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 夢の中を漂いながら、実里は泣いていた。 ―赤ちゃん、私の赤ちゃんはどこなの?  実里の中に、あの儚く亡くなった女性―溝口早妃の浮かばれない魂が入り込んでしまったのだろうか。  実里は紛れもない我が子を探すように、涙を零し、いなくなった赤ん坊を探していた。    闇の中からメロディが流れている。  実里はハッと目覚め、ベッドの上に身を起こした。茫洋としていた意識が次第に鮮明になるにつれて、今日の出来事が次々に脳裏に甦った。  会社から出てきてほどなく、どこからともなく溝口悠理が現れ、横断歩道を渡りかけていた実里を引きずり戻した。会社前で〝人殺し〟と実里を通行人の前に引き据えて声高に触れ歩いたこと。  思い出すだけで、恥ずかしさと屈辱に涙が出そうになる。しかし、己れのしたことを思えば、致し方ない報いなのだろう。そう思うしかなかった。  音楽が鳴っているのは、枕元のナイトテーブルに置いてあった携帯からだ。実里は手を伸ばして携帯を取り上げた。  二つ折りの携帯を開き、耳を当てる。 ―もしもし、入倉さんのお電話で大丈夫ですか?  若い男の声だ。瞬時に悠理の顔が浮かび、実里は全身に警戒を漲らせた。 ―はい、入倉ですけど。  自らを落ち着かせるように深呼吸してから、続けた。 ―どちらさまでしょうか? ―俺、いや、僕は片岡柊路といいます。 ―片岡さん?  聞いたことのない名前である。だが、少しだけ安心もしていた。この声は、数回聞いただけの悠理のものとは違う。凍てついた氷のような声ではなく、もっと温かみのある人間らしい声だ。


―はい。その―、何と言ったら良いのかな。溝口悠理の友人です。  やはり、と、実里の中で再び疑念と警戒が兆した。悠理本人からでなくとも、彼に拘わりのある人物からの電話なんて、できればご免蒙りたい。 ―それで、私に何かご用でしょうか?  用心しながら問うと、片岡柊路と名乗る男は控えめに言った。 ―お逢いして、お話ししたいことがあるんです。明日の夕方、少しの時間で良いから、逢えませんか?  実里は躊躇った。あの男の友達だなんて、二人きりで逢わない方が良いに決まっている。その時、実里の中で閃くものがあった。 ―もしかして、片岡さんって、あの日、病院へ溝口さんと一緒に来られていた? ―ええ、そうです。  相手の声が少し活気を帯びた。  あの男は悪い人ではない。ともすれば感情のままに実里に衝突しようとする悠理を宥め、実里を庇いさえしてくれた。 ―判りました。時間と場所を教えてください。  短いやりとりの後、柊路はすぐに電話を切った。    翌日の夕刻、実里は柊路の指定した喫茶店にいた。そこは会社からも近いF駅前の小さな店である。  二人きりではなく、人眼の多い駅前の喫茶店を選んだのも柊路の思慮深さを物語っている。 「済みません、急に呼び出したりして」  実里が曇りガラスの扉を開けた時、柊路は既に奥まったテーブル席で手を振っていた。「いいえ、お気になさらないでください。ですが、何故、急に?」  柊路はここまで来ても躊躇うことがあるのか、逡巡する様子を見せた。それから覚悟を決めたようにひと息に言う。


