閉じる


草原

 これは夢だよ。

 その言葉は、絶えず吹き続ける暖かで柔らかい風に流され、薄れていった。

「知ってるよ」

 少女は後ろ姿を見せたまま呟いた。地平線に顔を半分隠した夕日が彼女の影を黒く染めている。その長い金髪が揺れ、眼前に広がるライ麦畑のように黄金色に輝いた。

 畑はどこまでも広がっている。そう、本当にどこまでも広がっていた。地平線を超えた先、その先にあるのもまた、波のように揺らめくライ麦畑だけだ。

「なのに、楽しいのかい?」

 少女の小さく映る姿を見ながら、少年は口を開く。少女の髪と違い、少年の髪はこの場所では不自然に目立つ黒色の髪だ。

「夢は楽しいのよ」

 少女は振り返り、小さなえくぼを見せ、微笑む。真っ白なワンピースには、その暖かな色の肌がよく映えていた。少女の笑顔を見た少年は、少女よりも大げさに、噛み締めた歯を見せて笑う。

 静かな波が二人の間を流れていく。彼らは腰までその金色の海に浸り、たった二人、無限の海にポツンと浮かんでいた。音も無く燃えている空の下で、海は絶えずざわめく。その穏やかな波の音こそが、この世界に彩りを与えていた。

「ねえ、ずっとここにいなよ」

 少年が笑顔を崩さず、唐突に言う。

 それを聞いた少女は、無邪気で、どこか恥ずかしそうな小さい笑い声と一緒に、ただ微笑むだけだった。


染み

 目を覚ました時、サラは傍らに自分の娘が眠っている事に少し驚いた。彼女は長く美しい金髪をかきあげて、娘をまじまじと見つめる。

 狭い病室の窓からは眩しい光が差し込み、今日がとっくに始まっている事を示している。だというのに、恵美(えみ)は母親のベッドに、授業中に居眠りでもしているかのように突っ伏して寝ている。

 サラは上半身を起こし、恵美の肩を揺さぶる。

「ほら、恵美。起きなさい」

 恵美は少し唸ったかと思うと、すぐに起きた。それこそ、居眠りを注意されて飛び起きたようだった。

「あ、お母さん。もしかして私、寝ちゃってた?」

「人を呆れさせるくらい、ぐっすり」

 髪がクシャクシャになった寝起きの娘の顔を見て、サラは優しく微笑む。恵美はそんな母親の笑顔に気付かずに窓に目を向けながら、腰を摩っていた。

 太陽の日差しは恵美の短い金髪を少しだけ輝かせる。

「うー、腰が痛い」

「そんな体勢で眠るからでしょ」

 恵美は年齢の割にはずいぶんと可愛らしい顔をしかめる。一つ、サラは短い溜め息をついた。

「どうして私が寝た後に帰らなかったの。大学、もう始まってるでしょ? 大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。今日は全部休講になったの。だからたまには、久しぶりにお母さんと一緒に眠りたいなって」

 腰を摩りながら恵美はそう言い、最後にわざとらしい大げさな笑顔をサラに向けた。ふと、サラは恵美の頭に手を置き、ゆっくりと撫でながら口を開く。

「もう。最近毎日会いに来てくれるじゃない。もしかして、サボってるわけじゃないわよね?」

「違いますー。もうすぐ退院するんだから、気を使ってあげてるの。ほら、すっかり病院の空気に汚染されちゃってると思うから、なるべく私が外の空気を持ってきて、慣れさせてあげようっていう最高の気遣いだよ」

