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「早妃が―俺を?」  衝撃に心臓が止まりそうになる。 「悠理、あの日は傘を持たずに家を出ただろ? だから、彼女は気になって仕方なかった。お前のことが心配で仕方なかったから、傘二つを持ってアパートを出たんだ。それで、あの事故が起きた」  悠理はしばらくの間、言葉を上手く発せられなかった。様々な想いが一挙に溢れ出て、言葉にならない。  そんな悠理を痛ましげに見つめ、柊が言い添える。 「あの日の夕方、六時四十分頃に、アパートの管理人さんが早妃さんに逢ってる。ビニール傘を二つ大切そうに抱えていたと警察に証言したそうだよ。そんな身体でどこに行くのか、寝てなくちゃ駄目じゃないのかと言ったら、笑って言ったらしい」 ―これから主人を迎えに行ってきます。こんな雨では困ってると思うんで。  そのひと言が悠理の胸を鋭く刺し貫いた。  ああ、何てこった。それなら、早妃を殺したのは、彼女を撥ねたあの女だけじゃない、俺だって、その原因になってるってことじゃないか! 「馬鹿だな、ホント、馬鹿だよ、あいつ。店の近くにはコンビニもあるし、傘なんて今時買おうと思えば、どこでも買えるのに」  悠理の声が戦慄(わなな)いた。 「早妃さんにとって、お前はそれだけ大切な人だったんだよ、悠理」  ああ、そうだったよ。早妃、俺にとっても、お前は世界一の女だった。俺の女神だったんだ。  悠理の眼から涙が流れ落ちた。 「こんなことを言えば、お前はまた俺が所詮は他人事だから言うとそっぽを向くかもしれないが、悠理、早妃さんは短い一生だったが、幸せに精一杯生きたと思うぞ。お前に出逢って、二人で暮らしたのが彼女の十九年の生涯でいちばん幸せな時期だったんじゃないのかな」


 三歳で父親に棄てられ、母親は早妃が七歳のときに再婚した。その義父は見かけは大人しい平凡な会社員だったが、酔うと別人のようになるという典型的な酒癖の悪いパターンであった。  早妃が十三歳の時、酔って帰宅した義父が早妃の勉強部屋を訪れ、既に寝ていた早妃を無理に起こしてレイプした。以来、酔うと似たようなことを繰り返した。母親は途中からは気づいてはいたが、知らん顔をしていた。  既に一度男に棄てられた身で、また棄てられるのが怖かったのだ。悪い人ではなかったけれど、いつも亭主の顔色ばかり窺うおどおどした女だった。  ついに早妃は耐えられず、十五歳で家を飛び出した。それからの転落は早かった。繁華街をあてもなく歩いているところを風俗の店にスカウトされ、中学も止めて風俗嬢の道に入る。以来、幾つかの店を転々とし、流れ着いたのが悠理と出逢った頃に勤めていたキャバクラだった。  けして幸福とも恵まれているともいえない短い生涯であった。悠理との同棲生活は三年に及んだ。 「幸せ、だったのかな」  早妃のあまりにも短い人生を考えると、今更ながらに早妃が不憫でならない。  俺は早妃に一体、何をしてやれただろう?  俺と出逢わなければ、あいつが死ぬことはなかったかもしれないのに。 「酷い話だよな。義理とはいえ父親にずっと好き放題にされてきたんだよ。あいつの人生を皆で寄ってたかって踏みにじったんだ。もしかしたら、俺もその一人だったかもしれない」  今まで早妃の体面に拘わるからと柊にさえ話したことのないスキャンダル。流石にこの話には柊も衝撃を隠せなかったようだ。


「何ともやり切れない話だな。世の中の連中は俺たちのようにホストしてるヤツを白い眼で見るけど、実は真っ当に生きてるいかにも真面目そうな男がそんな風に大人しい顔の下に世にも怖ろしい本性を隠してるってこともある。誰も想像もしないだろうよ」  柊は首を振ると、嘆息した。 「早妃さんがお前に出逢って不幸だったなんて、頼むから、そんな馬鹿げたことを考えないでくれ。彼女は間違いなく幸せだったはずだ。早妃さんにとって悠理は最後の男で、お前にとっては早妃さんは最高の女だろう? それが幸せじゃなくて、何なんだ」  悠理はうつむいた。 「柊、俺だって判ってるさ。早妃なら、俺が彼女の死から立ち直り、先へ向かって進むことを望むだろう。あいつは、そういう女だ。けど、このままでは俺はどうしても納得できない。早妃を殺して何の償いもしなくても良いというあの女を許せないんだ」 「おい、何を馬鹿げたことを言っている。目撃者だっているのに、これ以上、何をどうするというんだ。考えてみれば、彼女も今回の事故の犠牲者の一人だぞ? 人ひとりを轢いたという大きな罪の意識を背負って生きていかなきゃならないんだ。それがどれほど過酷なことか、お前にだって判るだろうが」 「あの女に人並みの良心があればね。柊も言ったじゃないか。いかにも真面目そうな男が実は世間から隠避されている俺らみたいな人種よりも怖いって。女だって、同じだ。あんな、苦労なんてしたこともないようなお嬢さまが実際にはあばずれだったり、良心の欠片(かけら)もないヤツだったりするんだ」  悠理が唾棄するように言うと、柊が眉をひそめた。 「そんな言い方するなんて、お前らしくないぞ、悠理。彼女、そんな風には見えなかったじゃないか。ごく普通の子だよ」  悠理の唇が皮肉げに歪んだ。


