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もくじ

1.閉業の決定
そばに快速電車の停まるベッドタウンができ、人の出入りがすっかり減った「ひまわり台駅」にずっと勤め続けている「にのべ駅長」は、枯れきった花壇にひまわりを植えようとしていた。その時、閉業を告げる電話が鳴り響く。

2.幼い「あたし」の罪
「ひまわり台駅」で育った「あたし」は、閉業の知らせを聞いて心が落ち着かなくなる。子どもの頃、「あたし」は平気で花壇のひまわりを折り、振り回して遊んでいた。

3.「自分」との再会
土手をきしみ走る電車の側を毎日歩いていたあの頃。社会人となった「僕」は数年後、電車の中から「外を歩く」自分に再会する。

4.強い風と雨
寒さすらおぼえる、初夏にはそぐわない大粒の通り雨。雨宿りに訪れた「女性」は、しずくと悩みをぽつぽつ落とし始める。聞き手は「駅長」ではなく、水を空間にふくんだ駅舎。

5.最後の太陽
ひまわり台最後の日--、思い出の駅に、電車を見送るために集う人。めいめいに育てた「ひまわり」を持ち寄る人。長い長い時間を回想するにのべ駅長。この駅からはじまった、そして終わった物語が、たくさんの花のなかで、集結する。

(合計 5ページ/約12000字/原稿用紙30枚程度)

1.閉業の決定





カンジョウ線を何千周として使い古された「イチマルニ系」の通勤車両が、まだ朝日を見ない『ひまわり台駅』2番ホームから、きしみ動き出した。





 より早く、より快適に。
 コクテツ電気鉄道株式会社は、大型団地が立ち並ぶベッドタウン地帯『ニュータウン駅』から都心のオフィス街『オオサカセンター駅』間を、劇的ともいえる29分で結ぶ、超新快速電車「ニイニイイチ系」を主力路線に投入した。
 さらにこの春から、両駅間を27分で走破できる「ニイニイサン系」も加わり、周辺の電車・バス各社から乗客を奪い取る結果となった。
 その一方で、採算のとれない路線には、今ゆっくりと『ニュータウン駅』に向かっている「イチマルニ系」のような車両を使ったりしていた。

 鉄道事業は、飛行機事業などと同じく、参入する時にばく大な投資を必要とする。
そして、一度周辺住民の『足』となってしまえば、そうそう簡単に廃線にすることはできない。
 自分の通勤・通学手段が突然断たれてしまったらどうなるか、台風や大雪でダイヤが乱れた時のことを思い出してほしい。


『ひまわり台駅』前には、開業時のイベントで備え付けられた花壇がずっと残っていた。ちょうどそれは20年程前の真夏の頃で、まっすぐ太陽に顔を向けたひまわりが、初乗りの乗客を迎えてくれた。今は黒茶色の土だけが貧弱に盛られている。レンガ使いが洒落ていた側面も、黒くすすけたようになってしまった。
 あの輝くようなひまわりの群れは、ひとつ、またひとつと誰かに折られて消えてしまったのだ。

 赤茶けた鉄の片手スコップを手に、コクテツの制服をまとった男が改札を出てきた。頭に乗せた制帽からは、白髪がいくらかこぼれていた。胸のプラスチック・プレートには『駅長 にのべ』と彫られている。

 さっきたったひとりで送り出した「イチマルニ系」電車が、『ニュータウン駅』から戻ってくるまで30分はある。その間に、ポケットにねじこんでいた、ひまわりの種を蒔いてしまうつもりだった。

 車--自動車、バイクに自転車はひんぱんに駅前の道路を行き交うが、この駅に向かってくる人はほとんどいなくなってしまった。
『ひまわり台駅』が開業して10年半のち、『ニュータウン駅』が開業したのだ。盛大な鼓笛隊の演奏は、ここまで聞こえてきた。巨大なショッピングセンターも『ニュータウン駅』のそばにオープンし、ふた駅間の人口バランスは逆転をはじめる。

