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 エントランスを通り、エレベーターに乗り込む。十二階のボタンを押すと、そこが点滅しながらエレベーターは軽やかに上昇してゆく。  

 エントランスまで来たことは数回あるけれど、エレベーターに乗るのも潤平の部屋を訪ねるのも初めてだ。それにしても外見同様、内装も見事な、都会の一流ホテル張りの豪華さを誇っている。

  実里が暮らす古い二階建て住宅とは雲泥の差だ。あの界隈は今ではどこの家も建て替えて、瀟洒な住宅街に変わってしまったが、実里が物心つくかつかない頃は、まだ、どこも似たような簡素な家ばかりだった。

 しがない公務員だし、建て替えるだけのお金もなかったのだろうが、頑固で昔気質の父は自分の親の代から受け継いだ家を頑なに守り続けている。

 これだけの贅を尽くしたマンションに暮らしていれば、実里の家は潤平の眼にはさぞ貧相に映じたことだろう。たまに訪れる彼は、どこまでも穏やかな物腰の好青年にしか見えず、両親は大いに彼を気に入っていた。しかし、にこやかな笑顔の下で、潤平は何を考えていたのか―。

 十二階に着いた。実里はエレベーターから滑り降りると、突き当たりに向かって進んだ。紅い絨毯を敷き詰めた廊下はゆったりとしており、やはり有名ホテルの優雅な雰囲気を漂わせている

 インターフォンを軽く押すと、ほどなく内側から応答があった。

 「どちらさま?」

 その聞き慣れぬ声に、実里は慄然とした。  

 あろうことか、その声の主は女性であった。  向こうで、やりとりする気配が伝わってくる。声は低くて聞き取れない。男と女の声。やはり、潤平はマンションにいたのだ。

 やがてカチャリと内側からロックが外され、重厚なドアが開いた。

 「あら、どなた?」

 出てきたのは、実里の見たことのない女だった。背の高い、すらりとした容姿は艶然と咲き誇る深紅の薔薇を思わせる。愕いたことに、女はオフホワイトのバスローブを身に纏っていた。漆黒の丈なす豊かな黒髪はまるでそれ自体が意思を持っているかのようにうねり、濡れている。

化粧はしていなかったが、白皙の面にそこだけ一点、緋色のルージュが艶めかしくもあり毒々しくもあった。


「潤ちゃん、可愛い子が来てるわよ」

 〝潤ちゃん〟の部分だけがやけに強く聞こえたのは、気のせいだろうか。

 次いで潤平が姿を現した。

 「何だよ、美津江。客か?」

 これだけゴージャスな美女を相手にしても、傲岸で俺様な物言いは変わらないところは潤平らしい。

  やはり潤平もお揃いのバスローブ姿だ。慌てて着たのか、バスローブの前ははだけ、逞しい胸が覗いている。  お揃いのバスローブを身に纏った二人が直前まで何をしていたか。流石に男女のことには疎い実里にもすぐ理解できた。

 「あなたって、最低」

  乾いた音が静寂に響き渡った。殴られた潤平は何が起こったのか判らないようなポカンした表情である。

 それもそうだろう。つきあい始めて八年間、実里が初めて見せた、ささやかな〝反抗〟だったのだから。  いつも従順で、表立って潤平の主張に逆らったことなど一度もなかったのだ。

 少し力を込めすぎたかもしれない。潤平の頬を打った手が痺れる。実里は踵を返すと、そのままエレベーターに向かった。

 背後で潤平が何か叫んでいるようだったが、無視する。やって来たエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。  実里を乗せた箱は途中で二度、止まった。乗り込んでくる人がいたからだ。一度目は若い夫婦者らしく、小さな子を連れていた。一人は男の子で三歳くらい、一人は性別までは判らないけれど、ベビーカーに乗った生後半年くらいの赤ちゃんだった。

  これから出かける予定でもあるのだろうか。実里は睦まじげに語り合う夫婦が連れている赤ん坊を覗き込んだ。つぶらな瞳、小さな手と足。少し力を込めれば、折れてしまいそうな大切な壊れ物。

 不思議な気持ちだ。今、自分の胎内にはやはり赤ちゃんが宿っていて、今この瞬間もめざましい勢いで育っている。  あと一年もしない中に、その小さな小さな生命はこんな立派な人の形をした赤ちゃんになる。

