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 〝鹿田さん〟というのは、編集部にいる四十三歳のベテラン社員である。若い女の子たちからは〝鹿田のお局〟といわれ畏怖される対象だ。いまだに独身で、駅前の豪華なワンルームマンションで悠々自適の生活を送っているらしい。

 美人といえばいえなくもないが、度の強い銀縁めがねをかけ、長い髪をシニヨンにしていつも黒づくめの格好をしているので、余計に近寄りがたい印象を与える。

 「別に鹿田さんのことを言ったわけじゃないわ。人聞きの悪いことを言わないで」

 とにかく仕事に関しては厳しく、新入社員の中で鹿田さんの洗礼を受けなかった者はいないとまで言われるほどだ。去年の春には、入社したての男子社員が鹿田さんに手厳しく注意され、皆の前で大泣きしたというエピソードがある。

 「まあ、でも、確かにああなりたくはないわよね」

 ひかるの言葉にはしみじみとした本音が感じられた。

 「でもね。知ってる? 私、大変なことを聞いたのよ」

 ぼんやりと考え事に耽っていた実里の耳許で突如として大きな声が聞こえた。

 「実里、聞・い・て・る・の」

 実里は瞬間的にピクリと身を震わせた。

 「な、何よ。耳の側でいきなり大声出さないで」

 ひかるが頬を膨らませた。

 「だって、実里ったら何を話しかけても、まるで上の空なんだもの」

 「ごめん、ごめん。で、何の話だったけ?」

 「鹿田さんよ、鹿田さん」

 「ああ、そうね。そうだったわね」  

 ひかるが更に顔を近づけた。

 「鹿田さんが営業部長の愛人だって噂、聞いたことがある?」

  声を低めて問われ、実里は首を振る。

 「まさか。そんな話、聞いたこともないけど」

 ひかるは更に小声になった。

 「それが、どうやら、そのまさからしいのよ。私も金橋君から聞いたんだけどね」

 ひかるには一年近く付き合っている彼氏がいる。金橋大悟といって、営業部二十六歳、一つ下である。爽やかなアスリート系というのか、ルックスも性格もそこそこ良くて若手女子社員たちからはモテる方だ。


「金橋君は営業でしょ。だから、部長ともよく一緒に仕事するじゃない。必然的に鹿田さんとのことも気づいたんですって。いつだったか、退社時間間際に急に鹿田さんが営業部に現れて、二人してそそくさといなくなったそうよ」

 「でも、それだけで愛人関係にあると決めつけるわけにはいかないでしょう」

 実里が指摘すると、ひかるは笑った。

 「でも、その噂って、実はもう数年前から社内では知る人ぞ知るらしいわよ」

 「そう―」

 実里は気のない様子で相槌を打った。

 今の実里には鹿田さんが営業部長の愛人であろうがなかろうが、どうでも良い。

 それよりも気になることは幾らでもあった。まず恋人潤平のことだ。あの恐怖の夜―溝口悠理にレイプされた四月半ば過ぎ以降、潤平とはずっと逢っていない。

 四月から五月の初めてかけては、潤平の方が忙しかった。いよいよニューヨーク出向が本決まりになり、仕事の引き継ぎなど多忙を極めているらしい。

 実里は不安だった。潤平にはまだプロポーズの正式な返事をしていない。なのにニューヨーク行きが決定したというのは、何を意味するのだろう。当初、ニューヨークに行くためには既婚者でならなければならないという条件が付いていたと聞いた。

  もしかしたら、潤平は実里が彼の求婚に対してNoと言うはずがないと自信と確信を抱いているのかもしれない。  実里自身、確かに今は潤平のプロポーズを受けても良いかもしれないなどと考え始めていた。それは彼には申し訳ないけれど、潤平への気持ちが強まったというよりは、あの夜の出来事―悠理に陵辱の限りを尽くされた―がかなり影響しているだろう。

  溝口早妃が死亡したことで、実里は期待していた新規プロジェクトからも外された。実里の不名誉な噂が主要メンバーには不適切ということだったのだから、もしかしたら、ここら辺で会社を辞めた方が良いのかもしれない。会社側もそれを期待しているのではと思えなくもない。