 小さな町だった「ひまわり台」にも、たくさん子供がいて、『ひまわり台駅』から都心に通学していたのだが、やがて大学に行くために、就職のためにと町を離れていった。5年くらい前からは、コクテツ側も「あそこはもうだめだ」と電車や人員を減らす一方で--不便な『ひまわり台』よりも自転車や車で『ニュータウン駅』に行って快速に乗った方が、という考えがあたりまえになっていった。

 今日もたぶん、いつもと変わりなく顔なじみの数名がここを通るだけだろう。それならばこの前の日曜に、市場のおばさんがくれたこの種でも植えてしまおう--土が生きていれば、今年は「ひまわりのない『ひまわり台』」なんて笑われる夏になることもないだろう--そういう考えを、顔に浮かべて。

 この駅とともに20年、いっしょに年をとってきた、にのべ駅長。

 ところがスコップを花壇に入れようとした時、めずらしく駅長室の黒電話が鳴り始めた。ジリジリという音に追われて、にのべ駅長は左手にひまわりの種袋をつまんだまま走る。

「あい、ひまわり台、にのべです--あい、あい、--あい。」

 特徴的なあいづちは、機嫌が良いと明るく大きく周りに響く。重い受話器を置く頃、その声は低く小さく変わっていた。

 仕事柄、部屋の時計を見た。あと22分。うつむいたまま花壇の前に再び腰を下ろす。

「いつかそうなる、とは思てたけど、
 --辛いなあ、やっぱり--8月まで、か--」

 さくり、さくり。
 にのべ駅長は最初の目的に「ひまわり台駅への最後のはなむけ」を足して、小さな種を手から放した。


 きらきら輝くひまわりに囲まれていた、小さな終点駅『ひまわり台』。
 その奥に広がる山と森を削って作られた団地の大群は、『ニュータウン』という新たな『始発駅』を生み出した。
 繁栄はいつまでも続くとは限らない。まちなみもいつかは変わってゆく。
 さびれた花壇にもう一度ひまわりが咲く頃
 --いや、やせた土に花が根付かなかったとしても--

『ひまわり台駅』は時代の隅に流れ止まり、閉業する。


2.幼い「あたし」の罪


 要塞のようなコンクリート造りの壁と柱。 
 磨き上げた黒い石づくりのプラットホームから、またまた超新快速電車が出ていった。 

 あたしはため息をつく。そんなに身体を動かさなくても、粉の出そうなプラスチック製のベンチがぎしりとゆれた。たった一駅、『ひまわり台』に行くだけなのに。のどに悪そうだから、口はしっかり閉じて、のど飴を転がし続けた。


 ここは人気(ひとけ)のほとんどない、『ニュータウン』駅の1番ホーム。向こうに見える18番ホームや駅ビル、ショッピングセンターから隔離されていると言ってもいいくらい、端っこにある。いや、この駅ができた直後は、まだここから各駅停車に乗る人はけっこういたはずなんだけど。ああそうか、あたしもDJになった頃は『ひまわり台』から通ってた。それから『モーニング・スクエア』の担当になって、通勤しやすい『ニュータウン』で一人暮らしをはじめて、あっちので『オオサカセンター』へ通うようになって――トントン拍子に夜の『リクエスト・ゾーン』のレギュラー入りして、しまいにはここから実家に帰るなんて盆暮れ正月くらいになってしまってたか。 
 やっと、キキーッときついブレーキの音をたてて、各駅停車がやって来た。 
 あたしがどうしてこの盆でも正月でもない、ただの平日に、しかもまた明日には4時にスタジオに行かなきゃいけないのに、わざわざこれに乗っているかというと――、いてもたってもいられなくなった、からだ。 
 けさ、番組中で、あたしはいつもどおり原稿を受け取って短いニュースを読んでいた。それは一番最後に、とってつけたようにホチキスで止めてあったから、あたしも前の方にコメントを入れて時間を延ばした。ところが。 

