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 ひかるに言われるとおりだった。これまでは手作りの弁当を持参するのが日課で、たまにプチ贅沢して、ひかると一緒に近くのファミレスにランチをしに行く程度。

 なので、今年、入社したての若い子たちが先刻のようにフレンチレストランにランチに行くと聞けば、やはり数歳離れているだけでも、考え方は明らかに異なっていると思わずにはいられない。  実里がここのところ、頭を悩ませている潤平との件を咄嗟に思い出したのも、彼女たちのフレンチレストランに行くという他愛ない会話からだった。あの店は潤平が好み、しばしばデートで利用するからである。

 六月に入った頃から、胃の不調は続いていたので、折角作っても食べられないことが多かった。そのため、弁当は止めて、通勤前にコンビニでサンドイッチやお握りを買ってくることが多くなりつつある。

 「そうなの、やっぱストレスから来てるのかな」

 実里は言いながら、音を立ててお握りのラッピングを剝がした。今日の具は鮭。適度の塩味がしつこい吐き気を撃退するには丁度良い。  食べただけで吐いてしまうので、用心して、ひと口囓る。その瞬間、いつになく烈しい嘔吐感が奥底からせり上がってきて、実里は口を押さえた。

 「うっ」

  どうにも我慢がきかず、愕くひかるを尻目に給湯室を飛び出て、向かいの女子トイレに駆け込む。  洗面台の蛇口を流しっ放しにして、少しだけ手のひらに戻してしまったものを洗い流した。

 「実里、大丈夫?」

  ひかるが気遣わしげに背後から問いかけてくる。

 実里はハンカチを出して口の周りや手を拭きながら頷いた。

 「ごめんね、急に」

 「私なら良いのよ。でも、本当に大丈夫? 私の見たところ、ただ事ではないような気がするわ。一度、病院に行った方が良いんじゃない?」

 「そうね。私も一度、内科に行ってみようかと思うんだけど」

 と、ひかるが突然、思いもかけないことを言った。


「こんな質問、実里は嫌がるかもしれないんだけど、実里、前の生理はいつだった?」

 「えっ、や、やだ。ひかるってば、何でそんな話になるの?」

  実里は頬を染めた。どちらかといえば性的なことには奥手の彼女は、そのテの話も苦手なのだ。

 「女同士なんだから、別に良いでしょ。ねえ、いつだったの?」  

 ひかるらしくもないと思ったけれど、深くは考えずに応えた。

 「えっと、確か三月の終わりだったと思う」

 ひかるが愕いたように言った。

 「そんなに前? じゃあ、それからずっと来てないのね」

 「うん。ここのところ、新規プロジェクトのこととか、色々あったからね。胃の調子が悪いのもそっちも環境の変化が原因だと思うの」

 ひかるはまたも思案顔で言った。

 「これも訊きにくいことだけど、彼氏とはその―」

 流石にひかるも少し躊躇った後、口にした。

 「彼氏と寝たりしてる?」

 実里の頬がますます赤らんだ。

 「そんなことしないわ」

 「えっ、実里。まさか彼氏とはまだ―なんて言わないわよね」

 「今日のひかるってば変。何で、そんな話ばかりするの?」

  いつもなら実里が嫌がれば、そんな話を続けようとはしないのに、何故、今日は執拗に訊きたがるのか。

 疑問に思いながらも、実里はありのままを応えた。

 「潤平さんとは、まだ一度もないわ。あなたが多分、訊きたいようなことは」

 「信じられない。八年も付き合っていながら、一度もないの? 本当に本当?」

 「嘘じゃないわ」

 「愕いた。私はてっきり―」

 ひかるは心底、愕いたようである。

 「じゃあ、ひかるは金橋君とはもう?」

 そこは気心の知れた女友達同士、明確にせずとも通じ合うものがある。

 当たり前だというように彼女は頷いた。

 「付き合って、そろそろ一年だもの。別に不思議はないでしょう」

 毅然として言うひかるの横顔を見る実里の心境は複雑だ。ひかるが急に見知らぬ女になったようでもあるし、ある意味では、そんな風に自然に彼氏と次の段階へと進めるひかるの柔軟さや勇気が羨ましくもある。


