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 歩道には長方形のフラワーポットが何個か置いてあり、紫陽花が植わっている。まだ青々とした葉を茂らせているだけで、花は見当たらない。  何台かの車がやはり唸りを上げて眼前を通り過ぎた後、やっと信号が変わった。今度こそ青だ。実里は確認してから、横断歩道を渡り始めた。  向こう側からもこちらに向かって歩いてくる人がいる。最初は逆光になってよく見えなかったが、やがて、その人物がはっきりと見て取れた。丈長の薄いブルーと紫のストライプのシャツに、インディゴブルーのジーンズに包まれた両脚は日本人には珍しいくらい長い。茶色がかった長めの前髪の間からかいま見える端正な風貌は、溝口早妃の夫悠理に相違なかった。  何を言えば良いのか判らないまま、頭を垂れると、いきなり腕を掴まれた。声を上げる間もなく引きずられるようにして後戻りする。  背後には数分前に出てきたばかりの会社のビルが聳え立っていた。悠理は何をするのかと思えば、また突然、実里の身体を突き放した。勢いで実里の小柄な身体は脇へ飛び、よろめいて尻餅をついた。無様な格好の彼女を、悠理は腕組みなどし睥睨している。 「結構なところに勤めてるんだな。ここの会社、良いとこの坊ちゃん嬢ちゃんしかコネで入れないんだって?」  そんなのは言いがかりだ。現に実里はちゃんと試験を受けて採用されたし、遠縁の端々まで探し回っても、ここの会社に縁の人はいない。  実里は座り込んだまま、無表情に悠理を見上げた。 「ところで、そんな格好のままじゃ、中が見えてるんだけど?」  最初は何のことか判らず、やっと彼の意図が判った。スーツのスカート丈が膝少し上なので、姿勢によっては下着がちら見えしてしまうことがあるのだ。


 実里は頬を赤らめ、恥ずかしさに消え入りたい衝動と闘いながら立ち上がった。無意識の中にスカートの皺を伸ばす。 「本当に申し訳ありませんでした」  この男の顔を見れば、同じ科白を口にするしかない。しかし、悠理はそれには何の反応も示さなかった。  と、突如として大声で叫び始めたのだ。 「皆さん、この女は十日前、F町の住宅街で人を撥ねたんですよ。妊婦を車でひき殺した人殺しなんです。そんなヤツが何の罰も受けないで、こうしてのうのうと陽の当たる道を歩いてるなんて、おかしいと思いませんか?」 「―!」  流石に実里も声がなかった。  よもや実里の退社時刻を見計らって姿を現し、近隣に響き渡る大音声で〝人殺し〟と叫ぶとは。  今も白い高層ビルからは吸い出されるように次々と社員たちが出てくる。今が丁度、定時の退社時刻なのだ。 「この女は人をひき殺したんだ! それもあと三ヶ月で赤ん坊を生むはずの妊婦をひき殺したんですよ」  行く人、行く人に聞こえよがしに同じ科白を口にしている。その様は到底、尋常とは思われなかった。  道行く人の反応は様々だ。半数の人は知らん顔をして通り過ぎるが、残りの半分は好奇心と軽蔑の入り混じったまなざしを実里にくれてゆく。中には実里の方を指さし、いかにも意味ありげに囁き交わして通り過ぎる女子高生の二人組もいた。  実里の眼に熱いものが滲んだ。駄目だ、泣いては駄目。これは当然の報いなのだ、人一人をひき殺してしまった罪への。  でも、このまま、この場所にいるのは耐えられそうもなかった。実里は両手で耳を塞ぎ、泣きながら横断歩道を渡った。  涙が溢れて出て止まらなかった。


