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序章


 その腕輪に出会ったのは、まだ私が若いころだった。
 当時、私はある港町で暮らしていた。古くから栄えていたその町は、様々な文化が混ざり合っては花を咲かせて、そして消えていく場所であった。両親を忘 れ、一般的な幸せを忘れ、ただ目の前にある出来事に日々を費やしながら、押しつぶされて消えてしまわないようにと必死に生きていた。
 そんなころに私は腕輪と出会ったのだ。そのときは、まさか私の人生をここまでこの腕輪に変えられるとは夢にも思わなかった。私も所詮、歴史の波に消えて海に沈む一片の葉だと自身を思っていたからだ。
 腕輪のことを思い出すと、ふと笑みがこぼれる。今はもう、あの繊細な彫刻も、深い輝きの紅の石も見ることができないのは至極残念なことだ。しかし、今でも心に焼きついている。忘れようもない。
 なぜなら、私は、千年をその腕輪と駆け抜けたのだから。
 お前も知りたいかい。ならばこのまま聞いていてくれ。こんな日は、どうもおしゃべりになってしまうからいけない。私も歳をとったのだろうね。



 さて、詳しくと言われても、どこから話したらいいものか。海賊ホーカンが好きなら、そこから始めようか。新しいものの方が記憶も鮮明だから。……いや、やはり最初から順を追って話そうか。そのほうがわかりやすいだろう。
 確かあれは、かのシェスカ大戦が終わって間もないころのことだった。世界最大の大陸であるシェスカで、大地を二分するような争いが数年間続いた。ああ、さすがに今でもきちんと話が残っているのだな。なんだか安心するよ。
 もちろん、当時は今の語り草など比ではないほどの大騒ぎだった。なにせあのシェスカが割れたんだ。我がアールヴ国は海を隔てた別大陸だったが、同盟など のしがらみで参戦することになってしまったのだ。もはや、彼の大陸だけの問題ではなかった。世界中がその行く末を見守っていた。
 当時の私はアールヴ国第二首都であるエアトンにいた。エアトンは、遠くの水平線までよく見渡せる美しい港町だったが、同時に軍事や商業の拠点でもあっ た。首都よりも巨大なこの都市は、国のどこよりも過敏だった。シェスカ東軍が西へ勢力を伸ばしたら、我が大陸グランリージにもその脅威にさらされただろ う。そうしたら、迎えうつ拠点となるのは、エアトンだったからな。
 勝利で幕を閉じたと知らされたときは、それこそ狂ったような大騒ぎだったよ。だが、それも世間とは縁薄い我々の魔法工房にはほとんど影響を及ぼさなかった。少なくとも、私は全く気にしなかった。
 当時の私は、千年に一人の天才と名高かった稀代の魔法使い、カネル・ローハインに師事していた。ん、信じられないか? まあ、別に信じなくてもいいさ。それなら、あとは私の作り話として聞いていてくれ。
 工房にはもう長年いたことだし、いいかげん独立しろだの何だのと言われてはいたが、私はしつこくそこに居残っていた。何歳になったらとか修業が終わった らとか、そんな規則は特になかったしな。そんなものだから、とうとう工房ではカネル師の次にあたる位に就いた。そう、古い呼び方で言うと「次室」だな。工 房長……ああ、師は親方という呼び方を好まなくてね、その部屋の隣に部屋が与えられるから、昔はそう呼んだのさ。魔法の……特にカネル師の工房は、世間一 般のそれに比べると多少異なるものだったのだが、 師が工房と呼ぶのだから工房としておく。
 私は、魔法が何よりも大切だった。唯一の拠り所と言ってもいい。人生のすべてを魔法に費やしたし、それ以外のものは何でも犠牲にした。幼いころからずっ と、師の教えで学ぶことを私の人生とした。まあ、ある意味甘えと言っていいな。あの人の近くにいれば、何の心配もなかったのだから。とにかく、魔法こそが 私の生きる意味だったのだ。
 改めて言う必要はないが、カネル師は魔法の天才だった。もともと半分はただの人間でなく、ラーディラスの民という魔法に長けた種族の血が流れていた。そ のせいか才能や名声に恵まれ、世界中の魔法使いの憧れの的になったわけだ。逸話も数多く残されており、どういう由来かはまたあとで話すかもしれないが、世 界を救ったなどという話もある。
 半分人間ではない師は、私にとって近いような遠いような存在であり、どうしようもなく引きつけられるものだった。幸い、可愛がってもらえたからな。私と他の弟子たちの仲はけして良好なものではなかったが、カネル師のそばにいられるのであればそれでいいと思っていた。
 あの頃、カネル師の工房で私は二人の後輩の指導を任されていた。一人は、ライアという少女。元は旅芸人であったが旅団が解散となり、この工房を訪ねてき た。彼女は、それまで魔法とは縁のない生活を送っていた。ローハイン門下では入門に細かな条件があり、彼女はその対象からあまりに外れていた。あまりに無 謀な物言いに工房全体が呆れかえり、騒ぎになった。結局、カネル師が彼女をいたく気に入ったらしく、他よりも厳しい修行を条件にライアは私の妹弟子になっ た。
 あの子はすばらしく手先が器用で、見事な細工を作った。魔術具に関しては、他の弟子たちさえ感心したものだ。我々はあくまでも魔法の専門家であり、工芸 の技術に関しては今一つ本職に及ばないからな。彼女は自分に経験がないことを一番よく理解しており、最も熱心に勉強していた。私は連日連夜、彼女の修行に 付き合ったりしていたよ。順調に身についていったわけではないが、素人で入門したわりには成長は早かったと思う。
 もう一人は、コリンという少年だ。代々政の中枢を担う大貴族の三男で、父親は大臣の位に就いていた。はっきりした性格で頑固、熱くなると少々手がつけら れなくなるけれども、何でもそつなくこなす優秀な人材だった。育ちのよさを鼻にかけるようなことはせず、身近な人間を大切にする子だった。ときどき誰かと ぶつかるし、ひねくれた態度をとることもあったが、内面はなかなか繊細なところもあった。
 こちらはライアとは対照的に、幼少時より魔法教育をしっかりと受けており、ライアと比べたら入門の経緯はまだ穏やかなものだった。たいていの目標を達成 できる力も環境も彼には備わっていたし、苦労もなく修行を着実にこなしていった。ライアは手先が器用だったが、彼は仕事や生き方が器用だったというか、要 領がよかった。
 コリンとライアとほぼ同時期に工房に入ったこと、そして両方面倒を見るのが私だったこともあり、とても仲がよくて常にじゃれ合っていた。加えて、私を巻きこむのだから敵わないのだ。それはそれで、まるで家族みたいな気分だったので楽しかったがね。
 しかし、私と腕輪との出会いは、私が最も幸福だったこの日々を奪ってしまうことになる。それ以降、私と腕輪は憎しみと哀れみ、ほんの少し共通する懐かしい記憶で結びつけられながら、千年の狂気に囚われ続けることになるのだった。



第一章 第一話



「ああ、あれが先発隊ですね。将軍たちは、早ければ今週には着くそうですよ」
 四角く切り取られた窓を開け放ち、はるか遠くに引かれた水平線を見つめながら、コリンは明朗な声で言った。仕事が早い彼は、私の言いつけた課題を全て終わらせ、その五割増の量が与えられたライアが終わるのをのんびり待っていた。
 彼らは、常に私の研究室に入り浸っていた。別に他に部屋はあったのだが、やれ何やかんやと理由をつけては、彼らは「次室」にあがりこみ、私物までも持ち こんでいた。彼ら専用の茶器まで持ちこんだときは、さすがに何か言った方がいいのかと思ったが、自分の主張を通せる期間はとうに過ぎてしまったので放って おいた。
 ライアは魔法記号の教本――本といっても今のような立派なものではないが、それに栞を挟んで閉じると、猫のように大きく伸びをした。そして、自他共に認める相棒の肩ごしに青い海に眼をやって、ぽつりと呟いた。
「長かったわね」
 いつも快活なその唇から洩れたのは、珍しく感情のない響きだった。彼女はエアトンに来る前、シェスカ大陸のあちこちを歩き回りながら芸を磨いていた。戦 乱の最中、小競り合いにも何度か巻き込まれたそうだから、私たちのように他人事ではない。その時点でもう複雑な心境にあったのだろう。それでも、私の視線 に応えるようにいつもの笑顔を作った。
「次はお祭りですね。もう半月切っているなんて早いわ。エアトンのお祭りは初めてだから、今から楽しみです」
「僕も。いつも土産話ばかりだったから、今度は僕が都の友人に自慢する番です」
 エアトンは、首都のような堅苦しさのない陽気で、軍のお膝元とは思えないほど気楽な町だった。何かと騒ぐのが好きな連中ばかりだったよ。海の精霊の力が 強くなると言われる五日間は、それこそ魔法にかけられたかのように騒ぐ。その雰囲気が人気なのか、祭りは他の町からも多くの人々が訪れる、国のなかでも指 折りの盛大な行事だった。工房は町はずれの高い丘の上に立っているから静かなものだったが。
 街が騒がしくなるこの祝日の前後は依頼をほとんど受けず、工房は唯一の長い休暇に入る。そのため、仕事が一区切りついたほとんどの弟子は帰郷する。それ 以外の者も、余所に発注していた素材や加工の様子を見るため、しばらく他の工房に泊まりこんでいたりした。残っていたのは、ここ以外に住まいがない私とラ イア、父親がこちらにやってくるというコリンだけだった。毎年、この時期に工房に常駐しているのはカネル師と私の二人きりだったが、あの年はいつになく賑 やかだった。
「ねえ、兄さん。当日はどこに行きましょうか?」
 この「兄さん」というのは、この二人だけが呼ぶ私のあだ名だ。ライア曰く、芸人の世界では、実の兄だけでなく兄弟子もこう呼ぶのだとか。それをコリンが 面白がって真似するようになって、二人のなかでのみ定着した。こんな呼び名、私は照れくさかったが、二人がかわいかったのでそう呼ばれることにしたのだ。
「町の子に聞いたんですけれど、真珠のケーキは朝一番で並ばないと売り切れてしまうらしいですよ」
「そうそう。僕は、港のカモメ亭で一級コースを食べたいな。あれを食べないと祭りは終わらないってくらい美味しいんですって」
 普段の工房に休みなんてあってないようなものだから、初めてのまともな休日に二人は心を躍らせていた。もちろん、居残り組には煩雑な雑用が義務となっているのだが。祭りの計画を次々と口に出す彼らに私は頬を緩めつつ、苦い気持ちになった。
「俺は祭りに参加しない主義だ。二人で楽しんでおいで」
 ライアもコリンもそろって不満の声をあげた。それはそれは、きれいな和音だった。そして、私の衣服を両側から引っ張った。
「行きましょうよー。兄さんも一緒じゃないと嫌です」
「僕らは初めてなんです。案内してくださいよー」
 この二人は、育った環境も立場もまったく異なるというのに、とても息が合った。前世はきっと双子だったのだろうと思えるほどだ。そうやって、いつも二人で私に好き放題言うのだった。
「案内はできないよ。俺、一回も行ったことないから」
 かわいい妹弟子と弟弟子は示し合わせたかのように、そっくりの驚愕の表情を返事代わりに寄こしてきた。今思えば、とても愉快な光景だった。しばらく固まっていた彼らは、すぐに叫ぶような大声でまくし立てた。
「どういうことですか? アールヴどころか大陸の三大祭りですよ?」
「そうらしいな」
「このエアトンに長らく住んでいながら、何てこと! まったく、信じられない」
「信じなくてもいいが、真実だ」
「引きこもりはいいかげんやめましょうよー。そんなんだから色白なんですよー」
「はいはい、これは生まれつきだ」
「もったいない! そんなの、パンを一口かじって捨てるのと一緒ですよ!」
「はいはい、もったないね」
「兄さん!」
 最後の言葉が見事に重なったので、私は思わず吹き出してしまった。いきり立つ彼らの頭を撫でつつ、私は諭すように言った。
「俺はこれでいいんだ。気にしないで行ってくればいい」
 ライアが私にしがみついた。この子は旅芸人での経験のせいか大変力が強かったので、ふりほどくのは大変な労力がいる。大抵、それが面倒なので本人が離れるまで待つのだった。
「兄弟子は、下の弟子の面倒をしっかり見るものです」
 まるで小動物のような目で見上げてきたが、感情に流されることなくその小さな額を叩いてやった。
「旅芸人の世界のルールは、俺には通用しないよ。言っておくが、そうするとお前らも後輩にちゃんとおごるんだぞ」
 二人の手はすぐに離れた。軽くなった腕は涼しく、私は力なく窓辺を見やった。私からは遠い世界がそこにあった。もしも世界に魔法が存在しなかったら、私もあの中で笑っていただろうか。ありえない想像をし、我ながら自嘲した。
 私から離れたものの、彼らは幼子のように頬を膨らませ、ぶつぶつと不満をもらしていた。私が適当にあしらっているなか、聞こえる笑い声が余分に一つ。戸 を見やると、カネル師が気配もなく立っていた。この人はいつもこうで、心臓に悪かった。何百年も生きているにしてはかなり子供っぽい人だから、驚かせるの が好きだったのかもしれない。
「ずいぶん楽しそうだね、次室」
「先生。現れるときは、せめて煙でも伴って現れてください。びっくりするでしょう」
 師は肩をすくめた。
「おや、私はずっとここにいたよ。君も鈍くなったね。後輩にからかわれたくらいで心を乱すなんて、まだまだ修行が足りない」
「師匠の指導が至らなかったんでしょう」
 カネル師は一瞬止まり、笑いを押し殺しながら「降参」というように両手をあげた。
「すまない。確かに、その通りだ。でも何年もここに居座っておきながら、私にこれ以上何を教えろと?」
 その直前に修行が足りないと言ったのはどの口だ。そう指摘したかったものの、あとが怖いので私は黙っていた。そんな私の心を無視して、師は慌てて勉強に戻るふりをする新弟子たちに微笑みかけた。
「コリン、ライア。今日は温室に入った気配がないけれど」
 二人は一斉に立ち上がり、苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。他人で遊んでばかりいるからだ、と私は呟いた。ほとんどは商人から仕入れるのだが、 工房でもいくらかの薬草を育てていて、それを世話するのは下っ端の弟子の役目だった。無論、この場合はコリンとライアだな。
「すみません、今やります」
「兄さんも手伝わせますのですぐに終わらせます」
「駄目だ。決まりは決まり。ほら、行きなさい。雑に扱うとグレンに怒られるぞ」
 私に悪態をつきながら、かわいかったはずの後輩たちは階下へ向かった。嵐がおさまったような静けさのなかに、私と師だけが残された。楽しそうな吐息まじりでカネル師は笑った。
「うまくやっているようで何よりだよ」
「困りますよ。俺だっていろいろ抱えている身です。あんなの二人も押し付けられちゃ、おちおち研究もできない」
 カネル師はこちらの心を探るような目で見てきた。こういうとき、少し心臓が痛む気持ちになる。とくに理由はないのだがな。
「そうかい。君はとても楽しそうに見えるけどね。どうだ、頼られるのもいいものだろう」
「嫌味ですか」
 やや口調を強めると、まさかとカネル師は穏やかに首を横に振った。長い髪は、絹の布を思い起こさせるように滑らかに軌跡を描いた。
「君があまりにも他人を遠ざけるからね。教えるのも学びの一環だ」
 別に私が後輩の世話をするのはコリン・ライアが初めてではないが、たいした交流もないまま事務的な指導で終わってしまった。気がついたらそいつは一人前になり、故郷に工房を構えると独立してしまった。まあ、優秀だったのでどうにか生きただろう。
 私には独立しようとかいう目標も何もなかったのでただ居座っていた。古株になった結果が、次室というわけだ。そのころになると、私は外の人間とはほとん ど接触しなかったし、他の弟子とも仲良くなる気がなかった。心は孤独ではなかったが、客観的に見れば寂しい人生だったかもしれない。
「遠ざけるのはしかたのないことです。俺は、あの中に入ってはいけない人間なんですよ」
 眼下に広がる町並みは、掌に収まりそうなのに遠いものだった。私との間に、地の底まで続く溝をつくり、その向こうで燦然と輝いている世界。私は、そこに加わる気持ちが持てなかった。こんな存在が入れば、たちまち傷がついて光を失う気がしたのだ。
 人々が幸福に暮らす場所。そこに醜い感情が入るのは許されず、その調和に自分が入ることで、混沌を作りだすことへの恐れがあった。窓から見える、絵のように美しい風景。触れずにいればいつまでも綺麗だと思っていたのかもしれないな。棘のある薔薇のように。
「たとえそうでも私は悔しいよ。君が、この世界をまだまだ知らずに終わってしまうなんて、寂しいし悲しいんだ」
「先生が心を痛める必要はありません。俺ですらどうにもならないんですから」
 首を傾げながらにこやかに告げると、師は苦笑しながら何か言いたそうに私を見つめた。この人はたいてい心に一物隠してあり、弟子にはめったに打ち明けない人だった。私も、自分のことをあえて理解してもらうつもりもなかった。お互い、腹の探り合いだった。
「昔の君は、今ほど外に恐れをなしていなかったはずだ。むしろ、世界に希望を夢見ていた」
 胃のあたりが苦しくなった。思わず視線をそらしてしまう。私の声は震えていた。
「あのころの俺は無知で無自覚だったからですよ。だいたい、先生ほどの方が何故そう仰るんです。あなたなら、俺が外に出ることの意味がおわかりでしょうに」
「ああ、わかるとも」
 はっきりした言葉だった。私がうつむいていた顔をあげると、すぐに目が合った。
