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 柊はあの女を庇うが、あいつは葬式にすら顔を出さなかった。本当に済まないと良心の咎めを感じているならば、葬式くらいは顔を出すはずだ。来なかったということからも、あの女が今回の事故に対して、さほど何も感じてはいないことが知れる。  恐らく上手く罪を逃れられたので、とうに忘れているのだろう。まあ、来たとしても、俺が追い返してやっただろうが。  柊の話では、とうにあの女の取り調べも終わり、事件はひと段落しているようだ。  そうやって、事故は忘れ去られてゆく。身重の女が一人、車に撥ねられて死んでしまったことなど、世間はなかったことのように直に忘れてしまうのだ。  だが、そうはさせるものか。  悠理は固く唇を引き結び、真正面を見据えた。  たとえ誰が忘れても、この俺は忘れない。早妃は俺の宝だった。俺の宝を突然、奪ったあの女―、名前すら知らないあの女を誰も咎めないというのなら、天に変わって、俺があの女に鉄槌を下してやる。  そう、裁くのは天でもなく警察でもなく、この俺だ。早妃が味わった苦しみを倍にして、あの女に味合わせてやるのだ。  復讐を遂げなければ、俺は始まらない。早妃を失った後の人生を始めることなどできはしない。  なあ、柊。本気で俺を心配してくれるお前には悪いが、俺は自分の思うようにするさ。  悠理はクックッと低い声で笑った。  忘れようとしても、忘れさせるものか。  その双眸の奥に蒼白い復讐の焔が閃いた。    実里は空を振り仰ぎ、小さく身を震わせた。  こんな空模様は嫌いだ。まるで今にも泣き出しそうな空は低く垂れ込め、グレーの絵の具一色に塗りつぶされた画用紙のようだ。  時折、薄陽がベールのような雲間から細く差し込みはするものの、空の色は明らかに不穏な兆候を示しつつある。


 もっとも、曇り空を嫌いになったのは、つい最近のことである。いや、もっと正しくいえば、曇りが嫌なのではなく、曇り空の次に来るもの―雨が嫌いなのだ。  雨の日はとても怖ろしく嫌なことを思い出させる。真っ暗な夜道をふらふらと漂うように歩いていた白い服の女。その女に実里の運転する車がぶつかって―。  実里は両手で顔を覆った。ああ、誰でも良いから、この底なしの暗闇から救い出して欲しい。あの女性が亡くなる前、一瞬、脳裏に思い浮かべたことは嘘ではなかった。こんな想いをするほどなら、自分が代わりに死んでいれば良かった。  この手で、私は人を殺したのだ。たとえ直接に手を下してはいなくても、悪意はなかったとしても、自分のせいで一人の女性が死んだ。しかも、彼女はその身に新しい生命を宿していた。つまり、実里は二人の生命を奪ったことになる。  実里の瞼であの日の凄惨な光景がフラッシュ・バックする。路上に倒れ伏していた白いワンピースの女が大きくクローズ・アップされる。まるで棒切れか何かのように道に転がっていた。濡れた髪が白い服に張り付いて―。 ―赤ちゃん、赤ちゃんが、お腹に。  ただひと言、落とした呟き。  場面は変わり、救急車の中で女性は実里の手を握りしめて、幾度も訴えた。 ―悠理君、痛いの、脚が痛いの。  恐らく、あの時、女性は実里を〝悠理君〟だと思い込んでいたのだろう。そして、〝悠理君〟というのが、あの男―病院で実里に憎悪と敵意に満ちたまなざしを向けた人であることは疑いようもない。  あの男性は亡くなった被害者溝口早妃の夫だと聞いた。早妃は亡くなった当時、妊娠七ヶ月半ばで、そのときに生まれていたとしても今の医学では無事成長する可能性は大いにあった。医師団はせめて胎児か母体のどちらかでも救いたいと手を尽くしたようだが、甲斐もなく先に胎児の心拍が停止し、数十分後に母体の方も血圧が急低下し、心拍も途絶えた。


