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 早妃は早産の傾向はあったものの、妊娠経過は順調で、このままいけば予定日より少し早めに元気な赤児が生まれるはずだったという。  つまり、実里が早妃を撥ねなければ、早妃は今もちゃんと生きていて、彼女の胎内に宿った生命も日一日と育っていたはずなのだ。 ―許してください。  何度詫びても、到底、気の済むはずもなかった。事故の数日後に行われた警察の事情聴取では、警察はどちらかといえば、実里の方に同情的だった。 ―まあねえ。不幸な事故だと思うしかないな。目撃者もちゃんといることだし、入倉さんの方に落ち度はないわけだから。まあ、こんなことはここだけの話だけど、あんたも傍迷惑だったよねえ。夜道でただでさえ視界もきかないのに、いきなり飛び出てこられたら、びっくりするよ。  型どおりの話をしただけで、実里はその日の中には自由になれた。その日も既に聞かされていたが、後日、更に連絡があり、裏も取れたことだし、実里が罪に問われることはないということだった。  実里は溝口早妃の葬儀には参列しなかった。というより、できなかったのだ。過度の精神的ショックで翌朝から高熱を発してベッドに寝たきりで数日間を過ごす羽目になった。確か早妃の葬式は若夫婦の暮らしていたアパートからほど近い会館で行われると聞いていたから、絶対に行くつもりだったのだけれど。  漸く熱も下がり、何とか聴取を受けられるまでに回復したときには、既に葬儀は終わっていた。  実里の懊悩は深かった。たとえ警察で〝不幸な事故〟と言われても、それで納得はできなかった。自分のせいで人ふたりの生命が失われたということをそう容易く忘れて良いものではないし、また忘れられるものではない。


 プップー。クラクションの音がけたたましく鳴り響き、実里はハッと顔を上げた。今、実里は会社から出てきたところだ。十階建ての近代的なビルは高層建築の見当たらないこの町では結構目立つ。丁度、会社の前が大きな交差点になっていて、大通りは行き交う車が絶えなかった。  横断歩道の手前でつい物想いに耽ってしまっていたのだが、どうやら信号が青になったようである。実里は意を決して歩き出そうとしたその時。 ――ね、死ね。  声が突如として耳奥で響いた。 ―死ね、死ね。  実里は忌まわしいものを振り払うように、烈しく首を振った。 ―シネ、シネ、オマエナンカ、シンデシマエバイイ。  だが、幻の声は幾ら首を振っても、いっかな消えない。  実里の身体がユラリと傾いだ。ふらふらと何ものかにいざなわれるかのように車道へと近づいてゆく。  と、先刻より更に烈しいクラクションの音が耳をつんざいた。 「危ねえじゃないか、こん畜生、死にてぇのか!」  我に返ると、実里は横断歩道のほぼ中央に立ち尽くしていた。信号は赤だ。青になったと思って歩き出したのだけれど、勘違いしてしまったのだろうか。  実里の前すれすれのきわどいところを大型トラックが噴煙を巻き上げながら猛スピードで走り去ってゆく。どうやら、先刻の罵声はその蒼いトラックの運転手が投げたものらしかった。  実里は茫然として小さくなってゆくトラックを見送った。そして、そこに突っ立っていたのでは余計に危ないことに気づき、慌てて引き返した。


 歩道には長方形のフラワーポットが何個か置いてあり、紫陽花が植わっている。まだ青々とした葉を茂らせているだけで、花は見当たらない。  何台かの車がやはり唸りを上げて眼前を通り過ぎた後、やっと信号が変わった。今度こそ青だ。実里は確認してから、横断歩道を渡り始めた。  向こう側からもこちらに向かって歩いてくる人がいる。最初は逆光になってよく見えなかったが、やがて、その人物がはっきりと見て取れた。丈長の薄いブルーと紫のストライプのシャツに、インディゴブルーのジーンズに包まれた両脚は日本人には珍しいくらい長い。茶色がかった長めの前髪の間からかいま見える端正な風貌は、溝口早妃の夫悠理に相違なかった。  何を言えば良いのか判らないまま、頭を垂れると、いきなり腕を掴まれた。声を上げる間もなく引きずられるようにして後戻りする。  背後には数分前に出てきたばかりの会社のビルが聳え立っていた。悠理は何をするのかと思えば、また突然、実里の身体を突き放した。勢いで実里の小柄な身体は脇へ飛び、よろめいて尻餅をついた。無様な格好の彼女を、悠理は腕組みなどし睥睨している。 「結構なところに勤めてるんだな。ここの会社、良いとこの坊ちゃん嬢ちゃんしかコネで入れないんだって?」  そんなのは言いがかりだ。現に実里はちゃんと試験を受けて採用されたし、遠縁の端々まで探し回っても、ここの会社に縁の人はいない。  実里は座り込んだまま、無表情に悠理を見上げた。 「ところで、そんな格好のままじゃ、中が見えてるんだけど?」  最初は何のことか判らず、やっと彼の意図が判った。スーツのスカート丈が膝少し上なので、姿勢によっては下着がちら見えしてしまうことがあるのだ。