「君が案じているようなことは何も起きないとね」
 そうは言われても、どうしようもないことだったのだ。私と世界が真に幸せでありつづけるなら、外に出ないか死ぬしかない。そう思っていた。
「まるでこの部屋は結界だね」
 ぽつりと呟いた師は、私の部屋を見渡した。何年もの工房生活でため込んだ魔法の書物や道具が所狭しと並んでいた。部屋は主の鏡だな。この部屋も、見渡 してみるとなんとなくお前の人柄がわかるよ。少なくとも、当時の私の部屋は、私の人生そのものだった。今でも、あれは鮮明に思い浮かぶ。私が一生の墓所と して決めた場なのだから。幸か不幸か、それは叶わなかったわけだけれども。
「人間は人間である限り、運命があるものだ。空を飛べない定め、海の深くまで行けない定め、邪に抗えない定め。魔法はそれを打ち破る力なのに、どうして君はあえて繭に包まれる道を選ぶ」
「どうしてでしょうね」
 私はわざと突き放したような言いかたをした。
「確かに、創造主が人間という存在を造ったとするなら、俺たちはその枠組みのなかでしか生きられない。魔法はそれに対抗する唯一の手段。魅力的だと思うの は事実ですよ。でもね、先生。俺は、人間のあるべき姿をもって生きるために魔法を学んでいるんです。その選択のひとつが、世界との交わりを断つことなんで す」
 カネル師の追憶するような瞳の動き。私の向こうに、あの人は何を見ていたのだろうか。いろいろあったものの、結局のところ師は誰よりもこの世界や自分の 出会ったものを愛していただろうから、私がそれを拒むというのは寂しかったのだろう。それでも、私は拒絶せずにはいられなかった。
「傷つけ合うことがわかっておきながら、どうして触れることができましょう。今の俺は、他人と関わってはいけないんです。悲しみや苦しみを生むくらいなら、このままここで朽ちるべきなんだ」
「私は、それまでずっと君を見張っていればいいのかい」
 鋭い言葉の発し方だった。カネル師は、普段は穏やかなお人柄だったが、時折こういうことを言う。言葉に魔力を少し乗せるだけで、たいていの人間は固まってしまう。私も、そうだった。さらに師は続けた。
「君は、私となら傷つけ合っても構わないと言うのかい」
 喉がやけにひりついた。いつの間にか、背中や手が汗で濡れていた。私は、渾身の力で重圧を撥ね返す。
「構わないわけではありませんが、先生なら大丈夫ですから」
 力が一気に抜けた感じがした。師は肩をすくめ、困ったように笑った。
「何だい、それは。まるで私が人外みたいじゃないか」
 と言われても、ラーディラスに代表されるようなある種の少数民族は、一般の者よりも魔力に恵まれて不可思議な現象を引き起こす。ラーディラスは、他が束 になってもかまわないほどの魔力で、ほとんどの不可能が可能になる。たとえば、その長命だな。これは一族全体にかけられた魔法のようなもので、一般人とは 比べ物にならないほどの時の流れの違いがあった。一族全体で共有している魔法というのが、一般人との差だ。それを考えると、ラーディラスに限ったことでは ないが、彼らは人とは多少異なる存在と言っていいだろう。
「君がどう思おうと、私たちも人間だよ」
 悲しそうにカネル師が掠れ声でつぶやくと、いたたまれない気分になった。しかし、何かこちらが言葉をかける前にあちらが口を開いた。
「まあ、信頼の証として受け取っておくよ。君も、ちょっとは変わったようだから」
 と言いながら、ライアの勉強道具を長い指で叩いた。私は他の弟子たちと極力関わらないようにしており、後輩の指導もほとんど断っていたのに、いきなり強 制的に二人の指導を押しつけられたのだ。適当にこなして、さっさと一人前になったら突き放せばよかったのだが、特にライアはどうも放っておけなかった。
 慣れない魔法の勉強は、誰かの協力なしでは不可能だった。彼女が自立するには私が指導をしなければ仕方がない。やる気はあった彼女は、とにかく朝も夜も 質問攻めだ。最初は最も短い言葉で済むように努めたが、それでは納得せずに延々と話しこむ。三日も四日も徹夜に付き合わされたときはさすがにきつかった が、何度もやっているうちに慣れた。
 そうすると、もう一人のコリンに対しても無視するわけにはいかない。二人同時に面倒を見ているのに、彼だけ突き放せるほど私は器用ではなかったのだ。心 に凝り固まった澱がありつつも、私は自分が想像していた以上に彼らと頻繁に接するようになってしまった。彼らは人好きな性格で、なぜかこんな私にも懐い た。そうこうしているうちに、私たちは三人一組で扱われる羽目になってしまった。
「こんなはずではなかったのですがね。先生、これを狙って俺にあの二人をつけたんですか?」
「どう推測しようが、君の勝手さ」
 涼しげな笑顔で、そうやってはぐらかす。ふと、師の眼が猫のように細まった。
「君も、入った当初は相当なものだったよ? 私の傍を離れなくて」
 そこを突かれるのは、少し痛かった。
「……先輩たちをだいぶ敵に回しましたね。俺もあの子みたいなものでしたから」
「それを思うと、君も変わったね」
 笑い合って、ふと感じた郷愁に似た思い。その瞬間、あの部屋は過去も未来も全てが満ちていたとさえ思えるような錯覚にとらわれたのだ。私は、不幸であり幸福であった。
「変わりませんよ。先生と二人でいると、いつだってあのころのままです」
 ラーディラスの民というのは大変な長命で、人間の百倍は生きるといわれている。ラーディラスよりも記録に残す人間の方が早く死んでしまうので実際はわからない。
 師は容姿も人間の目からするとほとんど変化なく、そのころはもう数百年は生きていたはずなのに、私よりもいくらか年下というような容姿だった。ラーディラ ス特有の銀髪と不思議な色の瞳がそう見せていたのかもしれない。なので、師と接すれば接するほど私は時を忘れやすくなっていた。
 そう言ってみると師は微笑した。
「そうかい? 君は随分大きくなった気がするけどね。私は、君がこんなに小さなころから知っているんだから」
 師は、親指と人差し指をほとんどくっつけた状態で私に示した。大げさだが間違ってもいない。師は私のことなら何でも知っているのだ。
「いえ、変わりません。その証拠に」
 私は窓に手をついて、外の景色を眺めた。楽しそうな祭の準備の様子で溢れている。少し調律のおかしい楽器の音が微かに聞こえてきた。
 眩しい光に目が痛み、細めた。昼の太陽は世界を真っ白に塗りつぶす。まるで、世界が無であるかのように。そこに立っている私ですら幻であるかのように。 いや、きっと私は亡霊と大差なかっただろう。小さな部屋に自ら囚われた愚かな亡霊。誰にも知られず気づかれず、ひっそりと朽ちていくような。
「これだけ先生から言われても、俺はまだ外の世界を恐れている。多分、これからも一生、俺は工房から出ることなく暮らすのでしょう」
「怖いかい、世界は」
 淡々とした口調でカネル師は尋ねた。私は、煌く世界へ向かって宣言するように答えた。
「怖いですよ。本当は工房にいても怖い。正直に言うと、俺はもう、魔法と先生さえ存在すればいいんです」
 カネル師は、銀髪からあの不思議な色の瞳をまっすぐにこちらへ向けてきた。私は、千年経った今でもあの瞳が大好きだ。
「そりゃあ、私よりも君の方が早く死ぬから好きなだけこの工房にはいられるけどね」
 そう言いながらカネル師も並んで、二人で栽培小屋の更に向こう、町の様子を見る。窓を開けているので、丘を上ってくる楽団の演奏が聞こえた。少し聞き入っていると、ただ遠くを見ていた師が口を開いた。
「本音を言うとね、やはり私は君にもっと広い世界を見てほしいと思うよ。この町、この国だけが世界の全てと片づけられたくない。私だって、ここに腰を落ちつけたのはほんの数十年前のことだ」
 その言葉を聞いて、私は苦笑いを浮かべた。
「規模が違います」
「君が生まれる少し前だよ。それまでは都にいて、その前は世界中を巡っていた。最初は私も故郷から出ずに一生を送ると思っていた。君と同じで外が怖くて、中に喜びが足りていたから。しかし、外に出てわかったことはたくさんある」
「それは?」
 師は年に似合わず、外見に相応しく少年っぽい笑みを浮かべた。
「教えない。それを知るために外へ出るんだよ。世界が君を変え、君が世界を変えるんだ」
「世界を、ですか」
 私は苦々しく笑った。
 窓枠に収まった四角い景色。工房と丘と町と海。それが私にとっては世界の全てであり、私が受け入れる唯一のものだった。それは、ある種の永遠である。他 は拒んだと言ってもいい。いや、世界が私を拒んだのだろうか。とにかく私は世界を恐れていた。常に、両手に余るだけしかない世界と、その向こうに限りなく 広がる世界の両方を。
「今度二人でハロルドに会いに行かないか。彼も戦乱で大変だったろうから。すぐ近くだし、簡単に行けるよ」
「今さらどんな顔で会えって言うんですか」
 私は皮肉っぽく続けた。心が痛むのを感じながらの発言は、自らの喉を掻っ切ってしまいたくなる衝動を引き起こした。
「近くだというなら、お一人で行ってください。それに、世界を広げても俺は何も変わりませんよ。俺が世界を変えることが出来ないようにね」
「……自分はいらない存在だと思うかい」
 師はいつだって痛いところを平気で突く。下手に付き合いが長い分、私の弱い部分もこの人は知っている。それも、長く生きた者に備わる能力だったのかな。
「思いますよ。俺は世間から見捨てられた子供ですから」
「少なくとも、私とハロルドは、君を見捨てはしない」
 力強い調子でそう言ってくれたものの、私の心は解放されなかった。同時に、揺らぎもした。私は動揺を隠すために、わざと作り笑いをした。
「事実、俺が外に出ないことで何か影響でも?」
「そうだなあ。いつまでも次室が空かないことかな」
 カネル師は私の部屋を見渡した。その部屋も私のものとなってから久しくなった。私の都合のいいように改装していたから、師には随分な変化に見えたかもしれない。ただし、カネル師の部屋との通用口はそのままにしてある。用があるときに開かないと怒るからな。
「いつまでもここにいたんじゃ、他の弟子の邪魔になるよ」
「では、ここの隅に自分の工房を作って暮らします」
 カネル師はその日一番の溜め息をつきながら肩をすくめた。
「頑固だね、君は。……誰に似たんだか」
「師匠ですよ」
 すかさず言ってやると、一瞬目を丸くした師は、優しく笑った。そして、栽培小屋から出てきたライアとコリンを見つめて手を振る。二人も大きく手を振り返し、道具を片づけに倉庫へと向かう。その背を見ながらカネル師は言った。
「私は、やはり君にいろんなことを知ってほしい。でも、君が出ない理由を知らぬわけではない」
「知らないふりはお得意ですか、先生は」
 遠い町を見つめながら、師は悲しそうな眼をした。痛いところを突き合うのはお互いさまだ。そうでもしていないと、この人の相手はできない。
「君は、自分が生まれたこの世界を放棄して、平穏を手に入れた。ここにいれば永遠に崩れないだろう平和をね」
「俺の記憶も俺の存在も、この工房の中だけです。それ以外を知るのはあなただけであってほしい。世界が俺を知らなくても、ここの他に俺がいた記憶なんてなくても構わない」
 私は師に依存し、師のそばにいることでしか自分という存在を確かめることができなくなってしまったかもしれない。外に出ても出なくても、きっと自分とい う人間は存在しないのだから。外に出ないことと他人に知られないこと、どちらが先かは忘れてしまったが、悪循環であった。
「外は、君を傷つけるだけの場所なのだろうか」
 師がふとそんなことを言った。否定することすらも私は怯えて、返答に困った。このころは、自分は傷つくことばかりに怯えていた。むしろ傷つける存在であったことに気づくのは、もっと後になってからであったが。
「世界に希望はありますか?」
 コリンとライアが全ての作業を追え、何かを声を張り上げて言いながら戻ってくる。師匠は話をはぐらかして返答を見送った。てっきり、「あるよ」と即答するかと思ったのだが。
「他人が怖くて、触れ合うことに怯えていた君だけど、あの二人は?」
「……怖いと思わせるタマですか、あいつらが」
「そうだね」
 コリンがライアに何か言ったらしく、ライアは彼の首に手をかけていた。まあ、よくあることだった。我々は思わず苦笑した。
「彼らは君にとってかけがえのないものとなるよ。大切にしなさい」
 確かにそうかもしれない。その言葉を聞くと何故かほっとした。どうした、とカネル師が覗き込んできた。
「まだまだ学ぶべきことはたくさんあります。それが終わらない限りは、俺はここにいようと思います」
 カネル師は両肩をすくめて、呆れた笑顔を浮かべた。
「私が教えられないことのほうを数えた方が早いかな」
 ライアとコリンがこちらに向かってくる足音が聞こえる。騒々しいことこの上ないが、そのときは私たち以外誰もいなかったので咎めることもない。
「じゃあ、久しぶりに言い付けをしよう。外へ出なさい」
 あまりこういう言い方は好きではないと付け加えながら、カネル師は言った。その横顔は、師のものとは思えない別人のような雰囲気を漂わせていた。いつもどこか不思議な人ではあったが、長い付き合いの私も見たことのない様子だった。
「君が知らなくて、私がまだ教えていないこと。帰ってきたらわかるだろう」
「でも」
 師は、私の肩に手を置き、まっすぐ視線を合わせてきた。
「どんな結果でもね、ないよりあるほうがいいんだよ。大切なのは、一歩踏み出すこと。たとえ君がどんな間違いをおかしても、私は君を拒まない」
 開け放した窓から心地よい風が吹き込んできて、カネル師の髪を揺らした。水平線の向こうからやってくる船の影が徐々に濃くなるのを私たちは見つめていた。あの先には、戦を終えたばかりのシェスカがあった。
「まずはもっと広い風を浴びなさい。たまに換気しないと、君の人生腐ってしまうよ」
 その言葉の前半に比べて、後半はやけに軽い調子だった。私は思わず苦笑した。
「とっくに腐ってますよ」
「いいや、今が一番いい時期だ。果実だって、腐る直前が一番美味しいものじゃないの」
 何を言っているんだ、この人は。呆れつつも何か言い返そうとしたとたん、突然大声がし、廊下が一気に賑やかになった。師と目を見合わせていると扉が開 き、二人が息を切らせて駆け込んできた。また何か口論があったようで、二人とも口を膨らませていた。思わず、カネル師と一緒に笑ってし まった。
「なんだい、二人とも」
 揃って、コリンがライアがと言う。喧嘩するほど仲がいいとはこのころから使い古された言葉であるが、私はついつい微笑ましく彼らを見てしまう。それは、 師も同じだっただろう。年々、この人は若者に甘くなっていて、弟子というよりも孫のような接し方だった。無論、年齢差で言えば孫でも済まないのだが。
「まあまあ。次室がね、祭りに連れていってくれるそうだから機嫌を直して」
 二人揃って笑顔になるのがかわいかった。こんなに素直に感情を表に出す人間は、なかなかいない。だからこそ、私は怯えつつも、彼らという新しい存在を受 け入れたのかもしれない。こんな私のことを一度も奇妙な目で見ることがないこの二人を。いや、最初は多少意思疎通が難しかったかもしれないが。
 だらだらと考え事をしていると、期待に満ちた四つの眼が私に向けられた。ついでに、様子を窺うような金色の瞳も。多少、直前のやり取りで気が緩んだ とはいえ、私にはためらいがあった。そのとき、確か十年以上もまともに工房の外に出ていなかったし、出入りの職人や商人以外の余所の人間との付き合いもな かった。壁で囲った小さな世界に満たされ、誰かと心を通わすのを避けていた。そんな人間が、今更何をすればいいのやら。
 開けたままの窓から、突風が吹いた。自分用に広げていた冊子がぱらぱらとめくられる。温かくも冷たくもある風は、時に心地よさを、時に厳しさをこの部屋 にもたらす。世界に苦しみがあるのなら、その分だけ幸福も存在するのだろうか。自分にも、それを分けてもらう権利はあるだろうか。
 世界と傷つけ合うことが怖かった。自分は異物で、完全なる存在を歪にするだけの存在であると信じていた。私が表に出なければ、平和が保たれるのだと。
「たとえ君がどんな間違いをおかしても、私は君を拒まない」
 カネル師はそう言った。信じてもいいのだろうか。師を見ると、何を考えているのかわからない笑顔だった。この後の全てをわかっているような表情。人間は な、帰る場所さえあればどんな遠くに行っても心強いものだ。見えない力で背中を押された気がして、私は思わず頷いてしまった。
「仕方ないな。ただし、おごりはほどほどに」
 声が震えた。たったそれだけの言葉なのに、心臓と胃が痛くてたまらなかった。かわいい年少者たちは火がついたような喜びで、それには気づいていないようだったが。
「先生、先生もお祭り行きますよね?」
 ライアの問いかけに、嬉しそうなカネル師は軽く手を振って否定した。
「いや、年寄りだからね。人ごみももうきついさ。外出せずにのんびり過ごすよ」
 人には出ていけ出ていけと言うくせに。私は、自分の心を隠すように師をからかった。
「そうですね、腰にきたら大変ですものね」
 カネル師は私の頭を少し本気で叩いた。いつも子どもぶって、身の回りの世話をやらせていたくせに。
「私はいいから、若者は楽しんでおいで」
 その年寄りくさい台詞が全く容姿に似合わないので、私たちは大いに笑った。それは、幸福だったあのころを締めくくるのにふさわしいものだった。



第一章 第二話