 どこをどのようにして帰ったのか判らない。実里が両親と暮らす自宅は会社から歩いてもせいぜい二十分程度である。あの不幸な事故のあった住宅街からほど近い一角に暮らしているのだ。気がついたときには、自分の家に辿り着いていて、二階まで駆け上がり自室のベッドに身を投げ出していた。  両親が留守をしていたのは幸いだった。実里の父は町役場に勤める謹厳実直な公務員であり、母親は駅前のスーパーへレジ打ちのバイトに行っている。  二人ともに実里が起こした事故については、極力触れない。あの日以来、まるで腫れ物に触れるように実里を扱っていた。父も母も衝撃を受けているのは明らかだが、娘が不起訴処分になったことでもあり、これ以上、嫌な事には触れたくないという気持ちがありありと窺えた。  少なくとも、この小さな家の中では表面だけは淡々とした以前と同じ時間が流れているかに見えた。それは社内でも同様だ。  あの事故はこの町では圧倒的購読数を誇る地方紙の二面に出た。スペースはさほど大きくはないが、眼を通した人は少なくなかったはずである。翌日から熱を出して会社も休まざるを得なかったが、何人かの知り合いには ―大丈夫? 大変だったわね。それで、どうなったの、その後は。  と、慰めとも単なる野次馬根性とも取れないような科白をよこされた。  他の人も口には出さなくても、腹の中は皆似たようなものだろう。どの人もあの日のことを知っている癖に、敢えて触れようとしない。その癖、態度には微妙にその影響が出ていて、実里はやりきれなかった。  泣きながら、実里はいつしか眠りに落ちていた。  哀しい夢を見た。  どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、実里は赤児を探し回っているのに、見つからない。実里の回りには一面ミルク色の靄が立ちこめていて、実里は際限なく赤児を探し続けなければならなかった。


 夢の中を漂いながら、実里は泣いていた。 ―赤ちゃん、私の赤ちゃんはどこなの?  実里の中に、あの儚く亡くなった女性―溝口早妃の浮かばれない魂が入り込んでしまったのだろうか。  実里は紛れもない我が子を探すように、涙を零し、いなくなった赤ん坊を探していた。    闇の中からメロディが流れている。  実里はハッと目覚め、ベッドの上に身を起こした。茫洋としていた意識が次第に鮮明になるにつれて、今日の出来事が次々に脳裏に甦った。  会社から出てきてほどなく、どこからともなく溝口悠理が現れ、横断歩道を渡りかけていた実里を引きずり戻した。会社前で〝人殺し〟と実里を通行人の前に引き据えて声高に触れ歩いたこと。  思い出すだけで、恥ずかしさと屈辱に涙が出そうになる。しかし、己れのしたことを思えば、致し方ない報いなのだろう。そう思うしかなかった。  音楽が鳴っているのは、枕元のナイトテーブルに置いてあった携帯からだ。実里は手を伸ばして携帯を取り上げた。  二つ折りの携帯を開き、耳を当てる。 ―もしもし、入倉さんのお電話で大丈夫ですか?  若い男の声だ。瞬時に悠理の顔が浮かび、実里は全身に警戒を漲らせた。 ―はい、入倉ですけど。  自らを落ち着かせるように深呼吸してから、続けた。 ―どちらさまでしょうか? ―俺、いや、僕は片岡柊路といいます。 ―片岡さん?  聞いたことのない名前である。だが、少しだけ安心もしていた。この声は、数回聞いただけの悠理のものとは違う。凍てついた氷のような声ではなく、もっと温かみのある人間らしい声だ。


―はい。その―、何と言ったら良いのかな。溝口悠理の友人です。  やはり、と、実里の中で再び疑念と警戒が兆した。悠理本人からでなくとも、彼に拘わりのある人物からの電話なんて、できればご免蒙りたい。 ―それで、私に何かご用でしょうか?  用心しながら問うと、片岡柊路と名乗る男は控えめに言った。 ―お逢いして、お話ししたいことがあるんです。明日の夕方、少しの時間で良いから、逢えませんか?  実里は躊躇った。あの男の友達だなんて、二人きりで逢わない方が良いに決まっている。その時、実里の中で閃くものがあった。 ―もしかして、片岡さんって、あの日、病院へ溝口さんと一緒に来られていた? ―ええ、そうです。  相手の声が少し活気を帯びた。  あの男は悪い人ではない。ともすれば感情のままに実里に衝突しようとする悠理を宥め、実里を庇いさえしてくれた。 ―判りました。時間と場所を教えてください。  短いやりとりの後、柊路はすぐに電話を切った。    翌日の夕刻、実里は柊路の指定した喫茶店にいた。そこは会社からも近いF駅前の小さな店である。  二人きりではなく、人眼の多い駅前の喫茶店を選んだのも柊路の思慮深さを物語っている。 「済みません、急に呼び出したりして」  実里が曇りガラスの扉を開けた時、柊路は既に奥まったテーブル席で手を振っていた。「いいえ、お気になさらないでください。ですが、何故、急に?」  柊路はここまで来ても躊躇うことがあるのか、逡巡する様子を見せた。それから覚悟を決めたようにひと息に言う。



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