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 ♯Vengeance(復讐)♯

 誰かが呼んでいる。  おい、あの声は誰の声だ?  悠理は儚い期待に胸を震わせたが、やがて、それはすぐに水の泡のように消え去った。  違う、あれは早妃の声じゃない。男の声だ。  煩いな、俺を起こすのは止めてくれよ。俺 はもう疲れたんだ。このままずうっと眠り続ければ、早妃や赤ん坊の許に行ける。  早妃のいないこの世界に何の未練があるっていうんだ?  なあ、名前を呼んでるばかりじゃなくて、教えてくれよ。早妃がいなくなったこの世界で、俺は何を支えに生きていったら良い? 「―悠理、悠理」  呼び声が次第に近くなってくる。  悠理は長い翳を落とす睫を細かく震わせ、ゆっくりと眼を見開いた。  ゆるゆると面を上げると、親友の柊の気遣わしげな顔が入った。 「大丈夫か?」  短いひと言の中に、友の無限の優しさと不安を感じ取り、悠理は無理に微笑んで見せる。 「ああ」  だが、言葉とは裏腹に少しも大丈夫ではないことは自分でも判り切っている。  現に、それを物語るように、悠理の周囲には既に空になったビール缶が散乱していた。 「これ、全部、お前が飲んだのか?」  返事をするのも億劫だったので、悠里はぞんざいに顎を引いた。  柊は呆れたと言わんばかりに肩を竦めた。 「お前なあ、幾ら酒豪っつたって、これだけ飲めば下手すれば急性アル中ものだぜ」  少なく見積もっても、ビール缶は十本近くはあった。


 悠理はフッと自嘲めいた笑みを刻む。 「それも良いかもな。いや、俺としては是非、そう願いたいよ。いっそのこと、くたばっちまえば早妃や子どもにも逢えるだろう」  柊はわざとらしい溜息をついた。 「馬鹿か、お前。良い歳をして、何でそれだけ聞き分けのない三歳児のようなことを言うつもりだ? お前が早妃さんの後を追ったから、彼女が歓ぶとでも?」  そんなことは思いやしないさ。  早妃はそんな女じゃない。むしろ、ひとり残された俺の心配をあの世とやらでしているだろうよ。  悠理は心の中で呟いた。あいつは、そういう女だった。自分よりも、いつも他人のことを気にかけているような人間だった。だから、俺はあいつに惚れたんだ。あいつの身体との相性が良いとか、今風の美人だからとか、そんな上っ面だけのものに惹かれたんじゃない。  悠理は自分でもゾッとするような昏(くら)い声で言った。 「そんなことは言われなくても判ってる」 「なら、何で早妃さんを安心させてやれない? 死んだ方がマシだなんて言うんだよ」  柊が覆い被せるように言うのに、悠理は怒鳴った。 「俺が! この俺が苦しいんだよ。苦しくて堪らないんだ。あいつのいない世界はあまりにも淋しくて空しすぎる。もう、何を目標に生きていけば良いか判らないんだ」 「悠理、気持ちは判るけど、しっかり気を持たなきゃ駄目だ」  柊が屈み込んで悠理と眼線を合わせようとして息を呑んだ。 「悠理、お前、泣いてるのか?」  悠理の頬をひとすじの涙が流れ落ちていた。悠理は無意識の中に手のひらで頬を撫でた。確かに濡れていた。  そうか、俺は泣いていたんだな。


 馬鹿みたいだが、柊に言われて初めて納得した。  どうやら、自分でも自覚のないままに涙を流していたらしい。  柊が押し黙り、小さく首を振っている。今は何を言っても無駄だと思ったのかもしれない。柊の本当の名前は柊(しゆう)路(じ)という。 ―クリスマスイブに生まれたから、この名前がついたんだ。全くロマンチックっていうか変な趣味で息子の名前つけやがってよう。  と言いながらも、実のところ、当人はこの名前を気に入っている。悠理と同じホストクラブ〝Star★Light〟に在籍するホストでもある。四年前に入店して二年目に悠理がナンバーワンになるまでは、彼が常に指名率一位を獲得していたという売れっ子だ。  確かに悠理とはまた違ったタイプだとは思う。悠理が優男なのに対して、柊は陽に焼けた精悍な風貌でワイルドという形容がふさわしい。玄関フロアの紹介パネルにはそれぞれのホストの紹介も簡略に記されており、その中に似ている芸能人、有名人という項がある。柊はそこに〝俳優松岡昌宏〟と書かれていた。  確かにTOKIOの松岡昌宏を何となく彷彿さとせる風貌ではある。性格も見かけどおり、剛胆で男らしい。その中にも不器用な男の優しさというものが見え、現在は一位の悠理、二位の十代の若いホストに次いで三位にランクインしていた。  多分、悠理とは対照的な性格だから、店のホストたちの中でも長くに渡って親友づきあいが続いたのだろう。タイプが違うから、それぞれの常連というか得意客も全く違う、その点、一人でも多くの馴染みを獲得したいと凌ぎを削るホストたちの中でライバルになることもなかった。はっきりとした歳を訊いたことはないが、多分、悠理より二つくらい上なのではないか。


