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「あんたになくても、俺にはあるんだ。仕事ももう終わりだろ、どこかで話さないか?」

 「嫌です、行きません」

 「少しで良い。時間は取らせない」

  実里は悠理をキッと睨んだ。

 「あれだけ私をいたぶっておいて、まだ足りないんですか? また私を好きなだけ弄んで、それで満足するんですか?」  

 気丈に言いながらも、実里は相変わらず小刻みに身体を震わせている。

  悠理は曖昧な表情でかすかに首を振った。

 「そんなに怯えてなくても良い。嫌がる妊婦を押し倒すほど、俺は獣じゃない」

 「とにかく私には、あなたと話す必要はないんです。早く私の前からいなくなってください」

 実里は強い口調で言った。

  悠理が小さな吐息をついた。

 「俺があんたにしたことを考えたら、そう言われても仕方がないことは承知だ。だが、これだけは聞かせてくれ。あんたの腹の赤ん坊は、誰の子だ?」

 ヒッと実里の口から悲鳴とも何ともつかない声が洩れ出た。その反応は、たとえ彼女が応えずとも、悠理に確信を抱かせるに十分すぎた。

 「そんなこと、あなたには関係ないでしょう」

 「その赤ん坊の父親が俺だったとしてもか?」

 実里が息を呑んだ。今や、彼女の顔色はすっかり白くなっている。今にも倒れるのではと心配になるくらい血の気を失っていた。

 「なあ、頼むから教えてくれ。その赤ん坊は俺の子なのか?」

 悠理が迫ってくる。実里は恐怖に眼を見開き、後ずさった。

 「一緒になろうとは言わない。だが、せめて、子どもの父親だとは認めてくれ。その子を俺の子どもとして認知したい。あんたにも子どもにもできる限りのことをしたいんだ」

 悠理が実里の細い手首を掴む。  彼が実里の手をしげしげと眺めた。

 「あんた、随分と痩せたな。俺があんたを抱いたときには、もっと肉がついて―」

 「止めて!」

  実里は掴まれた手をまるで彼の手が汚物でもあるかのように勢いよく引き抜いた。

 「あなた、今頃になってよくそんなことが言えるわね。この子は、赤ちゃんは私だけの子です。この子に父親なんて、初めからいないんです。たとえ頼まれって、あなたの世話になんかならないし、力を借りようとも思いません」

 あなたに縋るくらいなら、お腹の子と一緒に死ぬわ。

 悠理の表情が固まった。口許が引きつり、眼には歪んだ笑みが浮かんでいる。この笑み、自己嫌悪まのまなざしに何かが感じられ、実里は口にしたばかりの言葉をひったくって取り戻したくなった。

  だが、一度発した言葉は二度と取り返せない。  同じように、自分とこの男の関係も未来永劫、変わりはしないのだ。  過失とはいえ、妻を轢き殺した女と。  復讐で女を辱め、身籠もらせた男と。  そんな二人の人生が交わるはずがない。

 いや、早妃の死という不幸な出来事がきっかけで違う世界で生きていた二人が出逢ったことこそが、大きな悲劇の始まりだったのだ。


 実里が早妃を轢き殺したという十字架を背負って、これからの人生を生きてゆかなければならないように、この男もまた、一人の女をレイプし、その人生を滅茶苦茶にしたという事実を抱えていかなければならないのだ。  

 運命とは、かくも残酷なものなのか。  実里は一生涯、我が子に父親について真実を話すことはないだろう。  秘密は永遠に葬り去られ、やがて忘れ去られる。

  悠理は黙って実里に背を向けた。  肩を落として去ってゆく男を見送りながら、実里もまた茫然とその場に立ち尽くしていた。

 スーパーの近くに小さな公園があった。  いつか早妃と寄ったことがある。  あの頃、早妃は妊娠五ヶ月で、近くの神社で簡単な安産の祈祷を上げて貰い、腹帯を貰って帰る道すがらであった。