 長年温めていた夢も失い、後はただ受付嬢の仕事をするだけ。別に、若さとそれなりの外見があれば、誰でもできる仕事だ。更に二十七歳という年齢を考慮すれば、若さと外見が武器になるのも後わずかにすぎない。

 やがては受付嬢からも外され、今度は資料室配属にでもなるのだろう。資料室というのは会社関連のあらゆる資料が保管されている部署ではあるが、現実に〝資料室行き〟を命じられれば、それは永遠に出世コースからは外れたということを意味する。ゆえに社内では資料室配属になった社員を〝島流し〟と呼んでいた。

 そんな屈辱を受ける前に、こちらから身を退くべきなのは判っていた。そのためには、潤平との結婚はとてもタイミングの良い理由になるではないか。

 また、あの忌まわしい夜の記憶から逃れたいという気持ちもあった。あの夜を境にして、実里は男性恐怖症に囚われてしまったらしい。会社でも男性社員が側に来ると、忽ち身体が震え始め、顔が引きつる。

  もし偶然にでも相手と身体の一部が接触しようものなら、飛びすさってしまう。そのために何度か怪訝な顔をされたことはあるが、今のところは意思の力を総動員しているため、誰かに気づかれているということはないだろう。


 こんな有様で潤平と結婚して上手くいくのかどうかは判らない。有り体にいってしまえば、彼に抵抗なく身を任せられるかどうか自信はない。

 しかし、いつまでも今の状態を続けるのも良くはないことも判る。一度は心療専門のクリニックを受診しようかと考えたこともあった。専門クリニックには、そういったレイプを受けた女性たちを対象にカウンセリングを行ってくれるところがあると以前、女性雑誌で読んだことがある。

  しかし、いざパソコンを立ち上げてネットで探しても、現実に受診するとなると尻込みしてしまうのだった。たとえ相手が医師とはいえ、あの夜に体験した怖ろしく屈辱的な記憶を思い出し、誰かに語るというのは酷く抵抗があった。もう、二度と思い出したくもない。

  五月の連休明けに一度、潤平から連絡があった。

 ―そろそろ例の返事を聞かせて貰いたいんだけど、一度、逢えないか?    潤平

  携帯に並んだ短いメールを見ながら、実里は想いに沈んだ。

  こんな状態であれこれ思い悩んでいても意味がない。たとえ悠理とのことがなかったとしても、結婚を決める時、女性は色々とあらぬ心配をしてしまうというではないか。これをいわゆるマリッジブルーと考えて、思い切って潤平の胸に飛び込むのがいちばん賢い選択なのだろう。

 結婚なんて、誰でもしていることだ。互いに生まれも育ちも違う者同士が家族になり、長い年月を一緒にやっていくのだから、問題が起きないはずはない。その起こるかどうかも判らない問題を気にすることに、何の意味があるというのか。  しかし、一方で実里はちゃんと自覚していた。実里の抱える問題は単なる花嫁の憂鬱とは違う、と。潤平は今風の外見とは打って変わり、古い考え方を持っている。だからこそ、八年も交際しながら、実里の頼みを受け容れ二人の関係を敢えてセックスに持ち込もうとはしなかった。

  結婚までの女性の純潔性を重要視しているという点では、今時、かなり珍しいかもしれない。相手が潤平自身ならともかく、他の男に抱かれた女を彼が受け容れるかどうかは判らない。しかも、あの夜、潤平にホテルに行こうと誘われながら、実里は断った。その同じ日の夜に実里はレイプされたのだ―。


 あの時、潤平の誘いに応じていたら、と考えないでもなかった。しかし、やはり、何度、同じ時間に戻ったとしても、自分は彼の求めには応じていなかっただろうと思う。相手にはっきりと身を委ねる覚悟もないのに、生半な気持ちで関係を持ってしまうというのは、実里のポリシーに反する。

