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「神聖かまってちゃん」とは何か

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 人間にとって生きる事とは何か?・・・自分とは何か?・・・そんな事を考えている人というのは少ない。それに、そうした事を考えるのは哲学者の仕事であって、自分達の仕事ではないと、考えている人の方が、どちらかといえば多勢だろう・・・。だが、人はそうした問いを持たざるを得ない瞬間というものは、誰にでもやってくる。そして、その明瞭な瞬間とは、死の自覚である。だから、全て天才というのは、凡人に対して、死を先取りした人々とも言えるだろう。我々が死を想えば、何かを為さざるを得ないではないか。


 この論考ーーーとでもいうべきものは、神聖かまってちゃんに対する批評であると同時に、また、神聖かまってちゃんという驚くべきバンドにはじめて遭遇した一凡人の自己省察であって欲しい、と僕は願っている。世間には、頭脳は動いているが、心が動いていない批評というのは沢山ある。頭脳だけが動いていれば、要領良く生きる事はできる。しかし、心がなければ生きている価値はない。そして、心だけがあっても、やはり世界に押しつぶされて死んでしまうだろう。世界というのは、この両立した破壊と秩序で成り立っている。だから、僕もまた、チャンドラーのように、強いと同時に優しい文章を書こうと願っている。


                                              ※
 「神聖かまってちゃん」というバンド名・・・それをアマゾンのサイトで、はじめて見た時、正直、僕は「ああ、またゲテモノを気取ったバンドか」と思った。
 元々、神聖かまってちゃんを検索して調べたのは、それまで洋楽のロックーーー特に、ビートルズとレッド・ツェッペリンが好きだった僕が、ふと、現代の日本のロックも聴いてみようと思った事に端を発する。・・・そして、色々検索して調べている内に、「相対性理論」というバンドを発見し、好きになった。そして、相対性理論をアマゾンで調べると、その隣に神聖かまってちゃんのアルバムが表示されていたので、僕は気になってクリックしたのだった。
 僕は、「ああ、またゲテモノ系か」と思いながらも、「一応」、楽曲を聴いてみる事にした。そして、ニコニコ動画で神聖かまってちゃんと打ち込み、検索をかけた。そして、その検索結果の一番上に来たのが、「ロックンロールは鳴り止まないっ」だった。僕はクリックした。
 最初、その歌声が聞こえてきた時、僕は「ああ、下手だな」と思った。そして、その楽曲が進む内に、僕は心の中で様々な無言の葛藤を感じながら、その曲を最後まで聴いた。
 聴き終わった時、僕は思い切り誰かに腹を殴られたかのような衝撃を受けた事を今でもはっきりと覚えている。だが、まだ頭はそれを否定していた。こんなの音楽じゃない・・・・・こんなのは本当のアートじゃない・・・・・と、僕のちっぽけな常識で支えられていた頭脳は、ずっとそう叫び続けていた。だが、僕は、どうしても気になった。そのバンドが気になった。だから、僕は頭脳の否定の言葉の声を聞きながら、順に、神聖かまってちゃんの動画を聴き、見ていった。
 「二十三歳の夏休み」を聴き、「自分らしく」を聴いた。その時の反応はまだ「ふーん、悪くないじゃん」程度の反応だった。そうして、その内に「美ちなる方へ」という楽曲を聴いた。聴いている内に、勝手に涙がこぼれてきた。泣きたくて泣いたわけじゃない。泣くまいとしても、涙が勝手に出てきて止まらなかったのだ。
 僕の魂に響いてきたフレーズは次のようなものだった



「なるべく楽しいふりをするさ誰だって

憂鬱になると気ずけば誰もいないんだ

知っているからたまに狂っちまうんだ

君には見せたい素顔があると思います
 


 僕はこの箇所を聴いて、涙が止まらなかった。また同時に、「この作者の事がわかった」と、感じた。この歌詞、この曲を作った人間の魂が、自分の魂に直に響いてきたのだった。そして、ようやく、僕は神聖かまってちゃんというバンドの魅力に完全に屈する事となった。ここではじめて、神聖かまってちゃんがただの「ゲテモノ系」のバンドではない、これまでのアーティストと全く違った類の芸術家である事が、ようやくわかり始めたという事になる。



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 様々な切り口があるが、一体、どこから切ればいいのか。音楽的に、あるいは哲学的に。歌詞の面から、あるいは社会と個人の関係の面から・・・。だが、神聖かまってちゃんというバンドに言及する時、絶対に外せないのは、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲だ。この曲はバンドの代表曲と目されているし、確かにそれだけのものを持っている。この曲は、例えば、ツェッペリンの「天国への階段」のように、神聖かまってちゃんというバンドの核を内包した曲だからだ。





ロックンロールは鳴り止まない / 神聖かまってちゃん

作詞:の子
作曲:の子

昨日の夜、駅前TSUTAYAさんで
僕はビートルズを借りた、セックスピストルズを借りた
「ロックンロール」というやつだ
しかし、
何がいいんだか全然分かりません

do da 
turatura
oh yeah!yeah!yeah!