 実里は思った。もし仮にこれが心から愛する男の子どもなら、たとえ未婚の母という十字架を背負うことになったとしても、実里は躊躇わず生むだろう。しかし、お腹の子の誕生を望む人は誰もいない。この子の母親である私自身さえも。


 その瞬間、赤ちゃんがにこっと実里に笑いかけた。何と愛らしい笑顔! どれだけ腹を立てている人でも思わず顔が緩んでしまうような顔ではないか。

  なのに、実里はふいに涙が滲んできて、慌て手のひらでぬぐわなければならなかった。

  初めての赤ちゃんを歓迎できず、しかも生む選択ができないなんて。

 二度目に乗ってきたのは六十代くらいの老夫婦だった。杖をついた老妻をやはり銀髪の品の良いご主人が労る姿には心温まるものがあった。

 どちらも今の自分とは対極にある幸せそのものの夫婦の姿である。実里の心は余計に沈んだ。  いよいよエレベーターが一階に着き、実里は最後に降りた。

 と、愕くべきことに、潤平が降りたその場所に待ち受けていた。恐らく、階段を使ったに違いない。途中で二度も止まらなければ実里の方が先に着いたかもしれないが、全速力で駆け下りた男の方がわずかに早かったのだろう。

 「実里!」

 潤平が実里の腕を掴む。  実里はその腕を思い切り振り払った。

  後からやってきた子連れの若い夫婦が何事かとこちらを興味津々で見ながら通り過ぎていった。

 「もう良いから」

 「何が良いんだよ」

 潤平も負けずに怒鳴る。

 実里は今度は溢れ出る涙をぬぐいもせずに、潤平を睨んだ。

 「あなたが私を絶対にマンションに呼ばない理由が漸く判ったわ」

 「一体、何を言ってるんだ?」  

 あくまでもシラを切るつもりなのだ。

 実里は潤平を真正面から見据えた。

 「私以外に付き合っていた女の人がいたのね」

 そこで潤平が初めて弱気な態度を見せた。

 「弁解をするつもりはないが、これだけは聞いてくれ。お前にこの前―四月に逢った時、俺はお前に言った。俺のものになってくれと。だが、お前は頑としてはねのけ、俺を拒絶したんだぞ? 実里、俺だって男だ。八年もの間、待ち続けて更にお預けを喰らわされて、平気でいられるとでも思うのか?」

 実里は乾いた声で言った。

 「じゃあ、たった今、私が見たあの光景は、すべて私のせいだというの? 私があの時、あなたとホテルに行かなかったから?」


 私は、あなたの何なの?  実里は大声で叫びたかった。

 「お預けだなんて言い方しないで。私は、あなたの欲しいときに身を投げ出す餌じゃないわ」

  あの女は誰?  訊ねようたとしたけれど、止めた。

 今になって判ったところで、意味はない。  潤平は訊ねられもしないのに、自分から応えた。

「あの女は取引先の人だ。お前と最後に逢ってから、こういう関係になった。もちろん、顔見知りではあったが、誓って長い付き合いじゃない」

 「つまり、あの人と男と女の関係になったのも、私の煮え切らない態度が原因。あなたはそう言いたいのね」

 実里は淡々と言った。

 今から思えば、四月末から五月頭にかけて多忙だと言って実里に逢おうとしなかったのも怪しいものだ。

 そのことから考えて、あの肉感的な美女と 深間になった時期というのは、潤平の言うとおり嘘ではないのかもしれない。 「もう良いわ。言い訳なんかしないで」  実里は首を振った。  今となっては、もう、どうでも良いことだ。  潤平があの女と何をどうしようが、既に実里には関係ない。  実里の中で言いようのない烈しい感情がせめぎ合っていた。自分は心ならずも悠理にレイプされたことに対してあれほど罪悪感を感じた。むろん、潤平に対しての罪の意識があったからだ。望まざることとはいえ、悠理の子を宿して、潤平を裏切ったという気持ちにさえなった。

 しかし、実里が罪に悶々と喘ぐその一方で、肝心の潤平は実里を平然と裏切っていたのだ。少なくとも実里が悠理に犯されたのは実里自身の意思ではない。が、潤平があの女と関係を持ったのは彼が自分から望んだことだ。  潤平の態度が劣勢に転じたというのは間違いだった。彼は開き直ったのだ。

  すべてを―自分が犯した過ちと裏切りをことごとく実里のせいにして卑怯にも言い逃れようとしている。  全く、こんな男に八年も自分は何を期待していたのだろう。結婚という甘い夢を見ていた? 

