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 実里は微笑んだ。

 「私は生もうと考えています」

 何故か、ムシさんの小さな顔がパッと明るくなったような気がした。

 「それは良かった。いや、僕は君に止めて欲しくはないんだよ。でも、折角、授かった生命だ。もしかしたら、僕は君が生まない選択をするんじゃないかと思ってね。娘が連れてきた男は職にもついてなくて、アートグラフィックデザイナーの卵だとかなんとかいって、本当に頼りない男だった。こんなヤツに大切な娘をやれるものかと断固反対してやったら、娘のヤツ、しまいには結婚を許さないのなら、お腹の赤ん坊を中絶するなんて言い出して、これがまた大慌てさ。僕と家内にとっては初孫なんだ。しかも、娘は三十だからね。それで、仕方なく、だよ」

 ムシさんの言葉は心に滲みた。そのときのムシさんの今の顔は少なくとも渋面ではなかった。

 「元気な子を産みなさい。人事部長としてはしてあげられることは何もないが、個人的なら話は別だ。困ったことがあれば、いつでも自宅の方に訪ねてくると良い」

  ムシさんは名刺に住所と解り易い地図まで書き添えてくれた。

 「長い間、お世話になりました」

 実里は深々と頭を垂れ、部長室を後にした。

 夕方になった。

  会社が退けてから、実里は大木ひかるを駅前の喫茶店に誘った。

 例の溝口悠理の友達だというホスト片岡柊路とここで逢ったのは、もう二ヶ月も前になる。あれ以来、柊路からは二、三度、連絡があった。その度に短いやりとりを交わした中からは、彼が実里のことを真剣に心配してくれているのが判った。

 しかし、実里の方から柊路に電話することもなく、その中に彼からの連絡は途絶えた。  あの時、彼は言ったはずだ。悠理は普通の状態ではない。気をつけろと。

 実里がもっと彼の警告を真摯に受け止めていたなら、あの夜のレイプは避けられたかもしれない。もう一度、あの優しい眼をした穏やかな青年に逢ってみたいと思わないでもなかったけれど、悠理の友達だというただそれだけの関係の彼に、実里の方から連絡するのも躊躇われた。

  実里は、ひかるに人事部長とのやりとりをほぼ全部話した。

 「そんな―。それはあんまりというものじゃない。新規プロジェクトのことだってそうだけど、たったそれだけのことで、実里を切り捨てるなんて割に合わないわ。絶対におかしいわよ」

 話を聞いたひかるはまるで我が事のように憤慨した。

 「仕方ないわよ。ムシさんだって、できるだけのことをしてくれたんだし」  かえって渦中の本人の方がひかるを宥めている。  と、ひかるが急に憂い顔になった。

 「ねえ、一つだけ訊いても良い?」

 「なあに?」

 「実里のお腹の赤ちゃんの父親は誰なの?」

 実里は硬直した。  

ひかるが慌てて取りなすように言った。

 「話したくないのなら、無理に訊こうとは思わないわ。でもね、今だから話すけれど、一昨日、実里が給湯室で吐きそうになった時、私は実里が妊娠しているんじゃないかと思ったの。私には姉がいるでしょ。その姉が結婚して初めて妊娠したときに悪阻が物凄くて、実家に一時戻ってきて、静養したくらいなのよ。実里の様子がそのときの姉とそっくりだったから、もしかしたらと思ったの」


「それで、生理のことを訊いたのね。私ってば、女失格だわ。ひかるが私に訊ねてきたときに、何でそんなことをいきなり訊ねるんだろう、幾ら親しくても嫌だなって思っちゃったの」

 実里が正直に打ち明けると、ひかるは笑った。

 「それが実里の実里らしいところだもんね」

 「なに、それ。褒められてるような気がしないんだけど」

  二人は顔を見合わせて笑った。

 この優しくて明るい親友とも、これで離れ離れになる。会社を辞めることは確かに実里にとって一つの大きな節目になるに違いなかった。

 「でも、実里。あの日も言ってたけど、彼氏とは何でもないんでしょう。なら、赤ちゃんの父親はそれ以外の男ってこと?」

 実里の顔が真っ青になったのを見て、ひかるは首を振った。

 「ごめん、もう訊かない方が良いのよね」

「私の方こそ、ごめんなさい。ひかるには本当に仲良くして貰ったのに、何も話せなくて」

 実里は心からひかるに申し訳なく思った。

 ひかるは破顔した。

 「なに水くさいことを言ってるのよ。それよりも、私から総務の部長に言ってあげようか? 総務の部長は社長の甥っ子だから、うちの部長から取りなして貰えれば、頑固爺ィの社長の考えも変わるかもしれないわ」

  実里は微笑んだ。

 「ありがと。ひかるがそこまで私のことを考えてくれて、本当に嬉しい。でも、やっぱり止めておく。仮に総務部長から取りなして貰って会社にいられることになったとしても、他人の眼というものがあるしね。きっと、今まで以上に居づらいと思うのよ。そういう針の筵のような場所にいるのも、お腹の子どもには良くないだろうから、この際、思い切って辞めることにする」

