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 ハッと顔を上げると、実里が墓の前に倒れていた。腹が痛むらしく、片手でお腹を押さえている。その表情から相当の痛みを堪えているのだろうと察せられた。

 迷ってなどいられない。悠理はすぐに実里の側に走った。

 「大丈夫か?」  

 抱え起こして声をかけると、実里はうっすらと眼を開いた。その苦しげな表情に、かすかに安堵が滲んだ。 「柊路さん?」  刹那、悠理の胸を軽い衝撃が駆け抜けた。  

 実里は柊路に心を寄せ始めているのだ。  

 当然のなりゆきにも思えた。男の悠理が見ても、柊路は男気のある男らしい男だ。

  柊路は十一月のある日、ホストクラブを辞めた。同じホスト仲間から聞いたところによると、自動車の整備工場で見習いとして働いているらしい。見習いをしながら、将来は本格的な整備士になるのを目指しているのだという。

 自らの目的を持ち、それに向かって邁進している柊路。その毅然とした生きる姿勢は、実里にも共通するものだ。そして、柊路の方も実里にベタ惚れだ。  

 あの二人なら、似合いだろう。  柊路なら実里を幸せにしてくれるし、柊路自身も言っていたように、生まれてくる赤ん坊を我が子同然に慈しむに違いない。

  二人を託すのに柊路ならば、何の愁いもない。なのに、悠理の心は晴れなかった。  

 その瞬間、彼は悟ったのだ。  俺はいつからか実里に惹かれ始めていたんだ。

  始まりがいつからかは判らない。実里を執拗につけ回していた頃では断じてないし、レイプしてやろうと思い立ったときであるはずがない。いずれにしろ、彼女につきまとっている中に彼女という人間を知るにつれ、実里という女の人間性に強く惹かれるものは感じていた、それは確かだ。

 脆そうなのに、頑固で、ひたむきで真っすぐで、優しくて。上っ面だけ友達面をして、その実、相手を蹴落とすことしか頭にないホスト仲間の中にあって、たった一人、心を許せた親友柊路と実里はとてもよく似ている。  

 外見とかいうのではなくて、魂の奥底の深い部分で似ている。だからこそ、余計に悠理は実里に惹かれたのかもしれない。

 彼女が早妃を轢いたと知りながら、悠理は次第に実里の人柄に魅せられていった。実里が彼の子を宿したと知った時、もしかしたら、親子三人で暮らせるかもしれないなどと馬鹿げた空想を夢見てしまったほどに。  

 むろん、これは、まだ愛とか恋と呼べる段階のものではない。しかし、芽生えたこの感情が少しずつ育っていけば、いずれは恋になり得る可能性のあるものではあった。  苦しげな声が聞こえて、彼は首を振った。

 今は女々しい物想いに浸っているときではない。

  冬だというのに、実里は脂汗をかいている。これはただ事ではない。

 「お願いです、助けて。赤ちゃんが、赤ちゃんが生まれそうなんです」

  息も止まりそうな苦しみに喘いでいるのに、お腹の赤ん坊のことばかりを気にしている。それがいじらしくもあり、哀れでもあった。

 意識は朦朧としているのか、実里の眼は虚ろだ。

 「おい、しっかりしろ、眼を開けろ。眼を開けてくれ」

 悠理の叫びも空しく、実里はついにそれきり意識を失った。


 悠理は意識を失った実里を苦労して背負った。実里の下半身はしとどに濡れている。ズボンがぐっしょりと濡れていた。やはり、これは尋常ではなさそうだ。実里の言うように、赤ん坊が生まれてこようとしているのかもしれない。

