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放射脳のすすめ

私は母親です、日本国民のひとりです。

愛する我が子だけでなく、100年後の子孫の健康と命を守る義務があります。

 

健康とは何か?命とは何か?子供は誰のものか?守りたいものは何なのか?大切なものは何なのか?家族とは何か?自問自答を繰り返し、私達家族なりの答えを出しました。

 

この先、放射能により健康被害がでるのか?でないのか?それは分かりません。

しかし戦時中でさえ、危険があるからと子供達は田舎へ避難させていました。

今の子供達はどうでしょう?

 

子供に雑巾を持たせて素手で除染活動させ。放射能は怖くないと学校で教え。他国では作付けを禁止しているレベルの汚染地に復興支援だと言って農作して出荷して。風評被害払拭のために給食に汚染地の食材をどんどん使い。国の定めた基準値以下なら食べないと非国民あつかいされる。

 

どうして、東日本大震災による地震の被災問題と福島第一原発事故による被害が混同されているのでしょうか?

 

どうして、奇跡的に汚染されてない西日本まで汚染させ、被ばくしてない人達まで被ばくさせる必要があるのか?

 

どうして、同じ原発被害者である国民同士が争わなくてはいけないのか?

 

本当の「絆」とは何ですか? 

 

 

<3、11>

 

あの大地震が起きた時、私は関東のマンションに居ました。

グラグラと揺れたと感じた次の瞬間にはソファーに座っている体が左右に揺れ、建物がギシギシ音を立て、テーブルや椅子が目の前を行き来しています。

 

こんな状況でもすぐに頭に浮かんだのは園に預けている娘の事で、家から徒歩10分のその建物はとても古く、マンションでもこんなに揺れるのなら建物が倒壊しているかもしれない…。頭の中は娘の身の安否ばかり考えていました。

 

「この揺れが収まったらあそこに置いてあるバックと携帯と鍵を持って、あの道を走っていこう。軍手や掘り起こす道具が必要かもしれない。もし瓦礫に埋まって死んじゃったらどうしよう!」頭の中でグルグルと同じことを繰り返していました。

 

ようやく揺れが収まり、バックと携帯と鍵を持って飛び出すとエレベーターは止まっていました。階段を一気に駆けおり子供の待つ園へと走りました。途中で夫から携帯電話に着信があり、お互いの安否だけを確認して再び走りました。

 

園に着くと先生と子供たちが、園の前の2メートルもない細い路地に避難していました。その中に恐怖に怯えた我が子を見つけ、駆け寄り抱きしめ何処かに怪我はないか確認しました。先生からも幸い建物の倒壊はなく、1人のケガ人もいないとの報告を受け帰路につきました。何度も余震で電信柱や建物が大きく揺れているのを横目にしながら、夫に電話を掛けましたが何度掛けても通じず、携帯のメールで「母子共に無事でした」と送りました。

 

子供とマンションに帰った私はテレビをつけると、そこには地獄のような光景が映りました。今まさにこの瞬間、人や車や建物を津波が次々と飲み込んでいくリアルタイムの映像が目に飛び込んできたのです。津波のすぐ先には動いている車や、歩いている人達がいて、何とか助けられないものかテレビの前で祈るように泣きました。

 

暫くして、関東に居る自分達も大地震の恐怖が去ったわけではない事に気づき、何か対策をしなければと思い立ちました。阪神大震災が起きてから避難グッズと多少の食糧の備えを用意していたので、暫くは食料に困る事はありませんでした。家の中で一番安全な場所を探し、再び大揺れが来ても安全でテレビが置いてあるリビングの一角に寝具を置きそこで余震をやり過ごす事にしました。

 

首都圏は帰宅困難者で溢れ、夫はその行列を歩き帰宅したのは深夜でした。夫と相談し、また大きな余震が起こるか分からないため園はしばらく休ませようと決めました。気がつけば、大地震と津波のショックで一睡もすることなく夜が明けていました。

 

 

<本能で母子避難>

 

テレビをつけると、福島第一原発で炉心を冷却できないトラブルがあり「原子力緊急事態宣言が発令されました」というニュースが流れてきました。

 

