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「それは所詮、お前にとっては他人事だからさ。早妃は俺の女であって、お前には拘わりのない赤の他人だもんな。だから、そんなに綺麗事ばかりが言えるんだ」 「良い加減にしろよ、悠理」  柊を拒むかのようにそっぽを向いた悠理に、柊がついに声を荒げた。 「俺が早妃さんを他人だと思っていたって? よくそんなことが言えるもんだな。俺にとっちゃア、悠理は弟分、早妃さんは弟の嫁さんくらいに思ってたんだぜ。あんな良い娘(こ)がこんな風に死んじゃいけない、死んで良いはずがないって想いは俺も同じだ。だがな、悠理、早妃さんの死を乗り越えなきゃ、お前は前には進めないぞ? そうやって、いつまでもうじうじと内に閉じこもっていても、前には進めないだろうが。世の中には乗り越えたくなくても乗り越えなくてはいけないことがあるし、認めたくなくても認めなくちゃいけないことがあるんだ」 「ああ、お前の言うとおりだ。確かに早妃が死んだ時、俺の人生の時間は止まった」  悠理がうつむくのに、柊はすかさず言った。 「だからこそだ、その止まった時間をもう一度、流れ始めるようにするには早妃さんの死という大きな試練を乗り越えなくてはならない。それくらいは悠理にだって判るだろう」  短い沈黙が流れた。悠理は唇を噛みしめた。 「俺は始まらないし、始めるつもりもない。柊、一つだけ教えてくれ。早妃の方が道に飛び出したというのなら、あの女は無罪なのか? 人ひとりをひき殺して、のうのうとこれからも陽の当たる道を歩けるのか?」 「目撃者までいるからには、何らかの罪に問われるとは考えにくいだろうな」  柊が考え深げに言う。悠理は更に唇を強く噛んだ。あまりに強く噛んだために、口の中に鉄錆びた味がひろがる。口の中が切れたのかもしれない。


 俺の、俺の早妃が死んだっていうのに、あの女には何も罪を償う必要がないというのか?  悠理の心に烈しい憎しみと怒りが燃え上がる。だが、悠理にはもう一つ疑問が残っていた。 「どうして早妃はあんな時間にあそこをうろついていたんだろう」  疑問がそのまま口に出てしまった。  それは悠理が最初から感じていたものではあった。事故が起こったのは午後七時を回った、かなり遅い時刻である。当日は雨が降っており、桜の季節とはいえ、流石に夜も七時ともなれば周囲は闇に包まれていた。  早妃の方が飛び出してきたという話が事実だとして、雨のせいで道は滑りやすくなり、ブレーキをかけても停車しにくい状況であったはずだ。おまけに、雨と暗闇のせいで、視界はきかず、車の中から前方を見るのは晴れているときよりも格段に難しい。  あの界隈は静かな住宅街で、昼間ですら人通りはない。ましてや、あの時間帯に目撃者がいたとすれば、あの女はよほどの幸運に恵まれていたと見える。見通しの悪い狭い道に所々、ポツンと街灯が立っているだけで殆ど明かりらしいものはない淋しい場所だ。  認めたくはないが、すべてが事故の起こりやすい状況であった。そんな時間に何故、早妃があの現場にいたのか? 早妃は妊娠中であり、切迫早産でずっと自宅安静をしていたというのに。本来ならば、早妃があそこにいたということ自体が解せないのだ。  悠理の疑問は直に解消された。  悶々とする悠理の耳を、柊の静かな声が打った。 「そのこともちゃんと警察は調べ上げてたよ」  悠理がハッと顔を上げた。柊は大きく頷いた。 「早妃さんはお前を迎えに行こうとしていたんだ」