  その点、出逢ったその日に深間になっても不思議はないとされる現代の風潮の中では実里も潤平も稀有な変わり種、似た者同士なのだろう。

  後に、その実里の潤平への認識は一八〇度どころか、三六〇度変わることになるのだけれど。

 めぐる想いに応えはない。

  結局、実里が潤平に返信したメールは、ごく素っ気ないものだった。

 ―ごめんなさい。今は私の方が仕事が忙しくて、どうにもならないの。落ち着いた頃にまた連絡します。     実里

  その落ち着いた頃というのが、いつなのかは実里自身にも実は応えようがないのだ。

 「実里、ねえ、聞いてる?」

 またしても、ひかるの声が耳を打ち、実里は顔を上げた。

 「あっ、う、うん」

 ひかるは首を傾げた。

 「だから、どうしようかなと思ってるの。私もそろそろ潮時だしね、金橋君がプロポーズしてくれるのなら、それを受けても良いかなと思ったりもして」

 何の話だっただろうか? 今のひかるの発言からして、金橋君がついにひかるにプロポーズした?  実里は話を合わせるかのように明るい笑顔を作った。

 「良かったじゃない。ひかるも満更でもないんでしょ。金橋君のこと」

 しかし、流石に長年の付き合いだけあって、ひかるは実里が話を殆ど聞いていなかったこなどお見通しのようである。  ひかるにじいっと見つめられ、実里はつい視線を逸らしてしまった。

 「何だか最近の実里はおかしいよ?」

 「え、そ、そうかな?」

 実里は狼狽えながらも無理に微笑んだ。

 「お昼、食べないの? ぐずぐずしてたら、昼休みなんて、あっという間に終わっちゃうよ」

 「うん、そうだね」

 実里は抱えてきたビニール袋からコンビニのお握り一個とペットボトルのウーロン茶を取り出した。

 「ええっ、お昼って、それだけ?」  

 いささか大仰にも取れる反応を見せ、ひかるが眼を剥いた。

 「あまり気分が良くないの。少し胃の調子が悪くて。むかむかして最近は何も食べられないことの方が多いし、これだけでも全部食べられないかも」

 それは嘘ではない。六月に入ってから、実里は身体の不調が続いていた。始終、頑固な吐き気が続き、食べる物が食べられない。そのせいで、ひと月の間に、実里はひと回り以上痩せた。元々小柄で細いから、最近は痛々しい印象すら与えることに、当人はまだ気づいていない。

  ひかるがふいに黙り込んだ。何やら考え込んでいるようだ。

 「そういえば、実里って、ここのところ、お昼は殆ど食べてないわよねぇ」


 ひかるに言われるとおりだった。これまでは手作りの弁当を持参するのが日課で、たまにプチ贅沢して、ひかると一緒に近くのファミレスにランチをしに行く程度。

 なので、今年、入社したての若い子たちが先刻のようにフレンチレストランにランチに行くと聞けば、やはり数歳離れているだけでも、考え方は明らかに異なっていると思わずにはいられない。  実里がここのところ、頭を悩ませている潤平との件を咄嗟に思い出したのも、彼女たちのフレンチレストランに行くという他愛ない会話からだった。あの店は潤平が好み、しばしばデートで利用するからである。

 六月に入った頃から、胃の不調は続いていたので、折角作っても食べられないことが多かった。そのため、弁当は止めて、通勤前にコンビニでサンドイッチやお握りを買ってくることが多くなりつつある。

 「そうなの、やっぱストレスから来てるのかな」

 実里は言いながら、音を立ててお握りのラッピングを剝がした。今日の具は鮭。適度の塩味がしつこい吐き気を撃退するには丁度良い。  食べただけで吐いてしまうので、用心して、ひと口囓る。その瞬間、いつになく烈しい嘔吐感が奥底からせり上がってきて、実里は口を押さえた。

 「うっ」

  どうにも我慢がきかず、愕くひかるを尻目に給湯室を飛び出て、向かいの女子トイレに駆け込む。  洗面台の蛇口を流しっ放しにして、少しだけ手のひらに戻してしまったものを洗い流した。

 「実里、大丈夫?」

  ひかるが気遣わしげに背後から問いかけてくる。

 実里はハンカチを出して口の周りや手を拭きながら頷いた。

 「ごめんね、急に」

 「私なら良いのよ。でも、本当に大丈夫? 私の見たところ、ただ事ではないような気がするわ。一度、病院に行った方が良いんじゃない?」

 「そうね。私も一度、内科に行ってみようかと思うんだけど」

 と、ひかるが突然、思いもかけないことを言った。



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