 ほんの猫の額ほどの公園にはブランコと滑り台があるだけで、それすらも今は殆ど使用されていないらしい。

  草がぼうぼうに生えて、忘れ去られたかのようなブランコと滑り台が淋しげに見えた。

 早妃と並んでブランコに腰掛け、揺らしながら見た世界はすべてが希望に溢れ輝いて見えた。  

 あれからまだ一年も経たないのに、何と世界は変わってしまったのか。

 悠理はブランコに乗り、訳もなく揺らしながら空を振り仰いだ。

 失った赤ん坊が戻ってきた。  そう思った歓びも束の間、父親になるという夢はすぐに潰えた。  

 そもそも当たり前なのだ。悠理はあれほどまで徹底的に実里を辱めた。その挙げ句に身籠もった子を産もうと彼女が決意しただけでも、実里には感謝すべきだろう。  そんな彼女が今になって、悠理が手を差しのべたところで、ありがたがるはずがない。むしろ、いつまでも忌まわしい過去を思い出させる男が周囲をうろつけば、迷惑がるに決まっている。

 柊路の言うことは間違ってはいなかった。  たとえ、どれほど人を憎んだとしても、この世にはやって良いことと悪いことがある。 ましてや、早妃の死は本当は実里のせいではない。彼女を憎むことで、早妃を失った哀しみを別の方に向けようとしただけだ。

  むしろ、実里は会社での立場も悪くなり、しまいには俺に妊娠させられて、辞めざるを得なくなった。そして今、未婚の母として生きようと健気にも頑張っている。

  俺は結局、自分で自分の首を絞めたんだ。  折角、我が子がこの世に―今度こそ元気な赤ん坊が生まれてくるというのに、その子をこの腕に抱いてやることも父親と名乗ることも許されない。

  しかし、それだけの罰を受けても仕方のないことを俺は彼女に対してした。

 薄青い初冬の空にひとすじ、絵の具を垂らしたようなちぎれ雲が浮かんでいる。  

ふいに空の色がほやけて、悠理は眼をしばたたいた。頬が濡れている。どうやら、知らない間に泣いていたらしい。  でも、俺には、それが何の涙なのかは判らなかった。  あの女への罪の意識、それとも哀れみ?  いや、多分、それは俺自身への哀れみの涙だったかもしれない。

  十一月の寒風が悠理の前髪を揺らし、通り過ぎていく。悠理は意味もなくブランコを揺らしながら、ひっそりと涙を流した。


 ♯Pray(祈り)♯

 ♯Pray(祈り)♯

 

 運命のその日は、足音すら立てずにやって来た。

  十二月半ばのある日、実里はF駅から私鉄電車に乗り、隣町のI駅で降りた。これまでなら迷わず車を使うところだけれど、四月のあの事故以来、車は乗っていない。

 車を運転すると、どうしても、あの日のことを思い出してしまうのだ。なので、どこに行くにも交通機関を必然的に利用することになった。

 I駅で降りると、結構な道程(みちのり)を歩かなければならない。駅前の寂れた商店街を抜け、しばらく行くと、だらだらと上ってゆく坂道がある。坂の両脇には静かな住宅街が並び、その長い坂道を上りつめたところに広い墓地があった。

 頂上の墓地からは遠くはるかに海が見渡せた。蒼い、どこまでも果てなく続く海は、お腹の子を宿したと知ったばかりの頃、潤平のマンションで見た紫陽花の色にも似ている。

 あれで本当に潤平とは終わりになった。風の噂によれば、彼は予定どおり九月初旬、ニューヨーク支社に赴いたという。何と愕くべきことに、空港からロス行きの飛行機に搭乗する彼の傍らには美しい妻が寄り添っていた。