  とりあえず墓地を出て住宅街の見える坂まで戻ると、携帯で救急車を呼んだ。

  緊急を要すると判断した救急隊員は実里をI町の総合病院に運んだ。

 ストレッチャーに乗せて運ばれていく実里は、死んだように顔色が悪い。そのやつれ果てた顔は、やはり同じように病院のストレッチャーに乗っていた早妃の死に顔と重なった。

  刹那、悠理の中に烈しい感情が湧き起こった。

「失礼ですが、どういうご関係の方ですか?」

 看護士に訊ねられ、悠理は即答した。

 「赤ん坊の父親です」

  流石に〝夫〟とは言えなかった。

 「先生、お願いします、俺の子どもを助けて下さい」

  ストレッチャーについて分娩室に入る白衣姿の医師に、悠理は取り縋った。

 「お産がもう始まっているようです。破水もしていますので、今夜中には生まれるでしょう」

 まだ若い医師は事務的な口調で告げると、慌ただしく分娩室に消えた。

 しかし、事態はそう簡単には進まなかった。

  悠理にとって、その夜は二十二年の生涯で最も長い夜となった。

 彼は分娩室の前の椅子に座り、耳を澄ませて産声が聞こえてくるのを今か今かと待ち続けたが、聞こえてくるのは実里のうめき声と悲鳴だけだ。 

  まるで、どのような酷い折檻を受けているのではないかと心配しそうになるほど、すさまじい声がひっきりなしに聞こえる。

 「頑張ってね、もう少しよ」

 付きそう看護士たちの励ます声も混じっている。

  分娩室に入ってから数時間経過した頃、医師が一度、出てきた。その深刻な表情から、悠理は実里の出産が順調ではないのだと悟った。

 「先生、どんな様子ですか?」

 待ちかねたように問えば、医師は難しい顔で首を傾げた。

 「どうも赤ちゃんが逆子のようです。それで、陣痛の波は来ても、途中で引っかかって上手く出てこられないんでしょう。もう少し様子を見ますが、生まれる気配がなければ、途中で帝王切開に切り替えます」

 「帝王切開―」

 悠理は息を呑んだ。

  医師はそのまま、また分娩室に戻った。その間も実里の痛々しい声は絶えない。

 一時間ほど経った。今度は分娩室がざわつき、数人の看護士が慌ただしく出入りを繰り返し始めた。  更に別のいかにもベテランといった銀髪の医師がどこからともなく現れ、分娩室に入る。どれもが良い兆候とは到底思えない。  

 悠理は忙しそうに行ったり来たりする看護士の一人に取り縋った。

 「一体、どうなってるんですか?」  

あれほど苦しげに聞こえていた実里のうめき声が聞こえないのも不吉な予感がした。

 まだ若い看護士は悠理に構う暇も勿体ないとばかりに早口で告げた。


 悠理は意識を失った実里を苦労して背負った。実里の下半身はしとどに濡れている。ズボンがぐっしょりと濡れていた。やはり、これは尋常ではなさそうだ。実里の言うように、赤ん坊が生まれてこようとしているのかもしれない。