夕暮れ時、部活の帰り道で
またもビートルズを聞いた、セックスピストルズを聞いた
何かが以前と違うんだ
MD取っても、イヤホン取っても
なんでだ全然鳴り止まねぇっ

do da doda
tura tura
oh yeah! yeah! 
yeah!


今も遠くで聞こえるあの時のあの曲がさ
遠くで近くですぐ傍で、叫んでいる

遠くで見てくれあの時の僕のまま
初めて気がついたあの時の衝撃を僕に

いつまでも、いつまでも、いつまでもくれよ

もっともっと、僕にくれよ
もっと、もっと、もっと、もっと、
くれよ!

遠くにいる君目がけて吐き出すんだ
遠くで近くですぐ傍で叫んでやる

最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!
なんて事を君は言う、いつの時代でも

だから
僕は今すぐ、今すぐ、今すぐ叫ぶよ
君に今すぐ、今、僕のギター鳴らしてやる
君が今すぐ、今、曲の意味分からずとも
鳴らす今、鳴らす時

ロックンロールは鳴り止まないっ

 

 ここに一人の脆く、優しさ故に傷つきやすい一人の少年がいる。彼は、学校で嫌な事があったのか、沈鬱な表情をしている。彼は、田舎の田んぼ道の登校路を逆に辿っていく。家までの道のりはまだ遠い・・・。彼は、MDプレイヤーのイヤホンを耳に差し込んでいる。そして、そこから、ビートルズや、セックス・ピストルズの曲が流れてくる。・・・そして、それは次第に、彼にとってひとつの重要な意味を持ってくる・・・。やがて、彼は自分自身、ギターを手に取り、音楽を始める事になろう・・・。だが、そこから、この曲ーーーロックンロールができるまではまだ長い道のりがある。
 そして、この後半部では、自分自身がギターを持って、かき鳴らし、そして自分自身がシャウトするまでが語られ、また、実際に曲の中でシャウトする。そして、その時、「ロックンロールは鳴り止まない」という事実ーー真理が語られる事で、この曲は終わる。

 この曲で重要な事はいくつもあるが、その中でも一番大切な事は、もちろん、の子という一人の少年が、あの夕暮れの帰り道にMDを聴いていた姿から抜けだして、自分自身がロックンロールの化身となって叫ぶ、その変遷である。だが、ここには特異かつ重要な一行が挿入されている。それが、「最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ! なんて事を君は言う いつの時代でも」の部分だ。
 ここには、の子の現実認識が示されているし、また同時に、こうした行に、神聖かまってちゃんというバンドが今の時代と共鳴している、その理由ーーー証拠がある。・・・僕は、音楽的な事柄には無知なので、こうした言葉の面からこの曲を考えてみたい。

 今は、誰も知っての通り、誰もが何もかもを「知っている」時代である。多くの人間が、それぞれの自分なりの答えを持っている・・・と聞けば、聞こえはいいが、多くの人が、すでにこの情報の世界の中で、もうなんでも知っているような気にさせられる時代でもある。人は言う。「もう、ロックなんてものはないよ。それは何十年か前に、ビートルズで終わったんだ。今の音楽は全部、つまんねえ。クソみたいなのばっかり。」・・・それはあらゆる事に対して、そうである。なぜかは分からないが、百年も遡れば、天才や美といったものはわんさかあるような気がするが、ただ、現在に目を向ければ、それはクソみたいなのばっかりのような気がする。・・・何故だろうか?
 誰もがたかをくくっている。ネットの掲示板をのぞけば、「通」の人があらゆる過去の情報と知識について論議し、そしてまた彼らは天才的にあらゆる物事を知り尽くしているように感じられる。しかも、そうした人というのは沢山いるのだ。だが、彼らは、決して、現在を超え、未来に歩もうとはしない。未来に歩む事は大変なリスクがあるという事を、彼らは直感的に知り抜いているのだ。だから、彼らはいつまでも嘆き続ける。「今はくだらねえ・・・昔は良かった・・・」などと。
 だからこそ、の子は叫ぶ。彼のシャウトは、過去のロックンロールにおけるシャウトとはすこしく意味をちがえている。それは新しい時代に適応した、新しい叫びーーー自己実現ーーーとでもいうべきものだ。過去のシャウトは自分の感情を表現するものであり、あるいはロックの様式としてそうしていたのかもしれない。の子の場合、叫ぶ対象は人々である。しかも、それは普通に生活している普通の人々に対して向けたものではない。たかをくくっている人々、あらゆるものの知識を身につけ、通となり、理解し、しかし、そこから歩み出す事を本能的に恐れている人々、そんな人々に対して、の子は叫んでいるのだ。・・・人々が、定義し、知識付け、そうして全ての様式を確定させたと信じたその箇所に向かって、の子は雷鳴のような叫びをあげているのだ。・・・それはまるで次のように叫んでいるかのようだ。「たとえ、世界が何であろうと、俺はこれだ!」と。
 ニコニコ動画のコメントなどを見れば、わかるが、「こんなのはロックじゃない」とか、「こんなのは音楽じゃない」とか言った言葉が散見される。・・・もし、僕がの子であれば、そのコメントを見れば、一人ほくそ笑む事だろう。・・・なぜかといえば、「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲自体が、そうした言葉に対して、真っ向から闘いを挑んだ作品だからだ。・・・しかも、その勝利は確定している。なぜなら、過去の優れた芸術家達がみんなそうしてきたように、この「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲は、完全な形で自分を表現する事に成功しているからだ。人は考える。「ロック」とはこういう形だ。「音楽」とはこういうものだ。・・・それは頭脳で練り上げられた、精緻な図式だ。だが、芸術というのは、絶えず、過去の様式を破って現在に現れてきたもう一人の自分の姿ではないのか・・・?。その当時にいれば、彼らは必ず、次のような言葉を語った事だろう。ゴッホを見て、「これは絵じゃない」と言い、ベートーヴェンを聴いて、「これは音楽じゃない」と。
 だが、もちろん、音楽は魂で聴くべきものだ。僕が今、そんな風に定義したからといって、そんな事はどうっていうことはない。たとえ、僕達が、頭でこの楽曲をこのように否定したとしても、僕達の心は僕達よりもずっと賢い。だから、神聖かまってちゃんというバンドもまたいずれ、そのように評価されるだろうと思う。僕達の心が、順にこのバンドの正確な価値を、僕達の頭脳に教える事となるだろう。



