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 柊路が薄く笑む。 「あなたのような根っからのお嬢さまには縁もゆかりもない世界のことでしょうけど。俺たちがいる世界では、さほど珍しくはありませんよ」  彼が頭をかいた。 「ああ、地が出ちまったな。済みません。あまり慣れてない言葉遣いしてたもんで。普段どおりでも良いですか?」  実里は頷いた。 「気にしないでください」  少し悩んだ挙げ句、思い切って訊ねてみた。 「あの、失礼かもしれませんが、何のお仕事を?」  柊路が笑った。 「知りたいですか? あまり聞いても、良い気分にはなれませんよ。ホストですよ、俺たち」  〝俺たち〟というのがこの男とあの悠理を指すのだとは判る。小説や映画、ドラマでは耳にしたことはあるけれど、現実に本物のホストに出逢ったことはない―それが実里の生きてきた世界の限界であった。  実里の胸中を見透かすかのように、柊路がやや自嘲気味に笑った。 「軽蔑する?」 「いいえ!」  即座に大声で言ってしまい、実里は慌てて口を押さえた。 「ごめんなさい。大きな声を出したりして。でも、私、そんなことで人を決めつけたりはしません。だって、どんな仕事をしていても、それがその人のすべてじゃないでしょう。大切なのは職種ではなくて、どれだけその仕事を頑張ってやっているかだと思いますから」  柊路が眼を丸くした。 「へえ、そんな考え方をする子もいるんだ。君って珍しいね」  実里は少しムキになり過ぎたことを後悔して、紅くなった。


 柊路はふと真顔になった。 「君みたいな良い子なら、尚更、忠告しておく必要がありそうだな。良い、今の悠理は本当の悠理じゃなくなってる。だから、気をつけて。入倉さんもさっき、悠理について何か悩んでることがあるような感じだったけど?」  この人なら信用できる。実里は昨日の出来事を包み隠さず柊路に話した。  話を聞いていた柊路の顔が徐々に蒼褪めていくのを、実里は不安そうに見た。 「こんな話して、気を悪くされました?」  悠理はこの男にとっては無二の親友なのだ。もしかしたら、実里の被害妄想的な作り話だと思われたかもしれない。  が、柊路は予想外のことを言った。 「今の彼なら、やりそうなことだ。入倉さん、しばらくは一人で行動しない方が良い。何なら、警察にでも伝えて、ボディガードして貰ったら?」 「そこまでは」  実里が首を振ると、柊路は頷いた。 「確かにね。話が余計に大きくなるだけかもな」  それからしばらく当たり障りのない話をした後、柊路は走り書きのメモを渡した。 「何か気になることがあったら、電話して。俺も悠理の様子に気をつけておくから」  柊路はこれから店に出るという。聞けば、駅前のスターライトという店にいるらしい。ここからだと眼と鼻の距離だ。  自宅まで送るという柊路の申し出を丁重に断り、実里は一人、柊路が残していったコーヒーカップを見つめた。実里の前のアイスティーはとうとう少しも口を付けなかった。  ここまで深刻な話をしながら、アイスティーを飲む気になんて毛頭なれなかった。ホストクラブ、ドラッグ。  どれもが実里とは縁のない世界のことばかりだ。まるで果てしない闇へと続く世界の深淵を垣間見たようで、実里は知らず身体を震わせた。


 それにしては、あの柊路という男性は、影がなくて頼もしい。むしろ誠実ささえ感じられる人だった。やはり、人を外見とか職業だけで判断してはいけないのかもしれない。  だが。溝口悠理という男は何を考えているのだろうか。最愛の妻を殺したと実里を恨んでいるのはよく知っているけれど、昨日のように、ずっと実里に付きまとって恨み言を囁き続けるつもりなのだろうか。 ―哀しみややりきれなさを誰かにぶつけることで、自分の気持ちに折り合いをつけようとしているんです。  もし彼が一時的にでもそうやって自分に恨み辛みをぶつけることで、いずれ立ち直れるというのなら、実里は辛くとも耐えるつもりだ。  しかし、あの憎悪に燃える瞳は、単に恨み言を述べ立てるだけで済むとは思えないような―何か空恐ろしい企みが秘められているのではないか。そう思うような危うさがあった。  私は、あの瞳が怖い。  暗い焔を宿した瞳が常に、どこにいても自分を射貫くように見つめているようで。   実里は思わず両手で自分の身体を抱きしめていた。


