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「潤平さん、ホテルって」  実里は予期せぬなりゆきに狼狽えながら問う。 「俺は今まで実里を少し大事にしすぎた。実里が結婚するまで待ってくれって言うから、キス以上はしなかったけど、そろそろ次の段階に進んでも良い頃合いじゃないのか、俺たち。むしろ、八年も付き合いながら、いまだに実里を一度も抱いていないなんていう方が不自然なんだ」 「待って。私はまだ潤平さんと結婚するって決めたわけではないのよ」  潤平の眼に欲望とも怒りともつかない感情が燃え上がった。 「良い加減にしてくれよ。今日日、女子高生だって、お前のようなガキみたいなことは言わないぜ」 「あんなことがあったばかりなのよ、そんな気になれないわ」 「あんなこと?」  意外そうな口ぶりに、実里は眼に涙を滲ませて言った。 「溝口さんの奥さんが亡くなってまだ、たったの十日余りしか経っていないわ。なのに、今、潤平さんとそんな関係になれるはずない」 「別に構わないだろう。俺たちには関係ない話だ」 「どうして? どうして関係ないなんて言うの? あの男(ひと)の言うことも満更、間違ってはいないのよ。あの男の奥さんは私の運転していた車に当たって死んだわ。確かに私は法的には責任を問われない立場かもしれないけど、私はそれでも自分のせいだと思ってる。私が死ぬことで、あの男の気が済むのなら、それだって構わないと思ってるくらい。なのに、潤平さんは、そんな大切なことを何でもないとか、関係ないのひと言で片付けるっていうの?」  潤平が鼻で嗤った。 「馬鹿だな」


「馬鹿ですって?」 「ああ、そのとおりだ。ちゃんと警察が念入りに調査した上で、お前には罪がないと言われたんだ。それを自分で騒ぎ立てて事を荒立てて、何の得がある? これ以上、くだらないことを考えるのは止めて、事故については一切、考えるな。もうすべて忘れるんだ」  忘れろですって?  実里は潤平の最後の言葉を繰り返し反芻した。それは図らずも自分自身への問いかけともなった。   忘れる? そんなことができるはずがない。潤平にも言ったように、あの男―溝口悠理の発言は満更間違ってはいないのだ。あの男の妻の死について、百パーセント、実里に責任はないにせよ、少なくとも幾ばくかはある。それを知らないふりをして過ごすなんて、実里にはできない。できるはずもない。  実里が沈黙を守っていることが了解の証と理解したのか、潤平が車のエンジンをかけた。そのまま発進させようとするのに、実里は首を振った。 「ごめんなさい。私、やっぱり、無理だわ」  潤平はハンドルを握ったままの格好で、前方を向いている。 「その返事が何を意味するか判ってるのか?」  実里は頷いた。 「ええ、ちゃんと理解してる。今夜、潤平さんのものにならなかったら、もう結婚は考えられないってことでしょう」 「そこまで判っていながら、俺と行かないのか?」 「そうね。三月の終わりにプロポーズされてから、私なりに色々と考えてみたの。私たちって、今し方、潤平さんも言ってたけど、確かに変だったわよね。ううん、私が言いたいのは身体の関係があるとかないとか、そういうことではなくて、心のありよう」 「心のありよう? 今夜の実里は随分と難しいことを言うんだな」 


 皮肉も多少は混じっていたけれど、それは潤平の本音に近い気がした。 「潤平さんも私も、八年も一緒にいながら、その実、少しも相手の本当の姿を見ていなかったんじゃないのかと思ってる」 「本当の―相手の姿、か」 「私、潤平さんと逢うときは、いつもあなた好みの可愛い清楚なお嬢さん風っていうスタイルにしてたけど、本当は違うのよ。普段の私はカジュアルで気取らない服が好き。行くお店だって、そう。Tシャツにジーンズはいて、焼鳥屋なんか行くようなデートがしたかった。でも、潤平さんは違うでしょ。今夜のように少しオシャレなレストランでスーツにワンピースっていうシチュエーションが好きなのよね」 「なら、実里はこの八年間、ずっと俺好みの女を演じてきただけだと?」  潤平の声は固かった。 「まあ、そう言えば、そういうことよね」 「俺は実里も愉しんでると思ってたんだぞ。お前を歓ばせたくて高い食事代払って、高級な店にも連れていった」 「それは感謝してる」  実里は少し考え、言葉を選びながら言った。 「さっきだって、凄く嬉しかった。潤平さんが溝口さんに向かって、はっきり物を言って庇ってくれたから。ああ、守られてるんだって思って、幸せだなと思ったの」 「それなら何故! 今になって別れを匂わせるような話をする?」 「プロポーズされてから、私たちがあまりに違いすぎることに気づいたの。求めるものも、考え方も何もかも違うのに、結婚して上手くやってゆけるとは思わない」 「結局、プロポーズしたことが別離の原因になったとは、皮肉なものだな」 「ごめんなさい。最後の最後にこんなことを言って。でも、良かった。今までずっと、あなたの顔色を窺ってばかりで言いたいことの半分も言えなかったけど、最後に言えたから」


