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 八年も付き合ってきて、彼との別離を考えたのは、これが初めてだ。 「そろそろスイーツを注文したら、どうだ? お前、好きだろ。今日はじゃんじゃん食えよな。何でもありだぞ」  と、いつになく実里の機嫌を取るのは、やはりニューヨーク出向の話があるからだろう。潤平は一日も早く、実里から〝Yes〟の返事を引き出したいのだ。  おかしなものだ。これまでなら、 ―男に食事代を払わせないなんて、俺を馬鹿にしてるのか?  と言う癖に ―食事の他にケーキなんか食べるのか? お前は贅沢だな。俺は贅沢はさせない主義だから、食事代は出すけど、その他は自分で払えよ。  などと平気で相反することを言っていたのに、今夜はまるで別人だ。  あまりの変わり様を皮肉げに実里が見ていることも知らず、潤平は機嫌が良い。  だが、この場で別離を切り出すつもりがない以上、ここは二人の関係を波立たせるような言動は慎むべきだ。  よほど〝今夜はもう結構よ〟と言おうとしたが、思い直して微笑んだ。 「ありがとう。それでは、お言葉に甘えて―」  メニューを開いたまさにその瞬間、店の入り口がざわざわとざわめくのが耳に入った。  次いで罵声が聞こえてくる。  ふいの侵入者が何やら喚いているようだが、奥まったここまでは詳細は判らない。 「何だ? 皆、静かに食事を愉しんでるのに」  潤平が不機嫌そうに振り返った。  と、白と黒のお仕着せを身につけた若いウエイターが慌てて近寄ってきた。 「お客さま、お食事中のところを真に申し訳ございませんが、溝口さまとおっしゃる方がご相席なさりたいとたってのご所望でして」  ウエイターの言葉が終わらない中に、あの男―溝口悠理がゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。


「何だ、君は」  潤平が眉をひそめても、悠理は平然としている。 「ホウ、今夜は恋人同伴でお楽しみですか、お嬢さま。こんな高い洒落た店は俺なんかには一生、縁はなさそうですがね」  悠理は揶揄するように言うと、空いていた椅子の一つに腰掛け、悠然と長い足を組んだ。 「溝口さん、話があるのなら、どこか別の場所で―」  言いかけた実里を制し、潤平が態度だけは慇懃に言った。 「これは一体、どういうことかな。君は何者なんだ」 「俺? 俺は溝口悠理」  暗に、そんなことも知らないのか? と馬鹿にしたように言うのに、潤平の白い面が怒りにうっすらと染まった。 「実里、この男は?」  悠理では話にならないと考えたのだろう、潤平が実里に確認するような視線をよこす。 「この人は」  言いかけた時、悠理が突然、ダンと大きな音を立ててテーブルを拳で打ちつけた。 「あんたらな、俺の名前っつうか、溝口と聞いて、何とも思わないどころか、思い出しもしないってところが、はや頭がイカレちまってるとしか思えねえんだよ」 「なっ」  潤平は怒りのあまり、声を震わせた。  穏やかな物腰の潤平を見た人は誰でも皆、その性格まで同じかと勘違いするのだが、現実には外見と正反対である。むしろ、癇性で短気といった方が良かった。 「潤平さん、もう、今日は帰りましょう」  実里がしきりに彼の背広を引っ張っても、潤平は憮然として、その手を払った。 「お前は黙ってろ。こんな失礼な態度を取られて、黙っていられるはずがない」  と、潤平が小さく頷いた。


「なるほど、そういうことか」  一人で納得顔になり、先刻よりは穏やかな口調で悠理に話しかけた。 「いや、失敬した。確か君の名字はどこかで聞いたはずだとは思ったんだが、すぐに思い出せなくて申し訳ない」  言いながら、仕立ての良いビジネススーツの内ポケットをまさぐり、長財布を取り出した。その中からおもむろに一万円札を数枚引き抜き、悠理に差し出した。 「これで足りるかな?」 「潤平さんっ。止めて、そんなことしないで。かえって失礼よ」  実里が慌てて止めても、潤平は聞く耳を持たなかった。  悠理の切れ長の眼(まなこ)に剣呑な光が瞬いた。 「それは、どういう意味だ?」  悠理は今にも牙を剥いて喉笛に喰らいつきそうな狼に見える。だが、潤平は悠理のそんな微妙な変化には気づかず、滔々と述べ立てた。 「何って、金だよ。これが欲しいから、わざわざ恥知らずにもこんなところまでやって来たんだろう?」 「―」  悠理が押し黙り、テーブルの上に置いてあったワイングラスを取り上げた。スと立ち上がり、ワイングラスを潤平の頭上で傾ける。深い紫のロゼワインは見事に潤平の全身にひろがり、上等のスーツには至るところ、滲みができた。  先刻からの興味深いやりとりに、店内にいた客たちの殆どが注目している。こういった場合、他人の喧嘩は大きれば大きいほど面白いものだ。実里は穴があれば、すぐにでも入って隠れたい気分だった。 「き、貴様ッ。何をするっ」  潤平の顔が怒気に染まったかと思うと、今度は白くなった。 「あんた、ひと一人の生命をたったの数万と引き替えにしようっていうの?」


