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 実里は精一杯、背伸びしてみた。それでも、まだ最上段の棚には届かない。こんなときには、小柄な自分が恨めしくなる。

 実里の勤務するスーパーでは、パートは三交代制だ。朝八時半から一時まで、更に午後一時から五時半まで、最後が五時半から閉店の十時までの勤務となる。

  小さなスーパーだが、夜遅くまで開いていることから、勤め帰りの人が立ち寄ることが多く、それなりに繁盛していた。

 そろそろ妊娠も九ヶ月が近くなってきた。ここのところ、自分でも判るくらいお腹は急激に大きくなっている。今は、赤ん坊は一六〇〇グラムくらいだと医師から教えられた。

 結局、実里はあのまま町の小さな病院に通っていた。自宅から近いのと中年の医師が気さくで信頼できる人だったのが大きな要因である。でも、やはりお産はできないので、臨月に入ってから紹介先の総合病院に移ることになっていた。

 ―もう出てきても、十分大きくなれるところまで成長していますよ。

 この間も、医師がそう言って笑っていた。

 女の子であるということも判っていた。  私の赤ちゃん、元気で大きくなって生まれてきてね。

 実里は大きくせり出した腹部を愛おしげに撫でた。合図するかのように、胎児が腹壁を元気よく蹴るのが判った。成長めざましい時期なのか、胎動もとみに活発だ。時には蹴られすぎてお腹が痛いほど暴れることもある。

 スーパーには制服はない。実里は防寒も兼ねて厚着をしていた。淡いブルーのハイネックセーターにチャコールグレーのコーデュロイのマタニティスカート。その上に厚手のざっくりとしたカーディガンを羽織っている。 もちろん、スカートの下は厚手のタイツを穿いている。ここまで完全防備でならば、風邪を引く心配もないだろう。  

 制服がない代わりに、各自で持参したエプロンをつけている。お腹が大きくなるにつれて、腰の痛みは更に頻発するようになった。以前はそれほどでもなかったのに、少し立っているだけで腰がだるくなり痛み出す。

 実里は拳でトントンと腰を叩き、また背伸びした。箱に詰めている液体洗剤の詰め替え用を棚のいちばん上に順序よく並べていく。たったこれだけの作業が、今の実里にとっては、かなりの難作業となってしまっている。普通では考えられないような手間と時間がかかるのだ。

 仕方ないと、脇にあった小さな台を引き寄せ、その上に上がった。

 「これでよし。何とか届くみたい」

 独りごち、台に乗って商品を棚に置いた。刹那、身体が重心を崩して揺らいだ。

 「あっ」

  悲鳴を上げたのと誰かの逞しい腕に抱き止められたのはほぼ同時のことだ。

 「こんなでかい腹をして、高いところになんか上るんじゃない」

 どこかで聞いたような声に、実里はハッと顔を上げた。

 「―!」

  実里の可愛らしい顔が見る間に蒼白になってゆく。

 あの日の記憶がフィルムを巻き戻すように、一挙に押し寄せてくる。

  衣服を荒々しく引き裂いた男の手。  素肌を這い回った男の熱い唇。  

 そうだ、眼前のこの怖ろしい男が実里を滅茶苦茶にし、嬲り抜いたのだ。

 「あ―」

 実里は顔を引きつらせ、嫌々をするようにかぶりを振った。  

 今更、どうして、溝口悠理が自分の前に現れたのだろう。まさか、まだ復讐が足りないと実里をどうにかするつもりで?  実里は烈しい驚愕と怯えを滲ませ、ぶるぶると震えた。  

こんな卑劣な男の前では毅然としていたいのに、情けなくも声まで震えてしまう。

 「わ、私をどうするつもり?」

 「少し話がしたい」  

 悠理の態度は少なくとも外見上は穏やかだ。しかし、それが単なる見せかけだけでないとは、どうして言えるだろう?