 祭りから数えること……すまない、細かい数字は忘れた。おそらく、五日ほど前だったと思う。祭りには間に合わないかもしれないと思われていたシェスカへ の遠征軍本隊は無事、群衆の大歓声に迎えられた。工房の丘は若干遠いのだが、街全体を見渡すにはなかなかいい場所だった。コリンとライアはいつもどおり、 工房二階の街側にある私の部屋に居座って、景色を眺めていた。
 道に人がごった返して、祭りのときのように人間の頭頂部が町の隙間という隙間に詰めこまれていた。ああ、私もあの中に入るのか。ただそれだけ、当たり前 のことではあるのだが、私には人生の分岐点に立ったような心境であった。それでも、二人が機嫌よく課題を片づけるようになったのは喜ばしく、私に当日の計 画を楽しそうに話してくれることは嬉しかったのだが。
「軍隊が海を渡るって変な感じね」
「君はシェスカの方が長いものな。シェスカには海を渡っての遠征はほとんどないけど、アールヴだと珍しくないよ」
「そりゃあ、造船も発達するわね」
 我らがアールヴは、シェスカに隣接した弓型の大陸グランリージの端にあるが、他国との境目は険しい山で当時は足を踏み入れることもままならず、海経由で 国外とやりとりをしていた。そのため港が発達し、交易も盛んに行っていた。軍隊についても、海での戦いの方が得意だったのではないだろうか。エアトンは条 件のいい位置に築かれた、軍事と航海の要だった。
「コリンのお友達は?」
 ライアは自前の遠眼鏡を使って、列を覗き込んでいた。道具に遠くのものを映す呪文が刻みこんであって、こういうものを正確に美しく彫るのがあいつの特技 だったのだよ。魔法の文言や理論への理解は今一つだったが、細かい解説さえ与えられたら、どれもすばらしい仕上がりだった。
「よくわからないけど、おそらく将軍のおそばにいるはずだよ。黒髪で少し小柄な感じの人、見えない?」
 コリンも自分で作った遠眼鏡をしきりに覗き込む。彼らに課題を同時に与えていたので、そのようなお揃いの修業の成果はたくさんあった。そのほとんどが、なぜか彼らの寝室ではなく私の仕事部屋にあったのだが。
 アールヴがシェスカに参戦したのは戦争後期であったが、ひとつ大きな戦に臨み、不利だったところを形勢逆転させて勝利に貢献した。しかも、その立役者が まだ子どもといってよいくらい若い士官であり、コリンの友人だというから驚いた。おかげで、シェスカへ国威を示すことができたと世間は浮かれていたよう だ。当時から既にシェスカが世界の中心であり、規模で言ったらさほど劣っていないものの、アールヴは田舎者扱いだからな。ずいぶん喜ばれただろう。
 コリンは自分のことのように嬉しそうで、大通りの真ん中にひかれた軍隊の線を辿っていた。
「下に降りて見に行ったらどうだ。せっかくの晴れ姿だろう」
「いいんですよ。見に行っても、おそらくあいつは気づかないでしょうから。それに、砦で式典があります。父も出席するのでそれに紛れて会おうと思っています」
 ずいぶん軽い感じで言った。そういうところに、彼の育ちを感じた。
 この数日後の式典では、今回功績を残した者に勲章が授与される。実を言えば、それは我が工房の作であった。カネル師の過去を考えると引き受けない方がよ かった気もするが、少々事情が複雑なんでな。勲章を作るとなると人手がかかるものだが、長期休暇に入る前にあらかた完成してしまったし、あとは責任者で ある私が納品日までに最後の確認をしてしまうだけだったのでたいしたことはなかった。
「みんなが作った勲章の晴れ姿、ちゃんと見届けてね」
「さすがに、部外者は式典には参加できないよ。まあ、屋外の広場でやるそうだから、もしかしたら高いところから覗けるかもしれないな。ライア、君のを貸してくれよ。僕のじゃいまいち細かいところの焦点が合わないんだ」
 窓際で騒いでいた二人だったが、ふと動きが止まった。どうした、と尋ねながら私もそばに立つと、工房に至る丘の道を馬車が上ってくるのが見えた。当時でも特に位の高い人間が乗るようなものの出現に、私とライアは顔を見合わせた。
「軍の方が取りにいらっしゃるのは、今日でしたか?」
「いや、聞いていた日にちはまだ先で」
 工房にやってくるのは、仕入れを任せている商人や、下職を頼んでいる別の工房の人間ばかりであった。無論、彼らの中にも富裕な人間はいたが、それでもこ れほどの乗り物を所有するような人間はいなかった。となると、残る可能性は依頼主なのだが、その時期にやってくる依頼主といって思いつくのは、件の軍の者 だ。勲章はいつでも渡せるような状態にしてあったが、渡すのはまだ先と油断していた私は少し焦った。
「父です」
 呆けたように呟くコリンに我々は目を丸くした。しかし、誰よりも一番驚いていたのは彼だった。車は工房の入口のところに停まると、一人の男性を降ろし た。簡素な装いだったが立派な風貌で、窓から呆然と見ている我々に一礼をした。ライアは私とコリンを交互に見つめ、階下へ走った。それにコリンが続き、我 に返った私がそのあとをのんびりと追った。
 一階の応接間に通して、ライアはお出しする飲み物を注ぎに行った。残された私とコリンは、コリンの父レイフォード氏と向かい合って座った。さすが王の懐 刀として名高い人物だけあって、堂々とした佇まい。私はただ気おくれした。こういうときは他の弟子に対応を頼むのだが、あいにくいなかった。まさかコリン とライアに任せるわけにもいかないので、私が工房の代表として依頼されていた品を渡した。
「すみませんね、急にお訪ねして」
 突然の来訪そのものよりも、コリンの父が来ることの方が予想もしなかった事態だ。確か、帰還した軍隊の式典に出席するためにやってきたと言うが、大臣ほどの人物がこのような小間使いをするためにわざわざ動くわけがない。けれども、それは口に出せなかった。
 レイフォード氏は、私が箱から出して見せた品をしげしげと眺めて確認すると、頷いた。
「はい、確かに。素晴らしい出来ですな。工房の慣習を曲げてお願いしたというのに、これほどまで仕上げていただき、感謝いたします」
 宮廷では、王家の次に権力のある人物であった。まるでミラルカの家と……ああ、これについては別の機会に話そう。とにかく、身分が高い者にしてはありえないほど丁寧な礼を言われて、私は拍子抜けしてしまった。というよりも返事に困った。
「お気遣い頂く必要のないことです。師の気まぐれで設けられた休みですし、毎年、人は残っておりますので」
 声が震えた。外の人間とは決まった話題以外の会話は、碌にしていなかったのだ。さすがに私の挙動を奇妙に思ったのか、大臣はしげしげと私の顔を見つめ て、何か考えているようだった。コリンの父親なのだからもっと気楽にできればよかったのだが、コリン自身が、いつも父のことを話しているときと明らかに異 なる様子で黙りこくっているのだから、どうしようもなかった。
「失礼いたします。どうぞ」
 ライアはにこやかに一番上等な器を運んできた。中に入っているのは、シェスカの小国で生産しているという茶だ。これはコリンのお気に入りで、港の人間に頼んで仕入れてもらったものだった。
「ありがとう。こんなお嬢さんもローハイン師の弟子とは、驚きましたな」
 ライアは驚いたような顔をしつつも、控え目に笑った。女性の魔法使いは珍しくないが、カネル師の工房にはあまりいなかった。工房が始まって以来、ライア で三人目か四人目だったはずで、当時、女の弟子は彼女だけだった。とはいっても何の作為もなく偶然だ。まあ、女性の魔法使いで有名なのはやはり、いつの時 代もシェスカだがな。
 大臣は箱の中に勲章を収めて蓋を閉め、間をおいてもう一度開けてずいぶんと念入りに隅々まで確認した。そして、穏やかな様子で言った。
「ただでさえ細かい注文をつけているなか厚かましいのですが、これにもういくらか注文させていただいてもよろしいでしょうか」
 我々弟子三人は、一斉に小さな声をもらした。
「いえ、先ほど申し上げた通り、出来は素晴らしいです。あまりに出来がよいので、もう少し欲を出してみたくなったのです。お時間はありますか?」
 私は戸惑いながらも頷いた。名高いカネル師の工房だろうと、職人とさほど変わらない立場の魔法使いは、依頼人の希望に沿うことが求められる。しかし、品 を見たときの様子からこのような要望が出てくることが考えられず、不可思議に思えた。私もまだ若かったからな、多少うぬぼれもあったかもしれない。
「この勲章に護符の効果を加えることができますか」
 思わず首をひねってしまった。軍人が戦に臨む際、護符を持ち歩くこともあった。しかし、最初から護符を兼ねている勲章など聞いたことがなかった。
「これを陛下から賜った者は誇りをもって身に着け、次の戦場に赴きます。シェスカは鎮まりましたが、まだ世界は不安定です。できれば、彼らにより厚き加護を」
 そうして、強い者は生き延びるというわけか。勲章というものは誉の証であり、存在そのものに意味がある。それらは国から依頼を受けて魔法工房で作るもの の、護りの魔法はほとんどなく、どちらかというと着けた人物の意識を高めるものだ。しかし、それだけで戦に勝てるものなら苦労しない。
 そもそも古い時代のアールヴなどの国で、軍人に与えられる勲章は、その者自身の強さを意味した。守護魔法をかけるとは、次は生きて帰れないことへの不安 があるということだった。それは、死を覚悟して戦地へ向かう者としてあってはならないことだった。しかし、生きのびる可能性があるに越したことはない。強 き者にさえ永遠の勝利は確約されない。彼の言葉に、時代の移り変わりを感じたよ。
 私は、納期を式典の直前まで延ばしていただけるならと返事をし、大臣はそれを承諾した。細工はライアがいるし、特に不自由はなかった。具体的な指示をもらい、数日でどう作業を行うか頭の中で工程を組み立てていると、レイフォード氏が口を開いた。
「ときに、師は今日いらっしゃるのでしょうか」
 返答に困った。師はなかなか捕まりにくい人間で、気がつくと姿が見えず、気がついたら傍にいるような人なのだ。他の弟子たちもいればまだましなのだが、私以外の誰もいないようなこんな時期は、行方がわからないということもたびたびあった。
 どこにいたのか聞けば、いつも「ラーディラスの民のおつとめ」と言ってはぐらかされた。ラーディラスは不思議な民族で、数も少ないものだから詳細は不明 だが、戒律と呼べるものがいくつかあるとのことだった。私にもあまり語られたことはなかったので実態はわからないが、当時の私はカネル師がふらつく言い訳 だと疑っていた。
「申し訳ございません。師は……放浪癖がありまして」
 苦し紛れにそう言ったのだが、その場の全員が沈黙した。いい言葉が思いつかなかったのだよ。しかし、レイフォード氏は何がおかしかったのか、けらけらと笑ったので救われたが。
「ああ、そうですか。それなら、安心いたしました。お元気なようで」
 カネル師が宮廷にいたのは、そのときから数十年前のことで、当時の王と対立があったからと言われている。あまり師は直接語らなかったが、アールヴ王家の 政策に賛同できず、数百年仕えた城を後にしたらしい。彼とはぎりぎり都で面識があったのかもしれない。昔を懐かしむような様子だった。
「父さん。昔から、先生はあんな感じだったのですか?」
「あんなと言われても、現在の師を知らないからわからないよ。そうだな、私がお会いした印象だと少し厳しい方だとお見受けしたが」
 コリンは目を丸くした。
「信じられませんわ。私たち弟子には大らかで、好きにやっていいといつも仰るのに」
 片づけを終えたライアが末席に座り、私に意見を求めるような目の動きをした。
「年齢を重ねたせいか、最近は丸くなったかと思います」
 コリンとライアもきょとんとしながらも笑った。
「兄さんには厳しかった?」
「いいや、お……私が弟子入りした時点では既に、厳しさはありませんでした」
 本当は、穏やかになりましたと言いたかったものの、そう言うには師の若々しい振る舞いが邪魔をした。けれども、私にとっては優しく導いてくれる師であり、親のように慕うべき存在でもあったのは事実だ。なかなか二面性がある人だったと思う。
 大臣とはその後もしばらく話をしていた。時が経つにつれ、コリンもいつもの彼に戻ったし、比較的心穏やかに会話することができた。言葉を交わしながら感 じたのは、レイフォード氏の人柄のよさである。個人的には政は情を優先するべきでないと思うのだが、それを考えても彼は心根まで立派な人で、アールヴは恵 まれているとそのときは思った。コリンを甘やかしすぎず、かといって突き放したりもせず、適度に彼へ工房生活について尋ねていた。
 魔法の工房に入るのは魔法を教養として学べる上流階級が多いとはいえ、コリンの家ほどの貴族になると職業に魔法使いを選ぶのは稀だった。魔法工房が珍し かったらしく、いろいろコリンに質問していたのだが、時々予想以上に鋭い問いもあり、私がしばしば回答を助けることもあった。
 結局、他の弟子がおらず邪魔になることもないので、工房全体を案内することになった。温室や各作業部屋、書庫や倉庫を回ったかな。大臣はカネル師が見当 たらないことを心配していたが、そもそも我々弟子も師の寝室の在り処も把握していないことに大変驚いていた。宿舎には弟子たちの私室があったが、カネル師 のはなかった。時折、工房長室で寝ていたような気はした。
 そして、元の部屋に戻ってしばらく世間話に相槌を打っていると、足音が聞こえた。ああ珍しい、と思った。あの人は本当に幽霊みたいで、普段はあんな音は立てなかったんだ。神経はこのうえなく大雑把なのだがね。
 乱暴に扉を開けたカネル師はまず私を見て、大臣に視線を移した。室内に、電流のような空気の震えが起きた。それは、師の持つ魔力が影響しているのだ。先生が怒ることはめったにないため、ライアやコリンは戸惑っていたが、私も冷や汗をかくような心境だった。
「ご無沙汰しております、ローハイン師」
 まず行動したのはレイフォード氏で、最敬礼をとった。たとえ都を離れても、大臣よりもカネル師の方が位は高いのだ。アールヴ王家に仕えていた年数は相当なものだったから。
「ああ、久しぶり。どうして君がここに?」
「息子の様子を見に参ったのでございます。非常にお世話になっておりますから」
「とんでもない。君はいい息子さんをもったね。こちらこそ、とても助かっている」
 カネル師は極めて静かな口調だった。カネル師が宮廷を去った理由の仔細は、公にされていない。当事者である師と王、そしてその周囲の限られた人間しか知 らないことなのだ。その事情に知らなければ、何ともない会話だろう。しかし、言葉の奥底に、どこか緊張感のある響きがあった。
「で、息子の様子を見にくるだけで君がくるとは考えづらいのだが」
 と言いながら、師は私を横目で見た。反射的に私は答えた。
「はい、それに加えて、ご依頼いただいた勲章についていくらかの変更を」
 ほんの少しだけ首を傾げた師が「何故」とつぶやく前に、レイフォード氏が口を開いた。
「帰還した者たちの話を聞きますと、ただの飾りはもう、今の時代に必要ないものであると思うのです。せめて、我が国の宝となる人々だけでも命を守れたら」
 どこの国の軍も本音は、軍人の装備に魔法の細工をほどこして戦いを有利に導きたいのだ。より強力な武器、より強固な防具を作るのに、魔法の存在は避けて 通れない。ただ、残念ながら何千何万の人間に行き渡るほど量産するのは、難しかったんだ。数万の武具ひとつひとつに細工をし、力を宿らせることを考える と、どんな工房の人間でも気が狂っただろうな。すると、結局優先されるのは、要人ばかりだ。
 カネル師はそもそも、戦争に魔法が介入することをあまり好まなかった。自然の摂理に反する行為の魔法が、人間の本能的な営みである戦いに飼い馴らされるようなことに抵抗があったのだろう。それでも、やむを得ないこともある。少し間を置いて師は頷いた。
「納品が当日になる可能性もありますが、ご了承いただけました」
「わかった。コリン、ライア、あとでいいから準備をしておいてほしい」
 はい、と二人は一斉に返事をした。こういうときでも呼吸が乱れないことに、ひそかに感心した。
「品は、出来次第お持ちいただけるでしょうか。できればその場で確認したいので、次室殿においで願いたいのですが」
 カネル師の心が、止まったかのように思えた。レイフォード氏はあえて、師にとは言わなかった。工房に残っている弟子はコリンとライアと私だけで、あとの 二人はまだ 大きな仕事の対応ができないとなると、私が出ていくのが筋だ。しかし、カネル師は難しい顔をして、大臣と向き合っていた。カネル師は、私が外界に出ること はともかく、宮廷の人間と接することを良しとしなかった。コリンが弟子入りを志願してきたときも、少し迷っていたようだった。結果的に、カネル師は彼のこ ともかわいがっていたが。
 私は私で、その前に交わした師との会話を回想した。外に出ることを拒んだ私と、その背を押そうとする師。もしもこれが別の場所ならば、カネル師は喜んで 私を送り出しただろう。しかし、行く先がまさに王家の管轄内だ。カネル・ローハインの工房にとってアールヴ王とは、やはり特別な意味を持つのだよ。
え? なぜ と言われても、師がアールヴ内に工房を構えた理由など詳しく聞いていないな。カネル師は一度アールヴを出たが、何らかの目的があって帰って来たとしかわか らない。だが、何となく推測できるような気もするんだ。まあ、待て。これから話すから。
