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 上司は実里の肩を叩いて慰めるような口調で言ったが、あれは〝君は役立たずだ〟と宣告されたも同然だった。

 以来、秘書検定や英検一級などの様々な必要かつ役立つと思われる資格試験を受け、それらに備えて勉強してきたのだ。社内の自主講習会や有名人を招いての講演会にも積極的に参加して、自分の存在を地味にアピールすることにも努めてきた。  その傍ら、休暇にはヨーロッパやアジアを巡り、埋もれた優良な絵本を探して熱心に翻訳した。

 そして、チャンスはついに巡ってきた。半年前、新しいプロジェクトを立ち上げるという話が社員全員に告知された。社員であれば誰でも応募できる資格があり、そのプロジェクト案の内容をリポートに纏めて提出する社内選抜試験が行われるというものだ。  採用されれば、新プロジェクトの主要メンバーになれるのはむろんのこと、総合職への復帰、引いては実里が最終目標にしていた編集部への道も拓けるのは判っていた。


 実里は参加を躊躇わなかった。これまで見つけてきた絵本の中から幾つかを選び、自らの翻訳をつけて、これらの絵本を我が社の優秀選定図書として出版することを提案した。実里の考えるプロジェクトの全容はそれだけではなかった。

 まず、新しく刊行する絵本の挿絵を従来のようにプロの絵本作家に頼むのではなく、障害を持ったアマチュアの作家、或いはイラストレーターに頼むというものだ。広く応募者 を募り公的なコンクールで優秀者を選び、その作家に挿絵を依頼する。

  障害者の就労もしくは社会参加をも促し、同時に話題性も高まり、会社の社会への貢献をアピールすることができる。ただ埋もれた良い絵本を日本に広めるというだけでは、さして斬新なアイデアとはいえないかもしれないが、そこに挿絵を任せる作家を公募で、しかも応募者資格を障害者に限定すれば、話はまた違ってくる。


 実里のアイデアは社内選考会で見事に第一位を獲得し、採用されるに至った。むろん、彼女が新プロジェクトの主要メンバーに選ばれたことは言うまでもない。

  実里には短大時代から付き合っている恋人がいる。もうかれこれ八年にもなる付き合いだから、半端ではなく長い。実里のアイデアが採用されたその日、彼女は恋人音無潤平とデートする約束があった。  実里は待ち合わせた会社の近くのフレンチレストランで早速、潤平に歓びの報告をした。だが。  話をひととおり聞いた潤平の表情は冴えなかった。

 ―それで、どうするつもりなんだ?  眉間に皺を刻んで問う恋人に、実里は小首を傾げた。 ―それって、どういうこと?  潤平の眉毛の間の皺が更に深くなった。 ―俺の言いたいことが判らないのか?

 正直、そのときは彼の意図を計りかねた。

―俺たち、付き合って何年になると思うんだ?

 実里は眼を瞠った。

―この四月で八年目よ。それがどうかしたの?  

潤平は焦れったそうに煙草を取り出し、火を付けた。

―そろそろ潮時だろ、俺たちも。 ―潮時って?  潤平が呆れたように鼻を鳴らした。 ―だからさ、結婚しても良いんじゃないかって言ってるんだよ。

 その言葉を聞いて、実里は唖然とした。

 皮肉なものだった。実里にだって潤平と結婚したいと願ったことは一度や二度ではなかったのだ。まずは総合職から突如として受け付けに回された時。あのときは、いっそのこと潤平がプロポーズでもしてくれればと思った。


 だが、それが単なるに逃げでしかないことに気づき、結婚を逃避の理由にしてはならない考えを改めたのだ。たとえ結婚退職して一時的に安息を得られたとしても、人生に困難はつきものだ。そうやって逃げてばかりいては、何の進歩もない。

 それ以外にも、結婚を考えたことはある。今の会社で活躍したいという実里の夢は結婚しても叶えられるものだと思っていた。しかし、大手の広告代理店に勤務する潤平はその頃、仕事の方が面白くてならない様子で、積極的に結婚しようという意思はないらしかった。  それが何故、今になって潤平の口から〝結婚〟という言葉が何の前触れもなく飛び出したのか、最初は怪訝に思った。

  確かに付き合ってきた月日だけを数えれば、今、結婚したからといって、けして早過ぎはしない。むしろ、実里の両親などは、潤平との仲はどうなっているのか、そろそろ結婚はしないのかと不安そうに訊ねてきた。


 女の二十七歳というのは、まさに適齢期である。今、結婚しなくて、どうするのか? 

と昔気質の両親などは潤平のどっちつかずの態度にひどく心配して、親戚に実里の縁談紹介を頼む有様だったのである。

  けれど、今はその頃とは状況が違う。新プロジェクト立ち上げメンバーに選ばれたことで、実里の未来は大きく変わろうとしている。この企画が少なくとも軌道に乗るまでは、結婚なんて考えられるはずもない。この企画には、実里のすべてがかかっているのだから。  

 潤平が言うには、何でも今年の秋にニューヨーク支社への出向が決まったという。そこで何年か勤め上げて本社勤務に戻れば、そのときは間違いなく栄転が約束されている。  しかし、この出向には一つの条件があった。出向する者は既婚者であるということ。現地では関係者同士―会社ぐるみの付き合いが盛んで、様々なレセプションが催されるのが慣習であり、そのためには夫人同伴でなければならないというのが理由であった。



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