「早妃が―俺を?」  衝撃に心臓が止まりそうになる。 「悠理、あの日は傘を持たずに家を出ただろ? だから、彼女は気になって仕方なかった。お前のことが心配で仕方なかったから、傘二つを持ってアパートを出たんだ。それで、あの事故が起きた」  悠理はしばらくの間、言葉を上手く発せられなかった。様々な想いが一挙に溢れ出て、言葉にならない。  そんな悠理を痛ましげに見つめ、柊が言い添える。 「あの日の夕方、六時四十分頃に、アパートの管理人さんが早妃さんに逢ってる。ビニール傘を二つ大切そうに抱えていたと警察に証言したそうだよ。そんな身体でどこに行くのか、寝てなくちゃ駄目じゃないのかと言ったら、笑って言ったらしい」 ―これから主人を迎えに行ってきます。こんな雨では困ってると思うんで。  そのひと言が悠理の胸を鋭く刺し貫いた。  ああ、何てこった。それなら、早妃を殺したのは、彼女を撥ねたあの女だけじゃない、俺だって、その原因になってるってことじゃないか! 「馬鹿だな、ホント、馬鹿だよ、あいつ。店の近くにはコンビニもあるし、傘なんて今時買おうと思えば、どこでも買えるのに」  悠理の声が戦慄(わなな)いた。 「早妃さんにとって、お前はそれだけ大切な人だったんだよ、悠理」  ああ、そうだったよ。早妃、俺にとっても、お前は世界一の女だった。俺の女神だったんだ。  悠理の眼から涙が流れ落ちた。 「こんなことを言えば、お前はまた俺が所詮は他人事だから言うとそっぽを向くかもしれないが、悠理、早妃さんは短い一生だったが、幸せに精一杯生きたと思うぞ。お前に出逢って、二人で暮らしたのが彼女の十九年の生涯でいちばん幸せな時期だったんじゃないのかな」


 三歳で父親に棄てられ、母親は早妃が七歳のときに再婚した。その義父は見かけは大人しい平凡な会社員だったが、酔うと別人のようになるという典型的な酒癖の悪いパターンであった。  早妃が十三歳の時、酔って帰宅した義父が早妃の勉強部屋を訪れ、既に寝ていた早妃を無理に起こしてレイプした。以来、酔うと似たようなことを繰り返した。母親は途中からは気づいてはいたが、知らん顔をしていた。  既に一度男に棄てられた身で、また棄てられるのが怖かったのだ。悪い人ではなかったけれど、いつも亭主の顔色ばかり窺うおどおどした女だった。  ついに早妃は耐えられず、十五歳で家を飛び出した。それからの転落は早かった。繁華街をあてもなく歩いているところを風俗の店にスカウトされ、中学も止めて風俗嬢の道に入る。以来、幾つかの店を転々とし、流れ着いたのが悠理と出逢った頃に勤めていたキャバクラだった。  けして幸福とも恵まれているともいえない短い生涯であった。悠理との同棲生活は三年に及んだ。 「幸せ、だったのかな」  早妃のあまりにも短い人生を考えると、今更ながらに早妃が不憫でならない。  俺は早妃に一体、何をしてやれただろう?  俺と出逢わなければ、あいつが死ぬことはなかったかもしれないのに。 「酷い話だよな。義理とはいえ父親にずっと好き放題にされてきたんだよ。あいつの人生を皆で寄ってたかって踏みにじったんだ。もしかしたら、俺もその一人だったかもしれない」  今まで早妃の体面に拘わるからと柊にさえ話したことのないスキャンダル。流石にこの話には柊も衝撃を隠せなかったようだ。


「何ともやり切れない話だな。世の中の連中は俺たちのようにホストしてるヤツを白い眼で見るけど、実は真っ当に生きてるいかにも真面目そうな男がそんな風に大人しい顔の下に世にも怖ろしい本性を隠してるってこともある。誰も想像もしないだろうよ」  柊は首を振ると、嘆息した。 「早妃さんがお前に出逢って不幸だったなんて、頼むから、そんな馬鹿げたことを考えないでくれ。彼女は間違いなく幸せだったはずだ。早妃さんにとって悠理は最後の男で、お前にとっては早妃さんは最高の女だろう? それが幸せじゃなくて、何なんだ」  悠理はうつむいた。 「柊、俺だって判ってるさ。早妃なら、俺が彼女の死から立ち直り、先へ向かって進むことを望むだろう。あいつは、そういう女だ。けど、このままでは俺はどうしても納得できない。早妃を殺して何の償いもしなくても良いというあの女を許せないんだ」 「おい、何を馬鹿げたことを言っている。目撃者だっているのに、これ以上、何をどうするというんだ。考えてみれば、彼女も今回の事故の犠牲者の一人だぞ? 人ひとりを轢いたという大きな罪の意識を背負って生きていかなきゃならないんだ。それがどれほど過酷なことか、お前にだって判るだろうが」 「あの女に人並みの良心があればね。柊も言ったじゃないか。いかにも真面目そうな男が実は世間から隠避されている俺らみたいな人種よりも怖いって。女だって、同じだ。あんな、苦労なんてしたこともないようなお嬢さまが実際にはあばずれだったり、良心の欠片(かけら)もないヤツだったりするんだ」  悠理が唾棄するように言うと、柊が眉をひそめた。 「そんな言い方するなんて、お前らしくないぞ、悠理。彼女、そんな風には見えなかったじゃないか。ごく普通の子だよ」  悠理の唇が皮肉げに歪んだ。



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