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 その二日後の昼下がり。

 実里は突然、人事部の部長から呼び出しを受けた。

  部長室の扉をノックすると、すぐに応答があった。

 「入りたまえ」

 「失礼します」

 実里は慇懃にお辞儀をして部長の前に立つ。五十過ぎの人事部長は始終、渋面をしていることで社内でも有名である。あだ名は〝ムシさん〟。苦虫を噛みつぶしたような表情がトレードマークだからだ。

 ゆったりとしたスペースのある部長室は一面を大きなガラス張りの窓が占めており、重厚なマホガニーのデスクがその窓を背景に配置されている。  ムシさんはその立派すぎるデスクと座り心地の良さそうな椅子には、いささか不似合いだ。部長と聞かなければ、平の冴えないサラリーマンに見える。

  今日はその渋面が更に苦い薬でも飲んだように顰められていた。

 「今日、ここに呼ばれた原因は君ももう判っているだろうね」

 こんな時、あっさりと自分の非を認めては駄目だ。呼び出しを受けた理由が何にせよ、会社側をはやそれだけで有利に立たせることになる。それは七年間のOL生活でちゃんと心得ている。 「お言葉を返すようですが、私には何のことか判りかねます」  ウォッホン。ムシさんは白々しい咳払いをした。

 「一昨日の夕方のことになる。人事部の方に 匿名で電話があった。その内容はというとだね、まあ、どうも受付係の一人が妊娠しているらしいという通報だったんだよ」

 妊娠。

 そのひと言がムシさんの口から飛び出てきて、流石に実里もただ事ではないと感じた。

 刹那、二日前に小さな病院で偶然出くわした若い女子社員の顔が浮かんだ。丸顔の可愛らしい感じの子と一方は、大きなマスクをしていたので容貌は定かではない。確か庶務課の子たちのはずだ。  女の噂話ほど無害のように思えて、実は有害なものはない。

 「その受付係の名前はお訊きになったのですか?」

 シラを切り通すのが賢明だとは判っていたが、どうしても訊かずにはおれなかった。

 「ホウ、君には心当たりがあるのかね」  

ムシさんの小さな眼が光った。  

 この期に及んで、実里は、しまったと思った。まんまと相手の術中に填ったのだと知っても、もう取り返しがつかない。

  明らかな誘導尋問である。

 ムシさんは小さな溜息をつくと、デスクの上の両手を軽く組み合わせた。

 「入倉君。人事部でも君については、ここのところよく名前が出ることが多くてね」

 「部長―」  

 言いかけた実里をムシさんが手を上げて制した。

 「まあ、聞きたまえ。僕は君のことをかえって気の毒だと思っているんだよ。四月頭に起こった事故については、本当に万が悪いとしか言えなかったからね。あれはたまたま起きたものだ。亡くなった女性を轢いたのは君ではなくて、僕だったかもしれない。あの事件の後、君の進退についてとやかく言う管理職もいないでもなかったが、僕は社内の人事を一手に扱っているという立場から、君の辞職にいては一切あり得ないと押し通した」


 実里は眼を瞠った。まさかムシさんが自分に対して同情的な立場を取り、社内で庇ってくれていたとは知らなかった。

 「新規プロジェクトについては庇い切れなかったことを申し訳ないと思っている。あれは社長自らが言い出したことで、下っ端の僕にはどうしようもないことだった」

 「部長、色々とご配慮頂きまして、ありがとうございます」

  実里は目頭が熱くなり、慌てて頭を下げた。

 ムシさんは頷いた。

 「そこで、一昨日の通報についてだが、入倉君は今後、どうするつもりかな? 僕としては是非、君の意見を聞きたい。その応えいかんによって、僕が君の力になれるかどうかも判るだろう」

