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はじめに

はじめに

このテキストデータは、大学の授業の一貫として配信するものです。

楽しんでいただければ幸いです。


1

 吐く息が煙のように白くなる、ことさらに寒い冬のことです。縁側の拭き掃除をしながら、千歌(ちか)は、そっと中庭の空を見上げました。
(やっぱり、雪、降らないんだな……)
 濡れた雑巾は凍りそうにつめたく、かじかんだ指先は霜焼けになりかけていましたが、千歌はいったん手を止めて、灰色にけぶる街の冬空を見つめました。
 中庭に植えられた山茶花の木が花時を迎え、今にもほころびそうなつぼみをつけています。ここのおじいさんが大事にしている山茶花です。もうすぐきっと、目にも鮮やかなくれないの花が次々と開くことでしょう。でも、千歌は大輪の花よりも何よりも、雪が見たくて仕方ありませんでした。
 千歌は街の冬が嫌いでした――といってもこの冬は、街に出て来てから初めて迎える冬なのですが――なにしろひどい底冷えがするばかりで、雪が降る気配なんてこれっぽっちもないのですから。
 前にいた村では、冬になると、雪はこれでもかこれでもかと、大の男の背丈の倍ほども降り積もったものでした。まだ村を出て一年にもならないのに、千歌はもう、雪のある冬が懐かしくてたまりませんでした。
(わがままだって分かっているけど、でも見たいな)
 ほんのつかの間、目を閉じて、いろいろな雪のかたちを思い浮かべます。粉雪、みぞれ、濡れ雪、牡丹雪……それから……それから、
(それから、そう――風花(かざはな)。あれが、あの雪がいちばん好き。空は青いままで、小さな小さな雪のかけらが、はらはら、はらはら降ってくるんだ。空と雪の色が、まるで、一枚布みたいにきれいなんだ)
 千歌は冬曇りの空を見上げながら、その降ってくるさまを思い出して、思わずうっとりしました。いま風花が降ってきたら、どんなにかなぐさめられることでしょう……。
 と、そのとき背後から、
「こら、おまえ。さぼるんじゃないよ」
 しわがれた烈しい声がして、千歌がかたわらに置いていたバケツが音をたてて引っくり返りました。たったいま拭いたばかりの床に汚れた水がぱっとこぼれて広がりました。千歌が手を止めているのに気づいたおばあさんが、無造作に蹴り飛ばしたのです。千歌はあわてて謝って水を拭きにかかります。おばあさんはそんな千歌を底光りのする、さげすむような目つきでちらりと見ましたが、ふんと鼻を鳴らして行ってしまいました。
 ようやっと水を拭きとり終えると、千歌はほうっとため息をつきました。
(あたしが悪い……。早いとこ片さなかった、あたしが悪いんだ)
 何かに追いかけられるように心のなかで繰り返しながら、みすずが通りかかる前にと、掃除の道具を抱えて立ち上がった千歌でした。



 この家で千歌と血がつながっているのは、お母さんの妹にあたる洋子(ひろこ)おばさんと、その一人娘のみすずだけでした。あとは、おじさんも、おじさんの両親であるおじいさんもおばあさんも、千歌にとって家族といえるような人たちではありませんでした。
 千歌がこの家に引きとられてきたのは、去年の夏の終わりのことでした。この街からは汽車でまる一日かかる山間にあった千歌の村を、その年の春から夏にかけて、おそろしい疫病が襲ったのです。千歌と二つ下の弟は事なきを得ましたが、お父さんとお母さんはたてつづけにその病におかされ、何日もたたないうちに亡くなってしまいました。そこで身寄りのなくなったきょうだいは、姉は街で暮らすおばさんのもとへ、弟は隣の村のお父さんの知り合いのもとへ行くことになったのでした。
 洋子おばさんはめいである千歌に、とてもやさしくしてくれていました。へたをすると、いとこのみすずよりもやさしくしてもらっているかもしれません。でもそのせいか、みすずは千歌をうとましく思っているようでした。それで、いつしか、孫のみすずをかわいがっているおじさんとおばあさんも、洋子おばさんの見ていないところで千歌につらく当たるようになったのです。おじいさんは千歌の来るずっとせんからぼけが始まっていて、中庭を手入れすることにしか興味がないようで、三人を止めるでもなくはたで見ているだけでした。
 洋子おばさんとおじさんは、世にいう共働きというやつで、昼間は家にいません。だから千歌は、なるべくみすずとおばあさんの気にさわらないように、用心ぶかく過ごさなければいけませんでした。
(だけど、とにかく、ごはんを食べさせてもらえて、寝床を用意してもらえるのだから、ありがたいことだ)
 三人のつめたいことを洋子おばさんには知られないように、知られないようにと、千歌はいつもさびしさを押して笑っていたのでした。