報道が錯綜していたものの、冷却不能になった福島第一原発1号機が爆発を起こした事。大量の放射性物質が飛散したことにより、被爆が懸念されている事。何処かの専門家が登場しヨウ素や被爆の危険性を訴えながらも、国民がパニックに陥らないよう発言を制限されているような感じがしました。

 

私の脳裏に浮かんできたのは原発事故=被爆・放射能=広島・長崎の被曝者、チェルノブイリの原発事故です。それでも、この日本で人類史上最悪の原発事故が起こるなんて夢にも思いませんでした。

 

この日から換気扇を止め、換気口を閉め、窓も一切開けず外出はしないようにしました。夫が帰宅するとスーツは玄関で脱いでもらいお風呂に直行してもらいました。お風呂から上がるとすぐに原発事故の話しをし、「県境に壁があるわけでもないし距離だってそう離れていない、風で容易に飛んでくるでしょ?ここに居て大丈夫なの?」と相談したが、夫は鼻でフフっと笑いながら「大丈夫だよ、皆普通に生活している」という一言で終わってしまいました。納得のいかない私は原発事故の進展がないか、朝までずっと報道番組を観ていました。

 

しかし、暫くするとマスコミの様子があきらかに変わってきたのを感じました。あれほど被爆や甲状腺の危険性を訴えていた専門家が姿を消し、あれほど大変な事が起きていると語っていたキャスターが口を閉ざし、これまた何処かの専門家という人が出てきて「えー、そのー、大丈夫かと言われるとアレですが…パニックが一番よくないです」「不安を煽るような行動はやめて下さい」「危険だというデマを流さないで下さい」「首都圏は大丈夫です」と、何の根拠もないのに「大丈夫」を繰り返し、人々を避難させないように誘導する報道にとても恐怖を感じました。

 

3月14日に3号機が大爆発し、大量の煙が上がり建屋は骨組みだけとなりました。それを目の当たりにした私は「もう日本は終わった」本気でそう思いました。そして繰り返し流れる「ただちに影響ありません」という言葉。そうです、被爆とは致死量の急性被爆でない限りただちに影響が出る事はなく、数年~数十年かけて人体に影響を及ぼすのです。予備知識が多少なりともあったからなのか、本能なのか「絶対ここに居たら駄目だ!早く逃げなきゃ!」動揺しながら荷造りをはじめました。

 

ここでようやく友人達に電話をかけ「分かっていると思うけど、外出を控えて気をつけて」と伝えると「そんなの気にしている人なんていないよ、そんなに大変な事だったら皆逃げているしパニックが一番よくなってテレビでやっていたよ」と笑いながらも、迷惑そうに言われました。最初はその友人だけがそういう反応なのかと思っていましたが、数人に電話をしてみるとみんな同じ反応でした。そして私の母や幼い子供がいる姉も、原発や放射能への関心がなく通常通りの生活をしていることを知りました。

 

今すぐに娘を連れて出来るだけ遠くへ避難したい気持ちはありましたが、夫に相談してから決める事にしました。帰宅した夫に放射能の危険性を訴え、仕事を休んで一緒に避難できないか相談しましたが「仕事は休めないよ、会社を辞めさせられてしまう」と断固拒否。

 

ならば、子供を連れて九州辺りに避難したいと伝えると「そんなに不安なら行った方がいい、実家には連絡しておくから」。私の親族はみんな関東で西日本には、頼れる人はいなかったので四国にある夫の実家に避難する事にしました。

 

早朝に見送りに来てくれた夫に「一緒に行けなくて悪い、娘を宜しく」と優しい言葉をかけてもらいながら、避難する事ができました。外はマスクをしている人など皆無で、子供たちが遊ぶ姿に驚愕したのを覚えています。

 

実はこの時、子供に頻尿の症状があり酷くなっていくばかりで、15日の新幹線では30分に1回の頻度でトイレに行くほど悪化していました。(当時は、私の動揺が影響してしまったのかと思っていましたが、随分後になってから被爆症状でも頻尿になるというのを知りました。)

 

 

<いざという時に、人の本質が現れる>

 