  とりあえず墓地を出て住宅街の見える坂まで戻ると、携帯で救急車を呼んだ。

  緊急を要すると判断した救急隊員は実里をI町の総合病院に運んだ。

 ストレッチャーに乗せて運ばれていく実里は、死んだように顔色が悪い。そのやつれ果てた顔は、やはり同じように病院のストレッチャーに乗っていた早妃の死に顔と重なった。

  刹那、悠理の中に烈しい感情が湧き起こった。

「失礼ですが、どういうご関係の方ですか?」

 看護士に訊ねられ、悠理は即答した。

 「赤ん坊の父親です」

  流石に〝夫〟とは言えなかった。

 「先生、お願いします、俺の子どもを助けて下さい」

  ストレッチャーについて分娩室に入る白衣姿の医師に、悠理は取り縋った。

 「お産がもう始まっているようです。破水もしていますので、今夜中には生まれるでしょう」

 まだ若い医師は事務的な口調で告げると、慌ただしく分娩室に消えた。

 しかし、事態はそう簡単には進まなかった。

  悠理にとって、その夜は二十二年の生涯で最も長い夜となった。

 彼は分娩室の前の椅子に座り、耳を澄ませて産声が聞こえてくるのを今か今かと待ち続けたが、聞こえてくるのは実里のうめき声と悲鳴だけだ。 

  まるで、どのような酷い折檻を受けているのではないかと心配しそうになるほど、すさまじい声がひっきりなしに聞こえる。

 「頑張ってね、もう少しよ」

 付きそう看護士たちの励ます声も混じっている。

  分娩室に入ってから数時間経過した頃、医師が一度、出てきた。その深刻な表情から、悠理は実里の出産が順調ではないのだと悟った。

 「先生、どんな様子ですか?」

 待ちかねたように問えば、医師は難しい顔で首を傾げた。

 「どうも赤ちゃんが逆子のようです。それで、陣痛の波は来ても、途中で引っかかって上手く出てこられないんでしょう。もう少し様子を見ますが、生まれる気配がなければ、途中で帝王切開に切り替えます」

 「帝王切開―」

 悠理は息を呑んだ。

  医師はそのまま、また分娩室に戻った。その間も実里の痛々しい声は絶えない。

 一時間ほど経った。今度は分娩室がざわつき、数人の看護士が慌ただしく出入りを繰り返し始めた。  更に別のいかにもベテランといった銀髪の医師がどこからともなく現れ、分娩室に入る。どれもが良い兆候とは到底思えない。  

 悠理は忙しそうに行ったり来たりする看護士の一人に取り縋った。

 「一体、どうなってるんですか?」  

あれほど苦しげに聞こえていた実里のうめき声が聞こえないのも不吉な予感がした。

 まだ若い看護士は悠理に構う暇も勿体ないとばかりに早口で告げた。


「奥さんの血圧がかなり下がって、危険な状態です。出血量が多いので、これから輸血をします」  

 悠理の眼に涙が滲んだ。

 「お願いです、助けてやって下さい。二人とも助けてやってくれ」

 泣き崩れる悠理の肩を後から出てきた年配の看護士が叩いた。

 「大丈夫ですよ、お父さん。奥さんも赤ちゃんも今、頑張ってますからね」

 温かみのある声はしかし、悠理の不安を少しも和らげてはくれなかった。

 再び長い時が始まった。

 分娩室はあれほど騒々しかったのが嘘のように、しんと静まり返り物音一つない。  

 悠理は長椅子に座り込み、両手で頭を抱えた。

 こうしてただ一人、薄暗い病院の廊下にいると、嫌な想像ばかりしてしまう。  このまま実里は死ぬのではないか。いや、実里だけでなく、待ちわびている我が子まで、儚くなってしまうのではないだろうか。

 もしかしたら、自分は子どもに恵まれない星の下にあるのかもしれない。  俺の子どもを宿した女は皆、ことごとく死ぬ運命にあるのか!?  馬鹿げた考えだとは判っていても、どうしても思考はマイナス方向にばかり行ってしまう。  嫌だ、また、大切な人間が死ぬのなんて、耐えられない。

 神さま、どうか俺の子どもと子どもを生んでくれようとしている女を―実里を助けてくれ。

  けして信心深いどころか、全くの無信心であった自分がここまで神に真剣に祈ることがあるとは。彼は自分でも信じられなかった。  

 それからですら、随分と長い時間が流れたように思えた。  ピチュピュと気の早い雀のさえずりが聞こえ始めたかと思う頃、悠理はハッと弾かれたように顔を上げた。

 わずかな間、うとうとしていたらしい。

―実里は、実里はどうなったんだ?  

 慌てて立ち上がりかけたその時、静まり返った早朝の空気を底から震わせるように、力強い産声が響き渡った。 「や、やった」

 悠理は思わず叫び、ガッツポーズをした。

 再び分娩室が騒がしくなり、ほどなくして年配の看護士が白いおくるみにくるまれた赤ん坊を抱いて出てきた。  夜中に取り乱す悠理を励ましてくれたあの看護士だ。

「おめでとうございます。2,200グラムの可愛い女の子ですよ。少し早めに生まれたので保育器には入りますけど、元気に育ちますから、安心して」

 「―」

  声が出なかった。様々な想いが一挙に渦巻いて、ぴったりの言葉が見つからない。

 「ほら、新米お父さん、抱いてご覧なさい」

 赤児を渡され、悠理はおっかなびっくり危なげな手つきで抱いた。

 「ああ、そんなに力を込めなくても大丈夫、赤ちゃんは見かけ以上に力強いんですから」

 悠理は言葉もなく、無心に眼を瞑る我が子を見つめた。小さな小さな手に自分の人差し指を握らせると、存外に強い力で握りしめてくる。

 「本当ですね。結構、力が強いや、こいつ」  

 悠理の頬をひとすじの涙が流れ落ちた。

 「それで、母親の方はどうですか?」

 