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 僕は一度、神聖かまってちゃんのライブに行った事がある。それは10月の下北沢のライブで、僕はとある会社の面接を受けた後だったので、スーツ姿だった。
 ライブ会場は、下北沢の地下のライブハウスのところで、何人くらいがはいるだろうか、三百人くらいはいたのだろうか?・・・とにかく、それは満員であって、ファンである所の僕の見間違いかもしれないが、その人々の多くは神聖かまってちゃんを見に来たように感じられた。(そのライブは神聖かまってちゃん以外のバンドも出ていた。)
 そのライブ全体は素晴らしいできだったし、様々な感想と感興を覚えたのだが、僕にとって大切な事は、そのライブの前にあった。それは、の子が、ライブ前に、路上ライブをしていた時の事だ。・・・それは名目は、路上ライブと言っているが、実際はの子が一人で路上で怒鳴り声を上げたり、観客と何かやりとりしながら、その様子をインターネットで同時に生放送するというものだった。
 僕はその瞬間に、偶然、遭遇した。といっても、それはまだの子が生配信の準備をして、パソコンをいじっている時だったが。・・・僕は、もう少しでライブの開演の時間だなと思い、暇つぶししていた書店から離れ、ライブハウスの方向に向かって歩いて行った。すると、その途中の道で、僕は十字路の角のところに座り込んでいるメンバーの「ちばぎん」と、「の子」がいるのに気づいた。二人はその時、パソコンのセッティングをしていた。
 僕はその時の事をよく覚えているが、その小さな青年ーーーの子に、離れたところから近づいていくと同時に、「ああ、変な奴がいるな」という感覚が自分の中に広がってくるのを感じたのだった。それは、何か器質的な障害を持つ人に対して持つ感覚でもなければ、また奇行をする人間に対する感覚というのでもなかった。それはとにかく、僕に「普通の奴ではないな」という感覚を与えたのだった。・・・そして、それがの子だという事がわかると、ああ、やっぱりな、と、僕は妙に安堵したような気持ちになった。
 実は、僕は、の子に話しかけた。・・・の子とちばぎんの二人の周りには、すでに興味本位の客やファンが何人かいたのだが、僕もその中に混じって、こんな機会は滅多にないだろう、と思って、内心ビビリながらも、の子に話しかけたみたのだった。僕は、「の子さんですか?」と聞いた。すると、の子は、僕の方に目も合わせずに、手近の知り合い(?)の人を、さっと掴んで、「いや、僕は確かにの子ですけど、この人の方がすごいんですよ」とか、何とか意味不明な事を言って、僕を煙に巻いた。僕は普通の会話をする事はできないんだな、と諦めて、少し遠くからの子の行動を見てみようと思って、離れた。
  その時、僕が感じた事は、の子という人間の、決定的な人間不信だった。・・・もちろん、ファンの見知らぬ人間からいきなり話しかけられて、いい気になるアーティストはそれほどいないのかもしれない。だが、僕が感じた事は、それよりもっと、奥深いもの、それは人類全体に対する決定的な人間不信、人間恐怖とでもいうものだった。の子にはいつも、自分の精神的な穴蔵があって、そこで自分の作品を形作るのだろうが、その穴蔵からのぞいた人間の姿というのは、みんな化け物であるかのように映るのだろう。
 僕は、邪魔にならないようなところに腰掛けて、の子とちばぎんが何をするのか、見る事にした。僕は段差に腰掛けて、の子の方をぼんやりと見ていた。・・・すると、の子が一瞬、チラリとこっちを見た。僕はその時の表情を、一生忘れる事ができない。
 それは、他人が怖くて怖くて仕方ないという顔だった。目が大きく剥きだして、一瞬だけこちらを見た。・・・僕がそこにいて、そっちを見ているのが多分、気に触っただろう・・・。だが、その気に触り方は、やはり根源的なものだった。その顔は、とにかく恐怖の表情に満ちていた。・・・僕は、の子の方を見るのをやめて、その場から離れた。
 その後、僕は路上ライブと称するの子がただたんに暴れ叫びまわっているだけの様子を、ファンに混じってずっと見ていたのだが、その事も書かなければ手落ちだろう。の子は、一人でパソコンを持ちながら、ファン相手に一人叫び回っていた。そして、その間の、残り二人(みさ子は見当たらなかった。)のメンバーの表情もまた、僕は忘れる事ができない。
 二人のメンバー・・・ちばぎんとmonoの二人は、の子が暴れまわっている間、何か、自分の子供がいたずらしているのをあえて咎めずに、少し微笑みながら見守っている母親のような、そんな表情をしていた。二人は、ただ、の子という特異な人間が叫び回っているのを優しく見ていた。その時、バンドの関係性というもの・・・・というか、バンドというもののつながりの根源を感じたといっていい。
 そして、その路上ライブと称する、の子が一人で片手にパソコンを持ちながら、わめきまくっているその様子ーーーそれを見ている、周囲の人達は多分、面白がって見ていたのだと思う。そして、ネット上で、の子のパソコンを通じてその映像を見ている人もまた、面白がって見ていたと思う。だが、僕は見ていて悲しかった。それは海の底のように真っ青で、また同時に暗い、悲しみだった。道化の悲しみについて理解するには、また自分も道化である必要があるのだろうか。
 セルバンテスのドンキホーテというのは滑稽小説だが、同時に、これほど悲しみに満ちた作品はないように思われる。人が、この作品を喜劇的と捉えるように、の子という人間を喜劇的に見る場合もあるだろう。・・・だが、神聖かまってちゃん、並びにの子という人間は、根本的に太宰治的な性格を持っている。彼は優しい。そして、彼はその優しさ故に死ぬべきであった。この世界では、純粋な優しさだけでは生きていかれないから。だが、彼は何かのきっかけで、生きる事になった。それはおそらく・・・いや、間違いなく「音楽」だろう。彼の「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲が、それを証している。彼は、この世界と闘うにあたって、音楽というたった一本の槍しか持たなかった。・・・だが、また同時に、彼にはネット上の生放送を通じて、道化を演じるという手法もある。彼はこれを巧みに、自分のプロモーションに使ったのだが、その裏の悲しみと孤独に気づいている人は少ないのではないだろうか。・・・あたかも、お笑い芸人というものが、本当に始終おもしろおかしい人であると錯覚するように。
 こうした神聖かまってちゃんの道化的な性質によって、人は眉を潜め、そして楽曲の魅力に入っていく事に躊躇するか、また、「確かに良い曲もあるがバンド自体はクソ」という評価も現れてくる事だろう。・・・実を言うと、僕もまた、道化としての神聖かまってちゃんには、の子が考えているほど多大な意味はないように感じている。僕が衝撃を受けたのは何より、楽曲の衝撃であって、パフォーマンスの衝撃ではないから。・・・だが、それでも、やはりそのパフォーマンスの裏には常に、孤独と悲しみを前向きの道化的演技に変化させようとする、一人の暗い戦略家が眠っているのだ。


