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「何ともやり切れない話だな。世の中の連中は俺たちのようにホストしてるヤツを白い眼で見るけど、実は真っ当に生きてるいかにも真面目そうな男がそんな風に大人しい顔の下に世にも怖ろしい本性を隠してるってこともある。誰も想像もしないだろうよ」  柊は首を振ると、嘆息した。 「早妃さんがお前に出逢って不幸だったなんて、頼むから、そんな馬鹿げたことを考えないでくれ。彼女は間違いなく幸せだったはずだ。早妃さんにとって悠理は最後の男で、お前にとっては早妃さんは最高の女だろう? それが幸せじゃなくて、何なんだ」  悠理はうつむいた。 「柊、俺だって判ってるさ。早妃なら、俺が彼女の死から立ち直り、先へ向かって進むことを望むだろう。あいつは、そういう女だ。けど、このままでは俺はどうしても納得できない。早妃を殺して何の償いもしなくても良いというあの女を許せないんだ」 「おい、何を馬鹿げたことを言っている。目撃者だっているのに、これ以上、何をどうするというんだ。考えてみれば、彼女も今回の事故の犠牲者の一人だぞ? 人ひとりを轢いたという大きな罪の意識を背負って生きていかなきゃならないんだ。それがどれほど過酷なことか、お前にだって判るだろうが」 「あの女に人並みの良心があればね。柊も言ったじゃないか。いかにも真面目そうな男が実は世間から隠避されている俺らみたいな人種よりも怖いって。女だって、同じだ。あんな、苦労なんてしたこともないようなお嬢さまが実際にはあばずれだったり、良心の欠片(かけら)もないヤツだったりするんだ」  悠理が唾棄するように言うと、柊が眉をひそめた。 「そんな言い方するなんて、お前らしくないぞ、悠理。彼女、そんな風には見えなかったじゃないか。ごく普通の子だよ」  悠理の唇が皮肉げに歪んだ。


「まさか、あの女に惚れたのか? そう言えば、最初から柊は、あいつの肩ばかり持ってるもんな」 「馬鹿も休み休み言え。幾ら長年の付き合いのお前でも許さないぞ? 彼女とは事故のあった当日、初めて逢ったばかりだし、ましてや、あんな状況で惚れるも何もあるもんか。そんなことまで考えるなんて、悠理、お前はどうかしてるんじゃないのか?」 「そうかもな」  悠理は自棄のように頷き、立ち上がった。ふらつく脚で部屋を横切り、隣の小さな板敷きのスペースに行く。そこが流し場のあるスペースで、いわば台所の役割を果たしていた。二人が暮らしたのは、この六畳の和室と三畳ほどの板の間二つきりの木造平屋建てのアパートだった。  それでも、悠理は幸せだったのだ。早妃さえ、側にいてくれれば。  悠理は小さな冷蔵庫を開け、新しい缶ビールを取り出す。そのままプルタブを引き抜き、一気のみしようとしたところを脇から柊が奪い取った。 「良い加減にしろッ。まだ俺の言いたいことが判らないのか」 「返せよ」  悠理がビールを取り戻そうとして、勢い余って、缶が吹っ飛んだ。その拍子に柊の顔にまともにビールが飛び散り、彼は顔から身体からビールの洗礼を受けることになった。  素直に詫びる気にもなれず、悠理はプイと横を向いた。  柊は哀しげな眼で悠理を見た。 「今日のところは帰るよ。だが、俺が今日、お前に話したことをもう一度、よく考えてみてくれ」  ドアが閉まる音が聞こえ、悠理は両手で髪を掻きむしった。  事故のあった日から、既に十日が過ぎていた。早妃の葬式は近くの会館で簡略に済ませた。


 柊はあの女を庇うが、あいつは葬式にすら顔を出さなかった。本当に済まないと良心の咎めを感じているならば、葬式くらいは顔を出すはずだ。来なかったということからも、あの女が今回の事故に対して、さほど何も感じてはいないことが知れる。  恐らく上手く罪を逃れられたので、とうに忘れているのだろう。まあ、来たとしても、俺が追い返してやっただろうが。  柊の話では、とうにあの女の取り調べも終わり、事件はひと段落しているようだ。  そうやって、事故は忘れ去られてゆく。身重の女が一人、車に撥ねられて死んでしまったことなど、世間はなかったことのように直に忘れてしまうのだ。  だが、そうはさせるものか。  悠理は固く唇を引き結び、真正面を見据えた。  たとえ誰が忘れても、この俺は忘れない。早妃は俺の宝だった。俺の宝を突然、奪ったあの女―、名前すら知らないあの女を誰も咎めないというのなら、天に変わって、俺があの女に鉄槌を下してやる。  そう、裁くのは天でもなく警察でもなく、この俺だ。早妃が味わった苦しみを倍にして、あの女に味合わせてやるのだ。  復讐を遂げなければ、俺は始まらない。早妃を失った後の人生を始めることなどできはしない。  なあ、柊。本気で俺を心配してくれるお前には悪いが、俺は自分の思うようにするさ。  悠理はクックッと低い声で笑った。  忘れようとしても、忘れさせるものか。  その双眸の奥に蒼白い復讐の焔が閃いた。    実里は空を振り仰ぎ、小さく身を震わせた。  こんな空模様は嫌いだ。まるで今にも泣き出しそうな空は低く垂れ込め、グレーの絵の具一色に塗りつぶされた画用紙のようだ。  時折、薄陽がベールのような雲間から細く差し込みはするものの、空の色は明らかに不穏な兆候を示しつつある。