「私には話すことは何もありません」  

 辛うじて体勢を立て直し、実里は真正面から悠理を見据えた。


「あんたになくても、俺にはあるんだ。仕事ももう終わりだろ、どこかで話さないか?」

 「嫌です、行きません」

 「少しで良い。時間は取らせない」

  実里は悠理をキッと睨んだ。

 「あれだけ私をいたぶっておいて、まだ足りないんですか? また私を好きなだけ弄んで、それで満足するんですか?」  

 気丈に言いながらも、実里は相変わらず小刻みに身体を震わせている。

  悠理は曖昧な表情でかすかに首を振った。

 「そんなに怯えてなくても良い。嫌がる妊婦を押し倒すほど、俺は獣じゃない」

 「とにかく私には、あなたと話す必要はないんです。早く私の前からいなくなってください」

 実里は強い口調で言った。

  悠理が小さな吐息をついた。

 「俺があんたにしたことを考えたら、そう言われても仕方がないことは承知だ。だが、これだけは聞かせてくれ。あんたの腹の赤ん坊は、誰の子だ?」

 ヒッと実里の口から悲鳴とも何ともつかない声が洩れ出た。その反応は、たとえ彼女が応えずとも、悠理に確信を抱かせるに十分すぎた。

 「そんなこと、あなたには関係ないでしょう」

 「その赤ん坊の父親が俺だったとしてもか?」

 実里が息を呑んだ。今や、彼女の顔色はすっかり白くなっている。今にも倒れるのではと心配になるくらい血の気を失っていた。

 「なあ、頼むから教えてくれ。その赤ん坊は俺の子なのか?」

 悠理が迫ってくる。実里は恐怖に眼を見開き、後ずさった。

 「一緒になろうとは言わない。だが、せめて、子どもの父親だとは認めてくれ。その子を俺の子どもとして認知したい。あんたにも子どもにもできる限りのことをしたいんだ」

 悠理が実里の細い手首を掴む。  彼が実里の手をしげしげと眺めた。

 「あんた、随分と痩せたな。俺があんたを抱いたときには、もっと肉がついて―」

 「止めて!」

  実里は掴まれた手をまるで彼の手が汚物でもあるかのように勢いよく引き抜いた。

 「あなた、今頃になってよくそんなことが言えるわね。この子は、赤ちゃんは私だけの子です。この子に父親なんて、初めからいないんです。たとえ頼まれって、あなたの世話になんかならないし、力を借りようとも思いません」

 あなたに縋るくらいなら、お腹の子と一緒に死ぬわ。

 悠理の表情が固まった。口許が引きつり、眼には歪んだ笑みが浮かんでいる。この笑み、自己嫌悪まのまなざしに何かが感じられ、実里は口にしたばかりの言葉をひったくって取り戻したくなった。

  だが、一度発した言葉は二度と取り返せない。  同じように、自分とこの男の関係も未来永劫、変わりはしないのだ。  過失とはいえ、妻を轢き殺した女と。  復讐で女を辱め、身籠もらせた男と。  そんな二人の人生が交わるはずがない。

 いや、早妃の死という不幸な出来事がきっかけで違う世界で生きていた二人が出逢ったことこそが、大きな悲劇の始まりだったのだ。


 実里が早妃を轢き殺したという十字架を背負って、これからの人生を生きてゆかなければならないように、この男もまた、一人の女をレイプし、その人生を滅茶苦茶にしたという事実を抱えていかなければならないのだ。  

 運命とは、かくも残酷なものなのか。  実里は一生涯、我が子に父親について真実を話すことはないだろう。  秘密は永遠に葬り去られ、やがて忘れ去られる。

  悠理は黙って実里に背を向けた。  肩を落として去ってゆく男を見送りながら、実里もまた茫然とその場に立ち尽くしていた。

 スーパーの近くに小さな公園があった。  いつか早妃と寄ったことがある。  あの頃、早妃は妊娠五ヶ月で、近くの神社で簡単な安産の祈祷を上げて貰い、腹帯を貰って帰る道すがらであった。