 潤平からしばらく応(いら)えはなかった。 「どうやら、俺はお前が作り上げた俺好みの女っていう幻に惚れてたみたいだな。だがな、実里。たとえ幻であろうが、お前はお前、生身の人間であり女だ。俺は何も可愛いだけの人形を好きになったわけじゃない。だから、もう一度だけ考えてみてくれ。俺と仕事のどちらを選ぶか。俺はもう本当のお前とやらを知ったわけだから、今更、気取る必要もない。その上で俺は今、改めて求婚してる。その意味をよく考えて、また近い中に返事を聞かせて欲しい」 「―ありがとう」 「愛の告白に、礼を言われるのはあまり嬉しくないな」 「じゃあ、ここで降りるわね」 「そろそろ十時だ。家まで送ってくよ」  実里は微笑んで首を振った。 「大丈夫よ。まだ雨も降りそうにないし、歩いて帰るわ」 「そうか。なら、気をつけて帰れよ。また電話する」  実里は頷いて手を振った。  白いセダンがウィンカーを点滅させながら、走り去ってゆく。実里は車が角を曲がって見えなくなるまで、潤平を見送った。  潤平は自分が思っている以上に、頼り甲斐のある男なのかもしれない。  実里は少しだけ弾んだ気持ちで歩き始めた。ここから家までは急げば十分くらいで着く。できるだけ早足で行こう。  しばらく歩いた頃、実里は後悔していた。やはり、意地を張らずに送って貰えば良かった。帰り道には、実はあの道―実里が溝口早妃を撥ねた場所を通らなければならないのだ。  普段は少し余裕を持たせて家や会社を出て、あの道は避けるようにしていたのだが、今日はフレンチレストランから歩いて帰ることになったため、回り道ができなくなってしまった。レストランは事故現場から直進方向にあり、脇道はない。


 いつもはダイエットのために、片道二十分の道程を歩いて通勤していたのに、何故、あの運命の日に限って、車を使ったのか。  それも今更ながらに悔やまれてならないことだ。一つには朝、出かけるときに雨が降りそうだったこと。駅前のスーパーでバイトをしている母がその日だけ父の車ではなく実里の車に乗せていって欲しいと頼んだのが理由だった。  いつもは七時半に家を出る父は当日に限り、早出だからと三十分早く家を出た。それで、八時前に実里が母を積んで車で家を出たのである。  別に早妃の亡霊が出るとか、オカルトじみたことを考えて怖れているわけではない。実里が怖れているのは、あの夜の出来事を思い出すからだった。  雨に濡れて道端に倒れ伏していた早妃の華奢な身体、膨らんでいた腹。  アスファルトを染めていた血の色。 ―赤ちゃん、赤ちゃんがお腹に。  か細い呟きや、搬送途中でしきりに痛みを訴えていた弱々しい声。そんなものが一挙に押し寄せてくるのだ。  あれらを思い出す度に、自分が一人の女性の生命を奪ったという重すぎる事実に打ちひしがれねばならなかった。  ここまで来れば、もう引き返すことはできない。実里はいっそう早足になった。  いよいよあの場所に近づいたときのことだ。少し離れた背後から、ひそやかな足音がついてくるのに気づいた。  実里は恐る恐る後ろを振り返った。しかし、狭いアスファルト道路が伸びているだけで、辺りは一面の闇に包まれている。  とうとう小走りに走ると、足音も速くなる。「―」  実里はもう躊躇はしなかった。明らかに何者かが自分の後をつけているのだ。こんな月もない夜更けに人気のない住宅街を散歩する酔狂な人は少ないだろう。変質者かもしれない。



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