 実里は頬を赤らめ、恥ずかしさに消え入りたい衝動と闘いながら立ち上がった。無意識の中にスカートの皺を伸ばす。 「本当に申し訳ありませんでした」  この男の顔を見れば、同じ科白を口にするしかない。しかし、悠理はそれには何の反応も示さなかった。  と、突如として大声で叫び始めたのだ。 「皆さん、この女は十日前、F町の住宅街で人を撥ねたんですよ。妊婦を車でひき殺した人殺しなんです。そんなヤツが何の罰も受けないで、こうしてのうのうと陽の当たる道を歩いてるなんて、おかしいと思いませんか?」 「―!」  流石に実里も声がなかった。  よもや実里の退社時刻を見計らって姿を現し、近隣に響き渡る大音声で〝人殺し〟と叫ぶとは。  今も白い高層ビルからは吸い出されるように次々と社員たちが出てくる。今が丁度、定時の退社時刻なのだ。 「この女は人をひき殺したんだ! それもあと三ヶ月で赤ん坊を生むはずの妊婦をひき殺したんですよ」  行く人、行く人に聞こえよがしに同じ科白を口にしている。その様は到底、尋常とは思われなかった。  道行く人の反応は様々だ。半数の人は知らん顔をして通り過ぎるが、残りの半分は好奇心と軽蔑の入り混じったまなざしを実里にくれてゆく。中には実里の方を指さし、いかにも意味ありげに囁き交わして通り過ぎる女子高生の二人組もいた。  実里の眼に熱いものが滲んだ。駄目だ、泣いては駄目。これは当然の報いなのだ、人一人をひき殺してしまった罪への。  でも、このまま、この場所にいるのは耐えられそうもなかった。実里は両手で耳を塞ぎ、泣きながら横断歩道を渡った。  涙が溢れて出て止まらなかった。


 どこをどのようにして帰ったのか判らない。実里が両親と暮らす自宅は会社から歩いてもせいぜい二十分程度である。あの不幸な事故のあった住宅街からほど近い一角に暮らしているのだ。気がついたときには、自分の家に辿り着いていて、二階まで駆け上がり自室のベッドに身を投げ出していた。  両親が留守をしていたのは幸いだった。実里の父は町役場に勤める謹厳実直な公務員であり、母親は駅前のスーパーへレジ打ちのバイトに行っている。  二人ともに実里が起こした事故については、極力触れない。あの日以来、まるで腫れ物に触れるように実里を扱っていた。父も母も衝撃を受けているのは明らかだが、娘が不起訴処分になったことでもあり、これ以上、嫌な事には触れたくないという気持ちがありありと窺えた。  少なくとも、この小さな家の中では表面だけは淡々とした以前と同じ時間が流れているかに見えた。それは社内でも同様だ。  あの事故はこの町では圧倒的購読数を誇る地方紙の二面に出た。スペースはさほど大きくはないが、眼を通した人は少なくなかったはずである。翌日から熱を出して会社も休まざるを得なかったが、何人かの知り合いには ―大丈夫? 大変だったわね。それで、どうなったの、その後は。  と、慰めとも単なる野次馬根性とも取れないような科白をよこされた。  他の人も口には出さなくても、腹の中は皆似たようなものだろう。どの人もあの日のことを知っている癖に、敢えて触れようとしない。その癖、態度には微妙にその影響が出ていて、実里はやりきれなかった。  泣きながら、実里はいつしか眠りに落ちていた。  哀しい夢を見た。  どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、実里は赤児を探し回っているのに、見つからない。実里の回りには一面ミルク色の靄が立ちこめていて、実里は際限なく赤児を探し続けなければならなかった。



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