震災以来ほとんど眠れない状態が続き、子供のトイレへの付き添いでヘトヘトでした。しかし、私の精神をギリギリまで追い詰める出来事が起こっていくのはこれからだったのです。

 

実家に着き挨拶を済ませると「自分だけ逃げていいのか?」という激しい自責の念にかられました。津波があったあの時、テレビを見ながら何も出来ない自分に悔しい思いをしたけれど、「今なら助けられる人はいる!」そう思いました。さっそく姉に電話をかけると一言目に「なに?逃げたの?」と失笑されましたが「放射能の危険性を今すぐ調べた方がいい、幼い子供がいるのに心配じゃないの?」と真剣に訴えました。すると「お前はそっちに逃げるところがあるけど自分はない、一人だけ逃げてずるい」と衝撃の言葉を返されたのです。

 

200キロも離れていない場所で原発事故が起きたにも関わらず、無関心に過ごしていた姉に「一人だけ逃げた、ずるい」なんて言われて、悔しさと怒りで涙がボロボロ流れてきました。でも、まだ幼い姉の子供の事を考え「避難する場所がないならとりあえずココに来たらいい、緊急事態なのだから義母も分かってくれるはず。その後の事はそれから考えよう、早くそこから離れた方がいい」と伝えました、母にも電話をかけ同じことを話しました。

 

この行動は二次被爆(今回で言えば、衣服に着いた放射性物質を持ち込まれ被ばくすること)の可能性があり、リスクのある事でした。それでも、家族を助けられるならと決断しました。

 

暫くして電話があり「家族会議したけど今すぐは無理。2~3日したら母と一緒に行くから」とのこと、私は姑に事情を話し数日の間(次の避難場所が決まるまで)泊めさせてほしいと相談し了解してもらいました。

 

姑には何度も放射能の危険性を説明し、理解してもらおうと努力したのですが「私は年寄りだからもういつ死んでもいい」「家族が離れているのは良くない」「息子が一人でいるのは可哀想、ちゃんとご飯は食べているのか?」「いつ帰るの?」「みんな死んじゃって自分だけ生き残ってどうするの?私なら一緒に死んだ方がいい」「近所には恥ずかしいから避難だなんて言ってない」など顔を合わせるたびに言われてしまい、ひと時も心が安らぎませんでした。孫の心配より近所の体裁を気にする姑の姿がそこにはありました。

 

 

<認識の異なる家族の争い>

 

モクモクと煙が上がり骨組みだけになった建屋、メルトスルー(圧力容器から格納容器へ核燃料が落ちてしまう事)やメルトアウト(核燃料が格納容器も突き破り、建屋のコンクリートも突き破り、外部へ浸透する事、別名:チャイナシンドロームとも言われている)になるかもしれない恐怖、夫の被爆の心配、放射能が西日本まで飛んできているかもしれない不安、今後の日本を考えれば汚染されていない水や食料の確保。こんな問題も母と姉が来れば、きっと支え合う事ができると信じていました。

 

ようやく母と姉が到着しました。テレビではやらない情報をインターネットで調べ、どんなに心労が溜まっているだろうと思いきや、最初の姉の言葉は「良いとこだね♪色々調べてきたけど、観光や名物もあるみたいだし、楽しみ~」まさかの観光気分です。とても嫌な予感がしました。

 

案の定、何の危機感もない姉と、ほぼ付き添いで来ただけの母と、明日には日本が滅んでしまうかもしれないと考える私とでは衝突することも多く、「お前は気にし過ぎ」「頭がおかしくなった」と愚弄されることも少なくなかったのです。

 

いつまでも姑の家にお世話になる訳にもいかず、急いで新しい避難場所になる部屋を借りることにしました。私は「原発から遠く、交通が便利で、地元の食材が豊富な場所(汚染されてない食材が入手できるから)、夫から住みやすいと聞いていた福岡」。姉は「関東に近くて、交通が便利で、観光や美味しい食べ物があって楽しめる場所」。

 

