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「九百五十円です」

 言い終わらない中に、実里は〝あっ〟と声を上げていた。

 客の方も眼を丸くしている。

 「もしかして、実里ちゃん?」

 「片岡さん―」  

 何と、その客は悠理の親友片岡柊路であった。

 その場は実里の仕事があるので、後でまた逢うことにして柊路は帰った。

 二時間後、実里の勤務時間が終わり、二人は実里の自宅までの道程を肩を並べて歩いた。

 「ああ、持つよ」

 実里が両手に野菜や肉を詰め込んだビニール袋を下げているのを見、柊路が奪い取るように荷物を取った。

  その点、パートは店内の商品を何割引かで買えるので、助かる。これからはできるだけ節約しなければならない。何しろ出産したら、しばらくは身動きが取れない。そのときに備えて、貯金は少しでも多い方が良かった。

  むろん、両親と同居しているのだから、援助は受けられる。しかし、名前も明かせない男の子どもを身籠もり、今また生もうとしている親不孝に加えて、これ以上、親に心配や負担はかけたくなかった。

 現に、実里はこうして数日に一度は自費で夕飯の食材を購入して帰る。父も母も余計な心配はするなとしきりに言うのだが、実里の心がそれに甘えられないのだ。

「実里ちゃん、結婚したんだ?」

 いきなり問われ、実里は言葉に窮した。

  小さく息を吸い込み、笑顔を作る。

 「いいえ、結婚はしてません」

 え、というように柊路が眼を見開いた。

 「でも―」  

柊路の視線がすっかり大きくなった腹部に注がれている。

 実里はうつむいた。

 「ごめんなさい。ちょっと訳ありで、一人で子どもを生むことになって」

「別に実里ちゃんが謝ることはないけど、俺には君がそんな風な女の子には見えなかったけどなぁ」

 柊路は首を振り、思い直したように笑顔になった。

 「でも、まあ、安心したよ。あれから、どうしてるのかなと心配はしてたんだ。だけど、君みたいなごく普通の女の子は俺のような男とはあんまり関わり合いにはなりたくないだろうと思って」

 どうも実里の方から連絡を取らなかったことを気にしているらしい。それで、やはり、彼からの連絡が途絶えたのだ。柊路はそれを彼の職業のせいだと思い込んでいるようだ。

 「片岡さん、勘違いしてます」

  柊路の形の良い眉が少しだけはねた。

 「どういうこと?」

 実里は言葉を探しながら慎重に言った。

 「私は片岡さんのお仕事のこととか、全然気にしてません。それを言ったら、私の方がよっぽど社会のあぶれ者ですよ。会社もクビになっちゃったし、今、流行のシングルマザーにもなるわけだし」

 「ねえ、こんなこと訊くのは失礼だと思うんだけど、どうして、お腹の子どもの父親と結婚しないの?」  

 何人もの人に訊かれたことだ。


 実里は小さな声で言った。

 「相手の男は妻子持ちなんです。だから、私と一緒になることはできなくて」

 淀みなく応えた実里を、柊路はじいっと見つめてくる。まるで嘘など端からお見通しだよ、とでも言いたげな鋭い視線だ。

 「認知くらいはしてくれてるんだろ?」

 実里は首を振る。

 「―その人は子どもができたことは知りませんから」

  柊路が声を荒げた。

 「そんな馬鹿な話があるか! 手前だけ愉しむだけ愉しんどいて、いざ子どもができたら、知らん顔だなんて、あまりにも男として責任 がなさすぎる」

 「だから、相手の人は―」

 実里が狼狽えても、柊路の憤りはおさまらないようだ。

 「知らないんなら、俺が知らせてやるよ、どこのどいつだ? 俺が落とし前つけさせてやるから」

 言葉そのものは荒いが、心底から実里のために腹を立ててくれているのだと判る。

 ここにも自分のことを気にかけてくれる人がいる。実里は泣きたくなった。

 思わず涙がほろりとこぼれ落ちた。

 柊路が眼を見開く。

 「実里ちゃん? 何で泣くんだ。俺、何か泣かせるようなことを言ったかな。それとも、俺が一方的にまくしたてたから?」

 「片岡さんが物凄く優しいから。嬉しくて、つい」

 柊路は何故か実里を眩しげな眼で見た。

 「そいつとどうしても結婚できないっていうんなら、俺はどう? ああ、でも、ホストなんかやってる男、堅気のお父さんには婿として認めて貰うのはいまいち難しいかな」

 柊路は真剣な表情で考え込んでいる。

「俺もそろそろ、この稼業も潮時だと思ってるんだ。何せ俺、もうじき二十五だし。この世界は若いヤツが次々に入ってくるから、いつまでも続けられるものじゃないしなあ。入店以来、ずっとトップを維持してきた悠理のようなヤツは滅多といないし」

 と、柊路が首をひねった。

 実里は自分でも顔が蒼白になるのが判った。

 「冗談、冗談だよ。そりゃ、実里ちゃんと結婚できるなら、ホスト止めても良いと思ってるのは本当だけどね。まあ、頭の片隅にくらい入れといて。お腹の子どものことも全然、気にしない。こう見えても、年の離れた弟妹がいるから、子どもの扱いは上手いんだよ、俺」  