「最近、何か身の回りで変わったことはありませんか?」 「変わった―こと、ですか」  やはり真っ先に浮かんだのは、昨日の出来事だ。しかし、そのことを当の悠理の親友であるこの男に打ち明けても良いものかどうか、即断はできかねた。  実里の表情に何か感じるものがあったのだろう、柊路はわずかに身を乗り出してきた。 「心当たりがあれば、何なりと言ってください」  それでもまだ言うだけの勇気はない。  柊路が溜息をついた。 「あるんですね? 気になることが」  実里は口を開きかけ、また黙り込む。 「もしかして、悩んでいるのは悠理のことですか?」  沈黙が何よりの肯定となる場合もある。柊は、やれやれといった表情で首を振った。 「多分、そんなことになってるんじゃないかと思っていました」  刹那、実里はバネ仕掛けの人形のように顔を上げた。 「何で判るんですか?」  柊路が笑っている。 「まあ、あいつ―悠理とはもう長い付き合いですからね。あいつの考えてること、やりそうなことくらいは判ります」  柊路はいきなり押し黙り、実里を見つめた。  気まずい沈黙が漂う中、それを破ったのも柊路の方だった。 「こんな言い方は誤解させてしまうかもしれませんが、悠理は今、まともな状態ではありません。奥さんを失って、常識的な判断というものが全くできなくなってる」 「私のせいですね」  うなだれると、柊路は力強い声で否定した。


「僕は違うと思う。悠理には僕が他人だから、そんな冷たいことを言えるのだと言われましたけどね。確かに、それもあるかもしれない。もし僕が悠理の立場だったら、今のように公平に物事を見られるかどうか? 自信はありません。ただ、今の僕は客観的に考えられる立場にあるので、言わせて貰いますが、あなたは悪くはないでしょう。それは警察の調べでも十分すぎるほど証明されたはずだ」  柊路はそこで既に運ばれていたコーヒーに口をつけた。とっくに生温くなっているはずだが、砂糖もミルクも入れずに飲んでいる。 「だが、僕は悠理の気持ちもよく判る。あれだけ愛していた奥さんを急に―しかも、赤ん坊ごと失ったんだ。その哀しみややりきれなさを誰かにぶつけることで、自分の気持ちに折り合いをつけようとしているんです」  柊路はまだ、ひと口ブラックを飲み、今度はカップをソーサーの上に置いた。カチリと小さな音がする。 「だけど、それはけして許される行為じゃない。先日、悠理に逢いました。勤め先もずっと休んでるし、携帯にかけても通じないしってんで、気になって様子見にいったんです。そうしたら、またこういう言い方はどうかと思いますが」  柊路は小首を傾げ、続けた。 「まるでドラッグをやったヤツのように訳が判らなくなってるんですよ。急に凶暴になったかと思うと、次の瞬間には嘘みたいに大人しくなって、どん底まで落ち込む。要するに、浮き沈みというか感情の起伏が異常なくらい激しくなるんです」 「ドラッグ―」  実里には、眼前の男の口から次々と飛び出す言葉が異国の別世界のもののように聞こえた。


 柊路が薄く笑む。 「あなたのような根っからのお嬢さまには縁もゆかりもない世界のことでしょうけど。俺たちがいる世界では、さほど珍しくはありませんよ」  彼が頭をかいた。 「ああ、地が出ちまったな。済みません。あまり慣れてない言葉遣いしてたもんで。普段どおりでも良いですか?」  実里は頷いた。 「気にしないでください」  少し悩んだ挙げ句、思い切って訊ねてみた。 「あの、失礼かもしれませんが、何のお仕事を?」  柊路が笑った。 「知りたいですか? あまり聞いても、良い気分にはなれませんよ。ホストですよ、俺たち」  〝俺たち〟というのがこの男とあの悠理を指すのだとは判る。小説や映画、ドラマでは耳にしたことはあるけれど、現実に本物のホストに出逢ったことはない―それが実里の生きてきた世界の限界であった。  実里の胸中を見透かすかのように、柊路がやや自嘲気味に笑った。 「軽蔑する?」 「いいえ!」  即座に大声で言ってしまい、実里は慌てて口を押さえた。 「ごめんなさい。大きな声を出したりして。でも、私、そんなことで人を決めつけたりはしません。だって、どんな仕事をしていても、それがその人のすべてじゃないでしょう。大切なのは職種ではなくて、どれだけその仕事を頑張ってやっているかだと思いますから」  柊路が眼を丸くした。 「へえ、そんな考え方をする子もいるんだ。君って珍しいね」  実里は少しムキになり過ぎたことを後悔して、紅くなった。



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