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「なるほど、そういうことか」  一人で納得顔になり、先刻よりは穏やかな口調で悠理に話しかけた。 「いや、失敬した。確か君の名字はどこかで聞いたはずだとは思ったんだが、すぐに思い出せなくて申し訳ない」  言いながら、仕立ての良いビジネススーツの内ポケットをまさぐり、長財布を取り出した。その中からおもむろに一万円札を数枚引き抜き、悠理に差し出した。 「これで足りるかな?」 「潤平さんっ。止めて、そんなことしないで。かえって失礼よ」  実里が慌てて止めても、潤平は聞く耳を持たなかった。  悠理の切れ長の眼(まなこ)に剣呑な光が瞬いた。 「それは、どういう意味だ?」  悠理は今にも牙を剥いて喉笛に喰らいつきそうな狼に見える。だが、潤平は悠理のそんな微妙な変化には気づかず、滔々と述べ立てた。 「何って、金だよ。これが欲しいから、わざわざ恥知らずにもこんなところまでやって来たんだろう?」 「―」  悠理が押し黙り、テーブルの上に置いてあったワイングラスを取り上げた。スと立ち上がり、ワイングラスを潤平の頭上で傾ける。深い紫のロゼワインは見事に潤平の全身にひろがり、上等のスーツには至るところ、滲みができた。  先刻からの興味深いやりとりに、店内にいた客たちの殆どが注目している。こういった場合、他人の喧嘩は大きれば大きいほど面白いものだ。実里は穴があれば、すぐにでも入って隠れたい気分だった。 「き、貴様ッ。何をするっ」  潤平の顔が怒気に染まったかと思うと、今度は白くなった。 「あんた、ひと一人の生命をたったの数万と引き替えにしようっていうの?」


 潤平を馬鹿にするように、悠理の眉がつり上がる。 「僕はそんなことは言ってない。だが、君。よく考えてみたまえ。この金を持って、さっさっと立ち去った方が君にとってはよほど賢明ではないかと思うがね。この際だから、はっきり断っておこう。僕のフィアンセは君の奥さんを殺してはいない。大体、お宅の奥さんの方がふらふらと路上に飛び出してきたという話じゃないか。妊婦がでかい腹をして夜の七過ぎに外をうろついていたというのも信じられない話だが、僕のフィアンセはそのことで多大な迷惑を蒙ったんだぞ? そのせいで、社会的な名誉を大いに傷つけられた。実里の方には全く非がないということは警察に行けば、すぐに証明して貰えるだろう。もし、君がこれ以上、実里にしつこくつきまとうようなら、僕にも考えがある。逆に警察に通報して、君を逮捕して貰うことだってできるんだ」  潤平にしては酷く常識的なことを言ったものだ。実里は、そんなことをぼんやりと考えた。確かに、潤平の言うことは筋が通っている。しかし、今の場合、悠理の前で口にするにふさわしい科白とは思えなかった。これでは、かえって相手の感情を逆撫でして、火に油を注ぐようなものである。 「お前なア、人間一人を轢き殺しておいて、その言い草はないだろう? 少しでも死んだ人間に対しての罪の意識とか、ないのかよ」  その科白は潤平ではなく、むしろ実里の方に向けられているかのようでもある。  実里が身体を強ばらせている側で、潤平が代わりに応えた。 「だから、先刻から言っている。実里に非はないのだから、謝る必要がどこにあるというんだ! 本当にしつこいな。良い加減にしたまえ。今、この場で警察に突き出されたいのなら別だがね」 「潤平さん、お願い、もう止めて」


 見かねて縋るようなまなざしを送ると、潤平は鼻を鳴らした。 「折角の夜が台無しだ。悪いが、これで失礼するよ」  ワインの赤い滴をしたたらせながら、潤平はぞんざいに顎をしゃくった。 「行くぞ」  実里はさっさと先を行く潤平の後を慌てて追う。  後には悠理だけが残された。  ダーン。悠理が腹立ち紛れに座っていた椅子を蹴り倒した。  その場全体が息を呑んだかに見えた。ウエイターたちは拘わりにすらなりたくないというように、遠巻きに離れて眉をひそめている。店のテーブル席をほぼ三分の二ほど埋め尽くした客たちは小声でしきりに囁き交わしていた。