「まさか、あの女に惚れたのか? そう言えば、最初から柊は、あいつの肩ばかり持ってるもんな」 「馬鹿も休み休み言え。幾ら長年の付き合いのお前でも許さないぞ? 彼女とは事故のあった当日、初めて逢ったばかりだし、ましてや、あんな状況で惚れるも何もあるもんか。そんなことまで考えるなんて、悠理、お前はどうかしてるんじゃないのか?」 「そうかもな」  悠理は自棄のように頷き、立ち上がった。ふらつく脚で部屋を横切り、隣の小さな板敷きのスペースに行く。そこが流し場のあるスペースで、いわば台所の役割を果たしていた。二人が暮らしたのは、この六畳の和室と三畳ほどの板の間二つきりの木造平屋建てのアパートだった。  それでも、悠理は幸せだったのだ。早妃さえ、側にいてくれれば。  悠理は小さな冷蔵庫を開け、新しい缶ビールを取り出す。そのままプルタブを引き抜き、一気のみしようとしたところを脇から柊が奪い取った。 「良い加減にしろッ。まだ俺の言いたいことが判らないのか」 「返せよ」  悠理がビールを取り戻そうとして、勢い余って、缶が吹っ飛んだ。その拍子に柊の顔にまともにビールが飛び散り、彼は顔から身体からビールの洗礼を受けることになった。  素直に詫びる気にもなれず、悠理はプイと横を向いた。  柊は哀しげな眼で悠理を見た。 「今日のところは帰るよ。だが、俺が今日、お前に話したことをもう一度、よく考えてみてくれ」  ドアが閉まる音が聞こえ、悠理は両手で髪を掻きむしった。  事故のあった日から、既に十日が過ぎていた。早妃の葬式は近くの会館で簡略に済ませた。


 柊はあの女を庇うが、あいつは葬式にすら顔を出さなかった。本当に済まないと良心の咎めを感じているならば、葬式くらいは顔を出すはずだ。来なかったということからも、あの女が今回の事故に対して、さほど何も感じてはいないことが知れる。  恐らく上手く罪を逃れられたので、とうに忘れているのだろう。まあ、来たとしても、俺が追い返してやっただろうが。  柊の話では、とうにあの女の取り調べも終わり、事件はひと段落しているようだ。  そうやって、事故は忘れ去られてゆく。身重の女が一人、車に撥ねられて死んでしまったことなど、世間はなかったことのように直に忘れてしまうのだ。  だが、そうはさせるものか。  悠理は固く唇を引き結び、真正面を見据えた。  たとえ誰が忘れても、この俺は忘れない。早妃は俺の宝だった。俺の宝を突然、奪ったあの女―、名前すら知らないあの女を誰も咎めないというのなら、天に変わって、俺があの女に鉄槌を下してやる。  そう、裁くのは天でもなく警察でもなく、この俺だ。早妃が味わった苦しみを倍にして、あの女に味合わせてやるのだ。  復讐を遂げなければ、俺は始まらない。早妃を失った後の人生を始めることなどできはしない。  なあ、柊。本気で俺を心配してくれるお前には悪いが、俺は自分の思うようにするさ。  悠理はクックッと低い声で笑った。  忘れようとしても、忘れさせるものか。  その双眸の奥に蒼白い復讐の焔が閃いた。    実里は空を振り仰ぎ、小さく身を震わせた。  こんな空模様は嫌いだ。まるで今にも泣き出しそうな空は低く垂れ込め、グレーの絵の具一色に塗りつぶされた画用紙のようだ。  時折、薄陽がベールのような雲間から細く差し込みはするものの、空の色は明らかに不穏な兆候を示しつつある。



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