『コクテツ電気鉄道株式会社は昨日、以前から採算の取れていなかった都心路線の「ひまわり台駅」を8月に閉業することを発表しました』 

 言葉を心の中でかみ砕いた頃には、胸の中がどくどくいいはじめていた。 
 あたしが『ひまわり台』近くで生まれ育ったから、だけではなくて。 
 歯がカチンと当たって、何か、何か言わなきゃ、と思ったら、もうコマーシャルのサインが出されていて――マイクのボリュームを落とした。



 ゆっくりとカーブを渡り、電車は『ひまわり台』に到着した。ブレーキの音が長くのびて、遠くを走る快速のレールを叩く音までかき消した。 
 誰もいないホームから、ただひとつの改札に向かう。定期入れから使いさしのプリペイド・カードを取ったまではよかったが、それを差し入れられる自動改札がないことを思い出した。少し前までは、買った切符にもいちいち駅員さんが固い紙に切りこみを入れていたはずだ。 
 駅員さんのいるはずの場所を、ガラス越しにのぞいてみたが、影はなかった。年代物のアナウンス用マイクが錆付いていた。右手の出口、花壇「だった」ところから物音がしたので、あたしはそのまま改札を通り、「すみません」と言いながら靴底を鳴らした。はちみつ味の飴の味よりも、駅舎のなつかしいにおいが、鼻についた。あの時の罪まで、いっしょに、におってきた。 

 あたしは小学生の時、花壇にびっしりと咲いていたひまわりの花を、友達たちと何本か折った。マイクのようにしてその頃好きだったアイドル・グループの歌を歌ったり、バトンのようにその大輪を振り回したり。家までは持って帰られないから、途中の側溝で手を放した。 
 ひまわりは力を失い、水に流されていった。それを見下ろして笑ったこともあった。 
 あたし以外にも同じようないたずらをした人がいたから、悪いことをしている気分には少しもならなかった。 

 何年か経って、もう花壇には新しい花が芽吹かなくなった。「子どものいたずら」で片づけられてしまうだろうこともわかっていたし、何を今さら、謝りに来た、というわけでもなかった。 
 ただ、左手でみずみずしい、青緑の茎を握った感触と、右手の爪の間にはさまった草の汁のくささ――それだけは、今でも思い出すとあと味が悪い。
 たまに夜の番組で、『昔のゴメンナサイ体験』みたいなメッセージ特集があっても、自分からこの話を笑ってすることはできずに、いつもリスナーのハガキを読んでは上滑りした笑い声を出していた。


「あいすんません、」 
 やっと外にいた駅員さんが戻ってきてくれた。片手にカードを持っていることに気づき、 
「精算機にかけんとあかんので」と、小走りに駅員室へ入って行った。一瞬だけ、向こうの顔が見えて、あたしはうつむいたまま、ガラス戸の前にカードを置いた。――この人、ずっといたんだ。 
 ひまわりを折った時の、駅員さん、いや『駅長』に間違いなかった。白髪とか、しわとかは、もちろん増えているけれども。さすがに向こうは、化粧慣れしたこの顔までは覚えてはいないだろう。 

「お待たせしました。ここに、『精算』と書かしてもらいました」 
 うやうやしくカードを差し出す手に、「どうも」と小声で答えて、早足で駅舎をぬけた。そして、花壇の横で予想もつかなかった光景を見た。 

「あ……」 

 木の箸(はし)とビニールひもで柵が作られていて、『ひまわりを植えています、踏まないで下さい』と書いたダンボール紙が端に挿してあった。 

「ま……蒔かはったんですか」 
「もうすぐ芽が出ると思うんやけどな――」 
 ちょうどもう片側の花壇にも同じように柵を作るところだったらしい。汚れた軍手やら、スコップやらが散らかっていた。縁(へり)には小さな足跡。もちろんあたしのではないが、一瞬息をのんでしまった。 
「あたし、また見に来るわ。今年くらい満開のところ見たいし」 
「んあ……?」 
 一本ずつ箸を挿して回っていた手を止めてくれたが、駅長は視線を土に落としたままだった。 
「ほんまにここへ来るのは『ついで』でええよ。バスで『ニュータウン』か『桜丘』へ回った方が速う帰れるで」 