 少しふて腐れたように言った恵美に、サラは拳骨で頭を小突いた。

「失礼になるような事言わないの。それに、余計なお世話よ。あなたはしっかり勉強してなさい。画家になれないわよ?」

「それこそ余計なお世話ですー。なれますよーだ」

 恵美は「イー」と歯を見せてサラをからかい、サラは再び彼女を小突く。その後、二人とも笑う。

 ふと、おもむろに恵美は視線を下に向けたかと思うと同時に、笑顔を引き攣らせた。

「うわっ、やっちゃった……」

 恵美の視線を追ったサラが見つけたのは、自分の足を暖かく包む真っ白な掛け布団の、黒いシミだった。サラはそれが何かすぐに察する。

「アイシャドウ?」

「ごめん……。寝た時についちゃったみたい」

 顔を引き攣らせたまま恵美は白状した。

 おちょこ一杯を零したほどのシミは、まるでそこだけ少し焦げたようで、ちょっとやそっとじゃ消す事は出来ないだろうなと、サラは思う。化粧をしないサラは「これだから化粧品は……」と肩をすくませる。人を化かせて、汚れまでつけて、手間ばっかりの発明品だ。

 サラは恵美に注意の一つでもしようと顔を向けたが、恵美のアイシャドウがほとんど落ちてしまっていた目を見て、ふと、口をつぐんだ。その代わりに、少し大げさな苦笑いを恵美に見せる。

「仕方ないわね。看護士さんにはちゃんと謝っておくから。それよりも、お化粧直さなくてもいいの?」

 怒られる事を覚悟していた恵美は一瞬、驚きの表情を浮かべた。それからすぐに、不思議に思っている声色で言う。

「う、うん。ありがとう……。じゃあ、ちょっと行ってくるね」

 恵美は椅子から立ち上がり、脇に置かれていた茶色の肩掛けバッグから小さい黒のポーチを取り出して、スライド式の白い扉を開けて出て行った。

 自動的に扉はゆっくりと閉まっていって、それを確認したサラは黒いシミに手を伸ばす。ちょっと擦っただけで黒い汚れが手についた。

 汚れはほんの少しだけ湿っていた。

「恵美、どうして泣いてたの?」

 真っ白で、色のない部屋の中で一人、サラは静かに呟く。

 自分が眠った後の暗い病室で、恵美が自分にすがりつくようにして泣いている姿を思い、サラは胸を痛めた。

 窓に目を向ける。

 その中だけは色があって、そこには穏やかな青色が広がっていた。

 病室の扉をノックもなく開けたのは英二(えいじ)だった。

 彼は身の丈にこの上なくフィットしている黒のスーツを身にまとい、黒髪も撫で付けるようにセットされている。しかし風貌こそは真面目でも、その顔は気さくな性格をイメージさせ、学生の頃のあどけなさがまだ抜け切っていないのが見て取れた。

 英二は病室に入るや否や、恵美のバッグを見つけてサラに顔を向ける。

「母さん、恵美も来てるの?」

「ええ。廊下で見かけなかった?」

 サラはベッドから背もたれを起こして腰掛けており、依然足を布団に包んでいた。ふと、英二は布団の黒いシミに気付くが、特に気にせずにすぐに目をそらす。

「いや。多分、入れ違いになったんだと思う」

 英二はそう言いながらサラの足下、ベッドの先の所まで進み、そこで止まってサラと正面で向き合える位置に立った。

「椅子持ってきて座りなさいよ」

 サラは恵美が座っていたのと同じ、窓際に置かれている小さい丸椅子を指差す。

「いや。会社に行くついでに寄っただけだし、そんなに長居は出来ないからさ」

 そう言って英二は左腕の腕時計を確認する。それから英二はやっとサラに目を合わせた。

「母さん。俺さ、アメリカに行くの、やめるよ」

 唐突に、英二はいたって明るい口調で淡々と言った。サラは目を丸くする。

「……どうして?」

「恵美を放ったらかして、どこかに行っちゃうのはマズいでしょ? まだ大学生なんだし、母さんだけに押し付けて行くのは良くないよ」

 相変わらず英二は淡々としていた。そんな彼を見てサラは大きな溜め息をつく。

「英二、私や恵美の事は気にしなくていいのよ。あなたはあなたのやりたい事をやりなさい。私だってもうすぐ退院出来るんだし、家の事だって心配は要らなくなるわ。私たちの事を気に掛けてくれるのは嬉しいけど、そのせいで英二に迷惑かけるんなら、かえって私たちの方の心持ちが悪くなるわ」