 潤平を馬鹿にするように、悠理の眉がつり上がる。 「僕はそんなことは言ってない。だが、君。よく考えてみたまえ。この金を持って、さっさっと立ち去った方が君にとってはよほど賢明ではないかと思うがね。この際だから、はっきり断っておこう。僕のフィアンセは君の奥さんを殺してはいない。大体、お宅の奥さんの方がふらふらと路上に飛び出してきたという話じゃないか。妊婦がでかい腹をして夜の七過ぎに外をうろついていたというのも信じられない話だが、僕のフィアンセはそのことで多大な迷惑を蒙ったんだぞ? そのせいで、社会的な名誉を大いに傷つけられた。実里の方には全く非がないということは警察に行けば、すぐに証明して貰えるだろう。もし、君がこれ以上、実里にしつこくつきまとうようなら、僕にも考えがある。逆に警察に通報して、君を逮捕して貰うことだってできるんだ」  潤平にしては酷く常識的なことを言ったものだ。実里は、そんなことをぼんやりと考えた。確かに、潤平の言うことは筋が通っている。しかし、今の場合、悠理の前で口にするにふさわしい科白とは思えなかった。これでは、かえって相手の感情を逆撫でして、火に油を注ぐようなものである。 「お前なア、人間一人を轢き殺しておいて、その言い草はないだろう? 少しでも死んだ人間に対しての罪の意識とか、ないのかよ」  その科白は潤平ではなく、むしろ実里の方に向けられているかのようでもある。  実里が身体を強ばらせている側で、潤平が代わりに応えた。 「だから、先刻から言っている。実里に非はないのだから、謝る必要がどこにあるというんだ! 本当にしつこいな。良い加減にしたまえ。今、この場で警察に突き出されたいのなら別だがね」 「潤平さん、お願い、もう止めて」


 見かねて縋るようなまなざしを送ると、潤平は鼻を鳴らした。 「折角の夜が台無しだ。悪いが、これで失礼するよ」  ワインの赤い滴をしたたらせながら、潤平はぞんざいに顎をしゃくった。 「行くぞ」  実里はさっさと先を行く潤平の後を慌てて追う。  後には悠理だけが残された。  ダーン。悠理が腹立ち紛れに座っていた椅子を蹴り倒した。  その場全体が息を呑んだかに見えた。ウエイターたちは拘わりにすらなりたくないというように、遠巻きに離れて眉をひそめている。店のテーブル席をほぼ三分の二ほど埋め尽くした客たちは小声でしきりに囁き交わしていた。

 店を出た後、潤平はすごぶる機嫌が悪かった。むっつりとして、実里が差し出したハンカチで滴る赤い滴(しずく)をぬぐっている。 「潤平さん、私のためにああ言ってくれたのは嬉しかったけど、あれは言い過ぎだわ。たとえ刑事責任には問われなかったとしても、私があの人の奥さんを轢いてしまったのは事実だもの。今、奥さんを失った哀しみの底にいる人にあんなことを言えば、かえって逆効果よ」  店から少し離れた駐車場まで行き潤平の運転する白いセダンに乗り込んでからも、実里は懸命に訴えた。だが、運転席に乗り込んだ潤平は氷の彫像のように冷ややかな横顔を見せている。  ややあって、潤平が低い声で言った。 「これからホテルに行こう」 「え?」  実里は愕いて眼を瞠った。 「スーツも濡れてしまったし、着替えたい。ホテルに着く前にどこかの店で使い捨てにできるような服を買えば良い」



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