 左手で茎にふれた感じと、右手に残ったきついにおいは、たとえここに再び、きれいに花が並んだとしても一生忘れることはないだろう。 
「いや、あたしな、センターラジオでDJやってますねん。今度番組で、ここのこと絶対言うし。しゅ、取材とかそんな、かたくるしいやつともちがいますよ?」 
「はぁ……」 
「せやけどね、」と言葉を続けそうになって、あたしは はっとして飴をかみ砕いた。 


*蒔かはったんですか:蒔いたんですか 
 速う帰れるで:速く帰ることができますよ 
 せやけど:でも・けれども 

3.「自分」との再会


 改札前で取ってみたポケットサイズの時刻表には、きゅうくつそうに「ひまわり台駅」ゆきのダイヤが押しやられていた。「ひまわり台駅」はこの夏、閉業する。みんながオオサカ行きの超快速電車に乗るために、ここへ、「ニュータウン駅」へ回ってしまうようになったからだ。花もないさびれた駅だったから、閉業も仕方ないのだろう。 

「ニュータウン」駅から「ひまわり台」に向かって電車に乗るのは本当に久しぶりだった。毎日帰りが深夜近くになる僕にとって、最終電車が21時30分というダイヤは致命的だった。いつもは僕も、マウンテン・バイクで「ニュータウン駅」に出て来ている。今日は雨がひどくて、親父の車で送ってもらい、仕事も定時で切り上げてやった。 
 その雨は、もうすぐ梅雨入りやで、と言い残したそうにだけ降って、ちょっと前に止んだ。ついでに、昨日ちょっと険悪気味になった美里との事も流してくれたらなんて期待しつつ、さっき携帯(電話)にメールを送ったが、返事はなかった。ふう、とため息をついて、タバコに手を伸ばす……ホームは禁煙だったか。 
 まだ折り返しの電車が来るまでに余裕があったから、ホームの果てにある灰皿へと向かった。喧嘩の原因もこれだった。僕のタバコが増えてきて、あいつがヤニ臭いとか、昔は吸わなかったのにとか、ぐたぐた言ったから腹が立って、結婚式場のパンフレットを投げてしまったのだ。それで彼女は泣き出してしまった。 
 煙を吐いたが、後味がまだねっとりして気持ち悪い。湿度もだんだん高くなっているのだろう、鼻のあたりがべたべたしてきた。しわくちゃのハンカチをあてたら、目元にシワを感じた……。


 美里とはつきあいはじめてもう5年くらいになっていた。彼女に、「お腹出てきたんとちゃう? もう、おっちゃんの仲間入りやなぁ」と言われて、急にプロポーズしようと思ったのは変だろうか。結婚するんだったらあいつがいいな、とはずっと前から考えていたが。 

「あたしは――ええけど、これからが大変よ? 恋人づきあいと、夫婦のつきあいはべつもの、やで」 

 仕事もなんとか続けられそうだし、休みの日には趣味でプログラムも書けるし、どれもこれもそつなくこなせていると思っていた。でもそれだけじゃ男としてというか、挑戦するというか、そのままあたりさわり無く過ぎてゆくのではないかと不安になってきた。何か忘れてるような、やり残しているような気分が抜けなかった。結婚したからっていって、すぐに解決しないかもしれないし、もっと物足りなくなって何かを求めるかもしれない。 

「どこで結婚式するにしても、そっち(あなた)の親御さんはハイヤーで迎えに行かなあかんな。電車もなかなか来おへん(こおへん)ところのホームで、ええ服着てぼーっと突っ立たせるわけにはいかへんし、なあ」 

 美里は目を潤ませて、冗談を言おうとしていた。そういうところもすごく可愛かったし、なおさら早めに機嫌をおさめて、安心させてやりたいなあ、と短くなったタバコを銀の鉄板にすりこんだ。


 数年前よりも確実に、ニュータウン駅から乗る人は減っていたし、皆弱々しそうに見えた。電車は小高い丘をゆっくり登る。遠くを弾丸のように超新快速が駆け抜けて、こっちまでぐらぐら揺れるようだった。本を読むにも中途半端なので、ぼおっと外に目をやった、その時、である。 

――嘘だろっ?! 