 ふと、英二は笑みを浮かべる。

「やりたい事をやれって言うんなら、俺は日本に残るよ。俺は、日本でこの仕事に憧れたからこそ、この仕事をしたいって思ったんだ。確かに向こうは世界最高峰のチームかもしれないけどさ、そこは俺の夢じゃない。俺の夢は、俺に夢のような事が起こるって事じゃない。俺の夢の場所で、夢のような事が起こるっていう事なんだ」

「……また、よく分からない屁理屈並べて。まったく」

 サラは呆れた笑みをこぼし、英二は「それほどでも」と言うように得意げな顔をした。

「でも、母さんの故郷も見てみたかったけどね」

 唐突に英二は言う。サラは英二から目をそらし、しばらくしてから気恥ずかしそうに口を開いた。

「でも、住んでいたのは赤ちゃんの頃だけだったから。確かに故郷だけど、何にも知らないのよ」

「それでも、母さんが生まれた大切な場所だ」

 突然、扉が開いた。二人が驚いて目を向けると、恵美が急ぎ足で病室に入ってくる所で、彼女も二人の視線に少し驚き、扉に手をかけたまま固まった。

「なに……二人して。てゆーか、お兄ちゃん来てたんだ」

「来ていました」

 英二がわざとらしい会釈と共に素っ気なく答えた。

 恵美は英二の返事に少し膨れっ面をして、英二を無視するようにスタスタと自分のバッグが置かれた場所まで歩いて行き、化粧品の入ったポーチをバッグにしまう。

 そんな二人のやり取りを見て、サラは微笑む。

 バッグを手にポーチをしまいながら、恵美は英二の方も振り向きもせずに出し抜けに聞いた。

「会社は?」

 言われて英二は思い出したかのように左腕を確認する。表情は落ち着いていて、至って冷静だったが、英二は素早くサラに顔を向けた。

「じゃあ俺、もう行かないと。もし寄れたら、帰りにも寄るから。それと、恵美。ちょっと話があるんだ。着いてきて」

「えー?」

 嫌そうな顔で恵美は振り返る。だが英二の威圧するかのような目にたじろぎ、恵美は溜め息をついて肩を落とした。子供の時から、恵美は英二の真面目な顔には極端に弱い。

「じゃあ、お母さん。ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから」

 しぶしぶ、といった感じで恵美は病室からバッグを置いたまま出て行った。「おい、先に行くなよ」という英二の呼びかけも聞こえていないように、無視する。

「まったく。じゃあ母さん、またね」

「ええ。いってらっしゃい」

 足早に病室を出て行く英二の後ろ姿を、サラは微笑んで見送った。


信号機

 病院前に続く歩道を、駅の方角に向かって二人は歩いていた。

 大学病院の目の前だけあって、片側二車線の道路は車の通りが激しく、歩道を歩く二人の声はお互いに聞き取りにくい。清々しい青空の下に吹いてくる心地よい風は、車が巻き起こす乱暴な風に消し飛ばされていた。二人はとてもじゃないが面白い事を話している顔ではない。恵美は顔を俯かせてさえいる。

「結局、母さんには話してないのか」

 英二は遠くにある信号を見つめながら、口を開く。丁度その時に、信号が点滅し始めた。

「言えるわけないでしょ……」

 俯きながら、呟くように恵美は言う。英二は信号から恵美へと視線を移した。

「大学を辞める事、母さんが気付かないって本当に思うのか?」

「大丈夫だよ……」

 恵美は消え入りそうな声で言う。英二はその言葉を聞き流すようにして、また遠くの信号に目を向けた。

「正直に言った方が、隠すよりも母さんは悲しまないと思うぞ」

 恵美は何も言わない。

 二人はしばらく黙って歩いた。気が付けば病院の敷地はもう通り過ぎ、大きな公園の前を進んでいた。病院に隣接して造られたこの公園は、周りの低い鉄製の柵に沿うように木々が植えられ、隅っこの方に子供用の遊具が設置されている。敷地の大半はグラウンドのような硬い砂地で、平日であれ休日であれ、ゲートボールを楽しむ老人たちの姿を二人ともよく見かけていた。しかし今はまだ朝早い為か、誰もいない。

