閉じる


<<最初から読む

51 / 155ページ

 男はただ冷淡な眼で実里を睨みつけ、視線をすぐに逸らした。まるで実里をこれ以上は視界に入れたくないとでもいうように。 

  それも当然だろう。この男性にとって、自分は憎んでも憎みきれない、いや殺してやりたいほど憎い相手だろうから。  実里が続けて何か言おうとしたのと、処置室の扉が開いたのはほぼ同時のことだった。

 と、眼前の男性が弾丸のような速さで走っていった。ちょうど前に立っていた実里は男性にもろに突き飛ばされる形になった。もちろん、男性は無我夢中で、実里を突き飛ばすつもりはなかったろう。実里は勢い余ってよろけて、危うく転びそうになった。すんでのことろで踏ん張り、転ばずには済んだ。

「―大丈夫ですか?」  横から控えめな声がかけられ、実里は虚ろな視線を動かした。 見れば、妊婦の夫と思しき男と共にいた連れの男が側に来ていた。


「あいつ、今、動転しちまってるから」

 「判っています。悪いのはすべて私ですから」

 実里はうつむいた。

  白衣を着た中年の医師が出てくる。男が近寄ると、医師は看護士と同じ科白を口にした。

 「患者さんのご家族の方ですか?」

  男は幾度も頷いた。

 「はい、夫です」  やはり、実里の予測は当たっていた。  医師は気の毒そうに彼を見つめてから、静かな声音で言った。

「残念ですが、持ち堪えられませんでした。下肢を複雑骨折していて、内臓の損傷も見られましたね。出血もひどかった。死因はショック死です」  

 男が噛みつくように叫んだ。

 「子ども、子どもは? 早妃の腹には俺たちの赤ん坊がいたんだ」

 銀縁めがねの医師は眼を伏せ、かすかに首を振った。


 男がギロリとにらみ付けた。

 「あんたが早妃を殺したのか?」

 殺したのか? その一言が胸を鋭くえぐり、実里は息を吸い込んだ。

「悠理、止めろよ」

  付き添いで一緒に来た友人といったところだろうか、先刻、転びそうになった実里に声をかけてくれた男が傍らから男を止める。

 「警察の人も言ってただろ。この人だけが悪いんじゃないって。お前のかみさんの方がふらふらと車の前に飛び出していったらしいって」

 友人の科白で、男の腹立ちは最高潮に達したらしい。男は両脇に垂らした拳を握りしめた。

 「そんなのは、この女の作り話かもしれない。それに―」

 男は一瞬、何かに耐えるように眼を瞑り、すぐに開いた。

 「それに、そんなことは問題ではない。早妃はこの女の運転していた車にぶつかって死んだんだ。つまり、こいつが早妃を殺したっていうことさ」


「馬鹿言うなよ。言ってみれば、この人だって、被害者だろうが。急に人が車の前に飛び出してきて、ビビったと思うぜ」

 「貴様、一体、誰の味方だ?」

 凄みのある声で男が言い、実里を睨(ね)めつけた。

 「そうさ、お前がすべて悪いんだ。あんたが早妃を殺したんだ!」  

不意を突いて男が実里に掴みかかってきた。

 「なあ、頼むから返してくれよ。あいつの腹には赤ん坊がいたんだぞ? あと三月(みつき)もしたら生まれるはずだったんだ。なあ、お願いだから、早妃と赤ん坊を返してくれよ」  

 男は実里の胸倉を掴み、烈しく揺さぶった。揺さぶられるままに、実里の身体ががくがく と動く。意思のないマリオネットのように小柄な身体が揺れても、実里はただ相手のなされるままになっていた。

「おい、止せ」  

 友人が見かねて男を止めに入り、なりゆきを見守っていた看護士二人も色を変えた。  最後に処置室から出てきたもう一人の若い医師が駆け寄ってきて、男の片腕を掴んだ。

「離せよ、こいつを殺してやる。早妃の代わりに、俺がこいつを地獄に送ってやる」  男は手負いの獣のように烈しく暴れた。

 「何をしているんですか! 止めて下さい。哀しみが大きいのは理解できますが、ここは病院ですよ。気を確かに持って下さい」

 若い医師の声が深夜の深閑とした病院に響き渡った。

  ついに友人に後ろから羽交い締めにされ、男は抵抗を止めた。

 「悠理。そんなことしたら、早妃さんがかえって哀しむぞ? なあ、早く家に連れて帰ってやろうや。早妃さんも帰りたいってきっと思ってるだろうからな。ここは暗いし寒すぎる」


 友人が宥めるように言い聞かせ、男はがっくりと肩を落とした。 「早妃、早妃―」  悠理というのが男の名前なのだろう。男は女性の亡骸にくずおれるように取り縋った。  心を引き裂くような咆哮が洩れ、男性が早妃と呼ぶ妻の頬に頬ずりしながら号泣する。到底、見ていられない光景だ。  悠理から手を放した友人が実里に小声で言った。 「もうここは良いですから、帰って下さい」  でも、と言いかけて、実里は口をつぐんだ。確かに彼の言うとおりだ。実里がここにいても、何の意味もなく、ただ嘆き哀しむ人が怒りと憎しみを余計に募らせるだけだ。 「明日は君も取り調べがあるんだろう? 早く帰って休んだ方が良い」  被害者の夫側の人なのに、実里には好意的に接してくれるのは涙が出るほどありがたかった。 「それでは、これで失礼します。何か私にできることがあれば、何なりとおっしゃって下さい」  実里は彼にも頭を下げ、踵を返した。実のところ、自分にできることなど何一つないと判っていた。自分という存在は、あの悠理という男や亡くなった妻に対しては、ただ厭わしい存在であるだけ。  自分がこれほど無力で惨めに、罪深く思えたことはなかった。病院の前でタクシーを拾う。後部座席のシートに深々と背をもたれかけさせた時、改めて、涙が滲んできた。  一体、自分は何ということをしでかしてしまったのか。 ―早妃、早妃ィ。  妻を呼ぶ男の声が今も耳奥に灼きついて離れない。  続いてフィルムを再現するかのように、息絶えた妊婦に取り縋って泣く男の姿がフラッシュ・バックした。  実里は両手で顔を覆い、低い嗚咽を漏らした。タクシーの初老の運転手がちらと振り返り、後は何も見なかったように運転してくれたことも全く気づかないでいた。



読者登録

megumi33さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について