 その日の晩ごはんの途中、千歌は隣にすわっている洋子おばさんに、ためらいがちに訊いてみました。
「おばさん」
「なあに、千歌ちゃん」
「あの、斗太(とうた)のこと……何か……」
 聞いてませんか――と、最後までいうまえにおばさんは、ああ、と箸を置きました。
「そういえば、お返事まだ来ないものね。心配ね」
「まだ病気、なおらないんでしょうか……」
 斗太は、村にいたとき千歌といちばん仲よしだった男の子です。千歌が村を出る数日まえからひどい風邪を引き、それをこじらせて肺炎になってしまったとあとから聞きました。それ以来、もともと身体の弱かったのに拍車がかかったようで、ほとんど家から出られなくなってしまったらしいのです。千歌は心配でならなくて、こちらに来てから二、三度手紙を書いて送ってやったのですが、その返事がまだなのでした。
 自分からいいだしたくせに、千歌は斗太の名前を口にだすと、無性にかなしくなりました。斗太のちょっと気弱そうな眉の感じや、千歌ちゃん、千歌ちゃんと呼んでくれるときのやさしい声を思い出しました。
(斗太に会いたい……。どうしてるんだろう)
 そのとき、うつむいて黙りこくっていた千歌のコップに、みすずのひじが当たって倒れました。水がこぼれてテーブルと千歌のひざをつめたく濡らしました。
 きょう二回めだ、と千歌はぼんやり思いました。

2

 次の日、おつかいを頼まれた千歌は家に帰るのがすっかり遅くなってしまいました。それもそのはず、頼んだ当のおばあさんが、最初に渡してきたメモには書かれていなかった品物を千歌が買い忘れたといって、何度も何度も行きなおさせたからでした。
「おばあさん。ごめんなさい。買ってきました」
 同じ道すじを三度も往復して、まったく買う予定のなかった牛乳を差し出しましたが、おばあさんはたいそうふきげんそうに、ただでさえしわくちゃな眉間にさらにしわを寄せて首をふりました。
「おとうふは? 買ってこいと、さっきあれほどいったじゃないか」
「…………。ごめんなさい」
 うなだれてきびすを返した千歌の耳に、まったく役にたたない子だよ、と吐き捨てるようにいったのが聞こえました。
 早足でもと来た道を引き返しながら、顔に吹きつける風があんまりつめたくて涙が出そうになって、ぐっとくちびるをかみしめました。
(あたし、そんなにかわいくない子どもだろうか。そんなにふてぶてしい、なまいきな子どもに見えるんだろうか)
 秋の日はつるべ落としとよくいいますが、冬はなおさら、それこそあっという間に日が暮れてしまうものです。太陽は千歌のような子どもを待ってはくれません。落ちないでくれと願えば願うほど、あざ笑うかのような速さで山向こうに消えてしまいます。もうあたりはすっかり暗くなって、空が曇っているので月も見えません。
まるで世の中にあるすべてのものに、いっせいにいじわるされているような気分でした。
(せめて、雪が降ってくれたら……)
 千歌は未練がましく、きのう思ったことをもう一度、胸の中でつぶやいてみました。
 街の夜道は黄ばんだ街灯に照らされて明るくはありますが、なんだかうそ寒くっていけません。雪の積もった道ならば、灯りのない真っ暗な夜でもほの白く光って見えますから、月なんか出ていなくたって迷うこともなく、不安な心持ちになることも、きっとなかったのです。
 かみつかれるような寒さに首をすくめて、千歌はますます早足になりました。



