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第五章

 

 

 …ぼくは思い出す。レオノール老人が、まるで蝋燭の火が消えて行くように、静かに息を引き取って行った日のことを。その日の朝までは、まだ元気に、クリスチーヌのことやママのことを話してくれていたというのに、午後になって急に容体が変化した。それはまだ冷たさの残る初春の日のことだった。空は曇っていて膚寒いぐらいだったが、それでもちどりは歌い、春の花がこれから咲き誇ろうとしている頃だった。

 ぼくたちは病院の知らせですぐ駆けつけた。幸いぼくたちが駆けつけたときには、まだ老人には息があった。だが目は閉じられたままで、意識もほとんどなく、風前の灯であることはすぐ分かった。そして午後三時過ぎ、医師と看護婦、及びぼくたちに見とられながら静かにレオノール老人は息を引き取ったのだった。

 リサは、看護婦に連れられて廊下に出たが、そこで肩を大きく震わせ、すすり泣いているのは、ぼくのところからも一目で分かった。しかしどういう訳か、ぼくは涙が出ては来なかった。

 今、このベッドに横たわっている老人は、人生の最後の力をふりしぼって、ぼくとリサに、大きなものを残してくれた。ぼくとリサが全く知らなかった、あるいは知り得なかった、祖母クリスチーヌとママの歴史について、その全貌を、ぼくたちに語り聞かせてくれたのだった。ぼくはその思いで胸が熱くなっていた。しかも、その一週間ほど前に、老人は大事にしまっていた病室の引き出しから、一つの鍵を手渡してくれた。

 “この鍵には、お前たちの母親の青春のすべてが詰まっている”と老人は言った。“屋根裏の物置に行って御覧。そこには、鍵のかかった大きな木箱があるはずだ。もうほこりをかぶっているかも知れんが、その中には実は、お前の母親の書き記した日記のすべてが大切に保管されてあるんだ。十才頃から、十七才で家出をするまでの全期間に渡るものだよ。これは今やお前たちのものだ。わしが死ねば、それを読み返すがいい。お前の母親の青春時代の息吹がきっと伝わるはずだ…”

 ぼくは、その木箱の存在については既に知っていた。しかし鍵は開かず、中にそんなに大切なものが入っていたとはつゆ知らず、気にも止めずにほっていたのだった。

 だが今やその鍵を受け取って、胸が熱くなるのを感じた。

 老人の亡骸はその日の翌日、レビエの家からほど遠くない、美しい湖が見渡せる、高台にある教会の墓地に葬られることになった。本当は、クリスチーヌの墓地に一緒に埋葬してやりたかったのだが、様々な事情が、そうすることを許さなかった。しかし、若い頃からこの湖をこよなく愛していた老人のこと、それが見える墓地で眠られればきっと幸せだろう、そう考えて、ぼくたちは、せめてもの恩に報いたつもりだった。


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 立ち合い人は、ぼくたちの他に、看護婦、病室にいて親しくなった老人など、ごく限られた人々だけだった。今まさに地中深くひつぎが埋められようとしたとき、リサは再びハンカチを取り出して泣き出した。ぼくは彼女を、人々の列からはずさせたが、ぼく自身、このときもなぜか、悲しい気はしては来なかった。

 というのも、ぼく自身、こうして死と対面したばかりなのに、次なる大いなる目的が目の前に開かれているのを感じていたからだった。それは生命との出会い、ママの肉声との出会い、とでもいうべきものだった。そうだ、老人が死んだ今こそ、ママの残した日記の第一ページを開くべきときなのだ。ぼくは、死と背中合わせの、この生への叫びに、何か言い知れないような興奮に包まれた。

 やがてすべての葬儀が終わり、春の嵐が、周りの樹木や草花を打ち震わせている中、ぼくたちはめいめい散会して行った。

 ぼくたちは帰りの車の中で、大いなる自由を感じ続けていた。老人が亡くなった今、毎日、老人を見舞いに行くという義務もなくなったわけなのだ。しかしそれは同時に、空虚な自由でもあった。ぼくたちは途中何もしゃべらず、リサは時折りハンカチで目頭を拭きながら、あのレビエの家へと帰って行った。

 家に着くなり、ぼくはただ、自由な空虚さから逃れるかのように、屋根裏部屋に駆け上がった。ぼくは、老人との約束を守ったのだ。老人が亡くなった今こそ、ママの日記に触れるべきときだったのだ。しかしぼくはただ、生命に飢え、生命をむさぼるかのように、その日記の入っている木箱に飛びついた。そこには、ママの青春、ママの声、ママの息吹のすべてが詰まっているのだった。木箱はほこりをかぶったまま、出窓から柔かにさし込む西陽を受けて、ひっそりとあった。ぼくは胸を踊らせながら、頑丈な鍵をあけ、木箱のふたを開けた。するとそこには時代を感じさせる古びた、ノートとも日記帳とも言えそうな本がぎっしりと詰め込まれていた。ぼくはさっそく、その一つを手にとると、西陽に当てて、パラパラとめくり、読み始めた。すると、本にしみ込んだ古い香りと共に、もうさっそくママの言葉が聞こえて来た。