一体なんのために避難してきたのか、放射能の危険性は空気や雨や水だけでなく全国に流通している食材にもある事、私は子供を守るために譲歩する事はできないと強く訴えました。が、「なんでお前が全部決めるの?私にも選ぶ権利がある!」と激しく怒りをぶつけられました。

 

結局は母が福岡に決め、部屋を借りることができました。あれほど避難先にこだわっていた姉は「どうせずっと避難している訳にいかないし、来週は友達とキャンプの予定があるから数日のうちに帰る。でも観光もしたいから、また来る」という驚きの発言をしたのでした。

 

 

<心ない言葉に傷つき、決別する>

 

福岡での暮らしが始まりました。子供の症状が心配なので病院へ連れて行き、診察を受けました。先生に関東から避難してきた事を話したところ「放射能!?原発事故はもう大丈夫なんじゃないの?お母さんが神経質だと、それが子供に影響することもあるよ」との、心ない言葉に傷つきました。症状があるので体に異常がないか尿検査をすると、ある項目で引っかかり1週間後に再検査する事になりました。

 

この頃には、原発の状況を気にする事のない母と姉の代わりに常にテレビや携帯ニュースをチェックし、ハイハイで動き回る子を放置する姉の代わりに母と子守りし、毎日何度もパパに会いたいと泣き、20分おきのトイレの付添いで、肉体的にも精神的にもギリギリのところまで追い込まれていました。

 

ある夜、食事を済ませ、お風呂に入り、子供を寝かしつけると意識を失うようにリビングでうたた寝をしてしまいました。20分ほど経ったでしょうか「食器を洗いもしないで何で寝ているの!?」という叫び声で目を覚ましました。姉はお風呂から上がり髪をタオルで拭きながら「母に洗わせるつもりなの?母も疲れているのに、こき使うのやめなよ!」と私に言い放ちました。母をみたら確かに疲れた様子でしたが、それは姉が1日の半分は赤ん坊を母に世話をさせているからです。

 

追い打ちをかけるように「疲れたなんて言うけど、子供が頻尿になったのはお前が原発事故や放射能を気にし過ぎだからだ。お前のせいで病気になった」その言葉に泣きながら怒る私をみて「頭変なんじゃないの?」と半笑いで言われた瞬間、私の中で何かが弾けました。私はとても酷い言葉を吐き、つかみ合いの喧嘩になりました。(子供達は別の部屋で寝ています)そして二度と顔をみたくないと姉妹の縁を切ったのです。

 

次の日には姉の旦那が迎えにきたものの「今晩は」も「お世話になりました」の一言もなく、翌朝にそそくさと帰って行きました。姉の旦那は「子供と離れるのは辛いし家族が離れているのは寂しい、もし子供に何かあってもそれは仕方ない、早く帰っておいで」と姉が到着した日から、毎日電話してくるような人でした。

 

このような反応も、もしかしたら正常性バイアス(異常事態が起き、自分に被害が及ぶと予測される場合でも、「自分に被害は及ばない」と思い込んでしまう心理状態)や多数派同調性バイアス(多数派に意見を合わせようとする心理状態)が働いていたからなのかもしれません。

 

原発事故、母子避難、娘の病気、家族との摩擦、身内と縁を切る、1~2月の間にこれだけの事が起こりました。その後、娘の再検査では異常はなく。症状も徐々に改善していきました。

 

<本格的に情報収集をはじめる>

 

ようやく自分のペースを取り戻し、あれこれと考える余裕がでてきました。一体いつまで母子避難を続ければいいのか?本当のところ関東の汚染状況はどんなものなのか?いつになったら戻れるのか?問題は山積みですが、まず重要なのはやはり「お金」です。数年前に無理して購入した、マイホームのローンで貯金はほとんどありませんでした。

 

生活するために最低限必要な物や、衣服も持ってきたものでは足りず、質素な生活をしてもお札がすごい勢いでなくなっていきました。底が見えてきた通帳を抱え、今月は乗り越えられるのか?来月の支払いは大丈夫か?お金の心配が常に付きまとっていました。

 