 
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 ライブから帰ってきたその日から、どういう訳か、僕の頭にはある映像のようなものがちらついて動かなかった。それはある種のイメージであって、夢のようなものだった。・・・その映像というのは、一人の少年が真っ暗闇の中、何かに追われながら、必死の形相で逃げて走っている・・・というものだ。そして、その少年の恐怖と焦燥は、まるで手に取るように僕の心に強く感じられた。
 そして、その映像はまる一週間近くも、僕の脳内で頻繁に再生された。・・・そんなことになった理由というのは、僕が、の子という人間を直に見て、そしてそのために、の子という人間の恐怖と悲しみに、自分があまりにも強く同調してしまった結果だと、今では考えている。そして、もちろん、の子の作ったPVの中で、一人ぼっちでどこか田舎の道を走るという映像が頻出してきた、そしてそれを事前に見ていたという事が大きい。
 僕は、自分の体験も合わせて考えて、こうした映像というのが、の子の原風景なのだと感じる。PVは作られてはいないが、もし「ぺんてる」のPVがあったら、それは一人の陰鬱な少年が田舎の田んぼ道を歩いている映像になりはしないか?。・・・そして、それはの子にとって、おそらくもっとも陰鬱で暗い瞬間であると共に、創作意欲が湧くその泉にすらなっているのかもしれない。



ぺんてる 
 
放課後はまた蛙道
ゲロゲーロだぜくそがぼくは
ゲロまみれだくそがマジで
どーでもいい
ジャポニカ学習帳に今
ぼくなりに学習した事さ、あーもう人生が完全に
狂っちゃっている

ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいなんて言えればさぁ
ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいいつものくださいな
サイボーグなんだっておばちゃんは
ゲロゲーロなぼくがいても終始
だんまーりと読書しちゃっている
どーでもいい
ぼくは また ぺんてるに 行きました。
Lowテンションな文章で結構
雨があがる前に
ぺんてるにぺんてるに
助けてくださいなんて言えればさぁ
ぺんてるにぺんてるに
ぼくの人生をずっと蹴っ飛ばしてみんます
1学期、2学期、3学期と
時は、撫ぜて
ぼくはまた
一つ大人になって
二つ大人になって
三つ大人になりました
ぶ厚い風に飲み込まれちゃ
いったい僕はどうなるんだろうとまだ考えてるのに人生が
ふわっと舞い上がる
あーもう嫌だ、ゆーっくりと
大人になりました
僕は大人になりました、
冷たい風に吹かれて
どうしようもない大人になりました
ジャポニカ学習ノートのページがどんどんめくれてく
僕が学んだ事なんて風の中へと消えてゆく
あーもうどうするか、あーもうしらねぇぞ僕は
風に吹かれてしまおう
落ち葉のようになれ果てよう
考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです
放課後から続く蛙道、どーでもいいやとほざきつつ
どこまでもどこまでも生きたいと
願っているのかよ
殺してやると呟いて
頭を下げて謝った
僕はいつまでもそんな糞ゲロ野郎でさ
あぁもうどうなるか、まぁどうでもいいんですが
僕はぺんてるに行きました
ぺんてるにぺんてるにまた行きました
ぺんてるにぺんてるに買いに行きました
僕はぺんてるに買いに行きたいのです
また、ぺんてるにぺんてるに