 


 一瞬、看護士が首を傾げ、ああと頷いた。

 「奥さんのこと?」  

 この際、仕方ない。悠理は頷いた。

 「はい、家内です」

 「奥さんなら、大丈夫ですよ。今は疲れて眠っていますから。かなりの難産だったので、相当、体力を使っています。回復には少し時を要するかもしれませんけれど、まだ若いですからね。輸血もしましたし、当分は安静が必要です」

 二時間後、実里はまたストレッチャーに乗せられ、病室に移った。

 小さな白い個室には、ベッドと簡素な椅子が一つあるきりだ。  

 実里はベッドで静かに眠り、傍らにはガラスケースに寝かされた生まれたばかりの赤ん坊が眠っていた。  

 悠理は満ち足りた想いで二人の寝顔を眺めた。恐らく、これが家族、親子三人で過ごす最初で最後の時間になるだろう。  

 それから一時間余り、彼は大切な二人の顔を心ゆくまで眺めた。心の中に永遠に灼きつけるように、しっかりと刻み込むように。  これで悔いはない。思いがけず、初めての我が子の誕生にも立ち会うことができた。

 実里の顔色は依然として紙のように白く、血の気はなかったけれど、表情には女の大役を成し遂げた安堵のようなものが浮かんでいる。

 実里の額には汗で髪が貼り付いていた。それが、たった今、彼女が終えたばかりの女の闘いの厳しさの名残を伝えている。  彼の子どもを生命がけて生んでくれた女だ。

 古今に渡って、原始の昔より女たちは身籠もり、生むという歴史を繰り返してきた。その気の遠くなるほどの長い間、連綿と繰り返されたきた生命の営みは男ではなく女たちによって司られてきたのだ。

 もしかしたら、この世のすべてが男たちにとっては女神なのかもしれない。  

 彼はそっと手を伸ばし、実里の額に貼り付いたひとすじの髪の毛を優しい手つきで整えた。

 「ありがとう」

 疲れ果てて眠っている実里の乱れた髪を撫で、心からの労いの言葉をかけた。

 病室のドアを閉めた時、廊下を向こうから歩いてくる医師に出逢った。実里の分娩に立ち会い、我が子を取り上げてくれた医師である。

 「色々とお世話になりました。ありがとうございました」

 深々と頭を下げると、医師はにこやかに笑った。やはり、分娩中は緊張していたのだろう。別人のように晴れやかな明るい表情をしている。

 「母子ともに、一時は危険な状態でした。赤ちゃんの方は早産で生まれたので、これからしばらく保育器に入ることになりますが、大丈夫、元気で大きくなりますよ。どうなるかと心配しましたが、とにかく母子ともに無事で良かった。お母さんがよく頑張って持ち堪えましたね。眼が覚めたら、奥さんをたくさん褒めてあげてください」

 「はい」

 悠理は頷いて頭を下げた。

 今日という日に生まれたばかりの太陽が真新しい光を地上に投げかける。

  もう二度と、実里に逢うことも、彼女が生んだ俺の子に逢うこともないだろう。

  だが、それで良いのだ。  大切な人たちの前に、彼は姿を現さない方が良い。彼等の人生から永遠に立ち去り、消えることが悠理なりの愛情の示し方なのだ。

  透明な朝陽が遠ざかる悠理の背中を照らし出し、病院の白っぽい廊下をひとすじの道のように浮き上がらせている。  静かな病院の朝であった。

 



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