 「部長、それは一体、どういう―」

 ムシさんが細い眼を更に細めた。

「単刀直入に言おう。何も女子社員の妊娠は珍しいことではない。今日日、結婚しても勤務を続ける女子社員は増える一方だからね。しかし、君がまだ未婚なのは社内でも周知の事実だ。まあ、言いにくいことではあるが、四月の事件がなければ、今回のことも寛容に対処しても良かった。だが、あの事故に続いて、また問題になりそうなことが起こったとなれば、人事部としても黙ってはいられない。だからだね。入倉君、もし君がそのお腹の子どもの父親とすぐにでも籍を入れるとか結婚するというのなら、こちらとしても問題はないんだよ」

 ムシさんは一旦言葉を切り、言いにくそうに続けた。

 「または、これも言いづらいが、君が中絶を考えている場合も、事は穏便に処理できる」

  実里は小さく息を吸い込んだ。

 「それでは、もし私が生むという決断を下した場合は、辞職せざるを得ないということですか?」  応えは聞かずとも判っていた。

 「気の毒だが、そういうことになるだろうね。何しろ、うちの社長は頭が固いから。殊にそういう道義的な事柄に関しては煩いんだ。今時、シングルマザーなんて珍しくもないと僕なんかは思うけどねえ」

  ムシさんはかなり薄くなった頭髪に手をやった。

 「いやあ、身内の恥をさらすようなものだけど、うちの娘も今月初めに結婚したんだよ。それができちゃった結婚だった。まあ、参った。いきなり見知らぬ男と現れて、子どもができたから結婚させろだとか何とか言われて、僕は一瞬、血圧が上がって死ぬんじゃないかと思うほどのショックだ。家内はもう泣き崩れるし。一人娘だからと甘やかしていたのが災いしたらしい。だから、入倉君のことも他人事とは思えなくてね。僕としては、君がどういう選択をしようが、このまま会社にいられるようにしてあげたいと思う。しかし、やはり、現実としては、そうは問屋が卸さないだろうね」 「判りました」

 実里は頭を下げた。

 つまり、実里は会社を辞めざるを得なくなった―ということだ。

「入倉君」

  部長室を出ようとした実里の背後からムシさんの声が追いかけてきた。

 実里が振り向くと、ムシさんが心配そうに言った。

 「それで、君はどうするつもりなんだね? ああ、この質問は人事部長ではなく、君と同じ年頃の娘を持つ一人の父親として聞いているんだが」


 実里は微笑んだ。

 「私は生もうと考えています」

 何故か、ムシさんの小さな顔がパッと明るくなったような気がした。

 「それは良かった。いや、僕は君に止めて欲しくはないんだよ。でも、折角、授かった生命だ。もしかしたら、僕は君が生まない選択をするんじゃないかと思ってね。娘が連れてきた男は職にもついてなくて、アートグラフィックデザイナーの卵だとかなんとかいって、本当に頼りない男だった。こんなヤツに大切な娘をやれるものかと断固反対してやったら、娘のヤツ、しまいには結婚を許さないのなら、お腹の赤ん坊を中絶するなんて言い出して、これがまた大慌てさ。僕と家内にとっては初孫なんだ。しかも、娘は三十だからね。それで、仕方なく、だよ」

 ムシさんの言葉は心に滲みた。そのときのムシさんの今の顔は少なくとも渋面ではなかった。

 「元気な子を産みなさい。人事部長としてはしてあげられることは何もないが、個人的なら話は別だ。困ったことがあれば、いつでも自宅の方に訪ねてくると良い」

  ムシさんは名刺に住所と解り易い地図まで書き添えてくれた。

 「長い間、お世話になりました」

 実里は深々と頭を垂れ、部長室を後にした。

 夕方になった。

  会社が退けてから、実里は大木ひかるを駅前の喫茶店に誘った。

 例の溝口悠理の友達だというホスト片岡柊路とここで逢ったのは、もう二ヶ月も前になる。あれ以来、柊路からは二、三度、連絡があった。その度に短いやりとりを交わした中からは、彼が実里のことを真剣に心配してくれているのが判った。