 車の風から逃げるようにして公園には風が吹き込み、木々が気持ちよさそうに揺れていた。

 英二はずっと眺めていた信号の道路を挟んだ向かい側の所で立ち止まる。丁度信号が点滅し始めた所だった。信号は赤色に変わり、二人にだけ「止まるように」と命令をする。

 そこでふと、英二は口を開いた。

「でも母さん、すごく喜んでると思う」

 恵美はゆっくりと恵美の方を見て「え?」と疑問の言葉を投げかける。英二は一瞬気恥ずかしそうに視線を下げるが、すぐに信号に視線を戻した。

「母さん、すごく喜んでるよ。恵美が毎日会いに来てくれてさ。言ってはくれないけど、恵美が来ると決まって楽しそうなんだ」

 彼女はキョトンとして兄を見つめていた。不意に、英二は恵美に視線を向ける。目が合ったからか、彼は気まずそうに苦笑いをして言葉を詰まらせた。信号が青に変わった。その事を知らせる音が辺りに鳴り響き、周囲の車のアクセルが踏み込まれた音が行き来し始め、英二は音と同時にまた視線を下げる。

「だから、今の母さんには恵美が必要なんだから、恵美が悲しんだりしちゃいけない。恵美は泣き虫の俺よりも強いんだから。だから、迷うなら言わなくていい。その代わり、ずっと母さんの側で笑っている事」

 英二はそう言って、真面目な顔つきで恵美の方を向いた。だけどそれはいつもの威圧的な目ではなく、優しくて、頼もしささえ感じられる深い目だった。見守っていると囁くような、勇気をくれる瞳だった。

 始めはポカンとしていた恵美だったが、やがてゆっくりと言葉の意味を飲み込み、そしてまたゆっくりと俯いて、無言のまま軽く頷いた。一つ、英二は溜め息をつく。溜め息まじりの笑みを見せる。恵美はそれに気が付かない。

 信号が点滅を始める。英二はふと顔を上げると、その点滅し始めた信号に気付き、突然、恵美の頭をクシャクシャと撫でた。恵美が驚いて顔を上げた時には、英二は駆け足で、恵美に一瞥もくれる事もなく渡り始めていた。だが兄の手の温かさはまだ残っている。慌てて駆ける彼の後ろで、恵美は思わず微笑んでいた。

 英二が道路を渡り切り、ふと、道を挟んだ恵美に振り返った瞬間、たくさんの車が彼らの前を横切り始め、あっという間に、お互いの姿を確認する事が困難になる。

 それでも英二は見え隠れする恵美に、右手を大きく振った。しかし恵美は英二の方向を確かに見ているはずなのに、反応がない。

 目の前の車の流れは声だけでなく、自分の動作までも消してしまっているのではないかと、英二は怪訝に思う。

 だがそんな事を考えている矢先、英二に、小さく、恵美の声が届いた。英二は手を振るのを中断し、耳を澄ます。

「いってらっしゃーい!」

 恵美は両手をメガホンにして、叫んでいた。英二にちゃんと届いたと安心出来るまで、何度も。

 英二はおかしくなって、少し笑ってしまう。

「いってきます!」

 英二も両手をメガホンにして叫んだ。

 声は一度で恵美に届き、彼女は笑顔で、大きく右手を振る。英二は自分の声が届いたのを確認すると、安堵の表情と一緒に軽く息を吐き、恵美に背中を向けて歩き出した。

 再び信号が青になった時、恵美の目には駅への道を急ぐ英二の背中が、小さく映っていた。

 少女は小さな田舎道に立っていた。

 舗装もされていない、大きさの違う石がいくつも転がる粗末な砂利道は、無限に広がる草原の真ん中に、同じようにどこまでも、真っ直ぐに続いている。空に太陽はない。だけどそこには、小さなロールパンを千切ったような雲が、深い海に浮かべられたようにあって、少女がいる場所は暖かった。