 柊路が冗談に紛らわせようとしても、実里は笑えなかった。

  〝溝口悠理〟。もう二度と耳にしたくない、顔も見たくない男が突如として伏兵のように出現したのだ。

 「どうしたの? 顔色が悪いよ。俺が冗談にしても、結婚の話なんかしたからかな」

 実里の脳裏に〝あの日〟の光景がまざまざと甦った。  跳ねる実里の身体を上から押さえつけ、奥まで何度も刺し貫いた男。下腹部が引き裂かれそうな痛みに涙を流す実里を下から烈しく突き上げながら、あの男は自らの快楽をもっと貪るために、実里の乳房を揉みしだき、二人の接合部を弄り回した。

 ―こうやると、あんたのあそこが俺のを物凄い勢いで締め付けて、気持ち良いんだよ。


 淫らで残酷な科白を毒のように耳許に流し込みながら、悠理は実里の中で何度も射精した。それが、今日の実里の姿に繋がったのだ。

 「あ、ああ」

  実里はその場にうずくまり、身体を丸めた。

  怖かった。辛かった。死んでしまいたかった。嫌だと叫びたくても、それさえ許されなかった。

  あの時、確かに実里は思ったのだ。

  一体、自分は何のために生まれたのだろう、と。まさに煉獄で業火に焼かれているような痛みと傷を実里の心身に刻み込んだ。

  あの日の忌まわしい汚辱の記憶が次々と再現されてゆく。頭を両手で抱え込み、実里は、あの日の恐怖と闘った。

 「実里ちゃん? どうした、しっかりしろ」

 柊路がしゃがみ込み、実里の肩に手をかけたその時、実里の恐慌状態は頂点に達した。

 「いやーっ。来ないで、触らないで。私をどれだけ苦しめば気が済むの? もう十分でしょう。どうしても許せないというのなら、私を殺せば良い。もう二度と、あなたなんかに触れられたくないんだから」

 柊路の手を振り払い、実里は涙を振り散らしながら叫んだ。

  柊路は愕然としてその場に立ち尽くした。  

 今の実里の反応がすべてを物語っていた。  それは柊路が最も起こって欲しくないと願っていたことだった。

 しかし、まさか悠理がそこまでするとは正直、彼も考えていなかった。柊路の読みが甘かったのだ。

 可哀想に、どれだけ怖かっただろう。辛かっただろう。

 「実里ちゃん、大丈夫、大丈夫だから」

 柊路は泣きじゃくる実里を抱きしめ、しっかりと腕に抱え込んだ。

 「もう、誰にも実里ちゃんを哀しませたりはさせない。俺が一生、実里ちゃんを守るよ」

 柊路の腕の中は温かくて広かった。こうしていると、まるで自分が雛鳥になって親鳥の翼に抱かれているように思える。安心できる場所という気がした。

 実里は気づいてはいない。悠理にレイプされて以来、ずっとひそかな男性恐怖症だったのに、柊路には触れられても、こうして強く抱きしめられてさえ、拒否反応は何も起こらなかった。

 「あいつ、許さねえ」  

 柊は唇を噛みしめ、怒りに拳を震わせた。

 早妃は確かに悠理にとっては女神だったかもしれない。だが、あの事故は本当に不幸な巡り合わせであったとしか言いようがなかったのだ。早妃を失った悠理の気持ちは推し量れないものがあるだろう。

 だが、この世の中には、やって良いことと悪いことがある。  そして、柊路もまた彼だけの女神を見つけたのだ。悠理が全身全霊をかけて彼の女神のために闘おうとするように、彼もまた彼の女神のためならば、生命を賭けて彼女を守ろうとするだろう。  たとえ、生涯の友だと誓った相手だとしても。

 