 ここでも、やはり「ロックンロール」と同じように、一人の少年が放課後に田んぼ道を歩いて帰っている姿が見える。だが、彼は、そこではもはや、ロックンロールのような向上性は見せてはいない。彼は、屈辱感と逃避願望の入り混じった世界の中にいる。
 彼は絶望し、俯きながら下校している。彼は孤独であり、世界は真っ青である。・・・彼には嫌な事があったのだろう。「殺してやるとつぶやいて/頭を下げて謝った」。この経験を、詩人特有のものとみなしてはならない。これは誰しもが、生活で遭遇する一場面にすぎないのだ。だが、その屈辱感を歌詞に、曲に、正確に反映したのは、の子だけだ。・・・ここで、ひとつの疑問が起こる。・・・なぜ、誰しもが考え、感じている事を、場面として、描写として表す事ができるのは稀有の芸術家だけなのか?・・・誰もが感じているのなら、誰もが表現できるのではないか?
 ・・・その答えは、次のようになるはずだ。それは、人は、自らの無意識の奥深くに手を入れて、それを形象化するという技は誰に許されていない、という事に。未熟な芸術家は意識の表面を撫でる。彼は他との違いを出すために、突拍子もない描写や、わざと極端な残酷さやエロティシズムを持ち出すかもしれないが、結局は凡庸なものである。非凡なものとは、凡庸な人の中も眠っている。だが、誰も、それを、ある種の形として取り出す事ができないだけである。
 ・・・の子が、この作品で特に際立って表現している人生に対する挫折感というのは、多分、きわめて重要なものだ。僕は今から、それについて話そう。
 僕達の世代ーーーこの二十一世紀のはじめに青春期を過ぎたものには、共通の感覚があるだろうし、また今も続いている、ある感覚とでもいうべきものが、僕達の中にはある。それは、生ーーーつまり、人生というものに、あらゆる幻想の重荷を被せて、すっかりわけがわからなくなってしまったという点にある。生きる事は希望に満ちている。生きる事は夢を持つことである。将来の為に勉強せよ、学べ、人生のコース、その理想の道について、誰もが喚き続けている。だから、僕達は、そのコースから外れている自分を見ると、まるでその自分が恥ずかしいかのように感じる。「僕は人生の理想のコースを歩いていない。」この、情報が神となっている世界では、全ての模範、理想が僕達に示されるかもしれない。・・・だとしたら、逆に、そこから外れた僕達の挫折感は、前代未聞のものだ。それは、もはやこれまでのどんな実存主義者も予想できなかった、大きな挫折感だ。・・・そして、それはまるで、「人間」を剥奪されたかのような感覚だ。
 だが・・・僕達は、あまりにも慣れてしまった。そんな恥ずかしい自分を隠蔽する事に。どんなに恥ずかしい(と思われる)立ち位置にいる人間も、どんな立派な立場にいる人間も、自分を隠蔽する。それが、一種の処世術であるからだが、しかし、本当は、生の自分を見る事に対して、本能的に恐怖しているのだ。ニートであろうと、何であろうと、自分の姿を直視する事は恐ろしい。・・・裸の自分を見る事ほど、恐ろしい事はないのである。人は、すでに、この世界では、人間を、そして人生というものを、様々なメディアを通じて、様々な幻想形態に作り変えてしまった。だからこそ、そこからの挫折感は凄まじいのだ。過去のどんな世界で起こった挫折よりも。・・・そして、落下していく自分を見る事はほとんど誰にもできなかった。・・・僕達はいつも、言い訳ばかりしていた。本当の自分はこんなんじゃない・・・・・自分はこれじゃない・・・。
 そこで始めて、の子は見た。「殺してやるとつぶやいて/頭を下げて謝った」。
 ・・・だから、この楽曲並びに、の子のこの挫折感、飾らなさ、裸の自分を直視する姿勢に、共感するファンというものは十分な根拠というものがある。そして、それは現在的なものである。・・・こうした曲に共感するファンの心理としてはーーー僕もそうだからなのだがーーー、現実世界では、ある程度、気が弱く、優しい為に、自分を偽り続けてきた人ではないだろうか?・・・。優しいが故に、自分を偽ってきたわけだが、その偽りに対しては、自分でも、よくわからない憤懣を感じて生きてきたのだと思う。社会の常識、背丈をピンと伸ばし、肩肘は張らなければならない。仮面を、人は被らなければならない。それが生きていく事だ・・・それはよく知っている・・・でも・・・・・。そんな時に、おそらく神聖かまってちゃんの、たとえば、この「ぺんてる」が福音のように聞こえてくる。その時、はじめて、人は、自分が、自分にとっては過大な重荷を背負って生きていた事に気づくのである。・・・素顔でいいじゃないか・・・。だが、素顔とは何か?・・・そう、それは結局、社会の常道に反する事かもしれない。素晴らしい人生、立派な人間・・・僕らがいつの間にか作り上げたそんなもの、そうしたレールから外れる事なのかもしれない・・・。ちょうど、ここでアンチとファンとは二分される。俺は立派な人間だ・・・俺は自己弁護を止めない・・・・・よろしい、ならば、神聖かまってちゃんの生の声は、その人の排するところになるだろう。・・・もちろん、神聖かまってちゃんを否定する事は誰でもできるし、したところで、何ひとつ、何の問題もない。むしろ、その人はその事によって、自身の健全さに帰る事ができるのかもしれない。だが、たとえ、そうした人でも、絶対に否定出来ないものがひとつある。それは、生の自分だ。本当の自分だ。・・・どれほど、着飾って、自分を偽り、飾り立てようと、真の自分はいつでも影のようについてくる。・・・だとしたら、それを最初に歌い上げた神聖かまってちゃんという存在に、再びスポットライトが当たらねばならいなのではないだろうか。
 この少年は、深い敗北感と挫折感の中にいる。・・・そして、彼はそこから、現実から逃避する為の手段として「ぺんてる」に行く。・・・敗北の姿。だが、「考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです。」これは、敗北と挫折感にまみれた人間の独語だ。だが、それと同時に、それは社会に対する反撃の芽をも含んでいる。だが、この少年はロックンロールの時のように、肯定的な主義主張まではたどり着かない。彼は、敗北する。敗北の姿を、僕達になんのてらいもなく、晒す。そこには、裸の人間の姿がある。だからこそ、虚飾によって彩られた世界を歩行する事に疲れたもう一人の僕達は、この「ぺんてる」のような曲を聴いて、はじめて安堵するのだ。そこに、共感がある。それこそは、もう一人の自分であり、肩肘を張っていた自分に失われていた真の姿だ。

 

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 今度は、神聖かまってちゃんとしては、非常に珍しい、恋愛の曲をとりあげてみよう。・・・僕には、この曲は、他の恋愛の曲、例えば「ベイビーレイニーデイリー」や「Osー宇宙人」よりも、遥かに痛切に感じられる。そして、この痛みはとても現代的なものだ。



                                             ちりとり

だからと言って
僕は逃げていたわけじゃありません
すいません
嘘つきました、いま
あなただけ あなただけ
それだけなんです
多分僕はちょっと
多分僕はちょっと
多分 多分
ばか、なんです
やぁ
去年も1階から3階へ
夏の声をジャンプさせました
あなたには あなたには
届きもしません
多分僕はもっと
多分僕はもっと
ばかに ばかに
なれば
放課後僕と君
掃除当番同士少し喋りました
優しくしようとして先帰っていいよ
なんて言っちゃいました また僕は

ああ ばか
1、2、3
と数えました
1、2、3と
4、5、6と数えていたら
出てくる出てくるあなたの事ばかり
次々と次々とあなたの事ばかり
なんですかこれ
なんなんですかこれはー!
そう 街の灯をなぞって
さっき帰っちゃった君を追いかけました
最後にくれたあの一言と
最後にくれたあの微笑みが
足を加速させてゆく
掃除当番あなたとやれてよかったと思ってます
あなたの美しいちりとり捌きをみれただけでも
本当によかったと思ってます
しかしだ
あなたは僕の心までちりとっちゃったのです
それは完全に奥までちりとっちゃったのです
僕もあなたをちりとりたいのです
奥まで
奥まで
  