 とにかく、その場をどう収めるべきか。カネル師を行かせるわけにもいかないが、ライアを遣ってもどうしようもない。コリンなら多少の道理が通る可能性も あったが、それを大臣が言外に拒否していた。私が行くのか? よりによって、あの中に? 胸が圧迫されるように痛み、鼓動の速度があがるのがわかった。頭 の奥を握りつぶされるような苦しみ。誰かが耳元でささやいているような。ああ、このまま押しつぶされてしまいたい。
「先生? 兄さん?」
 ライアとコリンは、我々を交互に見た。私はまだ残る不快感を出さないように、心配そうな二人に「何でもない」と答えた。そして、カネル師を一瞥してから、本当に弱々しい声で口を開いた。
「失礼いたしました。仰せの通り、私が参上いたします。閣下を直接お訪ねすればよろしいのでしょうか」
 カネル師が何かを言いかけたが、私が目を制したので止まった。空気が少しだけ和らぎ、他の弟子二人は少し安堵したようだった。レイフォード氏は目を細めた。
「はい、お名前を言っていただけたらそのまま私に取り次ぐようにしておきます。以前の係の者に預ける必要はありません」
「かしこまりました。それでは、少々お時間をいただきますが、ご容赦ください」
 心の遠くで笑い声が聞こえた。それは、私が自分を嘲笑しているかのようなものだった。
 大臣が帰り、コリンとライアが細々とした準備をするために退室すると、私とカネル師の二人だけになった。カネル師は、感情を抑えた口調で訊いてきた。
「行くのかい」
「他に誰が出るというのですか。俺が妥当なところでしょう。先方が何を考えているのかはわかりませんが、おそらくこちらが思っているほどのことではないでしょう」
 カネル師の、いつかのやり取りとは打って変わった様子に、少し申し訳なさをおぼえた。まあ、どうしようもないことだが。
「けれども」
「外へ出ろって言ったのは、先生ではありませんか。いつかはぶち当たる問題が二つ重なったのは、むしろ幸運だったのかもしれませんよ」
「避けることもできたはずのことだ」
 椅子に深く座り、師は天を仰ぎながら細く息を吐いた。
「正直、君と城を関わらせたくなかった。生きている限りね」
「城ではなく、あそこは砦ですよ」
「そういう揚げ足はとるんじゃないよ。かわいくないね」
「師匠に似てしまったので」
 私が投げやりに笑うと、カネル師も口を歪めるように微笑した。
「コリンを入れた時点で、予測しておくべきだったんです。まあ、弟子の遅い成長を喜んでくださいよ。何事もなく終わらせますから」
 そうやって師の肩を叩いてみせたが、自分でも手が震えているのがよくわかった。私は、恐怖していた。私の生まれついての欠陥が、私を外の世界から遠ざけ た。この生まれを喜ぶべきだったのか憎んだほうがよかったのか、今でも判別には困っている。ただ、やはり欠陥と呼ぶしかないのだよ。私の体を満たす脆弱な 精神が、私を蝕むのだった。
 ああ、こういう風に話すと大層な出来事に聞こえるかもしれないが、お前が思っている通り、傍からはまったく大したことないことだ。すまない、自分のことを話すのは案外難しいな。そうだ、ただ外に出て仕事をするというだけのことだったんだ。
「まあ、仕方ない。コリンも当日は向こうへ行くのだろう? せいぜい、彼に保護者役をやってもらうんだね」
 その言葉に、私は苦笑するしかなかった。カネル師は年寄りくさい掛け声とともに立ち上がり、ライアたちの様子を見に行きに部屋を去った。卓上にはまだ箱 に入れられたままの勲章があった。開けてみると、窓からの陽光に金が鈍く光った。ライアだけでなく外部の職人の手も大分かかった代物だったから、この完璧 な仕上がりに手を入れるのは少し惜しい気がしたが、私も諦めて部屋を出た。


 追加の注文がきた勲章だが、まあ、最初にできた勲章を下手にいじったら台無しになるので、手を入れるのは最低限にし、新しく作ったものにそれらを取りつ けるような形になった。設計は私が行ったが、守護の文様を適度な大きさに収めるのは難しかった。効果も一定の水準を保ち、それでいて胸を飾る勲章としての 役割を損なわない。理想は、言ってしまうのなら簡単だが、実現するのは難しいのだよ。どこを簡略化し、どこを緻密にするのか、その判断が重要なのだ。形に することができたのは、カネル師の存在があったからだ。
 私が自分の部屋で唸っていると必ず、師はどこからともなく現れるのだ。
「今度はどこで詰まっているんだい」
「小ささか緻密さのどちらを犠牲にすべきか、というところで」
 この日程で動いてくれる者は外にいないので、ライアに細工を任せることは確定していたが、複雑な設計は彼女に負担がかかるのは明白だった。勲章が小さ かったら文様は細かくなりすぎるし、細工のしやすさを考えると今度は大きくなりすぎる。幾重にも線が重なった図を見せると、師は苦笑した。
「君は凝り性というか過剰というか。それが君の性質だから仕方ないけれど」
 耳が痛い言葉を吐きながら、師はそのままペンをとり、私の描いた完成図に次々と書き込んでいった。
「本格的な護符が欲しいなら、別途で注文させてしまえばいいよ。あくまでも本来の用途を忘れないで」
 私がこだわっていた高い性能を大分省いた図案が、単純な丸や四角、言葉で記されていった。肝心な部分は自分でやれということだ。自分はあくまでも、完成のきっかけを投じるだけ。それが、師の方針だった。他の弟子たちにはもう少し優しかった気もするが。
「あの男も、どうしてこんな妙なことを言い出すのかね。思いつきで無謀を言うほど愚かではないと見込んでいたんだが。ああ、こんなことコリンには言えないね」
 呆れたような溜息とともに、最後の一語を書き終えると、カネル師は無邪気に笑って私を見た。まるで、冒険の企みを考えている子どものような笑顔だった。 あれを見ると、背を押されるわけではないが、自分も楽しくてたまらない気分になった。
師の図案は詳細こそ省かれていたが、一人で完成させるところまでもっていくには十分すぎるほどだったしな。私はライアや本職の彫金師ほど細工が得意ではな く、ただ机に向かってどのように魔法を構成していくかということが好きだった。書物と睨みあいながら、私は無我夢中でペンを紙に走らせた。
 かなり急いで作ったものの、時間の余裕がなかったため、やはり当日に納めることになってしまった。その分、一番の傑作になったと思うよ。三つの石を中心 に展開される幾何学模様が、今でも目に浮かぶ。守護魔法の中でも少し特殊なもので、一般的には檻の象徴である蔓を元に、古代の王墓に用いられた神殿文字の 文言をあしらって、さらに……ああ、すまない。お前にとってはつまらない話か。
 あの日、私は、数年ぶりに外の空気を全身にあびた。風は街へと吹いており、私たちを急かすように前へ前へと進んでいった。遮るものが何もない景色は遠く まで続いており、遥か西の山並みも、シェスカ大陸やコスモス諸島まで続く海もよく見えた。ああ、世界は美しいのだ……改めてそう実感した。
 ふと、自分の頬の緊張が少し緩むのを感じ、どこかやりきれない気持ちになった。カネル師には強がってしまったが、私はやはり恐ろしかったのだ。自分が一 歩進むごとに、この繊細な風景がどんどん壊れていく気がした。ぴりぴりと痛む肌に、空気は容赦なく風をあてる。幸福であるはずなのに、私はやはり満たされ ないような思いだった。
 とても雄大な景色の存在が、容赦なく私に押し寄せてくるような思いだった。私は眼前の世界に見とれながらも、まだ遠い場所のような、まるで劇場の客席か ら舞台を観ているような錯覚にとらわれた。工房にいるときも時たま、このような気がしたのだが、そのときは尚更、私がちゃんと現実を生きているのかただの 夢を生きているのか判別がつかない状態だった。それまでずっと、窓の向こうは別世界だったのだから、自分に実感が伴わなかったのかもしれないな。
「兄さん、早くー」
「置いていきますよー」
 二人の呼び声に反応し、ぼんやりとし始めた意識が現実に戻された。
 コリンと、カネル師に途中までの同行を命じられたライアは、二人で追いかけっこをしながら丘を下っていった。真似をするように私は一歩一歩、厳重に封を した荷を手に持ちながら踏み出した。懐かしさにも似た思いがめぐり、朝の匂いの充満した大気が私の胸に侵入した。まだかすかに色が残った空が、天から何か が降臨する兆しを思わせる美しさだったのを覚えている。平原から海、山の稜線の間を埋めるように広がり、上等な絹の質感に似ていた。
 それらを素直に受け入れることができなかったあのころは、それらはまだ異質なものであり、心から楽しむ余裕がない者には強すぎるものだった。もしもカネル師の言葉や大臣の申し出がないまま放り出されたら、きっと私は気が狂っていただろう。
「お祭りの準備も楽しそうね」
「人口密度が高いね。到着する外の人たちの数は、今日か明日が最高らしいよ」
 丘を下ると、港沿いの道にいきつく。街道側とはまた違い、こちらはこちらで品をやり取りする商人や船乗りたちで賑わっていた。町を貫く道々の端では、気 の早い連中が屋台の準備を始めていたよ。布製の日よけは、工房の窓からではただの色の塊でしかなかった。近くで見てようやく、あのまだら模様が何だったの かを理解できた。
 ただ下りてきただけなのに、私はまったく別の町に飛び込んでしまったかのような錯覚に陥った。波の音、海の匂い、鳥たちの羽ばたき、人の気配。それらが私を包んでいた空虚になだれこんで、奇妙な感覚を寄越してきたのだ。
「工房も何か出さないのかしら。絶対楽しいのに」
「何をするっていうんだよ」
「安い魔法具を売ったり、ちょっとした見世物をしたり!」
「おいおい、そんなことしていたら、工房に休みなんてなくなってしまうよ。だいたい、君が大変なだけじゃないか」
 これから軍の中枢に行くというのに、二人はのんきなものだった。私は、そんな彼らが好きだった。確証があるわけでもなかったが、この子たちなら一緒にい てもいいのだと思ったのだ。そして、それ以前に私が拒んだ人々にも同じようにできたら、と自分の人生を感傷的に顧みた。私の生など後悔の連続だよ……千年 経った今でもな。
 エアトンの町を挟んで反対側に、アールヴ軍の本拠地となる砦があった。地理上、エアトンは首都より外敵にさらされる危険性が高く、有事の際もここが要となった。まあ、当時のアールヴは比較的平和な方に含まれるのだが。
 エアトンで最も大きな建築物である砦は、工房の次室からまっすぐ見ることができた。あの灰色の石でできた建物がまるで陰鬱な棺のようで、自分が墓所として選んだ工房とひそかに比較したものだ。
 堅牢な風情は、当時からさらに百年近く前に造られたものだ。もしかしたら、師が建築に携わっていたかもしれない。まだ雑用やお付き役として次室に出入り していたころから、私はこの建物が苦手でね。威圧感や脅迫めいた雰囲気があった。ああ、胸騒ぎといったほうが正しいだろうか。私は予知や遠視の類はあまり 得意ではなかったが、あれだけは例外だった。
 そうそう、カネル師もあまりそういった魔法はやらなかったな。できないのかあえて使わないのかは知らないが、少なくとも好んで使うことはしなかった。もしも未来視が師の趣味だったならば、私たちの未来も大分変わったろうよ。
 戦もそうなのだが、カネル師の中では魔法が使われるべき状況や目的が厳格に定められているようで、やらないものは頑としてやらなかった。傍から見れば、 「空を飛ぶ魔法はよくて、未来を変える魔法はなぜ駄目なのか」と思うかもしれないが、何に反するかということが重要なんだと思う。私は師に比較的近しかっ た人間だとうぬぼれているが、未だにあの人の考え全てを理解することはできないんだ。
 すまない、これは関係あるような、ないような。なるべく魔法のことは話さないほうがいいだろうか。どうも、あのころのことと魔法が重なると、どうも話の筋がずれていくな。蛇足的な話にずれこんだら、遠慮なく言ってくれ。なるべく気をつける。
 あの日はまず、砦の中に入ることで苦労した。コリンの父は、名前さえ言ったら入れるようにしておくとは言ったが、戦後間もない砦の式典の日だったから仕 方のないことだ。私とライアは魔法使いの印しか持っていないため、コリンの身分証明から始まった。彼の父との間に何人もの人を挟み、ようやく入る許可が下 されたときには、日がすっかり高くなっていた。
 門が開くと、荘厳な建物がより一層威圧的に感じられた。何となく、私は入りたくないと思ってしまった。この時点で、私の未来は決まっていたのかもしれな い。拒むことのできなかった、嬉しくも悲しくもある未来が。門番立ち会いのもと中に入り、すぐに扉は閉められた。それは重々しい音に思えた。そして、内部 に詰まっている空気は、私の足を引っ張って邪魔をするような違和感に満ちていた。
 引き渡しの場所を案内され、そこで我々はレイフォード氏と再会した。先の言葉通り、大臣が直々に品の確認をした。箱が開いた瞬間はさすがに緊張したものの、彼はこちらを向いて微笑み、私は安堵した。背中には変な汗をかいていた。
「無理な注文を聞いていただきまして、誠にありがとうございました。これほどの傑作は、そうそう生まれないことでしょう。与えられた者にとって、最高の誉れとなります」
 その言葉を聞いて、部屋の隅でおとなしくしていたライアとコリンもほっとした様子だったのが、背中ごしに伝わった。納めた品はすぐに別室へ運ばれ、いつかのように私たち四人がいるだけの状態となった。
「実を言うと、依頼した日の夜、勲章と護符を兼ねるのは厳しいのではないかという意見をもらいましてね。わがままが過ぎたのではないかと思いましたが、杞憂に終わってよかったです。これも、制作指揮は次室殿が?」
「指揮といってもあまりたいしたことはしておりませんが、おおよその設計は私が。ただ、ローハイン師も目を通してくださいましたし、細工はそこにいるライアが引き受けました」
 レイフォード氏はライアを見た。コリンと何か小声でしゃべっていた彼女は、私たちの視線が自分に向いていることを知ると戸惑い、わけもわからない様子で頭を下げた。すばらしいと改めて大臣に褒められると、ライアは顔を真っ赤にした。
「私はただ、手先を使うことに他の方々よりも慣れているだけです。知識など実力は、息子さんの足元にも及びません」
「いえいえ、これほどの腕前なら十分な才能です。将来が楽しみですね。きっとあなたはよい工房士になるでしょう」
 ライアは一瞬停止し、すぐに笑顔を作りなおした。
「そこまで仰っていただけるなんて光栄です。ご評価に添えるよう、精進していかなくてはなりませんね」
 コリンは、そんなライアを複雑そうに見ていた。私も彼らには何も言わず、ただ曖昧にその場をやり過ごすことしかできなかった。
 式典に出席するという大臣も出ていくと、コリンとライアは窓辺に並んで外を見ていた。敷地内には、すり鉢状になった舞台があり、正装をした軍人たちが集 まっていた。コリン曰く、ここにいるのは軍の中でも位が高い者だということだったが、その数に圧倒された。ライアが呟いた、「国のために戦う人ってこんな にいるのね」という言葉が印象的だった。
「あ、レナードだ」
 結局自分の遠眼鏡を使うことになったコリンが、友人を見つけた。屈強な男たちのなかで噂どおりの小柄な体格がひときわ目を引き、彼のいる場所だけ少しへ こんでしまっているようだった。しかし、彼こそが、後の世に数々の戦での伝説を作り出す武人、レナード=バグウェルだったのだ。
「昔から仲良かったの?」
「うん。一つ年上で、教師が何人かかぶっていたんだ。よく一緒に勉強したよ。本当に、剣は何度やっても簡単にいなされて、悔しかったな。今思えば敵うはず なかったんだけど、昔はレナードに追いつけ追い越せって感じで、ずっとくっついていた。まさか、ここまで出世するとは思わなかったけれどね」
 その声色に何の嫉妬はなく、ただ純粋にコリンは友人の晴れ舞台を無邪気に喜んでいた。その様子がほほえましく、そんな風に祝福できる友人が存在するコリンが羨ましかった。
 私は遠眼鏡を持っていなかったので見えなかったが、ライアとコリンは勲章の授与を見て嬉しそうにしていた。ライアはあまりこういうところが好きではない ので、ついてきてもらって悪い気がしたが、その様子をみてほっとした。私にも遠眼鏡を勧めてきたが、さほど興味はなかったので断った。王のそばでレナード 少年が誇らしそうに立っていたことだけは、なんとなく肉眼で確認できた。
 歌声が聞こえてきた。アールヴ国民なら誰もが歌える、王と国を讃える歌だ。軍人たちが歌っていたのだろうが、コリンとライアも真似をして口ずさんだ。
「兄さんも、そんなところにいないで。ほら、一緒に」
 コリンがこちらを向いた。私は口を開いて声を出そうとした。しかし、できなかった。耳なりと激しい頭痛がし、寒気が全身を襲った。深い黒の闇が、私の心 に食らいつくような、そんな感覚だった。その瞬間、視界は光で眩んだようになり、全身の力が抜けた。どこかで、ざわめきが聞こえた。




第一章 第三話



 気がつくと、天井があった。
「お目覚めですか?」
「兄さん?」
 見知らぬ男性とライアが並んでいた。わけもわからない顔をしていると、別の男性がさらにやってきた。
「いかがでした?」
「おそらく、お疲れだったのだろう。ご滞在を続けられるか都にお戻りいただくか、上で意見が分かれている。そちらもお目覚めですか」
 訳のわからない会話の直後に話を振られても、うまく受け答えることができない。目の前の出来事は正常なのに、自分の頭が対応できなかったのだ。自分はベッドに横になっていたことをようやく理解した段階だった。
「兄さんも急に倒れるから、びっくりしちゃいました」
 ライアが、ほっと息を吐いた。
「ああ、そうだったのか。心配かけてすまない」
