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 俺は握りしめた指の関節が白くなるくらい強く力を込めた。

 具合の悪い身内がいるというのは満更、嘘ではない。早妃の具合が良くない。

 結婚しているというのは店には内緒だ。基本的に彼女、恋人というのは許されるが、妻子持ち、所帯持ちは規格外である。まあ、そこは余計な揉め事を避けるための店側の配慮だろう。なので、早妃は妻ではなく、あくまでも同棲中の彼女ということにしていた。  早妃の胎内には今、俺の子どもが宿っている。妊娠が判ったのは四ヶ月前のクリスマスだ。早妃が

―できたらしいの。

 と言った時、俺は一瞬、ポカンとした。何のことなのか本当に判らなかったんだ。

 そうしたら、早妃が少し小さな声で〝赤ちゃんができたらしいの〟と恥ずかしそうに言う。そのときの彼女、とても可愛らしくて思わず抱きしめてやりたくなった。


 翌日、二人で近くのクリニックを受診し、妊娠が判った。あれから四ヶ月経ち、早妃のお腹はもうかなり大きい。予定日は七月、今は四月に入ったばかりだから、あと三ヶ月もしない中に俺と早妃の子どもが生まれてくる。

  子どもが生まれたら、俺もそろそろホスト家業から抜けようかなと考えている。親なら、ちゃんと子どもに胸張れるような生き方しなきゃ。それは親父が俺に身をもって教えてくれたことだ。たとえ、どれだけ貧乏でも、親父はちゃんと前向きに生きてた。

 子どもが物心ついたときに、父ちゃんの仕事はって訊かれて、ちょっとあまり言いたくはない。別にこの仕事がどうのとかいうわけじゃない。でも、俺は子どもには、もっと別の仕事をしていると胸を張って言いたいんだ。

  俺の心が今も晴れないのは、早妃がずっと家で寝たきりになっているからだ。どうも早産気味らしくて、起きてトイレに行っただけで、赤ん坊が下がってくるのが判るんだとか本人は言っている。


 男の俺にはよく理解できないが、クリニックの先生の話では、本当は入院した方が良いのに、早妃が家にいたいと言うんで入院は控えて自宅安静にしているのだ。まあ、確かに、三ヶ月で妊娠が判った直後も迫流産だと言われ、二週間ほど入院したこともあった。

 切迫流産という聞き慣れない響きのある言葉が俺には世にも怖ろしげな禍々しいものにに思えた。その早妃のことを思えば、このおばさんのくれた数万円は貴重な収入源だ。  あまつさえ、これから赤児が生まれて店を辞めたときのことを思えば、金は少しでも多く貯めておいた方が良い。実入りの点でいえば、この仕事に勝るものなんて、そうそうはないのは判りきっている。

「お母さまの具合が良くなったら、また、考えておいてね。アフターのこと」

 生暖かい声がふうっと吹きかけられ、俺は思わず身震いした。

 「そういえば、今日は夕方から雨だって、予報では言ってたわね。悠理クン、私、傘持ってきてないのよ。コンビニのでも何でも良いから、傘買ってきてくれない?」


 女が事もなげに言い、また長財布から一枚抜いてよこした。今度は流石に千円札だ。

 「はい。店の隣に小さなコンビニありますから、そこで買ってきますよ」

 こんな場合、タクシーを呼ぶだなんて、野暮なことは絶対に口にしないのが鉄則だ。  旦那にも子どもにも内緒のホストクラブ通いでタクシーなんかうっかり使おうものなら、どこから情報が洩れるか知れたものではない。

  俺は女が犬に餌でも投げるように渡してきた千円を握りしめ、部屋の外に出た。ソファとガラステーブルの他には小さな冷蔵庫とクローゼットがあるだけの個室は、けして狭くはない。モノトーンで統一された室内はシンプルだがオシャレなはずなのに、俺はこの殺風景な部屋が大嫌いだ。  

 日常に倦んだ女が若い男を買い、束の間の憂さを晴らす場所。そんな風に思い込んでいるせいだろうか。


 部屋から一歩出ると、何かホッとする。生き返ったような心地がして、蒼い絨毯の敷き詰められた廊下を玄関フロアに向かって歩く。  

女性客は、夕方から雨だと言っていたが、そういう俺自身も傘は持ってきていない。まあ、ついでにこの千円で俺のビニール傘も買わせて貰おう。たかだかビニール傘を買うのに千円札をよこすくらいだから、おつりがなくても、文句は言わないだろう。  大体、そんな金銭感覚の正常な女なら、真昼間から家族に内緒でホストクラブなんかには来ない。

  フロアまで出ても、そこには人はいない。いつものようにホストたち全員のパネル写真がズラリと並んでいるだけだ。  客たちはまずここで指名したいホストを選び、パネルの側にあるインターフォンを鳴らす。すると、常駐の控え室に待機している支配人が揉み手をしながら遊女を売る女郎屋の女将よろしく飛んで出迎えるという仕組みになっている。



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