「夢を見ていたんだ。もしかしたら、夢を見ながら泣いていたのかもしれない」  悠理が呟くと、柊は眼を見開いた。 「夢?」 「どこかから声が聞こえてくるんだ。俺を一生懸命探してるって感じかな。俺は辺り一面、白い霧に包まれた中を必死でそいつを探すんだけど、見つからないんだ」  柊は絶句した。  そんな友には頓着せず、悠理は熱に浮かされたように続ける。 「遠くから聞こえてくるその声は早妃に似ていた。でも、目覚めてみたら、側には柊がいて、早妃のものだと思い込んでいた声は柊の声だった」  悠理は胡座をかいた上に乗せた両手を握りしめた。 「―あいつは、どうなった?」 「あいつ?」  柊は戸惑った顔で悠理を見た。 「あいつだよ。早妃と赤ん坊を殺しやがった、あの女」  柊がまた息を呑んだ。 「おい、悠理。これはお前にちゃんと言っとかないと駄目だとは思っていたんだが、あれは不幸な事故だったんだ。お前の気持ちは判るが、彼女を逆恨みするのは止めろ」  悠理が燃えるようなまなざしで柊を射抜いた。 「逆恨みだと? 何で、そうなる? 早妃と子どもがあの女の車に撥ねられて死んだのは紛れもない真実なんだぞ」  柊は激高する悠理をというよりは、自らを落ち着かせようとするかの口調で言った。 「実は俺もあれから気になって警察に電話してみたんだ。まっ、いずれ捜査当局の方からもお前に直接、連絡はあるだろうがな。取り調べを担当した刑事がぼやいてたぜ。お前の携帯に何遍電話しても、電源が切られてるって。事故の翌日、彼女に事情聴取をしたところ、やはり、早妃さんが一方的にあの人の車の前に飛び出してきたということらしい。それとは別に行った現場検証や目撃者の証言でも裏付けは取れたそうだ」


「目撃者? そのときの様子を見てたヤツがいるのか?」  ああ、と、柊は頷いた。 「雨が小降りになったので、近くの自販機までジュースを買いに出かけた近所の大学生がいたとのことだよ。帰りに丁度、現場を通り掛かって、事故の一部始終を目撃したそうだ。彼の証言では確かに早妃さんの方が先に路上の真ん中に飛び出して、車は慌てて急ブレーキを踏んだのに間に合わなかったと」 「そんなのはデタラメだ」  悠理は低い声で言った。 「悠理、そんなはずは―」  言いかけた柊に、悠理は叫ぶ。 「お前もだ柊、何で、あんな見も知らない女をそんなに庇うんだ? お前もその目撃者とやらも警察とグルになって嘘八百を並べ立ててるんだろ」  柊の濃い男らしい眉が少しつり上がった。 「馬鹿言うなよ。何で俺が嘘を言う必要がある?」  悠理が掬い上げるような眼で柊を見た。 「なら、もし仮に真琴ちゃんが同じ目に遭ったら、どうするんだ?」  真琴というのは、柊が三ヶ月前に別れた元カノである。二年付き合って、柊はベタ惚れだったのに、真琴に同じ歳の彼氏ができて、あっさりフラレてしまったのだ。真琴は柊よりも八つも下の女子高生だった。 「―」  黙り込んだ柊をちらりと見、悠理が勝ち誇ったように言う。 「お前の大切な真琴ちゃんが早妃と同じように車に撥ねられて死んじまっても、お前はそんな物分かりの良いことが言えるのか!?」  柊はしばらく考え込んでいたかと思うと、きっぱりと言った。 「ああ、俺なら言えるね」  悠理がフと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。



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