 長年付き合ってきた情もあったことは否定できない。

 愚かな、なんて馬鹿な私。  あまりにも馬鹿らしくて、涙さえ出てこない。

  実里は小さく息を吸い込んだ。  さよなら、何も知らなかった未熟な私。  甘く儚い幻想を後生大切に宝物のように抱いていた世間知らずの愚かな娘。  こんな男を好きだと思い込み続けた八年間。  

 今こそ判った。  

潤平への想いに足りないと感じていた何か、愛というパズルを完成させるための最後のピースを漸く手にしたのだ。  それは、真心だった。潤平には最初から真心がなかったのだ。相手に対する誠意と言い換えても良いだろう。  

 だから、あっさりと実里を裏切り、あまつさえ、その理由を実里のせいにしようとしている。


 しかし、実里だって、潤平だけを責められはしない。自分もまたこの男に対して真心を与えようとしたことがあっただろうか。

  結婚という保険を手にするための一つの手段、言うならば安全パイのような存在がもしかしたら潤平だったのかもしれない。

   それでも、実里は確かに潤平を愛していた。いや、愛しているとまではいえなくても、ある特定の感情を抱いてはいた。もしかしたら、結婚という二人の関係を変えるチャンスを経て、その感情が愛に変わることもあったかもしれない。  でも、潤平は自らその可能性を断ち切ってしまったのだ。もう、この男に未練も期待もない。

 「さよなら」

 実里は潤平に今度こそ背を向け、歩き出した。今度は潤平も追いかけてこようとはしなかった。

  梅雨の合間の晴れ間から一転して、外は雨が降り始めていた。あの不幸な事故があって以来、雨は嫌いになった。

  だが、今夜だけは雨が降ってくれて、ありがたいと思わずにはいられない。  

 途切れることのない涙を優しい雨が隠してくれる。

 実里は頬を流れ落ちるのが涙なのか、雨なのか自分でも判らなかった。

  マンションの前には小さな花壇があった。もうすっかり海色に染め上がった紫陽花が雨に打たれて、しっとり濡れている。エメラルドグリーンの葉の上にジルコニアのように煌めく滴が無数にのっている。  

実里は人差し指でそっと水滴の一つに触れた。何故か、その滴を見ていると、あの赤ちゃんの笑顔が瞼に浮かんだ。束の間、かいま見たにすぎないのに、不思議とくっきりと眼裏に灼きついている。  

 小さな顔に黒い大きな瞳が冴え冴えと輝いていた。そう、丁度、緑眩しい葉の上の滴のように。

 実里は腹部に手のひらを当てた。まだここに新たな生命が息づいているとは思えないほど、平坦でふくらみは感じられない。

  けれど、今も目覚ましい勢いで育っている新しい生命がここにある。その瞬間、実里の中に強く訴えかけてきた感情―、それは母性、であった。  道端の花がこうして生きているように、お腹の子も大きくなろうと一生懸命頑張っている。やがて、生まれた出た子は自分の人生を生き、自分なりの花を咲かせるだろう。  どんな花を咲かせるのか、誰も知らない。

  何故なら、この子の人生はたった今、実里の胎内で始まったばかりなのだから。  生もうと思った。たとえ誰が望まなくても良い、この自分がこの子を一生かけて愛し、守ってゆけば良いのだと強く強く思った。  そしていつか、この子がどんな花を咲かせるのか、実里も側で見守りながら見極めたい。

 ここでひっそりと息づいている生命をむざと摘み取ることなど、誰もできはしないのだ。この子の生命はこの子のものであり、この子の人生もまたこの子だけのものなのだ。たとえ母親といえども、新しい生命を身勝手に葬り去ることを天は許しはしないだろう。  この時、実里の中で初めて母の自覚が生まれた。

 道端の紫陽花が夜陰の中でほのかに浮かび上がっている。実里は雨に濡れるのも厭わずに、いつまでも真っ青な花を見つめていた。

 

 



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