 その妻は潤平の直属の上司の姪で、それでなくとも出向から戻ってくれば栄転は間違いなしといわれている彼のこれからの輝く前途を約束しているかのようだった。

  どうやら、ニューヨーク行きが正式に決まった少し前には、上司を通じて縁談が持ち込まれていたらしい。潤平は流石に確答は避けたものの、かといって、はっきりとも断らず、上司の姪とは時折逢ったり、メール交換をしていた。  つまり、潤平は両天秤をかけていたことになる。実里との結婚を望みながらも、万が一に備えて逃げ道をこしらえていた。それを良いように勘違いした上司は潤平が姪との結婚を決めたと思い込み、出向の話を進めた。

 もっとも、潤平が仮にこの縁談を断った場合、姪可愛さのあまり、怒った上司が出向の話を白紙にしたであろうことも十分考えられる。狡猾で貪欲な癖に、そこまで頭が回らないのが彼らしいといえばいえた。

 考えてみれば、潤平の妻になった女性も哀れではあった。夫の狡賢い本性などついぞ知らないのだから。

 所詮、実里は彼にとって、その程度のものにすぎなかったのだ。あの時、潤平のプロポーズにYesと応えなくて良かったとしみじみと思うのだった。

  既に九ヶ月めに入り、実里のお腹ははち切れんばかりになっている。傾斜は緩やかとはいえ、けして短くはない坂を登り切るのは、今の身体では至難の業といえた。

  苦労してやっと頂上に辿り着くと、しばらくは蒼く輝く海を眺めながら呼吸を整えた。 今日は殊の外良い天気で、陽光が蒼海を照らし、海は眩しく煌めいている。  

 実里はしばらく海を眺めながら休むと、今度はまたゆっくりと歩き出した。広大な墓地の一角に小さな十字架がひっそりと立っていた。  十字架の前には枯れた百合の花が忘れ去られたように放置されていた。実里は腕に抱えてきた真新しい百合の花束をそっと墓前に供えた。

 

 


 十字架はまだ真新しく〝SAKI MIZOGUCHI 1988~2007〟と彫り込まれている。

 ―許してください。

  実里はしゃがみ込むと、両手を合わせて黙祷した。

 実里はクリスチャンではない。だから十字は切らなかったけれど、心から亡き人に祈りを捧げた。

 あの事故以来、こうして月に一度、時間の許すときに早妃の墓参りに通い続けている。

 柊路から早妃が百合の花が好きだったと聞いたので、大抵は百合の花を持ってきた。いつも白ばかりでは淋しいだろうからと、今日は華やかなオレンジ色の百合と優しいピンクの色合いのスプレーカーネーションで花束を作って貰った。可愛らしいピンクのリボンで束ねられている。  

 この十字架の下に永眠(ねむ)っているのは早妃だけではない。早妃のお腹には、ついにこの世の光を見ることなく儚く逝った赤ん坊もいたのだ。  

 自分がもうすぐ出産を控え、実里は今なら早妃の気持ちが痛いほど理解できた。母となる歓びを指折り数えながら待っていたのに、突如として生命を奪われてしまった。どれだけ悔しかっただろうか。生きたいと願っただろうか。  

 今日、カーネーションを花束に入れたのは、母となることを望みながらも不幸にしてなり得なかった早妃へのせてもの手向けの意味もあった。

 実里は長い間、その場に跪いていた。海に面した高台の墓地は吹きすさぶ風もいっそう冷たかった。臨月も近くなったというのに、風邪を引いてはまずいと思い、そろそろ帰ろうと立ち上がったときである。  腰に鈍痛を憶えて、思わず顔をしかめた。 またいつもの腰痛だろうと腰をさすってみたが、痛みは治まるどころか余計に烈しくなるばかりである。