 ほんの猫の額ほどの公園にはブランコと滑り台があるだけで、それすらも今は殆ど使用されていないらしい。

  草がぼうぼうに生えて、忘れ去られたかのようなブランコと滑り台が淋しげに見えた。

 早妃と並んでブランコに腰掛け、揺らしながら見た世界はすべてが希望に溢れ輝いて見えた。  

 あれからまだ一年も経たないのに、何と世界は変わってしまったのか。

 悠理はブランコに乗り、訳もなく揺らしながら空を振り仰いだ。

 失った赤ん坊が戻ってきた。  そう思った歓びも束の間、父親になるという夢はすぐに潰えた。  

 そもそも当たり前なのだ。悠理はあれほどまで徹底的に実里を辱めた。その挙げ句に身籠もった子を産もうと彼女が決意しただけでも、実里には感謝すべきだろう。  そんな彼女が今になって、悠理が手を差しのべたところで、ありがたがるはずがない。むしろ、いつまでも忌まわしい過去を思い出させる男が周囲をうろつけば、迷惑がるに決まっている。

 柊路の言うことは間違ってはいなかった。  たとえ、どれほど人を憎んだとしても、この世にはやって良いことと悪いことがある。 ましてや、早妃の死は本当は実里のせいではない。彼女を憎むことで、早妃を失った哀しみを別の方に向けようとしただけだ。

  むしろ、実里は会社での立場も悪くなり、しまいには俺に妊娠させられて、辞めざるを得なくなった。そして今、未婚の母として生きようと健気にも頑張っている。

  俺は結局、自分で自分の首を絞めたんだ。  折角、我が子がこの世に―今度こそ元気な赤ん坊が生まれてくるというのに、その子をこの腕に抱いてやることも父親と名乗ることも許されない。

  しかし、それだけの罰を受けても仕方のないことを俺は彼女に対してした。

 薄青い初冬の空にひとすじ、絵の具を垂らしたようなちぎれ雲が浮かんでいる。  

ふいに空の色がほやけて、悠理は眼をしばたたいた。頬が濡れている。どうやら、知らない間に泣いていたらしい。  でも、俺には、それが何の涙なのかは判らなかった。  あの女への罪の意識、それとも哀れみ?  いや、多分、それは俺自身への哀れみの涙だったかもしれない。

  十一月の寒風が悠理の前髪を揺らし、通り過ぎていく。悠理は意味もなくブランコを揺らしながら、ひっそりと涙を流した。


 ♯Pray(祈り)♯

 ♯Pray(祈り)♯

 

 運命のその日は、足音すら立てずにやって来た。

  十二月半ばのある日、実里はF駅から私鉄電車に乗り、隣町のI駅で降りた。これまでなら迷わず車を使うところだけれど、四月のあの事故以来、車は乗っていない。

 車を運転すると、どうしても、あの日のことを思い出してしまうのだ。なので、どこに行くにも交通機関を必然的に利用することになった。

 I駅で降りると、結構な道程(みちのり)を歩かなければならない。駅前の寂れた商店街を抜け、しばらく行くと、だらだらと上ってゆく坂道がある。坂の両脇には静かな住宅街が並び、その長い坂道を上りつめたところに広い墓地があった。

 頂上の墓地からは遠くはるかに海が見渡せた。蒼い、どこまでも果てなく続く海は、お腹の子を宿したと知ったばかりの頃、潤平のマンションで見た紫陽花の色にも似ている。

 あれで本当に潤平とは終わりになった。風の噂によれば、彼は予定どおり九月初旬、ニューヨーク支社に赴いたという。何と愕くべきことに、空港からロス行きの飛行機に搭乗する彼の傍らには美しい妻が寄り添っていた。

 その妻は潤平の直属の上司の姪で、それでなくとも出向から戻ってくれば栄転は間違いなしといわれている彼のこれからの輝く前途を約束しているかのようだった。

  どうやら、ニューヨーク行きが正式に決まった少し前には、上司を通じて縁談が持ち込まれていたらしい。潤平は流石に確答は避けたものの、かといって、はっきりとも断らず、上司の姪とは時折逢ったり、メール交換をしていた。  つまり、潤平は両天秤をかけていたことになる。実里との結婚を望みながらも、万が一に備えて逃げ道をこしらえていた。それを良いように勘違いした上司は潤平が姪との結婚を決めたと思い込み、出向の話を進めた。

 もっとも、潤平が仮にこの縁談を断った場合、姪可愛さのあまり、怒った上司が出向の話を白紙にしたであろうことも十分考えられる。狡猾で貪欲な癖に、そこまで頭が回らないのが彼らしいといえばいえた。

