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 と、女性がわずかに身体を動かした。

 ―良かった、生きている!

 神に感謝しながら、実里は女性の顔許に近寄った。女性が顔を少し動かし、持ち上げたからだ。

 「大丈夫ですか? 私の声が聞こえますか?」  

実里が問うと、女性はかすかに頷いた―ように見えた。

 「お腹に、お腹に」

 か細い声で呟くので、なかなか聞き取れなかったが、やっと何回めかに聞き取れた。

 「お腹に―赤ちゃんが」  実里は愕然として、女性の細すぎる身体を見つめた。そう、確かに彼女は妊娠していた。これ以上は細くならないのではと思えるほど細い肢体の腹部だけがこんもりと大きく突き出ている。明らかに妊婦の体型だ。  自分は身重の女性を撥ねてしまったのか?

 実里は蒼褪め、倒れ伏した女性を見つめた。


 実里は顔を覆っていた両手を放し、腕にはめた時計を眺めた。あの白い服の女性―不幸にも車で撥ねてしまった女が処置室に運ばれてから、もう一時間以上が経つ。

  女性が身重だと知った実里の行動は早かった。すぐに携帯で救急車を呼び、救急車が来ると、自分もそれに同乗して搬送先の病院まで付き添った。女性が運ばれたのは駅にほど近い小さな総合病院だった。規模はさして大きくはないが、ここには外科も産科もあるし、何より近いということで選ばれたらしい。

 ―痛いの、脚が痛いのよ、悠君。

  担架に乗せられる間、うわごとのように呟き続けた女性の手を実里はずっと祈るような想いで握りしめていた。

 救急車で搬送されている途中で、その呟きは途絶えた。女性が意識を失ったのだ。  救急隊員の呼びかけにも女性は二度と反応することはなく、酸素マスクが装着された。

  女性が病院に運び込まれている最中、女の看護士が実里に訊ねてきた。


―失礼ですが、ご家族の方ですか?

―いいえ。私が車であの人を撥ねてしまったんです。

 実里の言葉に、看護士は同情とも哀れみともつかない視線を投げてから、去っていった。 その中にちらりと咎めるようなものが混じっていたのは当然だろう。既に警察にも連絡は行き、現場にも来ていたが、取り調べは明日以降になるだろうと聞かされている。

 実里と言葉を交わした警察官は逃亡の怖れもないと判断したのだろう。訊ねるだけのことを訊ねると、後は淡々と現場検証を行っていた。

―まだ詳しく状況を調べてみなければ何とも言えませんが、あなたのお話が真実であるとすれば、非はあなたにではなく、むしろ急に路上に飛び出してきた被害者の方にあるようです。ですから、あなたが責任を問われることはないでしょう。

 三十過ぎの警察官はかえって実里に同情を抱いている様子であった。


 しかし、今更、責任の所在は実里にとっては取るに足りないことだった。仮にこの生命と引き替えに、あの女性の生命が助かるものならば死ぬことも厭わない。自分のために、他の誰かの生命が失われるなんて、考えただけでも耐えられなかった。

 リノリウムの白っぽい病院の廊下を白色蛍光灯がぼんやりと照らし出していた。夜の病院ほど無機質で不安を湛えた場所はない。  殊にそこが救急病棟であるだけに、雰囲気はいっそう重く沈んでいるように見える。

 座り心地の良くない固い長椅子がぽつんと放り出されているように廊下に置かれていた。実里はその椅子にもう一時間半も座り続けているのだった。

 そのときだった。

  薄気味悪いほど静まり返っていた夜の病院には不似合いな足音が聞こえた。廊下を駆けてくる足音は真っすぐに近づいてくる。実里は無意識の中に、その足音に身体をかすかに震わせた。


 それはやがて実里を見舞うことになるであろう運命の迫り来る足音だったかもしれない。やがて足音がぴたりと止んだ。  実里は弾かれたように顔を上げた。視線の先に、一人の男が佇んでいた。無機質な光が照らし出す男の顔は硬く強ばり、この世のすべてを拒絶しているように頑なに見えた。

  実里は咄嗟に立ち上がり、深々と頭を下げた。何も訊かなくとも判る。この男はあの妊婦の縁(ゆかり)の人、恐らくは近しい関係にある人だ。年の頃から見れば、夫だろう。

 後から彼の影のようにひっそりと現れたのは、やはり男と同じ年頃の男性だ。こちらは沈痛な面持ちではあっても、先の男性よりは切迫感が感じられない。やはり、先に駆け込んできた男性の方が妊婦の夫に違いない。

「この度は本当に申し訳ないことをしてしまいまして、何とお詫びを申し上げて良いものか判りません」

  申し訳ありませんでした。

 実里は更に消え入るような声で繰り返した。謝って済む問題ではないのは承知しているが、今はただ頭を下げるしかなかった。



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