 動こうとすると、頭が猛烈に痛んだ。思わず触ると、額に治療用の布が留められていた。倒れた時に切ったらしい。出血もすぐに止められたので、取りたいときに取っていいと言われた。彼らは医療士でそこが医務室だと、ようやくそのころになって理解できた。
 いくらか問診をし、さほど問題はないということで、医務室を追い出された。扉を開けるとまだ日が照っていて、さほど時間がたっていないようだった。
「すまないな、心配をかけた」
 さっそく当て布を取りながら謝ると、ライアは少し重い口調だった。
「兄さん、まだ休んでいたほうがいいんじゃないですか? 顔色、悪いですよ」
「生まれつきだよ」
 私なりの冗談だったものの、ライアはいつものようにおかしそうに笑ってはくれなかった。
「大事にいたらなくてよかった」
 ライアは私の顔をじっと見た。正確には、私の傷を。
「私がすぐに治してあげられたらよかったけれど、悔しいわ。私、まだ何もできないもの」
 ライアは俯いて下唇を噛んだ。私は大臣との会話を思い出し、尋ねても困らせるだけだと思いつつも、尋ねずにはいられなかった。
「やはりお前は、医療士になるのか」
 一口で魔法使いといっても、何種類かに分けることができる。まず、我々のような工房に属するような魔法使い、工房士だな。前にも説明したとおり、魔法を使う職人だと思ってくれ。少しばかり魔法の才に恵まれ、研究と技術の提供に明け暮れる。
 正確に言うと、工房の魔法使いと相反する立場ではないのだが、特殊能力をもつ魔法使いの希法士というのがいる。定義は難しいのだが、カネル師はこれに当 てはまった。炎や水を自由に動かせたり、人を操ったりする魔法使いというのは、昔話のなかにはゴロゴロいるが、実際には数が少ない。工房の人間は常々、人 間の限界とのせめぎ合いに悩まされているが、彼らは最初からそんな苦悩とは関係なく、凡人が届きたくても届かない世界の中に最初から存在しているようなも のだ。工房に所属している場合もあるが、工房士とは普通とはまったく別の魔法を使って生きている。国によっては重宝されたり迫害されたりするな。
 それと、医療に特化した医療士がいる。条件を満たした魔法使いが専門の教育機関で学んで、ようやく資格が与えられる。これは世界共通のもので、厳格に定 められたものだった。魔力を持たない医者は病や傷を患者の治癒能力に頼って時間をかけて治すのに対し、医療士は外傷を瞬時に治すことが主な特徴だ。本当に 限られた者しかなれないので、ある意味魔法使いの上流階層に位置する。これも特殊といえば特殊なのだが、生まれついての希法士でなくても、努力次第でなる ことは可能である。
 ライアは医療士を目指していた。そのためには基礎からの鍛錬が求められる。経験のないライアがいきなり我がローハイン工房の門を叩いたのは、一刻も早く 高い技術を身につけたいからであった。それは無謀とか傲慢とか思われて拒否されても仕方のないことだったが、彼女は頑として意志を曲げなかった。
 正直言うと、私は工房に残ってほしかった。これは、自分勝手な理由であり、本人には押しつけるべきではなかった。それでも、あの器用さは何よりもすばら しい才能であり、工房士として大成するのはまちがいないことだった。治療魔法を身につけたいなら、私やカネル師が多少教えられるとも告げたが、彼女の心は 変わらなかった。資格がないと職業として認めてもらえないし、自分は苦しむ人を自らの手で助けたいのだと言った。医療魔法を定められてない場所で学ぶこと も公には認められていなかったので、もぐりみたいなことはライアの性分には合わなかっただろう。
 案の定、私の言葉を聞いたライアは困った顔をした。そして、私と目を合わせずに口を開いた。
「私はとても、自分の境遇を考えると言葉にできないくらい恵まれていると思います。気にかけてくれる人たちの期待に応えたい。でも……」
「すまない、馬鹿な質問をした。聞かなかったことにしてくれ。ところで、コリンは?」
 少し表情を和らげ、ライアは答えた。
「お父様と一緒に、向こうの建物にいきました。ちょっと、いろいろあって」
 それきり、しばらく黙りこんで、ライアは続けた。
「こういうところにいてわかったんですけど、コリンって本当は全然違う世界の人なんですね。なんか、いつもコリンはああだからつい忘れてしまうけれど。偉い人たちに囲まれても平然としているのを見てると、まったくの別人みたい」
 その瞬間、ライアが一瞬震えたように感じた。けれども、彼女は何事もなかったように笑った。
「ごめんなさい、今言ったことは忘れてください。これでさっきのとおあいこにしましょう」
 そして、最初に通された部屋に戻ると、すでにコリンもレイフォード氏も戻ってきていた。他にも初対面の人物が二人いて、一人はコリンの長兄だった。もう 一人は、誰と尋ねることもなくレナードだとすぐわかった。彼は、近くで見てもとても戦場帰りとは思えない風貌だったが、目の力が強い人物だった。
「兄さん、大丈夫でしたか? すみません、そちらに行けなくて」
 まずコリンが立ち上がり、小走りで近寄って来た。私はとりあえず微笑んだ。
「すまない。ただの貧血らしい。今日は気温が高いから、一気にきたみたいだ」
 それを聞いたコリンは胸を撫で下ろした。そして、私をレナードに紹介した。
「コリンから手紙でよく聞いています」
 レナードは溌剌とした様子でそう言った。今思えば、彼が私のどんなことを書いているのか、もっと聞けばよかったかもしれない。
 夜はまたあちこちに引っ張りだこだというレナードを囲んで、酒を片手に束の間の談話が行われた。ライアは、町に用事があるとかで先に出て行った。実のと ころ、そのとき耳鳴りや頭痛が時折強くなったりもしたので私も帰りたかったが、大臣に引き止められてそのまま居残ってしまった。何となく帰っては悪いと 思ってしまったのだ。ライアとコリンは心配してくれたが、とっさに大丈夫だと言ってしまったため後に退けなくなったのもあった。私が愚かなのは、このとき 始まったことではないが。
「今度の戦はまちがいなく、後の世にも名を残すだろうね。アールヴが戦勝国側に回れたのは実に幸運だ」
「しかし、閣下。我々は戦争末期に少しだけ戦に加わっただけです。厳密に言うと、戦勝国とは言えないでしょう」
 大臣相手に、レナードは物おじもせずに食らいついた。それは、昔からの馴染みがなせる技なのか、彼個人の性格なのかはわからなかったが、見ている私の方が焦ってしまった。
「レナード、金ぴかを胸につけているくせに、ダリエの戦いをもう忘れたのかい? お前の存在が、その証明じゃないか」
 将来の中枢役人候補であるコリンの兄が、諭すように言った。
「確かにそれも大きいが、そういうことではない」
 さりげなく、大臣閣下はご自分の長男の言葉を否定した。
「形はどうであれ、戦勝国側についたということが重要なのだ。これから先も、アールヴは交易でも政治でもシェスカ大陸を避けることはできない。貸しが一つでもあると、今後がやりやすくなる」
 レイフォード氏は、グラスに注がれたまま残っていた葡萄酒のほとんどを、一口で飲みほした。私は、会話にどう入っていいのかわからず、時たま酒を口に運ぶ以外は何もできなかった。そもそも、どうして自分がここにいるのかも忘れかけていた。
「貸しだなんて。僕にとっては借りです。向こうに行って心底思いました。アールヴは、世界にとってはまだ田舎なんだって」
「おい、レナード」
 鍛えた体でよく通る声を発する幼馴染に、コリンは酒で紅潮した顔を一気に青くさせた。
「他人に聞かれたらどうする? ただでさえお前には敵が多いのに」
「本心を隠しても仕方ないだろう。それに、最初から全部口に出しておいたほうが、相手も僕がどんな人間か疑う手間も省けるし」
 それはそうだけど、とコリンは口ごもった。笑う状況ではなかったので堪えたが、私はひそかにおかしく思った。コリンも裏表があまりない人間だと思ってい たが、レナードの極端すぎる性格には到底敵わなかった。ああ、コリンはこんな人物と友人なのか、と思わず納得してしまった。
「アールヴは軽んじられているか」
 息を吐くように呟くレイフォード氏に、一同の視線が集中した。レナードは、はっきりと頷いた。
「すべてのシェスカ人がそうではありませんが、向こうの軍人には多少その意識はありました。彼らにとっては、たとえ何百年という歴史があろうと我々は田舎者なのです。何はともあれ、広い世界を知ることができたのは、今回の最高の収穫でした」
「まさか、同盟相手の兵を殴ったりなんか」
 コリンの問いにレナードは苦笑し、首で否定した。
「上官にたっぷり釘を刺されたからね。それに、僕が配置された先は、恵まれていた。エクシーアのシュリック公の軍に加わったんだ! 評判通りの素晴らしい将軍だったよ。あの方がいなかったから、西軍の勝利は危うかっただろうね……」
 レナードは興奮した口調ではあったが、言い進めるにつれて勢いが緩まった。そして、持っていた杯の氷が溶けるのをじっと見つめた。私たちが想像できないほどの修羅場を回想していたのかもしれない。戦には、その肉体に恐怖を刻み込んだ者しか理解できない領域がある。
 彼は、自分でも意外なほど物思いにふけっていたのかもしれない。はっと顔を上げると、笑顔を作った。こういうところは、ライアに似ていた。レナードとラ イアはあまり会話をしているところを見なかったが、案外、コリン以上に気の合う間柄になったかもしれない。いや、やはり双方にとってコリンの存在は欠かせ ないかな。
「あと、マティアスのフランツ王太子殿下。マティアスは魔法が有名だけれど、あの人もシュリック公に劣らない。僕と年は変わらないけれど、西の若き獅子と呼ばれていて、圧倒的な強さでした」
 レナードは少し口調を強めた。
「大将が優れていない軍ほど悲惨なものはありません。有能な者にもっと位を与えるか、貴族たちが常に民よりも優れていないといけません」
「ふむ、心得ておこう」
 軍の大将といえば王であり、そのすぐ下にいるのは貴族というのが当時の主流だった。時代によって多少変動はあるが、こうした体制は心あるものにとって実に歯がゆいものだった。
「あの、マティアス王家はやはり、魔法使いの中でも特別な位置づけにあるのでしょうか? コリンから聞いていた魔法使いとは随分違うようでしたが」
 そこでまさか私に振られるとは思わなかった。思わず、酒を少しこぼしそうになってしまった。レナードの弁によると、フランツは馬上で剣を奮いながら、光 を自由自在に操って敵を確実に仕留めていたという。この証言からフランツがどの系統の魔法使いであることが予想できるか、数通りの説をコリンとともに挙げ た。その場にいた面々は、教養として魔法を学んではいたが、深い知識は教えられなかったらしく、私たちの言葉に感心していた。貴族には学ぶべきことがたく さんあるにしても、都の魔法使いの怠慢だな。
「無論、マティアスも工房に所属する魔法使いが大半で、産業が活発になるように政府から支援されています。それだけでなく、希法士の保護にも熱心です。初代マティアス王も元は希法士ですから、その子孫であるフランツ殿下もそれを受け継いでいるのでは?」
 魔法を学びたかったらマティアスに渡る人間も多い。王家から離れたカネル師も、一時期はマティアスに身を置いていた。数年経ったらエアトンへ移ってしまったが。
 私の言葉に、コリンがさらに続けた。
「あの国は、魔法が何よりも基準になるところなんですよ。まず、代々、マティアス王は国内の魔法事業を全て取り仕切る立場にあります。魔法の才に恵まれなかった王太子が廃位になったり、王の子女の中で魔法力が高い順に王位継承権が与えられたりもしました」
 彼の父兄は感心したような素振りだったが、レナードは露骨に顔をしかめた。理解できない世界だ、と呟いたのがかすかに聞こえた。
 そこから話題はシェスカ大陸の諸国に広がり、その場唯一の私の出番は静かに終わった。地理や国際情勢のことになると、彼らのほうがずっと詳しいからな。 ふとコリンを見ると、安堵したように笑ったので、私も微笑み返した。正直言うと、これ以上激しくなったらすぐに動かなくなってしまうのではないかと思うほ ど心臓が早鐘を打っていたのだが。
 やがてレナードは付き人らしき人間に呼ばれ、退席した。そのとき、ようやく私も工房へ帰る口実ができた。
「すみません、父が無理に引き止めて」
「いいや、こちらこそ考えももたず残ってしまってすまなかった。心配かけてしまった」
 コリンと小声で話をしていると、レイフォード氏は腰を上げた。
「次室殿、下までお見送りさせていただきます」
「いいえ、とんでもございません」
 突然の申し出に私は固辞したが、結局押し切られてしまった。コリンもついてこようとしたが、父親の言いつけでその場にと留まった。家族で何やら積もる話でもあったのだろう。
「式典の途中で倒れられたそうですが」
「はい、お騒がせしました。勲章授与のところまでは上から拝見していたのですが」
 大臣と二人、並んで長い廊下を歩いた。正確には、私の方が一歩ほど後ろだったが。
「都から連れてきた魔法使いも、あの勲章には驚いていましたよ。私はあまり存じ上げないのですが、なかなか変わった意匠なのだとか。ご自分の創作ですか?」
「先達より受け継いだ守護魔法研究の知識が七割、ローハイン師の助言が三割というところでしょうか。私一人ではなかなか」
「いやいや、ご謙遜を」
 軽く笑い合いながら階段を下り、入口までさらに歩いた。軍の要塞だけに、あそこは入り組んだ造りをしていて、案内がなければ迷いそうだった。
 ちょうど通路が交わるところで、私はまた眩暈に襲われた。ここで倒れてはいけない、そう思ってこらえようとしたものの、曲がったところで片膝をついてしまった。一瞬遅れて、レイフォード氏の足音が止まった。
「いかがなさいましたか?」
 背中に、冷気のようなものを感じた。振り向くと、奥までまっすぐ続く廊下があるだけだった。それなのに、私には闇がぽっかりと口を開けているように思えて仕方がなかったのである。
「次室殿?」
 はっとして、レイフォード氏を見上げる。少し淡白な視線があった。昼間のときのように、また視界がちらちらと揺れた。頭の中に雑音が広がり、その向こう で誰かが何か話しているのにまったく聞き取れないような不快感に襲われた。もう一度大臣に呼びかけられ、私は無礼を詫びながら何とか起き上がった。
「酒には弱くないのですが、少しまだ昼間の体調を引きずっているようですね。ですが、ご心配には及びません」
「そうですか」
 そうやって優しく微笑む大臣だったが、言いようのない悪寒に抱きしめられる。なんとなく、この人を信用してはいけない気がした。コリンの父親なのだし、 人柄も文句をつけられるような人ではなかった。それなのにそう感じてしまった自分に嫌悪感があった。私は再び歩き出しながら、後方を指して尋ねた。
「あの奥は何かあるのですか?」
 本当に何気ない、無意識のうちに出た問いだった。それなのに彼ははっとした表情で私と奥を一度ずつ見つめた。
「ここの者も滅多に使わないような場所しかありません。……何か?」
「いいえ。こんな広い建物に入ったのは生まれて初めてですから、いろいろな場所が気になってしまって。田舎者で恐縮です」
 彼は少しだけ笑った。そして、入口までたどり着くと、こちらが慌てるほどまた丁寧に頭を下げてくれた。私も何度も招待の礼を言い、早足で砦を後にした。
 外に出ると夜の帳がすっかり下りていて、町は意外なほど静かだった。ただ、通りかかる家の中から時折会話が聞こえてきて、祭りの準備をしていることが窺 えた。後でわかったのだが、祭りの準備は昼では屋外、夜では屋内で行うのが慣習だった。思いのほか静寂だった空間で深呼吸すると、清浄な空気が肺を満たし てくれた。
 ライアと医務室をあとにしたときはまだ日も高かったのに、と考えながら、私は工房の丘を目指した。波の音がなぜか優しく聞こえ、思わず涙が出た。
 砦を出て一人になった途端、私を取り巻いていた耳鳴りや頭痛、囁き声などが消えてしまったのだ。ただ存在するのは、無そのものだった。心地よい、安らぎ のような静寂に包まれると、私を押さえつけていた空気は姿を消し、やわらかなぬくもりに満たされるかのような思いだった。
 一瞬振り向いたが、灯が盛大について燦々とした砦の雰囲気に気圧され、すぐに私は背を向けた。後ろから得体の知れない不気味な何かが私に抱きつき囁くような気がしたが、振り払うように去った。
 夜もだんだんと深まり、人通りのない街は心が落ち着いた。光が降り注ぐ昼は眩しくて、私の心を焦がしてばかりだった。それに比べて、夜は、全てをひきつ けるような強烈さはなくとも穏やかな安らぎがあった。色に染まりきった夜の風景はいつも私の目に優しく入り込み、染み渡った。その瞬間、慰められる気分に なったのだ。闇に包まれて隠された夜こそが、私の世界だった。特に、その日のように体全体が外に浸かったときは、それがよくわかった。私は、昼のような空 間に、限りなく不向きな存在であったのだ。
 ふと、胸が熱く締めつけられる気がした。普通の人間のように生きられないことが無念なのか、そんな状況を嬉しく思うのかは自分でもよくわからなかった。 その日、私は一人の人間として外界で他者と触れ合った。確かに、それは私にとって幸運だったのは、当時の愚鈍な私でも自覚した。しかし、きっと自分はこの まま人に知られることなく、永遠にエアトンの片隅でひっそりと朽ちていくべきなのではないかという思いは、相変わらず私の心に根をはっていた。