 悠理は口角を笑みの形に象る。この極上の笑みがどれほど多くの女たちを一瞬で虜にするか、彼はよく知っている。

 「ああ、これからまた次に悠理クンに逢えるまで、ひと月も待たなければならないのね。随分と長いひと月だわ」

 眼の前の女―藤堂実沙が甘えた声で悠理にしなだれかかる。

 「そんなこと言わないで下さいよ。俺だって、実沙さんに逢えるまでの時間は途方もなく長くって、持て余すくらいなんですから」

 もちろん口先だけの追従にすぎなかったが、実沙の頬が嬉しげに緩んだ。

 「まぁ、嬉しいことを言ってくれるのね」  

が、次の瞬間、さっと顔を翳らせ、すり寄ってくる。

 「どうせ大勢の女に似た科白を囁いてるくせに」

 悠理は吹き出したいのを堪えるのに苦労しながら、いかにも哀しげな表情を作って見せた。

 「酷いことを言うんですね。俺の心が昼も夜も実沙さんだけで一杯なのは判ってるでしょう?」

「フフ、お世辞でも悪い気はしないわね」

 実沙はシャネルのバッグからいつもの長財布を取り出し、一万円札を三枚差し出した。

 「これで何か美味しいものでも食べなさい」

 ふと思い出したように言う。

 「そういえば、お母さまはお具合は、あれからどう?」

 一瞬、虚を突かれ、悠理は慌てて顔を引き締めた。  

 そうか、そういえば、大分前に、お袋の調子が悪いんだとこの女に言ったことがあったっけ。

 しかし、若い男とのアバンチュールを愉しむことしか頭にないだろうと思っていた女が半年以上も前の自分の言葉を憶えているとは思わなかった。

 「お陰さまで、最近は大分調子が良いんです。感激だなぁ。実沙さんが俺のお袋のことまで気にかけてくれてたなんて」

 「あらぁ、悠理クンのことなら、何でも気になるわよ」

 当たり前でしょ、とでも言いたげなあからさまな秋波をよこされ、悠理は吐き気を憶えた。

 しかし、嫌悪感を一瞬たりとも客に見せるわけにはゆかない。

 「そう。なら良かった。親は大切にしなきゃ駄目よ。うちのドラ息子なんて、この間、いきなり女の子を自宅にまで連れてきて、大騒動だったのよ」

 悠理は眼をわずかに見開いた。この女が普段、どのように過ごしていようが興味などさらさらないが、同年代だという息子には幾ばくかの興味がある。

 「そうなんスか。何か揉め事でも?」

 実沙は憮然として言った。

 「どこの馬の骨とも知れぬヤンキー女を連れてきてね。話を聞いていたら、何とキャバクラ勤めの水商売をしている女だっていうじゃない」  

 その何気ない言葉には、隠しきれない侮蔑の響きが込められている。

 悠理は内心、毒づいた。  手前の方こそ良い歳をして息子と同じ歳のホストに入れ込んでるのに、その言い草はねえだろう?


「もう、髪の毛なんて、あなた日本人なの? って訊きたくなるくらいの金髪で、爪なんかは真っ赤っか。見ているだけで背筋が寒くなったわよ。あんな娘をうちの嫁にだなんて、とんでもない。うちの子はきっと世間知らずで女なんてろくに知りもしないから、あの女に騙されたんだわ」   

 そういうあんたの方こそ、五十にもなって爪をピンクに染めてるじゃねえか。その方がよっぽど見苦しいんだよ。  悠理は心の叫びはおくびにも出さず、神妙に頷いた。

 「実沙さんもご心労が絶えませんね」

 「ああ、そう言って判って貰えるのは悠理クンだけね。亭主は言うのよ。好きになってしまったものは今更どうしようもないんだから、諦めろですって、冗談じゃないわ。私はあんな破廉恥な女、藤堂家の嫁にだなんて、絶対に認めませんからね」  

 実沙がピンクのスーツのポケットからシガレットケースを取り出す。もちろん、これもブランド物だ。煙草を一本摘んで銜えるのに、悠理はさっと脇からライターを出して火を付けてやった。

 「最近ね、また煙草を始めたの。息子を生むのをきっかけに長い間、止めてたはずなんだけどね。どうもやりきれないことが多くて、煙草でも吸わないと苛々してやってられない」

  あんたみたいな暇あり金ありの有閑マダムがやってられないんなら、俺はもっと、やってられないよ。何が哀しくて、休日の昼間から、こんなオバさん相手に機嫌取りしなきゃならねえんだ?

 悠理はまた心で悪態をつき、さりげなく腕時計を見た。金色のロレックスは、実沙からのプレゼントである。こういう、いかにも成金めいた物は好きではないから、普段は絶対に身につけないが、流石に実沙が店に来るときには忘れずに愛用しているふりをする。

 「実沙さん、そろそろ電車の時間スけど」

 いかにも残念そうに言うのも忘れない。  

 実沙が煙草を口から放すと、悠理はまたクリスタルテーブルの上の灰皿を実沙の前に差し出した。

 実沙は悠理が恭しく捧げ持った灰皿に煙草の先を押しつけ、棄てた。

 「ああ、本当に名残は尽きないわ。こうしてずっと明日の朝まで悠理クンと一緒にいたい気分」

 冗談じゃねえや。  悠理は肩を竦めたい衝動を抑え、また〝キラー・スマイル〟を浮かべた。氷のように冷たいのに、女心を熱く蕩けさせるといわれている伝説の微笑である。

 「俺も、またひと月も実沙さんに逢えないと思うと、何か胸にこう、ぽっかり穴が空いたようですよ」

  別れ際のこのひと言が実はどれだけ女の心をぐっと惹きつけるかは長年の経験から嫌になるくらい知り尽くしている。  胸に片手を添えて哀しげに言うと、実沙は悠理の顎に手をかけて仰のかせた。

 彼は二人並んでソファに座っているこの場所から、一瞬、逃げ出そうかと思った。しかし、逃げ出したいのを堪え、婉然と女に微笑みかける。

 実沙はそのまま悠理の顔を引き寄せ、唇を塞いだ。悠理もまた女の身体に手を回し、熱烈なキスに応える。



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