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「それで、会社止辞めて、次の仕事の心当たりはあるの?」

 「全然。しばらくは家にいるわ。といっても、そうそう、のんびりともしていられないけどね。お腹が大きくなってきたら、できる仕事も限られてるでしょうし。今の中にバイトでもして、しっかりと稼いでおかないと」

 冗談めかして言ったのに、かえって、ひかるは涙ぐんで黙り込んでしまった。

 確かに、ひかるの言うとおりだと思う。自分で言うのもおかしいけれど、実里は相当なお人好しだ。自分を陵辱したあの男―溝口悠理ですら、今はもう憎しみをあまり感じなくなっている。  

 もちろん今も顔だって見たくないほど大嫌いな男に違いはないが、事件直後のように殺してやりたいと思うくらいの憎しみは薄れていた。

 あの男を憎んでも意味がない。それは恐らく、あの事故の起きた日、実里が早妃を轢いてしまったことにも言えるだろう。誰を恨んでも憎んでも、何も始まらないし、生まれない。

  実里はもう事故のことで自分を責めるのは止めた。ただ自分が生命を奪ってしまったひとりの女性の存在だけは永遠に心にとどめ、罪は背負っていこうと思っている。  そうやって自らの罪と向き合うことでしか、実里には償うすべはない。せめて忘れないことが、あの女への贖罪なのだ。

 早妃のことは憶えておいて、あの男―悠理の存在はさっさと記憶から消してしまおうと思う。あの忌まわしい汚辱の夜も。

  自分にはこの子さえいてくれれば良い。

 私だけの子、可愛い私の赤ちゃん。

 この子には最初から父親はいない。私をレイプした男があなたのお父さんよだなんて、絶対に言えるはずがない。この秘密は私がこの生命尽きて墓場に行くまで、ずっと秘めて、あの世にまで持っていく。

 実里は無意識の中にお腹を押さえていた。

 

 六月最後の日、実里は短大を出て七年間勤めた会社を辞めた。ひかるは大泣きに泣いた。

 「やあね。別に永の別れでもあるまいし。逢おうと思えば、いつでも逢えるじゃない」  

 実里が縋りついてくるひかるを抱きしめると、ひかるは更に声を上げて泣いた。

 「元気でね。赤ちゃんが生まれたら、抱っこしにいくからね」

 こうして、実里は想い出多い出版社を後にした。


♯Conflict(葛藤)♯

 ♯Conflict(葛藤)♯

 実里は周囲に判らないように、そっと溜息をついた。また腰が痛み始めたので、拳を作ってトントンと軽く叩く。

 「入倉さん、疲れたのなら、少し休憩室で休んで来たら?」

  隣のレジから恰幅の良い四十代半ばの女性が声をかけてくれた。おなじパート仲間の新垣さんだ。

 「ありがとうございます。大丈夫ですから」

  実里は微笑み、自分を叱咤した。

 ―いけない、こんなことでは駄目でしょ。

 会社を辞職してから、もう五ヶ月になる。  実里の腹の子は順調に発育し、既に妊娠八ヶ月に入った。大きなお腹でのパート仕事はかなり大変だけれど、生まれてくる子どもと自分のためにも頑張っている。

 あれからの日々は、語り尽くせないほど困難を極めた。まず、実里の両親の説得がひと苦労だった。

 妊娠を告げると、父は激怒し、実里は頬を打たれた。

 ―馬鹿者ッ。一体、どこの男とそんなふしだらな真似をしでかしたんだ。今すぐ、そいつを連れてこい。二人並べて、ぶん殴ってやる。

 予想通りの反応だった。

 実里が正座したまま何も言わないのを見て、父の怒りはますますエスカレートした。

 ―相手は潤平君か?

  父にしてみれば、そうであって欲しいと一縷の望みを賭けての問いであったに違いない。

  しかし、実里は、これにはきっぱりと否定した。

 ―違います。潤平さんとは、もう別れたの。お腹の赤ちゃんの父親はあの男ではないわ。

  その言葉に、父は完全に切れてしまった。

 ―何という呆れた娘だ。そんな有様だから、潤平君にも早々と愛想を尽かされたんだろう。

 もう一度、平手が飛んでこようとするのを、脇から母が泣いて止めた。

―止めて下さい。この娘(こ)の身体は普通じゃないって、お父さんも知ってるんでしょう。お腹に子どものいる娘を殴ったりして、万が一のことがあったら、どうするんですか?