 だからといって、ひかるが特に蓮っ葉だとか淫乱というわけでは断じてない。むしろ、彼女は実里ほどではないにしろ、現代女性にしては慎ましいタイプの方だ。  

 恐らく実里のように、結婚前には関係を持てない、持ちたくないと考える方が時代錯誤すぎるのだろう。今日日、できちゃった結婚は珍しくもない、日常茶飯事だ。

  しかし、ひと昔前までは、結婚前の娘が妊娠するなどということは、あってはならないことだった。未婚の娘が身ごもるという不祥事が起きれば、その家の者は皆、世間に顔向けができないと小さくなったものである。 それが、いつのまにか〝結婚前に子どもまでできるとは、更におめでたい喜ばしいこと〟になってしまった。今の時代は、どこの有名ホテルに行っても、妊婦用のウェディングドレスが当たり前のように備えてある。つまりは、それだけ結婚前のセックスが―普及したという言い方には語弊があるかもしれないが―、世間で抵抗なく受け容れられるようになったという証でもある。  あまりにも考え方、風潮そのものが真逆になったとしか言いようがない。

 しかし、実里の両親、特に父は典型的な昭和の男だから、婚前交渉(大体、この言葉こそが今は使われない)や結婚前の妊娠だなどと聞いただけで、額に青筋が浮かびそうだ。  実里がいまだに奥手なのは、そういう両親の影響も少なくはないだろう。 

  彼女がまたも考え込んでいると、ひかるの独り言が聞こえてきた。

 「彼氏とは一度も寝ていないのに、生理が来ないのも妙だわ。実里は彼氏がいるのに、他の男と寝るようなタイプじゃないし」  

その意味をさして深く考えもせず、実里は微笑んだ。

 「今日の帰りに病院に寄ってみるわ」

 「私も付き添おうか?」  

親切な申し出には感謝するべきだろうけれど、実里は笑った。

 「別に子どもじゃあるまいし、一人で行けるわよ」

 そこで、昼の休憩時間終了のチャイムが鳴り、話は終わりになった。

 

 その日は六月最後の週だった。ちょうど水曜日だったので、午後から開いている病院を探すのはひと苦労したけれど、何とか開いている病院を探し当てることができた。

 その小さな病院は会社からの帰り道にあり、住宅街の一角にそっひりと建っていた。例のフレンチレストランからも近い。  

 しかし、ということは、その病院から自宅に帰るにはまたもあの事故現場を通らなければならないということでもある。  内科の看板を掲げてはいるが、片隅には〝皮膚科・婦人科〟と申し訳程度のように小さく記されていた。

 別に関係ない科なのだと思い、受け付けでは内科受診希望であることを伝え、診療室の前の長椅子に座る。置いてある女性週刊誌を捲っていると、すぐに名前が呼ばれた。

  四十過ぎの医師は背が高く、屈強な体つきをしていたが、眼がね越しの細い眼は穏やかで、この先生ならば安心して任せられそうという不思議な安心感がある。けして愛想が良いというのではない。が、物腰もやわらかく、不思議に感じの良い医師だという印象だ。

 問診と簡単な診察の後、医師は首をひねりながら言った。


「吐き気が続いているのは、いつからですか?」

 「六月に入ってからです」

 「つかぬことをお訊きしますが、生理はいつ?」

 実里は眼を見開いた。この医師までがひかると同じことを訊く。

 医者だから訊ねるのだろうと、さして疑問にも思わず応えた。

 「三月の終わりですが」

 医師は少し考え込むような顔でカルテを眺めていたかと思うと、看護士を呼んで実里に尿検査を受けさせるように言った。

 一旦、診察室を出てトイレに行き、また診察室に戻る。しばらくして医師の許に看護士が戻ってきた。検査の結果が出たようだ。  医師はまたカルテに何か書き込んだ。

 「あの、先生。私、何かの病気なんでしょうか?」  

考え込む医師の表情からして、あまり良い兆候とはいえない気もする。

 「いえ、特に病気というわけではありませんが、どうも、入倉さん、妊娠されているようですね」

 刹那、実里の両眼が射るように見開かれた。

 「先生、今、何と?」

  医師は改めて実里に向き直り、はっきりと言った。

 「おめでとうございます。妊娠されていますよ」

 突然、奈落の底に突き落とされたようで、眼の前が真っ白になった。無意識に立ち上がり、目眩を憶えた。ふらつく身体を駆け寄った看護士が慌てて支えてくれなければ、無様に転んでいたに相違ない。