 ♯Stalker(忍び寄る影)♯

 日毎に萌え立つ緑が眩しい季節となった。  柊路から改めて警告を受けてから三日後の夜である。実里はいつものようF駅近くのフレンチレストランで潤平と待ち合わせした。  その日、実里はかなり落ち込んでいた。  というのも、同じ日の昼休みに突如として編集部の部長から直々に呼ばれたのだ。  そういえば、ここのところ新企画の進行について特に何も触れられることはなく、日は淡々と過ぎていた。確か、第一回目の初顔合わせのときには四月半ばには二回目の会議がもたれるということだったのではないか。  しかし、実里は特に何の疑念も抱かずにいたのだけれど、どうやら、それは甘かったらしい。  部長室に入った実里は部長から一方的に新プロジェクトのメンバーから外される―と申し渡された。 ―ええっ、何でですか?  衝撃と愕きを隠せない実里に、部長は神経質そうにコツコツと人差し指でデスクを叩いた。 ―理由を私の口から言わせるのかね。 ―そうおっしゃっても、私には何故なのか納得がいきません。  部長は少し憐れむような視線をよこしてきた。 ―君自身もあまり聞きたくはない理由だと思うが。  部長は机の表面を弾くのを止めると、今度はすっかり薄くなった頭髪を掻いた。 ―まあ、君がそこまで言うのなら、理由を話そう。入倉君、最近、君は自動車事故を起こしたそうだね。  刹那、実里の身体が硬直した。 ―君もまさか、この私がそのことを知らないと思っているわけではなかろう。私だけではなく、社員全員が知っていると言っても過言ではないはずだよ。


 部長は実里の顔色が白くなっているのを見、ゆっくりと頷いた。 ―何しろ小さな町だから、悪い噂はすぐに知れ渡る。だとすればねぇ、入倉君。そういうとかくの風評がある人物を我が社の大切な新規プロジェクトの主要メンバーにしておくわけにはいかんのだよ。殊に今回の企画はやや低迷気味の我が社の社運を立て直すための重要なものだ。会社の威信を賭けてのものといっても良いこの企画に、新聞に載るような事件を起こした者を加えるわけにはなぁ。むろん、私だって、君に何の落ち度もないことは理解しておるつもりだ。しかし、上のお達しで、まあ、そのう、こういう結果になってしまって非常に残念だ。  要するに、人を撥ねて殺したような人間は、会社の〝顔〟を賭けた重要企画には拘わらせたくない、というのが言い分であった。 ―判りました。  部長がここまで言うからには、恐らくは社長命令に違いない。今更、どう抗議したところで、この命令が覆されることはないだろう。  実里は小さく頭を下げ、部長室を出た。落胆とやるせなさが同時に胸の内でせめぎ合い、溢れそうになる涙をまたたきで散らすのが精一杯だった。  後に、実里は企画書の社内選考会で第二位を獲得した若手男子社員が自分の代わりに抜擢されたと聞いた。しかし、かといっても、実里の出した企画案はそのまま採用され、それを考え出した実里本人だけが不名誉な噂によって切り捨てられただけだ。  潤平にそのことを訴え、やりきれない気持ちを聞いて貰えればと思ったけれど、それはできない相談である。潤平は九月のニューヨーク出向までに実里と入籍したいと望んでいるのだ。そのためにも、今回の新規プロジェクト企画は諦めて欲しいと考えていた。  今、彼に企画メンバーから外されたことを話しても、かえって、あからさまな安堵の表情を見ることになるだけだろう。



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