 砦を出たときの解放感が、私の正直な気持ちだったのだろう。歩きながら考え、そう結論付けるとなぜだかひどく悲しい気分になったのである。いつしか、私 は街中を進んでいるという感覚がなくなり、目の前の光景をまるでどこか別の場所から遠視しているような気分になった。ふわふわと漂うように景色が動いてい く。ああ、このままどこか遠くへ行って消えてしまったら何も考えずにすむのに。自嘲しながら、工房の丘まで上っていった。


 意外なことに、私の部屋に明かりがついていた。逆光になった人影の端が銀色に光り、ああカネル師だと思ったとたん、ほっとした。そして同時に、ようやく 私の日常に戻ってきた実感がわいてきた。のろのろと工房の二階へあがって扉を開けると、遠くを見るような表情の師が窓辺に立っていたのだった。
「おかえり」
 首をかしげて笑う師に、私は頭を下げた。そして、そのまま倒れてしまった。師は一瞬息を飲んだ後、腕を軽くふるって、そばの長椅子へ私を手で触れること なく運んだ。希法士としての師の魔法に触れるのは久しぶりだった。ああ、そうだ。念じて物を動かすのは希法のひとつだよ。ついでに師は、机に置いてあった 布に触れてすぐに私の額に寄越した。直前に乾いていたはずのそれは濡れていた。師ならたやすくできる魔法だった。難しいんだよ、一般の魔法使いがそういっ たことをするのは。
「無事戻ってきて何より、と思ったのだが」
「ご心配おかけしました。でも、用事は果たせましたよ」
「本当に?」
 間髪入れずに、師は尋ねてきた。私は、その日にあった出来事を正直に話した。師は、複雑な心情を隠した様子でそれを聞いていた。
「不甲斐ないばかりです」
「あの砦の中にしばらくいられただけでも立派だよ。この工房とは良くも悪くも真逆だからね。君はレイフォードをどう思う?」
 普段私が座っている席に、師は腰を下ろした。おそらく、師がその椅子に座ったのは初めてのことだろう。
「俺は政治のことなんか全然詳しくないから、大臣としてどうかは判りませんが、丁寧で良い人だと思いましたよ。さすがはコリンの父親ですね」
 窓の向こうには、ぼんやりと灯りに包まれた砦があった。見慣れたものであったはずなのに、まるでもっと遠くにあるような、不思議な感じだった。そのときは、戦後で平常時ではないからだと思った。
「コリンはよくできた息子だと思うよ」
「俺もそう思います。ただ、大臣閣下とは気が合わないかもしれませんね、やはり」
 カネル師は金色の瞳をこちらに向けた。確か、あの人は夜の方が目がよかった覚えがある。
「優しい方ですが、同じ立場であってもコリンほど親しくはできないでしょう。こう言うのも大変申し訳ないのですが、相性が悪いのかもしれませんね」
「砦に何かあったのではないかい?」
 言われてみると、砦を取り巻くような不快感が、風に乗ってこちらまで届いてくるような気がした。私は肯定も否定もできず、あいまいにごまかした。
「あそこは、俺の行く場所ではなかったんです。ちょっと居ただけで倒れてしまうのですから」
「すまなかったね、押しつけて」
 カネル師は珍しく謝罪した。冗談まじりの謝りなら数え切れないほど耳にしたが、師が真面目にそういった態度をとるのはめったにない。というのも、謝るまでの状況自体を師が作ることがなかったからなのだが。
「先生が行くよりもずっといいでしょう? 陛下もいらしていたんですから」
 特に意識したわけではないのだが、つい陛下という単語に力が入ってしまった。気まずかったが、カネル師はそれには触れないでくれた。
「まあね」
「……今でも、王宮に戻るつもりはないんですか?」
 カネル師は、眉を下げるようにしながら笑った。
「ついてきてくれるかい?」
 無理です、と私は首を横に振った。すると師は、自分も無理みたいだと言って、肩をすくめた。私は、カネル師の口から無理という言葉が出たことも意外だった。いや、ラーディラスとはいえ師も人間なのだから、そうなのかもしれないのだが。
「向こうが私を必要としていない。それなら、私から近づいても仕方ないんだよ」
 このとき、私はまだ師の言葉をきちんと理解することができなかった。ああ、お前はカネル師に疑問があるようだが、それはこれからきちんと話すから少し 待っていてくれ。最初は細かく話すつもりなんかなかったから、この間は誤解を招くような言い方になってしまってすまない。ちゃんと話すから。
「先生、もし俺がいないときにあの人が申し出ていたら、断りましたか?」
「いや、もしも君がいなかったら、彼は来ていない。来ても意味がないからね」
 師は、どこからか酒瓶を取り出し、杯に注いだ。そして、もう一つの杯にも同量を注ぐと、私に差し出した。
「禁酒はどうしたんですか。それに、俺はもう飲んできました」
「いいじゃないか。あっちとこっちでは質が違う」
 そのやけに自信のある様子に、目眩がありながらも私はしぶしぶ酒を受け取った。それというのもやはり、カネル師の言葉にはそうさせられる力があるからだった。
「言っておくけど、これ、あとで片づけてくださいね。コリンとライアがここで酒飲むことを覚えてほしくありませんから」
「君の部屋なんだから、君が片づけない限りは置かれ続けるよ」
 そう言って、意地悪くライアとコリンの私物をつつく師に、私は何も言えなかった。少しむくれて杯をあおると、不思議な味が体全体に広がった。喉は熱く、皮膚は冷たかった。私が思わず口を押さえると、師は楽しそうに笑った。
「面白い味だろ? これは薬として昔に飲まれていた。目眩によく効くんだ」
「目は冴えました……」
 カネル師は窓を開けた。夜の匂いを孕んだ風が一気に部屋に入ってきて、私を覚醒させていった。その清涼な空気を吸いこむたびに、生命力をもらっているよ うな気分になった。砦の気配はなかった。町は静かで、祭りの準備をしていると思われる室内の灯りがちらちらと揺れていた。エアトンほどの都市になると、町 は地上の星空のようだった。
「先生、味音痴になりましたね」
「いや。昔は、大人になればこれは美味しく感じると思っていたんだ。やっぱり、私の味覚は間違ってなかったよ。ああ、この不味さが懐かしい」
 カネル師は、味を慈しむように目を閉じた。何を想っているのか、私には見当がつかなかった。大人になるといっても、この人の場合は数百年単位のことだったからな。
「懐かしいものを見つけたから、ついね。こっちは普通の酒だよ」
 別の瓶がどこからか出現した。実を言うと、師が酒を飲む姿などそのときまでまともに見たことはなかった。先ほども言ったように、カネル師は私よりも少し ばかり若い容姿だったから、飲まなくても不思議な気はしなかった。自分が子どものころからずっとそばにいたが、大人ぶりたいときも行動には移さないで、い つも言葉だけで 年寄りぶっていた。
「先生と酒を飲むってなんか変な感じですね」
「昔のことを考えると、ふと飲みたくなるんだよ。過去を語る相手は……もうどこにもいないから、いつも一人だ。だから、君が飲める年になったのは感慨深いね」
 その言葉を隅から隅まで噛みしめると、先に飲んだ酒の味が口の中に広がったような気がした。
「まるで親のようですね」
 私が苦笑すると、カネル師も私の真似をしたような表情を浮かべた。
「親だよ。ずっと面倒をみているからね。君はもちろん、弟子たちはみんな私の子だ。君ほど難儀な人間はなかなかいなかったけれど」
 胸が痛かったが、どこか笑えた。それほどの時間がこの工房で流れたということなのかと、いささか感傷的になった。カネル師がそんな話題を出せるのも、長い時とその間のやりとりがあったからだと考えると、やはり私は工房での生活が愛おしくて仕方なかったのだ。
「なんとなく最近は昔の夢をよく見るのさ。もしかしたら、良いことか悪いことの前兆かもね」
 カネル師は多くの魔法を自由に使いこなせる能力があったが、未来予知などは使うことができなかった。それが師の素質なのかラーディラスの性質なのか、 今考えると判断が難しいな。なんとなく師の性質のような気がしてきた。ラーディラスの血は半分だからな。他のラーディラスも、一つか二つの能力に特化して いる者が多かったからな。それを考えると、師は広い分野での……ん? ああ、他のラーディラスか。何人か会っているんだ。いや、二人だけではない。
 このとき、もしも私に未来を知る力があれば、カネル師に何らかの進言をしただろう。しかし、何も知らなかった私は、また年寄りぶりたいが故の発言だとし か思っていなかった。本当に、私は馬鹿ものだな。しかし、たとえ知っていても、自分に何ができたのかもよくわからないんだがな。
 そうして、私はゆっくりと破滅への道を転がっていくのだった。
「酒もね、ただの懐古の延長。仲間は大酒飲みばかりだったけど、見かけが子どものせいで、誰も飲ませてくれなかった。あの中では二番目に年上だったのに。で、ようやく見かけも大丈夫になったころには、誰もいないときた」
 そう言って自嘲するように笑うから、私はどう言葉をかけようか悩んだ。それに気づいた師は、少なくとも私の目からは全然そう見えない調子で謝った。
「すまない、君の立場じゃ何も言えないね。気にしないで、ただの独り言だよ。もう一杯どうだい?」
 返事を待たずに酒を注いできた。仕方ないので、そのまま口をつけた。ここなら、寝こんでしまってもどうにかなると思ったから。
 砦で飲むよりかはずっと心地よい気分で、私はエアトンの夜を眺めた。次室は町側なので、海は少ししか見えなかったが、その分美しく整えられた町や街道が 伸びる平原、神聖なる山々まで見渡せた。私は昔から、そのような景色を見るのは好きだった。だから、ここにいるのもなかなか好きなんだ。少々狭いけれど な。
「砦以外はどうだった? 少しは歩いたんだろう?」
「さすがにうろちょろはできませんでしたよ。時間があまりなかったものですから。でも……」
 たった少し近づいただけの景色。ただ壁がなくなっただけの世界は、思いのほか心地よかった。それは、しがらみがなかったからで、もしも人や物に縛られたらきっと不快になるだろう。しかし、単純に向き合うだけなら、私はこのうえなく幸せになれたにちがいない。
 こちらの出方を窺う師に私は笑いかけ、出てよかったと思いたい、と答えた。
「先生は、故郷から外を出るとき、どうでしたか?」
 ラーディラスはずいぶん数が少なく、現在は世界各地に散っている。しかし、もとは一つの島で暮らしていた。師も、世界を旅する前はそこでずっと生活していたのだった。
「そうだな、あんまり感慨はなかったよ。何せ、外は碌でもない場所だと思っていたから」
 杯を片手にそう言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。そんな私を見てカネル師も笑い、しばらく意味もなく二人で笑い合った。
「だから、島から出るのが面倒くさくてね。すごく嫌がったものさ。案外、出てみたら面白かったけれど。迎えにきた人間がよかったからね」
「怖くありませんでしたか?」
「いや、怖くはなかった」
 くいっと酒をまた一口飲んでいた師だが、急にまじめな調子になったので、私は少しだけ戸惑いを覚えた。それはすぐに消えたのだけれども。
「一人ではなかったから」
 私はそれを、迎えにきたという仲間だと解釈した。
「仲間がいると心強いものでしょうか」
 ふと、その日のことを思い出した。外に出ても思いのほか何もなかったのは、ライアやコリンがいてくれたおかげかもしれない、と。自分一人ではどこにいても居心地が悪く、精神はもっと激しく乱れ、どうすることもできなかったと思う。
「ああ、だから、君も彼らを大事にしなさい」
 いつの間にやら説教されている気分になり、私は思わず苦笑した。そのときには、額に当てた布の水気はだいぶ蒸発していた。
「今夜はずいぶんおしゃべりですね、先生」
 開け放した窓から、急に少し強い風が吹いた。師の銀髪があおられ、水面に浮かぶ月のように揺れ動いた。
「年をとったってことさ」
 師は、瓶の中に最後まで残っていた酒を、無理やり自分の杯に注いだ。
「自分はああはなるまいと決めていたんだが、やっぱり時が経つとその分話したくてたまらなくなるらしい。君もすぐにわかるさ」
 このときはまだ、そんなのどれくらい先なのか見当もつかなかった。若かったんだな、やはり。今は師の気持ちがよくわかるよ。
 ふと、鼻歌が聞こえた。懐かしい、師の歌だった。私が弟子入りしたころはよく歌っていた。師の母親か誰かから教わったのだと、そのときに聞いた覚えがある。
「久しぶりですね、先生が歌うのは」
「そうかい? じゃあ、きっと今日はそういう気分なんだね」
 カネル師はあまり歌が上手ではなかったが、幼かった私にとっては子守唄のようなものだった。その前の師の言葉通り、工房に入ってからは、カネル師と…… もう一人、兄弟子が親代わりみたいなものだったからな。なんとなく安心するような気分になったのだが、自分が子どもに返ったみたいで少し恥ずかしい気もし た。
 開け放した窓から、また風が吹いた。すると、今度は寒気がして、そんな季節ではないのに私は思わず歯を鳴らした。脳の重力で全身がつぶされそうな気分だった。
「どうした?」
「酔ったみたいです」
 自己認識がどうも薄い私がそう告げると、師は、それはすまないと返してきた。いつものように全然すまなそうに見えない態度で言うのだから、苦しかったも のの、少しほっとしてしまった。カネル師は私の方に歩いてくると、布に手を当てた。その瞬間、カネル師の魔力の気配を感じ、すぐに布はまた湿った。
 師は優しく笑っていて、それに安心する自分が情けなくなった。どうしてもっと普通に生きられないのだろう、どうして誰かに世話を焼いてもらって、頼らな いと何もできないのかと自己嫌悪に浸ったが、どうしようもないことだった。幼い自分の性質を恨み、他の手段をとらないことを軽蔑した。
 せめて、誰かの役に立ってから死にたい。その考えが浮かんだ瞬間、泣きそうになったが、師が話しかけてくるのでこらえて、何もなかったように相槌を打った。
 師は、残り少ない酒をちびちびと飲みながら他愛もない話を続けたが、いきなりぽつりと呟いた。
「レイフォードのことだけれど」
 それがいつもよりもずっと低い声だったので、私は動揺して酒を少し床にこぼした。
「今後は関わらないほうがいい。憎むほど悪いやつではないけれど、信用しないで。彼は、国と王のためなら何でもやる人間だ。私だろうがコリンだろうが、君ですら利用するだろう。コリン伝てに干渉されても、できればはぐらかしてくれ」
 信用しないほうがいいというのは自分も思った。そう言ってもよかったのだが、あえて言わないでおいた。
「忠告ですか?」
「命令はしたくない。あえて言えば、頼みだね」
「了解いたしました」
 カネル師は苦々しい顔つきで星を睨んだ。
「コリンにはこの話に触れないでおいてくれ。彼に申し訳ないから。それと、私に会いたいと言っても、どうにか言い訳を考えて断わってくれないか。強力な魔法使いよりも、ああいった魔法とは無縁の人間のほうが付き合いづらい」
 カネル師と大臣の間に何があったのか、私はついに詳細を知ることができなかった。しかし、師がここまで言うからにはよほどの事情があり、私は師のために自分ができることをしたかった。まさか、それがこんな結果になるなんて思いもよらなかった。
 私は、結果を読み間違えたのだよ。もしもあのとき……いや、過去に「もしも」は不要だな。私の人生、後悔ばかりだとは言ったよな。本当に、もしもを言い たくなる状況には何度も出会ったが、すべて仕方のないことだった。まあ、あの事件のおかげで、お前や他の者たちと出会えたのだから、こうなるべくしてこう なったとしか言いようがないな。
 その晩は、結局その話で終わった。ライアは町の友人の家から夜遅くに帰り、コリンはこの翌朝に戻ってきた。一緒に行こうと約束した祭りまで、あと少しだった。




第一章 第四話




「もう、先生ったら。兄さんにお酒なんて飲ませて」
 ライアの呆れた声が部屋に響いたのは、祭りの前日のことだった。私は、砦を訪ねた日から抱えていた頭痛がひどくなり、体調が思わしくなかった。おそらく酒を久しぶりにしこたま飲んだからだろうと、そのときは結論づけた。
 いつものようにライアはコリンの三割増しの課題に取り組んでおり、コリンは颯爽と終わらせてしまっていて、私の蔵書を読んでいた。私は重い体を預けるように、椅子に座らせてもらっていた。
「すまない、俺が不甲斐ないんだ。存分に怒ってくれ、俺が許す」
「コリンが三日酔いなんてしたら叩きつぶしますけれど、兄さんに怒れるはずないじゃないですか」
「おい、ライア。君は僕を何だと思っているんだ」
 コリンがパタンと本を閉じた。聞いていないような素振りでも聞いていたようだった。
「お祭りは?」
「最悪、行けないかもしれない」
「えー!」
 直情的すぎるほどの感情表現をしてくれた。
「お前らだけで行ってくれ」
 騒いでいた彼らはそこで静かに顔を見合わせ、首を傾げながら笑い、別の方向に目をやった。それは全て、寸分狂うことなく同時に行われた。
 その後はしばし沈黙が流れたが、やがてコリンが机を指先で叩いた。
「ライア、終わった?」
「ごめん、まだ」
 机にかじりついたまま視線を上げずにライアは言い、コリンは口をへの字に曲げた。
「じゃあ、僕は先に温室行ってるから」
「待って、すぐに終わるから!」
 そこでようやくライアは顔を上げたが、コリンは扉に手を掛けた。
「君は課題やってなよ。僕一人でやった方が早く終わる。分担だよ」
