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―失礼ですが、ご家族の方ですか?

―いいえ。私が車であの人を撥ねてしまったんです。

 実里の言葉に、看護士は同情とも哀れみともつかない視線を投げてから、去っていった。 その中にちらりと咎めるようなものが混じっていたのは当然だろう。既に警察にも連絡は行き、現場にも来ていたが、取り調べは明日以降になるだろうと聞かされている。

 実里と言葉を交わした警察官は逃亡の怖れもないと判断したのだろう。訊ねるだけのことを訊ねると、後は淡々と現場検証を行っていた。

―まだ詳しく状況を調べてみなければ何とも言えませんが、あなたのお話が真実であるとすれば、非はあなたにではなく、むしろ急に路上に飛び出してきた被害者の方にあるようです。ですから、あなたが責任を問われることはないでしょう。

 三十過ぎの警察官はかえって実里に同情を抱いている様子であった。


 しかし、今更、責任の所在は実里にとっては取るに足りないことだった。仮にこの生命と引き替えに、あの女性の生命が助かるものならば死ぬことも厭わない。自分のために、他の誰かの生命が失われるなんて、考えただけでも耐えられなかった。

 リノリウムの白っぽい病院の廊下を白色蛍光灯がぼんやりと照らし出していた。夜の病院ほど無機質で不安を湛えた場所はない。  殊にそこが救急病棟であるだけに、雰囲気はいっそう重く沈んでいるように見える。

 座り心地の良くない固い長椅子がぽつんと放り出されているように廊下に置かれていた。実里はその椅子にもう一時間半も座り続けているのだった。

 そのときだった。

  薄気味悪いほど静まり返っていた夜の病院には不似合いな足音が聞こえた。廊下を駆けてくる足音は真っすぐに近づいてくる。実里は無意識の中に、その足音に身体をかすかに震わせた。


 それはやがて実里を見舞うことになるであろう運命の迫り来る足音だったかもしれない。やがて足音がぴたりと止んだ。  実里は弾かれたように顔を上げた。視線の先に、一人の男が佇んでいた。無機質な光が照らし出す男の顔は硬く強ばり、この世のすべてを拒絶しているように頑なに見えた。

  実里は咄嗟に立ち上がり、深々と頭を下げた。何も訊かなくとも判る。この男はあの妊婦の縁(ゆかり)の人、恐らくは近しい関係にある人だ。年の頃から見れば、夫だろう。

 後から彼の影のようにひっそりと現れたのは、やはり男と同じ年頃の男性だ。こちらは沈痛な面持ちではあっても、先の男性よりは切迫感が感じられない。やはり、先に駆け込んできた男性の方が妊婦の夫に違いない。

「この度は本当に申し訳ないことをしてしまいまして、何とお詫びを申し上げて良いものか判りません」

  申し訳ありませんでした。

 実里は更に消え入るような声で繰り返した。謝って済む問題ではないのは承知しているが、今はただ頭を下げるしかなかった。


 男はただ冷淡な眼で実里を睨みつけ、視線をすぐに逸らした。まるで実里をこれ以上は視界に入れたくないとでもいうように。 

  それも当然だろう。この男性にとって、自分は憎んでも憎みきれない、いや殺してやりたいほど憎い相手だろうから。  実里が続けて何か言おうとしたのと、処置室の扉が開いたのはほぼ同時のことだった。

 と、眼前の男性が弾丸のような速さで走っていった。ちょうど前に立っていた実里は男性にもろに突き飛ばされる形になった。もちろん、男性は無我夢中で、実里を突き飛ばすつもりはなかったろう。実里は勢い余ってよろけて、危うく転びそうになった。すんでのことろで踏ん張り、転ばずには済んだ。

「―大丈夫ですか?」  横から控えめな声がかけられ、実里は虚ろな視線を動かした。 見れば、妊婦の夫と思しき男と共にいた連れの男が側に来ていた。


「あいつ、今、動転しちまってるから」

 「判っています。悪いのはすべて私ですから」

 実里はうつむいた。

  白衣を着た中年の医師が出てくる。男が近寄ると、医師は看護士と同じ科白を口にした。

 「患者さんのご家族の方ですか?」

  男は幾度も頷いた。

 「はい、夫です」  やはり、実里の予測は当たっていた。  医師は気の毒そうに彼を見つめてから、静かな声音で言った。

「残念ですが、持ち堪えられませんでした。下肢を複雑骨折していて、内臓の損傷も見られましたね。出血もひどかった。死因はショック死です」  

 男が噛みつくように叫んだ。

 「子ども、子どもは? 早妃の腹には俺たちの赤ん坊がいたんだ」

 銀縁めがねの医師は眼を伏せ、かすかに首を振った。



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