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「吐き気が続いているのは、いつからですか?」

 「六月に入ってからです」

 「つかぬことをお訊きしますが、生理はいつ?」

 実里は眼を見開いた。この医師までがひかると同じことを訊く。

 医者だから訊ねるのだろうと、さして疑問にも思わず応えた。

 「三月の終わりですが」

 医師は少し考え込むような顔でカルテを眺めていたかと思うと、看護士を呼んで実里に尿検査を受けさせるように言った。

 一旦、診察室を出てトイレに行き、また診察室に戻る。しばらくして医師の許に看護士が戻ってきた。検査の結果が出たようだ。  医師はまたカルテに何か書き込んだ。

 「あの、先生。私、何かの病気なんでしょうか?」  

考え込む医師の表情からして、あまり良い兆候とはいえない気もする。

 「いえ、特に病気というわけではありませんが、どうも、入倉さん、妊娠されているようですね」

 刹那、実里の両眼が射るように見開かれた。

 「先生、今、何と?」

  医師は改めて実里に向き直り、はっきりと言った。

 「おめでとうございます。妊娠されていますよ」

 突然、奈落の底に突き落とされたようで、眼の前が真っ白になった。無意識に立ち上がり、目眩を憶えた。ふらつく身体を駆け寄った看護士が慌てて支えてくれなければ、無様に転んでいたに相違ない。

 「あ、あの。私」

 身に憶えなんてありません。  実里が口を開く前に、医師は淡々と告げた。

 「妊娠されたのは四月半ばでしょう。今、三ヶ月です。出産予定は来年の一月ですね」

 「―」  

烈しい衝撃が実里を貫いた。

  妊娠したのは四月の半ば―。

 医師の宣告がリフレインする。溝口悠理にレイプされたのは丁度、その時期だった。忘れもしない四月十六日の夜だ。

 「大丈夫ですか?」

 四十歳くらいの女性看護士が優しく顔を覗き込み、実里は辛うじて頷いた。  その後、実里は改めて婦人科の診療室で内診を受けた。そこで手のひらサイズの小さなモノクロ写真を渡された。

 「これが今の赤ちゃんの様子です。もう、ちゃんと心臓も動いていますし、元気に育っています。このままいけば、来年早々には元気な赤ちゃんが生まれますよ」

 手渡された写真を見ると、確かに子宮の片隅に、はっきりと小さな丸っこいものが見えた。これが赤ちゃんの入っている胎嚢という袋だと説明された。

 また、身体の不調の原因はすべて妊娠によるものだろうと言われた。悪阻が少し烈しいようだが、これも入院治療が必要なほどではないから、処方された薬を服用すれば問題ないだろうとも。


「ここは婦人科なので、基本的にお産は取り扱いません。選択肢としては二つあります。一つは安定期に入る五ヶ月くらいまでは、うちで診させて貰って、それ以降はお産のできる病院に移る方法。もちろん、紹介状を書きますから、それと今までの妊娠経過を記したカルテを持っていって頂きます。二つ目は、ご自分の希望するクリニックがあれば、次回からはそちらで診て貰うという方法ですね。最初から同じ医師、病院で妊娠経過を診て貰う方が望ましいかもしれませんので、どちらを選択するかは患者さんのご希望にお任せします」

  実里が何も言わないのを勘違いしたのか、看護士が側から言い添えた。

 「ここも十年前まではお産を取り扱っていたんですけど、年々、赤ちゃんの数も減ってくるでしょう。設備を導入しても、肝心の妊婦さんが減る一方なので、仕方なく止めたんですよ」

 しかし、実里は最後まで聞いてはいなかった。溢れてくる涙を零さないようにするのが精一杯だったのだ。  待合室に戻ると、堪えていた涙が一挙に溢れ出してきた。

 何故、どうしてという想いが脳裏を駆け巡る。

 これが天罰なのだろうか。

 溝口早妃が亡くなったことへの天が実里に下した罰―。

 「入倉さん、入倉実里さん」

 さして待つこともなく呼ばれ、一週間分の薬を渡された。

 「妊娠は病気ではありませんから、あまり深刻に受け止める必要はありませんよ。このお薬を飲んで、無理に食べようとはせずに、食べたいときに食べたい物を食べてね。あと一ヶ月もすればも悪阻も治まりますからね」

 先刻の看護士が優しく言い、受け付けで薬を渡してくれた。その時、入り口で囁き交わす声が飛び込んできた。 「あれって、受付の入倉さんじゃない?」

 「妊娠って言わなかった?」

 「私、聞いたわよ、悪阻がどうとか」

  実里は恐る恐る振り返った。視線の先に、見憶えのある顔が二つ、好奇心を剥き出しにしてこちらを凝視している。  二人ともに庶務課の若い女の子たちだ。確か、実里よりは四年ほど遅れての入社ではなかったか。