「実里、何だか強くなったわね。ついこの間までの実里と別人みたい。やっぱり、母は強しっていうのは本当なのかなぁ」

 ひかるは感心したように言い、突如として唸った。

 「それにしても、許せないわ」

 「何が?」

  本当に何のことか判らなくて問うと、ひかるは焦れったそうに言った

「もう! 実里は本当にお人好しすぎるわよ。庶務課のあの子たち。病院で実里に逢ったっていう後輩たちのことに決まってるじゃないの。大方、あの子たちが実里のことを人事部に通報したに違いないわ」

 実里自身も間違いないと思っていた。第一、あの二人に出逢ったその日、人事部に通報が入ったのだ。偶然の一致にしてはできすぎている。

 「もう済んだことよ。今更、言ってみても始まらないわ」

 「ああ、あなたは本当に人が好すぎるわ」

  ひかるが嘆息混じりに呟いた。

 「良いわ、私が実里の代わりに、あの子たちに制裁を加えるやるから。憶えてなさい。私の大切な親友に酷いことをしたら、ただじゃおかないんだから」

 「せいぜいお手柔らかにね」

  実里の冗談とも本気ともつかぬ言葉に、ひかるは笑った。

 「あなた、眼が笑ってないわよ?」

 ひかるの指摘に、〝そう?〟と、しれっと笑顔で応えた。


「それで、会社止辞めて、次の仕事の心当たりはあるの?」

 「全然。しばらくは家にいるわ。といっても、そうそう、のんびりともしていられないけどね。お腹が大きくなってきたら、できる仕事も限られてるでしょうし。今の中にバイトでもして、しっかりと稼いでおかないと」

 冗談めかして言ったのに、かえって、ひかるは涙ぐんで黙り込んでしまった。

 確かに、ひかるの言うとおりだと思う。自分で言うのもおかしいけれど、実里は相当なお人好しだ。自分を陵辱したあの男―溝口悠理ですら、今はもう憎しみをあまり感じなくなっている。  

 もちろん今も顔だって見たくないほど大嫌いな男に違いはないが、事件直後のように殺してやりたいと思うくらいの憎しみは薄れていた。

 あの男を憎んでも意味がない。それは恐らく、あの事故の起きた日、実里が早妃を轢いてしまったことにも言えるだろう。誰を恨んでも憎んでも、何も始まらないし、生まれない。

  実里はもう事故のことで自分を責めるのは止めた。ただ自分が生命を奪ってしまったひとりの女性の存在だけは永遠に心にとどめ、罪は背負っていこうと思っている。  そうやって自らの罪と向き合うことでしか、実里には償うすべはない。せめて忘れないことが、あの女への贖罪なのだ。

 早妃のことは憶えておいて、あの男―悠理の存在はさっさと記憶から消してしまおうと思う。あの忌まわしい汚辱の夜も。

  自分にはこの子さえいてくれれば良い。

 私だけの子、可愛い私の赤ちゃん。

 この子には最初から父親はいない。私をレイプした男があなたのお父さんよだなんて、絶対に言えるはずがない。この秘密は私がこの生命尽きて墓場に行くまで、ずっと秘めて、あの世にまで持っていく。

 実里は無意識の中にお腹を押さえていた。

 

 六月最後の日、実里は短大を出て七年間勤めた会社を辞めた。ひかるは大泣きに泣いた。

 「やあね。別に永の別れでもあるまいし。逢おうと思えば、いつでも逢えるじゃない」  

 実里が縋りついてくるひかるを抱きしめると、ひかるは更に声を上げて泣いた。

 「元気でね。赤ちゃんが生まれたら、抱っこしにいくからね」

 こうして、実里は想い出多い出版社を後にした。


♯Conflict(葛藤)♯

 ♯Conflict(葛藤)♯

 実里は周囲に判らないように、そっと溜息をついた。また腰が痛み始めたので、拳を作ってトントンと軽く叩く。

 「入倉さん、疲れたのなら、少し休憩室で休んで来たら?」

  隣のレジから恰幅の良い四十代半ばの女性が声をかけてくれた。おなじパート仲間の新垣さんだ。

 「ありがとうございます。大丈夫ですから」

  実里は微笑み、自分を叱咤した。

 ―いけない、こんなことでは駄目でしょ。

 会社を辞職してから、もう五ヶ月になる。  実里の腹の子は順調に発育し、既に妊娠八ヶ月に入った。大きなお腹でのパート仕事はかなり大変だけれど、生まれてくる子どもと自分のためにも頑張っている。

 あれからの日々は、語り尽くせないほど困難を極めた。まず、実里の両親の説得がひと苦労だった。

 妊娠を告げると、父は激怒し、実里は頬を打たれた。

 ―馬鹿者ッ。一体、どこの男とそんなふしだらな真似をしでかしたんだ。今すぐ、そいつを連れてこい。二人並べて、ぶん殴ってやる。

 予想通りの反応だった。

 実里が正座したまま何も言わないのを見て、父の怒りはますますエスカレートした。

 ―相手は潤平君か?

