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 その瞬間、赤ちゃんがにこっと実里に笑いかけた。何と愛らしい笑顔! どれだけ腹を立てている人でも思わず顔が緩んでしまうような顔ではないか。

  なのに、実里はふいに涙が滲んできて、慌て手のひらでぬぐわなければならなかった。

  初めての赤ちゃんを歓迎できず、しかも生む選択ができないなんて。

 二度目に乗ってきたのは六十代くらいの老夫婦だった。杖をついた老妻をやはり銀髪の品の良いご主人が労る姿には心温まるものがあった。

 どちらも今の自分とは対極にある幸せそのものの夫婦の姿である。実里の心は余計に沈んだ。  いよいよエレベーターが一階に着き、実里は最後に降りた。

 と、愕くべきことに、潤平が降りたその場所に待ち受けていた。恐らく、階段を使ったに違いない。途中で二度も止まらなければ実里の方が先に着いたかもしれないが、全速力で駆け下りた男の方がわずかに早かったのだろう。

 「実里!」

 潤平が実里の腕を掴む。  実里はその腕を思い切り振り払った。

  後からやってきた子連れの若い夫婦が何事かとこちらを興味津々で見ながら通り過ぎていった。

 「もう良いから」

 「何が良いんだよ」

 潤平も負けずに怒鳴る。

 実里は今度は溢れ出る涙をぬぐいもせずに、潤平を睨んだ。

 「あなたが私を絶対にマンションに呼ばない理由が漸く判ったわ」

 「一体、何を言ってるんだ?」  

 あくまでもシラを切るつもりなのだ。

 実里は潤平を真正面から見据えた。

 「私以外に付き合っていた女の人がいたのね」

 そこで潤平が初めて弱気な態度を見せた。

 「弁解をするつもりはないが、これだけは聞いてくれ。お前にこの前―四月に逢った時、俺はお前に言った。俺のものになってくれと。だが、お前は頑としてはねのけ、俺を拒絶したんだぞ? 実里、俺だって男だ。八年もの間、待ち続けて更にお預けを喰らわされて、平気でいられるとでも思うのか?」

 実里は乾いた声で言った。

 「じゃあ、たった今、私が見たあの光景は、すべて私のせいだというの? 私があの時、あなたとホテルに行かなかったから?」


 私は、あなたの何なの?  実里は大声で叫びたかった。

 「お預けだなんて言い方しないで。私は、あなたの欲しいときに身を投げ出す餌じゃないわ」

  あの女は誰?  訊ねようたとしたけれど、止めた。

 今になって判ったところで、意味はない。  潤平は訊ねられもしないのに、自分から応えた。

「あの女は取引先の人だ。お前と最後に逢ってから、こういう関係になった。もちろん、顔見知りではあったが、誓って長い付き合いじゃない」

 「つまり、あの人と男と女の関係になったのも、私の煮え切らない態度が原因。あなたはそう言いたいのね」

 実里は淡々と言った。

 今から思えば、四月末から五月頭にかけて多忙だと言って実里に逢おうとしなかったのも怪しいものだ。

 そのことから考えて、あの肉感的な美女と 深間になった時期というのは、潤平の言うとおり嘘ではないのかもしれない。 「もう良いわ。言い訳なんかしないで」  実里は首を振った。  今となっては、もう、どうでも良いことだ。  潤平があの女と何をどうしようが、既に実里には関係ない。  実里の中で言いようのない烈しい感情がせめぎ合っていた。自分は心ならずも悠理にレイプされたことに対してあれほど罪悪感を感じた。むろん、潤平に対しての罪の意識があったからだ。望まざることとはいえ、悠理の子を宿して、潤平を裏切ったという気持ちにさえなった。

 しかし、実里が罪に悶々と喘ぐその一方で、肝心の潤平は実里を平然と裏切っていたのだ。少なくとも実里が悠理に犯されたのは実里自身の意思ではない。が、潤平があの女と関係を持ったのは彼が自分から望んだことだ。  潤平の態度が劣勢に転じたというのは間違いだった。彼は開き直ったのだ。

  すべてを―自分が犯した過ちと裏切りをことごとく実里のせいにして卑怯にも言い逃れようとしている。  全く、こんな男に八年も自分は何を期待していたのだろう。結婚という甘い夢を見ていた? 