 斜めに傾いてカーブを通る、古い古い2両編成の列車。船底の、紐が切れた積み荷みたいに――僕は流れに従ってどたどたと足踏みした。 
 目はずっと、くすんだガラスの向こうだけを捉えていた。なだらかな丘になっている単線の側の道に――夏服姿の、僕がいたのだ。――あれは、何だ?! 


 彼は――高校生の制服姿の彼は、数名の同級生たちと歩いていた。何か話しあっているようで、大げさすぎるほど笑っていた。動き(動作)のひとつ、ひとつが、ばさりと翼を広げる大ワシみたいに、疲れきった肩の僕を畏れされた。……ほんの数秒のことだ。電車はもとの体勢を取り戻し、ひまわり台をめざす。 

 流れ星のゆくえを探すかのように窓にへばりついて鼻息を荒くしたから、スーパーの買い物袋を持ったおばさんは、荷物をすぐさま自分のほうに引き寄せていた。怪しい人にでも見えたのだろう。そんな事気にも止めなかった僕は、彼らも――彼も、もう見つけることができなかった。 

『ひまわり台、ひまわり台。つぎは桜丘…』 
 愛想のないアナウンスに現実を取り戻し、扉から転がり出た。異様に大きなスチーム音のあと、列車はゴトゴトと次の駅を苦しそうにめざす。 

 あれは確かに、僕だった。高校時代の。……高校の頃話していた夢の名前を、かすかに思い出した。


「僕はパソコン使えるエスイーになって、なんかすっげえパソコンソフト作って、そのバージョンアップ代だけで一生食っていったろうと思うねん。ひまわり台にでっかいビル建てて暮らすんや」 

 今思えばかなりあいまいな言葉だ。とりあえずパソコンが触れそうな大学や学部を探していたっけ。 
 今、僕は、彼が言った通りに、システム・エンジニアとなり、パソコンをいじって給料をもらっている。まあまだ受注どおりにプログラムを組むだけの”かけだし”だけど。 
 じゃあどうして、彼より何歩も先にいて、夢を叶えているはずの僕が、彼の姿におそれおののいたのだろうか? 

 どきり、とした。 

 僕が忘れかけていたのは、あの時の自分。――格好良く言えば、初心、だったのだ。


 改札には誰もいなかった。改札機すらなかった。カバンを持ち直した時、確か外に出たところにある花壇のあたりで、傘をたたんでいる駅員が見えた。 
「ああー」 
 駅員はようやく僕に気づいたようだ。 
「すみませんなあ。昼過ぎまで、けっこう降ってたでしょう。大粒やったから心配になって、傘を立てとったんですわ」 
 僕はその手つきをぼーっとしたまま見ていたと思う。目にはまだ、”彼”の残像がちらついていた。 
 駅員によって護られている花壇のなかをうつろに見た。芽吹いてこれから葉が大きくなるかどうかくらいの、ひまわりがあった。……ひまわりを植えてるんだ。 

「ニュータウンからは180円ですわ」 
「あ」 
 駅員がゆっくり手を出してきたのに、僕は身を引いてしまう。 
「あああああの、この切符もらってもええんかな?」 
「?」 