 もっとも、曇り空を嫌いになったのは、つい最近のことである。いや、もっと正しくいえば、曇りが嫌なのではなく、曇り空の次に来るもの―雨が嫌いなのだ。  雨の日はとても怖ろしく嫌なことを思い出させる。真っ暗な夜道をふらふらと漂うように歩いていた白い服の女。その女に実里の運転する車がぶつかって―。  実里は両手で顔を覆った。ああ、誰でも良いから、この底なしの暗闇から救い出して欲しい。あの女性が亡くなる前、一瞬、脳裏に思い浮かべたことは嘘ではなかった。こんな想いをするほどなら、自分が代わりに死んでいれば良かった。  この手で、私は人を殺したのだ。たとえ直接に手を下してはいなくても、悪意はなかったとしても、自分のせいで一人の女性が死んだ。しかも、彼女はその身に新しい生命を宿していた。つまり、実里は二人の生命を奪ったことになる。  実里の瞼であの日の凄惨な光景がフラッシュ・バックする。路上に倒れ伏していた白いワンピースの女が大きくクローズ・アップされる。まるで棒切れか何かのように道に転がっていた。濡れた髪が白い服に張り付いて―。 ―赤ちゃん、赤ちゃんが、お腹に。  ただひと言、落とした呟き。  場面は変わり、救急車の中で女性は実里の手を握りしめて、幾度も訴えた。 ―悠理君、痛いの、脚が痛いの。  恐らく、あの時、女性は実里を〝悠理君〟だと思い込んでいたのだろう。そして、〝悠理君〟というのが、あの男―病院で実里に憎悪と敵意に満ちたまなざしを向けた人であることは疑いようもない。  あの男性は亡くなった被害者溝口早妃の夫だと聞いた。早妃は亡くなった当時、妊娠七ヶ月半ばで、そのときに生まれていたとしても今の医学では無事成長する可能性は大いにあった。医師団はせめて胎児か母体のどちらかでも救いたいと手を尽くしたようだが、甲斐もなく先に胎児の心拍が停止し、数十分後に母体の方も血圧が急低下し、心拍も途絶えた。


 早妃は早産の傾向はあったものの、妊娠経過は順調で、このままいけば予定日より少し早めに元気な赤児が生まれるはずだったという。  つまり、実里が早妃を撥ねなければ、早妃は今もちゃんと生きていて、彼女の胎内に宿った生命も日一日と育っていたはずなのだ。 ―許してください。  何度詫びても、到底、気の済むはずもなかった。事故の数日後に行われた警察の事情聴取では、警察はどちらかといえば、実里の方に同情的だった。 ―まあねえ。不幸な事故だと思うしかないな。目撃者もちゃんといることだし、入倉さんの方に落ち度はないわけだから。まあ、こんなことはここだけの話だけど、あんたも傍迷惑だったよねえ。夜道でただでさえ視界もきかないのに、いきなり飛び出てこられたら、びっくりするよ。  型どおりの話をしただけで、実里はその日の中には自由になれた。その日も既に聞かされていたが、後日、更に連絡があり、裏も取れたことだし、実里が罪に問われることはないということだった。  実里は溝口早妃の葬儀には参列しなかった。というより、できなかったのだ。過度の精神的ショックで翌朝から高熱を発してベッドに寝たきりで数日間を過ごす羽目になった。確か早妃の葬式は若夫婦の暮らしていたアパートからほど近い会館で行われると聞いていたから、絶対に行くつもりだったのだけれど。  漸く熱も下がり、何とか聴取を受けられるまでに回復したときには、既に葬儀は終わっていた。  実里の懊悩は深かった。たとえ警察で〝不幸な事故〟と言われても、それで納得はできなかった。自分のせいで人ふたりの生命が失われたということをそう容易く忘れて良いものではないし、また忘れられるものではない。



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