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 こんな有様で潤平と結婚して上手くいくのかどうかは判らない。有り体にいってしまえば、彼に抵抗なく身を任せられるかどうか自信はない。

 しかし、いつまでも今の状態を続けるのも良くはないことも判る。一度は心療専門のクリニックを受診しようかと考えたこともあった。専門クリニックには、そういったレイプを受けた女性たちを対象にカウンセリングを行ってくれるところがあると以前、女性雑誌で読んだことがある。

  しかし、いざパソコンを立ち上げてネットで探しても、現実に受診するとなると尻込みしてしまうのだった。たとえ相手が医師とはいえ、あの夜に体験した怖ろしく屈辱的な記憶を思い出し、誰かに語るというのは酷く抵抗があった。もう、二度と思い出したくもない。

  五月の連休明けに一度、潤平から連絡があった。

 ―そろそろ例の返事を聞かせて貰いたいんだけど、一度、逢えないか?    潤平

  携帯に並んだ短いメールを見ながら、実里は想いに沈んだ。

  こんな状態であれこれ思い悩んでいても意味がない。たとえ悠理とのことがなかったとしても、結婚を決める時、女性は色々とあらぬ心配をしてしまうというではないか。これをいわゆるマリッジブルーと考えて、思い切って潤平の胸に飛び込むのがいちばん賢い選択なのだろう。

 結婚なんて、誰でもしていることだ。互いに生まれも育ちも違う者同士が家族になり、長い年月を一緒にやっていくのだから、問題が起きないはずはない。その起こるかどうかも判らない問題を気にすることに、何の意味があるというのか。  しかし、一方で実里はちゃんと自覚していた。実里の抱える問題は単なる花嫁の憂鬱とは違う、と。潤平は今風の外見とは打って変わり、古い考え方を持っている。だからこそ、八年も交際しながら、実里の頼みを受け容れ二人の関係を敢えてセックスに持ち込もうとはしなかった。

  結婚までの女性の純潔性を重要視しているという点では、今時、かなり珍しいかもしれない。相手が潤平自身ならともかく、他の男に抱かれた女を彼が受け容れるかどうかは判らない。しかも、あの夜、潤平にホテルに行こうと誘われながら、実里は断った。その同じ日の夜に実里はレイプされたのだ―。


 あの時、潤平の誘いに応じていたら、と考えないでもなかった。しかし、やはり、何度、同じ時間に戻ったとしても、自分は彼の求めには応じていなかっただろうと思う。相手にはっきりと身を委ねる覚悟もないのに、生半な気持ちで関係を持ってしまうというのは、実里のポリシーに反する。

  その点、出逢ったその日に深間になっても不思議はないとされる現代の風潮の中では実里も潤平も稀有な変わり種、似た者同士なのだろう。

  後に、その実里の潤平への認識は一八〇度どころか、三六〇度変わることになるのだけれど。

 めぐる想いに応えはない。

  結局、実里が潤平に返信したメールは、ごく素っ気ないものだった。

 ―ごめんなさい。今は私の方が仕事が忙しくて、どうにもならないの。落ち着いた頃にまた連絡します。     実里

  その落ち着いた頃というのが、いつなのかは実里自身にも実は応えようがないのだ。

 「実里、ねえ、聞いてる?」

 またしても、ひかるの声が耳を打ち、実里は顔を上げた。

 「あっ、う、うん」

 ひかるは首を傾げた。

 「だから、どうしようかなと思ってるの。私もそろそろ潮時だしね、金橋君がプロポーズしてくれるのなら、それを受けても良いかなと思ったりもして」

 何の話だっただろうか? 今のひかるの発言からして、金橋君がついにひかるにプロポーズした?  実里は話を合わせるかのように明るい笑顔を作った。

 「良かったじゃない。ひかるも満更でもないんでしょ。金橋君のこと」

 しかし、流石に長年の付き合いだけあって、ひかるは実里が話を殆ど聞いていなかったこなどお見通しのようである。  ひかるにじいっと見つめられ、実里はつい視線を逸らしてしまった。