 

 大切な日記さん。これはあんたとわたしだけの秘密の話しよ。誰にも見せないし、見られない。だからすっかりわたしは話すの。あんたにはなんの秘密もないわ。わたしには今、好きな人がいるの。モーリイ・オークレーというトランペット吹きよ…

 

 ぼくは夢中になって読んだ。時が経つのも忘れて、これほど何もかも集中して読むことができたのなど、本当に久し振りのことだった。

 しばらくすると、服を着替えたリサも上がって来て、ぼくたちは、屋根裏部屋の西陽の薄明かりに照らされた日記を、一緒になって読んだ。


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 しかし、もうその当時から一つの疑問が浮かび上がってはいた。モーリイとぼくのママはその後どうなったのだろうか? それについてはもちろん、日記には何ひとつ触れられてはいなかった。というより、最後の日記だけが欠けていたのだ。それはママが、旅立ちと共に持って行ったに違いなかった。きっとそこには肝心なことが書いてあったに違いないのだが、それだけが、ぼくたちの手元に残されることはなかった。ぼくは、それ以上の手がかりを失い、たくさんの日記帳を前に、ぼうぜんとした。

 この疑問は、大きな謎としてぼくの心に残ったものの、当時のぼくとしてはどうすることもできず、そのままほおっておく他はなかった。そしていつしかぼくは、そういうことがあったことさえ、忘れかけようとしていた。しかしミロンに会った今、あのときの疑問は、再び大きく浮上して来たのだった。ミロンはあるいは何も知らないかも知れない。しかし少なくともなんらかの手がかりは得られるかも知れないという期待が、ぼくの胸をワクワクさせた。しかもそのミロンからの電話は、あれから二週間ほど経ったつい昨晩にあり、今日、場所を変えて会うことが決まった。ぼくは早くも、ホテルの部屋にいて、ママのその後を知りたくて、待ち切れない気持だった。

 

 けさは、日光がさしたり、ささなかったりの気持のいい天気だった。午前中は、ママに関する資料や、自分の書いたものを読み返したりして過ごした。ホテルの部屋は静かで、窓の外の樹木の輝きが、なんとも言えず素晴らしかった。この瞬間――現在があり、そして過去があった。ぼくにとって未来は、まだ存在してはいなかった。机の前で残っていた書き物を少し整理した後、約束の時間に間に合うようにと、ホテルを後にした。

 

 二週間振りに出た都会は、ぼくをとまどわせた。人々の雑踏、車の警笛。バスや、川に浮かんだ遊覧船があわただしく行き交う。都会はぼくをとまどわせるばかりで、余り大した喜びをもたらしはしなかった。

 約束の大通りでミロンと出会うと、本題に入る前に、ミロンはぼくを、有名なN寺院に案内してくれた。 そこから見降ろした、メロランスの街並みや、中心を流れるS川の眺めは、また格別だった。今では小さく見える遊覧船が、S川の上をゆったりと流れていた。空は申し分なく晴れて、何もかも快かった。

 それから再びぼくたちは地上に降りて、人々の行き交う大通りのカフェ・テラスで本題に入ることにした。

 ボーイの持って来たワインに、スクランブルエッグなど、軽い食事をしながら、ぼくたちは話し始めた。

 “あれからもう二週間が経ったんだね”と、ミロンが言った。

 彼は、この前会ったときと、ネクタイも服装も同じものをしていた。

 “それで、ここで暮らしているという妹さんは、元気にしているかい?”と彼は尋ねた。

 “それが…まだ会っていないんです”と、ぼくは答えた。“電話をすればすぐにでも会えるんですけど、他にもいろいろと忙しくてね”

 “そうか。それで、リディーのことだけど”と彼は言った。“どこまで話したっけ”


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 “それはいいんですけど、ぼくが知りたいのは、ママがまだサビーノの村にいた最後の二月、つまりあなたがこの前に話して下さったそりの旅をした時期、その頃のことをもう少し詳しく話していただきたいんです。その頃のママの心の動きとか行動に、何か変わったことはありませんでしたか?”

 “ああ、あのそりの旅のことね”と、ミロンは言った。“あれは楽しい思い出だった。とりわけ苦しい時代だったから、いっそう楽しく思えるんだろうな。それに、君のお母さんは、なかなか美人で、人を惹きつけるような魅力を持った女性だった。ぼくは、君のお母さんと知り合うことができて、幸せだった。でも、どうして君は、その二月にこだわるんだい?”