 そうやって、えりまきに顔をうずめるようにして歩いていたせいでしょうか。ふと気づくと、千歌は真っ暗な道のまんなかにぽつんと立っていました。
 どこにも逸れず、まっすぐに歩いていたはずでした。それなのに、道の左右には一本の街灯も見当たりません。この街には街灯のないところなんてめったにないのです。ただでさえ月のない夜ですから、灯りがひとつもないとなると、その暗いことといったら、手を伸ばせばひたひたとやみにさわれるほどでした。
(ここはいったいどこだろう?)
 千歌は急にこわくなりました。おまけに悪いことに、一度立ち止まるとすっかりからだがすくんでしまい、まわれ右して引き返すこともできないのでした。
 このまま帰れなかったら、どうしよう……そんな考えが浮かんできて、さっきまでとは別の意味で涙ぐみそうになりました。


   かえれなくても――


 と、そのとき、誰かの声が千歌の耳元でささやきました。


   帰れなくても かなしくない
     だあれも だあれも かなしくない


 千歌は、はっと息をのみました。
(そうだ。あたしがいなくなったって……)
 おどろいて耳をふさぐこともできずにいる千歌を取りかこむように、声はだんだん大きくなります。


   そんなら、帰らなくていい
     だあれもかなしくないんなら
   帰らなくても なんにもない
     帰らなくても かなしくない


 買い物かごを抱えたまま、千歌はその場にぺたんと座りこみました。
 しんしんと、たえきれないほどの底冷えがして、心が凪いでいくようでした。暗がりの中、千歌はいつしか、閉じても閉じなくても変わらないまぶたを、静かにおろしていました。



 そうして、どれくらい時間がたったでしょうか。
 じっと動かないでいた千歌の、ぎゅっとつぶった目のうらが、ふいに真っ白く染まりました。
 とつぜんの光に、暗やみになれた目は鳥のようにくらんでしまって、何がなんだかわからなくなりました。
 そうして次に目を開いたとき、千歌は、見知らぬ市のただなかに立っていたのです。
 狭い道ぞいにずらりと立ちならぶ、数えきれないほどの露店、露店、露店……。ここだけ真昼のように明るいのは、ひとつひとつの店先に、あかあかと灯る提灯がつるしてあるからなのでした。いまさら思い出したように、人びとのさわがしい話し声が千歌をつつみました。
 人びと? ――いいえ。たくさんの露店で品物を売っていたのは、どこからどう見ても人ではなく、二本足で立つ鹿でした。売るほうだけでなくお客さんもみんな、人のように振るまう鹿たちだったのです。
 暗やみとはまたちがうおそろしさに千歌は後ずさりし、きびすをかえして走り出しました。店先をうろつくりっぱな角の鹿とぶつかると、まわりの鹿たちが口ぐちにいいはじめました。
「おやおや、人だ」
「人がいる」
「子どもだわ」
「めずらしいこと」
「どの破れめから入ってきたんだか」
「鉄砲持ってないだろうな」
「かごなんか提げて、なに買いにきたのかしら」
 足がもつれて転びそうになりながら一生懸命走りますが、いくら走っても、露店の列はとぎれません。気の遠くなるほどむこうのほうまで提灯のあかりが点々とつづいているのです。
 終わりの見えない市のなかで、千歌がよろめくように立ち止まったとき、横合いから声がかかりました。
「どうしたの、お嬢ちゃん」
 その声につられて左手を振りむくと、その露店のなかにいたのは、まばゆい琥珀色の髪をした女の人でした。あたりにひしめく鹿ではなく、ちゃんと人間の女の人でした。
 千歌が答えられずにいると、女の人は、
「おおかた道に迷いでもしたんでしょ。ときどき、そういう人があるの。どうぞ寄っていきなさいな」
 といいながら、ゆうるりと笑みをうかべました。女の人が首をかしげた拍子に、ふしぎな色の髪がほろっとこぼれて、うす曇りの夜の月影のようにやさしく、ぼうっとにじんでかがやきました。心なしか、その人のまわりだけうっすら光っているようでした。
 女の人が売っていたのは、反物でした。色とりどりの布が、かさねがさね卓の上に広げられています。
 千歌が軒先に入ると、女の人はひとつひとつ、端から順にてのひらで示して品物の説明をはじめました。
「これは、夜空にひたした黒ラシャ。真っ黒に見えるけれど、よく見ると、ちっちゃな星がちらほらまぎれてます」
 それは、厚手の毛織物でした。うっとりするほど肌ざわりがよく、ところどころに散りばめられた星たちが、呼吸するようにまたたいていました。
「こっちは、夕焼けで染めぬいたサテン。ほら、ときどきうろこ雲が横切っていくでしょ。これでカーテンをこしらえたら、どの窓も永遠に夕方ですよ」
 今度のは、花びらの色と熟したみかんの色を混ぜたかのような、さえざえとうつくしい赤い布でした。女の人のいうとおり、じっと見つめていると、だいだい色に染まった遠くの雲が、風に流されていくのがわかりました。
 そんなふうにして女の人は次々と、千歌が見たこともないふしぎな反物を見せてくれました。いつかの、どこかの空を切り取ってきたようなうつくしい反物……。しまいに千歌は息をつくのも忘れて、ただただ見とれるばかりとなりました。
 なかでも最後に広げられた反物に、千歌は釘づけになりました。
「そしてこれが、風花の絣」
 風花の絣!
 それは、うす青い地に細かな白が点々と散った布でした。
 千歌は息をころしてその二色の布に見入りました。じいっと見つめていると、その白いのが降る途中の雪のつぶであり、ゆっくりはらはらと動いて、裾のほうに積もっていくのがわかるのでした。見ているだけで、透明な日差しとこころよいつめたさが、ぐんぐんこちらに伝わってくるような……。そこに切り取られていたのはまちがいなく、千歌の焦がれたあの景色だったのです。
「これ……これ……いくらですか?」
 思わず尋ねてしまってから、自分がいま持っているのはおつかいのためのわずかなお金だけで、こんなすばらしい反物を買えるほどのお金はどこにもないことに気づきました。それでも、言葉は止まりません。
「あのう、あたし、お金ないんです。だけど……」
 代わりに何でもあげるから、これください――そう、あやうくいいかけました。
 うそではありませんでした。そのとき千歌は、ほんとうに、この布となら自分の持ちもの全部を換えてもいいと思ったのでした。
 必死な千歌に、女の人は少し考えこむようなそぶりを見せてから、おもむろにはさみを取り出しました。
「そんなら、これあげる」
 千歌は目を、みはりました。