 結婚してから二十八年間、一度も父に逆らったことのない母が泣きながら父に断固として刃向かったのだ。

 結局、父は折れた。折れざるを得なかったのだ。

  実里は何度訊かれても、赤ん坊の父親の名を明かさなかった。その中に、父も母も訊かなくなった。どうも道ならぬ不倫の恋の果てにでもできた子―父親が明かせないのは、その男に家庭があるからだろうと勝手に推測したらしい。  実里は自宅からパートに通うことになった。幸いというべきか、母が近々、スーパーのレジ打ちを止める予定だったので、その後釜として入った。

 一度、休日にムシさんこと人事部長が自宅まで訪ねてきてくれたこともあった。

 ―妊婦には何が良いか、よく判らなくてねえ。

 ムシさんは高級メロンの箱を下げてやって来て、笑った。

 恐らくムシさんは本当は優しい面倒見の良い人なのだろう。しかし、長年の会社勤めは、その優しいムシさんを始終、渋面の気難しそうなおじさんに変えてしまった。


 丁度、その日は父も自宅にいて同年配の二人はすっかり意気投合した。

 ―娘なんか、育てても仕方ありませんなぁ。部長、大切に育ててきた娘がまさか男に騙されて棄てられて、こんな風に一人ぼっちで子どもを生む羽目になるとは思いもしませんでした。娘のことを考えると、私は死のうにも死ねません。

 昼間から母が出した酒に酔っぱらい、父はムシさん相手にさんざん愚痴を言っている。

 恥ずかしいのはもちろんだが、日頃は酒を飲んでも繰り言一つ口にしない父がああまで乱れてしまうのは、やはり父の言葉どおり、不肖の娘が原因だろうと思うと居たたまれなかった。

 ―いや、全くです。うちの娘も似たようなもんですよ。しかし、お父さん、孫は可愛いですぞ。うちのところは先月に生まれまして、これがもう可愛いの何のって。家内なんか一日に何度写真をうっとりと眺めていることやら。生まれた孫の顔をひとめ見たら、何もかも忘れられますよ。

 ムシさんは巧みに話を別の方に持っていき、父は

 ―おお、そうですか。やはり、そんなに可愛いものですかね。部長さん、うちはどうも女の子らしいんですよ。いやー、私が娘一人だったもんで、初孫は男が良いかなと思っていたんですが、これがまた期待はずれで。

 と、ムシさんに上手く乗せられている。

 ―いやいや、女の子の方がじいじには可愛くて、よろしいですよ。うちも女の子ですから、私の言うことに間違いはありません。

 ―そうですかねえ。そうですね。やっぱり、最初は女の子ですかね。

  そう言いながら、父は男泣きに泣いていた。  実里は、これまで父の涙など一度も見たことがなかった。そんな父の姿を見て、実里もまた物陰で泣いた。

 お父さん、ごめんなさい。親不孝な私を許して。  

 父にも母にも詫びの言葉がなかった。

 ―元気そうで、安心したよ。あと少しだね。良い子を産むんだよ。

  ムシさんは帰り際、見送りに出た実里の肩を叩いて帰っていった。

 それがつい一週間前のことだ。

 「済みません、レジ、お願いできますか?」

 遠慮がちな声に我に戻り、実里は狼狽えた。

 「ごめんなさい。すぐに打ちますから」

 どうもムシさんと父の会話を思い出していたのがまずかったようだ。

 我を忘れていたことを悔いながら、まずは客に謝った。ここを止めさせられたら、本当に仕事の当てがなくなってしまう。

 実里の考えでは、妊娠九ヶ月の終わりまでは働いて、臨月から産休に入ろうと考えていた。

 その前に店長に直談判して、産後もできれば、今度は正社員として働かせて貰えないかと頼み込むつもりだ。

 そのためにも、精一杯働く。間違っても、客からクレームをつけられるようではいけない。

 「本当に申し訳ございません。ついうっかりしていて」

 客がカゴに入れてきた商品のバーコードを一つ一つ、スキャナで読み取ってゆく。

 鶏飯弁当、ウーロン茶、男性用シェービングローション。

 どうも独身の男性らしい。実里は値段をスキャナで読み取った後、初めて客の方をまともに見た。


 丁度、その日は父も自宅にいて同年配の二人はすっかり意気投合した。

 ―娘なんか、育てても仕方ありませんなぁ。部長、大切に育ててきた娘がまさか男に騙されて棄てられて、こんな風に一人ぼっちで子どもを生む羽目になるとは思いもしませんでした。娘のことを考えると、私は死のうにも死ねません。

 昼間から母が出した酒に酔っぱらい、父はムシさん相手にさんざん愚痴を言っている。

 恥ずかしいのはもちろんだが、日頃は酒を飲んでも繰り言一つ口にしない父がああまで乱れてしまうのは、やはり父の言葉どおり、不肖の娘が原因だろうと思うと居たたまれなかった。

 ―いや、全くです。うちの娘も似たようなもんですよ。しかし、お父さん、孫は可愛いですぞ。うちのところは先月に生まれまして、これがもう可愛いの何のって。家内なんか一日に何度写真をうっとりと眺めていることやら。生まれた孫の顔をひとめ見たら、何もかも忘れられますよ。

