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 ホッとしたその瞬間、数メートル前方に白い影が揺れているのが映じた。刹那、ゾワリと背筋を寒気が走った。しかし、自らを叱咤して落ち着かせる。

 ここら界隈は閑静な住宅地が続いていて、幽霊が出るなどという話はついぞ聞いたことがない。ありったけの自制心をかき集めると、グッとハンドルを握る手に力を込めた。  

 と、あろうことか、白い影はふらふらと頼りなげに浮遊するように揺れながら、こっちへ向かって来るではないか。

 実里は焦った。このままでは、あの白い影にぶつかる。慌てて急ブレーキをかけるも、間に合うはずはなかった。やがてドスンと鈍い音がして車のボンネットに少なからぬ衝撃が加わった。 ―人を、轢いて、しまった。

  実里はひたすら茫然としていた。車はとうに停止していたが、彼女はハンドルを異常なほどの力で握りしめたまま、しばらく凍り付いたように動かなかった。やがて永遠にも思える時間が途切れ、実里はハッと我に返った。


 随分と長い時が経ったようだけれど、恐らくものの数秒ほどであったろう。実里は狂ったような勢いで軽自動車のドアを開け、路上に転がり出た。

 やはり―。世にも不幸な予感は的中した。急停車した車の真ん前に一人の女性が倒れていた。白い影のように見えたのは、女性がアイボリーの丈長のワンピースを着ていたからだろう。  長く茶色い髪が雨に濡れて細い身体に張り付いている。その周りに飛散した血飛沫が見え、雨に濡れたアスファルトを不吉な血の色に染めているのが夜目にも判った。

 女性はうち伏した格好で倒れている。実里は女性の身体に手をかけて揺さぶろうとして、思いとどまった。こんな場合には、下手に動かさない方が良い。

 「しっかりして下さい。大丈夫ですか?」

 女性に自分の声が聞こえているかどうか判らなかったけれど、実里は声を限りに呼んだ。


 と、女性がわずかに身体を動かした。

 ―良かった、生きている!

 神に感謝しながら、実里は女性の顔許に近寄った。女性が顔を少し動かし、持ち上げたからだ。

 「大丈夫ですか? 私の声が聞こえますか?」  

実里が問うと、女性はかすかに頷いた―ように見えた。

 「お腹に、お腹に」

 か細い声で呟くので、なかなか聞き取れなかったが、やっと何回めかに聞き取れた。

 「お腹に―赤ちゃんが」  実里は愕然として、女性の細すぎる身体を見つめた。そう、確かに彼女は妊娠していた。これ以上は細くならないのではと思えるほど細い肢体の腹部だけがこんもりと大きく突き出ている。明らかに妊婦の体型だ。  自分は身重の女性を撥ねてしまったのか?

 実里は蒼褪め、倒れ伏した女性を見つめた。


 実里は顔を覆っていた両手を放し、腕にはめた時計を眺めた。あの白い服の女性―不幸にも車で撥ねてしまった女が処置室に運ばれてから、もう一時間以上が経つ。

  女性が身重だと知った実里の行動は早かった。すぐに携帯で救急車を呼び、救急車が来ると、自分もそれに同乗して搬送先の病院まで付き添った。女性が運ばれたのは駅にほど近い小さな総合病院だった。規模はさして大きくはないが、ここには外科も産科もあるし、何より近いということで選ばれたらしい。

 ―痛いの、脚が痛いのよ、悠君。

  担架に乗せられる間、うわごとのように呟き続けた女性の手を実里はずっと祈るような想いで握りしめていた。

 救急車で搬送されている途中で、その呟きは途絶えた。女性が意識を失ったのだ。  救急隊員の呼びかけにも女性は二度と反応することはなく、酸素マスクが装着された。

  女性が病院に運び込まれている最中、女の看護士が実里に訊ねてきた。


―失礼ですが、ご家族の方ですか?

―いいえ。私が車であの人を撥ねてしまったんです。

 実里の言葉に、看護士は同情とも哀れみともつかない視線を投げてから、去っていった。 その中にちらりと咎めるようなものが混じっていたのは当然だろう。既に警察にも連絡は行き、現場にも来ていたが、取り調べは明日以降になるだろうと聞かされている。

 実里と言葉を交わした警察官は逃亡の怖れもないと判断したのだろう。訊ねるだけのことを訊ねると、後は淡々と現場検証を行っていた。

―まだ詳しく状況を調べてみなければ何とも言えませんが、あなたのお話が真実であるとすれば、非はあなたにではなく、むしろ急に路上に飛び出してきた被害者の方にあるようです。ですから、あなたが責任を問われることはないでしょう。

 三十過ぎの警察官はかえって実里に同情を抱いている様子であった。



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