 これは恋愛の曲だ。それも、たぶん、中学生ぐらいの、まだ幼い少年少女の淡い恋だ。実際、こうした事が、の子の身にあったかなかったかは、さしあたってどうでもいい。大切な事は、それが楽曲に表現されている点だ。僕は、この曲をはじめて聴いた時、涙が溢れてきて止まらなかった。痛切な恋愛の曲は、もちろん、かつてにも沢山あったし、素晴らしいものが沢山あったろう。・・・だが、これほどにひねこびて、淡く、縮こまった恋愛の曲を聴いた事は、僕は他には一度もない。・・・それが、こうした、単なる恋愛の歌にも、神聖かまってちゃんらしさが現れてくる所以だ。ここには、社会によって歪められ矮小化された個人がいる。だからこそ、この少年の恋愛は、あくまでも薄くて、淡く、小さく、いじらしいのだ。ここでも、やはり神聖かまってちゃんのどの曲、そしておそらくの子が生きている間のどの瞬間にも感じているような、そうした世界の圧力ともいうべきものが、確かにそこにある。それは、かまってちゃんのどの曲にも、表現されているといっていい。それが表向きになる時もあれば、背後に隠されている場合もあるが、どちらにしても、この世界は個人を押しつぶそうとして圧力をかけている。そして、の子の世界にとっては、この個人は、この世界の圧力に対して抵抗し、戦わなければならない。かつての偉大な芸術家達がみんなそうしたように。
 ・・・そして、恋愛というものが、古来からさんざん芸術のテーマになったように、これは個人的なものであり、社会と対立する場合が往々にしてある。その例は、ロミオとジュリエットを一つあげれば十分だろう。
 だが、この少年の恋はあまりにも弱々しいものに感じられる。だから、この少年の恋は、社会との格闘までは行き着かない。・・・それは世界に置き去りにされたような場所で、ぽつんと光っている小さな恋なのだ。

 「放課後 僕と君 掃除当番同士少し喋りました/優しくしようとして先帰っていいよ なんて言っちゃいました また僕は」
 ・・・僕達は、こんな純真な感情をもうとっくに忘れていたに違いない。世界は今、回転している。だが、その回転は、僕達の露わな感情の事など、とっくに忘れて回転している。・・・誰もが、他人を見て、笑っているこの世界で、純真さというのは愚かさと同じく、他人の額についたあざ笑うべき兆候にすぎない。その世界の中で、自らの心を開陳するとは、どういうことか。
 「そう 街の灯をなぞって さっき帰っちゃった君を追いかけました 最後にくれたあの一言と 最後にくれたあの微笑みが 足を加速させてゆく」
 少年は少女を追っていく。だが、何故この少年の姿はこんなにせつないだろうか。何故、少年の恋愛が明るく、向上的で、世界に認められた健全なものであってはならないのか?・・・。この少年は、何か恐怖のような感情、人間に対する恐怖のような感情を背中に負いながら、少女を恋い、求めるのだ。
 「掃除当番あなたとやれて良かったと思ってます あなたの美しいちりとりさばきをみれただけでも本当によかったと思ってます」。今、この世界はどのようになっているだろうか?・・・いや、今の、中学生や高校生というのは、どんな恋愛をしているのだろうか?・・・僕は知らない。僕は、僕自身の、過去のそんな学生時代を振り返っても、ただ空っぽの自分を見つけるだけだ。おそらくはの子と同じように。この世界に、虚飾は、造花のようにして広がっているが、それは大人の世界だけではない。大人達が嘘をつくことを当たり前にしてしまえば、子供達にとってもそれは正義となる。・・・つまるところ、僕達はいかに嘘をつくのが上手いのかを、この社会の中で争っているわけだが・・・・・まあ、そんなことはいい。とにかく、ここに現れた淡い恋慕の気持ちは、この世界の見せかけの華やかさの影に咲く、今にも倒れそうな一輪の花だ。だから、こんなにも切ないのだ。
 「しかしだ あなたは僕の心までちりとっちゃったのです それは完全に奥までちりとっちゃったのです 僕もあなたをちりとりたいのです 奥まで 奥まで」。・・・思うに、恋愛という言葉は、この世界にこうまでして広がり、様々な幻想を美しい蝶のように振るまいているのだが、だがしかし、本当の恋愛を経験するものがどれくらいいるだろう・・・?。恋愛というのは、いつの間にか、相手との功利的なやりとり、金、肉欲、その他を行使した、純粋な経済活動となったかのような感がある。誰もが恋愛を夢見るが、誰もが強情に肩肘を張っているために、互いにぶつからざるを得ない。恋愛の痛切な感覚が、僕達の肉体の一体、どこに隠れているだろう・・・?。僕達は、振り返って、失われたものを見る。・・・もちろん、それを見る目が、まだ残っていればの話だが。そして、そこには、きっと一人の少年が走っている。「街の灯をなぞって」駆けている。・・・そして、僕達はその姿に痛切さを感じて、涙を流す事が、まだできるのだ。それは、華やかさを装った僕達が、置いてきたもうひとつの姿だ。そして、その痛切さが僕らの胸に再び宿る時、世界の表と裏がはじめて入れ替わる事となるのだ。