 それからどうやって家に戻ることができたのか、千歌はよく覚えていません。気がついたときには門の前に立っていたのです。
「千歌ちゃん、こんなに暗くなるまでどこ行ってたの?」
 洋子おばさんが玄関から飛び出してきました。千歌をやさしく抱きよせて、ちぎれそうにかじかんだほっぺたや耳を、あたたかい両手でいたわってくれました。千歌は何にもいわないで、されるがままになっていました。
「買い物かごはどこへやったんだい」
 おばあさんにつづいて、みすずやおじさんも玄関先へ出てきます。三人の目がぞくっとするほどつめたくて、千歌は洋子おばさんの肩口に顔をうずめました。
「おやまあ、あきれた子だね。さんざん心配かけといて、ごめんなさいの一言もありゃしない」
「無事に帰ってきてくれただけでもよかったじゃありませんか。買い物かごは、あすにでも新しいのを買ってきますから」
 おばあさんをなだめていた洋子おばさんが、とつぜん、あっと声をあげました。首すじにふれた千歌の額が、ぎょっとするくらいあつかったのです。
 客間に運び込まれた千歌はおふとんに寝かされて、氷をくるんだてぬぐいを額に当ててもらいました。
 そして、それからまる二日の間、まほうにかかったように眠りつづけたのでした。