 考えてみれば、潤平の妻になった女性も哀れではあった。夫の狡賢い本性などついぞ知らないのだから。

 所詮、実里は彼にとって、その程度のものにすぎなかったのだ。あの時、潤平のプロポーズにYesと応えなくて良かったとしみじみと思うのだった。

  既に九ヶ月めに入り、実里のお腹ははち切れんばかりになっている。傾斜は緩やかとはいえ、けして短くはない坂を登り切るのは、今の身体では至難の業といえた。

  苦労してやっと頂上に辿り着くと、しばらくは蒼く輝く海を眺めながら呼吸を整えた。 今日は殊の外良い天気で、陽光が蒼海を照らし、海は眩しく煌めいている。  

 実里はしばらく海を眺めながら休むと、今度はまたゆっくりと歩き出した。広大な墓地の一角に小さな十字架がひっそりと立っていた。  十字架の前には枯れた百合の花が忘れ去られたように放置されていた。実里は腕に抱えてきた真新しい百合の花束をそっと墓前に供えた。

 

 


 十字架はまだ真新しく〝SAKI MIZOGUCHI 1988~2007〟と彫り込まれている。

 ―許してください。

  実里はしゃがみ込むと、両手を合わせて黙祷した。

 実里はクリスチャンではない。だから十字は切らなかったけれど、心から亡き人に祈りを捧げた。

 あの事故以来、こうして月に一度、時間の許すときに早妃の墓参りに通い続けている。

 柊路から早妃が百合の花が好きだったと聞いたので、大抵は百合の花を持ってきた。いつも白ばかりでは淋しいだろうからと、今日は華やかなオレンジ色の百合と優しいピンクの色合いのスプレーカーネーションで花束を作って貰った。可愛らしいピンクのリボンで束ねられている。  

 この十字架の下に永眠(ねむ)っているのは早妃だけではない。早妃のお腹には、ついにこの世の光を見ることなく儚く逝った赤ん坊もいたのだ。  

 自分がもうすぐ出産を控え、実里は今なら早妃の気持ちが痛いほど理解できた。母となる歓びを指折り数えながら待っていたのに、突如として生命を奪われてしまった。どれだけ悔しかっただろうか。生きたいと願っただろうか。  

 今日、カーネーションを花束に入れたのは、母となることを望みながらも不幸にしてなり得なかった早妃へのせてもの手向けの意味もあった。

 実里は長い間、その場に跪いていた。海に面した高台の墓地は吹きすさぶ風もいっそう冷たかった。臨月も近くなったというのに、風邪を引いてはまずいと思い、そろそろ帰ろうと立ち上がったときである。  腰に鈍痛を憶えて、思わず顔をしかめた。 またいつもの腰痛だろうと腰をさすってみたが、痛みは治まるどころか余計に烈しくなるばかりである。

 ふいに激痛が腰から腹部にかけて走り、実里は小さなうめき声を上げて頽れた。

 ―痛い―。  

 腹を押さえながら、実里はその場に倒れた。

 痛みはひっきりなしにやってくる。まるで波が寄せるように、少し楽になったかと思えばまたぶり返しながら、確実に強くなっていった。

 やがて、生暖かいものが下腹部から溢れ出し、太腿をつたい落ちてゆくのが判った。

 ―まさか。  

 実里は蒼褪めた。初産なので知識でしか知り得ようがないが、これは陣痛の始まりではないのか。今、ほとばしるように下肢を濡らしているのは、破水なのかもしれない。

  どうしよう。  実里は懸命に身を起こそうしたが、痛みは増すばかりで、身動きもできない。その間にもひっきりなしに痛みが襲ってきて、実里はパニックに陥った。

 「―誰か、誰か来て」  

 しかし、こんな真冬の平日に辺鄙な墓地を訪れる人はいなかった。

 このままでは出産が始まってしまう。  実里は恐慌状態になりながら助けを求め続けた。  

 その時、誰かが駆け寄ってきて、実里は逞しい腕に抱き起こされた

「大丈夫か?」

 この声は―。



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