 “その年と言えば、ママが家出をして、サビーノの村を去った年です”と、ぼくは言った。“その年の四月に、ママはサビーノを去りました。二月には、ママにとって重要なことが待っていたのをぼくは知っているんです。その同じ月に、あなたはママと会ったりされていた。だから何か、そのことについてあなたは知っているんじゃないかと思って。――もちろん知らないなら、それでいいんですけど…”

 ぼくは半分期待をかけ、半分はあきらめかけながら、そのことを言った。

 ミロンは、そんなぼくの表情を伺うように、ぼくを見つめた。それから、少しワインを飲むと、彼はこう言った。

 “君は、モーリイ・オークレーのことを言っているんだね”

 ぼくはその言葉で驚いた。心臓が止まる思いがした。

 一瞬、水を打ったような静けさが、ぼくとミロンのあいだを過った。

 

 “君が彼のことについてまで知っているとは知らなかった”とミロンは、しばらくしてから言った。その表情は、少しこわばっているようにも思えた。“じゃ君は、君のお母さんが妊娠していたことも、もちろん知っているんだろうね”

 “妊娠?”ぼくは驚いて言った。“ぼくのママが妊娠していたんですか?”

 “じゃ君は知らなかったのか”と、ミロンは悔やむように言った。“そうだ、君のお母さんは妊娠していた。しかし――言ってはいけないことを言ってしまったようだね。君には少し、ショックが大き過ぎたかも知れない。言い過ぎたのなら謝るよ…”

 “いいえそんなこと”とぼくは、しかしショックを隠し切れない表情で言った。しばらくは何を言ったらいいか分からず、テーブルのあらぬ方向を見つめていた。しかし、しばらくしてからぼくは言った。“どうか、お願いですから、続けてください”

 “じゃ、続けていいんだね”と、彼はぼくの表情を伺うようにしながら言った。“あの男の思い出は、ぼくたちのあいだでは、いまわしい思い出でしかない。自分勝手で、うぬぼれ屋で、女たらしで、しかもそのくせ、金銭にはだらしなくて… 君のリディーは、気の毒だけれども、その犠牲者のうちの一人だった。しかし、君のお母さんだけじゃない。彼によって泣かされた女性は、他にもたくさんいたのだ。ぼくたちはみんな、そのことを知っていた”


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 “どういうことです、それは?”と、ぼくはなおも驚いてミロンに言った。

 “じゃ君は知らなかったのかい?”と、ミロンは言った。“君のお母さんが、モーリイに捨てられたことを”

 “えっ! 捨てられた? あのモーリイにですか”ぼくは、次いで言葉が出て来なかった。

 気の毒なママ。やはりあのモーリイにママは捨てられたのだった。そんな事実が、若い頃のママにあったなんて、今の今までぼくは知らなかった。しかも妊娠していたママはどのようにして生きて行ったのだろう。ぼくは早く、それからのことを知りたくてならなかった。

 “じゃ君は、そのことについては何も知らないんだね”と、ミロンはやがて言った。“リディーは、ぼくと初めて会った頃はもちろん、そのことについては何も言わなかった。だからぼくは、彼女にそんな悩みがあったことなど、何も知らなかったよ。彼女は意思の強い女性で、自分の悩みをひとり自分の胸の中に閉じ込めて、誰れにも打ち明けなかったから、そのことが分かったのはずっと後になってから、彼女がメロランスに来て、妊娠しているのが明らかになってからのことだった。だからリディーは、サビーノでぼくと彼女が会っていた頃には、そのことについては、おくびにも出すことはなかった。それでぼくは、彼女にそんな深い悩みがあるなんて、何も知らなかったのだ…”

 “しかし今から考えると、分かろうと思えば、彼女の中に悩みがあるのが分かるような徴候がいくつも見られた。ぼくはただそれに鈍感なだけで、リディーはそれを内に秘めようとしながら、いくつもシグナルを送ってはいたのだ。あのときのことを思い起こせば、今ならそういう気がする。それは、こういうことだったんだ…”

 そう言って彼はぼくに、昔あったことを聞かせてくれた。ぼくはただ、彼の話しの内容に引き込まれるように、彼の言葉のひとつひとつに耳を傾けた。

 

 “彼女がぼくと会った頃、そう、その頃は彼女の人生にとって一番大切なときだったに違いない…”と、ミロンは、その当時を思い出すように言った。“というのも、ぼくはそのとき何も知らなかったのだが、彼女にとっては、モーリイとメロランスで暮らせる最後のチャンスだったからだ。そんなときにぼくは彼女と出会い、彼女のそんな生活の中に割って入った。彼女は当時期待に燃え、まだ余裕があって、そんなぼくを暖かく迎えてくれた。彼女と会うことは、ぼくにとっては、本当に楽しいひとときだった。彼女にすでに恋人がいるとは知らなかったぼくは、まるで彼女の恋人気取りだった。そして、そんな彼女をひとり占めにしておくのは勿体ないと考え、都会にいるぼくの友人たちを、村に呼び寄せることさえ考えた…”

 

 “あの列車で帰郷した日のことを思い出す”とミロンは続けた。



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