 美里にこれを渡して、今のことを話したら、あいつは笑ってくれるだろうか。いや早めに会いに行って、もう一回謝ってみよう。

 花壇に立てかけていた傘がぱたりと倒れて、雨粒が割れた石だたみに散った。 

4.強い風と雨

「ぶえっくしょいっ」 
 にのべ駅長はまた つばを業務日誌につけそうになった。ガビガビになりかけたハンカチで鼻をかむ。 
 急に寒くなったと思ったらもう雨だ。梅雨時にしては珍しく、風もあるし雨粒も鋭い。天井にもそれが落ちる音が響き、花壇の土には穴があきそうだった。 
「大丈夫かの……」 
 と言いかけてにのべ駅長は、あわてて帽子をかぶり直して右左と示唆点呼しかけた。いま、仕事中なのに、自分は幼いひまわりたちの心配をしてしまったから。――でも駅長室にはひとりしかいない。古い古いパイプ椅子が、みしりと皮肉った。


 がああっという雨音はなかなか止まなかった。35秒延着した各駅停車は、いそいそとドアを開け閉めする。誰も降りないし、乗ることもないから雨を入れているようなもので。 
 改札口やらに立って、ワンマン電車の後ろのランプを見送って、信号と線路を確認してから、また鼻がむずむずしてきたのでハンカチを取ろうと駅長室に走った。でも途中で、駅の入り口に誰かいるのに気づいて水を靴からこぼした。 
 それは見たところ20代くらい、お姉さんくらいの小柄な女性で、足跡から見ると外の県道を歩いていて夕立に遭った、ようだった。震える白い手には、相応のハンドバックとかはなく、キーホルダーがじゃらじゃらいっぱいついた、携帯電話しか持っていなかった。 
 その人はそのまま、小さい足跡を待合場所の木の椅子まで続けた。誰がいるもいないもかまわないそぶりで、じゃらりと手首をひねる。とりあえず鼻をかんでから、にのべ駅長は様子をうかがおうとした 
 ふーっ、というため息がもれて、ぱっと女の人は顔を上げた。右、左、軒先の雨だれじゃなくて、やにっぽい空をうつろにとらえて。にのべ駅長はなんとなく紙のダイヤをなぞって彼女を見ていることからからだをそらした。 
 ところが女の人はまた外へ飛び出したのである。カツカツと滑りそうなサンダルが鳴って、あわてて呼び止めた。 

「ちちちょっとお客さん、まだ雨がやんでないですよ――」 
「だってぇ、」 
 女の人は思ったより丸くてあたたかい声だった。小柄でかわいいともいえたけど、声には学生さんほどのきつさがなかった。 
「圏外やもん」 
「んあ? ケンガイ?」 
「やから、ここ、ここ見てみ?! アンテナ、立ってないやろ? 電話が使えへんちゅうことや!」 
 リモコンみたいな携帯電話の画面を見せてくれたが、さっぱり意味がわからない。 
「……はぁ……わしには、ようわかりませんわ」 

 それでも、女の人は他になんにも持っていないようだったので、とりあえずにのべ駅長はタオルを貸した。出て行くのをやめた彼女は、その端っこで鼻をちょっとかんで、涙目になる。 

”カコン、カコン” 

「あ」 

 電車が近づいてきていた。 
「お姉さん、また飛び出さんといてやぁ」 
 にのべ駅長はあわててホームに走る。


 もはや通過儀礼のようにドアが開いて閉まる。湿気が入って嫌そうにするおばさんも見えた。たぶん『ニュータウン』駅からのバスに乗り遅れて仕方なく、という感じなのだろう。 
 誰もいなくても、扉が閉まるまでを確認して、電車を見送る。――駅長室の椅子に、カッパをかけっぱなしだった――もちろん取りになんか行かない。仕事中だから――彼の、あと何回か、数えるほどになってしまった大事な仕事だから――遠くなるイチマルサン系のきしみだけがいま、彼のそばにいる。むこうの信号まで指差して、制帽をかぶり直した。 


 女の人は足をぶらぶらさせてタオルをもんでいた。 
「雨は……もうすぐ、上がるやろ」 
 返事はなく、もそもそと手は動いていた。もういちどにのべ駅長は、女の人の顔をさっと見てみた。疲れてきっているようだった。 
「傘は、持ってへんかったん?」 
「――――」 