 「こんにちはー」

 「入倉先輩、どうされたんですかぁ?」

  若い子の語尾を引き延ばす特有の話し方がこれほど疳に障ったことはなかった。

 つい今し方、妊娠だとか悪阻だとか言っていたのに、しれっと訊ねてくるところも嫌らしい。

 「ちょっとお腹の調子が悪くて。あなたたちは?」 

  彼女たちはささっと意味ありげな目配せを交わし、丸顔の可愛らしい子の方が言った。

 「私たち、花粉症なんですぅ。もう涙とか鼻水だとか、嫌になるくらい止まらなくて」

 もう一人の子の方はマスクをしていたから、それはあながち嘘ではないのかもしれない

「それは大変ね。お大事に」  実里が先輩らしく余裕を見せて笑顔で言うと、丸顔の子がにっこりと笑った。


「先輩もお身体を大切にしてくだぁさーいね。元気な赤ちゃんが生まれると良いですね」  

 刹那、実里は身体中の血液が逆流するのではないかと思った。真っ青になりながらも気丈に微笑み、〝それじゃあ、お先に〟と彼女たちの前を通りガラスの引き戸を開けて外に出た。

 背後で、〝いやだー〟と嬌声が上がり、クスクスと忍び笑いが聞こえた。

 耳障りな声を遮断するかのようにピシャリと扉を止めると、一歩外に出た実里の眼を眩しい初夏の陽光が貫いた。  神様はあまりに残酷だと思った。

  確かに自分は溝口早妃を車で撥ねた。彼女がそれによって亡くなったのも紛れもない事実である。しかし、ここまでの代償を払うくらいなら、いっそのこと死んで償えと言われた方がはるかに楽なように思えた。

  誰かに逢いたかった。このまま一人でいれば、果てのない絶望と哀しみに気が狂ってしまいそうだ。  

実里は夢中で携帯電話をバッグから取り出し、潤平の携帯番号を押した。

 しかし、潤平は何度コールしても出なかった。まだ仕事が忙しいのかもしれない。それに、今はまだ会社にいる時刻である。彼が仕事中に電話をかけられるのを厭うのは知っている。そんなことも忘れるほど、今の自分は精神状態が不安定なのだろう。

 それにしても、自分はつくづく身勝手な女だと思う。これまで潤平から熱心なプロポーズを受けながら返事を渋っていたのに、妊娠が判った途端にこの体たらくだ。

 むろん、実里に何の下心もあるはずはなかった。狡猾な女ならば、まだ妊娠初期だから、すぐに潤平と関係を持てば彼の子だと上手く月数をごまかせると考えるかもしれない。

  だが、実里はそういう類の女ではなかった。ただ、心が折れそうな絶望のただ中にいる時、いちばん側にいて欲しいと思ったのが潤平だったのである。

 それでも、彼女にしてみれば、自分が身勝手だと思うのは実里の謙虚な人柄によるものだ。この八年間、感情を露わにしたことなどおよそなく、いつもクールさを失わなかった潤平。そんな彼が実里の本音を聞いてもなお、感情を余すところなくさらけ出し、実里にプロポーズしてきた。

 彼を嫌いであれば、八年も付き合うはずもないし、ただ結婚に踏ん切るには、彼への気持ちの中にあと一つだけ足りないものがあるような気していた。

 それが何なのかは実里にも判らない。ただパズルの最後のピースが見つからないような、小さいけれど大切な何かが潤平への想いには含まれておらず、実里はプロポーズに対しての明確な返答を避けていともいえる。  自分の心の奥底を覗いてみれば、けして新規プロジェクトの件だけが理由ではなかったのだと、今ならはっきりと判る。

 もしかしたら、今なら、まだ間に合うかもしれない。もっとも、潔癖で完璧性を求める潤平の性格からすれば、他の男の子を身ごもった女をこれまで同様、求めてくるとは考えがたかったが。

 だが、どうしようもない状況に置かれた時、 真っ先に思い浮かんだのは彼であり、側にいて欲しいと願うのも彼だ。ならば、後はもう当たって砕けろでいくしかない。

 実里はお腹の子どものことも潤平にきちんと話すつもりだ。生むかどうかは―今のところ、判らない。潤平が堕ろしてくれと望むなら、もちろん、従うつもりでいた。


 妊娠を打ち明けるならば、レイプのことも話さないわけにはゆかないだろう。第一、実里にしても、あの卑劣漢―溝口悠理の子どもなど生みたくはない。愛も労りもなく、ただ憎しみに駆られ、欲情の赴くままに陵辱された末に身籠もった子なんて、こちらから願い下げたいくらいだ。

