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 今日は雨だし、ずっと布団の中にいなきゃならない早妃のことも気になるし、早退させて貰うか。

 俺は呑気に考えながら、店の自動ドアから歩道に出た。女の言うとおり、確かに雨は降っていた。

 アスファルトが雨に濡れた匂いが鼻をつく。俺は雨の匂いが嫌いではない。深呼吸して思い切り雨の匂いを胸に吸い込んでいると、歩道沿いに一定の間隔をあけて立つ桜並木が眼に入った。

  今年の春は桜の開花が早かったから、もう満開だ。この雨でかなり散るかもしれない。俺の店はF駅からほど近い繁華街ともいえない商店街の街角にある。駅前といったって、急行や特急も素通りする小さな駅だし、商店街の店も昔からどこにでもあるような古びたものばかりだ。  それでも、この店が結構繁盛しているのは、今風のイケメン揃いだという口コミと、かえって人眼につきにくい場所にあるからだといわれている。


 桜が雨に打たれ、しっとりと良い感じだ。そういえば、今年は俺が忙しかったし、早妃も寝たきりの生活で、花見にも行けなかった。まあ、来年には親子三人で行けば良い。  

早産気味だとはいえ、早妃もお腹の赤ん坊も順調な経過を辿っていると聞いている。問題はないだろう

 あと三ヶ月で、待望の我が子に逢える。俺は口笛を吹きながら、隣のコンビニに向かった。昔から大好きな雨が大嫌いになるだなんて、そのときは考えもしなかった。


 あれから二ヶ月経った今でも、俺は相変わらず店にいて、惚れてもいない女性客の手を握り、愛想を振りまいている。  生まれるはずだった赤ん坊も早妃ももう、この世にはいない。どこを探してもいない。俺の心の中で何かが壊れてゆく。 「香奈恵さん、今日のワンピース、物凄くお似合いですよ。何かこう、ぐっときちゃいま すね。凄いセクシー」

 三十代後半だという女性客に囁きながら、もう一人の俺は泣いている。

 お前はここで何をしているんだ。  ああ、どこかに行ってしまえるものなら、行きたい。ここではないどこかへ。  早妃や赤ん坊が逝ってしまった遠い場所へと。

 心にもない言葉を吐き、外側だけは甘い砂糖菓子のような中身のない愛の囁きを繰り返す度、俺の内側で何かが音を立てて壊れてゆくのだ。

 

―あの日、俺と早妃を取り巻くささやかな幸せが脆いガラス細工のように一瞬で壊れた。―  


♯Accident♯

 雨が降っている。  実里(みのり)は先刻から何度目になるか判らない吐息をついた。車窓のワイパーがかすかな音を立てて、ひっきりなしに眼前で揺れている。いつもは気にならないその音が今日に限って、必要以上に神経をかき立てる。

 自分が常になく神経質になっていることに気づき、実里は更に大きな溜息を吐き出した。  潤平さんは、どうして自分の気持ちを理解してくれないのだろう?  短大を卒業し入社して七年めにやっと訪れたチャンスだった。まさに、待ちに待った千載一遇の好機だと言っても、差し支えはない。

  なのに、彼は実里にニューヨークについて来いと言うばかりだ。今度のプロジェクトに参加しなければ、恐らく実里には一生、チャンスはめぐって来ないに違いない。だからこそ、今は眼の前の仕事に専念したいのだと心を込めて訴えても、潤平はおよそ聞く耳を持とうとしない。


 一体、何がどこで間違ってしまったのだろうか。F女子大の短大部英文科を卒業してから、実里は外資系の出版社に就職した。実里は念願の総合職に配属され、それなりに頑張ってきたつもりだ。

 しかし、入社の翌年早々、総合職から受け付け係に回されてしまい、実里の希望は空気の抜けた風船のように萎んでしまった。この会社は主に幼児・低学年向けの絵本を出版しており、外国で出版された優秀な絵本を日本向けに翻訳して国内に広めるという事業に力を入れている。

 得意の英語を活かしたいと思って入社を希望したのに、二年目で早々と総合職から受け付け嬢に回されてしまった。会社の顔といえば聞こえは良いけれど、所詮は単なるお飾りにすぎないのは誰の眼にも明らかである。 ―君の容貌からすれば、やはり、ここが最もふさわしい居場所だよ。ま、一つ頑張ってくれたまえ。



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