 それは、彼なりの優しさだった。ライアは一瞬とぼけた表情をした後、少し考えて頷き、また机にかじりついた。コリンはにっこりと笑うと、部屋を出ていった。私はどうしようか迷ったが、コリンを追いかけることにした。
「待て、コリン。俺も手伝うから。さすがにお前一人では少々きついだろう」
「今は重労働してはいけませんよ。体力ないくせに」
 少し弾んだ調子の声は、まさしく工房にいるときのコリンだった。無論、砦でも快活ではあったが、レナードと比較しなくても若干おとなしかった。あちらが 「貴族としてのコリン」だったのだろう。どちらが本当のコリンかというと、なんとなく貴族側のような気がしたが、私は工房のコリンの方が好きだった。
「体力ないとか言うな」
「それだけの力があったら、お祭り一緒に行けますよね」
 そう言われると、言葉に詰まった。しばらく私の顔をじっと見つめていたコリンは、大げさに溜め息をついた。
「お祭りのためにおとなしく寝ていてください。大丈夫、さぼったりしませんから」
 実を言うと、後輩の指導をするに寝ていてはいけないということで、若干の無理をしていた。こんな風になったのは酒のせいではなく、外の世界に交わったせ いだと私は思っていた。本当にしょうもない体質の自分を笑ったが、周囲の者にはこのおかしさは伝わらなかったらしい。口だといろいろ言っていたが、コリン もライアも本当は心配してくれたのだよ。
「でも、困ったなあ。下手するとライアと二人きりか」
「なんだ、また喧嘩でもしたのか。いつだって二人なのに」
 直前まであんなに仲が良かったのにそれはありえないとは思いつつも、私は尋ねた。案の定コリンは首の動きだけで否定し、私を力のない目で見てきた。
「複雑な事情があるんですよ、こっちは」
「ああ、そうかい。コリンは工房に来ると生意気になるな。家族とかの前の方が、お前はまともだ」
 私は何気ない口調でからかったつもりでいたのだが、ふざけて笑っていたコリンが急に真面目な顔になった。ふと、あの晩のカネル師を思い出した。
「兄さん、あの日は父が引き止めて本当にすみませんでした」
 そう謝られるのは、当日と翌日を合わせて三回目だった。私は何度も、自分の体調管理がなっていないからであり、大臣のせいではないと言っていたのだが。
「いえ、父が悪いんです。父が兄さんを引っ張り出すから……」
 そこまで言っておきながら、語尾を濁した。コリンは時々、こんな表情を見せた。家と工房に挟まれて苦労していたのだろうが、そこに私が入るのは、客観的に考えると奇妙な話であった。
「何か、見送られたときに変わったことはありませんでしたか?」
「コリン?」
 コリンは少し俯いた。その雰囲気は、間違いなく砦の中にいたときとそっくりだった。
「……あまり、父を信用しないでください。息子でも、ときどき何を考えているのかわからないときがあるので」
 私もそう言ったのでこう言うのもなんだが、ここまで信用するなといわれる大臣が少し哀れになってきた。本当に、その時まで彼が工房に何か問題を起こしたことはなかったのだ。強いて言うなら、勲章の再発注くらいだろうか。
「でも、コリン」
「僕、行きますね。兄さんは休んでいてください」
 コリンが指を私の鼻先に当てるようにすると、廊下の向こうからカネル師が音もなくやってきた。カネル師は不思議そうに私たちを見たが、コリンに向かって微笑みかけた。
「コリンだけかい。悪いけれど、ライアと一緒に、町のウェイトンのところまで行ってきてくれないか」
「はい、わかりました」
 コリンは師に丁寧に礼をし、ライアのいる次室まで戻っていった。その擦れ違いさまに彼は、「先生には今の話はしないでください」と早口で静かに言い残し た。今思うと、師も含めた私の周りは秘密が多い人間ばかりだったな。しかも、師弟三人揃ってここまで言動が一致するとは。もしかしたら、彼かライアもいつ か次室となって師の補佐に当たるのではないかという予感が、私によぎった。
「どうした?」
「寝ていろと言われました。今日は甘えてそうさせてもらうつもりです。明日のためにもね」
「それがいい。ゆっくり休んでいなさい。すまないが、私も少し出かける」
 どこへ、とは聞かないのが我々の暗黙の了解だった。まあ、師で言うところの「おつとめ」だな。ラーディラスの師がへたに外へ出かけると一般人が騒いで大 変なことになるから、この工房内のどこかに引きこもる場所か秘密の出口を持っているという噂が弟子たちの間で流れていた。
「行ってらっしゃいませ。では、俺は表に鍵をかけてきます。コリンとライアなら、いつも裏口から出入りしているでしょうから」
 カネル師は無理するなと言ったが、私は大丈夫だと振り払った。別に大した距離ではないし、まさか師に鍵かけなんて基本的な雑用をさせるわけにもいかなかった。多少身体が重かったのだが、私はそのまま表口へ向かった。
 玄関の扉には外側から見れば真っ黒な板が嵌め込まれていたが、それは内側から見るとただの色なし硝子に変化するのだ。門の向こうでちらちらと風に揺れる 草花もはっきりと見えた。それがいつもの風景だった。しかし、そこにまた黒い影があった。怪訝に思う必要はなかった。あのときの、レイフォード氏の馬車 だったから。
 私は、思わず扉を開けてしまった。向こうから見れば、扉などただの飾りつきの板でしかないわけだし、鍵もかけてしまえば誰かがいることも知られなかったはずだった。なぜ自分がどうしたのかはわからなかった。警戒心がなかったわけでもなかったのだが。
 大臣は私の姿を確認すると、また丁寧に頭を下げた。ここでカネル師がいたら飛んできてどうにかなかったかもしれないが、間は悪く、もう出かけたあとのようだった。残念ながら神出鬼没の先生は危険察知能力に乏しかったようである。
 とりあえず、応接間に案内した。状況に合わせて来客の対応などできない私はライアに倣ってまた茶を出そうとしたが、それは断られた。供は外に待たせておいて、部屋のなかに私と大臣の二人きりだった。
「顔色が悪いようですが、その後はいかがですか?」
 私は、精一杯の言葉で返した。
「ええ、まだ少し疲れが残っておりますが、だいぶよくなりました」
 大臣はそんな私の目をじっと眺めてきたので、ふるまいに困った。ばれて困る嘘ではなかったが、どうも冷や冷やしてならなかった。このとき気づいたのが、 大臣が私をしげしげと眺めるから嫌な気配を感じているのだということだった。実はコリンもそういう癖があったのだが、親子の遺伝だろうか。しかし、コリン に対しては何の不快な感情もなく、不思議だった。
「そうですか。あのあと、車でお送りすることを失念していましてな、大変失礼いたしました」
 身分から言っても、私のような者が乗れる車など限られているから、別によかった。しかも、そのときは大臣やレナードたちと一緒に酒も飲んでいたし、そこ まで 心配されるようなこともなかった。ここまできて、私とカネル師があの後酒を酌み交わしたことを大臣が知らないことに行きあたった。しかし、今さら言うのも 体裁が悪かったので黙っていることにした。
「いいえ、とんでもない。あんなたいそうなところをお訪ねして緊張しただけです。私のような者が入る機会などめったにございませんから」
「何を仰いますか」
 大臣は口の両端を上げる。そんな印象を抱いたのは、口だけで笑っているからだ。目の奥には何か重要な思案を巡らせていて、私との雑談はそれに没頭しないための手段のように思えた。
「本日はどのようなご用件でしょうか。あいにく、師は外出しておりまして、ご子息も工房の用事で町に下りていますが」
「ああ、さようですか。では、次室殿に頼みたい」
 私の言葉に間髪入れず、大臣は言った。
「今から、イザヴェルにおいでいただけませんか」
 イザヴェルというのは、軍やその関係者が言う、エアトンの砦の正式名称だ。我々一般人はただの砦で意味が通じるが、中枢の人間にとっては複数ある砦の一つだからそう呼んだ。
 私は戸惑った。助けを出してくれる人間なんて誰もいない状況で、不得意な人間と向き合わなければならず、しかも思ってもない申し出という状況に適切な対応をする能力は持っていなかった。
「どのようなご用件でそのようなことを仰るのか、お尋ねしても?」
「誰もいないということですが、ここでは憚られます。それに、実際にご覧になるほうがよいかと思います」
 何を見るだと? 私が問うよりも先に、大臣は畳みかけるようにして続けた。
「次室殿にどうしてもしていただきたいことがあるのです」
「いえ、私は……」
「ローハイン師に深く関わる、重要なことです」
 言葉が詰まった。カネル師のことなら、師に直接相談すればいい。それなのに、なぜこの人はここまで必死に私を誘い出そうとするのか、理解できなかった。けれども、私はその内容が気になり、つい尋ねてしまった。
「どういうことですか?」
「知りたいのでしたら、ぜひお越しください」
 そこで流せなかった自分は馬鹿だと思う。しかし、師のこととなると簡単にかわせはしなかった。結局、彼に気圧され、私は頷いてしまった。たいして面識も なかったくせに、その方法を大臣は心得ていたようだった。そこまで言うなら用件をもう少し知って、それから考えよう。そんな浅い考えで、私は彼とともに、 あれだけ不愉快だった砦へと向かったのである。
 大臣といるだけで、砦での扱いは格段に変化した。すぐに建物の中へ入れたし、すれ違う者が皆、レイフォード氏だけでなく私にも頭を下げるのだ。次室と いっても工房内でもあまり偉い立場にはいなかったのだよ、私は。だからそういった扱いには不慣れでね、戸惑ったものさ。別に私が偉いわけじゃなかったのだ がね。
 彼が迷わず私を通したのは、あの廊下の交わる地点だ。そして、その前は私が行かなかった突き当たりへと歩いていった。扉の前に衛兵が二人いて我々に礼を し、中に入るとまた兵が二人いた。その奥には地下への階段がひたすら伸びており、まるで地獄まで続いているように思えた。
 階段は幅が思ったよりも広いのだが、灯りもほとんどなく、レイフォード氏が手に持つ小さな灯りだけを頼りに二人で進まなければならなかった。どこまでも 深く暗い階段を、この人と二人きりで下りなくてはならない恐怖があったが、それでも私は足を止めることができなかった。それは彼の言うことが気になったこ ともあり、私自身の怖いもの見たさに似た好奇心がうずいたのかもしれない。
 一段降りるたびに寒気がした。それは、あの晩、次室で感じたものと同じものだった。そこに来てわかったのが、その正体が嫌な魔力の気配であることだ。 けれども不思議に思ったのは、カネル師である。こんな力、カネル師ほどの人だったら気づかないはずないのに、師は私の看病以外はただ他愛のない話をしただ けだった。気づかなかったのか、それとも気づいていないふりをしたのか。なぜ、と私が一人ごちると、先を歩いていた大臣が振り向いた。
「恐れ入りますが、もう少々お付き合いください。少し明るくいたします」
 大臣は手に持っていた灯りを一度こちらに向け、火を強くした。その瞬間、初めて壁の異様さを認識した。ひたすら墨で模様が書かれていた。私もよく知って いた封印の文様だった。確かにこれだけやれば効果はあるが、それでも本来は小さなものに用いるものであるはずのその文様がこの壁にある事実に驚いた。異常 なほど執拗に、全面にわたって書かれていることにも。それは、まるで呪いのようだった。
 階段を下りる時間は、非常に長く感じた。レイフォード氏は全くしゃべらないし、壁の模様も何か悲惨なことが起きたときの痕跡のようで不気味だった。足は重かったが、ここまで来て引き返すわけにはいかず、私は自分を責めながら大臣の後を追いかけた。
 ようやく終着点までたどり着いたときには、すっかり汗をかいていた。体調が思わしくないなかそこまでやってくるとは、自分はいったい何に動かされているのだろう。水分不足の頭で考えても、わかる答えではなかった。
 やがて我々は、重厚な扉の前にたどりついた。そこにもびっしりと、上から続く壁の文様が書かれていて、不気味とさえ思った。また、扉の表面には蔓の文様が刻まれており、私たちが作った勲章を思い起こさせるものだった。
 レイフォード氏は厳重に鎖が巻かれたところに取りつけられた鍵を開け、扉を押した。冷気のようなものが漂っていて、身がいっそう震えた。促されて中に入ると、灯りがやけに眩しく思えた。
 室内の壁には、模様がより多く書きこまれていた。それはまるで茨か何かのようだった。奥半分が鉄格子で仕切られていて、隅の寝台には、鎖で体のあちこちを縛められた誰かが伏していた。老人と最初は思ったが、すぐにそれがくすんだ銀髪であることに気づいた。
「……ラーディラス?」
「さようでございます。少し事情がありまして、ここで匿っております」
 そこに至るまでの道のりを見るに、匿っているとは到底思えなかった。あれはむしろ、「閉じこめている」というのである。そこに来てわかったのは、最初に 依頼された魔法使いはあまり優秀な者ではないということだ。おそらく、宮廷や都の魔法使いにやらせたのだろう。あまりにお粗末すぎて、封印の意味があまり なかった。
 レイフォード氏を見ると、そんな私の思考に感づいたのかにっこりと笑った。そのときはなぜか、普通の笑みだった。
「次室殿へのご用件はこれからお話いたしますので、まずは彼についてご紹介させてください」
 エヴァム、と彼は男に呼びかけた。男は薄く眼を開き、うつろな視線をこちらに向けると、眩しそうに腕で顔を覆った。そこには、他よりも鎖を何重にも巻かれた、きらめく腕輪があった。その刹那、私の体は雷に打たれたかのようになった。
 まあ、待て、落ちつけ。ああ、そうだ。私は、初めて見たときからそれに惹かれた。多少離れていても鎖の隙間からはっきりと見える、中央に収められた真っ 赤な宝石に心を奪われてしまった。千年生きた今でさえ、どんな夕日も花も血も、この宝石よりも美しいものは見たことがない。そのまま地獄の川に引きずりこ まれて溺れてしまいそうなほど、私を魅了した。私はただ黙って息をのんで、呆然と赤い石を眺めた。いつまでもそうしていたいと思った。
 エヴァムと呼ばれた男は、ぼんやりした表情から、急ににやついた顔つきになった。
「ふうん、結構なのを持って来たじゃないか。それが命の値段ってわけだ」
 彼が口を開いた瞬間、今までにないくらいの魔力が私を圧迫した。吐きそうで吐けないような苦しい状態であった。目に見えない闇が、彼を包んでいると感じられた。
 レイフォード氏は小さく悪態をついた。おそらく、息子にも見せない姿だろう。眉間に深く皺を寄せ、エヴァムを睨みつけていた。そんな彼を、起き上がったエヴァムは面白そうに眺めるのであった。
「本当のことだろう?」
「エヴァム!」
 部屋全体を震わせるような声で、大臣は怒鳴った。すると、先ほどと同様エヴァムはおとなしくなり、力なく笑った。その瞬間、威圧的で邪悪な魔力の気配も緩んだ。
「次室殿、お加減はいかがですか」
「何とか……」
 もう畏まってはいられず、嫌々顔を上げると、エヴァムと目が合った。
「エヴァム、彼はローハイン師の現在の一番弟子にあたる者で、守護魔法に長けている」
 ほんのわずかな舌打ちがあった。エヴァムは唇をかみしめる。
「カネルのなんて、どうしてそんなやつ連れてくる」
「悪いが、他に知らぬ。彼と相談してくれ」
 エヴァムは複雑そうに私と大臣を交互に見て、溜め息をついた。それを了承と受け取ったであろう大臣は、そこでようやく私とまともに向き合ってくれた。
「あの勲章の出来を見込んで、次室殿に頼みがございます。どうか、この者をここへ封じる手だてを考えていただけませんでしょうか」
 何を言われたのか一瞬わからなかった。私はただ、あの赤い宝石を見つめていた。その視線に気づいたエヴァムはそれを隠してしまったが。
 とにかく状況を確認したかったのだが、自分一人では限界があった。何をたくらんでいるのかわからない大臣、師を知っているらしいラーディラスの男、そして美しい腕輪は奇妙な取り合わせだった。
「もう少し、事情をお聞かせ願いませんか?」
「……どこから話したらいいのか、見当もつきません」
 レイフォード氏は悲しそうに笑った。その表情は、とても人間味のあるもので、微かにコリンの面影があった。
「とある縁で、私は彼の処置を任されました。この男は、ローハイン師との深い因果がございます。しかし、あるときはローハイン師を連れて来いと騒ぎ、あるときは師に自分の存在を知らせるな、と私に訴えるのです。そして、とりあえずは後者のまま、現状維持している状態です」
「しかし、これだけの魔力、師にはすぐに気づかれてしまうでしょうに」
「ラーディラスはお互いを感じることができない」
 エヴァムはそう呟くと、腕輪に巻いた鎖を引いてさらにきつく縛り、糸が切れたように横になった。奇妙な光景に戸惑ってレイフォード氏を見たが、彼は静かに首を横に振るだけだった。
「そういうわけで、ローハイン師が知ることはないでしょうが、いつまでそれが続くでしょうか。そこで、彼の要望の一つとして、自分を永遠に閉じこめる牢屋 を設けました。しかし、我々では少々荷が重すぎました。宮廷魔法使いを呼び寄せて作業にあたらせましたが、彼らも高度な封印技術は持ち合わせてはいなかっ た。この国は、カネル師のおかげで魔法が盛んだと思われていますが、実のところ不毛地帯ですからね」
 これに関して、アールヴの魔法使いの名誉にかけて言うが、彼の思い違いだ。アールヴ宮廷や貴族に仕えていた工房士に問題があったのだ。彼らは他のアールヴ魔法使いとは違い、頑張らなくても高い報酬で生活していける、向上心もないやつらだった。