 ふいに激痛が腰から腹部にかけて走り、実里は小さなうめき声を上げて頽れた。

 ―痛い―。  

 腹を押さえながら、実里はその場に倒れた。

 痛みはひっきりなしにやってくる。まるで波が寄せるように、少し楽になったかと思えばまたぶり返しながら、確実に強くなっていった。

 やがて、生暖かいものが下腹部から溢れ出し、太腿をつたい落ちてゆくのが判った。

 ―まさか。  

 実里は蒼褪めた。初産なので知識でしか知り得ようがないが、これは陣痛の始まりではないのか。今、ほとばしるように下肢を濡らしているのは、破水なのかもしれない。

  どうしよう。  実里は懸命に身を起こそうしたが、痛みは増すばかりで、身動きもできない。その間にもひっきりなしに痛みが襲ってきて、実里はパニックに陥った。

 「―誰か、誰か来て」  

 しかし、こんな真冬の平日に辺鄙な墓地を訪れる人はいなかった。

 このままでは出産が始まってしまう。  実里は恐慌状態になりながら助けを求め続けた。  

 その時、誰かが駆け寄ってきて、実里は逞しい腕に抱き起こされた

「大丈夫か?」

 この声は―。


「柊路さん?」

 うわ言のように呼ぶと、相手が息を呑む気配がした。

  またひときわ烈しい痛みが直撃した。実里は痛みに顔を歪めながら、必死で訴える。

 「お願いです、助けて。赤ちゃんが、赤ちゃんが生まれそうなんです」

 既に意識は朦朧としていた。

 「おい、しっかりしろ、眼を開けろ。眼を開けてくれ」  

 声は若い男のものだった。この人が親切な人ならば良い。もしそうなら、病院まで連れていってくれるだろう―。     そこまで考えて、実里の意識は完全に闇に飲み込まれた。

 時間はこれより少し前に遡る。

 悠理はこの日、実里に遅れることわずかで墓地に辿り着いた。ここは海沿いで眺めも良い場所だし、陽当たりも良い。わずか十九歳で逝った早妃が永久(とわ)の眠りにつくにはふさわしい場所だ。  

 悠理自身は無宗教で、父は小さな仏壇を祀っていたから、実家は仏教なのだろう。だが、短い人生で色々ありすぎたせいか、神仏に頼るという思考など、とうに棄てた。  

 早妃は個人的にキリスト教を信奉していたし、時には近くの教会の礼拝にも参加することもあった。それなら、彼女の望むやり方で葬式をしてやれば良いと思った。

 早妃の墓の手前まで来た時、彼は墓前に先客がいることに気づいた。相手は悠理の存在には気づいてはおらず、一心に祈っている。

 悠理は他の墓の影から、ずっとその様子を見ていた。しばらくして墓参者が立ち上がり、漸くその横顔が見えた。  そのときの彼の愕きは生半ではなかった。

 何と墓参に訪れていたのは入倉実里だったのである。三週間ほど前に見たときより、お腹は更に大きくなっている。あの中に我が子がいるのだ―と思うと、感無量で胸が熱くなった。

  実里には完全に拒絶されたが、こうして遠くから我が子を見守るくらいは許されるだろう。

  彼は今更ながらに気づいた。早妃が亡くなってからというもの、彼は月命日には必ずこうして墓参りに来た。不思議なことに、大抵、先客があったらしく、まだ咲き誇る百合の花束が供えられていた。

 早妃の両親だとは到底、思えなかった。悠理と違って彼女の義父と母親はまだ健在ではあるものの、葬式の日時を知らせても顔も見せなかったような両親である。  

 誰か友達か知り合いと考えるのが妥当であったが、キャバクラを辞めてから早妃はキャバ嬢時代の友達には逢いたがらなくなった。  

 だとすれば、友達関係というのもあまり考えられない。早妃の好きだった百合の花を持って毎月必ず律儀に訪れる人、その人がそも誰なのか。

 悠理はずっと知りたいと願っていた。逢って、その心優しい人に心から礼を言いたいと思っていたのだ。それが、よもや実里であったとは!  

 声をかけようかどうしようか迷った。また、あんな恐怖と怯えを宿した眼で見られるかと思うと、このまま顔を合わせない方が良いのかもしれないと思えてくる。  彼が思いあぐねていたその時、小さなうめき声が耳を打った。



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