 店を出た後、潤平はすごぶる機嫌が悪かった。むっつりとして、実里が差し出したハンカチで滴る赤い滴(しずく)をぬぐっている。 「潤平さん、私のためにああ言ってくれたのは嬉しかったけど、あれは言い過ぎだわ。たとえ刑事責任には問われなかったとしても、私があの人の奥さんを轢いてしまったのは事実だもの。今、奥さんを失った哀しみの底にいる人にあんなことを言えば、かえって逆効果よ」  店から少し離れた駐車場まで行き潤平の運転する白いセダンに乗り込んでからも、実里は懸命に訴えた。だが、運転席に乗り込んだ潤平は氷の彫像のように冷ややかな横顔を見せている。  ややあって、潤平が低い声で言った。 「これからホテルに行こう」 「え?」  実里は愕いて眼を瞠った。 「スーツも濡れてしまったし、着替えたい。ホテルに着く前にどこかの店で使い捨てにできるような服を買えば良い」


「潤平さん、ホテルって」  実里は予期せぬなりゆきに狼狽えながら問う。 「俺は今まで実里を少し大事にしすぎた。実里が結婚するまで待ってくれって言うから、キス以上はしなかったけど、そろそろ次の段階に進んでも良い頃合いじゃないのか、俺たち。むしろ、八年も付き合いながら、いまだに実里を一度も抱いていないなんていう方が不自然なんだ」 「待って。私はまだ潤平さんと結婚するって決めたわけではないのよ」  潤平の眼に欲望とも怒りともつかない感情が燃え上がった。 「良い加減にしてくれよ。今日日、女子高生だって、お前のようなガキみたいなことは言わないぜ」 「あんなことがあったばかりなのよ、そんな気になれないわ」 「あんなこと?」  意外そうな口ぶりに、実里は眼に涙を滲ませて言った。 「溝口さんの奥さんが亡くなってまだ、たったの十日余りしか経っていないわ。なのに、今、潤平さんとそんな関係になれるはずない」 「別に構わないだろう。俺たちには関係ない話だ」 「どうして? どうして関係ないなんて言うの? あの男(ひと)の言うことも満更、間違ってはいないのよ。あの男の奥さんは私の運転していた車に当たって死んだわ。確かに私は法的には責任を問われない立場かもしれないけど、私はそれでも自分のせいだと思ってる。私が死ぬことで、あの男の気が済むのなら、それだって構わないと思ってるくらい。なのに、潤平さんは、そんな大切なことを何でもないとか、関係ないのひと言で片付けるっていうの?」  潤平が鼻で嗤った。 「馬鹿だな」


「馬鹿ですって?」 「ああ、そのとおりだ。ちゃんと警察が念入りに調査した上で、お前には罪がないと言われたんだ。それを自分で騒ぎ立てて事を荒立てて、何の得がある? これ以上、くだらないことを考えるのは止めて、事故については一切、考えるな。もうすべて忘れるんだ」  忘れろですって?  実里は潤平の最後の言葉を繰り返し反芻した。それは図らずも自分自身への問いかけともなった。   忘れる? そんなことができるはずがない。潤平にも言ったように、あの男―溝口悠理の発言は満更間違ってはいないのだ。あの男の妻の死について、百パーセント、実里に責任はないにせよ、少なくとも幾ばくかはある。それを知らないふりをして過ごすなんて、実里にはできない。できるはずもない。  実里が沈黙を守っていることが了解の証と理解したのか、潤平が車のエンジンをかけた。そのまま発進させようとするのに、実里は首を振った。 「ごめんなさい。私、やっぱり、無理だわ」  潤平はハンドルを握ったままの格好で、前方を向いている。 「その返事が何を意味するか判ってるのか?」  実里は頷いた。 「ええ、ちゃんと理解してる。今夜、潤平さんのものにならなかったら、もう結婚は考えられないってことでしょう」 「そこまで判っていながら、俺と行かないのか?」 「そうね。三月の終わりにプロポーズされてから、私なりに色々と考えてみたの。私たちって、今し方、潤平さんも言ってたけど、確かに変だったわよね。ううん、私が言いたいのは身体の関係があるとかないとか、そういうことではなくて、心のありよう」 「心のありよう? 今夜の実里は随分と難しいことを言うんだな」 



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