それどころか汚染が深刻であれば家のローンだけ残って不動産価値はゼロになるという最悪のケースも十分考えられ、私は売れるうちに一刻も早く売ってしまおうと思いました。でも夫には死ぬ気で買った「夢のマイホーム」手放すのが嫌だと言われてしまい、こればかりは夫の意見も尊重しなければならず少しずつ理解してもらうしかありませんでした。娘のパパに会いたいという願いもあり、一度関東に戻って情報収集してみる事にしました。

 

ある程度予測はしていましたが、関東に戻ると原発事故は昔の事のように忘れ去られ、道行く人はマスクをしている人などいませんでした。私はとにかく夢中でインターネットを使い調べ始めました。(以下には、後日集めた情報も混ざっています)

 

 

〇国の暫定被曝量(外部被ばく)

 

■事故前

日本の法律が定めていた一般人の放射線の被曝限度は1年で1ミリシーベルトでした。しかし、被曝にしきい値はなく低線量でも被曝量に比例して発がん率は上がり、出来る限り浴びない方がいいと言われています。

原発作業員は健康を害さないために、年間の被ばく量(外部被ばく)は1年間で50ミリシーベルト、または5年間で100ミリシーベルトまでと決まっていました。もちろん完璧な防護服を着用しての作業で、作業時間の間だけ外部被ばくしている状況です。それでも累積50ミリシーベルトで白血病になって死んだ原発作業員の労災が裁判で認められているので、この基準でも人体に影響があり亡くなる事が法廷で証明されています。

■事故後

福島の子供達に出した暫定被曝量は1年間20ミリシーベルトです。24時間365日常に被曝しています。土埃が舞い上がるなかマスクも防護服も着用せず(政府や学校側はマスクや防護服は風評被害だとして子供達に着用しないよう働き掛けています)、そのような環境で産まれたばかりの赤ん坊~お年寄りが過ごしています。

 

〇国が出した食品の暫定基準(内部被ばく)

 

■事故前

WHOの基準がありました。しかし事故前の日本のお米の汚染は1キロあたり平均約0,1ベクレル、1日あたりの食事量で0,1ベクレル以下とも言われています。

 ■事故後

暫定基準…野菜類、穀類、肉・卵・魚などの一般食品は1キロあたり500ベクレル、飲料水は200ベクレル、牛乳は200ベクレル。

 ■新基準…野菜類、穀類、肉・卵・魚などの一般食品は1キロあたり100ベクレル、飲料水は10ベクレル、牛乳は50ベクレル、児用食品の項目が新設され50ベクレル。(米、大豆及び牛肉以外の食品には201241日から適用、既に出荷、加工、市場に出回っているものは暫定基準のまま

 

これらはセシウムの基準値です。福島の原発から放出されている放射性物質の核種はヨウ素、プルトニウム、ストロンチウムなど数多くありますが、これらの人体に有害とされる物質の検査や基準はありません。

 

〇日本が事故後に参考にしたICRP(国際放射線防護委員会)

 

ICRPの「100ミリシーベルト以下は癌のリスクが0,5%で影響が少ない」という基準の根拠は、1000ミリシーベルトの被ばくで5%の癌リスクが高まるとされた広島と長崎の原爆調査によるものです、ところが日米合同調査では500ミリシーベルトで5%という結果が出ていたそうです。

 

驚く事に、この基準を決めたICRP委員の17人のうち13人が核開発や原子力政策の関係者。元委員のチャールズマインホールドは「基準は原発労働者向けに検討されていたもので、子供や高齢者を考慮して作られたものではない」「科学的根拠はなく、ICRPの判断で決めた」と述べています。ICRPという組織は科学的研究者の組織ではなく、原発推進の組織なのです。

 

 

…驚きの情報ばかりです。一方で嬉しい情報もありました。今まで放射能を気にしているのは自分だけかと落ち込んでばかりいましたが、同じように放射能の事をよく勉強し対策し子供を必死で守るお母さんが大勢いることを知りました。その殆どの方が私と同じように家族や友人や学校側に理解されず孤独で辛い思いをしているのです。

 