  父にしてみれば、そうであって欲しいと一縷の望みを賭けての問いであったに違いない。

  しかし、実里は、これにはきっぱりと否定した。

 ―違います。潤平さんとは、もう別れたの。お腹の赤ちゃんの父親はあの男ではないわ。

  その言葉に、父は完全に切れてしまった。

 ―何という呆れた娘だ。そんな有様だから、潤平君にも早々と愛想を尽かされたんだろう。

 もう一度、平手が飛んでこようとするのを、脇から母が泣いて止めた。

―止めて下さい。この娘(こ)の身体は普通じゃないって、お父さんも知ってるんでしょう。お腹に子どものいる娘を殴ったりして、万が一のことがあったら、どうするんですか?

 結婚してから二十八年間、一度も父に逆らったことのない母が泣きながら父に断固として刃向かったのだ。

 結局、父は折れた。折れざるを得なかったのだ。

  実里は何度訊かれても、赤ん坊の父親の名を明かさなかった。その中に、父も母も訊かなくなった。どうも道ならぬ不倫の恋の果てにでもできた子―父親が明かせないのは、その男に家庭があるからだろうと勝手に推測したらしい。  実里は自宅からパートに通うことになった。幸いというべきか、母が近々、スーパーのレジ打ちを止める予定だったので、その後釜として入った。

 一度、休日にムシさんこと人事部長が自宅まで訪ねてきてくれたこともあった。

 ―妊婦には何が良いか、よく判らなくてねえ。

 ムシさんは高級メロンの箱を下げてやって来て、笑った。

 恐らくムシさんは本当は優しい面倒見の良い人なのだろう。しかし、長年の会社勤めは、その優しいムシさんを始終、渋面の気難しそうなおじさんに変えてしまった。


 丁度、その日は父も自宅にいて同年配の二人はすっかり意気投合した。

 ―娘なんか、育てても仕方ありませんなぁ。部長、大切に育ててきた娘がまさか男に騙されて棄てられて、こんな風に一人ぼっちで子どもを生む羽目になるとは思いもしませんでした。娘のことを考えると、私は死のうにも死ねません。

 昼間から母が出した酒に酔っぱらい、父はムシさん相手にさんざん愚痴を言っている。

 恥ずかしいのはもちろんだが、日頃は酒を飲んでも繰り言一つ口にしない父がああまで乱れてしまうのは、やはり父の言葉どおり、不肖の娘が原因だろうと思うと居たたまれなかった。

 ―いや、全くです。うちの娘も似たようなもんですよ。しかし、お父さん、孫は可愛いですぞ。うちのところは先月に生まれまして、これがもう可愛いの何のって。家内なんか一日に何度写真をうっとりと眺めていることやら。生まれた孫の顔をひとめ見たら、何もかも忘れられますよ。

 ムシさんは巧みに話を別の方に持っていき、父は

 ―おお、そうですか。やはり、そんなに可愛いものですかね。部長さん、うちはどうも女の子らしいんですよ。いやー、私が娘一人だったもんで、初孫は男が良いかなと思っていたんですが、これがまた期待はずれで。

 と、ムシさんに上手く乗せられている。

 ―いやいや、女の子の方がじいじには可愛くて、よろしいですよ。うちも女の子ですから、私の言うことに間違いはありません。

 ―そうですかねえ。そうですね。やっぱり、最初は女の子ですかね。

  そう言いながら、父は男泣きに泣いていた。  実里は、これまで父の涙など一度も見たことがなかった。そんな父の姿を見て、実里もまた物陰で泣いた。

 お父さん、ごめんなさい。親不孝な私を許して。  

 父にも母にも詫びの言葉がなかった。

 ―元気そうで、安心したよ。あと少しだね。良い子を産むんだよ。

  ムシさんは帰り際、見送りに出た実里の肩を叩いて帰っていった。

 それがつい一週間前のことだ。

 「済みません、レジ、お願いできますか?」

 遠慮がちな声に我に戻り、実里は狼狽えた。

 「ごめんなさい。すぐに打ちますから」

 どうもムシさんと父の会話を思い出していたのがまずかったようだ。

 我を忘れていたことを悔いながら、まずは客に謝った。ここを止めさせられたら、本当に仕事の当てがなくなってしまう。

 実里の考えでは、妊娠九ヶ月の終わりまでは働いて、臨月から産休に入ろうと考えていた。

 その前に店長に直談判して、産後もできれば、今度は正社員として働かせて貰えないかと頼み込むつもりだ。

 そのためにも、精一杯働く。間違っても、客からクレームをつけられるようではいけない。

 「本当に申し訳ございません。ついうっかりしていて」

 客がカゴに入れてきた商品のバーコードを一つ一つ、スキャナで読み取ってゆく。

 鶏飯弁当、ウーロン茶、男性用シェービングローション。

 どうも独身の男性らしい。実里は値段をスキャナで読み取った後、初めて客の方をまともに見た。



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