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 元々、このバンドが起こした衝撃は、片隅でのものだったし、今でもおそらくはまだ、世界の中では片隅に留まっているのかもしれない。だが、それが普遍的な意味を持っていないという証拠にはならない。かつて、世界の表面に現れでなかった偉大といわれる存在がいかに多かった事か。
 世界は、今、虚飾に満ちている。・・・だが、そんなものは過去からずっとあった。・・・おそらく、虚飾が飾らない時代など、いつの世にもなかった。だが、曇天の奥に陽光があるように、その先にも常になにものかが控えていたのだ。
 そして、この世界の二十一世紀の初頭を飾った、きらびやかなデザインとは何か・・・?。それは、大戦の終わりから続く、大衆と平和の世界である。大衆は、世界の王となった。・・・そして、彼らは夢見る事を選んだ。
 神聖かまってちゃんに、「さわやかな朝」という曲がある。これは、家族の爽やかな朝ーーー実に模範的な家庭の、模範的な朝の食卓風景などを写してみせた作品だが、もちろん、それだけではない。そこに、この主人公とおぼしき息子の少年は、やはり、虚飾の匂いを感じている。確かに、この朝は爽やかで理想的なものに違いないーーー。だが、この少年は苛立ち、この風景に嘘の匂いを感じているのだ。
 この大衆の夢を強化したのは、もちろんテレビをはじめとする多くのメディアである。そこは、人々の夢を肯定する様々な言辞とイメージに溢れていた。そして、世界はいつの間にか、夢の中に紛れていった。僕達はみんな、いつの間にか、夢を真実だと受け取って暮らしていた。・・・そして、今や、僕達に残された事は一つしかなかった。つまり、夢から現実への落下、その失望と絶望である。夢がついに夢にすぎないとすれば、僕達は現実という地面に追突しなければならないだろう・・・。だが、それでも、人はまだ夢を見ようとする。「我々は間違っていない・・・我々は正しい・・・。」
 神聖かまってちゃんというバンドは何より最初に、ネットの言語にぶつかっていった最初の存在だった。・・・そうした場所にはすでに、無数の苛立ちの言葉が見られる。そして、そこにあるのは限りない自己肯定と、そして、自分の留まっている所から一歩も出ようとはしないその態度だった。聖書の言葉にもあるように、彼らは自ら門の中に入らず、他人をも門に入れさせまいと踏ん張っていたのだ。・・・彼らはいわば、失墜した現実の象徴だったかもしれない。僕達は沢山の夢を、希望を掲げた。それにより失墜した言葉は、罵倒と憎悪へと変化したのだ。彼らは敗れたのではない。彼らは最初から敗れていた。ただ、それが露わになったにすぎない。他人の夢に乗っている人間というのは、どれほど勝者に見えようと、根本的に奴隷であり、敗北している者にすぎない。
 神聖かまってちゃんは正に、そんな彼らに叫びかけた。「ロックンロールは鳴り止まないっ」。「自分らしく」。これらの言葉は、新しい自己表明であり、自分の創造である。自分というのは存在しない、だから創造する・・・・そんな、デカルトのような事をやったわけだ。人はみんな、自分を探していた。そして、虚像をこねあげて、これが自分だと信じようとした。あるいは、栄光ある虚像を作れなかった、「人生を失敗した」と考えた人々は、ネットの言葉を使って、他人を攻撃する事によって、自分を慰めようとした。だがもちろん、全ては嘘である。この世界という名の海の中で、自分という一滴の滴が自己主張するとは笑えることではないか・・・。自分は存在しない。自分は無だ、という事を直視することからはじめて、自分は存在する事ができる。「 創造というものが、常に批評の尖頂に据って いるという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。」という小林秀雄の言葉は、根拠のあるものだ。
 だから、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という自己宣言は、二十一世紀初頭に青春期を迎え、その虚飾と華やかさを装った世界の香気を全面に受けた僕達にとっては、意味のあるものだ。もし、この曲、神聖かまってちゃんというバンドがなければ、僕達はこの世界の泥沼と、美しい造花の間をさまよい、そしてあるはずのない自分というものを永遠に探し続けたのだろう。だから、神聖かまってちゃんというバンドの意味は、ここにある。それは、僕達に、最初に生の感情を露出させ、自分の不在を直知させた。・・・それは、僕達が自分達の身を守るためと称して、かぶり続けていたあらゆる覆いを取り払ったのだ。そして、そこには当然、何もなかった。だがしかし、の子は、何もないという事が全ての始まりだという事を僕達に教えた。無論、僕達も生きていけばよいのである。それぞれに、生活の中で違ったシャウトがあるだろう。それはもはや、虚飾ではない。自分を失った事によるはじめての自己存在の確立、叫ぶ事によってはじめて生まれるもう一人の自分なのだ。


奥付



「神聖かまってちゃん」とは何か


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著者 : ヤマダヒフミ
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