 しかし、実里の方から柊路に電話することもなく、その中に彼からの連絡は途絶えた。  あの時、彼は言ったはずだ。悠理は普通の状態ではない。気をつけろと。

 実里がもっと彼の警告を真摯に受け止めていたなら、あの夜のレイプは避けられたかもしれない。もう一度、あの優しい眼をした穏やかな青年に逢ってみたいと思わないでもなかったけれど、悠理の友達だというただそれだけの関係の彼に、実里の方から連絡するのも躊躇われた。

  実里は、ひかるに人事部長とのやりとりをほぼ全部話した。

 「そんな―。それはあんまりというものじゃない。新規プロジェクトのことだってそうだけど、たったそれだけのことで、実里を切り捨てるなんて割に合わないわ。絶対におかしいわよ」

 話を聞いたひかるはまるで我が事のように憤慨した。

 「仕方ないわよ。ムシさんだって、できるだけのことをしてくれたんだし」  かえって渦中の本人の方がひかるを宥めている。  と、ひかるが急に憂い顔になった。

 「ねえ、一つだけ訊いても良い?」

 「なあに?」

 「実里のお腹の赤ちゃんの父親は誰なの?」

 実里は硬直した。  

ひかるが慌てて取りなすように言った。

 「話したくないのなら、無理に訊こうとは思わないわ。でもね、今だから話すけれど、一昨日、実里が給湯室で吐きそうになった時、私は実里が妊娠しているんじゃないかと思ったの。私には姉がいるでしょ。その姉が結婚して初めて妊娠したときに悪阻が物凄くて、実家に一時戻ってきて、静養したくらいなのよ。実里の様子がそのときの姉とそっくりだったから、もしかしたらと思ったの」


 実里は微笑んだ。

 「私は生もうと考えています」

 何故か、ムシさんの小さな顔がパッと明るくなったような気がした。

 「それは良かった。いや、僕は君に止めて欲しくはないんだよ。でも、折角、授かった生命だ。もしかしたら、僕は君が生まない選択をするんじゃないかと思ってね。娘が連れてきた男は職にもついてなくて、アートグラフィックデザイナーの卵だとかなんとかいって、本当に頼りない男だった。こんなヤツに大切な娘をやれるものかと断固反対してやったら、娘のヤツ、しまいには結婚を許さないのなら、お腹の赤ん坊を中絶するなんて言い出して、これがまた大慌てさ。僕と家内にとっては初孫なんだ。しかも、娘は三十だからね。それで、仕方なく、だよ」

 ムシさんの言葉は心に滲みた。そのときのムシさんの今の顔は少なくとも渋面ではなかった。

 「元気な子を産みなさい。人事部長としてはしてあげられることは何もないが、個人的なら話は別だ。困ったことがあれば、いつでも自宅の方に訪ねてくると良い」

  ムシさんは名刺に住所と解り易い地図まで書き添えてくれた。

 「長い間、お世話になりました」

 実里は深々と頭を垂れ、部長室を後にした。

 夕方になった。

  会社が退けてから、実里は大木ひかるを駅前の喫茶店に誘った。

 例の溝口悠理の友達だというホスト片岡柊路とここで逢ったのは、もう二ヶ月も前になる。あれ以来、柊路からは二、三度、連絡があった。その度に短いやりとりを交わした中からは、彼が実里のことを真剣に心配してくれているのが判った。

 しかし、実里の方から柊路に電話することもなく、その中に彼からの連絡は途絶えた。  あの時、彼は言ったはずだ。悠理は普通の状態ではない。気をつけろと。

 実里がもっと彼の警告を真摯に受け止めていたなら、あの夜のレイプは避けられたかもしれない。もう一度、あの優しい眼をした穏やかな青年に逢ってみたいと思わないでもなかったけれど、悠理の友達だというただそれだけの関係の彼に、実里の方から連絡するのも躊躇われた。

  実里は、ひかるに人事部長とのやりとりをほぼ全部話した。

 「そんな―。それはあんまりというものじゃない。新規プロジェクトのことだってそうだけど、たったそれだけのことで、実里を切り捨てるなんて割に合わないわ。絶対におかしいわよ」