 風は吹かない。草原の背の低い雑草たちはざわめかずに静かに佇んでいる。雲も形を変える事もなければ、動かない。

 静かだった。時間が止まっているかのように。

「僕はこの道の先には、海があると思うんだ」

 少女の後ろにふいに現れた、黒髪の少年が口を開く。

 静かな空間に突然現れたその声は、すぐに辺りにバラバラに散ってしまい、幻聴だったと思わせるくらいに再び静かになる。

「君は誰だい?」

 少年が少女に尋ねる。

「サラよ」

 サラは振り向き様に少年に言った。白いワンピースがフワフワと揺れ、止まる。

「あなたは?」

 サラはその手を後ろで組みながら、首を傾げて少年に訊く。

 少年は肩をすくませて、恥ずかしそうに笑った。

「それが、分からないんだよ。気が付いたらこんな場所にいたんだ。一体、僕は誰なんだろうね?」

 そこで唐突に、少年はサラを指差す。正解の答えがひらめいたんだ、と報告するような仕草だった。

「でも考えてみれば簡単だった。なぜなら、これは夢だからさ。だから、この世界では僕は何者でもない。何もする必要がないから、名前もないんだ。それに、僕の目の前にこんなにも美しい人がいきなり現れたのが、何よりの証拠さ」

 少年はまっすぐサラを見つめる。辺りにはまた静寂が訪れた。

 サラはしばらく目を丸くして、キョトンとして、そして笑った。静かな湖に、小さな波紋がいくつも広がっていくかのような、弱々しくて、透き通って綺麗な笑い声だった。

「当たりでしょ?」

 少年は自信満々といった感じで、誇らしげな笑みを浮かべながら、しかも腕を組んで言う。サラは笑いたい気持ちを無理矢理押し込んで、一呼吸置いてから口を開いた。

「おかしな人。夢はあなたの方でしょ? 私は私の事、ちゃんと分かってるわ。それに、私はあなたの事を知ってる」

 少年はまた肩をすくませて、今度は呆れたように笑う。

「なるほど、こういう仕組みの夢なのか」

「どういう仕組み?」

「僕が世界中の誰よりも孤独になる仕組みさ」

 サラはまた笑った。そして今度はすぐに口を開く。

「私、あなたによく似ている人を知ってるわ。あなたみたいに、よく分からない事をよく言う人。英二って言うの」

「そうか、それが僕の名前か」

 少年は納得した口調で、わざとらしく頷いた。

「違うわよ。彼は車のデザイナーなの。アメリカの有名なメーカーにスカウトされちゃうほど凄い才能を持っているのよ」

 サラは優しく微笑んで訂正する。

 それを聞いた少年は、顔をしかめて、頭を掻いた。

「おかしいなぁ。僕に才能があるのは何となくそんな気がするんだけど、車にはあんまり興味がないと思うんだけどな」

「だから、あなたは彼じゃないわ」

 サラが溜め息まじりに言って、微笑む。

「じゃあ、僕は誰なんだい? 君は知っているんだろう?」

 少年は期待を込めた目でサラを見つめた。ついでに、といった感じに少しだけ、はにかんでも見せる。二人はほんの少しだけ見つめ合う。だがやがて、サラはその微笑みをゆっくりと崩していった。