 「あ、あの。私」

 身に憶えなんてありません。  実里が口を開く前に、医師は淡々と告げた。

 「妊娠されたのは四月半ばでしょう。今、三ヶ月です。出産予定は来年の一月ですね」

 「―」  

烈しい衝撃が実里を貫いた。

  妊娠したのは四月の半ば―。

 医師の宣告がリフレインする。溝口悠理にレイプされたのは丁度、その時期だった。忘れもしない四月十六日の夜だ。

 「大丈夫ですか?」

 四十歳くらいの女性看護士が優しく顔を覗き込み、実里は辛うじて頷いた。  その後、実里は改めて婦人科の診療室で内診を受けた。そこで手のひらサイズの小さなモノクロ写真を渡された。

 「これが今の赤ちゃんの様子です。もう、ちゃんと心臓も動いていますし、元気に育っています。このままいけば、来年早々には元気な赤ちゃんが生まれますよ」

 手渡された写真を見ると、確かに子宮の片隅に、はっきりと小さな丸っこいものが見えた。これが赤ちゃんの入っている胎嚢という袋だと説明された。

 また、身体の不調の原因はすべて妊娠によるものだろうと言われた。悪阻が少し烈しいようだが、これも入院治療が必要なほどではないから、処方された薬を服用すれば問題ないだろうとも。


「ここは婦人科なので、基本的にお産は取り扱いません。選択肢としては二つあります。一つは安定期に入る五ヶ月くらいまでは、うちで診させて貰って、それ以降はお産のできる病院に移る方法。もちろん、紹介状を書きますから、それと今までの妊娠経過を記したカルテを持っていって頂きます。二つ目は、ご自分の希望するクリニックがあれば、次回からはそちらで診て貰うという方法ですね。最初から同じ医師、病院で妊娠経過を診て貰う方が望ましいかもしれませんので、どちらを選択するかは患者さんのご希望にお任せします」

  実里が何も言わないのを勘違いしたのか、看護士が側から言い添えた。

 「ここも十年前まではお産を取り扱っていたんですけど、年々、赤ちゃんの数も減ってくるでしょう。設備を導入しても、肝心の妊婦さんが減る一方なので、仕方なく止めたんですよ」

 しかし、実里は最後まで聞いてはいなかった。溢れてくる涙を零さないようにするのが精一杯だったのだ。  待合室に戻ると、堪えていた涙が一挙に溢れ出してきた。

 何故、どうしてという想いが脳裏を駆け巡る。

 これが天罰なのだろうか。

 溝口早妃が亡くなったことへの天が実里に下した罰―。

 「入倉さん、入倉実里さん」

 さして待つこともなく呼ばれ、一週間分の薬を渡された。

 「妊娠は病気ではありませんから、あまり深刻に受け止める必要はありませんよ。このお薬を飲んで、無理に食べようとはせずに、食べたいときに食べたい物を食べてね。あと一ヶ月もすればも悪阻も治まりますからね」

 先刻の看護士が優しく言い、受け付けで薬を渡してくれた。その時、入り口で囁き交わす声が飛び込んできた。 「あれって、受付の入倉さんじゃない?」

 「妊娠って言わなかった?」

 「私、聞いたわよ、悪阻がどうとか」

  実里は恐る恐る振り返った。視線の先に、見憶えのある顔が二つ、好奇心を剥き出しにしてこちらを凝視している。  二人ともに庶務課の若い女の子たちだ。確か、実里よりは四年ほど遅れての入社ではなかったか。

 「こんにちはー」

 「入倉先輩、どうされたんですかぁ?」

  若い子の語尾を引き延ばす特有の話し方がこれほど疳に障ったことはなかった。

 つい今し方、妊娠だとか悪阻だとか言っていたのに、しれっと訊ねてくるところも嫌らしい。

 「ちょっとお腹の調子が悪くて。あなたたちは?」 

  彼女たちはささっと意味ありげな目配せを交わし、丸顔の可愛らしい子の方が言った。

 「私たち、花粉症なんですぅ。もう涙とか鼻水だとか、嫌になるくらい止まらなくて」

 もう一人の子の方はマスクをしていたから、それはあながち嘘ではないのかもしれない

「それは大変ね。お大事に」  実里が先輩らしく余裕を見せて笑顔で言うと、丸顔の子がにっこりと笑った。



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