 長年付き合ってきた情もあったことは否定できない。

 愚かな、なんて馬鹿な私。  あまりにも馬鹿らしくて、涙さえ出てこない。

  実里は小さく息を吸い込んだ。  さよなら、何も知らなかった未熟な私。  甘く儚い幻想を後生大切に宝物のように抱いていた世間知らずの愚かな娘。  こんな男を好きだと思い込み続けた八年間。  

 今こそ判った。  

潤平への想いに足りないと感じていた何か、愛というパズルを完成させるための最後のピースを漸く手にしたのだ。  それは、真心だった。潤平には最初から真心がなかったのだ。相手に対する誠意と言い換えても良いだろう。  

 だから、あっさりと実里を裏切り、あまつさえ、その理由を実里のせいにしようとしている。


 しかし、実里だって、潤平だけを責められはしない。自分もまたこの男に対して真心を与えようとしたことがあっただろうか。

  結婚という保険を手にするための一つの手段、言うならば安全パイのような存在がもしかしたら潤平だったのかもしれない。

   それでも、実里は確かに潤平を愛していた。いや、愛しているとまではいえなくても、ある特定の感情を抱いてはいた。もしかしたら、結婚という二人の関係を変えるチャンスを経て、その感情が愛に変わることもあったかもしれない。  でも、潤平は自らその可能性を断ち切ってしまったのだ。もう、この男に未練も期待もない。

 「さよなら」

 実里は潤平に今度こそ背を向け、歩き出した。今度は潤平も追いかけてこようとはしなかった。

  梅雨の合間の晴れ間から一転して、外は雨が降り始めていた。あの不幸な事故があって以来、雨は嫌いになった。

  だが、今夜だけは雨が降ってくれて、ありがたいと思わずにはいられない。  

 途切れることのない涙を優しい雨が隠してくれる。

 実里は頬を流れ落ちるのが涙なのか、雨なのか自分でも判らなかった。

  マンションの前には小さな花壇があった。もうすっかり海色に染め上がった紫陽花が雨に打たれて、しっとり濡れている。エメラルドグリーンの葉の上にジルコニアのように煌めく滴が無数にのっている。  

実里は人差し指でそっと水滴の一つに触れた。何故か、その滴を見ていると、あの赤ちゃんの笑顔が瞼に浮かんだ。束の間、かいま見たにすぎないのに、不思議とくっきりと眼裏に灼きついている。  

 小さな顔に黒い大きな瞳が冴え冴えと輝いていた。そう、丁度、緑眩しい葉の上の滴のように。

 実里は腹部に手のひらを当てた。まだここに新たな生命が息づいているとは思えないほど、平坦でふくらみは感じられない。

  けれど、今も目覚ましい勢いで育っている新しい生命がここにある。その瞬間、実里の中に強く訴えかけてきた感情―、それは母性、であった。  道端の花がこうして生きているように、お腹の子も大きくなろうと一生懸命頑張っている。やがて、生まれた出た子は自分の人生を生き、自分なりの花を咲かせるだろう。  どんな花を咲かせるのか、誰も知らない。

  何故なら、この子の人生はたった今、実里の胎内で始まったばかりなのだから。  生もうと思った。たとえ誰が望まなくても良い、この自分がこの子を一生かけて愛し、守ってゆけば良いのだと強く強く思った。  そしていつか、この子がどんな花を咲かせるのか、実里も側で見守りながら見極めたい。

 ここでひっそりと息づいている生命をむざと摘み取ることなど、誰もできはしないのだ。この子の生命はこの子のものであり、この子の人生もまたこの子だけのものなのだ。たとえ母親といえども、新しい生命を身勝手に葬り去ることを天は許しはしないだろう。  この時、実里の中で初めて母の自覚が生まれた。

 道端の紫陽花が夜陰の中でほのかに浮かび上がっている。実里は雨に濡れるのも厭わずに、いつまでも真っ青な花を見つめていた。

 

 


 その二日後の昼下がり。

 実里は突然、人事部の部長から呼び出しを受けた。

  部長室の扉をノックすると、すぐに応答があった。

 「入りたまえ」

 「失礼します」

 実里は慇懃にお辞儀をして部長の前に立つ。五十過ぎの人事部長は始終、渋面をしていることで社内でも有名である。あだ名は〝ムシさん〟。苦虫を噛みつぶしたような表情がトレードマークだからだ。

 ゆったりとしたスペースのある部長室は一面を大きなガラス張りの窓が占めており、重厚なマホガニーのデスクがその窓を背景に配置されている。  ムシさんはその立派すぎるデスクと座り心地の良さそうな椅子には、いささか不似合いだ。部長と聞かなければ、平の冴えないサラリーマンに見える。

  今日はその渋面が更に苦い薬でも飲んだように顰められていた。

 「今日、ここに呼ばれた原因は君ももう判っているだろうね」

 こんな時、あっさりと自分の非を認めては駄目だ。呼び出しを受けた理由が何にせよ、会社側をはやそれだけで有利に立たせることになる。それは七年間のOL生活でちゃんと心得ている。 「お言葉を返すようですが、私には何のことか判りかねます」  ウォッホン。ムシさんは白々しい咳払いをした。

