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 部長は実里の顔色が白くなっているのを見、ゆっくりと頷いた。 ―何しろ小さな町だから、悪い噂はすぐに知れ渡る。だとすればねぇ、入倉君。そういうとかくの風評がある人物を我が社の大切な新規プロジェクトの主要メンバーにしておくわけにはいかんのだよ。殊に今回の企画はやや低迷気味の我が社の社運を立て直すための重要なものだ。会社の威信を賭けてのものといっても良いこの企画に、新聞に載るような事件を起こした者を加えるわけにはなぁ。むろん、私だって、君に何の落ち度もないことは理解しておるつもりだ。しかし、上のお達しで、まあ、そのう、こういう結果になってしまって非常に残念だ。  要するに、人を撥ねて殺したような人間は、会社の〝顔〟を賭けた重要企画には拘わらせたくない、というのが言い分であった。 ―判りました。  部長がここまで言うからには、恐らくは社長命令に違いない。今更、どう抗議したところで、この命令が覆されることはないだろう。  実里は小さく頭を下げ、部長室を出た。落胆とやるせなさが同時に胸の内でせめぎ合い、溢れそうになる涙をまたたきで散らすのが精一杯だった。  後に、実里は企画書の社内選考会で第二位を獲得した若手男子社員が自分の代わりに抜擢されたと聞いた。しかし、かといっても、実里の出した企画案はそのまま採用され、それを考え出した実里本人だけが不名誉な噂によって切り捨てられただけだ。  潤平にそのことを訴え、やりきれない気持ちを聞いて貰えればと思ったけれど、それはできない相談である。潤平は九月のニューヨーク出向までに実里と入籍したいと望んでいるのだ。そのためにも、今回の新規プロジェクト企画は諦めて欲しいと考えていた。  今、彼に企画メンバーから外されたことを話しても、かえって、あからさまな安堵の表情を見ることになるだけだろう。


 余計に空しくなるばかりなのは判っていた。  折角注文したシーフードパスタも一向に食が進まない。実里が沈みがちなのに気づいたのか、潤平がわずかに眉根を寄せた。 「どうしたんだ? 元気ないな」 「そう?」  実里は気のない様子で応え、無意味にパスタをフォークでかき回した。 「何かあったのか?」  探るような声に、実里は思わず笑い出したくなった。潤平は実里が心配というよりは、実里を沈ませている問題が自分にまで波及しないかどうかの方が気になるのだ。  その心情がもろに顔に出ている。  そんな彼の様子を見ている中に、三日前に逢った柊路の顔が自然に浮かんでいた。  ホストクラブ勤務だとか、ドラックなど日常的なことで珍しくはないと語っていた。話だけ聞けば、今までの実里なら避けて通り過ぎていたような世界の人だ。  しかし、実際に柊路と眼前の恋人を比べて、どちらが男として、いや、人間としてより誠実であり、優れているか? そんなことは考えなくても最初から判っている。  名の知れた大手の広告代理店に勤めるサラリーマンの潤平よりもホストだという柊路の方が数倍も人間が上だ。どんな仕事をしているかよりも、その仕事にどれだけ打ち込んでいるかが大切なのだ。あの日、柊路に言った言葉は、あながち間違ってはいなかったのだと確信が持てた。 「ううん、別に。たいしたことじゃないの。潤平さんには関係ないから、心配しないで」  潤平さんには関係ないから―、そこだけわざと強めに発音したが、当の男には伝わっていないらしい。潤平はあからさまに安堵の表情を浮かべた。  この調子では、自分たちはいずれ別れなくてはならないだろうな。実里はこの時、ぼんやりと潤平との別離を意識した。