 早妃は早産の傾向はあったものの、妊娠経過は順調で、このままいけば予定日より少し早めに元気な赤児が生まれるはずだったという。  つまり、実里が早妃を撥ねなければ、早妃は今もちゃんと生きていて、彼女の胎内に宿った生命も日一日と育っていたはずなのだ。 ―許してください。  何度詫びても、到底、気の済むはずもなかった。事故の数日後に行われた警察の事情聴取では、警察はどちらかといえば、実里の方に同情的だった。 ―まあねえ。不幸な事故だと思うしかないな。目撃者もちゃんといることだし、入倉さんの方に落ち度はないわけだから。まあ、こんなことはここだけの話だけど、あんたも傍迷惑だったよねえ。夜道でただでさえ視界もきかないのに、いきなり飛び出てこられたら、びっくりするよ。  型どおりの話をしただけで、実里はその日の中には自由になれた。その日も既に聞かされていたが、後日、更に連絡があり、裏も取れたことだし、実里が罪に問われることはないということだった。  実里は溝口早妃の葬儀には参列しなかった。というより、できなかったのだ。過度の精神的ショックで翌朝から高熱を発してベッドに寝たきりで数日間を過ごす羽目になった。確か早妃の葬式は若夫婦の暮らしていたアパートからほど近い会館で行われると聞いていたから、絶対に行くつもりだったのだけれど。  漸く熱も下がり、何とか聴取を受けられるまでに回復したときには、既に葬儀は終わっていた。  実里の懊悩は深かった。たとえ警察で〝不幸な事故〟と言われても、それで納得はできなかった。自分のせいで人ふたりの生命が失われたということをそう容易く忘れて良いものではないし、また忘れられるものではない。


 プップー。クラクションの音がけたたましく鳴り響き、実里はハッと顔を上げた。今、実里は会社から出てきたところだ。十階建ての近代的なビルは高層建築の見当たらないこの町では結構目立つ。丁度、会社の前が大きな交差点になっていて、大通りは行き交う車が絶えなかった。  横断歩道の手前でつい物想いに耽ってしまっていたのだが、どうやら信号が青になったようである。実里は意を決して歩き出そうとしたその時。 ――ね、死ね。  声が突如として耳奥で響いた。 ―死ね、死ね。  実里は忌まわしいものを振り払うように、烈しく首を振った。 ―シネ、シネ、オマエナンカ、シンデシマエバイイ。  だが、幻の声は幾ら首を振っても、いっかな消えない。  実里の身体がユラリと傾いだ。ふらふらと何ものかにいざなわれるかのように車道へと近づいてゆく。  と、先刻より更に烈しいクラクションの音が耳をつんざいた。 「危ねえじゃないか、こん畜生、死にてぇのか!」  我に返ると、実里は横断歩道のほぼ中央に立ち尽くしていた。信号は赤だ。青になったと思って歩き出したのだけれど、勘違いしてしまったのだろうか。  実里の前すれすれのきわどいところを大型トラックが噴煙を巻き上げながら猛スピードで走り去ってゆく。どうやら、先刻の罵声はその蒼いトラックの運転手が投げたものらしかった。  実里は茫然として小さくなってゆくトラックを見送った。そして、そこに突っ立っていたのでは余計に危ないことに気づき、慌てて引き返した。


 歩道には長方形のフラワーポットが何個か置いてあり、紫陽花が植わっている。まだ青々とした葉を茂らせているだけで、花は見当たらない。  何台かの車がやはり唸りを上げて眼前を通り過ぎた後、やっと信号が変わった。今度こそ青だ。実里は確認してから、横断歩道を渡り始めた。  向こう側からもこちらに向かって歩いてくる人がいる。最初は逆光になってよく見えなかったが、やがて、その人物がはっきりと見て取れた。丈長の薄いブルーと紫のストライプのシャツに、インディゴブルーのジーンズに包まれた両脚は日本人には珍しいくらい長い。茶色がかった長めの前髪の間からかいま見える端正な風貌は、溝口早妃の夫悠理に相違なかった。  何を言えば良いのか判らないまま、頭を垂れると、いきなり腕を掴まれた。声を上げる間もなく引きずられるようにして後戻りする。  背後には数分前に出てきたばかりの会社のビルが聳え立っていた。悠理は何をするのかと思えば、また突然、実里の身体を突き放した。勢いで実里の小柄な身体は脇へ飛び、よろめいて尻餅をついた。無様な格好の彼女を、悠理は腕組みなどし睥睨している。 「結構なところに勤めてるんだな。ここの会社、良いとこの坊ちゃん嬢ちゃんしかコネで入れないんだって?」  そんなのは言いがかりだ。現に実里はちゃんと試験を受けて採用されたし、遠縁の端々まで探し回っても、ここの会社に縁の人はいない。  実里は座り込んだまま、無表情に悠理を見上げた。 「ところで、そんな格好のままじゃ、中が見えてるんだけど?」  最初は何のことか判らず、やっと彼の意図が判った。スーツのスカート丈が膝少し上なので、姿勢によっては下着がちら見えしてしまうことがあるのだ。



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