 「一昨日の夕方のことになる。人事部の方に 匿名で電話があった。その内容はというとだね、まあ、どうも受付係の一人が妊娠しているらしいという通報だったんだよ」

 妊娠。

 そのひと言がムシさんの口から飛び出てきて、流石に実里もただ事ではないと感じた。

 刹那、二日前に小さな病院で偶然出くわした若い女子社員の顔が浮かんだ。丸顔の可愛らしい感じの子と一方は、大きなマスクをしていたので容貌は定かではない。確か庶務課の子たちのはずだ。  女の噂話ほど無害のように思えて、実は有害なものはない。

 「その受付係の名前はお訊きになったのですか?」

 シラを切り通すのが賢明だとは判っていたが、どうしても訊かずにはおれなかった。

 「ホウ、君には心当たりがあるのかね」  

ムシさんの小さな眼が光った。  

 この期に及んで、実里は、しまったと思った。まんまと相手の術中に填ったのだと知っても、もう取り返しがつかない。

  明らかな誘導尋問である。

 ムシさんは小さな溜息をつくと、デスクの上の両手を軽く組み合わせた。

 「入倉君。人事部でも君については、ここのところよく名前が出ることが多くてね」

 「部長―」  

 言いかけた実里をムシさんが手を上げて制した。

 「まあ、聞きたまえ。僕は君のことをかえって気の毒だと思っているんだよ。四月頭に起こった事故については、本当に万が悪いとしか言えなかったからね。あれはたまたま起きたものだ。亡くなった女性を轢いたのは君ではなくて、僕だったかもしれない。あの事件の後、君の進退についてとやかく言う管理職もいないでもなかったが、僕は社内の人事を一手に扱っているという立場から、君の辞職にいては一切あり得ないと押し通した」


 実里は眼を瞠った。まさかムシさんが自分に対して同情的な立場を取り、社内で庇ってくれていたとは知らなかった。

 「新規プロジェクトについては庇い切れなかったことを申し訳ないと思っている。あれは社長自らが言い出したことで、下っ端の僕にはどうしようもないことだった」

 「部長、色々とご配慮頂きまして、ありがとうございます」

  実里は目頭が熱くなり、慌てて頭を下げた。

 ムシさんは頷いた。

 「そこで、一昨日の通報についてだが、入倉君は今後、どうするつもりかな? 僕としては是非、君の意見を聞きたい。その応えいかんによって、僕が君の力になれるかどうかも判るだろう」

 「部長、それは一体、どういう―」

 ムシさんが細い眼を更に細めた。

「単刀直入に言おう。何も女子社員の妊娠は珍しいことではない。今日日、結婚しても勤務を続ける女子社員は増える一方だからね。しかし、君がまだ未婚なのは社内でも周知の事実だ。まあ、言いにくいことではあるが、四月の事件がなければ、今回のことも寛容に対処しても良かった。だが、あの事故に続いて、また問題になりそうなことが起こったとなれば、人事部としても黙ってはいられない。だからだね。入倉君、もし君がそのお腹の子どもの父親とすぐにでも籍を入れるとか結婚するというのなら、こちらとしても問題はないんだよ」

 ムシさんは一旦言葉を切り、言いにくそうに続けた。

 「または、これも言いづらいが、君が中絶を考えている場合も、事は穏便に処理できる」

  実里は小さく息を吸い込んだ。

 「それでは、もし私が生むという決断を下した場合は、辞職せざるを得ないということですか?」  応えは聞かずとも判っていた。

 「気の毒だが、そういうことになるだろうね。何しろ、うちの社長は頭が固いから。殊にそういう道義的な事柄に関しては煩いんだ。今時、シングルマザーなんて珍しくもないと僕なんかは思うけどねえ」

  ムシさんはかなり薄くなった頭髪に手をやった。

 「いやあ、身内の恥をさらすようなものだけど、うちの娘も今月初めに結婚したんだよ。それができちゃった結婚だった。まあ、参った。いきなり見知らぬ男と現れて、子どもができたから結婚させろだとか何とか言われて、僕は一瞬、血圧が上がって死ぬんじゃないかと思うほどのショックだ。家内はもう泣き崩れるし。一人娘だからと甘やかしていたのが災いしたらしい。だから、入倉君のことも他人事とは思えなくてね。僕としては、君がどういう選択をしようが、このまま会社にいられるようにしてあげたいと思う。しかし、やはり、現実としては、そうは問屋が卸さないだろうね」 「判りました」

 実里は頭を下げた。

 つまり、実里は会社を辞めざるを得なくなった―ということだ。

「入倉君」

  部長室を出ようとした実里の背後からムシさんの声が追いかけてきた。

 実里が振り向くと、ムシさんが心配そうに言った。

 「それで、君はどうするつもりなんだね? ああ、この質問は人事部長ではなく、君と同じ年頃の娘を持つ一人の父親として聞いているんだが」



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