3

 まぶたのうらが真っ白になるほどまぶしいのに、つめたい風がむきだしの腕やすねを撫でています。はっと目を開けると、まじりけのない青と白が、一瞬、目の奥がずきずきするくらい鮮やかに千歌を取りまきました。
 目をほそめたり、しばたたいたりして明るさに慣れてくると、そこがいったいどこなのか、ようやく千歌は気がつきました。
(村だ。あたしの村だ)
 一面雪におおわれて、見渡すかぎり白い野原でした。村のはずれのひらけた場所で、子どもたちの遊び場になっているところです。むこうに走っていけば、そまつな木造の家々がぽつりぽつりと間を空けて建っているはずなのです。千歌は懐かしさで、胸がきゅうっとくるしくなりました。
 冬の晴れた空は他のどの季節よりも青く、とびきり澄んで見えます。半分凍った雪をさくさく踏みしめて歩き出した千歌の目のはしを、ふと、白いかけらがかすめました。
 振り仰いだ千歌は、ぱあっと笑顔になりました。
(風花!)
 桜よりもなお小さな花びらのような雪が、はらはら降ってきていたのでした。
 千歌は思わず、走り出しました。
 うれしくてうれしくてたまりませんでした。だって、そこにあったのはまさしく、白くつめたくまっさらな、千歌の冬でしたから。そっけなくて色味のない街のとはちがう、千歌の大好きな、あの冬でしたから。
(あと、足りないのは……)
 千歌は走りながら、きょろきょろとあたりを見まわしました。すると遠くのほうで、豆つぶくらいの人影がゆらぎました。
 はっきり姿の見えないうちから、千歌にはそれが誰なのか、すぐにわかりました。
「斗太!」
 大声で名前を呼ぶとむこうもこちらに気づいたようです。振りむいて、千歌のほうへとのろのろ走ってきました。
「千歌ちゃん」
「斗太、斗太……。なんでいるの?」
 千歌が息を弾ませて尋ねると、斗太はやさしい声でいいました。
「なんでって、ここ、ぼくらの村だもの」
 そりゃそうだ……と、千歌は思いました。なんであたしはこんなこと訊いたんだろうと、自分で自分がふしぎになりました。斗太がほんとうは遠い村にいて会えるはずがないことなど、考えてもみませんでした。いいえ、人が地球という星の上に住んでいることを忘れきってくらしているように、知らないわけではないけれど特別に思い出すこともない、それとおんなじだったのです。
 でも、そんなことはすぐにどうでもよくなりました。
 何がどうなっていようと、いまここに斗太がいてくれることにはちがいないのですから。
「手紙、読んでくれた? 病気よくなったの?」
「うん。お返事かえさなくてごめんね」
「元気になったんなら、なんでもいいよ!」
 千歌は斗太の手を取って、野原のほうへ走りました。さっきより少しゆっくりと。斗太は生まれつきぜんそくがあるので、あんまり速く走らせると、たちまちひゅうひゅう胸が鳴ってくるしくなってしまうのです。人一倍丈夫で元気な千歌でしたが、そんな斗太に合わせて遊ぶのをつまらないとか、つらいとか考えたことは一度もないのでした。



 それからふたりは、夢中で遊びました。
 いまのふたりよりもっとずっと小さな子たちがするようなたわいない雪遊びが、おかしなくらいたのしくて、やめられなくなりました。身の丈よりも大きな雪だるまをこしらえて、木の枝と石ころで顔をつくってやりました。真っ赤になったお互いのほっぺたを指さしては、くすくす笑い合いました。
 手袋もえりまきもしていないせいでそのうち手も足もかじかんできて、霜焼けになるところでしたが、これっぽっちも気になりませんでした。



 しばらくして、すっかりつかれきったふたりは、大きなからまつの木の下に座ってひと休みしました。
「斗太、前より元気になったみたいだね」
 千歌が言ったとたん、斗太は、すっと真顔になりました。
「千歌ちゃんは、ちょっとやつれたね」
 その声があんまりやさしかったので、千歌は目の奥がぎゅっとあつくなりましたが、それをこらえて笑ってみせました。
「そんなことないよ。街のくらしも、たのしいよ」
 うそでした。――千歌にとってあの街は、ちっともたのしくなんかありません。家族の中でおばさんだけはやさしくしてくれるけれど、あとの人たちは千歌のことを何か別の生きものでも見るかのように遠まきにして、いつまでもよそ者あつかい……。だから、いまこうして斗太が隣に座って笑っている、そのことだけで、千歌はもうなんにもいらないとさえ思えるのでした。
 そのときです。千歌は短く悲鳴を上げました。
 斗太のからだがだんだん透きとおっていき、消えそうになっているではありませんか。
 泣きべそをかいた千歌に、斗太は力づけるように笑いかけました。
「千歌ちゃん、また、あしたね」
 やがて斗太の姿はあとかたもなく空気に溶け、その場には千歌だけが、ひとりぽつんと残されました。
 うずくまった千歌をどこからかしのびよった暗やみがつつみこみ、次に気がついたときには、おふとんの上に横になっていたのでした。