母子や家族で西日本や海外へ避難されたり、東北や関東に留まりながらも給食をやめてお弁当を持参させたり、ガイガーカウンターで周辺を測ってみたり、土壌汚染を自腹で検査したり、水や食材を九州から取り寄せたり、毎日何度も掃除+雑巾がけしたり、マスクを装着したり、不要な外出を避けたり…ets。それはもう血のにじむような努力をしていました。

 

「私は一人じゃない!」勇気をもらって再び福岡へ。

 

<迷いと決断>

 

何ヶ月経ったでしょうか、ついに寂しさに耐えられず一時関東へ帰宅する事にしました。久しぶりの登園に喜ぶ娘の姿、娘と遊ぶ嬉しそうな夫の姿、平穏な日常と変わらない暮らしがこんなにも幸せなのかと感じていました。

 

このまま家族で一緒に暮らしたい、水と食べ物に気をつければ大丈夫かもしれない、そんな迷いが湧いてきました。ところが、被ばくの影響なのかは分かりませんが、家族みんなの体に次々と異変が起こりました。

 

もう迷ってなんかいられない…。単身赴任で夫婦別々に暮らしている人はいる、子供は誰に頼ることなく何とか育ててきた、頼れる人がいない土地でも子育て支援がある、子供はすぐに順応する、いい歳こいて寂しいなんて言っていられない!!そして一つの結論を出しました。

 

「私と娘はもう関東には戻らない、娘と福岡に移住する」夫に告げました。少しは怒るかな?と予想していましたが、意外にも「安全だと言う保証ができない以上、戻っておいでとは言えない」という返事。その後も何度も話し合い、2重生活にはお金もかかるため家を手放そうと決めました。

 

「安全派と危険派があるけど、どっちが本当なのか分からない」という人もいますが、誰かに自分の子供の命や人生を決めてもらうのでしょうか?結局は、自分で調べて、自分の頭で考えて、自分が後悔しないよう判断するしかないのです。

 

 

<新生活と終わりの見えない戦い>

 

バタバタと引っ越しを済ませ、あとは一刻も早く家が売れるのを待つだけです。迷いがなくなり気持ちに余裕がでてきて、色んな活動に参加するようになると、避難してきた方たちとの輪が広がっていきました。

 

子供を思う気持ちや悲しみや悩みなど近い事もあり、あっという間に仲良くなれます。暫くすると、家はローンが残らず売却することができ、子供の教育関係など必要な手続きを済ませ、本格的な家族別々の暮らしが始まりました。

 

「お金持ちだから、恵まれているから避難できるんだよ」なんて言う人もいますが、避難・移住した人達は多くのものを失っています。夫にさえ理解してもらえず離婚した人も少なくありません。汚染された土地に残り、変人扱いされながらも必死に子供を守ろうと頑張っている母もいます。私の夫も娘のために1人で頑張ってくれています。「リスクがあるなら取り除く」当たり前の事をしているだけなのです。

 

「放射脳」といっても、百人百色。何かの組織や団体があるわけでもなく各個人です。どこまで気をつけるかは人によって違うし、どこまで危険なのか判断し気をつけていることも違います。周囲にオープンにしている人もいれば、友人にも同僚にも気にしてない素振りをしている人もいます。

 

 しかし、日本中どこに逃げても安心して暮らすことなど出来なくなりました。事故前、1キロあたり100ベクレル以上の汚染廃棄物質は黄色いドラム缶に入れられコンクリート詰めにされ放射性管理区域で厳重に管理されていました。

 

今ではそれ以上に汚染された食品が北海道から九州まで流通し食卓に並んでいます。汚染瓦礫は日本中に拡散され学校や民家の近くにある普通の焼却炉で燃やし、リサイクルされたり、水源近くの土地に穴を掘りビニールを敷いただけで埋めたり、農家が使う肥料に混ぜられ畑に撒かれ、また食卓に上がります。

 

これは遠い国の話ではありません、あなたの身に起きている事です。

私は生まれ育ったこの日本が好きです、日本の行く末が心配でなりません。一人でも多くの人が気づき声をあげる事。世界の基本原則である「汚染を広げない・燃やさない・厳重に管理する」ことを切に願います。

 

 

 

 


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最終更新日 : 2013-01-30 01:00:57

この本の内容は以上です。


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