 ムシさんは巧みに話を別の方に持っていき、父は

 ―おお、そうですか。やはり、そんなに可愛いものですかね。部長さん、うちはどうも女の子らしいんですよ。いやー、私が娘一人だったもんで、初孫は男が良いかなと思っていたんですが、これがまた期待はずれで。

 と、ムシさんに上手く乗せられている。

 ―いやいや、女の子の方がじいじには可愛くて、よろしいですよ。うちも女の子ですから、私の言うことに間違いはありません。

 ―そうですかねえ。そうですね。やっぱり、最初は女の子ですかね。

  そう言いながら、父は男泣きに泣いていた。  実里は、これまで父の涙など一度も見たことがなかった。そんな父の姿を見て、実里もまた物陰で泣いた。

 お父さん、ごめんなさい。親不孝な私を許して。  

 父にも母にも詫びの言葉がなかった。

 ―元気そうで、安心したよ。あと少しだね。良い子を産むんだよ。

  ムシさんは帰り際、見送りに出た実里の肩を叩いて帰っていった。

 それがつい一週間前のことだ。

 「済みません、レジ、お願いできますか?」

 遠慮がちな声に我に戻り、実里は狼狽えた。

 「ごめんなさい。すぐに打ちますから」

 どうもムシさんと父の会話を思い出していたのがまずかったようだ。

 我を忘れていたことを悔いながら、まずは客に謝った。ここを止めさせられたら、本当に仕事の当てがなくなってしまう。

 実里の考えでは、妊娠九ヶ月の終わりまでは働いて、臨月から産休に入ろうと考えていた。

 その前に店長に直談判して、産後もできれば、今度は正社員として働かせて貰えないかと頼み込むつもりだ。

 そのためにも、精一杯働く。間違っても、客からクレームをつけられるようではいけない。

 「本当に申し訳ございません。ついうっかりしていて」

 客がカゴに入れてきた商品のバーコードを一つ一つ、スキャナで読み取ってゆく。

 鶏飯弁当、ウーロン茶、男性用シェービングローション。

 どうも独身の男性らしい。実里は値段をスキャナで読み取った後、初めて客の方をまともに見た。


「九百五十円です」

 言い終わらない中に、実里は〝あっ〟と声を上げていた。

 客の方も眼を丸くしている。

 「もしかして、実里ちゃん?」

 「片岡さん―」  

 何と、その客は悠理の親友片岡柊路であった。

 その場は実里の仕事があるので、後でまた逢うことにして柊路は帰った。

 二時間後、実里の勤務時間が終わり、二人は実里の自宅までの道程を肩を並べて歩いた。

 「ああ、持つよ」

 実里が両手に野菜や肉を詰め込んだビニール袋を下げているのを見、柊路が奪い取るように荷物を取った。

  その点、パートは店内の商品を何割引かで買えるので、助かる。これからはできるだけ節約しなければならない。何しろ出産したら、しばらくは身動きが取れない。そのときに備えて、貯金は少しでも多い方が良かった。

  むろん、両親と同居しているのだから、援助は受けられる。しかし、名前も明かせない男の子どもを身籠もり、今また生もうとしている親不孝に加えて、これ以上、親に心配や負担はかけたくなかった。

 現に、実里はこうして数日に一度は自費で夕飯の食材を購入して帰る。父も母も余計な心配はするなとしきりに言うのだが、実里の心がそれに甘えられないのだ。

「実里ちゃん、結婚したんだ?」

 いきなり問われ、実里は言葉に窮した。

  小さく息を吸い込み、笑顔を作る。

 「いいえ、結婚はしてません」

 え、というように柊路が眼を見開いた。

 「でも―」  

柊路の視線がすっかり大きくなった腹部に注がれている。

 実里はうつむいた。

 「ごめんなさい。ちょっと訳ありで、一人で子どもを生むことになって」

「別に実里ちゃんが謝ることはないけど、俺には君がそんな風な女の子には見えなかったけどなぁ」

 柊路は首を振り、思い直したように笑顔になった。

 「でも、まあ、安心したよ。あれから、どうしてるのかなと心配はしてたんだ。だけど、君みたいなごく普通の女の子は俺のような男とはあんまり関わり合いにはなりたくないだろうと思って」

 どうも実里の方から連絡を取らなかったことを気にしているらしい。それで、やはり、彼からの連絡が途絶えたのだ。柊路はそれを彼の職業のせいだと思い込んでいるようだ。

 「片岡さん、勘違いしてます」

  柊路の形の良い眉が少しだけはねた。

 「どういうこと?」

 実里は言葉を探しながら慎重に言った。

 「私は片岡さんのお仕事のこととか、全然気にしてません。それを言ったら、私の方がよっぽど社会のあぶれ者ですよ。会社もクビになっちゃったし、今、流行のシングルマザーにもなるわけだし」

 「ねえ、こんなこと訊くのは失礼だと思うんだけど、どうして、お腹の子どもの父親と結婚しないの?」  

 何人もの人に訊かれたことだ。



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