 千歌は、胸のところで右手をぎっちり握りしめたまま眠っていました。
そうっとその手を開くと、しわくちゃになった小さな端切れが、ぱらりと千歌の膝に落ちてきました。ていねいに指でしわを伸ばすと、大人のてのひらくらいの大きさでした。寝ぼけまなこでそれを光にかざした千歌は、はっとしました。
 うす青い地に、点々と白が散らされた――そう、それは、あのふしぎな風花の絣だったのです。
 なめらかな手ざわりの布をそっとなでると、いとしさで胸がいっぱいになりました。
 自分の手の中で舞う雪をまじまじと見つめて、他の人たちには絶対見つからないようにしようと、千歌は、熱にうかされた頭で考えていました。

4

 それからというもの、千歌は、うわのそらで過ごすようになりました。
 みすずに廊下で足を引っかけられて転ばされても、おばあさんから袖にたばこの灰をこぼされても、これっぽっちも気になりませんでした。縁側を通るとき、おじいさんがまるで初めて会う人のように「中庭の山茶花がそろそろなんですよ、そりゃあきれいなんですよ……」と、くりかえしくりかえし声をかけてきても、返事もしないでどこ吹く風でした。
(夜になれ。早く、夜になれ……)
 晩ごはんのとき、洋子おばさんが心配そうに訊いてきました。
「千歌ちゃん、ごはん食べられないの?」
 千歌はごはんもおみそ汁も、小鳥がついばむくらいしか口にしていなかったのです。
「無理しなくていいのよ」
「ううん……。ごめんなさい」
「片してあげるから、もう、きょうは寝なさい」
 ぼんやりうなずいた千歌を、みすずがきついまなざしでにらんできましたが、なんとも思いませんでした。早く眠れるのならなんだってよかったのです。



 あの端切れは、枕の下に隠してありました。
 おふとんに横ざまにうずくまり、その布をぎゅっと胸に当てると、つぶった目のうらがさあっと白く染まって、次の瞬間には千歌は雪野原に立っているのです。
 花びらのような雪が千歌の鼻にとまって、しゅわりと溶けてなくなりました。目の上に手でひさしをつくって背伸びをすれば、むこうに見える小さな人影。
「斗太ー」
「千歌ちゃーん」
 大きく手をふると斗太もふりかえしてくれるので、千歌はうれしくなって駆け出してしまうのでした。
 それからしばらく雪遊びに夢中になって、なんでもないことで笑いあって……。ふたりしてつかれきって、からまつの木の下でひと休みするところまでは、よかったのです。
 でも、夢のようなたのしい時間には、いつだって終わりがくるのでした。
「千歌ちゃん、朝よ」というおばさんの声がかみなりみたいにこだまして、千歌が先にいなくなるときもありましたが、たいてい斗太のほうが千歌を残して消えてしまいます。からだがだんだん透けていって、言葉をかわしている間にいなくなってしまうのです。
 どうしようもなくて、ただ名前を呼ぶしかない千歌に、斗太は毎晩こういいました。
「また、あしたね」
 また、あした……。
 あしたね……。
 その声がまだ耳に残っているうちに千歌はふたたび、味気ないおふとんの上へと帰ってこなければなりませんでした。
 ほんとうの斗太からは相変わらず音沙汰がありませんでしたが、しだいに千歌の中で、夢と現実がまぜこぜになっていきました。夢で元気なのだから、当然ほんとうの斗太も元気になっているのだと信じてうたがいませんでした。
 人の夢なんてものは、神さまの見せるしるしでもないかぎり、はかないうそでしかないというのに。



 ぽうっとしているばかりの千歌のことが、みすずとおばあさんはますます嫌いになったようでした。そのうちふたりとも、自分から千歌に話しかけるのをやめました。おじさんはやっぱり千歌なんてそこにいないように振るまっているので、千歌がまともに話すのは、いよいよ洋子おばさんだけとなりました。前よりずっとずっと、千歌は、ひとりぼっちになりました。
 でも、昼間どんなにつらく当たられようと、夜がくると思えばへっちゃらでした。夜になれば斗太に会える。あのまっさらな雪野原で、斗太と一緒にいられる……。そう思うことで、いつのまにか千歌は、とても打たれづよい娘になっていました。
 いまや千歌は、夢の中で斗太と会える、あの時間のためにだけ生きていたのでした。


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