 「何だか最近の実里はおかしいよ?」

 「え、そ、そうかな?」

 実里は狼狽えながらも無理に微笑んだ。

 「お昼、食べないの? ぐずぐずしてたら、昼休みなんて、あっという間に終わっちゃうよ」

 「うん、そうだね」

 実里は抱えてきたビニール袋からコンビニのお握り一個とペットボトルのウーロン茶を取り出した。

 「ええっ、お昼って、それだけ?」  

 いささか大仰にも取れる反応を見せ、ひかるが眼を剥いた。

 「あまり気分が良くないの。少し胃の調子が悪くて。むかむかして最近は何も食べられないことの方が多いし、これだけでも全部食べられないかも」

 それは嘘ではない。六月に入ってから、実里は身体の不調が続いていた。始終、頑固な吐き気が続き、食べる物が食べられない。そのせいで、ひと月の間に、実里はひと回り以上痩せた。元々小柄で細いから、最近は痛々しい印象すら与えることに、当人はまだ気づいていない。

  ひかるがふいに黙り込んだ。何やら考え込んでいるようだ。

 「そういえば、実里って、ここのところ、お昼は殆ど食べてないわよねぇ」


 ひかるに言われるとおりだった。これまでは手作りの弁当を持参するのが日課で、たまにプチ贅沢して、ひかると一緒に近くのファミレスにランチをしに行く程度。

 なので、今年、入社したての若い子たちが先刻のようにフレンチレストランにランチに行くと聞けば、やはり数歳離れているだけでも、考え方は明らかに異なっていると思わずにはいられない。  実里がここのところ、頭を悩ませている潤平との件を咄嗟に思い出したのも、彼女たちのフレンチレストランに行くという他愛ない会話からだった。あの店は潤平が好み、しばしばデートで利用するからである。

 六月に入った頃から、胃の不調は続いていたので、折角作っても食べられないことが多かった。そのため、弁当は止めて、通勤前にコンビニでサンドイッチやお握りを買ってくることが多くなりつつある。

 「そうなの、やっぱストレスから来てるのかな」

 実里は言いながら、音を立ててお握りのラッピングを剝がした。今日の具は鮭。適度の塩味がしつこい吐き気を撃退するには丁度良い。  食べただけで吐いてしまうので、用心して、ひと口囓る。その瞬間、いつになく烈しい嘔吐感が奥底からせり上がってきて、実里は口を押さえた。

 「うっ」

  どうにも我慢がきかず、愕くひかるを尻目に給湯室を飛び出て、向かいの女子トイレに駆け込む。  洗面台の蛇口を流しっ放しにして、少しだけ手のひらに戻してしまったものを洗い流した。

