだった。



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