 話を聞いたひかるはまるで我が事のように憤慨した。

 「仕方ないわよ。ムシさんだって、できるだけのことをしてくれたんだし」  かえって渦中の本人の方がひかるを宥めている。  と、ひかるが急に憂い顔になった。

 「ねえ、一つだけ訊いても良い?」

 「なあに?」

 「実里のお腹の赤ちゃんの父親は誰なの?」

 実里は硬直した。  

ひかるが慌てて取りなすように言った。

 「話したくないのなら、無理に訊こうとは思わないわ。でもね、今だから話すけれど、一昨日、実里が給湯室で吐きそうになった時、私は実里が妊娠しているんじゃないかと思ったの。私には姉がいるでしょ。その姉が結婚して初めて妊娠したときに悪阻が物凄くて、実家に一時戻ってきて、静養したくらいなのよ。実里の様子がそのときの姉とそっくりだったから、もしかしたらと思ったの」


「それで、生理のことを訊いたのね。私ってば、女失格だわ。ひかるが私に訊ねてきたときに、何でそんなことをいきなり訊ねるんだろう、幾ら親しくても嫌だなって思っちゃったの」

 実里が正直に打ち明けると、ひかるは笑った。

 「それが実里の実里らしいところだもんね」

 「なに、それ。褒められてるような気がしないんだけど」

  二人は顔を見合わせて笑った。

 この優しくて明るい親友とも、これで離れ離れになる。会社を辞めることは確かに実里にとって一つの大きな節目になるに違いなかった。

 「でも、実里。あの日も言ってたけど、彼氏とは何でもないんでしょう。なら、赤ちゃんの父親はそれ以外の男ってこと?」

 実里の顔が真っ青になったのを見て、ひかるは首を振った。

 「ごめん、もう訊かない方が良いのよね」

「私の方こそ、ごめんなさい。ひかるには本当に仲良くして貰ったのに、何も話せなくて」

 実里は心からひかるに申し訳なく思った。

 ひかるは破顔した。

 「なに水くさいことを言ってるのよ。それよりも、私から総務の部長に言ってあげようか? 総務の部長は社長の甥っ子だから、うちの部長から取りなして貰えれば、頑固爺ィの社長の考えも変わるかもしれないわ」

  実里は微笑んだ。

 「ありがと。ひかるがそこまで私のことを考えてくれて、本当に嬉しい。でも、やっぱり止めておく。仮に総務部長から取りなして貰って会社にいられることになったとしても、他人の眼というものがあるしね。きっと、今まで以上に居づらいと思うのよ。そういう針の筵のような場所にいるのも、お腹の子どもには良くないだろうから、この際、思い切って辞めることにする」

「実里、何だか強くなったわね。ついこの間までの実里と別人みたい。やっぱり、母は強しっていうのは本当なのかなぁ」

 ひかるは感心したように言い、突如として唸った。

 「それにしても、許せないわ」

 「何が?」

  本当に何のことか判らなくて問うと、ひかるは焦れったそうに言った

「もう! 実里は本当にお人好しすぎるわよ。庶務課のあの子たち。病院で実里に逢ったっていう後輩たちのことに決まってるじゃないの。大方、あの子たちが実里のことを人事部に通報したに違いないわ」

 実里自身も間違いないと思っていた。第一、あの二人に出逢ったその日、人事部に通報が入ったのだ。偶然の一致にしてはできすぎている。

 「もう済んだことよ。今更、言ってみても始まらないわ」

 「ああ、あなたは本当に人が好すぎるわ」

  ひかるが嘆息混じりに呟いた。

 「良いわ、私が実里の代わりに、あの子たちに制裁を加えるやるから。憶えてなさい。私の大切な親友に酷いことをしたら、ただじゃおかないんだから」

 「せいぜいお手柔らかにね」

  実里の冗談とも本気ともつかぬ言葉に、ひかるは笑った。

 「あなた、眼が笑ってないわよ?」

 ひかるの指摘に、〝そう?〟と、しれっと笑顔で応えた。



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