 ちらりと花壇のひまわりを見た。折れたりはしてないようで、ほっとした。 

 もうここ何年か、連れの駅員も売店のお姉さんもいなくなって何年か、ひとりでいるのに慣れてしまっていたから、やけに客が多かったり、こういった不思議な人、がいたりするともぞもぞして落ち着かなかった。あのひまわりですら、昔は当然のように花壇にあったはずなのに、いま緑の葉を見ているとおかしい感じがしていた。 

 この人には、何かを聞けば、はぐらかされようが、何かを答えてくれるんだろうか。でも、あのひまわりと同じように、からだを守ってあげるだけにした。――ちり紙を渡した。 

 今までにも、こんなことがあったような気もする。突然雨が降ってきて傘を貸したことも2度3度じゃないはずだ。蜂が迷い込んできて こどもがびえびえ泣き出したこともある。酔っ払ったおっちゃんのケンカを止めたことも。この駅の、できたての頃からいるんだから、もちろん駅舎の傷のひとつひとつを、知っている。 
 でも、その時どんな言葉をかけていたか、かけてあげていたかまでは、つまみ出せなかった。日誌に記されることもなく、こぼれ落ちていった、この駅の生きている時間。 
 壁がきゅるりと鳴った気がして、にのべ駅長はじっとりと汗をかいた。 

 同じように、同じように、同じことをして、逆向きのイチマルサン系を見送る。 
 同じように、同じように……いや。 
 天気はいつも違った。空のかたちは、雲の色だって、いつも違った。 
 大事な人の誕生日にも、大事な人が先にいなくなった日にも、手振りが大きくなっていたはずだ。誰かの、ために。 

 ひとりになって、話す相手がいなくなったから、話せなくなったんじゃなくて。 
 話そうとしなくなったから…… 

「信号、良し」 
 心をこめて、声を出したとき、湿った空気がふるえた。


「お客さん」 

 切符を持っていない客は、顔を上げる。 
「もし、もし何ぞ(なんぞ)悩みごとあって、手をつくしても八方塞がりになっとるいうんやったら。関係もない私が割り込むのは申し訳ないことです? でもな、でもな。誰にも、何にも(なんにも)、言わんままに、ひとりで悩みを身体の中で回し続けてるんと違いますか?」 
「――――――」 
 じゃらり、とキーホルダーがこすれた。 
「わしは役務があるから、あの、駅長室にいます。それでも、よう声は通りますよって。話しても(はなしても)かまへんことやったら。ああ言葉のつながりとか、そういうのも考えやんでええし、すこしでも心のうちを言うてみませんか?」 
「……」 

 にのべ駅長は半分嘘をついていた。駅長室に入り込んでしまうと、ホームからの音の方が大きくて――外側の窓を閉めるか、窓口まで来てもらうかしないと、話し声はよくわからないのだ。ましてや雨の音がある限り、彼女が話していることを全てききとげることはできない。 
 かさかさと、女の人の声がしているのはわかった。いま、あの人の悩みをきいてあげているのは、水を含んだ、古い駅舎だった。 
 にのべ駅長よりももっともっと、みんなのことばを聞きつづけてきたはずだ。 

 にのべ駅長は日誌を開いて、女の人のことをやんわりと備考欄に入れた。このかた何年も、そこにペンを持ってくることはなかったから、これを見たコクテツ本社の人たちはびっくりするだろうかとちょっと笑った。 
 女の人はまだ口をもそもそさせていた。目があったから、ほほえんで「大丈夫」とあいさつした。今度は踏切が鳴るよりも早く、ホームに出なければいけない。――空はだいぶん明るくなってきていた。 


 あと2度ほど雨が来てゆけば、夏になる。そして、夏になれば……。この駅の終わりはもうそこまで来ていた。 
 刻み付けるように、にのべ駅長は手を振り、歓呼確認し、ランプを見送る。

 最後の日まで、最後の日までは――雨は少しなまぬるい感じがした。 



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