 ふと、サラは何か言おうとしたのか口を開きかけて、結局何も言わずに少年から目をそらしてしまう。そして、小さな溜め息を一つついた。

 少年はおかしいと思ったのか、不安そうな顔をサラに向ける。

「どうしたの?」

 サラはゆっくりと、再び少年を見つめる。

「英二の事、誰だか分からないの?」

 少年はキョトンとする。

「やっぱり僕なの?」

「違うって言ってるでしょ」

 サラはまた少年から目をそらして、大きな溜め息をつく。

 少年は少し困った、という顔をしてから肩をすくませてみせた。それでもサラが気付いたか疑問に思った為、念のためにもう一度、わざとらしく肩をすくませた。

 次に「やれやれ」という言葉とともに、右左へと、首を振る。そしてサラを見る。

「僕は自分の名前も知らないんだ。他の人の事なんか知らなくて当たり前じゃないか。現に僕は君の事も知らないよ。たかが夢のくせに、どうしてそんなに君は気難しいんだ? 夢の外で、僕は君に何か気の触る事でもしたのかい?」

 サラは顔を上げて、少年をジッと見据える。まるで睨みつけられているようで、少年は少したじろいだ。

「あなただって、夢のくせにどうして知らないのよ? 知らないくせに、どうして私の夢に出てくるのよ?」

「待てよ、どうして僕が一方的に文句を言われるんだ?」

 無茶苦茶な言葉だと、少年は反論するように語調を強める。

 だがサラはそれよりも遥かに強い口調になっていた。

「あなたが悪いからでしょ! あなたはいつもいつも……いつも忘れてる! ほんとうに……」

 突然、サラはしゃがみ込んで、顔を伏せてしまう。

「せっかく会えたのに……すごく大切な事なのに、何にも教えてあげられないじゃない……」

 目の前で少女がいきなりしゃがみ込み、苦しそうな嗚咽と一緒に激しく泣き出したせいで、少年はひどく狼狽えた。思わず少年は振り返り、また前を見て、地平線の先まで続く道を確認する。だが人の目を気にした所で、この夢には初めからサラと少年の二人しかいない。

 サラの大きな泣き声は、音のない世界の全てに響いていた。だというのに、草も、雲も、相変わらず無関心であるかのように身動き一つしない。

 乾いた地面に一粒ずつ染み込んでは次第に広がっていくサラの涙を見て、これは夢だ、と必死に心の中で言い聞かせつつも、少年は深刻な罪悪感に刈られていた。

「ねえ、お願いだから、泣き止んでよ」

 少年はしゃがみ込むサラの肩に優しく手を置いて、出来得る限りの優しい声で懇願する。だがサラの様子は一向に変わらなかった。

 少年は頭をクシャクシャと激しく掻いて、身悶えるかのような苦しげな声を出す。そしてしゃがみ込んで、サラの目の前に顔を持ってくる。

「……僕が悪かったって。絶対、絶対思い出すから。だから、泣き止んでよ」

 サラに声はまったく届いていないのか、彼女は泣き続ける。

 もう、何が悲しいのか考えようとしてもはっきりと考えられない。ただただ、悲しい。悲しい想いだけが、心の中で渦巻いていて、無性に苦しい。目の前が真っ暗で、とても恐い。だから、流れる涙を止めたいのに、どうしても止められない。

 自分の手に滴り落ちる涙は彼女にとってはひどく冷たく、重たかった。泣いている自分がひどく惨めに思え、蹴飛ばしてやりたかった。

 その時、ふと、自分の身体を暖かいものが包み込む。

 少年の腕だった。

 少年は衝動的に、だけど優しく、サラを抱えるようにして包み込み、自分の胸の中へ抱き寄せる。

「ごめんって……サラ」

 少年は呟くように言った。

 サラは何が起こったのかしばらく理解出来なかったが、頭の中に響いてくる少年の心臓の鼓動で、やがて気付く。

 サラはゆっくりと、少年の真似をするかのように、少し震わせながら、その暖かい背中に手を回した。

 また、涙が零れた。

 また、とめどなく溢れて、どんどん苦しくなっていった。だけど、今度は恐くなかった。悲しくなんかない。最高に嬉しいわけじゃない。だけど、どうしても泣いてしまう。それでも、彼女は涙を止めようとは考えない。