 言っておくが、そういうやつらは宮廷だろうが在野だろうがどこに行っても駄目だ。よその国の宮廷魔法使いで有能なのもいたし、在野の工房士でもまったく 能力に恵まれない者もあった。また、魔法が発達した地域に下手な者がいたかと思うと、未開の地に飛びぬけて稀な才能を持つ者もいた。ひとくくりに、どこの 魔法使いが、という言い方は間違っている。
 私は嫌そうな顔をしてやったが、レイフォード氏は気にしていない様子だった。
「となると、マティアスを頼るべきですが、かの国と妙な縁は作りたくないのです。秘密をもらさない、国内の人間かそれに近い人間のほうが、私にとっては都合がいい」
「それで、私ですか」
 にんまりと彼は頷いた。結局肝心な部分は聞けなかったが、自分の連れてこられた理由を聞けただけ、当時の私には十分だった。いや、本当はもっと突っ込むべきだったが、最初から話す気が見られない人間から聞き出すのは難しいものだよ。
「エヴァムに出会う前から、コリンから工房のことはよく聞いておりました。ローハイン師のことも、ライアさんのことも、あなたのことも。あの子には悪いが、利用できるものは何でも利用させてもらう」
「なぜ……」
 私は乾いた声で言った。喉がひりついていて、うまく声が出せなかった。その部屋に入ってから、悪かった体調がさらにひどくなり、頭痛が治まらなかった。
「なぜ、あなたはそれを話す。私を利用したいなら、あなたなら、もっとうまく私を言葉巧みに動かすことができるのではないか」
「意味のないことをするつもりはございません。どうです、力を貸しては頂けませんか。あなたなら、この重大さをご理解下さると信じております」
 その場で決められるほど、私は上手な生き方ができなかった。信用できない相手からの頼みなど、その場で切り捨てられてしまえばよかったのに、私はできなかった。ただひたすら立ち尽くすばかりで、考えても何も結論が出せないまま時だけが過ぎていくようだった。
 ふと、エヴァムの視線を感じたような気がした。しかし、そちらに目をやると、エヴァムはやはり腕で顔を覆ったまま横になっていた。その宝石を、私にちらつかせるように。
 吸い込まれてしまいそうな赤。どこまでも深い赤。全てを打ち消すような赤。私は、ただそれだけしか見えなかった。そして、自分でも思いがけずに言葉が出たのである。
「申し訳ございません。考える時間を頂戴したいと思います」
 どうして拒まなかったのか、あとで悔やんだ。しかし、時はすでに遅く、私はただ自分を責めるばかりだった。自分だけならよかったのだが、多くの犠牲を払ってしまったからな。
「ええ、いいでしょう。コリンの話通りの方なら、きっとそう仰ると予想しておりました。しかし、時間はない。いつ、こやつが考えを変えて我々を脅かすのかはわからないのです。明日、またおいで下さい」
 もしも翌日行ったら、そのときは手助けをすると契約を交わすのと同じことだった。私はそれには答えられず、その場しのぎの守護魔法を補強してその場を去った。
 カネル師やコリンたちに砦へ来たことを知られたくなかったので、帰りの馬車を断り、そのまま歩いて帰ることにした。人混みなど数年ぶりの経験だったの に、私の頭はあの地下牢と宝石のことでいっぱいで、何の感慨も感傷も、考えることすらなく、ふらふらと工房への道を歩いた。
「兄さん、どこへ行っていたんですか!」
 工房に帰ると、ライアとコリンが顔を真っ赤にして次室にいた。
「帰ってきたら先生も兄さんもいないから、心配しました」
「悪い。先生は外出で、俺は……」
 不満そうに口をとがらせるコリンの頭を軽く叩くと、別れ際の大臣との会話が浮かんだ。
「この件は、工房へどうぞご内密に。ご理解いただけるとは思いますが」
「よいのですか? 師に打ち明けるかもしれませんよ」
「それはない、と私は確信しております」
 レイフォード氏は私を見据えて微笑んだ。
 くそ、どいつもこいつも秘密なり何なり抱えて、と思ったのに、気づいたら自分が一番いろいろな秘密を抱え込んでしまっていた。自分に腹が立って仕方がなかったが、断ることも話すこともしなかった私の責任ではあった。
 私は結局、その日、カネル師にもコリンにも何も話さなかったのだ。好奇心もあったが、どんな形であれ、自分が認められて必要とされることが嬉しかったと いうのがある。砦を初めて訪れたあの晩、私は自分が小さくて情けなくてたまらなかった。せめて誰かの役に立ってから死にたいとさえ思った。その機会がその 瞬間に巡ってきたように感じられたのだ。
 そして、もうひとつ、単純だが何よりも大きな理由に、あの宝石にまた会いたいと願ってしまったということがある。拒めば永久にあの輝きに再会することは できないだろう。もっと近くで見つめたい、手に取って触れたい。まるで恋でもしたかのように、私はあの石に心を占められてしまったのだ。いや、あの感情は もう、恋い焦がれていたと言ってもよいだろう。
「兄さん?」
「どうしたんですか。具合でも?」
「いや、ちょっと疲れただけだ。俺も個人的な用事ができて外へ行かざるを得なくてね。けれど、やっぱり工房が一番だ」
 二人は、安堵と呆れが混じったような表情で私を見た。
「悪いが、少しここで寝る。ライア、先ほどの続きを。コリン、温室を頼む。どっちか終わったら起こしてくれ」
 私は返事も聞かずに、長椅子に横たわった。興奮して寝られないと思ったが、エヴァムに出会って以来、体が重くて仕方がなく、意外なほど深い眠りへ落ちていった。意識の浅瀬で、ライアとコリンが怪訝そうな声色で会話していたのがわかった。
 その日、カネル師は帰ってこなかった。私は正直、ほっとした。もしも会ってしまったら、隠し事をできる自信がなかったから。もしも帰っていたら? そうだなあ、きっと私はここにいなかったろうな。


 そして翌朝、私は赤い夢をみた。あの深い赤色が海となって、私の眼前に広がった。潮騒が耳をくすぐり、私を水平線の彼方へと誘うように囁いた。
 足を波が撫でるものだからつい触れてみたくなり、かがんで指を伸ばした。しかし、波は引いてしまい、届かない。私は何度も波を捕まえようとするのだが、どういうわけかその手前で波は引いてしまう。たまらず波の先端を追いかけたが、今度は足すらも届かない。
 もどかしさはあったものの、諦めた私は背を向けた。その瞬間、視界は暗くなった。振り向くと、赤い津波が私を飲み込もうとしたのである。
「逃げられない」
 誰かがそう言っているような気がした。
 そこで私は目を覚ました。次室ではなく、宿舎の自室であった。頬が濡れているので触ると、私は泣いていた。何やらこみあげてくるものがあって、しばらくそのまま出るままに任せた。恐怖はなく、むしろ愛おしい感情が私の中にあった。それが、私の運命を決定づけた。
 窓の外は、ガラスさえも突き破ってきそうな陽気で満ちていた。ああ、今年も祭りが始まるのだ。私はぼんやりそう思いながら、身支度をした。例年のような憂鬱な気分はなかった。
「兄さん、やっぱり行けないんですね」
 いろいろ言いたいことはあったが、とりあえずそれだけは口にしたいというような様子で、ライアは言った。コリンも同感なのが顔に書いてあった。本当にわかりやすい子たちなのだから、つい笑ってしまいそうになった。そういう状況ではなかったのだが。
「二人で楽しんできてくれ」
 ライアとコリンは、二人同時にお互いを見つめ合って、何とも言えない表情を浮かべた。しかし、すぐに笑って頷いてくれた。私に土産を買ってくると言いながら、二人は仲良く並んで丘を下っていった。私は手を振りながら、カネル師が帰ってこないことを祈るばかりだった。
 コリンとライアから遅れること数刻ほどで、私も出発した。丘の下には、そろそろ見慣れてきた車があった。私はそこに座っている人物を見上げた。
「閣下、乗せてくださいますか」
「ご協力いただき、嬉しい限りです」
 大臣は、優しそうな顔をして迎え入れてくれた。このとき、我々は契約を結んだことになる。とても短く、悲惨な契約を。
 その日のエアトンは活気に充ち溢れていた。特に、街中を縦横無尽に走る六本の大通の賑わいが目立っていた。ライアは町の楽団に交じって何かをするという話だったから、まさにあの中に入っていたのだろう。お坊ちゃん育ちのコリンには少々きついかもしれない。
 我々は、比較的人通りの少ない道を通った。エアトンには高級宿街もあり、貴族たちは彼らなりの楽しみ方で満喫するために祭りへやってくる。その地域を通れば表よりは目立たずにすんだ。
 砦に到着し、私たちはまたあの階段を下りた。大臣の灯りだけを頼りに進むのだ。私も火をつける術なら身につけていたが、エヴァムという存在をまだよく理 解 していなかったため、魔法を使うことはあえて避けた。二人の足音は、思いのほか響き、地獄までの道のりを演出しているかのようだった。
「できれば、今後も彼の監視役もしていただきたいのです。私一人では荷が重すぎます。ラーディラスは長命だ。後継者も探さなければなりません。あなたも私も」
 静かな口調で語りながら、大臣は先に下っていった。そして、少し間をおいて、こちらを振り向かずに言った。
「昨日は自信たっぷりに申しましたが、実は、あなたが来るかは五分五分だと思っておりました」
影に溶けこみそうな後姿を見ながら、私は口を開いた。口内が渇いていた。
「意外ですね、閣下なら私のことなど全てお見通しであると思っておりました」
「だいたいが推測ですよ。あなたのことなど、コリンの手紙からの推測で成り立っているようなものです」
 いちいち意味深なことを言う人だった。そのころになると、私は彼に何か深く尋ねることを諦めてしまっていた。どうせはぐらかされるのはわかりきったことだったのだから。
「では、よほど人間観察に優れているのでしょうね」
「そう見えますか」
 振り向いた大臣の目はどこか冷たく、また嫌な予感がうずまいた。しかし、なんとなくこの人は私自身もわからない私が見えるのではないかという気分にさせ られた。もしかしたら、それが妙な気分を引き起こさせたのかもしれない。私は長い間、誰かと接触するのを避けていたから。それだけでは納得できない部分も あったが、それは単に私の勘のようなものだったのだろう。近づいてはいけない、と。
 けれども、愚かな私は、赤い宝石ともう一度会いたいがために彼と接触したようなものである。また、今さらになって誰かのために何かできると些細な喜びを 感じることも理由の一つだった。それらの思いは、カネル師たちを裏切っているという罪悪感に勝った。自己嫌悪に浸りながら、私は石のもとへとむかった。
 扉は、私が厳重に封印したままだったが、材料や道具が足りなかったためにまだまだ不十分であった。幾重にも施した鍵をひとつ開けるごとに、私の胸に高揚感があった。そして、扉を開けた瞬間、逸る気持を必死で押さえている自分が馬鹿らしくて、私は笑ってしまった。
 エヴァムは相変わらず、力なく伏していた。彼の姿をとらえると、私はすぐに腕輪を探した。前日と同じように、彼の腕ごと鎖で縛められていた。これもたい した準備なしでは効果はなく、その日改めて施術する予定であった。鎖に文様を刻みこむという作業で、ライアがいれば楽だったが、あの子にこんなことを依頼 できるはずもなかった。
 新しい鎖を用意してもらい、金属に処置を施したあとに削る作業に入り、すべて用意してからエヴァムにつけているものと交換することになった。まだ若干、 前の者が行った封印魔法に余裕が残っていたからだった。ただし、私も鉄格子の中に入り、何かあったときにすぐに対応できるようにしなければならなかった。
 それまでエヴァムにかけられていた鎖は、処置としては正しかったものの、削りが粗末すぎた。こういうものは鍛錬だ。私もライアに教えるまでは人並みだっ たので、あまり他人を責められたものではないが。あのライアに教えるのに、私が下手だとどうしようもなかったのだよ。あの子は、見本のわずかな失敗もを そっくりそのまま複写してしまうような子だったからな。
 ああ、こういう作業は他の場所でもできる。しかし、それをレイフォード氏は許さなかった。私は、最初から最後までの過程をすべて、その地下牢内で行わな ければならなかった。緊張したが、日頃努力はしておくもので、何とかある程度の水準を保つことができた。ライアに感謝しながら、私は手を進めた。
 三本目の鎖を削り終わったとき、それまで口を一度もきかなかったエヴァムが、初めて言葉を発した。
「カネルは今どうしている」
 突然のことだったので、私は驚いた。くすんだ銀髪の間から、鋭い金色の瞳がしっかりと私を捉えていた。
「……お元気ですよ。弟子たちをからかったりして過ごされています」
「あいつが弟子ねぇ。大丈夫なのか?」
 ふと笑った彼の声の調子と表情がいきなり変わり、私は巻きつけている途中だった鎖を落としてしまった。幸い彫刻が損なわれることはなかったが、その瞬間、強烈な悪意のような魔力が噴出したのである。私は体が締めつけられるような感覚を抱いた。
「エヴァム、気を緩めるな」
 前日と同じように、恫喝するような厳しい声が飛んだ。鉄格子ごしに、大臣がきつい眼差しでこちらを見つめていた。私の方が竦みあがるほどだった。そして エヴァムを見ると、また無表情の彼の姿に戻っており、私を押さえつけるような魔力も消えた。そして彼は、すまない、と小さく私に謝った。
 その作業をどれくらい行ったころだろうか、階段を少し慌てて下りる音がした。そして、扉が鳴った。
「閣下。陛下がお呼びです」
「今はここから動けない。あとで参ると伝えてくれ」
「それが……」
 そこから先は、こちらまでよく聞こえなかった。扉ごしに会話をしていた大臣は、仕方なしとばかりに少し扉を開け、何やら話していた。そして、苦々しい表情でこちらに近寄って来た。
「申し訳ないが、しばらく席を外さなければなりません」
「かしこまりました。この調子でいけば、さほど時間はかかりません。どうぞお行きください」
「……お気をつけください。やつは、隙あらばあなたを殺すことだって容易い。会話は控えたほうがよろしいでしょう」
 私はゆっくりと頷き、レイフォード氏は不本意そうにその場をあとにした。背中で、彼が階段を上がる音を聞きながら、私は冷静に作業を行うことに努めた。
 本当は、エヴァムに聞きたいことがたくさんあった。カネル師との関係やラーディラスのこと、腕輪はいったいどういうもので何のために存在しており、どうして彼の手にあるのか。しかし、尋ねる勇気はなかった。またあの強い魔力につぶされそうになるのが恐ろしかった。
 そうして、大臣が帰ってくる前に全ての鎖の彫刻が終わった。繊細で壊れやすいように見えるが、半永久的に縛めの効果を果たすものだった。私は一本ずつ交 換することにした。まさか、前の鎖を全部取ってからつけるわけにはいかないからな。ただ、複雑に絡まっているので、少し苦労した。けれども、こういうもの にはきちんとした巻き方があり、正しくやれば一本ずつの交換も可能なのだ。下手すると少し腕の肉が削られることもあるけれども。
 エヴァムは何の感情もない目で、私の手の先を見つめていた。私は彼の腕を持ち上げ、一本目の鎖に触れた。腕輪の封印が最優先だと、大臣に言われていた。鎖がずれた瞬間、宝石がいっそう輝きを増すように、隠れていた部分を覗かせた。思わず私は息をのんだ。
「気になるかい」
 空気が重くなった。顔を上げると、またあの表情と口調のエヴァムがいた。私は、目をそらした。
「いや」
「そういうふるまいをするものではないよ。それでは肯定と同じだ」
 私は首を横に振った。そのとき、弾みで手が腕輪に触れた。温かい。私はびくりと腕輪を凝視した。美しさは変わらなかったが、ほのかに光を放っていた。そ れは、その日の朝に見た夢の、赤い海の色にとてもよく似ていた。腕輪の本体はというと、今まで見たことのないくらい高度な封印魔法が細工として施されてお り、ところどころに封じるために巻いてあっただろう布の切れ端が引っ掛かっていた。ずいぶん古い形式の魔法だった。
「お前の心も狂わせてやろうか」
 いつかのように、視界が揺れる。鎖が高い音を奏でた。私の手は震えていた。こんなやつの言葉に耳を貸してはいけない。私は必死に自分を律しようとしていた。しかし、あの魅力的な赤が私の視界に入り、私の心を揺さぶるのだった。
「お前はいい力を持っているね。あいにく、僕にはそんなものはなくてね……欲しいな」
 その声の鈍さに動揺して、私の手から鎖が外れた。慌てて拾おうとしたが、エヴァムに蹴られて鉄格子の向こうへとやられた。
「なかなかだね。そうか、こういう状況に使えるのか。思わぬ拾い物だ」
 まるで少年のような声の調子で、エヴァムは立ち上がった。そして、緩んだ鎖から見える宝石を見せびらかすように、私に手を差し出した。ひどい頭痛がした。まるで砂嵐のなかにいるかのように、私の目の前の光景が乱れた。
「さあ、僕の呪いを解いてくれ。僕は、こんな小賢しい細工で縛られるような存在ではないんだ」
 石はなお、妖しく光った。私の手は、自分の意志とは関係なく上がった。下ろそうとしても、私ではない私がそれを許さなかった。まるで劇場を観覧しているように、私は自分の腕が鎖の一本一本を外すのを黙って見ていることしかできなかった。
 そして、全ての鎖が外れた。直後、目が焼けるような強い光が空間全体を包み、私の背に猛烈な痛みが走った。視界は暗くなり、その向こうでエヴァムの笑い声が遠ざかるのが聞こえた。




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