 八年も付き合ってきて、彼との別離を考えたのは、これが初めてだ。 「そろそろスイーツを注文したら、どうだ? お前、好きだろ。今日はじゃんじゃん食えよな。何でもありだぞ」  と、いつになく実里の機嫌を取るのは、やはりニューヨーク出向の話があるからだろう。潤平は一日も早く、実里から〝Yes〟の返事を引き出したいのだ。  おかしなものだ。これまでなら、 ―男に食事代を払わせないなんて、俺を馬鹿にしてるのか?  と言う癖に ―食事の他にケーキなんか食べるのか? お前は贅沢だな。俺は贅沢はさせない主義だから、食事代は出すけど、その他は自分で払えよ。  などと平気で相反することを言っていたのに、今夜はまるで別人だ。  あまりの変わり様を皮肉げに実里が見ていることも知らず、潤平は機嫌が良い。  だが、この場で別離を切り出すつもりがない以上、ここは二人の関係を波立たせるような言動は慎むべきだ。  よほど〝今夜はもう結構よ〟と言おうとしたが、思い直して微笑んだ。 「ありがとう。それでは、お言葉に甘えて―」  メニューを開いたまさにその瞬間、店の入り口がざわざわとざわめくのが耳に入った。  次いで罵声が聞こえてくる。  ふいの侵入者が何やら喚いているようだが、奥まったここまでは詳細は判らない。 「何だ? 皆、静かに食事を愉しんでるのに」  潤平が不機嫌そうに振り返った。  と、白と黒のお仕着せを身につけた若いウエイターが慌てて近寄ってきた。 「お客さま、お食事中のところを真に申し訳ございませんが、溝口さまとおっしゃる方がご相席なさりたいとたってのご所望でして」  ウエイターの言葉が終わらない中に、あの男―溝口悠理がゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。


「何だ、君は」  潤平が眉をひそめても、悠理は平然としている。 「ホウ、今夜は恋人同伴でお楽しみですか、お嬢さま。こんな高い洒落た店は俺なんかには一生、縁はなさそうですがね」  悠理は揶揄するように言うと、空いていた椅子の一つに腰掛け、悠然と長い足を組んだ。 「溝口さん、話があるのなら、どこか別の場所で―」  言いかけた実里を制し、潤平が態度だけは慇懃に言った。 「これは一体、どういうことかな。君は何者なんだ」 「俺? 俺は溝口悠理」  暗に、そんなことも知らないのか? と馬鹿にしたように言うのに、潤平の白い面が怒りにうっすらと染まった。 「実里、この男は?」  悠理では話にならないと考えたのだろう、潤平が実里に確認するような視線をよこす。 「この人は」  言いかけた時、悠理が突然、ダンと大きな音を立ててテーブルを拳で打ちつけた。 「あんたらな、俺の名前っつうか、溝口と聞いて、何とも思わないどころか、思い出しもしないってところが、はや頭がイカレちまってるとしか思えねえんだよ」 「なっ」  潤平は怒りのあまり、声を震わせた。  穏やかな物腰の潤平を見た人は誰でも皆、その性格まで同じかと勘違いするのだが、現実には外見と正反対である。むしろ、癇性で短気といった方が良かった。 「潤平さん、もう、今日は帰りましょう」  実里がしきりに彼の背広を引っ張っても、潤平は憮然として、その手を払った。 「お前は黙ってろ。こんな失礼な態度を取られて、黙っていられるはずがない」  と、潤平が小さく頷いた。


「なるほど、そういうことか」  一人で納得顔になり、先刻よりは穏やかな口調で悠理に話しかけた。 「いや、失敬した。確か君の名字はどこかで聞いたはずだとは思ったんだが、すぐに思い出せなくて申し訳ない」  言いながら、仕立ての良いビジネススーツの内ポケットをまさぐり、長財布を取り出した。その中からおもむろに一万円札を数枚引き抜き、悠理に差し出した。 「これで足りるかな?」 「潤平さんっ。止めて、そんなことしないで。かえって失礼よ」  実里が慌てて止めても、潤平は聞く耳を持たなかった。  悠理の切れ長の眼(まなこ)に剣呑な光が瞬いた。 「それは、どういう意味だ?」  悠理は今にも牙を剥いて喉笛に喰らいつきそうな狼に見える。だが、潤平は悠理のそんな微妙な変化には気づかず、滔々と述べ立てた。 「何って、金だよ。これが欲しいから、わざわざ恥知らずにもこんなところまでやって来たんだろう?」 「―」  悠理が押し黙り、テーブルの上に置いてあったワイングラスを取り上げた。スと立ち上がり、ワイングラスを潤平の頭上で傾ける。深い紫のロゼワインは見事に潤平の全身にひろがり、上等のスーツには至るところ、滲みができた。  先刻からの興味深いやりとりに、店内にいた客たちの殆どが注目している。こういった場合、他人の喧嘩は大きれば大きいほど面白いものだ。実里は穴があれば、すぐにでも入って隠れたい気分だった。 「き、貴様ッ。何をするっ」  潤平の顔が怒気に染まったかと思うと、今度は白くなった。 「あんた、ひと一人の生命をたったの数万と引き替えにしようっていうの?」



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