 ずっと、泣いていたかった。許される限り、この暖かい腕の中で。

 彼女は抱きしめる腕に力を込める。

「ごめん」

 小さく、少年の声が聞こえた。少女は激しく首を振る。

「……ズルいよ」

 自分の涙が、すがりつく少年の服にどんどん染み込んでいっているのが分かる。しかしサラはそんな事を気にするような気持ちは微塵も起こらない。

 染み込んだ涙は冷たい。だけど、そんな事は忘れてしまうほどに何もかも暖かく感じた。身体も、心も、少年も、限りなく静かなこの空間も、小さくてたくさんの涙も。

 嗚咽で上手く声が出せない。サラは、何としてでも声を絞り出そうとする。

 それでも、何も言えない。何か言いたいのに、言葉が出てこない。

 突然、大きな風が吹いた。

 暖かくも、冷たくもない、だけどとてつもなく強い風だ。サラは思わず強く目を瞑り、離れないように少年に強く抱きついた。

 今まで音のまったくなかった世界は、突如乱暴な風の音に支配される。そしてそれは何もかもを吹き飛ばしていこうとしていた。

 バラバラと世界が崩れていく。雲は、一瞬で弾けるように消えていった。草原の草は、ザワザワとその身体を揺らさずに、先っぽの方から、霧のようになって消えていった。どこまでも続くゴツゴツした砂利道は、巨大なハンマーで壊されるかのように消えていった。海のように透き通っていて深い青空は、黒い絵の具で乱暴に上塗りされていくように消えていった。

 全部が真っ黒になっていく。サラは顔を少年の胸に埋めていて、その異変には気が付かない。少年は、自分たちの周りがどんどん消えて、変わっていく様子を、ただ呆然と眺める。

 少年も、無意識にサラを強く抱きしめた。そして、目を瞑る。

「サラ……!」

 抱きしめているのに、離れたくないのに、サラは少年の声が遠くから聞こえているような感じがした。

「サラ……!」

 何度も、何度も名前が呼ばれる。だけど、その度に声は遠ざかっていく。これほどまでに近くにいるのにも関わらず。

 サラは目を開けなかった。開けてしまったら絶対にダメだと、根拠はないのに、必死だった。抱きしめる腕の力は、限界を感じ取っても、それでももっと強くしようと、何度も力を込める。

 やがて、風が止んだ。

 少年の声はもう聞こえなくなっていた。

 この世界の暖かさも、もう感じなくなっていた。

 サラはゆっくりと、誰にも、自分にも気付かれないように、目を開ける。出来れば何も見たくないと、ほんの少しだけ。

 目に飛び込んで来たのは、真っ黒な空間だった。

 次の瞬間、抱きしめていたはずの身体が消える。

 サラの腕は、初めから何も抱きしめていなかったと彼女に錯覚させるほど、冷たい宙を空しく舞い、彼女は勢い余って前のめりに倒れてしまう。

 黒色の地面は冷たい。

 彼女はゆっくりと身体を起こし、立ち上がって、周りを見回す。そこはさっきまでの場所と同じような、無限に広がる世界だった。だけどそこは自分以外が何もかも真っ黒で、何もない。ただ、自分の姿だけは真っ黒で光がないはずの空間なのに、はっきりと見える。

 この世界にいるのは、自分だけだとサラは分かった。

 両手を見る。

 先ほどまでの温もりは幻のように消えてしまっていた。だけど、不思議と悲しくなかった。もう、何も感じられなかったからだ。

 ふと、サラの頬に、たった一粒だけ涙が伝う。

 サラは自分に流れる涙に気が付かず、涙はそのまま、耐えきれずに空しく手を滑らせて崖から落ちたように頬から離れ、黒色の地面に消えていった。黒色の空間を、どこまでも落ちていった。

 冷たい涙だった。

 やがて、夢は終わった。

読者登録

yaminさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について