 「実里、大丈夫?」

  ひかるが気遣わしげに背後から問いかけてくる。

 実里はハンカチを出して口の周りや手を拭きながら頷いた。

 「ごめんね、急に」

 「私なら良いのよ。でも、本当に大丈夫? 私の見たところ、ただ事ではないような気がするわ。一度、病院に行った方が良いんじゃない?」

 「そうね。私も一度、内科に行ってみようかと思うんだけど」

 と、ひかるが突然、思いもかけないことを言った。


「こんな質問、実里は嫌がるかもしれないんだけど、実里、前の生理はいつだった?」

 「えっ、や、やだ。ひかるってば、何でそんな話になるの?」

  実里は頬を染めた。どちらかといえば性的なことには奥手の彼女は、そのテの話も苦手なのだ。

 「女同士なんだから、別に良いでしょ。ねえ、いつだったの?」  

 ひかるらしくもないと思ったけれど、深くは考えずに応えた。

 「えっと、確か三月の終わりだったと思う」

 ひかるが愕いたように言った。

 「そんなに前? じゃあ、それからずっと来てないのね」

 「うん。ここのところ、新規プロジェクトのこととか、色々あったからね。胃の調子が悪いのもそっちも環境の変化が原因だと思うの」

 ひかるはまたも思案顔で言った。

 「これも訊きにくいことだけど、彼氏とはその―」

 流石にひかるも少し躊躇った後、口にした。

 「彼氏と寝たりしてる?」

 実里の頬がますます赤らんだ。

 「そんなことしないわ」

 「えっ、実里。まさか彼氏とはまだ―なんて言わないわよね」

 「今日のひかるってば変。何で、そんな話ばかりするの?」

  いつもなら実里が嫌がれば、そんな話を続けようとはしないのに、何故、今日は執拗に訊きたがるのか。

 疑問に思いながらも、実里はありのままを応えた。

 「潤平さんとは、まだ一度もないわ。あなたが多分、訊きたいようなことは」

 「信じられない。八年も付き合っていながら、一度もないの? 本当に本当?」

 「嘘じゃないわ」

 「愕いた。私はてっきり―」

 ひかるは心底、愕いたようである。

 「じゃあ、ひかるは金橋君とはもう?」

 そこは気心の知れた女友達同士、明確にせずとも通じ合うものがある。

 当たり前だというように彼女は頷いた。

 「付き合って、そろそろ一年だもの。別に不思議はないでしょう」

 毅然として言うひかるの横顔を見る実里の心境は複雑だ。ひかるが急に見知らぬ女になったようでもあるし、ある意味では、そんな風に自然に彼氏と次の段階へと進めるひかるの柔軟さや勇気が羨ましくもある。


 だからといって、ひかるが特に蓮っ葉だとか淫乱というわけでは断じてない。むしろ、彼女は実里ほどではないにしろ、現代女性にしては慎ましいタイプの方だ。  

 恐らく実里のように、結婚前には関係を持てない、持ちたくないと考える方が時代錯誤すぎるのだろう。今日日、できちゃった結婚は珍しくもない、日常茶飯事だ。

  しかし、ひと昔前までは、結婚前の娘が妊娠するなどということは、あってはならないことだった。未婚の娘が身ごもるという不祥事が起きれば、その家の者は皆、世間に顔向けができないと小さくなったものである。 それが、いつのまにか〝結婚前に子どもまでできるとは、更におめでたい喜ばしいこと〟になってしまった。今の時代は、どこの有名ホテルに行っても、妊婦用のウェディングドレスが当たり前のように備えてある。つまりは、それだけ結婚前のセックスが―普及したという言い方には語弊があるかもしれないが―、世間で抵抗なく受け容れられるようになったという証でもある。  あまりにも考え方、風潮そのものが真逆になったとしか言いようがない。

 しかし、実里の両親、特に父は典型的な昭和の男だから、婚前交渉(大体、この言葉こそが今は使われない)や結婚前の妊娠だなどと聞いただけで、額に青筋が浮かびそうだ。  実里がいまだに奥手なのは、そういう両親の影響も少なくはないだろう。 

  彼女がまたも考え込んでいると、ひかるの独り言が聞こえてきた。

 「彼氏とは一度も寝ていないのに、生理が来ないのも妙だわ。実里は彼氏がいるのに、他の男と寝るようなタイプじゃないし」  

その意味をさして深く考えもせず、実里は微笑んだ。

 「今日の帰りに病院に寄ってみるわ」

 「私も付き添おうか?」  

親切な申し出には感謝するべきだろうけれど、実里は笑った。

 「別に子どもじゃあるまいし、一人で行けるわよ」

 そこで、昼の休憩時間終了のチャイムが鳴り、話は終わりになった。

 

 その日は六月最後の週だった。ちょうど水曜日だったので、午後から開いている病院を探すのはひと苦労したけれど、何とか開いている病院を探し当てることができた。

 その小さな病院は会社からの帰り道にあり、住宅街の一角にそっひりと建っていた。例のフレンチレストランからも近い。  

 しかし、ということは、その病院から自宅に帰るにはまたもあの事故現場を通らなければならないということでもある。  内科の看板を掲げてはいるが、片隅には〝皮膚科・婦人科〟と申し訳程度のように小さく記されていた。

 別に関係ない科なのだと思い、受け付けでは内科受診希望であることを伝え、診療室の前の長椅子に座る。置いてある女性週刊誌を捲っていると、すぐに名前が呼ばれた。

  四十過ぎの医師は背が高く、屈強な体つきをしていたが、眼がね越しの細い眼は穏やかで、この先生ならば安心して任せられそうという不思議な安心感がある。けして愛想が良いというのではない。が、物腰もやわらかく、不思議に感じの良い医師だという印象だ。

 問診と簡単な診察の後、医師は首をひねりながら言った。



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