 実里はF駅まで引き返し、電車に乗った。私鉄沿線でふた駅先で降りる。潤平が両親の住むF町の自宅を出て一人住まいを始めたのは、大学を卒業後、就職してからのことだ。勤務先の広告代理店がこのN町にあるので、N駅前の瀟洒なマンションに暮らしている。

  交際期間は八年に及ぼうとしているが、実のところ、実里がこのマンションを訪ねるのは数えるほどの回数でしかなかった。潤平は 会社に実里が電話してくるのも嫌うし、必要以上に私生活に踏み込まれるのも歓迎しなかったからだ。  その癖、自分は休日には度々、実里の家を訪ねている。だから、父も母も潤平のことはよく知っているし、娘にとって彼が〝特別な存在〟であると信じている。今更、結婚しないだなどと言えば、二人とも腰を抜かさんばかりに愕き、ショックで寝込むかもしれない。 私生活に実里を踏み込ませたくない癖に、自分は実里の家に平然と恋人として出入りする。そんなところにも、潤平という男の身勝手さがよく現れていた。

  むろん、実里もそれに気づいていないわけではない。が、これまでは敢えて、気づかないふりをしてきたのだ。  潤平のマンションに着いたときには、既に午後七時近かった。この時間ならば、彼も既に帰宅しているはずだ。

  いきなり現れるよりは先に連絡しておいた方が良いと判断し、携帯を出して電話してみた。だが、やはり、潤平は出ない。  実里は唇を噛みしめた。まだ帰っていないのだろうか。しかし、ここで引き返せば、折角の決意が鈍ってしまう。今夜、ここで実里の本心とありのままの事実を打ち明け、それでも彼が実里を妻として必要とするならば、実里は彼のプロポーズを受けるつもりでいた。

 これまでの彼の性格を考えれば、あまり可能性はなさそうではあるけれど、少なくとも、実里自身が次へ踏み出すきっかけにはなるに違いない。

 部屋の前まで待つというのも、これまた避けたい選択肢ではあったが、致し方ない。これから来るであろう瞬間にすべてを賭けて、実里はここまで来たのだから。


 エントランスを通り、エレベーターに乗り込む。十二階のボタンを押すと、そこが点滅しながらエレベーターは軽やかに上昇してゆく。  

 エントランスまで来たことは数回あるけれど、エレベーターに乗るのも潤平の部屋を訪ねるのも初めてだ。それにしても外見同様、内装も見事な、都会の一流ホテル張りの豪華さを誇っている。

  実里が暮らす古い二階建て住宅とは雲泥の差だ。あの界隈は今ではどこの家も建て替えて、瀟洒な住宅街に変わってしまったが、実里が物心つくかつかない頃は、まだ、どこも似たような簡素な家ばかりだった。

 しがない公務員だし、建て替えるだけのお金もなかったのだろうが、頑固で昔気質の父は自分の親の代から受け継いだ家を頑なに守り続けている。

 これだけの贅を尽くしたマンションに暮らしていれば、実里の家は潤平の眼にはさぞ貧相に映じたことだろう。たまに訪れる彼は、どこまでも穏やかな物腰の好青年にしか見えず、両親は大いに彼を気に入っていた。しかし、にこやかな笑顔の下で、潤平は何を考えていたのか―。

 十二階に着いた。実里はエレベーターから滑り降りると、突き当たりに向かって進んだ。紅い絨毯を敷き詰めた廊下はゆったりとしており、やはり有名ホテルの優雅な雰囲気を漂わせている

 インターフォンを軽く押すと、ほどなく内側から応答があった。

 「どちらさま?」

 その聞き慣れぬ声に、実里は慄然とした。  

 あろうことか、その声の主は女性であった。  向こうで、やりとりする気配が伝わってくる。声は低くて聞き取れない。男と女の声。やはり、潤平はマンションにいたのだ。

 やがてカチャリと内側からロックが外され、重厚なドアが開いた。

 「あら、どなた?」

 出てきたのは、実里の見たことのない女だった。背の高い、すらりとした容姿は艶然と咲き誇る深紅の薔薇を思わせる。愕いたことに、女はオフホワイトのバスローブを身に纏っていた。漆黒の丈なす豊かな黒髪はまるでそれ自体が意思を持っているかのようにうねり、濡れている。

化粧はしていなかったが、白皙の面にそこだけ一点、緋色のルージュが艶めかしくもあり毒々しくもあった。



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